複雑・ファジー小説

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憂鬱なニーナ
日時: 2015/12/19 22:27
名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)


改名したので、お伝えしておきます。


朝倉疾風(アサクラ ハヤテ) → 夜枷透子(ヨカセ トウコ)
大幅に。思いきって。
五年間の朝倉とサヨウナラ。






ついったぁ  @_aiue_ohayo




──日常に蔓延る、小さな狂気を。


登場人物


春名依空……蜷川、若狭とは幼なじみ
蜷川月子……通称「ニーナ」
蜷川時恵……ニーナの叔母
若狭壮真……金髪ピアス 総菜屋の息子
茶谷咲和……依空に一目惚れしたいじめられっ子
天羽カヲル……中学時代、咲和と同じクラスだった
秋月冴香……いじめの主犯

Re: 憂鬱なニーナ ( No.42 )
日時: 2016/02/07 00:48
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)



「いっくんを守っただけだよ」

 その言葉の意味に余分なものは含まれていない。塩素で消毒された水のように、不純物が取り除かれた澄んだ言葉。ただ清いかと言われれば違うと思う。そこに清さなんてものはない。深い闇が沈殿していて、底が見えない。
 彼女が入院してから顔を見ていなかった。
 前と変わらない。……いや、少し痩せたか。僕のほうも体重が落ちているから、ヒョロヒョロコンビだなぁ。

「怒っていたんじゃないの」
「とても」
「……僕はきみから逃げていた」
「わかってる。お見舞いにも来てくれなかったしね。意気地なし」
「愛想も尽きただろう」
「思いあがらないでよ。もとからない、そんなもの」

 ニーナはそう言って、体を丸めて芋虫のように転がっている若狭に目をやった。
 枝切狭は背中に深々と刺さり、服に大きな染みを作っている。持ち手を掴み、一気に引っこ抜いて「うあっ、ああああああああああああああああああああああああああっ」野太い声が地面を唸らすようだった。脂汗が額に滲んでいて、息が荒い。こんなに痛がる若狭を見るのは初めてだ。

「私に背中を刺されるのは、二度目だね」
「は……っ、覚えていてくれていたのか……」
「あのとき、とても不快だったから」

 若狭の背中には古い傷痕が残っている。小学校のとき、ニーナによってつけられたものだ。僕はそのとき、その場にいたわけじゃない。だから、詳しい話は聞いていないし、本人たちにも、何があったのか問いつめるようなことはしなかった。
 聞かなかった理由は、もうひとつある。
 今まで本人は否定していたけど、若狭がニーナに抱いている感情は、鈍色の恋心だ。
 傷痕は、若狭にとって、自分とニーナを繋げる特別なものだったから。
 そこに立ち入ることが、なんだかタブーな気がした。

「まさか同級生の男子に、自分を刺してくれって言われるとは思わなかった」

 若狭の腹を蹴り上げ、上に向かせる。顔と服が土まみれだった。

「変態だよね。消えない傷を作ってくれなんて。気持ち悪くて、早くどこかに行ってほしかった。……でも、私の中にあるドロドロとしたものが、発散できるかなと思った。だから、カッターナイフで深く、深く、お前を刺した」
「お前が刺してくれたおかげで……オレは、蜷川を近くで感じていたんだよ」

 傷が繋いでいた。
 若狭とニーナを。
 そこに僕の入る隙はない。嫉妬を感じないと言えば嘘になる。あの大きな傷にそんな意味があるなんて知らなかった。

「そんなに私が好きだったの?」
「好きとかそういうの、どうだっていい……オレには、お前が必要だった。依空の隣でもどこでもいいから……お前がいてくれるだけで、よかった……」

 ヒュッ、ヒュッと変な息の音がする。
 今にも息絶えそうな若狭の音なのか、乱れている僕の呼吸なのか。

「いっくんが死んだら、私も後を追って死ぬの」
「…………」
「それだと、どちらにせよお前は私のいない世界で生きなきゃいけないでしょう」
「……それはいやだな」
「だったら、お前だけ死ねばいいよ」

 冷酷に告げられる答えにも、若狭は笑ってみせる。ニーナの言葉なら、何でも受け入れてしまうのかもしれない。僕は、そんな若狭に何も言えない。今までニーナの傍にいたにも関わらず、誠実ではなかった僕に、どんな思いを抱いていたのかなんて。答えを知るのも怖い。さっきまで自分が若狭に殺されかけていたなんて、信じられない。不思議な夢を見ているのかもしれない。頬を抓ってみる。ちゃんと痛い。どうやら本当らしい。目の前に転がる若狭と、佇むニーナ。これも、夢じゃない。夢じゃない。
 やがて呼吸の音が消えた。
 動かなくなった若狭の足を、軽くニーナが蹴る。反応はない。

