複雑・ファジー小説

うつくしきものたち
日時: 2017/08/31 17:35
名前: 葉鹿 澪
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=11967

 わたしには、ひみつの友達がいる。
 家の近くにある、小さな図書館。本がたくさん置いている部屋の、ずっと奥のとびら。そのむこうで、いつもその友達はわたしを待っている。
 図書館でみんなが読んでいるものよりも、ずっと古い本たちに囲まれたそこで、友達はにっこり笑ってわたしに「おはよう」と言ってくれた。
「おはよう! ねぇねぇ、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「そんなに楽しみにしていてくれるなら、私達も嬉しいな。良いよ、今日もいろんな話を聞かせてあげる。……でも、約束は忘れてないよね?」
「うん、守ってるよ。だいじょうぶ!」
 わたしと、この友達とのたった一つの約束。それは、ここで聞いたお話を決して外で誰かに話さないこと。この友達のことを、この部屋の外で喋らないこと。
 ふしぎな約束だけど、友達のお願いだ。たまにお母さんや学校のみんなに、自慢したくなるけど。
 ちょっとお行儀がわるいけど、床に座って友達を見上げる。
 友達はないしょばなしをするみたいに、人差し指をくちびるにあてた。
「さあ、今日も語って聞かせましょう。これは、東から旅してきた風が囁く物語。西で揺れる花が見た幻。北に降り積もる雪が包んだ夢。南の鳥たちの噂話」

――世界の秘密を覗きましょう。

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木曜午後三時 ( No.5 )
日時: 2018/03/02 17:50
名前: 葉鹿 澪 ◆3i2uRLP5kE

 シーツの上に広がった癖のある黒髪を、綺麗だとは思えなかった。
 愛してる。こんな薄っぺらの言葉が、他にこの世にあるだろうか。胸の中でこちらを見上げてくる彼女は、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「貴方といる時だけ、本当の姿になれるの」
 その言葉を吸い込んでしまおうと、嘘のように真っ赤な唇を塞ぐ。思わず笑いそうになった顔は見られていなければ良い。
 他人の唾液は甘くない。ただ、このホテルに備え付けられたシャンプーの匂いは好きだと感じた。清潔感なんて考えてない、安い匂い。
「週に一度会うかどうか、会っても数時間でしょ。随分息苦しい生活だね」
 黄色っぽい首筋から、浮き出た鎖骨。更にその下へ下へ唇で擽る。ボディソープの合間から立ち上る微かな匂いは、枯れて乾いた花を思わせる。これを求めているわけじゃないと主張する本能は、ぐっと扁桃体の奥へ押し込んだ。そんなことは分かってる。
「貴方が卒業してしまったらどうしようなんて、たまに考えるの。今みたいに平日の昼間に会うのは、難しくなるでしょう」
「そこまで長く付き合ってたら旦那さんにバレそうだね」
「気付かれたっていいわ」
 もう気付かれているのかも。その言葉に今まで平坦だった心拍数が跳ね上がる。冷たくなる背筋と指先に、熱くなる頭と心臓。倒錯した興奮についていけない脳味噌が、快楽に誤認する。
「貴方が愛してくれるなら、もうどうなったっていいの」
 可愛い人だ。初めてそう思った。愛情が欲しいあまりに、あまりに高い買い物をしている。理性も何も無い。
 そしてそれは、彼女だけじゃない。誰かを愛したいだけで他人のものに手を出してしまった。そしてそれを後悔もしていない。こんなのもう、正気じゃない。
「愛してるよ、世界で一番」
 この言葉を渡す相手は、貴方じゃなくても良いけれど。そして貴女も、囁く相手は誰でも良いのだろう。
 平らな腰を撫ぜると、甘えるような吐息と共にシーツが波打つ。
 腕の中に抱いた枯れた花束は、まだ手放せそうにない。

小匙一杯分の悪意 ( No.6 )
日時: 2018/03/18 07:53
名前: 葉鹿 澪

 ポットに入れる茶葉は小匙一杯分。そこに入れるのは沸騰する直前の熱いお湯。
 その小匙の中に込める思いを、お湯と一緒に煮立たせる気持ちを、多分君はずっと知らないままなんだろう。


