複雑・ファジー小説

What A Traitor!【第2章2話更新】
日時: 2019/02/09 12:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: 毎週日曜日更新。時間帯未定。



全てに裏切られても守らねばならないものがあった。



【これまでのあらすじ】
 十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
 リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
 米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
 舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。



閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向(ひゅうが)です。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。

【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません

【目次】
序曲:Prelude>>1

1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)

2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
>>34>>35

※全話イラスト挿入

用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)

【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破(リチャード)>>14
参照3000突破(ホセ)>>21
参照4000突破(シャハラザード)>>28
1周年&リチャード誕生日>>35




※Traitor=裏切り者


since 2018.1.31

Page:1 2 3 4 5 6 7



Re: What A Traitor!【第1章29話更新】 ( No.31 )
日時: 2018/12/26 01:28
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1079.jpg

]]\

 戦禍の後、灰燼の零れる町に硬いヒールの音が響く。
 騒乱をもたらした両軍も戦乱を掠め取っていった警察も既にいない。国境の町は静まりかえった町へとその顔つきを穏やかにしていた。
 夜でも外さないそのサングラス越しに天を仰ぐ。黄昏を融かして宇宙を希釈した星空はトーニャスのものと負けず劣らず美しかった。
 仄かな星明かりに絹糸のような長い金髪が煌めく。最後に振ってから時間の経過したアンバーグリスの香水も幽かではあるが未だ香っている。
 かつんかつんと高く、踵の音が弾丸の撃ち込まれた塀とひび割れたアスファルトに染み入って乾いた町を打った。
 かつかつ。かつかつ、つ。
 そして遂に踵の音は瓦礫の前で止まる。
 
「──これはこれは」

 男が瓦礫の下を覗き込むと、闇の中でもぞもぞと動くものを見つけた。
 サングラスをずらして目を凝らすと、それは取り残された【アダムズ・ビル】の残党だった。
 顔には切り傷が多いが中東系だとすぐに判断がつく。残党は崩れた煉瓦塀に下半身を挟まれてしまっているようで力無く呻き、隊服には血液が滲みだして布をどす黒く染め上げていた。
 こうして薄暗い中でじっとしていたのならば杜撰なメキシコ連邦警察はきっと見過ごしてしまうだろう。
 男は残兵を見下ろして微笑んだ。 

「僥倖というべきかな」

 男の良く通る低い声を耳にして、残党は怯えたように首を擡(もた)げた。
 そしてグラス越しの慈愛が如き光を湛える蒼玉とかち合う。そののち男の紅を引いたような赤い唇は緩く弧を描いた。
 しかし残党は男の双眸に嵌まったものを見据えたまま、目を大きく見開いて息を呑んだ。

「ひ──!?」
「私がポリツィアかカルテル構成員に見えますか?」

 金髪の男はおどけるように肩を竦めてみせたが、残党の表情は強張ったままで。
 残党は魚のように口をぱくぱくと動かしていたが、やがて喉奥から掠れた声を引き絞った。

「い、生きていたのか……リチャード=ガルコ」

 静まりかえった町に一拍、二人の合間に真の静寂が訪れる。
 一瞬だけリチャードはその青い虹彩を収縮させた。
 動けない残党はもつれる舌で早口に言った。

「おれ、おれは昔パレルモ支部にいたんだ……随分と変わっているがやはり同じだ、あんたの顔、その背格好と青い瞳に金髪。あ、ああ見間違えるはずがない」

 彼の瞳はリチャードを見ているが、その焦点は定まらない。深い青が揺れる彼の両の眼を透かして自身の過去を見ていた。
 そしてリチャードに向けて震える手を伸ばす。しかし血液の足りない手は虚空を掻いて、彼には届かなかった。
 リチャードは尚も笑顔を崩さずに、しかし兵を見下ろす位置で正対している。
 演説するかのような大仰な身振り手振りと芝居がかった口調で、赤い唇をなぞった。

「──ふむ、聞き覚えの無い名前ですね。人違いではありませんか。そんな白人ならそこらに溢れ返っていますよ」

 金色の長い睫毛を伏せ、星夜に溶けるような青の視線を滑らせる。
 押し潰された足から流れ出す血潮と対照的にリチャードを注視する男の瞳は充血して濁っていく。
 残党は空気漏れのような深呼吸をして、切れた唇の端から一筋涎を垂らした。

「だ、だ、だが……そんな、嘘だ、だって、リチャード=ガルコは十年前パレルモで拳銃自殺した筈で」

 その言葉を皮切りに残党とリチャードの狭間に立ち籠める空気が一変した。
 リチャードは煉瓦の基礎を強く蹴り付けて残党の至近距離まで肉薄する。
 結った長い髪がするりと肩を滑り落ち、男の鉄錆に冒された嗅覚に官能的な香りを焚き付けた。
 慄然として唇を噛む残党を品定めするように更に零距離に迫る。
 高い踵で足蹴にされた塀はほろりと砂煙を零した。

「は、は」

 そして犬歯を見せつけるように笑う。

「なるほど成る程」

 そう呟いて、リチャードは男に向かって黒い革手袋に包まれた手を緩慢に伸ばした。
 殴られるか目玉を抉られるかと思った残党は迫る黒に対して必死の形相で首を引く。
 しかしリチャードの手は痛みを与えること無く、男の剥き出しの首筋に沿った。
 喉仏を経由して顎へと五指を扇情的な手付きで滑らせる。それから慈しむように頬を撫で、そして擽(くすぐ)るように耳朶をなぞった。
 男は動揺の色を眼球に映していたが、生理反応から緊張していた首は弛緩してふっと落ちようとする。
 だがその瞬間、リチャードの手は男の短い髪を強く掴んだ。

