複雑・ファジー小説

棺桶には千寿菊を一輪
日時: 2018/09/19 18:40
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc

何を使うかは貴方次第。
出会いと別れは時の機運。
如何に在ろうと貴方は自在。

貴方が果たすべきはたった一つ。
溢れる物を、殺すこと。


***


 人の身を得た器物とそれを殺す人の話


**


【目録】

《付録》
人物録 >>1
用語録 >>2

《本録》
零:天球儀  >>3
一:包丁   >>4
二:探照灯  >>5
三:“粗悪品” >>6
四:舞台照明 >>7
五:西洋躑躅 >>8
六:水薬   >>9
七:戦友   >>10
八:裁ち鋏  >>11
九:双子   >>12
十:試し切り >>13
十一:緒戦  >>14
十二:墓守  >>15
十三:十字架 >>16
十四:墓地  >>17
十五:曇天  >>18
十六:柱時計 >>19
十七:約束  >>20
十八:懐中時計>>21
十九:月夜  >>22
二十:葬列者 >>23
二十一:速写帳>>24
二十二:黒電話>>25
二十三:老探偵>>26
二十四:遺影 >>27
二十五:預言 >>28
二十六:廃物 >>29
二十七:袋小路>>30
二十八:遺志 >>31
二十九:価値 >>32
三十 :救済 >>33
三十一:乳母車>>34
三十二:図書館>>35
三十三:司書 >>36
三十四:未熟物>>37
三十五:代理子>>38
三十六:人足 >>41
三十七:邂逅 >>42
三十八:警告 >>43
三十九:事故 >>44
四十 :幻像 >>45-46
四十一:案内人>>47-48
四十二:傷痕 >>49
四十三:水場 >>50
四十四:一休み>>51
四十五:追跡行>>52

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棺桶には千寿菊を一輪――四十二:傷痕 ( No.49 )
日時: 2018/09/05 19:28
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

四十二:傷痕


「嗚呼ッ臭ェ……何で俺がこんな奴背負ってかなきゃなんねェんだよ」
「君が一番力持ちだからに決まってるじゃないか。担架は衛生第一、ケイは怪我で既に医院の中、スペクトラは女性のエスコートって言う大事な任務があるし、僕やベルは膂力の点で言えばもやしだからね」
「澄まし顔で正論叩きつけてくるから嫌いなんだよクソが。畜生、此処にスティンが居れば……ッ!」

 元の通りに聳える壁の内、駅のホームや道端に並べられ、青シートを被せられた人や物――黒タグが付けられたものの間を、アザレア達は医院に向けて歩いていた。
 先頭はアーミラリと、失神したまま目を覚まさない“廃物”を背負ったフリッカー。その後ろをピンズら女性とベル、鬱々と黙りこくったクロッキーが歩き、しんがりにスペクトラ、そしてアザレアが並ぶ。物殺しが敢えて後ろに位置付けたのは、その歩みが度々止まるせいだ。
 即ち、息絶え事切れた物の手を組ませ、一輪ずつ花を添えていく為に。特権の多用に憔悴しきった横顔の、しかし消え入ることなき虎目石の輝きに、スペクトラは口を出すこともできない。ひどく痛ましげに、一回一回立ち止まっては献花し、哀悼しては追いつく為に小走る姿を、彼はただ見ていることしか出来なかった。
 そうした道行きを十数分続け、横たわる遺体が無くなったところで、一行は歩みを止める。見上げれば、目に映るのは古びた医院。夜になれば暗くなるその窓は、しかし今ばかりは何処も煌々として、中の忙しさを声高に叫んでいる。ぁあ、と溜息混じりの声を零すフリッカーの、その背に滲むのは、護り通せなかった失意か諦観か。
 漂う暗い空気を、間の抜けた柏手が打ち払った。

「ファーマシィー、物殺しのお嬢ちゃんのお帰りだぞぉー」

 まるで空気の読めない声音は、果たして素の性格によって放たれたものか。朗々と、そうとても朗々と響き渡った鐘楼の呼び声に、返るは無情な静寂が十数秒。けれどもベルは何処か確信を秘めたる佇まいで、医院の入り口に両足を突っ張ったまま動かない。そのまま妙な緊張の漂う沈黙が続き、やがて外来を塞がれることに痺れを切らしたのか、面倒臭そうな重い足音が院内から響いた。
 閉ざされていたドアが開く。来客を出迎えるは、しかし医院の長でなく。猫が頑張ってやっと通れるほどの隙間を、大した苦もなく通り抜けた頭は、散剤を包んだ薬包紙である。シンシャに相違なかった。
 人手不足に駆り出されたのだろう、ドアを開け放して全身を見せた薬師の白衣は、所々に血がはねて滲んでいる。光量を絞って照らす探照灯の光を厭わしげに遮り、紡いだ声には疲労が隠せない。

「どうしたのぉ皆して。ファーム今大忙しで手ぇ離されへんし、床の空きかて一つもあらへんよ。野宿しぃや野宿」
「うるせー、こっちだって死にそうな奴が二人もいるんだい。それでなくたってフリちゃんが小便臭くて滅入ってんだ、湯殿貸せや」
「せやから無理やってぇ。シャワー室も給湯室も、僕らの仮眠室もぜぇんぶ怪我人寝かすんに使ってしもたわ」

 応酬は軽薄で何処か緊張感がない。ひとまず忙しさの峠は越えたらしいと、その声音が雄弁だった。
 だからと言ってシンシャの言葉に嘘があるわけでもない。少ない病室は怪我人で溢れ返り、予備のベッドも全て出され、それでも足りずに怪我の軽い物はベッドサイドに転がされている始末。医師達の仮眠する場所すら、もう此処には残されていないのだ。
 むむう、と芝居がかった調子で唸る。腕を組み、重い頭に引きずられぬよう注意しながら仰け反るベルの横、ずいと前に出たのは、それまで手持ち無沙汰に突っ立っていた天球儀だった。

「二十分でいいんだ。それ以外のことは僕が面倒を見る。だから、これだけ洗わせて貰えれば助かるんだけど」
「……十五分や。タグの軽い子に退いてもらう。けどそれっきりよ、ええな?」
「構わない。皆もそれでいいね?」

 否と言える空気ではない。先に外堀を埋めておいて何を今更と、一行は苦いものを堪えながら頷いた。対するシンシャは、何も言わずに扉の内へとものどもを手招いたかと思うと、ふいっと踵を返して医院の奥へと小走りに消えていく。
 背を見送るのに言葉は要らない。自然漂う静寂を埋めるのは、立ち尽くす誰の声でもない。そこまで気の利いたものは、この場に一人もいなかった。
 ならばこの微かなざわめきは――

「ぅ、あ……ぁ……」
「ぃた、い……助け……」

 床に隙間なく寝かされた人びとの、弱々しい呻き声だ。

「ひ……っ」
「ピンズ、平気? 見ない方が」
「ごめ、ごめんなさ……わたし……」

 暗きに沈むもの達に恐れを成し、引きつった悲鳴がピンズから上がる。真正面から縋り付いたアザレアの肩をぎゅうっと強く握り締め、乾いた嗚咽を漏らすその背を、少女の手がただ労わるように摩った。
 いくら気丈であろうと、彼女はやはりただ普通の仕立て屋に過ぎない。なればこそかくも異常な状況では恐れもするし、泣きたくもなるだろう。死体と流血に慣れすぎた物殺しの方が、本来は異様なのだ。
 早く来てくれとばかり物殺しが念ずれば、果たして事態を進めに掛かったのは、ステッキに体重を預けて立っていたアーミラリ。チカチカと内の小球を青く明滅させながら、やおら二人の傍までやって来た彼は、やおらピンズに手を差し出した。え、とか細い声に不安を滲ます仕立て屋に、案内人の声は冷たく響く。

「この先此処はもっと悲惨だ。ピンズ、耐える気力がないなら先に送るよ」
「何処へ……? 独りは、嫌よ」
「僕の家へ。今日はトバリと息女が来ててね、一人が怖いなら彼等と喋っても構わない。それとも、此処で怪我人の声に怯えながら待っているかい」

 悉く正論で、けれど神経を逆撫でするような口調で。アーミラリが出した提案を、ピンズは微かに頷くことで受け入れた。彼女は結局一仕立て屋の小娘に過ぎず、斯様な状況に晒されて耐え切れるほどの精神は持ち合わせていない。一刻も早くこの過酷な現実から離れたかった。
 握り締めていたアザレアの肩を苦労して引き剥がし、差し出されたままの案内人の手を恐々と取る。手袋越しに握ったそれは硬く骨張り、長らく執筆に従事した――恐らくは何千枚もの論文を手書きした――であろう凝りを、仕立て屋の手の内に感じさせた。

「お疲れ気味だわね」
「まあね。……行くよ」

 ええ、と。
 溜息のようなピンズの声を最後に、二人の姿は陽炎を踏んだように揺らいで掻き消える。あっと驚く暇もない。
 呆然としてアザレアが二人のいた場所を眺めていれば、しばしの間の後、重い足音が階段を降りてくる。見上げた先には白衣を纏う五十男。ごぽり、と大きな気泡で水面を騒がせつつ、ゆっくりと下り来た医院の主は、憔悴した様子で一行を見回した。
 視線はフリッカーの背にぐったりともたれかかる“廃物”で止まる。呆れ気味の一笑が喉の奥から溢れた。

「シンシャから大体話は聞いているよ。……が、その、何だ。いくらなんでもそれを十五分では洗えんだろう。場所は空けたから時間は気にしなくていい、湯責めにしてやれ」
「良いのか? シンシャが何ていうか分かんねェぞ」
「構わん構わん、此処は私の医院だ」

 さっさとしろ、とばかり手をひらひらさせ、ファーマシーはすぐに踵を返した。残された一行は、少々の当惑を秘めた視線をそれぞれ交わし合い、その一瞬で皆が同じ結論を出したと再認。素直に医師の後ろをついていく。短いようで長いその道行きの間に、口をついて出る話題は一つ。

「湯責めはいいがよ、誰がこれ洗うんだ。俺ァもう嫌だぞこんなのの面倒見んの」
「俺パス。曲がりなりにも“粗悪品”だべ、襲われたら太刀打ちできねぇ」
「私も、ちょぉっと怖いわぁ。ベルくんよりは逃げ足速い自信あるけど、逃げちゃダメだと思うしぃ……」

 打ち合わせたように口々を突いて出る責任逃れの言葉ども。
 これに呆れたのはスペクトラだ。よくもまあ押し付ける気満々で言えたものだと、溜息を隠そうともせず頭を抱えた。

