複雑・ファジー小説
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- 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド
- 日時: 2014/11/13 22:35
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
今より僅かな時を刻む近未来。
企業組織会社サイバーインダストリアル『叢雲』はサイバネティクス技術の実用化によって肉体を機械(サイボーグ)化する技術を確立させた。
肉体の容易な機械化によって、治療困難とされた病気の完治、負傷による身体的欠損の完全治療が可能となり、医療技術は類を見ない爆進的な進化を遂げ、人類を新たな領域へと高めた。
しかし、それは同時に安易に超人的な身体機能を持つようになった人間を誕生させる事となった。
そして、いびつに形を歪ませ、悪意あるものと変貌していく。
潤沢な資金、軍事力を有する各国がこぞって技術を求め、買いあさり、自国を際限なく強化していった。
生身の肉体を討ち捨て、極限まで改造強化されたサイボーグの軍隊。
様々な国々が己の権威欲を示そうと競う。
いつしか圧倒的武力による支配に反発するように現れた反国家、抵抗組織、団体勢力。
それらは必然のごとく衝突しあい、内乱、紛争に発展していった。
戦火の波は飛び火し世界を覆い、激しく猛る渦巻く業火へと至り、消えることの無い憎悪の連鎖を紡ぎ出す。
永劫とも思える暴虐と混沌、果てしない暗黒の世。
力無き者は唯、搾取され、蹂躙される時代。
力持たぬ者は唯、生き残る事すら困難を極める時代。
血と油の交錯。
肉と鋼の摩擦。
生と死の狭間。
死臭と硝煙が漂う、弱者は駆逐される理不尽の世界。
だが、そんな絶望と不毛の地に抗い噛り付き、穿ち喰らい貪り生きる修羅の者たちの存在があった————。
目次
登場人物紹介
>>8
本編
第壱章 始まり、そして少女は新たな時代の到来を告げる
>>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7
第弐章 英雄は堕ち、人の心と愛を知った
>>9 >>10 >>11 >>12 >>13 >>14
第参章 暗鬱の魔都、伏魔は宴に集う
>>15
- Re: 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド ( No.11 )
- 日時: 2014/11/13 22:55
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
困惑する、血油に濡れた刀を携えた黒衣の男。
差し出された小さな手は、か細く、柔らかそうで、そして温かそうだった。
にっこりと、はにかむ少女。
かつて傍らにいた亡き娘を彷彿とさせる太陽のような微笑み。
命を賭して守りたかった者たち。
この手で、この剣で、己の力のみが救えると信じていたあの頃。
すべてが遅すぎた。
過ぎ去った過去。
もう元には戻らない現実。
振り返れば虚無が嘲り哂う。
震える腕で少女の掌に触れようとして、ハッとなり己の手を見る黒衣の男。
その手は、赤黒く染まっていた。
今まで斬り捨てた者たちの返り血を浴びて————。
ゆっくりと眼を開き目覚めた黒髪の少女、幽羅。
簡素なベッドの上での意識の覚醒は静かに緩やかだった。
だが、水面へと浮上する優しいものではなく、むしろその逆、最悪の気分とでも言った方がいい。汚泥の中をもがき這いつくばるような虚脱さが全身を包む。
身体が重く感じるのは先程の夢のせいだろう。
義体の調子はすこぶる良好だ。これは己の脆弱な心の在り様のせい。
幽羅は深く息を吸い込み、呼吸を整えるとベッドから起き上がると薄手の毛布がはらりと落ち、少女の白く瑞々しい裸体を曝す。
『目が覚めたようだな、幽羅』
ベッドの脇に立掛けておいた太刀が話しかける。
「私はどれくらい眠っていたのだ? 絶影」
幽羅は、枕元に置かれ折り畳まれた和服に目を向け絶影に聞く。
『ざっと二、三時間といったところか』
「・・・そうか」
和服に袖を通しながら幽羅は先程見た夢の内容を意識の片隅に追いやる。
本来義体となった者には睡眠は必須ではない。食事も然り、習慣となった行為はおいそれと変える事は難しい事だ。
日常に於いて義務付けられた『人』としての行動基準。生きる上で、それを欠かすことは最悪死に起因する自殺行為に等しい。
なにより、『脳』が、今は無い『肉の体』が憶えているから。
当たり前の事。生きているのだから。
いや、生きていた、のが正しいのかもしれない。
機械とひとつに交わったこの躰は、食べることも寝ることも排泄すら必要なく、二十四時間、有機媒体エネルギーの続く限り己の意志で活動させる事が可能なのだ。
はたしてこれは生きていると言えるのか?