「行こうか、いっくん」




 僕たちはあの頃のように手を繋いで歩いていた。
 日が暮れて、暗くなった道を、ゆっくりと。
 目的地もわからないまま、僕はニーナに手を引かれて歩く。途中、ニーナが若狭を殺害した凶器を置いてきてしまったことを思い出して頭が真っ白になる。引き返そうと思ったけれど、ニーナに手を抓られて止められた。
 おとなしく従う。さからうと、また殴られるから。
 人気のない、田んぼとビニールハウスが延々と続く田舎道。ニーナはどこに向かっているのだろう。家からどんどん離れていった。

「いっくんがどうして私に会いに来てくれないのか、わからなかったの。私を刺したやつのことはどうでもいいって思っていたんだけど、もしかしてそいつが茶谷咲和だったら……そう考えると苦しかった。いっくんは浮気性で、どうしようもないグズだから」

 僕が黙っているあいだ、ずっとニーナはこんな感じで喋り続けている。
 隙あらば僕への罵倒を差し込みながら。

「お母さんが変なのは、私も知っていたの。周りの大人がお母さんを良いお母さんにしようとしていたことも。だけど、だれも私は救えない。私にとってお母さんは絶対で、あの人がいないと何もできなかった。私が生きていけるのは、殴られたり蹴られたりしているから。それが生きている理由だから。
 みんなが私とお母さんを離れ離れにさせようとしているとき、自分がなくなっちゃいそうで怖かったんだけど……。いっくんがいたから、大丈夫だった」

 やめろよ。こういうときに言うことじゃないだろう。

「ねえ、いっくん。私たちってこれからどうなるんだろうねぇ……」

 これからって、未来のことか。
 そんなもの、本当にあるのかな。
 人を殺して、未来を奪って、それを踏み台にして生きて。
 生きることが許されないような気もしてくる。

「これからのことなんて、考えられないよねぇ」
「…………今日はよく喋るな」
「いっくんは静かだね」

 僕の呼び方が戻っている。
 それだけで、昔が逆再生される。
 変化のない僕らの関係。これからも、これからも、ずっと。

「あ、あ、あ、ああ…っ、あああっ、ああああああああっ」

 気づけば、意味のない音が口から発せられる。ノイズが酷い。ぎりぎりと唇を噛んだ。
 おかしくなりそうだった。
 いや、もうおかしいのかもしれない。どこから間違っていたんだろう。僕たちは、どこから踏み外していたんだ。時間差で現実が押し寄せてくる。若狭はきっと死んだだろう。茶谷は、若狭に殺された。殺されて、死んで、消えた。なんだかもう、現実味がない。ニーナが人を殺したということも受けとめきれていないし、その理由が「僕のために」だなんて。そして若狭が僕を殺そうとしたことだって……あいつは「蜷川のために」そうしようと思ったんだろう。……みんな暴走しすぎだよ。僕は、まだ、そこまで追いつけていないんだ。だれかのために何かを犠牲になんてできないし、しようとも思わない。
 ぜんぶ自分のためなんだよ。
 ニーナが母親から虐待を受けていたことを知らせなかったのも、ニーナが母親を受け入れようとしていたからってだけじゃない。ニーナが僕を必要しているのは、母親の不適切な行いがあってこそだったから。ニーナがもし幸せな家庭で育っていたら、僕なんて、最初から用じゃなかった。
 僕は自分を必要としてくれている人がいないと、存在できない。自分の中身が空っぽだと思えてならない。蹴られても、殴られてもいいから、ニーナを離したくなかった。

「大丈夫だよ、いっくん」

 僕をなだめるニーナの声が、遠い。
 震える手をしっかりと握って、ニーナの瞳が僕を捕らえる。

「狂っている」
「そんなの今さらだよ」
「狂っている」
「私たちは、最初からおかしいんだよ」
「狂っている、狂っている、狂っている、狂っている……」

 ニーナの唇が僕の唇と重なった。
 意図的な不意打ちだ。目を見開いて、ぼやけているニーナの額を眺める。
 恋人同士でもないのに。
 離れていく温かさを名残惜しいと思ってしまった。
 ニーナはくしゃくしゃの顔で、もう二度としてやらない、と呟いた。それがいい。こういう関係になると、それこそ僕らは変わってしまうだろう。幼少の頃に戻れなくなる。