「嗚呼もう……皆そう言うと思っていましたよ。いいです、俺が」
「私がやります」

 俺がやりますと、最後まで言わせることはなく。
 何やら彼女なりの考えを秘めているであろう、漣一つなく澄んだアザレアの声に、誰から反論があるわけでもない。
 すんなりと議題に結論が出され、そこでファーマシーの足も丁度止まった。

「彼の服は此方で何とかする。気兼ねせずに引っぺがして構わないよ」
「剥がした後の服はどうするんですか?」
「そのまま廃棄処分したいところだが……少し思うところがあってね。知り合いに頼んで洗い張りをしてもらおうと思う」
「分かりました。そのつもりでやります」

 意思確認は簡潔に。アザレアの返答に頼んだとばかり大きく頷き、ファーマシーは残った仕事を片付けるべく脱衣所を出て行く。その後ろ姿が閉まった扉の向こうに消えると同時、フリッカーが背中の男を床へ投げ下ろした。どだん、と中々に乱雑な音を立て、背とテレビの頭をぶつけたらしい“廃物”が僅かに身動ぐ。諌めようとした物殺しの声は聞かない。ただでさえ“案内人特権”を使い疲労していると言うのに、“粗悪品”紛いの物の面倒を長々と見ていられるほど、精神的に余裕があるわけではないのだ。
 ずかずかと大股で部屋を辞したフリッカー、その背を追ってベルも出ていき、流されるようにニトとクロッキーも追従。一人残ったスペクトラが、何かもの言いたげにアザレアを見つめた。
 眩しからぬ程度に絞られた照明の光が、色素の薄い肌と瞳と、落ちかかる長い髪を暗きに映し出す。表情にこそ疲憊の色が浮かべど、宿る意思の強さは変わりない。先刻外で見せた横顔と、何一つ。
 故にこそ、危うい。

「もう休んでくださいアザレアさん。明らかに特権を使いすぎです。限界でしょう」
「いいや駄目です。私にしか出来ないことなので」
「それでも!……貴女の身は貴女だけのものじゃない。無茶をしないでください」
「いーぇー、無茶なんてしてないですよ。全然」

 気にするなと、浮かべた柔らかな笑みだけが雄弁だった。
 気勢を削がれ、言葉に詰まる。一度論が途切れてしまえば、最早趨勢が黙った方へ傾くことはない。大人しく手を引かざるを得なかった。どうにも止められなかった口惜しさと、本当に任せてよいのかという心配と――入り混じった感情に鈍る足を無理に動かし、最後に一度物殺しの方を顧みかけて、止める。止められないものを無理に引き留めることは、スペクトラには出来ない。
 振り千切るような早足で出て行く、その急いた足音だけを聞きながら、アザレアは床に転がされた男の傍に膝を折る。落とされた衝撃で目が覚めたのか、壊れかかったテレビの画面に砂嵐を途切れ途切れ吐き出しながら、彼は起こした上体を壁にもたせかけていた。
 よく考えれば、今から服を剥がすのは三十代の男で、己は女子高生である。とんでもない絵面になってしまったものだが、請け負ってくれる物を追い出してしまった以上、腹を括るしかない。冷酷な物殺しとしての精神に意識を切り替えて、アザレアは男に飛びかかった。

「――っ、ぃッ――!」

 物殺しの剣幕に恐れをなしたか、男は急に変わった空気に肩を震わせ、掴みかかろうとした手を払いのける。その思いもよらぬ力強さにたじろぎかけ、されど怯めば逃げられると思考を切り替えて、アザレアはしっかと肩を掴んで握りしめた。

「大人しくしててください。なるべくすぐ終わらせますから」
「……、……?」

 意味が分からない、といった風な様子。けれども構わない。首元にぶら下がるネクタイに指を掛け、手前に引く。固く結んでいたのか、或いは結び目が汚れで固まっていたのか、かなりの抵抗と共にようやく外れた。手の内に収まった、雑巾も同然のネクタイを何処に置いておこうかと迷って、今は脱がすことが先決と床に投げる。時間が経つほど恥ずかしくなってきそうな気がしたのだ。
 ともすれば赤面しそうになる顔面を努めて真顔に保ちつつ、割れたシャツのボタンを外していく。この期に及んでもまだ何をされているのか分からないのか、男はされるがまま。外し終わったアザレアが背後に周り、スーツの上とシャツを脱がさんと腕を後ろに回させたときも、何が何やらと言った風に固まって動かない。しかしながら、少女の手が勢いよくスーツとシャツを剥ぎ取ったとき、何か良からぬことをされていると気付いたようだ。露わになった自分の上半身を抱きすくめ、男は信じられないとでも言いたげに、激しく砂嵐を吐く画面を二、三度明滅させた。

「……!? ヴ……ぁ゛……!」
「ごめんなさいホント、すぐ終わらせますから! 逃げないでっ!」
「――……! ――、――!?」

 両手で床を掻き逃げる半裸の男と、その前に立ち塞がる決死の形相の少女。何処からどう見ても不審な構図である。つくづく人がいなくて良かったと思いつつ、アザレアは視界の端で捉えたバスタオルを数枚引っ掴んで一枚を広げ、這いずる“廃物”の頭へ向かって被せた。視界を封じてしまえば――物が何処でどうものを見ているかはともかく、意識を少しでも逸らしてしまえば――此方のものだ。パニックに陥り動きを止めた男の、腰に引っ掛かったスラックスと下着をむんずとばかり両手で掴み、

「そィやあああッ!!」

 裂帛の気合と共にひん剥いた。

「ヒィャァアア――――!?」

 直後に響き渡るは朗々たる悲鳴。見た目三十代の男が出すものとも思えぬ、甲高い悲哀と恐怖たっぷりのそれに、物殺しは怯まずとも外がたじろいだ。
 どうした、と切迫した声を上げドアを開けたのはファーマシー。手に提げた紙袋の中に入っているのは、先程何とかすると言っていた男の服であろうか。男の悲鳴を少女のそれと思い、大急ぎで駆け付けて来た彼は、全裸の男を羽交い締めにして風呂場に引っ張り込もうとする少女の、般若もかくやの形相に凍り付く。

「……ァザレア?」
「はい?」
「いや、何だ。あまり怖がらせるんじゃないぞ……」

 一体何を。そう聞きかけた喉は、輝き衰えぬ鳶色の眼に射抜かれて潰れ。辛うじて絞り出した言葉に楽しげな微笑みを返した少女を、医師は見送るしかなかった。
 扉が閉まり、灯りが点く。磨りガラスの向こう、床の上で蠢くものを隅に追い詰める着衣の後ろ姿が、覚悟せよとばかりにぎゅっと腕を高く捲り上げ、壁に掛かっていたシャワーヘッドを手に取った。

「……替えの服は置いておくよ」
「ありがとうございま――ぅわっこのっ、やめて下さい、止めなさいってば! コラッステイ! ステーイ!」

 ――流石に若人は元気である。
 最終的に年寄り臭い感想で落ち着いたファーマシーは、やれやれと頭を抱えながら紙袋をドアの傍に置き、剥ぎ散らかされた服の回収を始めたのだった。


「……――、…………」

 散々逃げ惑い、白魚の踊り食いよろしくのたうち回った挙句、男は浴槽の蓋に頭を押し付けられてようやく大人しくなった。
 あまりにも暴れる為に頭にはバスタオルを被せられ、起き上がらぬようにと水入りの盥で重石までされている始末。猫か何かかと呆れながら、アザレアは不明瞭な呻き声を上げる男の身体に、ぬるく調節したシャワーをゆっくりと浴びせかける。途端、信じられないほど濁った水が白い床を這い、流石のアザレアも怯んだ。
 頭はともかく、首から下は控えめに言っても不潔の極みだ。これが知性を持ち人間のように動く物であるとは到底信じがたい。人――少なくとも、物に命を吹き込めるほど大切に扱えるような――が、果たしてこれほどの汚穢を許容できるのかと問われれば、物殺しは否と答えるだろう。
 眉根を寄せつつ肩口から湯を流し、大雑把に汚れを落としていく。諦めたのか力尽きたのか、ぐったりと垂れた手にも湯を流し、指先に凝る血を洗い落とした。

「……、ッ、ぁが……ッ!」
「動かないで、我慢してください」

 干からびてこびり付いた血と膿が混じり、赤茶けた色に濁った排水が流れ去る。後には目を覆うほどに刻まれた無数の傷が痛々しい。喉の奥を突いて出そうになる溜息を堪えつつ、ふと首に目をやったアザレアは、流れ落ちる水滴の向こうに妙なものを見て出水を止めた。
 右の首筋。人で言えば頸動脈の辺りに、小さな点状の痣が浮いている。触れても痛がる素振りはなく、ただそこにぽつりとあるだけだ。しかしながら、だからと言って、みすみす見逃して良いもののようには思えなかった。
 何しろ――

「何個あるの……?」

 数が、多すぎる。
 軽く数えただけでも十個以上が、悉く首の血管周りに集中しているとなれば。これは最早、自然な要因で付けられたものとは言えまい。人為的に付けられたものであることは恐らく確実であるし、このような傷を作るであろう行為の予想も、聡明な彼女には付いていた。
 血管の周囲に偏在する、小さな点状の、傷。

「……針の痕よね、これ」

 己の呟きが、微かな水音と共に床へ滑り落ち。
 同時に脳裏で、いつかの付き人の声が反復する。

 ――普通に知性を持っていた物が、何らかの理由で知性を失いかけた成れの果て。

 何故、今この状況で、キーンの言葉を思い出したのか。それは分からない。
 けれどもそれが素っ頓狂な想起でないと、物殺しは否定できなかった。

棺桶には千寿菊を一輪――四十三:水場 ( No.50 )
日時: 2018/09/05 19:24
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

四十三:水場


 ――大きな捨て犬を洗う気分。
 四回ほど洗っては流しを繰り返し、すっかり意気消沈した男を浴室から引き出して拭き、ファーマシーが見繕ってくれた服をどうにかして着せ。水に濡らせぬテレビの頭を乾拭きまでして、ようやく一仕事を終えたアザレアが、最終的に抱いた感想はそんなものだった。
 酷かった見た目もきちんと洗えば存外良くなるもので、今の彼はその辺りを普通に歩いている物と大して変わらない。ただ違うのは、少しばかり露出した手に見えるおびただしい傷と、未だ言葉を紡げぬほどに剥落した知性か。
 砂埃と泥に薄汚れた頭を大人しく拭かれながら、時折画面を明滅させる様に、物殺しは伝わらない意志を見る。何か考えているらしいことは確かだが、それを疎通する方法は、今のところアザレアにはない。一方的に送りつけた精一杯の好意を、相手が理解していると思い込むしかなかった。