まるで死人だ。骸と同じだ。
では、残ったものは何か?
それは人の果てない欲望。
本能のみが突き動かす原初の行動。
エゴとも言うべき慟哭。
生の実感を得る為、充足感を満たす為に繰り返される。
破壊衝動————。
濃紫色の着物を着終えた幽羅は絶影を手に取り、腰に添えると部屋の自動扉を開けて奥へ続く部屋と赴く。
この先の『工房』に紅朱蘭はいつも引き籠っている。
姿が見えない場合は大抵そこにいるからだ。
幽羅が迷うことなく扉を開くとそこには息を飲む奇異な光景。
無数のおびただしい人形が所狭しと壁、床、天井に置かれ、吊るされ、命無き瞳が虚空を凝視していた。
- Re: 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド ( No.12 )
- 日時: 2014/11/13 22:57
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
居並ぶ生命無き、人形の現身。
それらの見た目、表情は様々だが皆一様女性を模している事は理解できる造姿をしていた。
その標本のような間を幽羅は特に関心も向けるでなく、奥の作業台で黙々と作業をこなしている白衣の女のもとに歩み寄る。
「どうだ? 朱蘭。網羅蠱毒の脳殻から情報は得られたか?」
作業台には解体され、剥き出しの脳殻。
たくさんのコード列を繋ぎパソコンのディスプレイを操作する紅はキセルの灰煙をひと息吐く。
「ええ。死の直前に相当の心的負担があったみたいで、どうにも支離滅裂な心象イメージの意識体だったけど、なんとか繋ぎ合わせて組み立てたわ。それが、これね」
キーボードを叩き、画面にひとつの文字群を映す。
食い入るように目を細めて見やり、眉間にシワを寄せる幽羅。
「・・・神天幇? 何だ、これは?」
再び煙草を吸う紅。
「この男の脳内で幾つかのワードの中でも多数を占めていたのがこの言葉。アナタは四年も昏睡状態だったから知らないと思うけど、『神天幇』はここ最近台頭してきた組織で、上海東亜地区を瞬く間に傘下に治めた武侠集団なの」
幽羅は小さな顎に白い指先を当てる。
「乱世前には聞いたことが無い名前だ。それで、この神天幇とやらが彼奴らと何か関わりがあるのか? この手の輩の集団は過去にも腐るほど蔓延っていたぞ。しかし上海東亜地区は幾つもの勢力が軒を連ねる激戦区。それを傘下に治めたとなると相当の実力者揃いという事になるか・・・とすればあるいは・・・」
回転椅子を廻し、幽羅に向き直る紅はキセルを教鞭のごとく振るい勉学を教授する教師さながらに講義する。
「確かに統合統一を果たした武闘派組織としても一目置かれているけど、彼らは流通市場のマーケットさえも支配し多種多様な文化圏をも手中にしているわ。その手腕は表の日用品から裏事情の違法品まで管理管轄運営する手際の良さ。うちにもお人形様の受注が引っ切り無しに来るのよ」
「・・・つまるところ網羅蠱毒、それらの一派は、この神天幇という組織と繋がりがあるという事になると?」
紅の説明に思案する幽羅。
「う〜ん、これ以上の脳殻からの吸出しは断片的で曖昧だから意味を成さないわね。脳の大部分が焼き切れているし・・・。でも密接な関わりがあることは間違いないと思う」
クルリと紅は椅子を正面のディスプレイ画面前に戻すと操作盤をいじる。
「十分だ。それほどの巨大組織なら、いちいち他方を徘徊して探す手間が省ける。・・・しかし私が眠っている間に戦乱が終結していた事にも驚いたが、そんな組織勢力が台頭している事にも少なからず驚いた」
幽羅は感慨深げに瞑目する。
戦乱終止をかかげ、戦い抜いた日々。
いつ終わるとも知れない永い戦いの連日。
今だ戦火の傷痕は痛々しく残滓を燻ぶらせるが、それも時が流れれば癒える日も来るだろう。
だが、己の戦いは今だ終わりを迎えることは無い。
いまも憤然と内なる炎は業却し、猛る。
再び、冥府魔境へと至る道へと逝く。
生きる事叶わなかった愛しきものたちに奉げる鎮魂の演武。
「・・・因果か。つくづく闘いに縁があるのだろう、私は・・・」
皮肉げに、どこか自嘲気味に薄く笑う幽羅。
闇色の眼差し。
