複雑・ファジー小説

What A Traitor!【第2章5話更新】
日時: 2019/04/07 17:23
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: 毎週日曜日更新。時間帯未定。

全てに裏切られても守らねばならないものがあった。



【これまでのあらすじ】
 十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
 リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
 米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
 舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。



閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向(ひゅうが)です。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。

【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません

【目次】
序曲:Prelude>>1

1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)

2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
>>34>>35>>36>>37>>38(最新話)

※全話イラスト挿入

用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)

【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破(リチャード)>>14
参照3000突破(ホセ)>>21
参照4000突破(シャハラザード)>>28
1周年&リチャード誕生日>>35
参照6000突破(ホセ)>>38




※Traitor=裏切り者


since 2018.1.31

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Re: What A Traitor!【第2章1話更新】 ( No.34 )
日時: 2019/01/26 17:24
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6221.jpg



──イタリア=トーニャス、冬。

 北イタリアの山脈の麓にあるヨーロッパの旧市街トーニャスには冬が訪れていた。
 イタリア北部の山岳地帯は世界的にも有名なアルプス山脈群にも属している。トーニャスはちょうど裾野に位置していたため雪が積もるほど降るということはなかったが、周りの山々を見上げればその頂上は早々に雪を被っていた。残雪もしつこく、真夏でも視界の端には清らかな白がちらつく。
 夏は涼やかな山颪(やまおろし)も冬には凶器でしかない、トーニャスは厳冬の町だ。
 山から吹き下ろす木枯らしは橙の煉瓦路地を通り抜けてあたたかな色をした小さな町を冷やした。
 アルプスの尾根で生まれた冬の空っ風はトーニャスの町を遊び場にする。冷気の手はもつれあうように道会う人々を撫でて、その肩を縮こまらせるたびにひゅるひゅる笑った。
 しかし前を見ていなかったせいか路地壁に勢い良くぶつかってしまうと、よろよろと針路を変え一件の銃火器専門店の看板の前であっけなく息絶えてしまった。
 その銃火器専門店の名は【トーニャス商会】という。しかし町を形成する煉瓦を纏う佇まいは仮の姿でしかなかった。 

「一週間戻らないからそのつもりで頼む」

 リチャードは重そうなトレンチコートを羽織ると端的にそう告げた。
 彼がいつも着用している洗練されたデザインの青いスーツは垂れ幕のような裾で隠されてしまう。
 リチャードの言葉を受けたホセはオフィスチェアに背を預けて短い片眉を吊り上げた。

「随分急じゃねーか」

 床につかない両足を遊ばせるその顔はどこかぶすくれていて面白くなさそうだった。
 冬の彼はオーバーサイズのアウターに身を包んでいるため平生よりも小さく見える。赤道近くの常夏の地アカプルコで育ってきた彼にトーニャスの寒さは身に染みるのだろう。何処で買ったのか中に着ている起毛のパーカーもゼブラ柄のワンポイントが入っている。
 彼のデスク後ろにあるスペースにはマフラーに手袋や耳当てなど数々の防寒具が置いてあった。暖房を効かせた室内でも指先が冷たいのか、リングを嵌めた指を擦り合わせている。
 リチャードは支度の手を止め、ホセに向き合った。

「そうだ、彼はいつも急でな。今朝連絡が入ったんだ」

 ホセが訝るように首を傾げると、二連の黒いネックレスはかち合って部屋に金属の音が反響した。

「どこ行くんだよ」

 ホセはどこか不機嫌そうな声色で静かに噛み付いた。
 そんな彼の問いにリチャードは微笑んでホセに答える。

「日本、広島だ」
「日本……?」

 日本、日本は知っていた。
 何故ならばホセのゼブラ柄に数々の装飾品という格好は日本のアパレルカルチャーに刺激を受けたものだったからだ。
 アカプルコで暮らしていたときに偶然日本の若者ファッションを取り上げた雑誌を目にしたのがキッカケで、ただその一回で東洋人が身に付けているものに魅了されたのだ。
 ストリートで生きる薄汚れたぼろ布を纏う当時の自分と見比べて、あの世界は眩しかった。
 首のネックレスと手首のブレスレット、そして多くのピアスが嵌まった耳を所在なさげに触って、それからハイカットのショートブーツを見る。
 日本に行くなんて羨ましい、と思う自分も正直いて。
 ホセは何も言わずに肩を竦めてしまうとオフィスチェアをくるりと一周させた。

「イタリアから広島へは直行便が出ていなくてな、ミラノから東京経由で乗り継いでいくよ。空にいる方が長いかもしれない」

 リチャードは笑ったがホセは唇を押し上げてオフィスチェアからじっと彼を見るだけだった。
 彼のひび割れた宝石のような淡いプリズムからはどこか不満げな光が分散している。
 どうしたものかなと思いつつも、リチャードはデスクで顧客リストを整理していた浩文に声を掛けた。

「浩文、留守は頼んだ」

 声を掛けられた浩文は顧客情報の詰まったファイルバインダーを静かに閉じた。
 彼は【トーニャス商会】の核を担う戦闘部のリーダーであり、ボスであるリチャードが不在の際は彼が商会を取り仕切っている。そして特に先方からの指定がない限り、戦略戦法に関する事項を練るのは浩文の役割だった。
 浩文は顔を上げると少しずり下がった眼鏡を押しあげて上司に応えた。

「イエスボス、お任せ下さい」

 頼んだとリチャードが浩文に微笑むと、ホセはじめっとした声色で再度尋ねた。

「何しに……」

 旅行の類いではないことは明白だったがそれでも尋ねずにはいられなかった。
 ホセはオフィスチェアの上で膝を抱えててそこに顔を埋めている。あの淡くて大きな瞳だけを出してリチャードをじっと伺っているのだ。
 なんだか責められている気分になるような。
 ペットを飼ったことはないが子犬に留守番を頼むときはこんな気持ちになるのだろうかと、リチャードは心の中で苦笑するしかなかった。

「旧友の顔を見てくるがてら仕事の話をしてこようと思ってな。そうだ、ホセはお土産何がいい?」

 ホセはリチャードの言葉に目を丸くして肩を強張らせた。
 彼の淡くひび割れたような瞳からは隠しきれない動揺と期待の光が漏れ出た。
 ホセの心は日本のお土産という文言に躍った。
 日本には甘くて美味しそうなものも沢山あるし、自分の好みのアパレルブランドもたくさんあればアクセサリーショップだって沢山ある。
 言いかけて、喉元で言葉を飲み込む。
 欲しいものはたくさんある。でも口から次いで出たのは心にもない言葉で。

「は、は? ガキじゃあるめーしそんなんいらねえ……馬鹿にすんな」

 ホセは短い眉を寄せて視線を彷徨わせた。
 寒さに擦り合わせていた指は無意識にお互いを突っついている。リチャードはホセに柔い視線を送って別の答えを待ったが彼はぶすくれて表情で口を閉ざしたままだった。
 そしてホセは誤魔化すようにしてアウターに顔を埋めると、オフィスチェアを爪先で蹴って時計回りにゆっくり回った。

「ふふっ本当か? そうだな、みんなは何がいいんだ? 遠慮せずに希望を言ってくれ」

 リチャードが一堂に会する商会面々にそう告げると、応接室すぐのソファに腰を落ち着けていたファティマが一番乗りに手を挙げた。
 はいはいと挙手をすると彼女の黒衣はビロードのように艶めいて、部屋の景色を鈍く映す。
 リチャードがファティマを指名すると彼女は嬉しげに眉尻を下げて明るく言った。

「はいっ! わたくしは黒いつぶつぶがいっぱい入ったライスケーキがいいです!」
「ん、ファティマは大福だな。俺も和菓子は好きだ!」

 そんな二人のやり取りを見ていたホセが小さく鳴く。

「なっ」

 浩文もファイルに綴じられた書類を捲る手を止める。
 そして暫し考え込むような素振りを見せたのち、右手を軽く挙げてリチャードに言った。

「じゃあ僕は書き消し出来るボールペンと手帳をお願いします」
「浩文は文房具か。日本製のものは使いやすいもんな!」

 二人のやり取りを受けて、ホセは潰れたような声で鳴いた。

「ななっ」

 ファティマと浩文が品物を頼んでいるあいだ、アマンダは自らのオフィスチェアに背を預けて何やらパソコンで検索を掛けているようだった。検索しては再びエンジンに打ち込み直し、検索することを繰り返す。
 しかし浩文が言い終わると同時にマウスをスクロールする指が止まった。
 そしてパソコン画面から顔を上げるとリチャードに声を掛けた。

「そうしたら熊野の化粧筆を頼めるかい? そうだ、これだよ。ずっと前から気になってたんだ」
「おっ素敵じゃないか。アマンダは熊野筆だな」

 そわそわした様子で二人のやり取りを追っていたホセは目を見開いて鳴いた。

「んななっ」

 そしてリチャードは最後残ったシンに声を掛けた。

「じゃあシンは何が良いんだ?」

 リチャードが視線を滑らすと、シンは大型マシンに繋がるキーボードを忙しなく叩いていた。
 彼は背中を丸めたままリチャードに応える。

「え? えっと、うーん。ボスにLSI(大規模集積回路)を頼む訳にもいかないしなあ……」

 そして手を止めるとシンは無精髭を擦りながら思案する仕草を見せた。
 彼のキーボードの押下音が止むと分かったが、マシンは呼吸するように作業音をごうごうと立てている。
 彼は暫くうんうん唸っていたが、液晶を見続けて腫れぼったくなった瞼を押し上げて言った。