「終わりましたよ。お疲れ様です」
「……、ぁ、……!」
「どうかして――ぅわっ」

 押さえていた頭を解放し、にっこりと笑うアザレア。その華奢な身体を、男の両腕が強く抱き締める。感極まっての行動であろうことは察しがついた。それが得体の知れないことをされ続けた恐怖のせいか、感謝の意を表明したせいかは分からないが、とにもかくにもガタガタ震えながら抱擁してくる男を、物殺しは黙って許容する。
 湯を浴びた後で上気した肌は、しかし何処か冷たい。家電の表面に触れているようだと思い、実際家電なのは間違いないかとアザレアは心中で苦笑した。
 しばらくの間そのままの体勢が続き、静かだった扉の向こうから足音が聞こえたところで、男は自然と体を離した。続けて、何かを恐れた風にアザレアの後ろへ隠れようとする。胡乱な視線がしばらく部屋中を彷徨い、やがて入り口の一点で止まった。
 視線を辿る。脱衣所の扉を開けたのは、白衣を脱いで小脇に抱え、楽なニットのベストを着込んだファーマシー。空いた手には、先程男の服を持ってきたものとはまた違う紙袋を提げていた。

「やっぱり十五分じゃ終わらなかったな」
「すいません……」
「気にしなくていいさ。しかし何だ、そう怖がらなくても良いだろうに」

 眉尻を下げ頭も下げるアザレアへ、いかにも愉快げに院長は一笑。おろおろしながら少女の背から出、またおろおろした後で行動を真似た男へ意識を移し、綺麗になったじゃないかとまた笑う。
 “廃物”――もとい、“粗悪品”。知性も理性もなく、無差別に人を襲う物をあのフリッカーが抱えてきた、と聞いて少なからず訝ったのは事実であるし、心情的にも衛生的にも立ち入らせるのはそれなりに躊躇した。しかしながら、洗ってきちんとした服を着せるだけでも印象は変わるものだ。頭の損壊が激しすぎることと彼方此方が傷だらけなこと、そして挙動不審なことを除けば、その辺りにいるただの物に見える。これなら他の物と連れ立って街路を歩いていても、“粗悪品”と勘違いされて襲われることはあるまい。
 ひとしきり男の出で立ちを観察し、少女の努力に合格点を下して、ファーマシーはアザレアに再び紙袋を押し付けた。
 今度は一体何を持ってきたものか。怪訝な顔でアザレアは中身を検める。朽葉色のストールとクリーム色のワンピース、少しばかりの柄が入ったタイツ。店のロゴが入った紙袋に、花柄のポーチまで入っている。明らかに女物の洋服や粧(めか)し道具の一揃いを袋の中に見て、少女は不審げに目を細めた。

「何処から持ってきたんですかこれ」
「少し前――ああ、君が招かれる前にピンズから渡されたものなんだがね。事情があって渡せず仕舞いだったものだ。サイズは合っていると思うが」

 こともなげに語るファーマシーに、悪びれるとか気後れがするとか言う感情は見えない。丁度良さそうな衣服があったから今に乗じて捌けてしまおうと、本心からそう思っているに違いなかった。そこに、アザレアは言いようもない苛立ちを覚える。
 深い、深い溜息一つ。キッと眦を決して睨み上げた目の鋭さに、ファーマシーは無意識の内に後退った。

「ファーマシーさんって、意外と無神経ですね」
「何だって?」
「どう考えたってこれピンズのお友達宛の服でしょ。そんなの着られません」
「……贈る相手が既に居ないとしても、同じことを言えば良いのかね」

 今度はアザレアがたじろぐ番だった。今が幸いと低い声が反駁を紡ぐ。

「五年以上は前だ。その間ずっと新品のまま此処にあった。それがどういう意味か、君なら分かるだろう?」
「ですが!」
「何かの記念品として取っておけとでも言う気か? それこそ無神経だ。彼女は物殺しに殺されて居なくなったと言うのに!」

 ――これはただの女性物の洋服で、ただ着られる為に作られたものだ。それ以上でも以下でもない。
 ――そうだと思い込ませてくれ。あんな忌まわしい過去を、服一枚に思い出させられるなんて御免だ。

 熊の肝でも舐めたかと言わんばかりの苦々しい声で吐き捨て、医師の手がより強く紙袋を押し付ける。それでも尚受け取ることを躊躇った物殺しに、最早それ以上の強要はしない。床へ落ちるとさりと言う音も顧みず、半ば走るように立ち去っていった背を、アザレアは渋面のまま見送った。
 緊張の糸を引っ張ったような、引き攣れて不快な静けさ。今にも誰かに飛び掛かりそうな少女の横で、男がそっと倒れた紙袋を拾い上げる。その妙な滑らかさに、物殺しが首を捻るより早く、彼はアザレアに拾った紙袋を差し出した。

「……、ガ、ッ……ぁ」
「――分かってる、分かってます」
「ッザ――ガ、ぁ゛……ち、が……ぅ」

 霞んだ知性が否定を綴った。
 弾かれたように見上げたアザレア、その視界に、何かの画像を吐くテレビの液晶が映る。色飛びや色ずれを起こし、輪郭どころか元の色も曖昧だが、何故かそれが海であると、アザレアは直感した。
 ノイズのように海鳴りの音を吐き出しながら、男はいじらしいほどゆっくりと、何かを確かめるように言葉を紡いでいく。

「ぁザ、レァ゛? ビ……しょ、ぬ゛レ……だ、ヵ……ら……、ガ――かゼ、ひく……で、しょ?」
「――嗚呼、もう。そういうこと?」
「ん……」

 ――自分はもう濡れていない。でもそうしてくれた方はずぶ濡れも良いところ。このまま居れば風邪を引くだろう。だから、着替えたら良いんじゃないか。
 とても単純な思考回路だった。今し方目の前で交わされた会話から、何の事情や感情を汲んだわけでもない。ただ目の前の女の子が風邪を引かないかと心配し、その解決策として着替えないかと提案するだけ。幼児の如く純真無垢な言動に、アザレアは何とも居た堪れぬ心地になって、ぽりぽりとわざとらしく頬を掻く。
 否とも応とも言えないまま、状況は外から動かされた。

「お疲れ様、アザレア。それに君も」
「アーミラリさん……ケイさんも」

 大怪我をしたと言う割には元気そうな、シャツとベストだけを着た付き人の姿を目にして、ほっと安堵の息を吐く。思わず走り出しかけたアザレアの手は掴まれ、やや強引な手付きで持たされたのは紙袋。俯きがちに渡してくる男へは困ったような笑みを返して、少女は付き人と半歩の位置まで駆け寄る。
 無事で良かった、と顔を綻ばす。その頭へ、少し気だるそうにキーンの手が伸ばされた。くしゃり、と遠慮がちに髪を掻き回してくる大きさに、綻ぶ顔には少々の気恥ずかしさが混じる。

「大丈夫でしたか? ケイさん」
「いや……少し、疲れた」

 微かにかぶりを振りつつ応えた声には、言葉以上の疲労が滲んで聞こえた。普段は感情を内に隠す彼が、かくも大人しく己の不調を認めるとは。気が滅入っていると言うのは間違いではなかったらしい。
 そっと下ろされかけた手を咄嗟に両手で取る。ひゅう、と茶化すような口笛が案内人の方から聞こえてきたが、気にしない。ぐいっと己の側に腕を引けば、無理をして保っていた直立はあっさりと崩れた。動揺した風に数歩たたらを踏み、耐えきれず膝を屈し座り込んだキーンの、やや恨みがましさが篭った視線を受け止める。返したのは慈母のように柔らかい笑みと、伸ばされた両腕による抱擁。何を、と思わず身を引こうとした付き人を、しかし主はより強く腕の内に抱き寄せた。

「無茶しないでくださいケイさん。これでも私、凄ぉく心配したんですよ」
「すまない、と言えばいいのか」
「そんなの知りません」
「……すまなかった」

 顔を見せず放たれた声の熱が、否応もなしに謝罪を零させた。縫われた上に薬を打たれ、収まったはずの胸痛が再発したような気がして、耐えるように背を丸めうずくまる。
 そんな二人の肩を、無神経にも叩く手一つ。今度こそハッキリと恨めしさを籠めて見上げれば、桜色にガラス球を光らせた案内人の姿が映る。浮かぶ色が何を示しているのか、キーンは持たされた知識を少し漁って、それから面白そうに喉を鳴らした。

「そんなタマじゃないだろう」
「いやぁー……百年ご無沙汰だと流石に厳しいかなぁーこれはねぇー。うん、見てるこっちが恥ずかしいから早く立って?」
「ムードも糞もないなお前」
「そう言うフンイキは浴室じゃなくて寝室で出してくれない?」
「デリカシーも糞もないな貴様……」

 アーミラリがこんな男なのは分かり切っているのだが、それと湧き上がる感情は別の話だ。頭痛を堪えるように包丁の刃を覆う鞘を撫でつけ、肺腑から漏れる溜息を隠そうともせずに、付き人はのろのろとその場に立ち上がる。僅かな逡巡の後、惜しむように身体を離した物殺しは、案内人の方を見ない。アーミラリもまた、わざわざ少女の顔を覗き込むほど野暮ではなかった。
 状況が分からず突っ立っていた男も腕を引いて傍に寄せ、案内人は集うものどもの中心に立つ。空いた手が持つ黒いステッキが、コツコツと軽い音を二度立てた。然れども何も起きず、はてと首を傾げたアザレアの耳に、届く声は低く低く。

「目を閉じて」

 有無を言わさぬ口調にすぐさま瞼を引き下ろす。再び床を叩く音が二度。
 微かな浮遊感が三半規管を突き上げ、すぐに収まった。

「はい、大丈夫。いいよ、目開けて」

 次に声が掛かったのは、時間にしてほんの一、二秒の後。ゆっくりと目を開いた前にまず映ったのは、少し離れた位置に独り立つアーミラリの姿。
 視線を巡らす。男性らの姿は天球儀以外にない。医院の白い壁も最早なく、四方を暖色のレンガと棚が囲んでいる。木組みの天井にはランプが数個吊り下げられ、温かみのある光を足元の絨毯まで落としては、柔らかく部屋を照らしていた。
 更に観察。棚の下段に収められているのは、見るからに古い木箱や鉄箱の数々と、古今の地球儀や望遠鏡。時たまランプの光を返して眩く輝くのは、何かの賞で得たらしい楯やトロフィであろうか。いずれも地球や星をモチーフとした刻印が成され、埃一つなく燦然と棚の中央を飾っている。上段は何か見られたくないものが入っているのか、黒い天鷺絨の布が掛けられて隠されていた。
 調度は書き物机と椅子、少しばかり大きめの寝台一つ、衣装箪笥一棹。どれも手入れは行き届いているものの、使い込まれた年季が滲み出ている。少なくとも、己の部屋に置いてある寝台は此処まで渋くないだろう。
 ほえぇ、と間抜けた感嘆を最後に、アザレアは一旦意識を家主へ移した。

