複雑・ファジー小説
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- 道化師の悲哀
- 日時: 2015/02/17 10:18
- 名前: 夏蜜柑 (ID: nWEjYf1F)
赤く染まる手の平に、また一滴、涙が零れ落ちた————
- Re: 道化師の悲哀 ( No.1 )
- 日時: 2015/02/17 17:29
- 名前: 夏蜜柑 (ID: nWEjYf1F)
ビルとビルの隙間というのは、意外にも隠れるには丁度良い。それでいて適度な広さもあって、もし完全に人目を断ちたいのであれば、隙間の入り口に適当なゴミを積み上げれば事足りる。
——世間に対する隠し事を行うには最適の場所であって、今もそれは続けられているのだ。
潤うことのない渇きを潤すために、穴の開いたバケツへ血を注ぐことを。
「ホレ、何とか言ってみぃ? 知りもしない男に身体を弄られる感想はどうや?」
痴漢もまた、その一環。麻薬や嗜好品のように依存し、一度やってしまったら止められない。
対価として少女の心と引き換えに、男達は一時の快楽を求めるのだ。
現に今もこうして、一人の男が少女をビル同士の隙間へと連れ込み、躊躇うことなくその華奢な身体を触っていた。
「私が何か言ったところで、結末は変わるの? 変わらないでしょう?」
——ただ、そんな依存の輪廻より脱出する方法は少なからず存在する。
例えば煙草であれば、本人の強い意志と薬、長い時間と膨大な金を以って、依存症を鎮めることが出来る。
あくまで、長い時間と膨大な金を以って、だ。
ならば、今すぐ鎮めるにはどうすればよいか。少女はその方法を知っている。
しかし実行するに当たり、彼女には躊躇いが生じていた。目の前で、容赦なく身体に触れてくる男とは違って。
「っ!」
「おっとぉ?」
——躊躇っていては、事態は時間と共に悪化する。
脚や胸だけでなく、遂には秘所まで触り始めたこの男を放っておけば、忽ち必然的に身体を奪われてしまう。
少女は道の快楽に身体を震わせつつも、自由が効く左手で男の胸倉を掴み——
「なっ……」
一瞬でも戸惑いを見せた男の頬に、右手で思い切り往復ビンタを食らわせた。
「ぬぅ!」
突然頬に走った痛みに、男は表情を歪めながら一歩退く。
その隙を少女は見逃さなかった。が、逃げるわけではなかった。
すぐさま懐より取り出したのは、一本のダガーナイフ。
『さあ、やりなさい』
囁く悪魔のような女性の声と共に、少女はナイフを握り締め、男の喉笛を目掛けて斬りかかった。
「ぬぐっ!?」
油断していた男は少女が接近していることに気付けず、無様にもその太い首を堂々と曝け出していた。
恰好の獲物も同然だ——少女は走りながら、丁度大動脈が通っている部分へナイフの刃を斬りつける。
——グチョ。と、不快なこと極まりなき肉を斬る音が響く。
刹那、勢い良く飛び出した赤い液体が少女と銀の刃を濡らし、言い知れぬ激痛に襲われた男は一瞬で意識が遠くなった。しかし、遠くなっただけで気絶には至っていないので、首元を押えながらよろめくしか出来ずにいた。
それでも男は立ったまま、少女の事を見ていた。
睨むわけでも、蔑むわけでも、性的な目で見ることなく。
ただ、様々な感情が複雑に交じり合った目で、見ていた。
少女が切りつけたのは大動脈のみならず、喉の大部分に大きな切れ目を入れていた。さらに抉るようにして刃を肉の中で回したため、呼吸は口や鼻を介することはなく、穿たれた風穴を通して行われている。
呼吸をするたびに、ヒューヒューと音が鳴る。それはまるで、死出の旅路を祝福する賛美歌のように、静寂に包まれたこの場で静かに死の旋律を奏でている。
ポタポタと、紅い雫が滴る音はやがて、ポチャポチャという水溜りへ雫が落ちるような音へと変わる。
その分男の首から、血が流れ落ちているということだ。
証左に、男の足元には赤い血溜りが出来ていて、一滴、また一滴と血が滴るたびに、死の旋律とユニゾンした見事なハーモニーを奏でている。
やがて言葉もなく、男は限界を迎えて倒れた。
死の旋律が、最終楽章を奏で始めている証である。
そんな倒れた男に駆け寄ってきたのは——彼を手にかけた件の少女であった。
「知ってたんか……? お前も、この裏社会の姿を……」
声ではなく、最早息だけで紡がれているような言葉。
都会という喧騒の中では若干聞き取り難く、少女は男の傍に近付いた。
そして、手を取る。
痴漢としてこの男をみていたときよりも、ずっと大きくて暖かい手に感じる——そのはずだった。
だが今や、大量出血により青白く染まった冷たい手になっていた。
「俺は知ってたで。お前が"ヤツ"の刺客だってな」
「だったらどうして……!」
悲痛な少女の涙ぐんだ声が、死の旋律を盛大に邪魔する。
それでも旋律は狂うことなく、相も変わらず奏でられている。
死出の旅に出るのも、最早時間の問題だ。
「俺は、お前の覚悟を見せる人形……そう、ただの道化師だ。最後に役目は果たせたから、もう未練はないぜ」
「何、言ってるの……」
「安心しろ。必ず誰かが、お前の呪縛を解いてくれる——」
紡がれる難解な言葉。意味深な単語と言い回し。
少女がそれらを、この場で今すぐ理解することは皮肉にも叶わず——
——歪む視界が最後に捉えたのは、少女の涙であった。
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