「じゃあボクはあの葉っぱの形をした饅頭がいいな、前食べた時美味しかったから」
「テメエもあに言ってんだよ!?」
「ひっ何でボクだけ……」

 ホセが目を見開いて牙を剥くと、シンは肩をびくつかせて強張らせた。
 リチャードは途端に威勢の良くなったホセの様子を見て笑いを堪えることが出来なかった。シンはこの商会内でホセが遠慮なしに接することの出来る数少ない人間だ。
 ホセが気弱な彼に絡む図式は商会の中ではよく見られる。初めはホセがただ彼を当てつけにしているだけの険悪な関係だと思っていたが、一緒に昼食をとる姿もよく見られたしよくよく見ればホセの方が彼に懐いている様子だった。
 接し方が分からない彼はつくづく不器用だ、なんて思いながら見守ってはいるが。
 シンは怯えたように身を縮こまらせてリチャードとホセの顔を恐る恐る交互に見た。

「だ、だってボス出張に行くときいっつも僕たちにお土産買ってきてくれるから」
「あ゛!?」

 そしてホセはリチャードの方を睨むようにして振り返った。
 瞬間、音を立てて淡い縞瑪瑙と深い蒼玉がかち合う。
 淡色の瞳を囲う稜線は細められ、刃物に浮かび上がるような波紋が映る。
 しかしリチャードはホセの鋭い視線を受けて尚微笑むと肩に掛かったトレンチコートを羽織り直した。

「そうだぞホセ、遠慮するな」

 リチャードの存外柔らかな返答にホセは毒気を抜かれてしまい、大きな瞳をぱちくりするしかなかった。
 ぶかぶかのアウターの胸ぐらが彼の細い肩に滑り落ちる。
 ホセは二の句も継げずに鋸歯の据わった口をぱくぱくと動かすと不規則な呼吸が漏れ出た。

「あー、えっと、なんでもいいわけ……?」

 反して弱気な口調に変わる。
 上目遣いにおずおずと尋ねるとリチャードは朗々と笑って応えた。

「何でも言ってくれ!」 

 欲しいものと聞かれて、浮かんでは消えていく。
 インターネットで簡単に輸入出来る世の中になったとはいえ、日本では英語もスペイン語も公用語の内に入っていないためホセの欲しがるようなアイテムは手に入りづらかった。

「じゃ、じゃあ……」

 そうしてリチャードから視線を外し、真っ赤に茹で上がった顔をアウターに埋めて言った。

「日本のメンズファッション誌……がいいかな、とか」

 ごにょごにょとしょぼくれた語尾は尻すぼみになって部屋の暖気に吸い込まれていった。
 不得意なインターネットではなく、日本で流行っているファッションを紙媒体で実際に見てみたかったのだ。服装は参考にして街に出たとき自分好みの同じようなものを買えばいい。
 ホセはリチャードの表情を首元まで伺っては顔を背け、上目遣いに心配げな顔をしては頭(かぶり)を振る。 
 リチャードはメモ帳を取り出して各々の希望を書き取ると、ホセの目を見て頷いた。

「ああ分かった。 楽しみにして待っていてくれ」

 ホセがほっとしたような表情を浮かべるとシンは頬杖を突いてここぞとばかりに口を挟んだ。

「素直じゃないねぇ」
「あぁ!? ンだとテメエ表に出やがれ! その口にサルミアッキを詰めてやっかんな!!」
「わ、怖い怖い」

 牙を剥くホセを尻目にシンはわざとらしく肩を竦めて再び液晶と向き合う。ホセはもう不満げな瞳をすることもリチャードを見ることもしなかった。
 リチャードはそんな二人のやり取りを見て、安堵した表情で言った。

「それじゃあ行ってくるよ。また連絡をいれる」


 
 店から一歩出ると、待ってましたと言わんばかりに山颪はリチャードの長い金髪を掠(さら)った。
 北欧系人種的特徴を持つ容姿に違わず寒さには強かったがトーニャスもアルプスの端くれである。リチャードは肩を縮こまらせて黒の革手袋を嵌めた手をトレンチコートのポケットへ突っ込んだ。
 今日のトーニャスも曇りだ。否、冬は分厚い雲が山脈から流れ込んで太陽が顔を出す日の方が珍しくなってくる。
 金刺繍が縁取る澄んだ青の瞳に曇天が映り込んで、彼の瞳だけは雲向こうにある蒼穹を映していた。
 すれ違う者もおらず、こころなしか彩度の落ちた煉瓦路地を独り歩く。戯れに息を吐き出してみると自身の呼気は白く凍らされ、空っ風に流されていった。
 そして郊外にあるバス停まであと少し、といったところでジャケットの懐が震えた。

「ん?」

 トレンチコートの重い布を押し退けて、ジャケットの中にて震える電子端末を取る。
 取り出して液晶画面を見遣ると着信は、朝方彼に連絡をよこした【彼】その人だった。
 リチャードは一息つくと、そのまま黒革に包まれた人差し指を液晶に滑らせた。
 寒い冬はいちいち着脱しなくても良いように指先を電導繊維に変えた手袋を着用している。

「Hello,hello. This is Richard=Garko from Tognas Co.Ltd.(もしもし。【トーニャス商会】のリチャード=ガルコだ)」

 リチャードは淡雪が乗ってしまいそうなほど長い睫毛を伏せて電話越しの相手に応答した。
 彼と直接会うのは数年振りだ。年甲斐も無く戯れに軽口を叩いてしまうのはやむかたなしだろう。

「May I speak to Mr.littleboss?(リトルボスを頼めるかい?)」

 少々の間があった後、リチャードは愉快そうに肩を震わせた。
 端末から漏れ出る不愉快そうな声色もトーニャスの木枯らしに掠われて寒空に溶けていく。

「I know,I know. I'm not kidding.(ああ分かってる、分かってるよ。ふざけてなんかいないさ)」

 リチャードの赤い唇は緩く孤を描いた。
 そして、彼の名を呼ぶ。

「白蛇会直系新屋組組長補佐兼若頭の新屋萩之丞、だろ?」

Re: What A Traitor!【第2章1話更新】 ( No.35 )
日時: 2019/02/09 12:51
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6228.jpg



──日本、広島。

 刻は夜半の月が留紺の空に昇りきった頃。
 男一人、渡り廊下の欄干に肘を預けて酒を飲んでいた。
 臙脂色の羽織を着流し、肌蹴た襦袢の肩口からは水流をあしらった化粧彫りの見切りが覗いている。御猪口の中には小さな夜空が収まり、池の錦鯉は尾ひれの赤を靡かせて水と夜のあいだを泳いでいた。山からの風が吹き抜け、丁寧に手入れされた萩の植え込みの輪郭を撫でる。
 流れるような髪は夜の仄灯りを受けて艶めいている。
 そして涼やかながら香る声が一輪。
 夜風に当てられた酒漬けの月は酩酊したように揺らいでいた。

「それなら明後日には迎えをよこそう。空港でええかい?」

 男はくすりと笑って受話器の向こうの相手を窘(たしな)めた。

「冗談言いなさんな、真珠の首輪を着けたシャム猫をリムジンバスに詰めるわけにはいかんよ」

 しばらく男は笑みを浮かべて電話口の相手に受け答えしていたが、次第に柳眉を顰めるようになった。
 刃物の鋒(きっさき)を思わせる切れ長の瞳がさらに細まる。 

「あのねぇ御前様は目立つんじゃ。長い金髪に瞳の青い大男だなんて、厭でも人目についちまう。此処は広島だよ、そこんとこよおく覚えといてくれな」

 一時会話が止んでしまうと、そこで和服の男は母屋の方から何者かが接近する気配を察知した。
 庭の花鳥風月から母屋に繋がる引き戸に視線を滑らせる。
 いまこの会話を誰かに聞かれたら些か困ったことになる。特に【保守派】の人間に捕捉されたのならば厄介だ。
 なるたけ早く会話を切り上げるべく男は息を吐く。
 しかしそれでも電話向こうの相手は引き下がらないらしく、男はにわかに語気を強めた。

「ええかい? 御前様が着き次第、車を寄越すから大人しくそれに乗って屋敷に来てくれ」

 そう言い切ると男は一方的に電話を切った。
 何やら最後まで抗議していたようだが別段構うこともあるまい、と池の鯉に目を遣る。
 そして端末を懐に隠してしまうと月の入った杯に再度口をつけた。心穏やかに香り高い酒精を聞き、闇に咲く花を心で見る。
 男は渡り廊下の軋みで今しがた感じた気配が近付くのを知った。
 そして木製の足音は彼の隣で止んだ。