 珈琲と紅茶の匂いが染み付いた、焦げ茶のカウンターに缶を置く。
豆を挽くのも、茶葉が開くためにポットを温めるのも、ここに来てから随分と手慣れたものだ。初めの頃はどうにも覚束なくて、お湯が冷めてしまったりフィルターから溢れてしまったり忙しかった。
 アールグレイ、とアルファベットで書いてある缶を、カウンターと掌の間で転がして遊ぶ。窓ガラスの向こうで揺れる薄桃に飾られた枝に、ふと視線を引き寄せられた。
 高校生になって、通学路沿いにこの店を見つけて、もう一年。この一年で変わったことといえば、おやつの時間に強くなったことくらいじゃないだろうか。接客業でこの無愛想な性格をどうにかしようと思ったのに、それはあまり進展が見られない。何人かの常連客が顔を出すだけで、店の中にはいつも緩やかな時間が流れていた。三分を知らせる砂時計と、壁にかかった振り子時計、そしてカレンダーの進みがバラバラだ。
 缶を立たせて、ふとその振り子時計を見上げる。棚に戻そうと持ち上げた缶は、またカウンターの上へと置き直した。どうせそろそろ、また開く時間だ。
 カラン、と乾いた鈴の音が響いて壁にぶつかる。開いたドアとそこから入ってきた茶色い頭に「やっぱり」と声を出した。
「んだよ、やっぱりって」
「そろそろ来る時間だと思った。なに、その頭。染めたの? 剥かれた甘栗みたいな色してる癖にワックスでトゲトゲさせちゃってさあ」
「お前には別に関係ねぇだろ。つーか俺は客だぞ。へったくそな紅茶飲みに来てやったんだから接客しろよ」
「はいはい。ご注文はー?」
 訊きながら、メニューは渡さない。だってその後に続く言葉を私は覚えてる。
「アールグレイ。アイス。ストレート」
 ポットの中にお湯を注ぎながら、ぶっきらぼうな声を聞く。一週間に一度必ず唱えられる、世界で一番簡単な呪文だ。
 一度ポットのお湯を捨て、網を嵌める。その中に、ティースプーン一杯の茶葉を入れて再びお湯を入れる。三分の砂時計をひっくり返し、大きめのグラスを棚の中からカウンターの上へ。
「……本当、飽きずに飲みに来るよね」
「ここの紅茶はそこら辺のクソみたいな味の色水よりはマシだからな」
「そういうところ本当お坊ちゃん。高校も変に近場で探さずに、良いとこ通えば良かったのに。高校デビュー失敗してるし」
「失敗してねぇし! お前こそ、バイトなんざするくらいなら身の丈に合ったところにしとけば良かっただろ」
「社会学習ですー」
 口から言葉を放れば、小気味良く打ち返される。キャッチボールという比喩をよく聞くけど、私とこいつの会話はラリーみたいだ。相手の言葉をちゃんと掴む前に、腕に染み付いたテンポがラケットを振ってる。
 グラスの中に氷を入れると、とうとう茶葉が蒸れるのを待つだけになってしまう。何となく顔が見れなくて、落ちていく砂を眺めていた。
 小さな砂山が完成したら、ポットからグラスの氷に中身を注ぐ。氷に罅が入る音と共に、微かなベルガモットが鼻をくすぐった。
 ストローを差して、コースターの上に置く。
「はい、どうぞ」
「……どうも」
 わざわざ呟かれる礼にそういうところが、と出かけた言葉を飲み込んだ。その代わりに、別の言葉を頭の中から探し出す。
「……やっぱり、その頭似合わないよ。七年前が一番良かった」
「七年前って……子供じゃん……」
 返ってきたボールの勢いが思っていたよりも弱くて、思わず振ったラケットは空振りをした。
 子供だよ。子供だった。だって、その頃が一番真っ直ぐ見れたから。
 コロン、と涼しい音を立てて氷の塔がグラスの中で崩れる。
「……ごちそうさま」
「三百五十円です」
 言い終わる前に、カウンターに小銭が置かれる。几帳面に広げられた、銀色四枚。
 黙って出て行く背中を見送る。並んでいた時よりも、気付けば広く大きくなっていた。さっきと同じはずの鈴の音が、床に落ちていく。
 小匙一杯分に乗せた悪意。お湯で開かせたそれでしか、もうボールは投げられない。
 いつかこの缶の最後の一杯が来たら、その時は悪意じゃなくてもっと別の物を掬ってポットへ入れよう。
 一年前と同じ決意をしながら、私は茶葉を棚へ戻した。