「あの、此処は……」
「此処は僕の家の客間。場所は尾白山(おじろさん)って言う、まあ高い山の八合目辺りだね」

 くら、と眩暈。後ろにひっくり返りそうになったのを、アザレアは何とか耐えた。
 荒野のど真ん中に位置する物の街から、それなりに高いと言う山の八合目。とんでもない大移動を、まあこともなげに語られたものである。先刻の汽車の件でも、ピンズの件でも、もっと言えば“案内人特権”を貸与された時点から、案内人の能力は思い知らされていたものの、自分で体験すると一層凄まじさが身に染みた。
 ともすれば皺が寄りそうになる眉間を揉みつつ、成程と上の空の相槌一つ。アーミラリは敢えて気にしないようにしたか、アザレアの有様に何も言わず踵を返す。細い背越しに投げられた声は、初めて出会ったときのものと何も変わらない。

「お風呂とかそう言うのは下にあるから、諸々自由に使ってくれて構わない。物はあんまり乱暴に扱わなかったら触って遊んでもいいから」
「ありがとうございます」
「うん。困ったことがあったら遠慮なく言っておくれ、出来る限りは対処する」

 それじゃあと手を一振り、家主の後ろ姿が扉の奥に消えてしまうと、後には何とも居心地の悪い静寂だけが残る。
 ふぅ、と。ずっと溜めていた息を、そっと吐き出した。


「うわっ! ニ、ニトさん」

 雨に降られ、男一人の入浴の世話までした身体でいるのは、流石に抵抗著しく。服は服だと割り切り、名も知らぬ誰かへ宛てた贈り物を抱えて浴室へ降りたアザレアを迎えるは、シャツのボタンを半分ほど開けて前を晒したニト。
 先客がいると予想はしていた。いたが、実際に見るとそれはそれで動揺するものである。後ろに数歩たたらを踏み、少女は真視界の中央へ飛び込んできた胸から、出来る限りの最速で目を逸らした。
 しかしながら、それがニトには気に入らなかったらしい。たわわな胸の下で腕を組み、誇示するように身をくねらせる。

「ちょっとぉ、何その反応」
「でっだっ、だってシャツが……!」
「女同士でしょぉ、何にも恥ずかしくないってーほらほらー」
「ゆっ、ゆさゆさしないでください! やめて! 目に毒ですーっ!」

 ゆっさゆっさと腕で押し上げる度、白いブラジャーから胸が溢れ落ちそうになる。控えめに言って標準より明らかに豊かだ。そんなものを中々の近距離で揺らされ、アザレアはあわあわしながら自分の眼を手で覆った。

「やだぁ、アザレアってばピュアッピュアじゃーん。触ってもよいのよー?」
「触りません! もうっ」

 ほれほれ、と見せつけるように近づいてくるニトを避け、ズカズカと横をすれ違って、広い脱衣所の隅へ。恨めしそうな顔で物殺しが睨めば、流石に彼女も追いかけてはこない。爪先を返して背を向け、ふんふんと鼻歌まじりに残りのボタンを外す姿を最後に、アザレアは目を逸らした。
 高く結びあげていた髪を解き、ゆったりとしたニットのワンピースを脱ぎ去る。朽葉色のハイネックと、ワンピースの下に穿いていた短いズボン、ついでに焦げ茶色のタイツも脱いで籠の中に放り込み――
 さて残りも取ってしまおうかと伸ばしかけた手は、無遠慮極まりないドアの音が強引に止めた。

「…………」
「――――」

 顔だけその方に向ける。バスタオルを巻いたニトがドアの前に仁王立ちしていた。時が止まったように凍りつく目覚まし時計の頭の奥、ドアを半分ほど開けた状態で同じく固まっていたのは、ガラス球を無軌道に偏光させた骨董品の天球儀。
 ――案内人。アーミラリ。いやそれ以前に男の姿をした物が、何の断りもなくドアを開けている。
 驚きと困惑と、それから沸々と湧いてきた羞恥と。諸々の感情は渾然となって喉に詰まり、アザレアは最早声も出せずにアーミラリを呆然と見るばかり。
 対する案内人の方はと言えば、まるで動揺の欠片もなく。立ち塞がるニトを上から下まで眺め回したかと思えば、そんな彼女へ瓶を一本差し出した。

「何これぇ」
「入浴剤。トバリの所の子から貰ったけど、どうもこう……香りがね、女性向けな感じがする。良かったら使って。後、何で部屋のど真ん中で着替えてるの君は」
「いいじゃん開放的でさー。見られたって減るもんじゃないしぃ。とりあえずこれ使うねぇ、ありがとー」

 ニトはニトでさして驚きもせず、磨りガラスの瓶をアーミラリの手から受け取る。そのまま何事もなく――アザレアの心中は嵐そのものだが、表面上は平穏に――別れかけて、ふと男の足が止まった。
 頭を巡らせ、視線をニトの肩から奥へ。脱ぎかけの状態で硬直する物殺しをちらと見たかと思うと、すぐに戻した。

「失礼、まさか一緒に入るとは思ってなかったよ。事前に確認しておくべきだった」
「はい……?」
「いやあ、人の女性って人前で肌を晒すのに抵抗あるみたいだし? ニトだけなら別に確認取らずに入ってもいいかと思ったけど、君がいるならこれから配慮すべきかと思って。別に構わないのかな」
「いっ!? いやいやいや言って下さい! 今度からは! 絶対っ!!」

 案内人の言葉は、つまり今後も浴室へ立ち入るかもしれないということだ。見られて恥ずかしいものが自分に付いているわけではない、そうは理解していても見られたくないものは見られたくないし、それがほとんど面識のない男性を対象にするなら尚更嫌だ。
 大慌てに大慌てで首を振った物殺しから、アーミラリは意識して視線を外した。

「ま、僕はどうせ一晩中仕事してるし、男どもは起きたら入るっていう話だし。後続のことはあんまり気にしないで、ゆっくりしといで」
「は、はい」
「うん、宜しい。それじゃ」

 ひらりと手を一振り、歩き去る。
 ゆっくりと閉じられるドアは、最後まで見ない。

棺桶には千寿菊を一輪――四十四:一休み ( No.51 )
日時: 2018/09/19 17:54
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

四十四:一休み


 一階、東の突き当たり。
 男達に貸し出された部屋の真下、論文や参考書が雑然と広げられたこの部屋は、他ならぬ家主の書斎である。普段は家主一人だけの占有空間、他人の出入りを禁じる個人の聖域に、今だけは他者の姿があった。
 部屋の中央に鎮座する二脚のソファ、そのそれぞれを占拠するのは、気力を使い果たして人事不省に陥った男と、同じく精根尽き果てて動かなくなったキーン。クッションを縋るように抱きしめ、或いは枕代わりに敷いて惰眠を貪る彼等に毛布を被せつつ、アーミラリは散らかった論文のコピーや本を回収してまわる。
 本は元の場所へ、論文はファイリングして本棚へ、要らないメモ書きはシュレッダーへ飲ませてゴミ箱へ。それぞれ放り込み、一息。書きかけの論文を秘めた記憶媒体をパソコンから引き抜き、机の引き出しへそっと仕舞い込んで、案内人は呟いた。

「傷の調子はどうだい、ケイ」
「良くはない」

 掠れた声と、微かな衣摺れの音。ソファに身を沈めたまま、キーンはぼんやりと天井を見上げていた。とても包丁である――しかも、明確な殺意を持って人を傷付けたことのある――とは思えない力なき姿に、案内人は肩を竦める。
 アーミラリが二千年の間に経験した限り、彼の“起こした”物は、往々にしてその超越的な強靭さを同時に引き継ぐ。こと付き人については、アザレアを護衛し教導する物として、意識的にその性質を持たせたはずだった。それが、たった一度の傷でかくも脆く崩れるとは。周囲からの影響を受けたのかもしれないが、それにしても程度が大きい気がした。包丁は他の追随や懐柔を受けぬからこそであり、簡単に感化されて在り方が変わってはならぬのだ。
 分からなければ、追及せねば気が済まない。どかりと勢いよく椅子に腰掛け、地球を模したガラス球を浅葱色に明滅させて、アーミラリは小首を傾げる。

「血は止まったんだろう? なら直に治ると思うけど」
「……治したくないのかもしれないな」
「何だいそりゃあ」

 案内人の嘲笑するような一声を、キーンは甘んじて受けた。
 自身の言動が普通の物とは一線を画すことはよく理解しているし、その在り方がアーミラリの考える付き人のそれと違うことも分かっている。そのせいであの頓狂な魔法使いの元を訪れることになり、そして散々横道に逸れ振り回された挙句、一つの答えを自身に見出した。

「俺は何処までもアザレアの付き人であって、それ以上でも以下でもない。彼女のいない世界では生きていけない。だから終わりを作りたかった。貫けば何もなく還れるような、誰でも還せるような欠陥(きず)を」
「うわちゃあ、君はそうか、そっちに行っちゃうのか……そう言うと思って知力と武力を持たせたはずなんだけどな、僕は」
「俺の存在意義はアザレアの為にしかない。仕えるのは彼女の為だけで、生きるのも彼女が物殺しを完遂するまでだけだ。貴方が俺にどんな望みを持って“起こした”か知らんが、そこは誰にも変えさせない」

 ――自分の遍く総てはアザレアに捧ぐ。もし彼女が自身に生きよと命じたとしても、彼女以外の誰かに余生を使う気はない。だが、だからと言ってアザレアに還して欲しいと強要する気もない。主にそこまで気を遣わせたくはなかった。
 キーンの導き出した結論とはつまりそう言うこと。故にこそ、他者から散々致命傷と言われた胸の傷の治癒を、彼はあえて放棄したのだ。案内人が引き継がせた不死性を否定し、万物が持つ平凡な致死性を己へ付与する為に。
 迷いも澱みもなく言い切った付き人へ、アーミラリは僅かばかり呆れた風に閉口し――ふっ、と小さく笑う。視線は部屋を一周するように彷徨い、やがて一際大きな本棚の片隅で止まった。

「本当に君は、何でも断ち切ってしまうね。命も縁も何もかも」
「俺はそう在れかしと望まれて作られた物だろう。役目を果たせているのならば、むしろ本望だ。情に流されるほどなまくらになった覚えはない。なる気もない」
「僕もそんな風に言い切ってみたいよ」