「俺はカルテルの犬じゃあないからお前を天使と会わせてやる義理も無いし、今にも出血死しそうな奴にくれてやる弾丸の持ち合わせも生憎ない」

 リチャードは艶っぽく低い声に熱い吐息を絡め男の耳に寄せる。
 否、血がこびり付いた髪を引き掴んで残党に無理な体勢を強いていた。

「そのリチャードギアだとかリチャードキールだとかいう男はよく知らないんだが、俺は【アダムズ・ビル】という組織に興味があってな。いい機会だ、色々と伺いたい」

 頭髪を引っ張られる痛みに男の顔は引き攣る。
 リチャードは彼が呻くのを聞くとそこでぱっと手を離した。
 男は自重のままに顎をコンクリートに強く打ち付ける。そしてその表情は更に苦悶で歪んだ。
 しかし彼は先程と打って変わって優しい声色で、男に語りかけた。

「質問の答え次第ではお前の仲間が気付くところまで送ってやらんこともないぞ」

 リチャードの言葉で男の濁った瞳に一縷の光が射した。
 もはや絶望的だと思われた生還への道に、思っても見ない希望が転がり込んできたのだ。
 下半身はもう使えないかもしれないだろうがそれでもいい。男は狂ったように頷いた。

「いいか? 【面白い答え】を頼む」

 そう言うとリチャードは狭い路地の対面、崩れた塀の平らなところに腰を落ち着けた。
 星明かりに照らされた瓦礫は仄かに青く反射光を放つ。彼の座すところの煉瓦はまるで玉座のように残党の目に写った。
 南国の夜風が彼の長く結った髪を舞い上げて、夜闇に妖しく広がる。

「……ふふ、面白いじゃあないか。パレルモの屍人が遠く離れたこの町を歩くだなんて」

 リチャードは男を高くから見下ろす。
 頬杖を付いて、柔和な表情を作っているがまるでモルモットでも観察するような目付きだった。

「一つ目の質問だ」

 リチャードは幼子に向けて問うように小首を傾げて尋ねる。 

「【アダムズ・ビル】の現会長はレイモンド=アダム=ステイツで間違いないか?」

 第一の質問は問というよりも確認をとるような軽い口調だった。
 これが知りたいことの筈がないだろう、と男は唾を飲み込んでから答える。

「ま、間違いない」

 緊張した面持ちで答えた男に、リチャードは喜色を浮かべ頷いた。

「ふむ、まあそれはそうだな。これが答えられないほど参ってるんじゃお前は用無しだ」
「……え」

 ただでさえ血の足りない残党の顔が一瞬にして青ざめる。
 ぽかんと口を半開きにする滑稽な表情を見て、リチャードは片眉を上げてくすくすと笑った。

「冗談だ、冗談だよ。そんな顔しないでくれ。それともこんなところにまでブギーマンがやって来ると思うかい?」

 そうしてフェミニンに片目を瞑って肩を竦める。
 厭(いや)に芝居がかった仕草と声色、そして創る空気。彼の醸すその全てに呑まれてしまいそうだった。
 場をコントロールして制空権を確立し、男の命を握るのもまた彼で。

「二つ目だ」

 残党の肩が強張る。
 リチャードの唇は蠱惑的に弧を描いた。

「お前の属する隊の規模、隊長の名前、使用武器を教えてくれ」

 え、と男は喉奥から乾いた声を漏らした。基本的に戦闘部の情報は機密事項であり、特例が無い限り決して外部に漏らしてはならない禁忌である。
 リチャードの質問はいよいよ核心に触れ始めたのだ。
 男が口ごもってしまうと、リチャードは金刺繍の縁取りをすっと細めて冷酷な眼差しを向けた。
 それは静かなる豹変だった。
 仄暗いグラス越しの深い青の瞳はどこまでも凍て付いた極世界を写し、目の前が粉微塵に割れるビジョンを呈す。

「どうした、言えないってことは無いだろう? お前はただ俺のようなミリタリーギークの知識欲を満たしてくれるだけでいいんだ」

 冷たい声がずしりと鼓膜に響く。
 こればかりは言えない、と男は玉のような汗をかいて下唇を噛んだ。
 ここから何とかアメリカに帰ることが出来ても、機密を漏らした事が組織にバレれば比喩でなく自分の首が飛ぶ事は火を見るより明らかだった。
 しかし、事実を伝えず虚偽のデータを伝えれば痛くも痒くも無い。
 男は自身の閃きに口を開きかけると、リチャードは組んだ足を組み替えながら言った。
 
「そうそう……言い忘れたが、少しでも嘘を吐いている様子を見せるようなら先程の話は無かったことにさせてもらう。この話に乗らないと言うなら残念だが──」

 お見通しだと言わんばかりに青い瞳は男の魂胆を透かす。
 そして座っていた煉瓦から立ち上がると、残党は血相を変えて叫んだ。

「──ま、待ってくれ!」

 短い咆哮にリチャードは仄かに微笑む。

「た、隊の規模は六隊編成で総数が300超。隊長……隊長といっても他のところのことは分からない。が、前線に立って戦闘部を取り仕切る人間の名前は……ジェイクだ」
「姓は?」
「しらない……そう名乗っているだけで本名かどうかも」
「こんな社会で本名を名乗る奴の方が珍しいさ。ほう。知らん名前だ、成る程カルテルの野犬と同じようなものか」

 再び煉瓦塀に腰を落ち着けると、足を組んだ。

「武器の方は」
「おれたちに配られる銃はだいたいが拳銃も小銃もコルト社のもので、しかし番号や年代はバラバラなんだ……」

 ふむ、とリチャードは相槌を打った。
 そう言われれば国境の町にホセとやって来たとき此方に銃を向けたビル歩兵の構えていた小銃がコルト社製のものだった気もする、と。
 暫く考え込む様子を見せたが、リチャードは結った長い髪を梳きながら男に穏やかな視線を送った。

「これは貴重なデータだ。ありがとう、参考になった」

 一体何の参考なんだ、と口に出すのももはや恐ろしかった。
 そして質問の間隔は短くなる。

「三つ目、資金繰りは今までのように偽札製造が主か? 十年前と異なる事を、出来るだけ教えてもらおうか」

 残党は観念したかのように俯いて呻き声で答えた。

「……ヴァージン諸島を経由してマネーロンダリングをしているとは聞いたことがある……が、それも今は監視警備の目が厳しく主立った裏稼業ではない、と思う。だから今回だってメキシコに……な、なぁおれは一介の戦闘員に過ぎない、詳しくは知らないんだよ」