「アンタたち、何やってんのよ」

 聞き覚えのある声がした。
 一気に体が固まって、背筋が伸びる。緊張して眩暈がした。
 振り返ると、電灯の下に人が立っている。そこだけ光が集中して明るい。
 その女子に見覚えがあった。髪は短く切っているけれど、確か前はポニーテールだったはず。片手に漫画雑誌を持って、怪訝そうな顔で僕らを見ている。
 秋月冴香だった。
 夏休み前から不登校になっていたクラスメイトと、久々の対面だ。色々とタイミングが悪すぎる。
 キスしていたところを見られた気まずさよりも、人を殺害した後ろめたさとばれるんじゃないかという恐怖心のほうが強い。
 秋月は僕らだとわかって声をかけたらしく、じろじろと見てくる。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.43 )
日時: 2016/02/09 12:48
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)

「こんなところまでイチャついているとか……気持ち悪いね、本当に」

 嫌悪感の滲み出る表情。
 彼女をクラスメイトとして認識していないニーナが、秋月の存在を疎ましそうに眺めている。いい加減、顔と名前を覚えてやれよと言いたいところだけれど、僕自身、茶谷という接点がなければ覚えなかっただろう。

「こんな夜に女の子ひとりで危ないな。まだ犯人は見つかっていないんだから」

 茶谷が殺された事件を知らないわけじゃないだろう。
 引きこもっていたとしても、テレビぐらいは観ていたはずだ。自分の身近な人間、こともあろうに、いじめていた人間が殺されたんだ。警戒しないほうがおかしい。

「茶谷咲和を殺したのって、蜷川なの?」

 少し見当違いのことを尋ねられた。
 まさかニーナを犯人だと疑うなんて、どうかしている。でもニーナは過去に二人、人を殺してしまっているから、そういうオーラが出ちゃっているのかな。二人目はつい一時間ほど前に死体にしたばかりだし。

「違うけど、どうしてそう思ったんだよ」
「なんとなくだよ。強いて言うのなら、恋愛関係のもつれってやつ?……マジできもい」

 どうしてこいつ、こんなに強気なわけ。
 そして僕とニーナは何もしていないのに、秋月からこれほど嫌悪される理由が見当たらない。だけど、人間は理由もなく他人を拒絶する傾向があるから、きっと秋月が僕らを敵対視するのも、理由はないのだろう。

「そういえばどうして学校に来なくなったんだよ」
「春名に関係ないじゃん」
「茶谷に下剋上されて怖くなったのか」
「……違うって言ってんの」

 視線が泳ぐ。明らかに動揺している。

「……茶谷を殺したのって、もしかして秋月なんじゃないのか」

 真相を闇に沈めたまま、子どもじみた挑発をしかける。
 秋月が、眉に微細な皺を寄せた。

「はぁ?何それ、本気で言ってんの」
「今までいじめてきたクラスメイトが、自分を見下すようになって、鬱陶しくなったんだろう。怒りに身を任せて、気づいたときには茶谷の死体があって──」
「違うって言ってんじゃん!」

 ハッタリに引っかかった秋月が、身の内の焦りと余裕の無さを暴いていく。

「だれがヤッたのか知らないけど、あんなやつ殺されて当然だから!中学でもカヲル、カヲルってうるさいし、ちょっと病気なんじゃないの?うちらのこと散々振り回して、傷ついたふりなんかして……本当に嫌いだった。あんなやつが死んでもだれも悲しまないから」
「ずいぶんな言い様だな」
「とにかく私は茶谷の事件に一切関係ないから。……あとさ、蜷川もだいぶん気色悪いよ。さっきから瞬きせずにこっち見てきて、なんなの」

 今度はニーナに文句をつけ始めた。たいへん心外である。今すぐそこの女の顔面を殴打して通った鼻筋をへし折ってやりたい。こんなに攻撃的なことを思うのに、感情の水面は揺れず静かなままだ。
 ニーナが僕の横を通り過ぎて、秋月のほうへ近寄っていく。
 殴るのかなと思っていたけれど、どうやら違うらしい。
 近くで顔をじっと見る。秋月が後退りすると、一歩二歩とニーナが前進する。

「な……に……なに、なになになに」
「ずっと考えていたの。あの日の夜、私を刺したのはだれなのかなって」
「だ、だれって……そんなの知らないし……近い、近い」
「お前を見ているとお腹の傷が疼くの。……ねぇ、右腕、見せてくれない」
「なんでだよ!気味悪い!」
「あの日、抵抗しているときに犯人の右腕がボコボコしていたんだよね。……だから見せて」

 するりと秋月の服の袖から手を入れる。
 そうだ、変だと思っていたんだよ。
 自傷を隠していた茶谷みたいに、今、秋月は長袖を着ている。夏なのに。ニーナが襲われたときも、犯人はパーカーのフードを目深に被っていた。

「な、にすんだよっ!」

 秋月が左手で拳を作り、ニーナの頭を一発殴る。
 ……ちょっとは殴られるほうの気持ちもわかっていただけただろうか。
 それでも屈せず、彼女は秋月の袖をめくった。そして、僕にも見せるように突き出してくる。