それは此処では無い何処か遠くを哀しく見つめているようだった。
- Re: 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド ( No.13 )
- 日時: 2014/11/13 22:59
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
篝火が燃える。
荒廃した街並み、戦傷の痕もそのままに放逐された瓦礫の山のスラム。
まばらに人影が火を囲み、暖をとっている。
所狭しと廃棄されたスクラップのゴミが乱雑する中をひとりの少女が練り歩く。
雪のごとく白い肌、夜闇のような漆黒の長髪。
紫の着物を羽織り、腰には黒柄黒鞘の太刀を帯刀。
「朱蘭の話では、此処、九龍雑居街にいるそうだな、件の情報屋は」
幽羅は自身に集まる視線を気にすることも無く辺りを見回す。
『あの女、腕は立つが思考回路が理解しがたい。あまり信用しないほうが得策と我は思うぞ』
絶影が喋る。
紅朱蘭が自分の知り合いの情報屋を紹介してくれるというので、この九龍跡地にやって来た幽羅たち。
しかし、それらしい人物は今のところ現れない。
周辺には生身の人間と違法サイボーグの輩。そして雌臭漂う娼婦たちがチラホラ混じって此方に好奇と奇異の目を向けてくる。
ゴミ溜めに似つかわしくない雅趣薫る華の如き美少女。
このままだと、また何処ぞ誰としれない阿呆がちょっかいを出してくるかもしれない。
「・・・面倒だな。そこら辺の誰か捕まえて聞くか・・・?」
幽羅が目線を流す。
様々な人種、瓦礫に並ぶ廃れた雑居群。
多種多様に入り混じった独特の退廃感。
この世界にはその苛酷な生活環境によって狂ったように進化した、極めて高度なサイバネティクス技術が日常の一部となり、人体をサイボーグとして改造することが一般化していた。
ここを支配するのは決して万人に平等な法と正義ではなく、『力』に聳え、地上を俯瞰する『強者』こそが全ての支配者。
他者を律する力さえあれば、大概の犯罪は咎められる事はない。
無法なる町。
されど、どんな無法の中にも一定の秩序はある。
群れた獣の中で自然と上下関係が決まり、美味い餌を貪る野獣が君臨するが如く。
神天幇、それがこの無法街の一角に定められた法。
サイバネティクス技術を駆使したサイボーグ軍団、その屈強極まる鋼の体躯を以って武術を繰る彼らは、他を寄せつけない並ぶものなき侠客の徒党。
そんな彼らの縄張りの一つ、娼館の並ぶ色町が九龍跡地ということまでは幽羅が知り得た情報だ。
幽羅が周辺の者に視線を合わせようとすると皆知らぬように顔を背けてしまうのは、こんな場所に居るはずも無い少女の存在の異様さを感じ取ったからだろうか。
それとも五体より漂う抜き身の刀身さながらの冷ややかな気配、身から溢るる気迫は、肝の小さい者ならば居合わせただけで背筋を凍えさせるには充分であったかもしれない。
小さな矮躯。起伏も幼い少女の肢体。可愛げのある美貌。
しかして、血の通わぬ身体。
人の手で作られた機械仕掛けの四肢に、電脳の記憶と知覚意識で構築された有機メモリ。
あらかじめ確立された本能に訴えかける情欲をそそる美しさ。
それもそのはずこの少女型義体は本来は愛玩用。それを改修、改造し、戦闘用に置き換えた特注品なのだ。
否、そうせざるに値したから。
この義体は、あまりにもあの子と————。
幽羅は空を見上げた。
いつもと変わらぬ曇天。
昼間だといのにどんよりと鈍色の暗雲が覆い、いまにも酸雨を齎しそうだった。
時折、隠された太陽が僅かばかり覗き、淡い陽光を照らす。
蠢く灰雲から木漏れでる光を掴むかのように真っ白い腕を伸ばす幽羅。
「・・・すべてが終わったら、私もお前たちの傍に・・・」
瞼に裏に焼きついた、愛しき者たちの姿。
人形となった躰の内に今も尚感じる、想い。
その呟きは悲しき言の葉の残響となった。
- Re: 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド ( No.14 )
- 日時: 2014/11/13 23:00