 祈るように掠れた声を絞り出す残党を、リチャードは黙って見下ろしていた。
 見ると押し潰された下半身からの出血が酷いらしく顔は土気色に変わって奥歯をがちがちと鳴らしている。
 男は今にも死にそうな顔で一向に返事を寄越さないリチャードを見上げた。 
 リチャードは男と目が合うとそこでようやく眉尻を下げた。

「なるほど、でもそんなに怯えないでくれ。ん、出血が酷いな大丈夫か? 次の質問で最後にしよう」

 次の質問で最後、という言葉で僅かに男の顔に血色が戻った。
 これで命は助かると、メキシコ連邦警察に拘束されることもなく生きて帰ることが出来ると。
 一筋だった希望の兆しは大きな光の束となって男の眼前に射した。

「最後、四つ目だ」

 しかしリチャードは質問内容を明かすではなく顎に手を当てて、眉を顰めた。
 依然として塞がらない傷からの出血は多く、もはや下半身に覚えていた痛みも霞んできた。手遅れになる前に早く、と残党は逸(はや)る気持ちに奥歯を鳴らす。

「でもまあこれは余興みたいなものだからあまり気にしなくても良い」

 勿体振るリチャードを穴が空くほど見る目は血走って、瞳孔は収縮を繰り返した。
 そして飢えた獣の瞳は、唇が【アダムズ・ビル】首領の名を紡ぐのを捉える。

「レイモンド=アダム=ステイツがニューヨーク本社に赴く前、本部に座する幹部の椅子、そのポストが危ういという話があったらしいな。お前は知っているか?」

 最後の質問はこれまでの質問とは明らかに違っていた。
 今までのは内部情報を此方に答えさせるような問いだったのに対して今回の質問は単なるイエスノー形式だったからだ。
 そして答えはノーである。残党は首を振って精一杯に出せる有声音で答えた。

「し、しらない……ぱ、パレルモでもアメリカでもそんな話聞いたこと、ない」

 男が言い終わるとリチャードは特に表情を変えることもなく、煉瓦からすっと立ち上がった。
 男は動かない身体を震わせて、リチャードに期待の籠もった視線を向けた。
 先程の質問に何の意味があったのか残党には知るよしもなかったが、今となってそれはどうでもよいことだ。
 リチャードは後ろを振り返って、メキシコの夜空を見上げた。

「そうか、手間を取らせたな」

 長い髪が夜風に揺れる。
 燦然と輝く星に照らされた彼の淡色の髪はキャンバスのように数多の色に燃える星を映した。

「うん、気が変わった」
「え」

 男は間の抜けた声を出して、リチャードを凝視した。

「良い子にしていたらご褒美がもらえるのはどこの国だって同じだろう? 俺の国ではリコリスというものがあってな、キャンディではあるんだがこれがまた不味いんだ」

 わけがわからない、といった風に残党はぽかんと口を開ける。
 苦しく呼吸をするとひゅと空気が抜けるような音がした。

「だが、喜んでくれると嬉しい」

 そう言って懐から取り出したのは飴でもなんでもなく、鉄臭い例の商売道具で。
 リチャードは銃を唇に寄せると、煙を払うように息を吹きかける。
 そして残党の眼前に鈍く光る銃口を突き付けた。

「え。や、いや。もう、弾ない、って」

 残党は脂汗を額に浮かべて、子供のように涙をぼろぼろ零して口角をぎこちなく吊り上げた。
 反するリチャードは微笑を浮かべる。

「そんなこと言ったか?」

 そしてトレンチコートの懐を見せつけるかのようにゆっくり捲った。
 男は目を剥く。
 夜よりも濃い闇を秘めたリチャードの懐には、まるで鞘に収まる刃物のように大量の銃弾が鈍く光っていた。  
 防火繊維を丁寧に縫い付けた裏地には銃や刃物のホルダーも確認出来る。
 そして嘲笑うように口角を歪めた。

「仲間の気付くところ、な。まさかそんなこと本気で思っていたとは、嗚呼悪いことしたな」

 残党は鼻水を垂れ流しながら声にならない声で吠えた。
 他の隊員は皆連邦警察に連行された。仲間の気の付くところなど最初から無かったではないか。
 足は瓦礫に潰され移動も出来ない。朝を待てば確実に失血死する。奇跡的に夜を越したとしても、マフィアの抗争に巻き込まれ住み処を蜂の巣にされた町人が自分をどうにかするなどとも到底思えない。こんな辺鄙な国境の町に病院なども無い。
 こうなった以上どのみち野垂れ死ぬ運命しかなかったのだ。
 リチャードはコートの裾を元に戻し、黒革に包まれた人差し指を唇に押し付けた。

「でも折角だから一ついいことを教えてやろうか」

 そして男の耳へと口づけるかのように、低く囁いた。

「ご名答、確かに俺がリチャード=ガルコだ。そう、一度死んだ後に地獄の底から這いつくばって蘇ったのさ」

 やはりそうか、と残党は僅かに残った理性ごと底無しの深淵へと引きずり込まれたかのような錯覚に陥る。
 彼が腹に抱えて見え隠れしていた憎悪は質問が回を重ねるごとに増していった。
 鈍痛が足を挽き潰して、暗闇が腕を掴んで、離さない。時間が経過しても癒えることはなく、膿んで痛み続けるのだ。
 そして遂に残党は聞いた。

「【アダムズ・ビル】の首領、レイモンド=アダム=ステイツを殺すためにな」

 リチャードが傍から離れると、効かなくなった筈の男の鼻に再び薫風が舞い込んだ。
 闇にそよぐのは眩むような香り、記憶を辿っても当時の彼は纏っていなかった筈で。
 残党は顔の孔という孔から体液を垂れ流して懇願するようにリチャードを見た。 
 しかしリチャードは人差し指で赤い唇をなぞって、男の口元に銃口を突き付けた。
 最期網膜に焼き付けたのは美しくも心の無い悪魔の姿。