「ここにおられたんですかい、萩之丞様」

 馴染み深い声に名を呼ばれた和服の男、すなわち萩之丞は顔を上げた。
 夜半の月明かりに相手の輪郭は仄暗く縁取られる。

「うん? なんじゃ用かい、悪かったのう佐輔」
 
 彼の視線の先には見慣れた顔があった。
 佐輔と呼ばれた男は首を横に振って、萩之丞に一歩だけ歩み寄る。

「いえ、どこにもお姿が見られんかったもんで。若様、真冬なンにこがぁなとこにおられるとお風邪を召されますよ」

 その言葉で一挙として自らが立つ瀬を自覚させられる。
 此処は白蛇会直系新屋組本家の屋敷で、彼はこの組を預かる頭首代行だった。
 日本広島を拠点とし西日本を裏で牛耳る新屋組の若頭、新屋萩之丞。彼がその人だった。
 濡れた黒漆のような深い呂色(ろいろ)の瞳を柔く細めて差し向ける。

「ん、今日はまだ暖かいじゃろう?」
「そんなん言うてももう夜でしょうに」

 萩之丞と佐輔は乳母子(めのとご)の関係にあった。
 母親を早くに亡くした萩之丞を実母に代わって育てたのは佐輔の母親であり、同年に生まれた彼らは肉親よりも強い結びつきを以て共に生きてきた。
 物心が付く前には既に萩之丞の母は他界しており、新屋組の組長を務める実父との関係は希薄で口を利いたことも数えるほどしか無い。
 義理人情と欺瞞の狭間に生きる極道組織の中では佐輔と彼の母だけが萩之丞の家族であり、唯一の味方だった。
 佐輔は心を許せる唯一の友である、筈だったのだ。
 彼は片膝をつくと恭しく萩之丞に尋ねた。

「若様、お背中の具合は」
「一週間前に白を入れ直したばかりじゃ。まだちぃと痛むよ、情けないことにのう」

 萩之丞は臙脂染めの羽織を掛け直すと呂色の瞳を伏せた。
 新屋の跡目には自らの名に咲く花と白い大蛇が背中に彫り込まれている。
 しかし白の顔料は皮膚に馴染みやすく発色が損なわれてしまう為に、定期的且つ半永久的に色を入れ直さねばならなかった。
 広範囲にわたる大蛇を己の身に宿すにはそれ相応の負担と苦痛が伴う。白蛇と新屋の家を継ぐ者としての一種の覚悟と矜持がその慣習には現れていた。
 もう一度風が渡り廊下に吹き込むと、萩之丞は伏せた瞳を押し上げて表情の明度を上げた。

「そうじゃ佐輔。明後日友人が来るけえ、駅まで迎えに行っちゃあくれんじゃろうか」

 萩之丞がそう言うと佐輔は目を丸くしておうむ返しに尋ねた。

「──友人、ですかい」

 彼は首肯すると、御猪口を傾けて喉を鳴らした。
 酒に映り込んだ月は彼の唇に触れると波紋を受けて掻き消える。
 左手で唇を拭うと白の袖口からカイナ袖九分の刺青が覗いた。白蛇の鱗と悠然とたゆたう水は胸元から手首に至るまでその身に刻まれている。
 そして萩之丞は遙か遠くにぼんやり浮かぶ半分の月を眺めた。

「海向こうの、青い瞳をした旧友じゃ」

 海向こうの、青い瞳、といったところで佐輔は眉を顰めた。
 古来より連綿と繋がる白蛇会幹部の一族に混血があったという話を聞いてはいないし、組の内部にも中国人や韓国人の流入を認められるようになったものの青い瞳をした組合員はいない。結局のところ萩之丞が言う友人とは白蛇会と新屋組にとっては余所者でしかなかった。
 佐輔は眦(まなじり)の険を強める。

「若様、そいつぁ新屋の敷居を跨ぐに足る人間で?」

 そして身じろぎすることなく萩之丞の瞳を見据えた。
 萩之丞は目を逸らすことなく佐輔の険を受け止めていたが、にこりと笑ってみせると次いで可笑しげにくつくつと肩を揺らした。

「ふふっ佐輔、御前様は昔っから血の気が多いのう」

 そして愉快そうに顔の横で手を振ると、そのまま佐輔の肩を叩いた。

「安心せえ、そいつとは十年来の付き合いじゃ、別に怪しい人間じゃあない」

 佐輔は肩に置かれた手を一瞥して、それから息を深く吐いた。
 そして軽く身を引くと萩之丞の手がそっと離れる。
 佐輔は諦めたような口調で言いながら萩之丞から視線を外した。

「若様がそう仰られんなら」

 佐輔が後ろに身を引いて萩之丞の手から離れた。
 臙脂色の羽織と襦袢がずり落ちて、化粧彫りの水流の見切りと白蛇の鱗そしてその上に舞い散る赤紫の萩の花が露わになる。
 
 萩之丞は二人のあいだにある埋まらない距離に彷徨う手を見て呟いた。

「のう佐輔」
「何でしょう」
「昔みたいに……萩と呼んじゃあくれんのかい?」

 肩を並べ野山を遊び回っていた時分とは全く何もかもが変わってしまった。
 幼少、新しい遊び場に萩之丞の手を引いて行った佐輔はいつの間にか彼の半歩後ろを歩くようになった。少々荒っぽいがそれゆえ人を信頼させるような言葉遣いも、いつしか周囲の大人たちのように厭に恭しいものへと変わっていってしまった。
 生じた亀裂は土埃を零して崩れていく。両者の距離は広がっていくばかりだった。
 萩之丞の学生時代すなわち広島を離れている期間、それはより顕著になる。
 現当主の落し胤に過ぎない自分は名に花を押し付けられるがまま、成人すると共に白蛇をその身に宿した。
 大学卒業後広島に帰ると、唯一無二の友であった筈の佐輔は【跪いて】再び自身の前に現れた。

「それは……出来ません。乳兄弟とはいえあなたはこの組を継承する若頭で、わしゃあ若様の下に就く者に過ぎません。昔とは一切合切が変わってしまいました、いんやハナッから変わっちまうもんだったんでしょう」

 感情の一切籠もらない声だった。懐古の念すら何一つ感じられない。
 萩之丞は一瞬ぴたりと動きを止めたあと、宙に遊ぶ手を静かに下ろした。
 羽織と襦袢がぱさりと乾いた音を立てて、刺青を隠す。

「そうかい」

 萩之丞は徳利を手に取り、御猪口に傾けた。 
 とくとくと透明な液が虚を満たし、小さな空間に夜を呼ぶ。
 徳利を持ち上げた重みから冬の星々と半月が浮かぶ月見酒もいよいよ酣(たけなわ)だろう。

「佐輔。その名前に生まれて、後悔したことは?」

 答えは間髪入れずに返ってきた。

「愚問じゃあありませんか若様」

 それは幼い頃の記憶と何一つ相違ない芯のある声だった。

「この屋代佐輔、命尽き果てるまで極楽浄土……いんや冥土の果てまで若様の共を致す所存であります」

 彼の家名である屋代(やしろ)。それは新屋の字に降りかかる災を一身に受け、代わりにその身を差し出す贄になることすら厭わないというさだめを意味した。
 そして彼の名は佐輔であり、介添えをするという意の佐と人のたすけをするという意を持つ輔で構成されている。
 生まれ落ちたその瞬間から自らの自由意志など無いに等しい。
 佐輔にとってのいち個人を識別する符号など、人生の全てを新屋の為に捧げよという隠喩でしかなかった。
 彼もまた家に縛られていたのだと知ったのは、広島に帰ってきて少し経ったあとだった。
 互いに知りすぎているからこそ歩み寄れない、歩み寄ってはならない。もう後戻りなど出来ないのだから。
 面(おもて)を伏せたままの佐輔に白い御猪口が差し出された。

「どうかね一献」

 佐輔が顔を上げると、萩之丞は何も応えず昔と変わらぬ笑顔を彼に向けた。
 そして杯を顔の横まで持ち上げる。

「一人じゃどうにも虚しゅうてやれんのよ。佐輔、付き合え」

 名前という呪縛による人生の拘束か、彼の自由意志に基づいて萩之丞に仕えることを選んだのか。
 今だけは、今だけは目を瞑っていたいと思った。



──二日後、広島空港にて。

「長かった……直行便が無いというのもなかなかに堪えるな」

 リチャードは予定通り日本広島の地に、厳密に言えば空港のロビーに降り立っていた。
 国際線から降りてきたばかりの外国人は未だ多く目立ちはしないもののロビーからは東洋人の数が一気に増える。
 四方八方から視線を感じながらサングラスを中指で押し上げる。
 物珍しさからくる子どもの無垢なまなざしも、長髪の白人に対する好奇の眼差しも、少々色めきだっているような熱視線からもう慣れたものだ。

(しかし人混みに長時間いるのもあまり良くないな。早く出るか)

 今回も偽造パスポートはセーフ、手荷物検査も種々検問などどれもこれも問題無くパスした。
 商会情報部であるシンなくしてこの仕事などやっていけない。彼から頼まれていたもみじ饅頭だが少し奮発してカスタードクリーム味を沢山買って帰ってやろうか。
 なんて思いながらロビーを出ようとしたとき、前方から誰かが此方に向かってくるのを認めた。
 黒髪短髪、そして黒いスーツに身を包んだ見知らぬ日本人男性だった。