 呟くような声に、キーンは何も言わず。アーミラリ自身もまた、自嘲気味に喉を鳴らす。きしり、と椅子の軋る音だけが、それきり沈黙した二人の間に虚しく響いた。
 その軋りの余韻も消え、残った静寂を割るは微かな寝息。誰のものかと見やる先には、掛けられた毛布に巻かれて蓑虫と化した“廃物”が、赤子のように背を丸めて横たわる。余程疲れているのか、ぴくりともせず昏々と眠る様を、アーミラリは天球儀の緯度尺を撫でつけながらじっと見つめた。
 理性知性のない、一般的に言う“粗悪品”に分類される物が休息を摂ったと言う話は、長く生きているアーミラリも聞いたことがない。彼等は発見された時点で還されてしまうものだし、そもそも休むと言う発想も休めて戻る精神も元々ないのだから、当然と言えば当然の話であろう。
 しかしこの男は、安全が確保された途端眠りに就いた。それはつまり、この男に休息して戻るものがある――元々は、きちんとした理性知性のある誰かだったと言うことだ。それ自体は“案内人特権”を行使していた時点で分かっていたことであるが、この様を見てより確信が深まってゆく。
 同時に、疑問も。

「彼、何物なんだろうね」

 ――彼は誰ぞ?
 誰もが密かに考えつつも、口には出さぬ疑問。それをあっさりと口にした案内人へ、問い返したのはキーンである。

「貴方が分からないのか」
「いや、何となく予想は付いてるんだけどね。あの彼がこんな風に落ちぶれるのがちょっと考えにくくて……後、手段がさ」
「『inferinon』では?」
「それだよ」

 かつん、と。緯度尺に打ち付けた指が硬質の音を立て、チカチカと中のガラス球が赤く閃く。
 その視線は再び棚の片隅へ。一体全体何が気になるのか、親譲りの好奇心で視線を辿るも、ソファに横たわるキーンではよく見えない。小瓶であるとだけは分かるが、中に何か入っているのか否かも判ぜられなかった。
 仕方ない。ばっさりと切り捨てて、包丁は上げた頭をクッションの上へ落とす。アーミラリの言葉をぼんやりと待っていると、じきに飄々とした告白が転がってきた。

「試した、と言うより、まあ強引に接種させられたことがあるんだけど」
「前提がおかしいんだが? 誰だそれは」
「森外れの街の元領主。ま、それは良いんだよ」
「良くない」
「良いから言ってるの、とりあえず聞きなさい。……で、その『inferinon』ね。はっきり言ってあれは麻薬の度を越してる。毒だよ、ただの」

 ――どんな薬理機序があるかは僕にも把握出来ない。神経の灼けるような多幸感と、削れ落ちていく理性を身に留め置くだけで精一杯だったから。
 ――それだけならまだ良い。でも、痛苦は後からにこそ来た。
 ――幻覚と幻聴が絶え間なく襲い来た。五感はまるで役立たず、助けを呼ぼうにも全身が統御を受け付けず、そこら中を掻き毟ったと思う。陳腐な誘惑がこれまでになく甘美で、それを考えている間だけは身体が正常に動いた。
 ――これを、眠る間も無く一ヶ月。フラッシュバックが完全に消えるまでを合わせれば一年、まともに生活が送れるようになるまでには更に二年。僕でこれだ。他の物が投薬に耐えて生き延びるなんて、正直思い難い。

 アーミラリの声音は、煮えた鉛を飲まされたように苦しげだった。
 この案内人が斯様な声を上げたのは、九番目の物殺しが彼の前から姿を消した夜くらいのものだろう。自身を成していたものを喪う苦痛、それと同じだけのものを、かの物が持つ薬物にはあるのだ。
 だが。しかし。

「そんな幅の狭いことを、よもや貴方が言うとはな」

 例外は、何処にでも、造作もなく転がっている。
 この半壊したテレビもそうであろうと、キーンは最早疑わなかった。彼の周囲には、あまりにも例外と化外の物が多すぎるのだ。それは認識を変容させるにあまりにも鮮烈で、そして彼自身はその変化を受け入れるに足るだけの寛容さと柔軟さを持たされていた。
 天井の木目をなぞりながら、吐息を含めて呟く付き人。その物思う静けさに、案内人は密やかな声音で返す。

「まあ……彼の頑丈さはどうあれ、事実は此処にある。これに至る可能性も限られてる。多分君の推測の方が正しいんだろう」
「さあな。ただ何にせよ、この男が直接語らねば、真実はいつまでも闇の中だ」

 射抜くような視線は、天井から眠りこける男へと。平和な寝息を立てて横たわる姿の裏で、いかな惨禍に遭ったのか。
 今はまだ、誰にも分からない。


 やがて、キーンも疲労に耐え切れず眠りに落ち。二人分の寝息とアーミラリの指が立てる打鍵の音だけが響く室内に、おずおずとしたノック音が紛れ込んだのは、書きかけの論文を再執筆し始めて一時間ほど経ったときである。
 どうぞ、と声で許可。少しの間を空け、古い木張りの床を軋ませて、小ざっぱりした格好のクロッキーが入ってくる。最後に見たときは埃や泥で薄汚れていたように思うが、大方、女人らの後に風呂を借りたのだろう。ちらと見てそれだけ予想し、アーミラリはすぐに目の前の論文へ意識を戻した。
 リアクションの薄い部屋の主に困惑しつつも、少年の足取りは存外しっかりしている。その爪先は真っ直ぐに眠る“廃物”の方へ向けられ、やることも単純明快。慌ただしげに彼の方へ近づいたかと思うと、毛布に頭まで包まっている様にやや当惑、すぐに気を取り直して布を剥いだ。
 現れたのは、相変わらずの半壊したブラウン管テレビ。割れた液晶は電源を落として暗く、穴の空いた角からは千切れたコードが飛び出し、凹みとひび割れは目を覆わんばかりに痛々しい。しかしクロッキーは、至って冷静に頭を眺めては、時折記憶を思い起こすように頭の速写帳の小口を指の腹でなぞった。
 そして、彼は。

「……!」

 何かを、思い出す。
 弾かれたように、クロッキーは頭を上げ案内人を見た。

「ァ、あのっアーミラリッ!」
「静かに。何だい?」
「あっごめんなさ……えっと、アザレアに、ぉ、起きたら、椿通り二丁目の五番地に来て、って……その、伝えて欲しかった……だけ……」

 しどろもどろに連なる言葉に、キーボードを滑る手が止まった。
 椿通り二丁目五番地。クロッキーの――もとい、彼の親に当たる人物の住所である。とは言え、親と彼はお世辞にも仲が良いとは言えない。クロッキー自身もあまり近寄ろうとしなかったはずだが、どう言った風の吹きまわしであろう。
 流石に物個人の心情にまで彼は踏み込めない。だから、今此処で決断を下すのは、少年の確信を帯びた響きに背を押されたせいだ。

「確かに伝えよう。行っておいで」
「うん、はい……ランタン借り、ます」

 ぎこちない敬語が引っ掛かる。特段敬語を使われる覚えもなし、心変わりの理由も掴めず、とりあえずは疑問に首を捻った。

「どうしたの? そんな無理に敬語使わなくてもいいよ、気にしないからさ」
「……目上の人は敬いましょうって、学校で習ったから。アーミラリ、さん、は……ボクよりずっと歳上だし、学者さんだし。それに――」

 呻き声じみた返答が長々と喉の奥から溢れ、勢い込んで何かを話そうとしたところで、踏み留まる。どうかしたか、と案内人が問おうと頭を上げた先で、クロッキーは丁度部屋を辞そうと踵を返していた。
 咎めるようなアーミラリの視線を華奢な背に受けて、少年は何処かくすぐったそうに笑う。

「何も……聞かないんだもんな。凄いや。凄いです」

 土産と言わんばかりに続きを置いて、クロッキーはバタバタとやかましく駆け出してゆく。
 そのけたたましい足音が消え、そして家の出入り口が開け閉てされる音の余韻が部屋を流れても、アーミラリは絡められたように動けなかった。

棺桶には千寿菊を一輪――四十五:追跡行 ( No.52 )
日時: 2019/01/10 16:18
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

四十五:追跡行


 部屋中に響き渡るけたたましい目覚まし時計の音が、泥のように眠り込んでいたアザレアの目覚めであった。
 疲労の残る身体を引きずり起こし、頑固に張り付いたままの瞼を引き上げ、それでも何とか引き下ろして来ようとする睡魔は軽く頭を振って打ち払う。次第に明晰さを取り戻す意識の中に見るは、白いシャツを着崩して黒いスラックスに脚を通し、腰に給仕エプロンを掛けたニト。仕事着らしい格好に身を包んだ彼女は、七時を指す目覚まし時計の文字盤を、ぐいと勢いよく少女の顔面に近づけた。

「おはよぉ」
「……おはようございます」
「ん、おはよー。寝起き良いねぇ」
「ねむいです……」
「だろーねぇ。でもアーミラリが君のこと呼んでたしぃ、このままお休みーってのはちょっといけないと思うんだよぉ」

 アーミラリが呼んだ。その一言がまず頭に掛かる眠気を残らず吹き飛ばす。急にすっきりと晴れた脳内で、物殺しとしての怜悧さが回り始めた。
 こうなってもまだ目元にこびり付く、抗い難き瞼への重力は、ニトが何の気なしに放った続きで完全に無意味と化す。

「クロッキーくんは居ないしー“粗悪品”くんとケイさんは起きてこないしー、ベルくんとピンちゃんは起こす前に起きてるしスペックはさっさと帰っちゃうしアーミラリは徹夜してるし! もー起こし甲斐が無いなぁ皆さー! アザレアくらいしかちゃんと起きてくんないのよ、もぉ!」
「……え?」

 ――クロッキーが居ない? 何故?