「──さぁバンビーノ。いい子だから舌を出せ」

 そして銃声は再び乾いた町を割った。



「ああ。こんなところにいたのか」

「探したぞ、ホセ」

「また泣いてるのか?」
「……泣いてねえよ」
「冗談だ、そんな怖い顔をしないでくれ」
「してねえよ」

「うん。全部終わったのさ、そう、全部な」
「ボス。オレ、どうして」
「ホセ、今は休め。焦らなくても直に全て分かる」
「……どういうこと」

 リチャードは何も答えず、ただ黒革に包まれた手を差し出した。

「立てるか?」

 ホセは差し出された手へ手を伸ばしかけて虚空に彷徨わせたのちに、彼の手を取った。

「帰ろう。トーニャスに」

 リチャードはホセの手を優しく握り返すと、救いあげるように彼を立たせた。

]]\

Re: What A Traitor!【第1章30話更新】 ( No.32 )
日時: 2019/01/01 00:55
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I

]]]

──一週間後、イタリア=トーニャスにて。

 メキシコの麻薬戦争終結を迎えて【トーニャス商会】の面々は誰一人として欠けることなくイタリアに生還した。
 浩文とファティマは無事に町から逃げ果(おお)せ作戦を完遂したのちにイタリアに帰国し、リチャードもホセを連れて滞りなくナポリ空港に降り立ちそこからトーニャスに帰ってきた。
 しかしお互いに勝利を讃え合うでもなく、帰還と再会を喜び合うこともしない。
 珍しく全員揃った商会事務所の中にはただただ異様な雰囲気が流れていた。

「ボス、帰ってきてからずっとあの調子ですよ」

 浩文は事務所の隅に視線を送って溜息を零す。 

「ホセくん、元気ないですね」

 ファティマは心配そうに黒衣の袖を口元に遣る。

「いっつもあれぐらいしおらしい方がアタシは御しやすくていいねぇ」

 商会医療部のアマンダは一杯のコーヒーに口をつけて【アカプルコ・カルテル】との契約書面に目を通していた。そして陶器のティーカップをソーサーに置く。
 保険も効かず病院にカルテを残すわけにもいかない戦闘員らは作戦終了後、必ず彼女の診察を受ける事になっていた。女性に苦手意識を持つホセは毎回のメディカルチェックを風呂嫌いの子犬のように嫌がっていたが、どうやら今回は大人しかったようである。

「……メキシコで何かあったのかな」

 商会情報部のシンはパソコンキーボードの力強い押下音とは裏腹におどおどと尋ねた。
 彼はイタリア航空を利用したリチャードとホセの両名のパスポートの偽造に関わっていた。使用したデータの削除と実在しない人物が航空機に搭乗したことへの帳尻合わせをする作業があと少し残っているらしい。目立たない業務ではあるもののシンがいるからこそ【トーニャス商会】は裏社会で活動することが出来る。
 リチャードはホセに視線を滑らせたあと、少し笑って商会の面々に応えた。

「まあ、直に分かるさ」

 ホセは膝を抱えて自分のオフィスチェアに座っていた。
 背を丸めたまま小さくなって、足の間に顔を埋める。業務終了後の一週間ほどの休暇が明けてから一言も口を利いていない。
 その休暇中にトーニャスの仮住まいに一通の手紙が届いた。
 それはホセの本家である【アカプルコ・カルテル】から彼宛に開示された情報で、その中身というと情報とは名ばかりの非常に簡素なものだった。

 アメリカの【アダムズ・ビル】との中南米におけるドラッグ類の利権闘争はカルテルの勝利、現在水面下で交渉中。そして【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】副隊長のロバートは戦闘の最中にて殉職。

 と、たったのこれだけでホセが本当に知りたかったことなど何処にも書いてなかった。
 しかしホセにとって何よりもショックが大きかったのは自分を弟のように実の子供のように可愛がってくれていたロバートの戦死だった。
 たった一文で親愛なる者の死を突き付けられたのだ。
 ほんの短い文章の手紙は力及ばずイタリア送りになった己が本家からも軽視されているのを示しているようで、悔しくて情けなくて何度も手紙を破こうと試みた。
 しかしそれは胸に残ったロバートや仲間達と過ごしたなけなしの思い出さえも破り捨ててしまうようで出来なかった。
 隊長であるディンゴも警察の拘留下にあるのだろう。
 再度全てを失ったホセは胸に大きなぽっかりと大きな穴が空いてしまったようで、帰国後も休暇を経ても無気力に苛まれていた。

(なんでオレが生きてて副隊長が死んで、オレがここにいてディンゴがメキシコに縛り付けられたままなんだろう)

 いまさらメキシコに戻る赦しも理由も、生きている意味も無い。
 しかし何人もの命の上に生かされていることを知っているホセだからこそ銃口を自身に向けることも刃物をに突き立てることなども出来なかった。
 生き地獄だ。
 明日の見えないストリートよりも弾丸飛び交う戦場にいるよりもずっと苦しくて、痛い。
 ホセはオフィスチェアの上で更に小さくなって表情を悟られないように顔を深く埋めた。

「浩文、今何時だ?」

 ホセの耳にリチャードの良く通る声が届く。

「え? あ、えっともうすぐ正午に差し掛かりますが」

 浩文の答えにリチャードはそうかとだけ応えて腕を組んだ。
 金色の睫毛を伏せてチェアの背凭れに掛かる長い髪を払う。その姿に商会員は皆首を傾げるようだった。

「【約束】だけは守る男なんだがな」

 リチャードはそう呟くと淹れたハーブティを一口啜った。
 ホセも胸に引っ掛かるところがあったようで顔を上げる。彼の顔にはいつもより青白い顔色と殴打痕のような濃い隈が目立った。
 リチャードは鼻に抜ける茶葉の香りを愉しむとデスクにカップを置く。
 ふと、外の風が凪いだ気がした。
 商会事務所は完全防音な筈だったが、確かにいま外が動いた気がしたのだ。
 ホセはふと木製の扉に目を遣る。いつしか蹴っ飛ばした古めかしい木目の扉。もうあの日の足跡なんて残ってない筈だが、どうしても扉の腹から目が離せなかった。
 怒りに任せて外に飛び出したことなんて随分前のことのように思える。
 あの日、結局ディンゴが何を思って自分をイタリアに残したのかは分からず仕舞いだった。そして彼の居ない今となってはもうどうしたらいいのかも分からない。
 