「リチャードさん……でよかったですかいねえ」

 彼は外に出ようとするリチャードの前に立ち塞がる。
 サングラス越しの青い瞳のその裏にある網膜まで突き刺してしまいそうな険のある瞳だった。
 リチャードも彼の黒い虹彩を見つめ返す。
 背丈もそれほどあるわけではなく強者特有の厳かな雰囲気も無いが彼は間違いなく切れ者だ、と彼の第六感が告げていた。

「──あなたは」

 全身黒い男はほんの一瞬、リチャードの口から日本語が飛び出したことに面喰らったような表情を見せた。

「ああ、日本語は、少しだけなら話せます」

 リチャードがそう言うと、男は微弱ながら瞳の険を抑えて口を開いた。
 ただ淡々と己の為すべき事をといったような機械的な口調で。
 人々の大小溢れ返る雑踏に塗れても特異なその響きにリチャードは合点がいった。

「わしゃあ白蛇会直系新屋組若頭補佐世話付の屋代佐輔と申す者でさ。頭首代行の萩之丞様の命であんさんを新屋組の屋敷に連れてくるように、と」 

 リチャードは彼の言葉を聞くと頬を掻いて、そして大きく嘆息した。

「結構だと言ったんだがな……」

 緊張感のないリチャードに佐輔は声を低くして語気を強めた。

「そういうわけにゃあいかんのですよ」
 
 そして踵を返すとリチャードに付いてくるようにと示した。
 確かに人がごった返すロビーの黒服の男と白人が対峙している構図は傍目から怪しすぎる。とりあえず空港から離れるほかなかった。

「裏に車を停めてます、早う乗って下さい」

 リチャードは不承不承佐輔の後に続きながら肩を落とした。
 皆へのお土産はちゃんと買えるだろうか。
 久し振りの日本と広島なのだから観光がてら彼の元へ向かおうと思っていたが。

「若様がお屋敷でお待ちです」

 やはりどうもそういうわけにはいかないらしい。

Re: What A Traitor!【第2章2話更新】 ( No.36 )
日時: 2019/03/04 03:43
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1101.jpg



 市街地から30分ほど車を走らせた場所にて、平屋建ての屋敷は厳かに佇んでいた。
 広島市内少し外れた山の麓、竹林に囲まれた日本家屋だった。
 リチャードの青い瞳に映るのはトーニャスの煉瓦と似て非なる朱色の瓦葺き。一帯の竹林は寒風を受けて清(さや)かに葉同士を擦り合わせて笑っているようだった。
 自然を観賞用に加工するのではなく、ただそこに存在する森羅万象を四季折々時の流れるままに愛でる。上から下へと流れる小川から苔むした岩までも。
 つくづく刻の移ろいが美しい国だと、そう思った。
 車を降りたリチャードは家屋の方へと向かう佐輔の背中を追った。佐輔もリチャードが後ろを付いてきているかを一瞥して確認するのみで談笑もなければ言葉を交わすことすらない。
 移動中の車内でも終止エンジン音と砂利を跳ね上げる音だけで、窓の外の景色を見遣るしかなかった。
 あまり歓迎されていないことは皆まで言わずとも分かる。
 保守的且つ閉鎖的な日本の極道組織、そこにいきなり金髪蒼眼の素性の知れない外国人が割り込んできたものだから無理もないだろう。
 付いていくがままに小さな石畳を上がると、外付けの廊下に差し当たった。
 佐輔は何かを言おうとリチャードを振り返ったが、靴を脱がねばならない作法くらいは知っている。
 日本家屋の奥、障子扉の前で立ち止まると佐輔は静かに言った。

「此方です」

 引き戸に手を掛け、そして部屋の主に声を掛ける。

「若様、佐輔です。お客様をお連れしました」

 そして手に力を込めるのを見ると、木の擦れる音と共に戸の裏に隠されていた空間が露わになる。 
 深く艶やかな呂色の髪と瞳、白の襦袢と着流しを覆う臙脂色の羽織。
 書院造りの最奥にいた彼は御猪口から唇を離すと、開かれた扉のその先、リチャードを流し見た。

「──久しいのう、リック」

 白蛇会直系新屋組組長補佐兼若頭、新屋萩之丞。
 リチャードは遂にその人と相対した。

「久しぶりだな、萩」

 佐輔は萩之丞とリチャードの両者を交互に見ると一歩引いたあと、低く言った。

「若様、じゃあわしはここらで」
「うん。ありがとう佐輔」
「いえ」

 そして彼はリチャードを残して先程の渡り廊下を引き返していった。
 リチャードはぼんやりと母屋へと繋がる曲がり角にて消える佐輔を見送る。
 萩之丞のいる離れに案内する際は摺り足気味だった彼の足取りも、今はどこか焦燥が尾を引いている。
 何か他に用事があったのだろうか。

「なあ萩、彼は──」

 萩之丞はリチャードの言葉を遮って、自身と対の方向にある一客の座布団を指し示した。

「まあ座ってくれな」

 リチャードは深く息を吐くと襖障子を閉めて、中へと足を踏み入れた。
 久方振りの藺草(いぐさ)の匂い。仄かに香るは紫煙と日本の香。
 ハンガーは見当たらなかったためトレンチコートを脱いで傍らに置くと、リチャードは藍色に染められた座布団へと腰を下ろした。
 座布団を隔ててはいるが地べたに直接腰を下ろすのはどうにも落ち着かない。
 彼の長い金糸は畳に擦れて、下降する衣擦れの中に一つ涼やかな音を落とした。

「奴は屋代佐輔、おれの乳兄弟じゃ」

 彼の名前は空港で聞いたばかりだったが、耳慣れない日本語にはおうむ返しに尋ねるしかない。

「……チキョウダイ?」

 萩之丞は首肯すると襟口を掴んで臙脂色のそれを羽織り直した。

「ああ、日本の擬制的親族関係の一つじゃ。おれとあいつは同い年でのう、早々に母親を亡くしたおれを育ててくれたのが佐輔の母親なんよ」

 そしてどこか遠い瞳でリチャードの青い瞳を見つめた。

「乳兄弟は実の兄弟姉妹よりも強い絆で結ばれると、そう言われとる」

 否。リチャードの蒼玉を透かして尚先を見ているような、そんな瞳だった。

「興味深いな」

 リチャードが頷くと萩之丞は微笑んで酒器を傾けた。
 萩之丞も普段は煙管を吸うか、酒を煽っていることが多かった。
 昵懇(じっこん)な仲であるもう一人とは人間性もまるで違うのだが類は友を呼ぶというか何とやらだろうか。
 萩之丞は喉を鳴らして、そして唇から白蘭(びゃくらん)の陶器を離す。

「もはや一般的なことじゃあないがのう。この家はね古臭いことが好きなんよ」

 萩之丞はさらさらと畳を撫でると、佐輔が去って行った二時の方向へと視線を滑らせた。
 リチャード自身、彼の身の上は理解しているつもりである。
 萩之丞との出会いは九年前、日本広島の地。例の【野犬】とメキシコシティにてネオンの夜に出会ったのと少々の時差はあるが、彼と同様に旧知の仲であった。
 しかし各地に愛人を作っては根無し草のようにふらふらしているディンゴとは異なり、腰を据えて組を取り纏めなければならない萩之丞となかなか会う機会はない。
 萩之丞は深く息を吐くと今度こそ呂色の瞳をリチャードに差し向けた。

「リック、御前様を呼びつけたのは他でもない」

 凛と立つ声を潜めて。

「これから武器を大量に要り用になるもんでのう。外から買い付けたいんよ」

 リチャードは光に透ける瞳の金刺繍をすっと細めた。
 床の間と縁側を繋ぐ座敷飾りの小窓から聞こえる小鳥の歌が空間と沈黙を埋める
 萩之丞は長い指で青い畳を小突くと緩やかに口角を上げた。

「最もドンパチのやりにくい国じゃここは。日本国内のルートではそれこそ量も質も限られてしまう」

 何かの拍子に小鳥が一斉に飛び去ったらしく、弛んでいた枝葉はしなり木々がざわめいた。

「【保守派】の人間に嗅ぎつけられると、またこれも面倒なことになるしのう」

 萩之丞は微笑んだのちに浅く息を吐いた。
 そして酒器を煽ると萩の花と白蛇の鱗をあしらった刺青が露わになる。
 彼の言葉で十を知ったリチャードは低く言った。

「と、なると……遂に始まるのか」

 小鳥の去った竹林に吹き抜ける風などなく、辺りはしんと静まりかえる。
 それの代わりに音無の冬が外に内に立ち籠めた。

「継承戦争が」

 白蛇会直系新屋組次期党首の座を巡る継承戦争。
 現在組の実権を握っているのは萩之丞で相違ないが、彼の組長就任を快く思わない者もいると耳にしたことがある。
 萩之丞を中心に利権渦巻く頭首の跡目争い、それは【白蛇継承戦争】と呼ばれていた。

「ああ」

 萩之丞は御猪口から唇を離し、それを緩慢な動作で漆塗りの盆に置く。
 そしてリチャードが入ってきたのとは別の、屋敷の中心に位置する庭園へ続く襖障子に視線を滑らせた。