黒い港 ( No.7 )
日時: 2018/03/30 17:52
名前: 葉鹿 澪

 海、という言葉を聞くと私が思い出すのは、或る港だ。
 母の実家。函館の外れにある人気の無いただの港。魚もいなければ、小さな漁船が何隻か泊っているだけのそこには、ただ暗い色をした海が広がっている。
 そこは、私の祖父が死んだ場所だ。
 当時の私は一年前に父方の祖父を亡くしたばかりで、だからその葬式で祖父と指を結んだ言葉もはっきりと覚えていた。
「じじが死んだら、私のおじいちゃんいなくなっちゃう。だから長生きしてね」
 七歳の私は、大人との約束は絶対に守ってもらえるものだと信じていた。酷い勘違いだと気付いたのは祖父のやけに綺麗な死に顔を見た時ではなく、その棺桶に釘を打った瞬間だった。
 身勝手な失望は涙腺だけではなく心のどこかも一緒に埋めてしまったようで、終始祖父の死を前に私の心は凪いでいた。
 調査をした警察によれば、何の変哲もない事故だったそうだ。車を停める時パーキングをかけ忘れて、寝ている間にコンクリートの上をゆっくりと動いてそのまま落ちる。
 随分あっけないな。港へ花を供えに来た時、幼心ながらそんなことを思っていた。あの約束は一体何だったのだろう。そんなことも思ったが、ただ波に揺れる水面を見ていれば答えはそこから浮かび上がってきた。
 祖父にとって私との約束は、その程度のものだったのだ。
 その答えは海の色に似て、暗く沈んだ色をしていた。
 今では、祖父は決して死ぬつもりではなかったことは分かっている。分かっているが、それが何だと答える私は十二年前から消えはしない。涙一つ流さないまま、黒い海を睨み付けていた私。
 理不尽だと知りながら私はまだ、約束を破った祖父を、祖父を飲み込んだあの港を許せていない。
 数年前、何回忌かの際に久し振りに港へ行った。
 十年前と変わらないそこは、しかし一つだけ見覚えの無いものが増えていた。
 縁に付いた、車輪止めのような四角いコンクリート。
 どうやら祖父の事故の後に、同じことを繰り返さないよう設置されたらしい。
 私の知らないところで、祖父の死を誰かが持ち出したのだ。
 見知らぬ人間の取って付けたような善意は、気持ち悪いものだった。