「見て、いっくん」
「…………根性焼き?」

 そこには四か所、楕円形の火傷痕があった。ケロイドのようになっているそれを、ニーナが指の腹で押す。苦痛に歪めた表情で、秋月が叫んだ。痛い、痛い、と狂ったように繰り返す。

「どういうこと……」
「あの日の夜、私を襲ったのは茶谷咲和じゃない」
「──茶谷ではないと最初から気づいていたのか?」
「うん。若狭は見舞いのとき、茶谷に刺されたんだろうと決めつけていたけどね」
「どうして茶谷じゃないって思った?」
「……本当に能無しのクズなんだね、いっくん。そんなの、いっくんが好きだからだよ」

 どういうことだ。
 訳がわからず頭が追いついていけない。苛立ったのか舌打ちをひとつした後、ニーナが秋月の火傷痕をもう一度見せつけてくる。

「茶谷はいっくんに嫌われたくなかったんだよ。私を殺したらいっくんから恨まれるに決まっているじゃん。だから私を刺したのは茶谷じゃない」
「それ、若狭に言った?」
「言っていない。若狭は……言っても聞いてくれないと思ったから」

 恋は盲目ってやつか。若狭は茶谷がニーナを刺したと決めつけ、殺害を実行した。そして、ニーナを守れなかった、役不足の僕も排除しようと思った。その結果、愛する人間に殺された。なんて滑稽で不憫で理不尽なんだろう。だれも救われず、助けることもできず、奥底へ沈んでいく。もがくことも許されない。

「だから、いい加減、手を放せって!放せ、キチガイ!」

 空を割るような悲鳴だった。ニーナの手を振り解き、隠すように袖を伸ばす。そして何を思ったのか、持っていた漫画雑誌を袋ごと投げつけてくる。それはニーナの肩に当たって、ぼとんっと地面に落ちた。

「キチガいだよ、お前らも、茶谷も!頭のネジ、緩いんじゃねえの!?アイツ、何したと思う?私に何をしたと思う?言ってみなよ、こんな火傷だけじゃねぇから、マジで!」
「今の秋月もそうとうキていると思うけど。……もしかして茶谷に脅されでもした?」

 ああ、図星だったみたいだ。
 みるみるうちに秋月の表情が強張る。干からびた柿みたいだ。唇のひび割れから出血して、滲んでいた。舐めとってやりたい、とまでは思わない。

「──学校のあと、アイツの家に行ったの。挑発されて、頭にきて……もう、そこからは、もう、思い出したくもない。なんなのよ、アイツの家、普通じゃないよ」

 そこだけ抜き取って聞くと怪奇現象でも起こるのかと誤解を招くような言い方だ。
 要するに、茶谷家の現状に汚物を拡大して見せつけられたような不快感を覚え、逃げ出そうと思ったけれど、失敗に終わったらしい。
 茶谷が秋月に与えたのは、それまでのいじめよりもっと残酷で凄惨なものだった。ただ、それはいじめへの報復ではない。秋月を従順にさせるための過程にすぎない。自分の思う通りに動く駒を作るための、なんともいかれた凶行だ。いじめっ子の繊細な心にはヒビが入り、学校へ行くこともなく、部屋の中で葛藤していたのか。

「そこでニーナを殺せと言われたのか」

 茶谷のことだ。自分の手を汚さず、ニーナを排除しようとしたんだろう。そして悲しみに暮れる僕の傍に何食わぬ顔をして近寄り、僕を献身的に愛そうとしていたにちがいない。そういう未来を想像できる自分が怖い。ニーナの代替えとして茶谷を選ぶ未来があったとしたら、それは、彼女へのとてつもない裏切りだから。

「じゃあ、あの日の夜にニーナを刺したのは茶谷じゃなくて……」
「だれが茶谷を殺してくれたのかわかんないけど、本当にラッキーだったわ。あんなやつ生きていたって、ろくなことにならないんだから」
「自分のしたこと棚に上げてんじゃねぇよ。お前がニーナを刺したっていうのも犯罪なんだからな」
「──でも、今さらこんなこと、春名たちは公言しないでしょう」
「どうしてそう思うんだよ」

 醜悪な笑顔を晒して恥ずかしくはないのか。
 秋月は勝者のような目で僕らを見ている。口角を上げ、すべてを見透かしたみたいに。

「自分たちさえ良ければ、他人のことなんて、どうだっていいんだから」

Re: 憂鬱なニーナ ( No.44 )
日時: 2016/02/09 13:47
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)