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
・・・ポツリ、ポツリ。
忍び寄る暗雲から降り出す黒い雫。
重く、憂鬱を押し込めるように四方から迫る雨の音。
立ち込める毒素の水煙に人々はあからさまに嫌悪を現し、屋内の暗がりへと身を潜める。
この街か、もしくは同じ空の下の何処かで撒き散らされた、ありとあらゆる有害汚染物質の成れの果て。
繰り返し凌辱された空が今、報仇の涙を流すかのよう。
汚穢は大地に還り、街を、人を、より一層汚しつくす。
多少なりとも賑わいがあった通りは人影は無くゴーストタウンさながらに気配が途絶えているのは、誰であろうとこの酸雨を喜ぶ者など無いからだ。
雨霧の中、濃縮された毒素のフルコースが注ぐ界隈を出歩くような物好きがいるわけがない。
都に跋扈するもろもろは、今それぞれの穴蔵に隠れて、呪いの雨をやり過ごしているはずだ。
「————ふぅ」
手近な家屋の軒下で雨露をしのぐ幽羅は憂鬱を払いのけるように息を吐く。
どうやらハズレのようらしい。
紅朱蘭の言う情報屋はついには姿を現さなかった。
まあ、ハナからそれほど信頼していたわけではないが、僅かばかりの期待を削がれた感は否めない。
地道に情報を集めるしかないだろう。
そう思い踵を返そうと降りしきる雨の帳に身を委ねようとした時、不意に何者かの気配をその華奢な背中に感じ取った。
立ち込める雨音の雫、虚ろな輪郭を切り抜く人影が、ひとつ。
屈強なサイボーグでさえも己の義体対応限界を縮める、と嫌がる強力な酸性雨が穿たれる中を好きこのんで出歩く手合いが他にいようはずもなく、その姿を目に留める輩は一人としていない。
歩みを止めた幽羅を除いて。
それは草臥れたレインコートの外套を頭から羽織った小柄な人物だった。
背丈は少女の義体である幽羅よりもさらに低く、どうみても大人というよりは子供を思わせる風体だった。
「・・・お主かの? 『人形躁師』が言っていた情報が欲しいという者は・・・」
聞こえてきたのは幼い、年幾ばも無いような小さな少女の高い声色。
眉を顰める幽羅。だがすぐに思い直す。この死の雨中をただの子供が闊歩するはずがない、と。恐らく義体者。子供のような造姿は相手の油断を誘うためだろうか。
「・・・紅朱蘭から紹介があったはず。名は幽羅。貴殿が私の知り得る情報を提供すると聞き、参じた次第だ」
「話は聞き及んでおる。なるほど、『人形躁師』が言うた通りじゃな。確かに儂ならよう知っておるぞ。・・・『神天幇』について・・・」
謎の人物は外套ごしにニヤリと笑みを浮かべた。
人形躁師とは紅朱蘭の二つ名であり、裏業界の通名である。彼女の客の中でも神天幇に繋がっているのではないかという者は居たのだが、それらは組織の末端の末端であり、ついぞ本丸には至らない他愛も無い情報だった。
どうやらおいそれと尻尾を掴ませるような簡単な組織でない、むしろ厄介な手合いの集団であるという事が判った。
「そうだ。私は知らねばならない。彼奴らが何者なのか、私が求むる者たちが蟄居しているのかどうか・・・・・・教えてくれ」
剣呑な眼差しで、しかし縋るような気持ちを垣間見せつつも幽羅は一部の隙も見せず対峙する目の前の人物に警戒心を抱かずにいられない。
奴らと何らかの関わり合いがあるかもしれない。
武体に物を言わせ、無理繰り話を聞き出すのも、無きにしも有らずと腰に帯びた太刀をいつでも抜けるように整える。
「やれやれ。最近の若いもんは・・・。なんでもかんでも暴力で解決しようとする。儂には争う気は皆無じゃて。まずはその漲る殺気を押さえんかの」
呆れたように言う小柄な外套の人物。
「儂の家に案内するぞ。ついて来い、話はそれからじゃ」
そう言うと後ろを振り返ることなく歩き出す。
その後を一瞬どうしたものかと迷順した幽羅だったが、直ぐにその小さな矮躯の歩跡を辿った。
- Re: 【影乃刃】 シャドウ・ブレイド ( No.15 )
- 日時: 2014/11/13 22:33
- 名前: Frill ◆2t0t7TXjQI (ID: JcmjwN9i)
第参章 暗鬱の魔都、伏魔は宴に集う
香港、金融貿易区・・・。
雲をついて林立する華やかな摩天楼。