 意識の端に残っていた眠気が弾け飛ぶ。考えても栓無きことと、片隅で思いつつも思考は止まらない。学の浅い、けれども深淵な聡明さを秘めた頭が全力で思考回路を駆動し、その出力結果のままにアザレアは行動を起こした。
 即ち、膝の上に掛かっていた毛布を跳ね飛ばし、寝癖が付いたままの髪を整えもせずに立ち上がって、調子よく愚痴を吐く目覚まし時計を尻目に部屋の出入り口へ向かう。にわかに焦燥感を増す空気、そのぴりついた冷たさを振り切るようにニトの横をすれ違いかけて、振り上げた腕を女の手が掴み止めた。
 後ろに引かれ、勢いを削がれた物殺しは足を杭打つ。隠しおおせぬ苛立ちを含めて睨めば、それと同じほどに強い無言の視線が跳ね返った。どこへ行くつもりだ、そう言いたげな腕に目を一瞬落とし、もう一度目覚し時計の文字盤を見つめる。

「ニトさん?」
「アザレア。あのねぇ、此処は山の上だってばぁ。アーミラリから聞いたでしょぉ? 一人じゃ絶対遭難しちゃうんだからねー」
「…………」

 意図を見透かされている。おまけに論の正当性も向こうにある。これでは無理な感情論を言ったところで押し通せはしない。素直に激昂を胸の奥に収め、改めてニトへ鳶色の双眸を向ければ、彼女はいかにも楽しそうにケタケタと笑声を零してみせた。
 そして、再び頭を近づける。覆い被さるように耳元へ文字盤を位置付けた彼女は、いつもの間延びしたそれではない、きびきびした声で言葉を綴り上げた。

「一人で何でもしようなんて考えちゃ嫌ァよ、アザレア。私の親だって私がいなけりゃ朝起きられなかったんだから。出来ないことを無理してやろうとしないの、他の人も頼ってよ。いい?」

 声音は彼女に似つかわしくない哀惜を秘めて転がり落ち、アザレアはただ、言葉もなく首を振るばかり。
 よく出来ました、と慈母の如く穏やかに笑ってみせた目覚し時計、その文字盤に描かれた銀の月と金の星が、細く射す陽光に煌めく。


 寝癖のついた髪をどうにか調伏し、ニトと共に書斎へ駆けこんできたアザレアが見たのは、南面する窓を背にパソコンのキーボードを叩く天球儀の姿。曰く徹夜したという彼の手付きは重く、文字を綴る指の動きはぎこちない。物にとって、やはり不眠というのは堪えるもののようであった。
 そんな彼は、部屋の中に二人が入ってきても、画面から目を離さず。パタパタと緩慢な打鍵音を奏でて文を打ち込んでゆき、それが章を形成し終わったところで、ようやく物殺しの方へと意識を向ける。

「おはようございます。あの――」
「クロッキーからは言伝を預かってる。『起きたら椿通り二丁目に来て欲しい』だって。理由は聞いてない」
「それはまあ、本人に聞くので良いんですけど……椿通りってどの辺ですか?」

 よく考えるまでもなく、出て不思議ではない質問だった。
 アザレアはこれまで「物の街」――もとい名生(ななし)と、ゾンネ墓地のある月の原にしか行ったことがないのだ。流石に「人の街」と呼ばれる街があることくらいは知っているものの、それが具体的にどんな地名であるかも知らなければ、ましてや中にどんなものを内包しているかなど皆目見当も付かない。精々、椿と名の付くくらいだから椿並木でもあるのかしらん、と概観を想像する程度だ。
 しかして、案内人へ向けた問いに答えたのは、一緒に入ってきた目覚まし時計の女であった。

「だぁいじょうぶ大丈夫ぅ、場所は私が案内したげるよぉ。まあどーんと構えてなさいってー」
「ぃぇ、あの、そう言うわけには……」
「どーしてぇ?」
「だって」
「いやん、仲間外れにするのぉ? 椿通りなら私よぉく知ってるよー。地図と睨めっこしながら行くより早く着くと思うなぁ」

 ねぇ、と強めに念押しされる。他人をちゃんと頼って欲しい、と懇願された身としては、最早何処にも反駁の余地はない。仕方なく、やや曖昧な表情でアザレアが了承の意を示せば、ニトは満足気に何度か首肯してみせた。
 そんな女二人をさて置き、部屋に響くは実に古風な電話のベル。パソコンや書類が山積みになった机の片隅、半ば書類に埋もれたダイヤル式の電話に、アーミラリが手を伸ばす。

「もしもし?」
“嗚呼……案内人様。良かった、御伝えしたいことが……あります”

 聞き覚えのある、然れども常ならず焦燥を滲ませた、か細くも凛とした老女の声。椿通りにある古物店の店主、もといレザのものである。
 しかしながら、クロッキーがわざわざ仲の悪い親元へ駆け出していったかと思えば、その椿通りに店を持つレザから電話が掛かってくる――かの天球儀の元に、学者でも何でもない一般人が電話を掛けるとは、つまるところ“案内人”としての彼に何か用があることと同値で、簡単に言えば緊要(きんよう)の事態が起きたことを報ずるようなものである――とは。どうにも嫌な予感を感じて、アーミラリの声は苦々しさを隠せない。

「どうしたの」
“クロッキー君が此方に来て……古い絵を、数枚預けて行かれましたわ。『椿通りの古物店に預けた絵を受け取って欲しい』と、アザレア様……? そう、物殺しの方に御伝えして……と”
「分かった、伝えておくよ」

 クロッキーが絵を抱えてレザの元へ来店し、物殺し宛てのものを預けた。それだけならば取り立てて重要なことではない。クロッキーの方からアザレアへ「予定が変わった」とでも伝えておけば済む話であるし、レザは物殺しの単語が出た程度で案内人に電話を寄越すほど肝の細い老女ではない。
 ならば、何かあったに違いなかった。恐らくは預けた少年の方に。

「それで、レザ。彼はどんな様子だったか覚えているかい?」
“――――”

 思い出せない、と言った風な沈黙ではない。言い澱んだのだ。その理由に対してもアーミラリには見当が付いていた。だがしかし、当人の口から言質を取らぬことには、正確な判断は出来ない。何を語るにも根拠を求め、それによって人に無理を強いるのは学者の悪い癖である。

「早く」

 静かに、けれど強く促せば、彼女は泣きそうに揺れる声で返答を紡いだ。

“あの、怪我を、していて……”
「どんな?」
“全身、そう……火事に遭ったようでしたわ。火傷だらけで……”

 ――予想より大分酷い。親から多少小突かれている程度であろうと高を括っていたら、まさか燃やされていたとは。嫉妬深く暴力的な傾向があるとは前々から懸念していたものの、かくも烈しく己が産んだ物に当たるものか。
 地球を模したガラス球を様々に明滅させつつ、長考。瑠璃色と菫色、時折茜色を交えた煌きは目まぐるしく、ネガティブな考えもそれと同時に乱舞する。見ている分には忙しないが、電話口のレザにもたらされるのは延々と続く沈黙ばかり。息を詰めたような気まずさはそれでも数分続き、いよいよ案内人が思案にのめり出した頃になって、受話口から零れた困惑げな声がそれを断った。

“案内人様、私は一体……どうしたらよいのでしょうか……? クロッキー君は……引き留めようとは、しましたけれど。すぐに走って行ってしまって……”
「嗚呼、すまない。レザ、巻き込まれて大変だと思うけど、君は預けられた絵の保守に努めて。多分クロッキーの親が近くで暴れてるはずだから、下手に外へ出ると君が危ない。もし何かあったら、すぐ名家の方に知らせて。僕はあまり君達に干渉できないから」
“そうしますわ。……あの、案内人様”

 静々と投げかけられる老女の呼び声。何だい、と努めて穏やかに問えば、数瞬の沈黙を挟み、決心したように軽く息を呑む音が聞こえてくる。

“物殺しの方にも、御越しの際は十分御注意を……と。椿通りは、名家の方もいらっしゃいますが……華神楽の、本拠でもありますから……先に、名家の方が見つけて下されば良いのですけれど……”
「確かに伝えておく。でもまあ、一般人に後れを取るようなどん臭い子達じゃないから、安心しておいで。君は自分の身の安全を最優先に考えなさい」
“はい……では、失礼しますわ”
「ん」

 アーミラリの生返事を最後に通話は終わり、受話器を戻した彼が物殺し達の方を見れば、虎目石の双眸と視線が合う。話は全て聞いている、そう言いたげな様に、案内人は小さく点頭した。
 理解しているならば、何度もそれに被せて言いはしない。ゆっくりと立ち上がり、机の傍に立てかけていたステッキを手に取って、アーミラリは物殺し達の前に歩み寄る。見下ろす少女達の表情に、恐怖の色はなし。これから対面するであろう大事に対して、覚悟はもう決めてあるのだろう。
 よろしい。心の中で首肯し、ステッキを掲げかけた案内人は、ドアの方から聞こえてきたけたたましい足音に手を止める。ほとんどの宿泊者が書斎に集う中、この主は最早予測しなくても明らかであろう。
 果たして、勢いよく扉を開けた向こうから現れたのは、朱塗りの柱に金の瓦止めを輝かせた鐘楼の青年。アンバランスに落ち着いた和装に身を包む彼は、見間違う余地もない。ベルである。

「よぉアーミラリ、話は盗み聞きしたぜ」
「胸張って言うことじゃない」
「良いじゃねぇかよ、俺も話に巻き込まれてやろうって言ってんだよ。ただでさえ最近物騒なんだぜ、名家と確実に顔繋ぎできるのがいた方がいいだろ? 俺サマその辺は頼りになるぜぇ」
「むぐ……確かに」

 思わず呻く。
 ベルの言葉に間違いはない。彼の人脈の広さは案内人にも引けを取らないし、そこに行動力を足せば、自由度はアーミラリよりも遥かに上だ。いつ何をするか分からない“廃物”と、いつ動けるようになるか分からない怪我人を抱えている以上、わざわざ面倒事を請け負ってくれるのならば、それを利用しない手はない。
 礼を尽くして頭を下げれば、ベルは何故だか居心地悪そうにへらりと笑ってみせた。

「よせやい、照れるじゃろ」
「土下座もしようか?」
「よせやい!」

 そっぽを向いた拍子に、かぁん、と高らかに鐘の音一つ。随分と動揺したらしい。これも慌てることがあるのかと、調子に乗って片膝を突いたアーミラリの頭の緯度尺を、ベルの両手が引っ掴んで留めた。
 やめんか、と冷めた一声。あまり面白くない冗談だったようだ。上に引っ張ってくる力に逆らわず、素直に腰を上げれば、駄目押しと言わんばかりに引っ叩かれる。

「軽々にドゲザなんか発動すんでねぇべ、案内人の名が廃るじゃろが」
「存在意義を全う出来るならプライドの一つ二つくらい投げ捨ててあげるよ」
「あー……そうな。お前さんそう言う奴だもんな。いい、良い。分かった。俺が馬鹿だったわ」

 それじゃあ、と手を振り、ベルは悠々と部屋を出て行く。やや逡巡を挟んだ後ニトも続き、最後に物殺しが追従しかけて、扉から二歩の距離ではたと足を止めた。
 振り返る。その瞳は何処か痛ましげな色を湛えて、ソファに横たわったまま動かぬ付き人を見据えた。毛布を掛けられ、浅く静かな呼吸を繰り返す様は、今しばらく彼が起きそうにないことを如実に示す。試しにアーミラリの方を見てみれば、分かっていると言わんばかりに頭を横に振られた。
 付き人は頼れない。その事実だけを認識して、アザレアは振り切るように顔を戻す。
 それきり彼女は顧みず、部屋にはただ、扉の閉じられる音だけが転がり落ちた。


 アーミラリの邸宅から続く山道を歩くこと十数分。舗装が石畳からアスファルトに変わり、車数台が停められる広場が現れたかと思えば、アザレアは瞬く間にロープウェイの前に引っ立てられていた。