「ああ、良かった」

 リチャードがそう零すのと同時に、蝶番が軋むのを見た。
 もう商会には全員揃っていて、門を叩く者も扉を開ける者などいないのに。
 そして、そこに姿を現したのは。




「よォ! シけたツラしてンなァ、ぺぺちゃん!」




「──な」

 ホセは目を見開いた。

「なんで…………?」

 漆黒の巻き毛、左頬に残る大きな裂創、癖のある話し方。
 ディンゴ、正にその人だった。

「ククク、メキシコのポリ公なンざちぃとばかし札束で頬を張りゃこの通りヨ」

 ディンゴはおどけるように両手を挙げると肩を竦めてみせる。
 知っていたのかとホセはオフィスを見回すと、商会員は皆呆けた顔をしていた。実際にディンゴと会っていないアマンダとシンはともかくとして、浩文もファティマも皆知らなかったのだ。
 しかし、ただ一人を除いては。
 ディンゴはジャケットを脱いで肩に掛けると、奥に座るリチャードに目配せをした。

「ナぁ? リッキー」

 リチャードは再びカップに口を付けると、端的に応えた。

「そうだな」

 ホセは暫くぽかんと口を開けてリチャードとディンゴを交互に見ていたが、椅子から勢いよく立ち上がった。

「──は、ハァ!?」

 ホセはショートブーツの踵を鳴らしながらディンゴに詰め寄った。
 しかしディンゴとの埋まらない身長差に犬歯を噛み締めて思い切り背伸びをする。そんなホセにディンゴは片眉を吊り上げてにやりと笑った。

「オマエが勝手にヤンチャすっとポリ公との連携が上手くいかねェと思って置いてったンだヨ」
「……へ?」

 あれほどまでに切望していた解答は何とも呆気ないものだった。

「な、なんだよそれ、話してくれりゃあオレだって……」

 目の端に涙を溜めて言葉に詰まった。今にも溢れそうな涙はホセのひびの入った淡い瞳を満たす。
 ディンゴに言いたかったことは何一つ言葉にはならなかった。
 ディンゴはばつの悪そうな顔で左頬を掻くと、子犬の頭を撫でるようにわしゃわしゃと髪の間に無骨な指を差し入れた。

「ほらナ? 絶対付いてくるってうるせえだろ、だーかーら無理だったンだっての」

 傷の入った指で髪が乱れるのも構わずに、ホセは乱雑に涙を拭った。
 あの日はすぐに彼の手を振り払ってヘアピンを差し直したがそれはしない、ただ彼の深い傷跡が自分の髪を引っ張るのに任せていた。
 ディンゴは暫くホセの地毛が覗く旋毛(つむじ)を見ていたが、視線を横に滑らせるとリチャードに視線を送った。

「──まさか本当に来るたァ想定外だったがナ」

 紫煙に灼けた笑声混じりが静まりかえったオフィスに響く。
 しかしその言葉の欠片はどこか鋭利で、微少な猜疑と微かな怒気を含んでいた。
 それに気付く者はいただろうか。リチャードは何も言わずにディンゴの光の射さない三白眼をひたと見据えていた。
 刹那、深い青を湛える蒼玉と光を拒む黒瑪瑙が火花を散らす。
 だがディンゴは次の瞬間にはリチャードから視線を外し、声高に笑った。

「お陰様で今回カルテルは大勝利ッてナ、こいつァジーザスに感謝しねェとダ」

 ホセは何も言わなかった。
 自分がいなくてもカルテルが勝てたのなら万々歳だ。でも一つだけ、本当に一つだけホセには彼に訊ねなければならない事があった。
 拭っても拭っても満たす涙はたった一筋、頬を伝う。

「じゃあ、じゃあさ……どうして副隊長は、どうしてあの人だけなの、死んじゃったの」

 見上げる縞瑪瑙(オニキス)と受け止める黒瑪瑙(オニキス)はそっとかち合う。
 ディンゴは眉間に皺を寄せ、傷の入った唇を噛んだ。まるで痛みを堪えるような表情で。
 それはいつも飄々として何を考えているか一つも分からないディンゴが、ホセに見せた初めての顔だった

「……ホセ、全部終わったンだ。全部、ナ」
「ぜんぶ……?」

 突き放すでなく苦々しく端的に。
 それ以上先を追及することなど、到底出来なかった。
 ディンゴは黙ってもう一度だけホセの頭に手を置くと、近くのソファに我が物が如くどっかりと腰を落ち着けた。
 そして大きく息を吐く。

「【約束】の一年が経っただろ? 迎えに来たンだヨ。ま、少し遅れちまったがナ」
「え?」

 そして彼の口から聞いたのは思ってもみない一言だった。

「あ……」

 そうか、最初からそういう約束だったんだ。
 訳も分からず異国の地、それも辺鄙な片田舎に飛ばされて。
 一年前の作戦終了後、取って付けたように後から知らされたのは裏社会のルールを学んでこいというお題目。
 ディンゴに言われるがまま、彼の旧友が経営しているというイタリアのトーニャスへとやって来たのだ。

「ええと……」

 ホセは視線を彷徨わせる。
 浩文は瞬きをしてホセをじっと見ていた。ファティマは忙しなくホセとディンゴを交互に見ている。アマンダは表情を変えることなくコーヒーに啜って、シンは打鍵の手を止めてデスクトップの隙間から覗うように見守っていた。
 心の準備が出来なかったせいでしばらく何も言えないでいると、オフィスの最奥から良く通るバリトンボイスがホセに声を掛けた。