 秋月の言葉を振り解いてからも、僕たちは歩き続けた。
 気づけば、ビニールハウスが建ち並ぶ田舎町にまで出てきてしまった。蚊が多く羽音がうるさい。時計がないから今の時間はわからない。夏の夜の匂いがする。もう、ここから家まで帰れと言われても無理な話だろう。
 秋月と別れてから、ニーナの口数はめっきり減ってしまった。
 握った手が汗で湿っている。
 引き返そうなどとは、どちらも口に出さない。すでに戻れない場所まで来てしまったから。どんどん深いところまで歩いていって、振り返っても闇ばかり。
 どこを見渡しても闇、闇、闇、闇…………。
 だけど怖くはなかった。不思議だけど。
 ずっとこの手があったから。

「少し疲れた」

 それだけでニーナは僕のこれからとるべき行動を制限させることができる。無言で背中を低くすると、躊躇することなく僕の背に乗る。落ちないように首に手を回す。あまりにも軽いので、本当に女子高校生をおんぶしているのか疑わしい。
 おんぶしたまま歩き始める。
 肌と肌が密着して、ほんのりと汗の匂いがする。僕の手の血がニーナの太ももに付着してしまったらしく、「きもい」と頭を叩かれた。いつものように。
 時恵さんになんて言われるかな。
 あの人はニーナの薄っぺらい幸せだけを信じている人だから。そのために僕がこれからの人生を犠牲にしてもかまわないと思っている。警察に突き出すこともできたんだ。伊槻さんを殺害したときも……今も。
 でもそれをせずに庇い続けているのは、僕自身、ニーナに必要とされていることで自分を認められているからで。
 覚悟を、決めよう。

「ニーナは僕のいない世界で生きるのと……僕と一緒に死ぬの、どちらがいい……?」

 簡単なことだった。
 最初からこうしていればよかった。
 耳元で、ニーナが答えを囁く。それは僕にとってこれ以上ない幸せな答えだった。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.45 )
日時: 2016/02/10 23:35
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 タクシーの中は冷房が効きすぎて、思わず鳥肌が立つ。真夏だから短パンとティーシャツというラフな格好をして、ホテルを出る前にアイスをガリガリと噛み砕いてきたというのに。連絡をしておいて、時間通りに家の前に来てくれたタクシーに乗った瞬間、「寒っ」と言ってしまいそうになって慌てて言葉を飲み込む。子どもの頃は人に気を遣わずに、自由奔放に生きてきたから、そろそろ遠慮するということを覚えようと決めた。運転手の人に行き先を言ってから、お互いに無言だ。気を遣って話かけようかと思ったけれど、どう見たって自分の父親より年上の運転手と話が弾むわけがない。窓の外の景色を眺めながら、ひとりで寒さに耐えていた。


 タクシーから降りて、代金を支払ったあと、私は指定された場所へと向かうべく、歩き始めた。足が少し不自由なので、杖をつかって移動する。まだ二十代の私が杖をつかっていることに、周りは少し怪訝そうに見てくるけれど、すぐに興味は削がれていくらしい。
炎天下にさらされると、さっきまで冷えていたのに汗がじわりと吹き出す。日焼けは小さいころからしなかった。昔から「雪みたいだね」と評価される私の肌は、今もその白さを保っている。右腕には蚊にさされた痕があり、そこだけ梅のように色づいていた。触ると少し膨らんでいる。
 右足を引きずるように歩くこと十分。
 待ち合わせ場所の、公園の噴水前に私の息子はいた。
 今年で四歳になる息子の春馬は、私の姿に気づくと元旦那の母親の手を放して、駆け寄ってくる。走るたびにてちてちという効果音が聞こえてきそうで、なんとも可愛らしい。自分の息子を素直に可愛いと思えるようになったのは、離れて暮らすようになってからだ。一緒に暮らしていたときは、育児に対して悩みが蓄積されていって、自分でもわけがわからなくなっていたときがあったのだ。あのときの憂鬱さが嘘のようだ。

「おかあさん、久しぶり」
「どーもね」

 軽く会釈をする。息子なのに他人行儀だと言われるかもしれないけれど、私にとってこれが精一杯なのだ。子どもが嫌いというのも理由のひとつだけれど、私と瓜二つの春馬にどう接していいのか未だに手探り状態だ。
 お義母さんが苦笑しながら手を振る。挨拶は不要、という意味だ。私はそちらにも軽く頭を下げたあと、春馬と一緒に歩き始める。手は繋がない。杖が扱いづらいから。