「えっこっ、此処までの交通手段ってこれなんですか!?」
「そりゃーねー、山の八合目に汽車は来ないよねー。そっちの駅は麓なのよぉ。ほらほら、乗った乗ったぁ。料金はアーミラリ持ちだから気にしないでいいよぉ」
「は……うわひゃあっ!」

 返事は聞かない。半分放り込む形でゴンドラの中にアザレアを押し込み、ニトも続いて、最後にベルが乗り込む。鐘楼の手がドアを閉めて内鍵を掛ければ、図ったように内蔵のスピーカーから始動のアラームが鳴った。
 見える限り、人の姿などは見受けられない。管理小屋らしいものも無いようだが、一体どうやって動いているものか。
 降って湧いた物殺しの問いには答えず、ロープウェイは大した抵抗や音もなく、滑らかに朝の山間を下ってゆく。緩やかに動くゴンドラの窓、その向こうに目をやったアザレアは、直前までの疑問や懸念もそっちのけで嘆息していた。

「わぁ……!」

 目下に広がるは、芽吹きに一面青く染まった山々。幾筋も刻まれた渓谷が山肌に深く翳を落とし、その上を飛び渡る小鷺が、黒々とした渓谷にくっきりと白く抜き上がる。往く鳥の舳先(へさき)が向く方には、なだらかな山麓から続く平地と、そこに築かれた街が霞んだ。
 そして、広がる街の更に奥は――ただ茫洋と、黄金色に煌めく海ばかり。
 はしゃぐ子供のように窓へ貼り付き、半ば呆然とした風に、アザレアは無邪気に広がる景色に食い入る。けれども、その微笑ましき横顔の輝きは、広がる街を改めて見た途端に曇った。

「どしたい、嬢ちゃん」
「……いえ」
「いえ、じゃねぇよコラ。そんな景気悪い顔されちゃあこのベルさん、黙っちゃぁおられん。話してみなよ、俺これでも四桁年生きちゃってる系だからさ? 多分確実に解決法知ってるべ?」

 四桁年、つまりは千年以上生きている。さらりととんでもないことを暴露されたものだし、聞かされたところで見栄としか思えない軽薄さであるが、ベルの声は何処までも力強い。少なくともかなり長生きはしているであろうとは信じられる程度に。
 なればこそアザレアも素直である。窓の外から目を離し、設置された座席の上へ崩折れるように腰を落として、言葉を編む少女の顔は寂しげに笑っていた。

「物殺しの仕事がない時に来たかったなって。そう思っただけです」
「ん……」

 少しだけの沈黙。
 そして、鐘楼より返ってくるのは、

「俺の居た寺では、死者は自在だって教わったことがある。死人にも遺志があって、その遺志のままに何処でも何処までも逝けるんだと。でも、生者の道行はそうじゃない。死んだ後に自在である為に、今は堪えなきゃならないってな」

 過去の教えと、

「俺はそんなこと一度も思ったことない。命は炎で煙だ。自在に燃え伸びていく為にあるのが命だ。そうだろ、誰が来世の為に今生で土に埋められたいと思うもんか」

 現在の考えと、

「だからアザレア、お前は自在でありゃいいのさ」

 未来への導き。

Re: 棺桶には千寿菊を一輪 ( No.53 )
日時: 2019/01/10 20:50
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

 ――見られている。
 ロープウェイで二十分ほど下り、尾白山の駅に降り立ち、いざ行かんと駅を出で。瀟洒な鉄のアーチを潜って早三歩、ニトの数歩後ろを歩くアザレアが、まず感じ取ったのは人の視線だった。
 イメージ通り満開の椿が咲き誇る中、路地の間や半開きの扉から、アザレアのみを狙って数多降り注ぐ。いずれも害を成そうといったものではなく、ただ観察するだけだ。それでも、じろじろと見られては居心地も良くない。
 すすす、とさりげなく歩調を早めてニトの隣へ。少女に突き刺さる視線に気付いてか否か、何も言わず聞く体制に入った彼女の、鴇色(ときいろ)に塗られた目覚まし時計の頭へ、アザレアは潜めた声を投げかけた。

「これが“名家”って人達ですか?」
「んー? んー、多分これは華神楽の方だねぇ。まあ、ヤクザもんだけど古い組織だしぃ、名家の膝元でこっちに手ぇ出すほど馬鹿じゃないからぁ。そーね、安心していいんじゃなぁい?」
「やくざなんですよね?」
「ヤクザだねぇ」
「……大丈夫なんですよね?」
「だぁいじょうぶ平気平気ぃ。ヤクザっつったってさぁ、やってるのは同じヤクザから拐取(かいしゅ)したりとかー、裏のちょっと色っぽい見世からミカジメ回収したりとかー、まあそう言うのだしぃ。こっちには関係ないよぉ」

 ひらひらと手を振り振り、ニトは至って呑気なもの。しかしながら、あまりにも呑気な口調の言葉はいささか信用しがたく、アザレアは鳶色の視線を彷徨わせて、少し後ろを警護するように歩くベルへと助けを求める。一方のベルはと言えば、道の両側に咲き誇る紅い椿の花を眺めやるばかりで、物殺しと視線を合わせようとはしない。放り投げられたのも生返事であった。

「んー大丈夫だろー」
「ちょっと、ベルさん!」
「大丈夫だっつってんだろー? さっき言った通り、華神楽は古い保守派の裏組織だ。洞臥(ほらぶせ)やら噤(つぐみ)やらみたいな急進派と違って、堅気にゃあんまり関わんねぇ。んで、ニトちゃんは堅気、俺も堅気だしあいつらの知り合い、アザレアちゃんも勿論堅気で俺の友達。……これで襲えって方が無茶あるぜぇアザレアちゃんよ」
「そう言うものですか」
「そう言うもの。この俺サマが保証しちゃるぞ」

 な、と強い語調で念押し、首を傾げると同時、からんころんと鐘の音が二度。一拍遅れて、頭の重さに引き摺られた首から下が大きくたたらを踏む。これは転ぶか、と身構えかけたアザレアは手で制し、鐘楼はすぐに体勢を戻すと、ケラケラとからかうように笑ってみせた。
 いくら鉄の塊で重たいとは言え、流石に自分の頭だ。まさか首を傾げただけで倒れるほど馬鹿ではないし虚弱な首から下でもないし、別に体調が悪いわけでもない。昨日の接吻は高所から飛び降りた拍子に泥濘で足を滑らしただけであって、断じて己の不慣れではないのだ。
 おどけた仕草で頭の位置を戻し、再び鐘の音を二度鳴らす。同時、彼方此方に息を潜める者どもを牽制するように視線を巡らせ、一周。元の位置に戻ってきた、刹那――
 視線の終点にいた男が、血煙を上げ仰け反った。

「――な、」

 ベルの掠れた声を掻き消して、火薬の弾ける咆哮が二度。
 向けていた所と反対の窓から、二人分の短い断末魔が聞こえてくる。咄嗟に振り向けば、胸を押さえた男が、バランスを崩して窓から落ちる所。ゆっくりと重力に引かれていくその様を見届ける間もなく、更に二発。今度も意識の外から響いた銃声に混じり、血の絡む咳と何かの倒れる音が聞こえてくる。
 三秒にも満たぬ短い間に、五人。これほど銃撃に長けた者など、ベルは知らない。知っていたとしても、それは故人の話だ。ならば一体誰が、斯様な惨状を作り上げたのか。
 見つかるはずのない答えを探し、記憶を掘り起こそうと思考回路を巡らせた――ことこの場に於いて、ベルの取った行動の内間違っていたものを挙げろと言われたならば、それはこの一つに限るだろう。

「に、がっ」

 今度は、一度。
 間を置かず、融鉄で満たされたような烈しい熱が、右胸を打擲した。
 遅れてきた激痛と衝撃に全身が統御を失う。直立を保てず、石畳の上へ崩折れるように膝を突いた。呼吸が荒れ、心の臓が跳ね上がって、理性を束ねる意識の糸すらも、脈打つ度に迸る痛みと熱に掻き回されてゆく。
 酷く喉奥が苦しい。何とか取り払えぬかと一度咳き込めば、思った以上に大きな質量を持ったものが喉を通り、濡れた音を立てて石畳を赤く染めた。己が血をぶちまけたのだと気付いたのは、霞む意識を貫くような血生臭さのせいだ。
 ――誰かに、撃たれた。
 最前の疑問も相俟って混線を極めた思考回路、その千々と乱れた線が何とか正常に繋ぎ直され、辛うじて事実に行き着いたベルは、周囲の状況を確認するよりも早く声を上げていた。

「早よ、逃げぇやッ! げほっ……!」

 渾身の力で放った激声が、果たして己の望むものの耳と心に届いたか。石畳から視線を上げられなかったベルが見届けることは、遂に出来なかった。
 慣れたはずの頭の重さが、今ばかりは恨めしい。血は止め処なく溢れ出して喉を塞ぎ、胸に空いた穴から零れ落ちて、力と熱までも一緒に漏れ出して止まらぬ。視界は見る見る内に暗くなり、今やまともに石畳の模様すら見えない。何とか保っている見当識も、直に失われることになるだろう。
 だが。しかし。

「待てや、こんクソ……」

 己の隣を歩き抜けようとした足音を聞き取ることは出来たし、その服の裾を掴んで引き留める力だって、十分に残している。余力と気力と命の分配など、十五世紀近く生きてきたベルには造作もないことだ。
 しかし、そうして引き留めた何かは、彼の予想よりも遥かに冷静で。それ以上に冷酷だった。
 服を掴んでいた指に、熱を持った塊が押し付けられる。これは不味いと直感するよりも早く、銃声。同時に、親指と人差し指の感覚が、焼けた火箸を押し当てられたような熱に弾け飛んだ。

「――ッがァ゛!?」

 遅れて、痛み。容赦無く神経を灼き苛む烈しさに、喉奥から濁った悲鳴が飛び出る。指先は物理的に消し飛んでしまったのか、籠めていた力は意志に反して何処かに霧消し、掴んでいたはずのものがあっさりと指の間をすり抜けた。その隙にと遠ざかる足音と気配が、流血と激痛に暗転しかかった意識を繋ぎ留める。

「こ、んにゃろォオッ!」

 言うことを聞かない足を石畳に噛ませ、残った片手で限界まで上体を起こして、ベルは全力で跳んだ。
 然れども、腕程度で稼げる高度など知れている。地を這うように、鐘楼の屋根や瓦留めを擦りながら、繰り出された体当たりは無様極まりない。しかし、それでも誰かの足を巻き込んで、同じ無様を味わわせることには成功した。どさり、と重いものの倒れ込む音と、頭でもぶつけたか、木箱を叩きつけたような音が路面を叩き、遅れて押し込めたような吐息が転がり落ちる。どうやら、かなり情けない姿で転んだらしい。
 してやったりと心中で笑いつつ、無事な右手と指二本欠けた左手で、触れたものを抱え込む。太さからして男性の脚と予想。胸から溢れる血を擦りつけるように、深く強く捕まえる。