鳥籠 ( No.8 )
日時: 2018/05/13 14:28
名前: 葉鹿 澪

──私がこの部屋に閉じ込められてから、二日が経った。 



 群青色の海から浮かび上がるような感覚があった。
 ぼんやりと明かりだけ見える視界に、自分が眠っていたことを知る。閉じた瞼を開けば、真っ白な布団とその向こうに続くフローリングの木目が見えた。
 体を起こそうとして、その重さに枕へ顔を埋める。布団についた腕に力が入らない。肩や膝に何か挟まっているような、嫌な痛みがあった。右足首に布が擦れるたびに、違和感を覚えた。
 寝返りを打つと、肌に張り付いた布地が気持ち悪い。伸ばした腕を覆う星柄が目に入って首を傾げた。私はこんなパジャマを着ていただろうか。
 仰向けになれば見慣れた天井が見えた。真っ白な中に、昨日のことを思い出そうと頭の中で記憶を映し出す。
 二日経った気がする。昨日はひたすら体と喉が痛かったことだけ覚えてるけど、それ以外のことが曖昧だ。一度目が覚めた時は、部屋の中は真っ暗だった。今は雨戸の隙間から光が差し込んで、部屋がぼんやりと群青色になっている。窓から外を見たかったけど、雨戸と窓枠に錠が付けられていて諦めた。朝だろうか。それとも、もう日は高く上っているのだろうか。
 部屋を見渡しても壁には時計が掛かっていない。ただ白い壁紙が、私を取り囲んでいるだけだ。フローリングにも私が寝ている布団が一枚敷かれているだけで、時計どころか家具の一つもない。天井は見慣れているのに見慣れない部屋だ。
 とにかく自由に動ける内に、外の様子が知りたい。
 今度はしっかり腕に力を入れて立ち上がる。布団から出て、部屋に一つしかない焦げ茶色のドアへ。顔のすぐ下にあるドアノブを掴もうと手を伸ばす。手の平から金属の冷たさが伝わってきた。
 握った手に更に力を入れて押し込もうとした時、ドアノブがひとりでに下がって、私の目の前には白いシャツが現れた。
 見上げるとドアから一歩離れた向こう側、薄暗い廊下を後ろに少し驚いた顔が私を見下ろしていた。
「駄目だよ、まだ寝てないと。お腹が空いちゃったのかな。丁度お粥を作ってきたんだ、食べてくれるよね?」
 穏やかな声と一緒に、大きな体が私を部屋の中へ押し返す。背中の向こうで閉じていくドアを、私はただ見上げることしかできなかった。
「ほら、布団に入って。そう、良い子だね。流石は妹ちゃんだ」
 陶器がぶつかって、かちゃりと綺麗な音が鳴る。枕元の床に直接置かれたお盆の上には、小さな土鍋とレンゲが乗っていた。
 熊の顔を模った、一人用の土鍋。焦げがもう取れないと母がぼやいていた。その記憶を手繰るように手を伸ばすと、「いいよいいよ、妹ちゃんはそんなことやらなくて。僕が食べさせてあげるから」と取り上げられてしまった。
「でも、元気そうで良かった。随分ぐったりしてたから、このまま死んじゃうんじゃないかと思っちゃったよ。お薬が効いたみたいだね。うん、迷ったけどお医者さんに診てもらったのは正解だった」
 一人で頷きながら、その手は器用に小さなレンゲで鍋の中身を一口分掬う。
 白くとろりとしたお粥の中に、薄黄色のものが混ざっている。たまごだろうか。うっすらと湯気が上っている。
「はい、口開けて」
「……やだ」
 思わず言ってから、しまった、と息を呑んだ。
 彼の顔を見るといつもの笑顔のまま、ただ首を傾げていた。下がった眉だけが、いつもと違う。どうしよう。失敗した。
「うん? なんて?」
「……えっと、熱そうだから」
 なんとか思い付いた言葉を絞り出す。声は震えて、擦れてしまった。それでも向けられた表情がほっと緩くなる。私も気付かれないよう小さく、喉に詰まっていた息を吐きだした。
「あぁ、そういうことか。大丈夫だよ、少し置いたから火傷はしないと思う。うーん、そうだなあ」
 私じゃなくて自分の口元にレンゲを持っていくと、乗ったお粥にそっと息を吹きかける。
「ほら、これで大丈夫だよ。はい、あーん」
 今度は言われるままに口を開いた。
 温かい出汁の味に、つい安心してしまう。
 口の中のものを飲み込めば、また一口分が顔の前に差し出された。そうしてそれを、咀嚼する。食べたくなくても、その繰り返しで鍋の中身はどんどん減っていった。
 やらなければいけない事があるのに、布団に入ったままのんびりとお粥を食べている。そのずれが、ただひたすら私を焦らせる。重たい体はここに置いて、心だけで飛び出してしまいたい。
 そんな事を考えているうちに、最後の一口が私の口から入って喉の奥に落ちていった。
「全部食べたね。少し残っちゃうかと思ったけど……偉い偉い」
 大きくて硬い手の平が、私の頭を撫でる。汗でべとべとの髪を指で梳くような、優しい撫で方だった。
 床の上の土鍋に、レンゲが入れられる。お盆が持ち上げられて、茶色い裏側が頭の真上に浮いて見えた。
 高くなった彼の頭を、布団からただ見上げる。
「また後で様子見に来るから、それまでちゃんと寝てるんだよ」
 そう言い残して、彼はまたドアの向こうへと消えていった。
 音の無い部屋の中に、リズミカルな足音が届く。段々小さくなっていくのは、階段を降りているからなのだろうか。
 少し忘れかけていた怠さがぶり返してきて、布団に体を倒した。ぼすりと頭が枕に受け止められる。
 お腹が空いていたわけではないのに食べたからか、体の中に食べたものがぎゅうぎゅうに詰まっているようだ。それに頭もぼんやりとしている。大きく息を吐けば、肺の中の熱い空気が部屋に混ざっていった。
 ここから出なければ。立って、歩いて、外へ。
 そう考えているうちに、いつの間にか視界はまた群青色の闇に覆われていた。瞼が閉じている。そう気付いた時には開く気にもなれなくて、また眠気の海の中に沈んでいった。