「──おれ自身に戦う理由なんてもう無いんだがね」

 リチャードが新屋組の屋敷に来たのは決して今回が初めてではない。だが彼の視線の先、庭園に何があるかは失念してしまっていた。
 ただ一つだけ確かなことは彼の睫毛に深い憂いの色が乗っていること。
 再び静寂の訪れる書院造りにリチャードは口を開いた。

「それはそうと、俺がここにいるのは構わないのか? 目立つから人前に出るのは控えろといったのはお前だろう」

 訛り癖のあるバリトンボイスが角柱に跳ね返って土壁に染み入ってゆく。
 萩之丞はまばたきを一つして憂いを何処かへ仕舞ってしまうと、青い畳を撫でた。

「御前様が来ることを知っているのは佐輔とごく一部の人間じゃ。車も山道を選ぶように言うたし、保守派の人間は滅多に此処には来んよ」

 そして態とらしく色を含んだ声で甘えかかるように蠱惑的に唇をなぞった。濃黒色の瞳は輪郭の艶めいた光を灯す。

「それとも、情夫で通そうか?」
「ふふ、お戯れを若様」
「冗談さ」

 ほんの戯れに軽口を叩き合うのも随分と久しい。
 萩之丞はくつくつと肩を震わせていたが、リチャードの視線に気が付くと片眉を吊り上げて怪訝そうに尋ねた。

「何じゃ?」
「英語も綺麗なクイーンズイングリッシュだし、俺に日本語を教えてくれたときも標準語だったのにな、と思って。少し驚いたんだ」

 数日前イタリアトーニャスで連絡を受けたときも英語での会話だった。
 彼が話すのはイギリス英語だ、中でも上流階級が使用する容認発音であった。彼の英語は場末の破落戸(ごろつき)が話す米英語よりもよほど洗練された発音だった。
 【アメリカに本社がある組織】に身を置いていたのだからそれはよく分かる。
 リチャードの故郷であるシチリアは観光地以外は英語が通じない場合も多く、島内で暮らすぶんにはそこまで必要な言語ではなかった。
 学生時代にはかなりの時間を費やして勉強し、英語の話せる知人にも手助けしてもらうことで何とか実用レベルにまで押し上げた。
 イタリア語話者である自身があんなに苦労したのだから、日本語を母語とする萩之丞がそれらをマスターするのは決して容易なことではなかっただろうと考えた。

「ああ、広島弁かい?」

 萩之丞は少し考え込むような素振りを見せると、顔を上げて笑った。

「こっちで都言葉じゃと舐められるしええことないんよ。このご時世じゃあヤクザ者でもお味噌がいるんじゃと。洟垂れの時分から叩き込まれてね、都会の大学ではオーラルコミュニケーションが専攻じゃ。どうかね、似合わんじゃろう」
「そうなのか……」

 萩之丞の言う事は成る程理に適っていた。
 情報に第三者が介入してしまったならばそこには必ず不純物が混ざる。単語通りの意味も、またそうではない場合も。
 特に交渉の場では受け手による情報の差違や単語選びが誤差の範疇に収まらないこともある。
 保守的なジャパニーズマフィアである彼らだとしても英語圏の人間らと取引をしていかなければならない情勢にある以上賢い選択だとも思った。

「御前様がもう日本語に慣れとると思って使っとるんだがのう、戻した方がええかい?」
「ん。いや、大丈夫だ」

 そう返答を寄越すとリチャードは大きな身体を縮こめて革手袋を嵌めた両手を擦り合わせた。
 この部屋には暖炉も無ければエアコンも無い、一切の暖房器具が無かったのだ。

「しかし日本は寒いな。この前来たときは暑すぎるくらいだったのに」
「日本には鋭い四季があるのさ、刃物のように尖った先端で人間たちを次の時間へと追い立てる。ふふ、北欧系なんに広島の冬はやれんのかね」

 リチャードは肩を竦めて息を吐いた。

「俺はスウェーデン血統だがマルタ系シチリア生まれのシチリア育ちのイタリア人だぞ」

 萩之丞は口をへの字に曲げたリチャードに生返事をすると、彼の肩を滑り落ちる金糸を掬うように手を伸ばした。
 しかし二人の距離とその空間、その手は当然届かない。
 着流しが摺り落ちて、繊細緻密且つ雄麗な刺青が再び現れる。

「吹き下ろす冬将軍に白金の御髪が舞い、留紺の瞳は極東の真白な粉雪を映す。やはり御前様は美しい人間だね」

 美しいと四十路の男に臆面も無く言い放つとは、これではどちらが軟派なイタリア人か分からないなとリチャードは嘆息した。脈絡も無い。
 しかし萩之丞と出会ったときにそのような事を言われたような気がした記憶がある。外の肉と皮が作る美醜ではなく、もっと何か他の。
 思い出そうとすれば思い返せそうなものだが何せ彼と出会ったのも九年前だ、そして今はどうにも寒くていけない。

「俺にはその言葉が意味するところはまだよく分からないが……耳馴染みが良い、きっと綺麗な言葉なんだろう。何だ、口説いているつもりか?」

 リチャードは金刺繍の縁取りを細める。
 同じ世界に立っていても交じ入りそうにもない境界にいる彼と過ごす時間は気楽で良い。ディンゴとはまた違う毛色の時間の流れ方をする。
 萩之丞はくすりと笑って睫毛を伏せると顔の前で手を振った。

「いんや……さて、そろそろ冗談はよそうかね。久方ぶりに西洋からやって来た旧友に会えて嬉しいのさ」

 そう言うと萩之丞は盆に用意していたもう一つの御猪口に徳利を傾けた。
 ワイングラスに注ぐのとはまた違う音が畳に障子に跳ね返って鼓膜に響く。
 酒器の八分目まで注ぐとリチャードに勧めた。
 冷酒か、熱燗か。それとも生成(きな)りのぬくもりか。日本酒は正直得意では無かったが今だけは熱燗が良い。

「醉心(すいしん)じゃ、ワイングラスが似合う日本酒と名高い。きっと御前様の口にも合おうて」

 透き通った酒精は白蘭の底を真っ直ぐ映している。
 これでは温度が分からないとリチャードは右手の革手袋を外した。一瞬でも口付ければ分かろうものだが外側の器にも触れたいと思った。
 そして本当に白蛇がいたならこんな美しい鱗が生えているのだろうかと取り留めの無い事を考えながら、彼の手から小さな酒器を受け取った。

Re: What A Traitor!【第2章4話更新】 ( No.37 )
日時: 2019/03/17 00:23
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1107.jpg



 半刻の後、屋代佐輔が新屋組の屋敷から車を飛ばして辿り着いたのは広島市街地にある高級料亭付の旅館。そして目的はその最奥に位置する一室だった。
 最も奥にある【白松の間】、そこに要人はいる。
 佐輔はロビーにいた女将仲居に用件を端的に伝えると、案内の申し出も半ば強引に断り真冬だというのに玉のような汗を散らして走った。
 明日は白蛇会上層部の会合が広島市街地にて開催される。
 新屋組だけではない、枝葉のように分かれた分家それら総括元締めに値する経済共同体である白蛇会の幹部が日本中から集結するのだ。白蛇会は平和大国と謳われし日本という傀儡(くぐつ)を裏側から何本も存在する操り糸のうちの一本を引いている。戦前より連綿と繋がる開闢(かいびゃく)のルーツから法曹界と財政界に深いパイプを持つフィクサーだった。
 そのような白蛇会の幹部に属する遙か上にあたる身分の者を無理を言って留め置いたのだ、自分が遅れるわけにはいかない。
 得体の知れない白人の送迎がなければもう少し余裕があっただろうものの、そんなことを今嘆いても詮無いことだった。
 件の要人とは白蛇会直系新屋組現頭首でありながら病床に伏す新屋梅雄(シンヤ バイユウ)に代わって、組代表として明日会合に出席する男である。
 襖障子の前に立って佐輔は肩で息をしながら、呼吸を整える。 
 檜で縁取られた丸窓からは目隠しの竹林がざわついていた。

「新屋組若頭補佐世話付、屋代佐輔に御座います」

 声が上擦らないように、震えないように腹に力を入れた。胸の辺りを抑えて酸素を求める。
 そして暫く戸の前で待っていると初老の男の声が室内から応えた。

「入れ」

 僅かに嗄れた声に確かな圧を肺に内臓に感じる。
 佐輔は震える右手を左手で強く叩き、活を入れた。

「失礼します」
 
 片膝を付き襖障子を開き、低い姿勢のまま中に入り静かに閉める。
 部屋の中には男が二人いた。座椅子に座る初老の男と机に向かって忙しげに帳面を付けている白髪混じりの中年の男。
 白蛇会幹部の嵯峨島源造(サガシマ ゲンゾウ)とその控えの者、房山(フサヤマ)である。
 生唾を飲み込む。

「御館様──!」

 佐輔は初老の男、嵯峨島の足下に倒れ込むようにして両手をつくと額を畳に擦り付けた。
 房山は驚いたように肩を強張らせたが嵯峨島は眉一つ動かす事なく佐輔を見下ろす。
 そして佐輔は懇願するように呻いた。