 離婚はしたくない。だけど、あなたの実家で暮らすことに限界を感じているの。
 夫にそう切り出すと、とても悲しそうな顔をされた。静かな居間。私の限界が、コップのなかいっぱいに溜まって、今にも溢れそうな状態だった。育児と、自分の背負う足の障害と、神経質なお母さんのこと。いろいろ考えたらきりがなくて、精神的に病んでいた。夫は理解ある人で、うんうんと頷いて話を聞いてくれた。ゆっくりやっていこうな、と言ってくれた。
 しばらく私は、夫の実家からそう遠くない自分の実家で暮らすことになった。育児にも限界を感じていたから、春馬は連れて行きたくないとはっきり言う私に、お義母さんは最後まで反対していた。母親失格だなぁ、と自分を責めていたけれど、そうでもしないと、私自身が壊れてしまいそうだった。子どもから逃げたと思われるだろうけれど、何とでも言え。あのまま春馬と一緒にいたら、虐待してしまいそうな勢いだったのだ。
 こうして春馬とは一か月に何回か会うことにしている。
 あれほど自分を追いつめた我が子でも、離れてみると、気持ちが澄んでいく。靄が晴れて、視界が広がっていくような気分。

「さいきん、なにしてるの」

 誰に似たのか、他人にさりげなく話題を提供するぐらいには大人びている息子。どっちが大人なんだか。

「うーん……ご飯食べて、寝て、起きて、お風呂入って、歯を磨いて、テレビを観て、ご飯食べて、寝て、起きて、お風呂入って」
「それ、ふつうの一日じゃないか」

 要するに暇を弄んでいるわけだ。春馬が呆れたように笑う。
 …………本当に、私似だな。肌、しっろ。
 前触れもなくいきなり頬に触れてみる。春馬が目を大きく見開いて、ぽかんと口を開ける。首を傾げ、「ん…………なに?」と困惑したように問う。その一連の仕草が、どこか、あの人に似ていてこちらのほうが固まってしまった。

「うーん……パフェ、食べる?」
「あ、うん」





 ファミレスでパフェを食べる息子……。なんか可愛いので、スマホで写真を撮っておく。あまり写真を摂られることが好きではない春馬は、眉間に皺を寄せてこちらを睨んだ。

「ぼく、へんな顔していたでしょ」
「してない、してない」

 慌ててスマホをバッグにしまう。
 ファミレスは客が多く、店員がひっきりなしになっているベルに翻弄されている。春馬は黙々とパフェを食べ続け、時折こちらの様子を窺うように視線を上げる。
 ドリンクバーを頼んでいる私は、コーラ、ミロンソーダ、オレンジジュース、緑茶、抹茶オレ、イチゴオレをテーブルの上にずらりと並ばせて、右から左へ、一口ずつ飲み比べてみる。

「髪、きらないの?」
「うーん、その予定は特にないっすなぁ」

 言って、自分の髪をひょいっと持ち上げてみる。柔らかくて細い私の髪の毛は、現在もストレートのロングヘアを保っている。いっさいカラーリングもパーマもあてていない。私の自慢……というより特徴のひとつだ。色素が薄いので日に当たるとキラキラ光ってきれいらしい。夫が最初に褒めてくれたものだった。
 春馬は、色素は夫のを受け継いでいるらしく、墨を垂らしたように真っ黒の髪をしている。毛もくせがあって、触ると少し硬い。

「保育園でなにしているの」
「いまはプールで遊んでいる。たっちゃんと、さゆりと仲良しで、かずくんとは昨日けんかしちゃった」
「あらまぁ。どーして」
「うーん……たぶん、さゆりちゃんがぼくのことを好きだからだと思う」

 まぁ。
 早くも女の子から好意を持たれている息子を誇らしく思えばいいのか、それを自覚しながらもドライな態度に苦笑すればよいのか……。母は少し複雑だ。

「春馬は好きじゃないの?」
「あんまり、思わない。さゆりちゃん、男の子っぽいし」
「そういう女の子ほど、ものすごく可愛いものなんだよ」
「ぼくは、あもう先生のほうが好きかなぁ」
「さくら組の先生?」
「ううん。もも組の先生。居残りグループのとき、よく遊んでくれる。歌がものすごくじょうずなんだ」
「へえ。その先生と結婚したい?」
「し、したい!」
「ふふふ……きみがどういう男になるのか、母は楽しみだよ」


 ◆


 ファミレスから出たあと、春馬が、今流行りのなんとか戦隊のおもちゃが欲しいというので、近くのショッピングセンターに寄る。二階のおもちゃ屋さんに行くと、それまで落ち着いていた春馬が、いきなり走り出した。そして棚に並べられている、変身ベルトを指さしてこちらを見てくる。前に手をかざすと、反応して光りだし、音が鳴るベルトだ。こういうとこ、子どもだよねぇ。

「これがほしいの?」

 頷かれる。
 変身ベルトを持ってレジに並んだ。
 包装しようとするのを春馬が「今つけたいです」と言ったので、そのまま渡してもらった。会計を終えて、ベルトをつけてやる。春馬がにっこりと笑った。おおう、笑えるのか、この子は。