「へ、へへ……げほッ……こっちは、四桁年生きてんだ。簡単にゃ死んでやんねーぞ……」
「そうですか」

 今度こそ捉えた。そう確信し嗤うベルに対し、返されたのはぞっとするほど感情のない嘲笑。
 そして、両の肩への弾丸。

「ぎっ、がァッ」

 破れ鐘のような轟音が周囲の空気を二度叩き、無事だった右腕から血と熱が弾ける。瞬く間に両腕は力を失い、傷口を何か硬いもので踏み抉られたことで、ぎりぎり繋がっていた神経は完全に寸断された。
 力が抜ける。頭から路地に倒れ込み、最早庇うことも叶わぬ。かくも無粋を晒したと言うのに、かの冷然とした声の主は飄々と立ち上がり、己から離れていくようだ。

「無駄でしたね」

 静かな嘲りがベルの頭上から滴り落ちる。言い返すよすがもない。
 ――ない?
 否、そんな訳がない。

「いいや」

 あまりにはっきりとした否定を、鐘楼は投げ返した。
 ベルは何処までも前向きにしか考えない。後ろ向きな考え事は生まれた瞬間から止めた。自在でないことなど、魂が許容しないのだ。
 だからと言って、これを制圧したり排除したりするのは管轄外である。そんな事が出来るほどベルは万能ではないし、出来ているならば住所不定の浮浪者でなどいるはずもない。なれば、出来ることは一つ。渾身の力で上体を引き上げ、重い頭を首の筋肉だけで無理やり引きずり起こし、彼は真っ直ぐに襲撃者を見据えた。
 佇むは、茶色いスーツを身に纏う三十男。悠然と自動拳銃の弾倉を替え、銃床に叩き込むかのものの首から上は、白い文字盤に金の針を燦然と光らす紫檀の柱時計――つまるところベルと同じ、物。その姿は、ここ数年間で散発的に起こっている婦女暴行事件や、人物問わずに起こる薬物の乱用事件の裏に見え隠れする物の特徴と、よく似ている。
 犯人、なのだろう。突き抜けた直感と付随する諸々の感情を裡に隠し、悟られぬ程度に男の容姿を上から下まで睨(ね)め回して、ベルはその記憶を固く意識の底に縛り付けた。
 後は死なずに戻るだけで、此処で死ぬ気などはさらさらなく、そして己は生存力だけならアーミラリの次に負けない。そんな自信を確かに持ち、けれども勘付かれて嬲られぬよう表面は衰弱し果てた物を装って、老獪なる青年は血と共にしゃがれた声を吐く。

「まだじゃァ、このド阿呆……」
「そうですか」

 間を置かぬ胸への一撃。左胸にも穴が空き、辛うじて継げていた息が全て傷口から漏れ出していく。無論言葉も紡ぐための空気もなく、最早口答えすら許されない。
 それでも、彼が追い込まれることはない。活路を切り開くための手段と余力は、この細っこい身の中にまだ隠し持っている。そも、こんな男を前にして、一人の徒手空拳で挑むなど愚か物のやることだ。ベルは己が存在意義の為ならばどれだけでも計算高くなれたし、そしてどれだけでも泥臭く意地汚い行為に手を染められる男だった。
 とは言え、この柱時計を退けるための切り札は、今は近くにない。これから、遠く三キロほど先から呼び寄せなければならないものだ。しかし、それが来るまでのほんの数分程度で死ぬほどか弱い命でもない。

 つまり、負けることのない勝負である。

「へへっ……は、はは、ひひひひっ……」

 自棄を装い溢れさす笑声。言葉もなく哄笑するベルへ、男は何を思うだろうか。
 ぐったりと路上へへたり込んだ青年の喉にゆっくりと銃口が向けられ、同時に――



 遠く遠く、響き渡る鐘の音。
 教会で使われるような朗々たるものではなく、年末に寺で鳴らされる、重々しい除夜の鐘の音色である。朝早くから掻き鳴らされるそのけたたましさは、尾白山の麓から一駅分離れ、更に道を幾本か隔てた大通りの端に立つ、古い洋館の元にも届いた。
 洋館二階の角部屋、主人の傍で紅茶を淹れかけていた物の手が、ふと停止。その首から上、側面と上面に大きな傷を刻んだ金庫の頭が、未だ続く音を探るように辺りを見渡す。しかし視界の内に納得のいく音源はなく、そして三度続けて響いた鐘の音そのものすら、結論を得る前にふっつりと途切れてしまった。
 部屋を静謐が満たす。助けを求めるように、金庫の視線が主人を見つめた。

「ベルの呼び付けだろう」

 堅く張り詰めたバリトンの主は、刃で切り刻んだような険しい顔に厳《いかめ》しい表情を浮かべた、壮年の男。両の手を組み、淡褐色の瞳で遠くを睨みつけながらの言葉に、金庫頭の男も静々と頷く。
 かの軽薄な鐘楼頭の青年は、その手元で解決しがたい厄介事が転がり込む度に、頭の鐘を掻き鳴らして主人を呼び付ける。そんな彼とこの家との付き合いは長く、男が覚えている限りでは二百年にも及ぶ縁だ。そして、かの物が遠くから家のものを呼ぶときと言えば、必ずと言っていいほど事件の先触れか只中にいる時であった。ならば――
 再び漂う静謐を遮り、侍る金庫の男が、心中で組み上げた思考を形へ変える。即ち、着込んだスーツの内ポケットからメモ帳を引き出し、さらさらと文字を連ねて、領主たる男へ渡した。

『此方から動くべきと愚考致します。』
「そう思うかね? カシーレ」
『民に危難の降りかかるとき、これを斥(しりぞ)けることが名家の役目。今がその時ではないことは、御屋形様が最もよく御存知の筈。かの方が無意味に我々を呼び付けるような物でないことは、私がよく存じております。』

 連なる文字に、当主と称された男は小さく一笑。上等なスーツに包まれた膝を一打ちして、腰を沈めていたソファから立ち上がる。
 怜悧な光を帯びた双眸が、男――カシーレを見上げた。

「命令だ、カシーレ。……帰って来い」
『仰せのままに。』

 胸に手を当て、きびきびと一礼。踵を返し、カシーレは部屋を辞する。その背を横目に送り、淹れられた紅茶を含もうと杯を持ち上げかけた男の耳が、こつこつと控えめなノック音を拾い上げた。
 声のみで許可。少しの後、物怖じすることなく扉を開けて入ってきたのは、白と薄桃色のワンピースを身に纏う乳母車の幼女――何を隠そう、プラムである。小さな諸手に黒い受話器を抱えて、彼女は少しく不安げに首を傾げていた。

「おとーさま、レザばーやからおでんわ」
「嗚呼、ありがとう。ちなみに何と?」
「んっとね、“クロッキーくんのおやのけんでおでんわです”って」
「クロッキーの親……」

 何とも不穏な響きである。
 クロッキーの所有者は、病的と言わざるを得ないほど情緒不安定だ。自身の才能は誰かに取られた、そのせいで己の名声は地に落ちたと、そのような被害妄想に囚われて周囲へ当たり散らし、罵詈雑言に留まらず暴力までも他人に振るう。その暴力性は、己の経験と感情の分身であるはずのクロッキーに対してとりわけ強く、向けられる暴虐も輪を掛けて酷い。最早殺意すら抱いているであろう、そう誰もが口を揃えるほどの、激烈な否定と嫉妬がかの物の親にはある。
 度々近隣の住民やクロッキーに対して暴力沙汰を起こし、名家でも動向に神経質にならざるを得ない男。その者が、一体全体今度は何を仕出かしたものか。胸のざわめきと苛立ちを丁寧に隠しながら、男はプラムから受話器を受け取った。

「私だ」

 果たして、返答は。

“嗚呼ッ――御当主様、御助けを……!”

 老女の悲鳴の中に。



 片や。
 凶弾に倒れる間際、ベルの発した目一杯の叫声は、残る二人の婦女子を突き動かしていた。
 椿の花咲く大通りから入り込んだ裏通り、細い小路を幾度も曲がって、突き当たりが見えたと思えば壁を乗り越えその先へ。何処へ向かうかも分からぬ逃避行、その先立はニトで、アザレアは手を引かれて走りながら、複雑な道を必死で頭に叩き込んだ。
 逃げろと言われて逃げ出したものの、物殺しはあの場所にもう一度戻るつもりでいる。彼を見捨ててはいけない。ベルはまだ還ってはならぬ物だと、来る前までは無かった六感が騒ぐのだ。
 段々と薄汚れた雰囲気が目立ち始めた裏通りを走る。辿る道程はいよいよ煩雑さを増し、走り続けて息が切れて来たことも相まって、頭の中で整理するのも限界が近づきつつあった。それでもニトの走る速度が変わらないのは、彼女も必死で周りが見えていないせいか、或いは。

「アザレア、行って。此処から先は一人で」

 ベルが稼いだ時間を、使い切る為だ。

「ニトさん!?」
「ずっと真っ直ぐよアザレア。振り向かないで、この道突っ切って。出れば名家の縄張りに着くから」
「ニトさんはどうするんですか」
「私ぃ? 私はねぇ――」

 無理に普段の口調を繕いながら、そっとアザレアの背を押す。
 稼いでくれた時間はもう少しで尽きる。敢えて華神楽の縄張りの真っ只中を通っては来たが、道中に潜んでいるであろう構成員など、今から対峙する相手がこれを逐一相手にするとはとても思えない。何処か抜け道を使って追いかけて来るはずだ。なれば、稼げる時間などたかが知れている。
 だからこそ、物殺しだけは、此処で。

「お客さんの、おもてなしよ」

 有無を言わせぬ焦りを滲ませ、低く低く転がした声に、アザレアは最早何も言わなかった。高く結び上げた髪を揺らし、双眸に不安と期待を閃かせながらも、ブーツの爪先で石畳を蹴る。一度踏み出してしまえば、後はもう駆け出すだけだ。既に切れた息をまた切らし、硬い靴底で高らかな足音を響かせて、少女の細い背は瞬く間に長い小路の奥へと消えてゆく。
 一息に百メートルほどを走り抜き、速度を緩めて息継ぎ。走り出す前にと振り向きかけて、止める。ニトの禁を破って良いことは恐らくあるまい。
 裏路地の暗がりを顧みることなく、少女は小路を駆け抜け、抜けきった、刹那。

「ニトさんッ!!」

 来し方より、銃声は響きて。
 反射的に振り返り駆け出しかけた腕を、誰かの手が掴んだ。

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