「──考え直して、頂けたでしょうか」

 嵯峨島の横に控える男、房山は舌打ちすると怪訝な顔で土下座する佐輔を一瞥した。

「まだンなアホくせえこと言っとんのかいテメエはよ」

 房山はやおら立ち上がると、膝をついたままの佐輔の前まで進み出た。
 品定めするように高い位置から見下ろす。
 そして口角を吊り上げると体重を掛けて佐輔の後頭部を勢い良く踏みつけた。

「んぐッ……!?」

 額を強打し、畳の粗い目と皮膚が強く擦れる。
 房山は薄笑いを浮かべながら踵で何度も佐輔の頭を上から小突いた。
 足蹴にされる屈辱と額の痛みに吠えることなく歯を食い縛って耐える。今は耐えるしかなかった。
 唇を噛んで怒りとその辱めにひた耐えていると、佐輔を慮ったようでもなければ房山を窘めたわけでもないただ無感情な声が上から降ってきた。

「房山」

 嵯峨島に名前を呼ばれた房山はへらへらと笑いながら佐輔の頭から足を退けた。
 しかし頭から足を離すときにもう一度踏み込んだようで、今度は固い床に鼻っ柱を強打した。最後の一打がくるとは思わずに舌も噛む。
 だが佐輔は拳を握りしめ、未だ顔を上げなかった。

「屋代佐輔、やはりそれは新屋梅雄(シンヤ バイユウ)が三妻の子、新屋萩之丞を組長に据えるという話で相違ないか」

 嵯峨島がゆっくりと尋ねると、佐輔は怒りを犬歯で噛み殺した。
 房山は佐輔と年齢もそう変わらない。むしろ最初から屋代家の人間として新屋組に仕えていた身であり、立場的に上だった。
 しかし元新屋組の分家の者に過ぎなかった嵯峨島が故あって白蛇会幹部へと昇進するに従い、従者の房山は肩で風切って組のシマを歩くようになったのだ。
 そして嵯峨島の幹部昇進の由縁には萩之丞が関与しており、だからこそ今日、嵯峨島に会うことに決めていたのである。継承戦争が始まってしまう前に萩之丞の置かれる状況を彼なら何とか打開してくれるかもしれない、と。
 佐輔は喉奥から絞るように返事をした。

「……ありません」
「面を上げろ、屋代」

 嵯峨島の声でようやく顔を上げる。
 微かに燻る瞋怒(しんど)を瞳に宿して、決して房山を見ないようにして。
 未だ部屋に煮凝(にこご)る緊張は解けていない。
 佐輔は固唾を呑むと、乾いた声で本題を切り出した。

「御館様、白蛇会のお心変わりは……」

 明日には会合が執り行われる。
 主な議題は白蛇会直系新屋組の次期頭首継承についてである。しかし取り立てる議題など有って無いようなものだ。このままでは異議申し立ての暇も無く萩之丞は次期頭首の座から引き摺り下ろされてしまう。
 佐輔は縋るような心で嵯峨島に問いかけた。
 だが、しかし。

「無い」

 彼の解答は無慈悲にも佐輔の心臓を刺した。

「──あ」

 酷く喉が渇いてしまって突き付けられたものをうまく噛み砕いて嚥下できない。

「儂の一存では決まり申せん。しかし倣わしの通りでは梅雄殿が本妻の子息である新屋梗一郎(シンヤ キョウイチロウ)が組長の座に就くことになるだろう」

 新屋梗一郎、現在次期頭首として押し上げられているのが彼だった。
 梗一郎は今年の冬に成人を迎えた【新屋梅雄の正妻との第一子】である。しかし彼自身新屋組との実務的な繋がりは無いに等しい。
 佐輔は数年前の新屋組の親戚一同が会する場に居合わせ、梗一郎と顔を合わせていた。
 当時高校生に過ぎなかった梗一郎を一目見た印象は、狡猾。
 そして刃物の鋒を思わせる瞳の稜線はどこか萩之丞に似た雰囲気を纏っていた。
 梗一郎自身組長継承には積極的な姿勢を見せているらしく【保守派】と呼ばれる白蛇会及び新屋組関係者は彼を新屋組頭首の座につかせるべく動いている。
 嵯峨島は僅かに声の調子を落として佐輔に言った。

「病床に伏している梅雄殿も最早そう長くはあるまい。そして梗一郎が組を治めるに従って、現若頭である萩之丞は新屋組頭首継承権を失う」

 佐輔は歯を食い縛った。噛みちぎりそうになった舌から血の味が滲みてくるの感じる。
 梅雄は末期の肺ガンを患っていた。
 丁度去年の冬に一年の余命宣告を受け、そして今年の冬即ち今に至る。ガンが肺を圧迫して自発呼吸も出来ず見舞いに行っても痛み止めのモルヒネで眠っていることが多い。
 医者が言うにはもう長くはないらしい。
 彼の命は今日明日とも知れず冬は越せない、早ければ数日中もってあと数週間らしい。

「財閥解体のなされた戦後以降より伝わる白蛇会の取り決めだ。覆ることはない」

 佐輔ははくと息を吐き出してそのまま二の句を継げなかった。
 白蛇会とは戦後財閥解体以降にとある大手重化学工業会社の工作部や荒事専門の幹部らが独立し立ち上げたタカ派の経済共同体である。
 そして現在も残る些か湾曲した頭首継承のルールは組織結成黎明期の騒乱に由来するものだった。
 戦後の日本国復興と相まった波乱の時代であり、中でも武家出身である新屋家の継承戦争は苛烈の真っ只中にあった。
 現組長である梅雄の一つ前、萩之丞の祖父にあたる世代の組長継承戦争では多くの血が流れたという。会の中でも比較的大きな分家であった新屋家の二派閥化によって組織は分断、黎明は混沌を極めていた。
 そこで事態を治めるために白蛇会が定めたのはただ一つの掟、それは【現頭首の正妻の第一子】を次期頭首に据えることだった。
 萩之丞は現代になっても当時の戒律を崇拝している原理主義者らをある種の皮肉を込めて【保守派】と呼んでいた。

「──あ、あんまりじゃありませんか御館様。ここまでわしらの組を導いてきたのは若頭で、そげなむごいこと若さ……萩之丞殿への裏切りに他なりません」

 佐輔は再び畳に額を擦った。
 床に打ち付けた鼻が拉(ひしゃ)げて、口内にじゅくりと鉄錆が広がる。額がズル剥けてももう一向に構わなかった。

「御名前に花冠を押し付けられただけでなく、命潰えるまでその血を欲する白蛇をその身に宿されて、失うばっかりだったんです」

 新屋組頭首を継承する者はその名に花を表す字が入っておりそれぞれ現頭首には梅、萩之丞には萩、梗一郎には桔梗の一字を冠している。
 そして生まれ落ちたのちに与えられた萩之丞という名にも運命が紐付けられていた。
 【丞】とは遙か太古の中国唐の時代、大宝律令によって敷かれた各省の第三等官を表す言葉である。そしてそれは第三妻の子である萩之丞の境遇とおのずと重なる。
 決してそれが王の器ではないことは自明、即ち組長になる資格など生まれた瞬間から無かったと突き付けるに等しいのだ。
 しかし白蛇と組を継ぐ者としての覚悟と矜持を示す背中の大蛇は命潰えるまで宿主の肉を欲する、一生続く痛みと血を以て。

「それなンに、そげなくだらん事で若頭が組長の器やないと、そういうてしまうんですか」

 佐輔は握った拳を床に叩き付けた。瞬間、爪が掌に食い込んで皮膚が裂ける。
 不条理に忍ぶ彼の拳は震えていた。
 嵯峨島は目を細めて佐輔の言葉を反芻するように言う。

「下らんこと、か」
「下らんことです。梗一郎様が新屋組で仕事をこなしよったンならまだ、まだ飲めます。しかし梗一郎様はついこの前成人されたばかりで新屋組の内情も組長が何たるかも存知上げちゃあおらんじゃないですか」

 佐輔は臆することなく答えた。
 そして顔を上げる。

「血統がどうとか生まれた場所がなんやって言うんですか、そげなカビの生えた決まりに何の意味があるって言うんですか……」

 萩之丞の母親は現頭首の三妻といえども多婚重婚の認められていない日本の婚姻制度ではただの愛人に過ぎない。
 正妻との間には長年男児に恵まれず二番目の愛人の間には女児三人をもうけるのみで、そのような状況の中に梅雄の跡継ぎとして生まれたのが萩之丞だった。
 しかし現組長と萩之丞の母親の関係は遠距離である為に新屋組の縄張りで生まれ育った佐輔とは異なり、組の管理下の元に出生していない。
 それが【保守派】による梗一郎の組長継承を加速させた一因ともなっていた。

「義理人情を重んじ、仁義を欠くなら命に代えて。それがわしら極道もんの歩く道やないんですか……!」

 鮮血混じりの悲痛な叫びが谺する。
 暫しの沈黙が訪れた。市街地ではあるが川辺に位置する旅館である、今だけは場違い甚だしい川の潺(せせらぎ)が畳を撫でる。
 佐輔は肩で息をすると口の端から滲み出た血を乱雑に拭った。
 そして静寂を割り、川の潺に飛び込むは衣擦れの音。それに継いだのは粗雑な足音。
 佐輔は房山に胸倉を掴まれた。