「君が決めるんだ」


「自分の手で、自分の生き方を」


 リチャードの言葉はホセの背中を押すように言葉を導いた。

「っ……え、あ、じゃあ」

 ホセはディンゴを見上げ、ぎこちなく口角を上げて答えようとする。
 その瞬間様々な光景がフラッシュバックした。
 第一波はカルテル・ビル間の戦争が始まる少し前、イタリア残留を宣告された時のことで。

『オレは商会の人間なんかじゃねえ!! 【アカプルコ・カルテル】のファミリアだッ!!』

 そうだあれだけメキシコに帰りたかったんだ、何をいまさら言葉に詰まる必要があるのか。
 こんな土臭い田舎すぐに荷物をまとめてアカプルコに帰って、それから、それから。

『──ホセ、見えるか? 少し遠くに、うん、あの白い建物だ。あれがナポリの守護聖人サン=ジェンナーロを奉っているナポリ大聖堂。そしてここからじゃ見えないが……』

 突如として彼の声が脳内に響いた。
 土臭い田舎町のビジョンはナポリの潮風にあっという間に攫われてしまう。

「でもアカプルコも世界有数の保養地だろう? あの陽光射し込む白浜、輝く紺碧の海を一度この目で見てみたいんだ」

 ナポリの空を透かすようなアカプルコの海を映すような、彼の青い瞳はいつでも少しの嘲りもなく真っ直ぐホセを見つめていた。
 でも邪魔なんだよ。
 帰りたいはずなのに。メキシコに帰りたくて堪らなかったはずなのに。

『何も問題無い。ホセ、俺を信じろ』

 どうして。

『誕生日おめでとう、ホセ』

 どうして今。

『大切な家族なんだな』

 走馬灯のように駆けてくるのは商会の一員となってからの思い出ばかりで。
 そして最後に現れたのは太陽を迎えて焼ける空気の中、過去を全て話し終えた朝だった。

『オレ、ずっと商会の奴らと違う人間だって思ってた。こんなクソみたいな世界どこにも居場所なんて無いんだって、思ってた』
『でもあいつらもオレも同じなんだって分かったから』

 紛れもない自分の言葉に胸を衝かれる。それはどんな弾丸よりも自身の心臓に食い込んだ。
 息を呑んで再びオフィスを見回す。
 浩文、ファティマ、アマンダ、シン、そして最後にリチャードと目が合う。
 彼の深く青い瞳には肯定も否定の色も存在せずに、ただホセを見守るのみだった。

「え、えと、じゃ──」

 ホセは何か言いかけたあと、それを飲み込んで俯く。

「──じゃあ、もう少しここに……いよう、かな」

 尻すぼみになって消えかけになる言葉の尻尾。
 しかしはっきりとホセは自分の言葉で、自分の意思で、イタリアに残ると言った。
 がたん、とリチャードが座っていた方から椅子の音がする。

「ホ、ホセ──!」

 リチャードは洟をすすりながら、筋肉に覆われた太い腕と厚い胸でホセを抱きすくめようとした。
 ホセはリチャードをぽかぽか殴りつけて牙を剥く。

「だああ暑苦しい! 離れろバーカ! このマリコン野郎!!」

 そんな二人の様子を見て、ディンゴは頬杖をついた。
 そしてからかうように口角を上げる。

「素直じゃないねェ」
「あぁ!?」
「ククク、怖い怖い」

 ホセは迫り来るリチャードの逞しい腕を防ぎながらディンゴに唾を飛ばした。
 しかしディンゴはそんなホセの様子に小首を傾げて深く息を吐く。

「ま、好きにしナ。いつでも戻ってきてくれて構わねェからヨ」

 その姿はまるで安堵しているかのようで、また全て最初から分かっていたような様子だった。

「ホセ、オマエの帰る場所は東西どっち向こうが変わらずそこにあンだから」

]]]

Re: What A Traitor!【第1章完結】 ( No.33 )
日時: 2019/01/16 10:05
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1083.jpg

The finale

──【BAR:F】にて。

 セピアの間接照明に暴かれて二人分の影が落ちる。
 星の枕元で眠る町には似つかわない宵っ張りな酒場。今日も積もる話のある二人はここを貸し切っていた。
 パルタガスの甘い燻香が煌びやかな酒精に寄り添う。しかしそこに混じるは異質なコーヒーフレーバーの紫煙。いつもとは違う匂いがこの酒場から、この町から妖しく香る。
 バーマスターのエフことエフスティグネイ=アハトワは微笑を浮かべてブランデーグラスを磨いていた。
 二人はカウンターに腰掛けて視線を合わすことなく酒瓶の類いが並ぶ棚を見ている。

「よく一週間で出てこられたものだな。【大変】じゃなかったか?」

 最初に切り出したのはリチャードだった。
 彼はシチリア原産の葡萄酒に口を付け果実の香りを聴く。グラスを少し傾けると、照明は濃い赤を透かす。彼の故郷を思わせる漣模様が浮かび上がらせ見目にも美しい。そして最後に円やかな喉越しを愉しんだ。
 リチャードは此処に来ると毎度のように望郷の銘酒を嗜む。
 一連の動作を終えてグラスから口を離すと彼の赤い唇にはクラシックな紅が差していた。

「アー? 結構上には無理言ったけどナ」

 ディンゴはそう吐き捨てるとテキーラのショットグラスを一気に傾けて喉を鳴らした。
 彼は一週間、アカプルコの拘置所にいた。
 連邦警察は本部組織と癒着関係にあるカルテルの幹部の処遇を早々には決めようとはしなかったがそれでもうやはり一悶着あったらしい。
 彼はいつも度数のきつい酒をソフトドリンクのように流し込んで、顔色一つ変えない。
 透明な滴が上下する首筋を伝うと、割れてしまうのではないかというほど乱雑にグラスを置く。そして傷の入った指でライムを摘まみ上げるとそれに齧りついた。