 枕に顔を擦り付けてから目を開くと、雨戸の隙間から差し込む光はオレンジ色に染まっていた。
 朝より体はずっと軽くなっている。起き上がることすら辛かったのが、嘘のようだ。ただその代わりにやけに息苦しかった。鼻の通りがとても悪い。口から大きく息を吸うと、喉の奥が呼吸で乾いて変な味がした。
 布団から抜け出して、ドアの前に立つ。そっと耳を当ててみても、物音は何も聞こえない。彼がいると、いつも何か音が聞こえてくるからよく分かる。今はどこかへ出掛けたのだろうか。それが何故かは分からないけれど、とにかく出ていくなら今しかない。
 ドアノブを掴んで、そっと押す。キイ、と蝶番がこすれる音が小さく鳴って、ドアは開いた。
 隙間から覗くと、部屋と同じフローリングの上にいくつも段ボールが積み重なっていた。数えてみると六つ。それほど廊下は長くないのに、他の部屋に続くドアの前にも置かれている。
 そういえば物置にしていた空き部屋に、取っておくものをああやって段ボールに詰めて置いていた。私を寝かせるために、わざわざ段ボールを出したのだろうか。だとしても、それは優しいからじゃない。きっとそうだ。
 更にドアを開いて、部屋と廊下の境目をまたいだ。静かな中に、心臓の音がうるさく響いている。
階段は部屋を出てすぐ、右側にあった。
 手すりを掴んで、そっと足を出す。きっと彼は留守だけど、どこからバレるのか分からないから慎重に。音が鳴らないよう、一段ずつ下りていく。
 階段が終われば、左右にドアが一つずつ。右がトイレで、左が洗面所だ。
 そして、正面には外へ続く玄関。
 あそこを出れば。外に出て、誰かに会えたら。そうすれば私は逃げられる。
 家で一番大きなドアに駆け寄ろうとした足が、ふと止まる。彼は一体、どうして私を閉じ込めていたんだろう。
 私は彼から殴られたりはしなかった。ただ、彼はこの家の中で私に優しくしていただけだ。些細な言葉に喜んだり、悲しんだり。
 振り返って玄関に背を向ければ、リビングのドアが少しだけ開いているのが見えた。
 今なら隠されていた彼の何かが、あそこにあるかもしれない。
 大丈夫。少しだけ。少し覗いたら、すぐにここを出よう。それくらいならきっと間に合うから。
 リビングに入るとなんだか甘いような、でもお菓子とかではない臭いが私の鼻に流れ込んできた。 嫌な臭いだけど、どこかで嗅いだことがある気がする。火曜日のゴミ出しを手伝った時とか。
 見回してみても、変わったところは何もない。記憶と同じ家具に、窓から入った夕日の光が映っていた。
 電話が乗っている棚の取っ手を掴む。滑りが悪い引き出しは、レールが引っかかったら少し戻してもう一度引くと、ちゃんと開いた。
 中にはプラスチックのかごに仕切られて、薬が入った瓶や箱が並んでいる。細かい字で難しいことが色々書いているけど、多分いつも使っていた風邪薬や胃腸薬だろう。他の引き出しも探してみるけど、印鑑や今までもらった年賀状、銀行の通帳が出てくるばかりで、彼のものは何も見つからなかった。
 他のところを探してみようと、食卓テーブルの横を通った時。ふと綺麗に片付いた上に一枚だけ置いてある紙の、大きく書かれた漢字が目に入った。
「登校、許可証……?」
 その下には細かい字で色々書いてあり、真ん中には四角の中に何かを書く部分がある。アルファベットのシーの上に小さな丸があるから、温度を計るのだろうか。
 紙を元のテーブルに置いて、次はキッチンを見てみようかと思った時。ドアの向こうからガチャリと重たい金属の音が鳴った。
 足が竦む。どこかへ隠れなければと思うのに、動かない体の中で胸だけが内側から叩いている。
 廊下からリビングを隠すドアが開かれる。喉の奥から、悲鳴になり損ねた息が音を立てた。
「──あれ、どうしたの? 起きちゃった?」
 優しい声が、少し硬くなって私の耳に刺さる。足元を見たまま、顔が上げられない。
「あの、その……喉、かわいちゃって……」
「ああ、そっか。部屋に飲み物置いておけば良かった。ごめんね。今体温計と一緒に色々いいもの買ってきたんだ。スポーツドリンクとか、お茶とか。お水もあるよ」
 矢継ぎ早に飛んでくる言葉と一緒に、テーブルの上に物が置かれていく。
 私が返事に悩んでいると、彼は更に口を開いた。
「キッチンは今ちょっとゴミを溜めちゃってるから、入っちゃだめだよ。熱は下がってきたみたいだけどインフルエンザだもん、清潔な場所で安静にしてないと。大丈夫、学校も一週間くらいは欠席扱いにならないって」
 楽になって良かったね。そう言いながら、俯いたままの頭を大きな手が撫でる。
 喉が渇いたと言った手前、何か飲まなくてはいけない。テーブルの上から、水が入ったペットボトルを取った。
 キャップを握って捻る。いくら力を込めても、なかなか開く気配は無い。
「ほら、貸してごらん」
 彼はそう言うと、私の手からペットボトルを取り上げた。そして軽く捻って、また私の手の中に戻す。キャップはちゃんと開いていた。
 ありがとう、と言おうとして開きかけた唇に、慌てて飲み口を付けた。冷たい水が干乾びた喉を通っていく感覚が気持ちよくて、気付けば中身は半分くらい減っていた。
「本当に喉渇いてたんだ。ううん、妹ちゃんにそんな我慢させるなんて、兄失格だなあ」
 照れたように笑う声に、思わず彼の顔を見上げる。この人は何を言っているんだろう。
 私に兄なんか、いないのに。
「さ、そろそろお部屋に戻ろうか。もうアンクレットも付け直して大丈夫だよね」
 買い物に持って行ったらしい鞄の中から、鉄で出来た輪とそれを繋ぐ鎖が出てきた。
 そっと、跪いた彼が私の右足を取る。足首に輪が通されて、揺れる鎖がじゃらりと音を立てた。
 二日振りの重みが戻ってきた。
「二階のあの部屋、妹ちゃんの新しい部屋にしようと思ってるんだ。今は何も無いけど、これから妹ちゃんに相応しい家具を集めていくから。ちょっと我慢しててね」
 楽しそうに笑いかける彼に、私は何も返さない。
 私がここに、自分の家に監禁されてから、もう二週間が経つ。