「さっきから黙って聞いてりゃあこのダラズがァ──!」

 頭突きをかまされそうなほどの距離に肉薄する。しかし佐輔は身じろぎ一つすることなく房山の目を睨み返し、一言も発さなかった。
 房山は苛立たしげに舌打ちすると佐輔に拳を振り上げた。
 その時。
 
「いい加減にしろ」

 鶴の一声が房山と佐輔の間に割って入る。
 房山は半ば痙攣するようにぴくりと動きを止めた。

「房山、少々のあいだ席を外してもらえるかね」
「し、しかし」

 言い淀む房山に嵯峨島の瞳の険は強くなる。
 嵯峨島の呼称である【館】とは名門武家の棟梁を指す言葉である。
 新屋派閥から成り上がった嵯峨島の風格と威厳は否応なしに滲み出るのだろうか、それを認めた房山は生唾を飲み込んで佐輔の胸倉を乱暴に突き放した。

「分かりましたよ」

 そして房山はスーツスラックスのポケットに手を突っ込んで立ち上がるともう一度佐輔を睨んだ。
 そして反発を一つも隠さない所作で襖障子を引くと一拍の後大きな音を立てる。
 嵯峨島は房山が出て行った襖を一瞥して息を吐き、静かに切り出した。

「……さて、屋代」

 佐輔は襟と姿勢を正し、奥歯を噛む。

「はい」

 佐輔が返事をすると、嵯峨島はおもむろに座椅子から立ち上がりゆっくりと窓辺に寄った。
 そして旅館自慢だという看板付の苔むした日本庭園に視線を移す。

「彼を組長へと押し上げようとするその心もまたお前の身勝手に過ぎないのではないか?」
「──ッ!」

 佐輔は嵯峨島の言葉に息を呑んだ。

「現若頭の萩之丞は……十年前に妻を亡くしてからというものの何事に対しても無気力であろう」

 そして思わず目を見張った。
 十年経とうが忘れられないほどに大きかった彼女の存在、それは十年前の悔恨と過失に他ならない。
 しかし佐輔は何よりも【萩之丞の妻】という文言が嵯峨島の口から出てきたことに瞠目(どうもく)したのだ。

「御館様……」
「それは現若頭の傍に仕えるお前が一番分かっているだろう」

 それは一段と穏やかな口振りだった。
 佐輔は苦虫を噛み潰したような顔で下唇を噛む。
 確かに十年前に妻を亡くしてから萩之丞の心には穴がぽっかりと空いたような様子が見受けられた。
 満たしようのない虚無に、決して言葉にすることはなくとも佐輔は萩之丞の喪失感を痛いほど感じていた。
 嵯峨島は肩越しに佐輔を振り返る。
 その所作は厭に緩慢で嵯峨島と目が合った。

「だがしかし……お前の言う義侠も随分鉄臭いと思わんかね、屋代」

 佐輔は耳を疑った。

「──な、何を」
「お前と現若頭は乳兄弟だったな」

 はっと胸を衝かれる。
 嵯峨島は佐輔に正対すると、彼は口角を緩やかに上げた。 

「生まれながらにして新屋萩之丞という男の影という運命を背負っているとはなんとも難儀なことだのう」
「お前という個人の自由も無く、組と家に縛られる人生だっただろう」
「今日の談判も例外じゃあない。一挙手一投足にお前の自由意志はあるのか、屋代」

 投げかけられる問い。その眼光に見据えられて息が出来ない。
 今まで何度も考えては振り切ってきた猜疑が今更身体にしがみつく。暗い視界に現れては消えていく。
 しかしその解答など疾うの昔に決まっている、彼自身が決めたのだ。
 佐輔は刃毀れしてしまうほどに奥歯を噛み締めた。

「しかし……裏を返せば現若頭がそのまま組長に就任した暁には、その傍に控えるお前の地位も自ずと」

 そして嵯峨島を遮った。
 片膝を付き半身を引く忠義の座位で、啖呵を切るように声を張る。
 しかしその忠義は目の前にいる館の者ではなく肉親よりも近しい我が主に向けたものだった。

「わしは自らの意思で今日ここに参りました。現若頭である新屋萩之丞、他の誰でもないただ若様お一人にわしゃあこの命を捧ぐつもりでおります」

 佐輔は立ち上がった。
 掌に血は滲み、力任せに踏みつけられた後頭部は未だ痛む、不意打ちに打ち付けられた鼻は折れているかもしれない、舌だけでなく口の中はズタズタに切れているだろう。
 しかし今はどうでもよかった。

「血は繋がっておらずとも萩之丞とわしは兄弟です。いくらあなた様であろうとそれを愚弄するのを看過出来るほどわしゃ懐が広うありません」

 そして痛々しく、聞こえるかどうかの閾値の境、吐き捨てた。

「御館様──いえ、叔父貴。菫様を亡くされてから……あなた様も変わってしまったような気がします」

 嵯峨島の顔を見ることだけは出来なかった。
 全ては十年前に瓦解してしまったのだ。霞のかからない記憶の灯火は簡単に流れてはくれない。

『あの、屋代さん。はぎ……い、いえ、あの人は甘いものとか、お好きなのでしょうか……?』

 庭の菫はまだ咲く季節ではない。
 佐輔は深く息を吸って一礼した。

「ご無礼を。これにて失礼します」

 上体を起こして直ぐさま踵を返した。
 その表情には明らかな諦観が滲んでおり、唇は固く引き結ばれている。
 佐輔が襖障子に手を掛けた瞬間、嵯峨島は彼の背中に語り掛けた。
 先刻と変わらない無感情な声色だった。

「──現在、梗一郎が屋敷に向かっておる」

 嵯峨島の言葉を受けて、佐輔は冷や汗を額に浮かべた。

「今なんと……」
 
 しかし問いかけても答えは無く、彼は口元に不敵な笑みを残すのみだった。
 今現在、屋敷にはリチャードがいる。新屋組の屋敷に出入りする怪しい白人と梗一郎と鉢合わせては不味いことになる。
 佐輔は知覚するより早く【白松の間】を飛び出した。

Re: What A Traitor!【第2章5話更新】 ( No.38 )
日時: 2019/04/07 17:34
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6254.jpg



 ──同時刻、イタリア=トーニャス。

 ホセは自身のオフィスチェアに腰掛けて地に着かない足を遊ばせていた。
 商会のボスであるリチャードが日本に発って数日、面白いことは一つもない。
 代表も仕事ない中別段何をするというわけでもないが娯楽も無い田舎町に行くところなどない。
 ホセはもこもこ素材のフードに耳を埋めて、唇を尖らせて小銃のバレルを磨いていた。
 律儀にメキシコから持ってきた整備用品を使い続けてきたがそれもそろそろガタがきているようだった。今だって銃身に滑らすクロスもところどころ解れて糸くずが角から尾を引いている。
 枚数の限られた布を真っ黒になる度に洗っては汚し洗っては汚しを繰り返してきた。しかしそろそろ寿命かもしれない。
 こんなボロ布一枚にも思い出は沢山詰まっている。汚れもメキシコでの日々と家族同然の【onyx】面々と過ごした証だ。自分が商会とのダブルネームを所有していたとしても離れていても仲間なのは変わりない。
 ホセは煤けたクロスを丁寧に折り畳むと工具箱の中にそれを仕舞った。
 そして商会のオフィスをきょろきょろと見回す。
 背中を丸めてキーボードを叩いているシンはどうせ当てにはならないし、アマンダはオフィス奥の簡易医務室にいるのだろう。そして同じ戦闘部のファティマに声を掛けるのはなんだか気が引ける。
 さすれば残るのは浩文のみで。
 思えばしばしばちょっかいをかけるシンを除いてしまうとリチャード以外の面々とろくに会話した記憶すら無かった。

「おい」

 浩文はデスクトップを見つめたままで眉一つ動かそうとしない。
 特にクライアントからの指示が無い限り戦略や戦法に関する仕事の進め方を練るのは商会戦闘部の長である浩文の役割である。リチャードが日本に発ってしまう前に残りの案件は全て片付けたし今更新規の仕事は無い筈だ。
 もしかすると自分が呼ばれた事に気付いてないのかもしれないと、ホセは再度浩文に声を掛けた。

「なあ」

 しかし反応はない。

「呼んでんだろーがよ」

 液晶へと視線を落とす浩文の瞳を見据え、確実に聞こえる声量で呼び掛けるも応えは無かった。
 ホセは舌打ちをすると、自分のデスクから立ち上がり浩文の元へと詰め寄った。
 
「テメ……あに無視してんだよ」

 生まれた一触即発の空気にシンは肩を竦めてみせると視線を彷徨わせてから入力作業に戻った。マシンの大きさの関係で戦闘部の島とは少し離れた場所に独立した作業スペースを持っているものの刺々しい雰囲気はそこまでやって来ているようで、気弱な彼は伸びをしたり貧乏揺すりをしたり落ち着かない様子である。
 ホセが牙を剥くと浩文はようやく緩慢な動作でデスクトップから顔を上げる。
 そしてオフィスチェアを回転させると感情の籠もらない瞳と刺々しさを含む声音で彼に向き直った。