「そうか」

 リチャードは端的に返事をして灰皿に置いていた葉巻のパルタガスを取って咥える。そしてゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
 蜜色の照明は時間の流れをとろつかせてこのまま夜を留め置くのではないかという錯覚をもたらす。
 闇色の帳(とばり)が落ちて眠りこけた小さな町で、二人だけが目を覚ましていた。

「で、オメエさんはどうだったンだ?」

 ディンゴは果肉が潰れたライムを皿に置いて傷跡の残る手で乱雑に拭った。
 彼の身体からは先の戦禍の跡が見て取れる。カッターシャツの下では縫われた裂創や埋められた銃創にガーゼが当てられているのだろう。不自然に布が押し上げられていた。
 そしてパルタガスを灰皿に置く。リチャードは葉巻の煙を吐き出すと控えめではあるが嬉々とした声色で応えた。

「上々だ。【アダムズ・ビル】構成員と話も出来たしな」

 何が【話も出来た】だ、とそう思わずにはいられなかった。
 狡猾なこの男の事である。額面通りの言葉だとそのまま受け取ってはならない。
 しかしそれ以上に気になること、今此処でリチャードと対峙せねばならない理由がディンゴにはあった。

「……リッキー。一つ、聞こうかねェ」
「うん?」

 リチャードは瞳を伏せて応える瞬間、ちらとバーカウンターを伺ったがそこにエフは居なかった。
 またもやワインセラーの手入れか、それとも酒の仕入れ状況を確認しにバックヤードへ行ったのか。
 それは分からないがロシアンマフィアの狙撃手を担っていた彼もまた勘が良い。とある種の萌芽を感じ取って席を外したのであろうことは想像に難くなかった。

「──うん? じゃねェヨ」

 ディンゴはスーツの胸ポケットに押し込めていたソフトケースから煙草を一本取り出した。

「あの晩ココでテメエには全て伝えた筈ダ。作戦の概要もその終結のシナリオまで。まるごとケツまで全部、お釣りが来るほどナ」

 そして吸い口を鋭い犬歯で噛み潰す。

「だがテメエはソレを曲げて国境にやって来た」

 自棄のように肺いっぱいに吸い込むと先端に赤熱が灯った。そして歯形の付いた吸い口を唇から離して珈琲の煙を吐く。

「オレの言う意味が分かるかいクソッタレ」

 ディンゴは紫煙に灼けた声で噛み付いた。
 もはや憎悪を隠さない唸り声と光を拒む三白眼。
 リチャードはワイングラスを揺らしてみせると、紅蓮に透かされ濃紺に変わった瞳でディンゴの双眸を見つめた。

「……はて、どうだろうか」

 ディンゴはバーカウンターを強く叩き、はぐらかすようなリチャードの返答に牙を剥いた。

「テメエはこの世界で築いてきた信頼を根っこから瓦解させるような真似をしたンだっつってンだヨ……リッキー、テメエのヤッた事は契約違反に他ならねェ」

 そしてリチャードの胸ぐらを掴んで乱暴に引き寄せた。
 髪に振った香水が薫風を生み、漆黒の巻き毛に高く結った白金の絹糸が交じ入る。
 威嚇するように眼前で牙を噛み締めたがリチャードは表情一つ変えずにディンゴを見据えた。

「コレでも分からねェか。──テメエの【ソレ】はナ、ただの自慰行為ダって言ってンだヨ」

 瞬時、黒瑪瑙と蒼玉が衝突した。
 一触即発。
 黒い憎悪を宿して迫る三白眼を濃紺が絶対零度を以て射貫く。
 ディンゴは今にも噛み付きそうなほどに肉薄して一重瞼を見開いた。

「今回の事が外に漏れたとしたら? オレが外部にヒり出さねェとも限らねェだろ? ソイツはお友達割引のつもりかヨ、全くもって笑えねェナ」
「契約違反? 厭だな、契約は弊商会の戦闘員を米墨国境に送ってカルテル指揮下に置くのを許容するという内容だ」
「ア? 吹くじゃねェカ。オレぁ鼬ゴッコで遊ぶ気はねェぞ」
「ホセをイタリアに留めておくというのはお前との口約束であって書面に記された事項ではない。ああ、今あるぞ。見るかい? これが契約書だ」

 リチャードはディンゴの手をはたき落とすようにして払いのけ、鞄の中から契約書らしき紙を取り出そうとした。しかしそれはディンゴに奪い取られてしまう。
 そして書面には一切目を通すことなくリチャードの蒼玉を見据えたまま、契約書を両手で引き破いた。
 びりびりと物体が意味を失いゆく音がこだまする。
 両者を縛る拘束具は白い塵になってひらひらと床に舞い落ちた。リチャードは呆気なく散り散りになってしまった紙片を無感動に目で追った。

「オイオイ抜かすなヨ、色男。一歩間違えてりゃ全てが狂ってたンだ」

 そしてディンゴはリチャードの視線の先にあるそれを革靴の踵で磨り潰すかのように足蹴にする。

「大団円で有耶無耶にされるとでも思ったカ? 甘いンだヨ」

 野犬は犬歯と敵意を剥き出しにして頭突きをかますような勢いでリチャードに迫った。

「何も知らないホセがポリ公の一斉捕り物に掛からなかったのもナ。正午ホセに言ったコトも何から何まで全部方便じゃねェ。番狂わせの異物混入で連携が取れなかったら、過去にねェ数の敵を相手にして疲弊しきった【onyx】が負ける可能性もあったンだ」

 そして低く言い放つ。

「テメエがヤッたのはトレイターの其れだ」

 リチャードは彼の言葉を瞳を伏せ黙って聞いていたが、ディンゴがそれを言い放つと同時にゆっくりと瞼を押し上げた。
 固く引き結ばれた金刺繍が解けて、薄闇に浮かぶ蒼玉を縁取る。彼は一瞬薄笑いを浮かべたような気がした。
 そして疾うにヘッド部分が灰に帰ってしまったパルタガスを取って、咥える。
 火種はまだ燻っていた。