「変身するの?」
「これで、あもう先生をすくってみせる」

 うちの息子すげぇ。
 心のなかで拍手を送る。そのまま良い子に育ってくれよ、春馬。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.46 )
日時: 2016/02/11 02:19
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)


 変身ベルトを買ったあと、フードコートで遅めの昼食をとった。
 パフェを食べちゃったから、お腹いっぱいかなと思ったけれど、そんなことはない。ラーメンをすする春馬を横目に、チャーハンをゆっくりと食べる。さすが食べ盛り。男の子。
 食べるときも変身ベルトを外さず、思い出したら前にそっと触れてみる。ジャカジャカジャジャーンと音が鳴るたびに、満足そうに笑う。きっと頭のなかでは、あもう先生を助けることでいっぱいなのだろう。
 そんなことを思っていると、からんっと乾いた音がした。
 横を見ると、椅子に立てかけていた杖が、床に落ちている。ひとりの女の子が振りむいて、

「あ、ごめんなさい」

と謝った。
 どうやら通り過ぎるときに、杖にあたってしまったらしい。
 年齢は春馬ぐらい。そして後ろからその子の父親らしき男の人が近づいてくる。男は女の子の肩に手を置いて、不思議そうに杖を見ていた。そして、自分の娘が倒したのだと理解したのか、軽く頭を下げる。

「すいません」
「いやいや。こちらこそ」

 ……なんだろう。頭を上げた男の人が、そのまま固まってしまった。食い入るように私の顔をじろじろと見ている。私の顔に何かついているのか。試しに自分で触ってみるけれど、特に何もない。視線を逸らされることなく見てくるので、私も男の人を観察してみる。
 年齢は二十代半ばか後半ほどで、精悍な顔つきをしている。横顔がきれいで彫刻のようだった。ただその表情は氷のように冷たい。人間味がないというより、心が抜け落ちてしまったような感じ。髪は若干伸び気味で、肩につくかつかないか程度に伸びた髪を後ろでひとつにくくっていた。

「あの、なにか?」
「ああ、いえ、べつに……なんでもなくて……」

 男の視線が不自然に泳ぐ。

「その……杖は……」

 私の杖を指さした。

「あー、なんか小学校のときに高いところから転落しちゃったみたいで。少し足が不自由なだけです」
「……それは大変でしたね。……辛かったでしょう」
「いえいえ。私、そのとき頭も強く打っちゃって、それより前の記憶がないんですよね」
「えっ」

 ひどく驚かれた。まぁ、普通は記憶喪失と聞かされたら、どう反応すればいいのかわからないだろう。黙っていれば記憶があるかないかなんてわからない。だから、私は家族以外の周囲に記憶喪失であるということを知らせていない。隠しているわけでもなく、言う必要がないと判断したから。私にとっての過去は執着すべき対象ではないのだ。今生きることに必死で、昔を振り返ろうという気さえ起きない。
 ただ、どうしてだろう。
 この人には隠し事をしてはいけない気がする。初めて会った…………んだよね。

「でも、それなりに楽しいので」
「おかあさん、楽しいの?」
「楽しいよ」

 笑顔はまだ作れないけれど、素直な気持ちは伝えられる。それだけでも、私なりに進歩したと思うんだけれど。

「息子さんですか」
「そうですよ。春馬っていうんです」

 まだ話を続けるらしい。
 男は女の子の頭にぽんっと手を置いて、「娘です」と紹介する。「娘です」と女の子が頭を下げる。なんだかコントを見ているようだった。「可愛いですねー」と、男と相手の女の人との共同造形物に感想を述べる。でも本当に、将来は絶対に美人になるだろうと確定されているほど可愛い。
 男はしばらく自分の娘の頭を撫でてあやしていたが、それは時間稼ぎのように思えた。
 立ち去るのを、名残惜しく感じているような。
 どうして黙って立っているのかわからず、この先の話題の道筋も見えず、困っていると、男の後ろから女の人がものすごい勢いで駆け寄ってきた。もしかして奥さんかな、と思っていると思いきり男の人の後頭部を拳で叩いた。いきなり叩かれた男は「いだっ」と声をあげる。
 もしかして浮気だと誤解されたのかしら。いくらなんでも、少し話したぐらいで男女関係を疑う人はそう多くはないと思うんだけれど。内心ものすごく焦っている私は、どうしたらよいものかと春馬に視線を送った。春馬も、突然男が叩かれたので、怪訝そうに眉をひそめている。こいつ、どうしてこんなに冷静なの。私の息子は肝の座り方が違うのね。
 頭を押さえる男を置いて、奥さん(たぶん)は女の子の手を引いてすたすたと歩いていく。ちらっと横顔が見えたけれど、奥さんもけっこう美人さんだった。なんだこの家族。美形家族か。