「僕、ちゃんと名前があるんだけど」

 彼の思わぬ返しにホセは短い眉を顰めて浩文を睨んだ。

「はァ……?」

 ホセは背が低いために椅子に座った状態の浩文とほぼ同じ目線の高さになる。見下ろす形にもなれば格好はついたのかもしれないがそれは叶わない。
 浩文は毅然とした口調で彼のヒビ割れた縞瑪瑙を半ば睨み返すようにして言った。

「ボスや【onyx】の隊長に対してはそれで通ってきたかもしれないけど僕はそうじゃない。これまでずっと思っていたけれど君はもう少し目上の者に対する礼儀を弁えるべきだ」

 浩文の言葉にホセは丸い眉をぴくりと寄せた。
 それから精一杯ドスを効かせて低く唸る。

「あ? 調子こいた事言ってんなよ」

 苛立ちを隠そうともしないホセの応えにピリピリとした空気が立ち籠めた。
 彼の瞳の険から零れた縞瑪瑙の破片が宙に漂うようで一挙として呼吸が難くなる。
 シンは更に背中を丸めてデュアルモニターに隠れるようにして二人の様子を伺っており、ファティマはおろおろと二人の顔を交互に見比べている。
 しかし赤毛の小さな子犬の威嚇など痛くも痒くも無い様子の浩文は臆することなく言い放った。

「トーニャスにおいて僕は君の上司だ。カルテルにはカルテルの、商会には商会のルールがある」

 浩文の言葉にホセは平生より丸い目を更に見開く。
 犬歯を噛み合わせて後ずさりするが、浩文は彼の後退を許さなかった。

「ダブルネームを抱える君だからこそ遵守すべき事だろう。子どもじゃないんだからいつまでもお客様気分で甘えない方がいい、君のお守りは業務内容に入っていないからね」
「あんだと──!」

 最後のフレーズにホセは小さな肩をいからせた。
 耳まで真っ赤にして何か言いたげにしているが、二の句が継げないらしく口をぱくぱくと開閉している。
 そんなことあるもんか、だってオレは。
 と、言い返したくても何故か喉元でつっかえた言葉は出てきてくれなかった。
 浩文は淡々と、しかし諭すような声色を滲ませて続けた。

「媚び諂って迎合するのと最低限のマナーを守ることは全く以て異なるものだ。君には自分自分でトーニャスに残る事を選び取った覚悟と責任を果たす誠意があるのかい」

 浩文の問いかけにホセは怒らせた肩を落としかなかった。
 【覚悟】と【責任】、その二文字にホセはすっかり気迫を削がれてしまう。
 答えは半年前自身が所属する部隊長のディンゴに伝えた通り。もう少しトーニャスにいたいと、もう少しこの土地で、ここの人間と仕事をしたいと思ったのは自身の本心からだ。
 浩文の言うことに何も間違いが無いことは分かっている。
 ホセはすっかり毒気を抜かれてしまって、唇を尖らせてぼそぼそと少しずつしか返せなかった。

「……無かったらこんなド田舎にいるわきゃねーだろ」

 そうして穴が空くほど睨み続けていた浩文のレンズの奥に嵌まる黒の双眸からそっと視線を外す。
 尻すぼみになってなんだか収まりが悪い。
 一年と少しが経ったが何に関しても噛み付いてしまう癖は直らなかった。学も無ければ外のことなど全く知らない。自分の守り方すら分からない。
 自身がいつ生まれたかも分からずに、フォークの正しい使い方も知らないような自分を商会の人間はどう思っているのか、それが怖くて自己防衛と謳った相応の身の振り方しかしてこなかった。出来なかったのだ。
 二人でナポリに出向いた際に誕生日をくれたリチャードは曲がりなりにも信頼している。しかし、では【彼のファミリア】はどうなるのか。
 商会の人間を信頼して、自分から歩み寄らねばならない事くらいは分かっている。
 ホセは生唾を飲み込んだ。
 ちらりと浩文の瞳を伺うと相変わらずにホセをじっと見据えている。
 その凍て付くような視線にしゅんとうなだれて、マロマユを八の字にした。

「拭くやつ、銃のさ、どこにあんの……」

 浩文は頬杖をついて溜息をついた。
 ファティマとシンはほっと胸を撫で下ろすような気持ちになる。
 丸まった小さな背中に、おすわりを教えられて鼻を鳴らす赤毛マロマユ犬のビジョンが浮かんだ。
 そうして浩文が口を開いた瞬間、ファティマは気の抜けそうなほど穏やかな声で二人に呼び掛けた。

「浩文さん、ホセくん、ココア飲みます?」

 給湯室から半分ほど顔を覗かせて笑っている。といっても彼女の鼻から下は黒い布に覆われているので四分の一ではあるのだが。
 きっと彼女なりに気を揉んで場を和ませようと取り計らってくれようとしているのだろう。
 浩文は頬を掻くと何かを言いかけた唇でファティマに応えた。

「いや、僕はコーヒーで」
「飲む……から、ミルク多めにいれて」

 ホセもファティマに返答を寄越しきまり悪そうに浩文の前に立ち尽くしている。
 浩文は深く息を吐くと、オフィスから銃火器を取り扱う店舗に向かうドアに視線を送ってからホセの瞳を見た。

「店舗横の倉庫に僕たちが自由に使える備品があるから、そこから取って」

 ホセは浩文の言葉に一瞬ぱっと表情を明るくしたが、それを噛み殺すようにして唇を押し上げてそっぽを向いた。
 豊か過ぎるその表情変化に思わず笑いそうになってしまったが堪える。
 普段はキライな人間相手でも餌を持つと無意識にシッポを振ってしまう犬と同じだなと心の中で独りごちるが彼に尻尾は見えない。
 ホセは幾つものピアスが輝く火照った耳を触りながら浩文に視線をよこした。

「Okie- Dokie.(はいはい)」
「【I understand.】 don‘t you?(分かりました、だろう?)」
「んなっ」

 そうしてしばし睨み合っていると両手にカップを持ったファティマが軽い足取りでやって来た。
 彼女の両手には犬の肉球スタンプと取っ手がシッポモチーフのマグカップと飾り気のない青いカップ。
 犬のマグカップからはほっと落ち着くような甘い香りが漂い、青いカップは澄んだ黒を香り高く映している。
 
「コーヒーとココアでしたわね」
「ありがとうございます」
「……あんがと」

 そしてデスクの空いたスペースにファンシーとシンプル、二つのカップを置くと彼らに微笑みかけた。

「仲良しさんですね!」
 
 彼女の言葉に浩文は眉を潜め、ホセはあからさまに渋い顔をしながらもカップを受け取った。
 しかしにこにこと天真爛漫な笑顔を浮かべるファティマを邪険にするわけにはいかない。
 天然な彼女のことだ、もしかしたら本当に思っているのかもしれない。

「今のやり取りのどこにそんな事を思う要素があったんですか」
「ったく、何処に目ェ付いてんだよ」

 それからホセは浩文を一瞥すると、ぶすくれた顔で自分の席へと戻って行った。
 そしてイヌシッポの取っ手を握るとそのままココアに口を付ける。

「──あちっ!?」

 想像以上にココアが熱かったのか熱を追い払うようにぶんぶんとかぶりを振る。
 ファティマは慌てふためいてホセと犬のマグカップを見比べたあと申し訳なさげに眉尻を下げた。

「あら大変! ごめんなさい、普通にミルクを淹れると冷めちゃうと思って少しあっためておいたものを……今冷たいミルクをお持ちしますわ」
「別にいいって」

 そう言うとホセはマグカップを袖で持って、一生懸命にふーふーと息を吹きかけ始めた。
 真っ赤になった薄い舌を出して涙目になっている。
 マロマユを困らせるホセを見ていると手の掛かる部下というか何というか。ボスも彼にカリーノなチワワだの何だのと口を挟んで怒られていたがその気持ちも今なら分かるかもしれない。
 細切れにこちらを伺う視線に気付いた浩文はその主にジトリとした眼差しを向けた。 

「……何ですか」

 シンは鼻の頭を掻くとわざとらしく視線を左上に放る。

「えっ!? な、なんでもないよ」

 そして取り繕うように再々度液晶へと視線を滑らせた。
 リチャードの偽造パスポートの情報見直しはもうそろそろ終わる。
 今回使用したのは脱法ハーブから生きた幼い少年少女に至るまでもが商品として陳列される深層ウェブ上の闇サイトから引っ張ってきたノルウェー人のパスポートである。
 自身の仕事にはいつだって抜かりは無い。三色旗の地を再び踏むことすら許されずそのまま日の丸の元にお縄、という心配も必要ないだろう。
 シンはコーヒーを飲む浩文とマグカップにちびちびと口を付けるホセを盗み見て浅く息を吐くとエンターキーを押した。

「あの、ファティマさん、ボクにもコーヒーくれるかな」
「はい! かしこまりましたわ」

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