過剰なまでの電力供給を誇示するかのように夜通し煌びやかに光り輝く高層ネオン群は、戦後アジア圏における金融、文化の中心を担う次世代最先端モデル都市として面目躍如を果たして余りある。
隅々まで整備拡張された陸道。行き交う高級外車。街を歩くはブランド品に身を固めた貴族階級とおぼしき老若男女。
眠る事を忘れた都市は威光を飾り着こなし、今宵もまた不倶戴天の夜闇を舐め尽くす。
そんな光の洪水を地上三〇〇メートルの高みから見下ろしながらも、なんの感慨も窺わせない男がいた。
鮮やかな繭紬の布地に昇竜の刺繍をあしらった長杉は、香港の最新ファッション。そんな華美な出で立ちが何のけれんみも感じさせないのは、その男の端麗さと風格、際立つ気品ゆえであろう。
短く切り詰めた銀髪を後ろに撫で付けた長躯の麗人。
女性と見間違うような美貌の偉丈夫。
————男、隴王真(ロン オーシュン)は眼下の果て、その奥に広がる未開発地区を遠望する。
深い闇。
絢爛な近代都市とは対照的な旧市街の廃れた街並みは、重い沈黙に包まれている。
大戦末期後、終戦の混乱に浮上した再開発計画の破綻によって上海市が衰退の一途を辿る中、企業としても活動を始めていたとある組織は癒着した市当局による不正政策によって富を独占し、旧市街の零落をよそに栄華の階を翔け上がり続けた。
そして表舞台に現れた台頭組織。
それが『神天幇』である。
潤沢な富、精強たる武力を持ってして蔓延る有象無象の輩を諌め纏め上げた異能の集権団体。
今この香港、上海都市を牛耳るその名は不逞の無頼漢をも震え上がらせる最もポピュラーなものだ。
言うなれば、街に蔓延る輩共の頭といったところか。
爛熟した繁栄とは無縁な打ち捨てられた対岸の風景。
暗闇に沈んだ古都に何を想うのか、隴はただ静かに見詰めている。
「『奴』の事を考えているのかい?」
不意に背後から掛けられた声に動じることなく街並みを見下す隴。
「ああ、あの闇の何処かで今も憎悪の刃を研ぎ澄ましているのだろうと思ってな・・・」
後ろに控える軽薄そうな声に軽く返事をする。
「しかし解せないねえ。奴はあんた自身が引導をくれてやったんだろう? 四年前に」
来客用の黒檀のテーブルに足をぞんざいに投げ出し皮張り高級ソファーにどっかりと座る男。
高級ビジネススーツの姿は豪奢だがどうにも風貌と口調が一致しない面長の男はどちらかというと酒場か賭博場で女を侍らせている方がしっくりくる。
この男の名は盂胡津(ウー ウーシン)。神天幇の最高幹部のひとりで隴の側近である。
「そのつもり・・・だったのだが、存外しぶとかったようだ。流石『英雄』といったところか」
特に気にした風もなく平然と語る隴。
「はっ! よく言うぜ」
鼻で笑い飛ばす盂。
「その『英雄』を罠に嵌めて貶めたのは紛れも無いあんただろうが。俺たちはそのお膳立てを用意したに過ぎないってのによ」
それから盂はおちゃらけた表情から真顔になり言う。
「・・・まさか今わの際に情けをかけたんじゃないだろうな? 『魔銀凶刹』とあろうものが」
「それは無いな。奴にこれでもかと絶望を味あわせてから始末してやったからな」
射抜くような視線を後ろ手に感じながらも隴は飄々と嘯く。
「・・・それはそうとまだ他の連中は揃わないのか?」
振り向く隴。微笑を讃えながら。
その美しい端正な顔立ちに張り付いた微笑みを見た盂は一瞬にして己の魂が死神の掌で撫でられた錯覚に陥ったのを自覚した。
まるでこの話は終わりだと言わんばかりの重圧。
「あ、ああ。すぐにも飛んでくるさ。なんせ事が事だけに・・・お? 噂をすればってやつだ」
畏怖の脂汗が吹き出そうになった時、最上階直通のエレベーターが到着したのを盂の脳内伝達信号がキャッチした。
盂の脳殻は規格以上にメモリが増設されておりこの神天幇が管轄するセキュリティの全権を掌握している。
常人ならばその情報量に脳に深刻なダメージを負うだろうが、盂は天才的頭脳の処理能力でいとも容易く操作可能だった。故に神天幇の頂点に君臨する隴王真の側近を務める事が出来た。
ほどなく広大な室長室のホールに続く大扉が小さな機械音と共に開く。
そこには三人のサイボーグたちが不機嫌そうに居並んでいた。