「あの…………大丈夫ですか」
「慣れているので、平気ですね」

 慣れているんだ。家庭でのことに口出しするつもりはないけれど、子どもの前で手をあげるなんてよくないですよー。虐待一歩手前だった先輩としての立場から、そうアドバイスをしようかと思ったけれど、やめた。
 頭を上げた男は、愛しいものを見る目で、自分を置いていく二人を見つめていたのだ。

「それじゃあ、これで。話せてよかった」
「ああ……こっちこそ」

 今の五分間程度の出会いで何か得たものはあったのだろうか。知らない人と盛り上がりもしない話をして、気疲れしたのは私だけらしい。男は子どものように私に手を振った。私もつられて手を振る。なんだか別れの言葉を言わなければならない気がした。

「さよなら」
「さようなら、伊槻さん」

 呼ばれて、ワンテンポ遅れて、男が私の名前を知っていたことに気づいた。
 どうして?
 その問いかけを私は喉の奥で飲み込む。人ごみに紛れる男の背中を眺めて、やがて消えて行くその人を、知っている気がした。
 なぜ私の旧姓を知っているんだろう。
 やっぱり、どこかで会った人なのだろうか。
 それとも、私の失った記憶のなかにいる人なのか。

「さっきの人、おかあさんの友達?」

 ラーメンをすべて食べ終えた春馬が尋ねる。
 私は首を横に振って、再びチャーハンを口に運ぶ。

「ぜんぜん知らない人たち」

 過去は振り返らない。埋もれている記憶も思い出す必要なんてない。
 私にとって彼らがどういう存在なのかは知らないけれど、彼は「さようなら」と言った。きっともう会うことはないだろう。
 私には春馬と、夫さえいればいい。
 和やかで穏やかな日常が続いていけるのなら、何を犠牲にしても、頑張れる。
 母親という役目もきちんと完遂できるようにしないとね。





 できるだけ避けたい再会ではあった。
 幸いだったのは相手の記憶が失われていたことと、ニーナが彼女に気づいていなかったこと。それが知れただけで、僕はもう満足だ。彼女に対しての思いも、置いていく。お互いが忘れてしまえば、なかったことになる。あの頃の出来事は僕らの関係を壊すには充分だったけれど、関係を持続させるだけの影響力はなかった。
 ぐいぐいと娘の手を引っ張るニーナの後を追いかける。歩く速度が速くて、目に入れても痛くない可愛い娘の足が、今にももつれそうだった。そのまま引きずられるのではないかと見守っていたけれど、娘も必死で足を動かしている。
 やがて歩き疲れたのか、不意に立ち止まり、僕に睨みを利かせる。

「さっきの浮気じゃないよ」

 必死で練習した笑顔を披露し、先ほどの再会を伏せて弁解する。声の出せないニーナは不満を口にすることなく、小さく舌打ちした。
 十年前、彼女の手を繋いでどこまででも行けそうだったあの夜。
 僕はニーナの目の前から消える覚悟をした。僕が傍にいるとニーナの罪を隠し通そうとする。それだといつまでもニーナが日の当たるところで生きられない。
初めて繋いだ手を自分から離し、眠っているニーナを置いて、近くの廃ビルに侵入し、そこから飛び降りた。高いところから落ちるとき、何もかもがスローモーションに見えたことは覚えている。運悪く助かってしまった僕が目覚めたのは二週間後で、病院のなかだった。若狭壮真殺害の容疑で、とっくにニーナは警察のお世話になっていた。僕が死んでしまったかもしれない恐怖と、慣れない環境へのストレスで、ニーナは声を失った。
 僕が再び戻ってきても、まだ声は出ない。
 何度ニーナを裏切れば気が済むのだと、時恵さんからは大目玉をくらったけれど、こればかりは許してほしい。裏切ることでニーナの罪が公になり、僕らのこれからが保障されるのであれば、何度だってこの手を離すだろう。

「パパ、ママがまた怒ってる」
「大丈夫だよ。ほら、手を握ってあげて。離さないであげて」

 そっと娘の手がニーナに触れた。抗うことなくその手を握る。どちらが母親なんだかわからない。微笑ましいな、と思いながら、僕はもう片方の娘の手を握る。服の上からだとわからないだろうけれど、わずかに変形してしまった僕の右腕。歪なものを愛でるように娘が腕を回す。
 ほんの少しだけ僕の心があたたかくなった気がする。
 この小さな手を離さないように。
 いつもより優しく手の甲を親指の腹でなぞった。


(完)


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