造花葬 ( No.9 )
日時: 2018/06/13 21:35
名前: 葉鹿 澪

 造花の中に眠るその顔は、世界で一番幸せそうな寝顔に見えた。

「それでは、最後のお別れとなります」

 喪服の葬儀屋が小さな窓を閉じると、憎たらしい顔も見えなくなった。
 最後。最後ってなんだろう。もう起きることのない人間に何か言って、何になるんだろう。
 私の言葉があの真っ白な皮膚に染み込んで、肉の隙間を埋めて血管の中にまで満ちるなら、どんなことでも、何度だって言うのに。
 すすり泣く声も惜しむ声も、ただ空気の振動になって消えていくのだ。その鼓膜すら揺らさずに。
 重く分厚い鉄が口を開き、白木の箱を飲み込んでいく。てっきり中は炎が燃え盛っているのかと思っていたけど、ずっと燃えているわけではないようだ。ただ、それでも熱い風が私の頬を微かに焼いた。
 もし、今駆け出して、あの棺に縋りつき、一緒に灰になってしまえたら。
 私の体が急に透けて、二人を隔てる全てを通り過ぎ、小さな箱の中で寄り添って目を閉じる。
 ごうごうと唸る熱に囲まれながら冷たい皮膚と私の肌が触れ合って、溶けて一つになっていく。細胞膜はもう邪魔をしない。
 白木は火を灯し、放たれた紙の花弁は白から赤へと色を変える。その美しさに、私は息を吸うのもやめて見惚れるのだ。そうか、彼はこれが見たかったから、造花を選んだのだ。
 彼の頬に朱が差す。あぁ、いつもの夜だ。白いシーツの上で、彼の上に寝そべる私を見上げるその顔。私は心を擽られて、笑い出す。
 喉はもう焼けている。それで良い。私の言葉はきっと一足先に飛んで行ったのだろう。今頃彼の言葉と一緒になって、戯れているのだ。
 彼の白装束も私の黒いワンピースも、とっくのとうに消えてしまった。剥き出しの肉で、歯を見せて笑いながら触れ合う。貴方のこんな奥深くを知っているのは私だけ。私のこんな恥ずかしいところを見るのは貴方だけ。それは遂に、永遠になった。
 唇も無くなった口でキスをする。ずっとこうしていよう。二人で一緒に。
 私と彼の骨はきっと区別がつかなくなって、同じ骨壺に入れられる。暗く狭いところで、ゆっくり眠ろう。どこへも行けなくなったまま。
 造花は次々に焼け落ちていく。私の眼も彼の枕元へ零れ落ちた。
 真っ赤に染まった視界の中、同じ温度になった彼に寄り添う。
 全てはただ、作られた花のように。

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