「自慰行為、ね。随分な言い草じゃないか」

 口内で香煙を転がした後、細く長く吐き出す。
 燻(くゆ)ったのちに紫煙は空間に広がった。拡散した甘いパルタガスの香りが四方八方からディンゴに這い寄る。

「親である組織の命運と己の復讐を天秤にかけるだなんてお前も余程狂っている」

 葉巻の頭部分に積もっていた灰が崩れて、零れる。
 リチャードは長い指で灰皿を引き寄せると、辺りに散らないように灰を落とした。

「ア゛……?」

 リチャードは眉間に皺を寄せるディンゴを横目に、少し短くなったパルタガスを吸い上げる。
 そして葉巻を灰皿に置くと頬杖をついて艶っぽく笑ってみせた。

「そして天秤が傾いたのは復讐を乗せた皿だ。国境戦争を利用したのはお前だって同じだろう?」

 リチャードの黒い革手袋は照明にてらてらと妖しく光った。
 顔と声では笑っているがその合間に見え隠れする刃物が如き鋭利さは隠せない。
 蛇が蜷局(とぐろ)を巻くように手を組んで、光る瞳を差し向ける。

「俺たちだってなにもお互いの全てを知っているわけじゃない。戻らない過去も、これから何を為すべきかも」

 手を組んだその姿はまるで敬虔な信徒のようだった。濁った真実ばかりを直視し続けた筈の澄んだ青は真っ直ぐ前だけを見つめている。 
 高く結った長い髪はヴェールのように広がって彼の横顔を隠した。
 しかし次の瞬間金色の薄膜の狭間から、口角が歪められるのが見えた。

「しかし己の復讐がそんなに安い物ではない事だけは知っている」

 リチャードは片眉を吊り上げて、左手を差し出した。
 そして挑発するような声色で低く告げる。

「上等じゃないか、道徳の時間はハイスクールでお仕舞いさ。俺たちは倫理に背いても血を以てしてでも自らの利潤を追求する、一体それの何処がおかしいっていうんだ」

 ディンゴは二の句が継げなかった。
 この男は己の野望の為に、南米の支配者【アカプルコ・カルテル】を貶めることすら厭わなかったのだ。自身の為すべき事が最優先で、結局とどのつまりカルテルとビルの勝ち負けさえもどうでも良かったのだ。
 それは【トーニャス商会】が取る公正中立などという範疇を越えている。
 【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】が敗北を喫するということはディンゴの首が飛ぶことさえも意味していた。決して比喩表現ではない、粛正の弾丸に顎門を食い千切られる顛末だって有り得た。
 リチャード自身の部下のことを考えたとしてもそれは例外ではない。カルテル陣営が負ければメキシコにて散る可能性だってあった。
 この男はそれも考えていたのだろうか。
 そんなものジリ貧に陥った超弩級の大馬鹿野郎しか打たない博打ではないか。

「──リッキーよォ、テメエは一体全体何を考えてやがンだ……?」

 刃毀れしそうなほどに奥歯を噛み締めて問うと、リチャードは長い睫毛を伏せて静かに笑った。

「至ってシンプルな事さ。時は満ちた、ただそれだけだ」

 時は満ちた、その一言でディンゴはこの男と自分の中に決定的な違いを見出した。
 リチャード=ガルコという男がイカサマ抜きの勝ち筋の見えない賭けなどするはずが無い。ディンゴの脳内でフラッシュバックするのは九年前の出会いと一週間前の同じこの酒場での夜。

『ククク……リッキー、まさかあーンな安い挑発に乗ってくれるとはナァ?』

 乗せられたのはむしろ自分だったとしたら。
 がむしゃらな行き当たりばったりの博打でも何でも無い、あくまでも全てが計算尽くだったとしたら。
 持ちうる全てのピースを組み上げて作った舞台にて彼がリスクを冒す必要は何処にも無かったのだ。
 彼はビルの兵を過小評価することもなく【onyx】を過大評価することもなく打ち出した解答にただ伸るか反るかで勝負に出たに過ぎない。
 リチャードがカルテルは勝つと判断し、呼吸をするように自らがとるべき行動を選んだに過ぎないのだ。
 全ては彼の緻密な計算のもとにて動く駒、傍若無人なキングなどいない、彼こそが盤上の外のプレイヤーだったとしたら。 
 

「契約違反まで犯してメキシコに渡ったのも」
「商会主戦力になり得るホセがココに留まるような選択に導いたのも」
「不自然なくビルと接触して情報を得たのも」

 そして固唾をアルコールで乾いた喉に押し込む。



「端ッから全部全部、全部、ぜぇえンぶ、オレがヤマ持ってきた時カラ筋道立てたテメエの掌の上だったとでも言いてェのカ?」

 

「────お前は、どう思う?」

 やはり返答ははぐらかされるだけだった。
 この男と自分は根本的に違う。そして敵わないとも思い知らされた。
 しかしどれだけ塊を綺麗に彫刻したとしてもカルテルを敵に回すなどやはり馬鹿げている。が、だからこそ面白い。
 何故だか急に阿呆らしくなって笑いが込み上げてきた。リチャードも愉快そうに肩を震わせる。

「……ククク」
「……ふふふ」
「カハハッ!」

 張り詰めていた空気に笑声が充ち満ちて、響く。
 ディンゴは傷が重なった右手で顔を覆うと、身体をくの字に折ってくつくつと笑った。
 そして顔を上げると左手をひらひらと振って見せた。

「アァ、テメエは本当に喰えねェ野郎だナ?」

 リチャードは黒革で葡萄酒に染められた唇をなぞると後れ毛を耳に掛けて、ディンゴを流し見た。戯れに艶めいた声で熱い吐息を絡ませる。

「取って食うつもりだったか? 意外と見境無いんだな」

 ディンゴは片眉を吊り上げておどけるように肩を竦める。

「ハ、まさか。即刻チェンジで頼むゼ」

 左頬を引き攣らせるようにして笑うと、丁度エフが店の奥から戻ってきたようだった。
 ただならぬ雰囲気を感じ取り店奥に引っ込んで、笑い声が聞こえてきたから機会を見計らって出てきたといった具合だろう。
 エフは何事も無かったかのように潰れたライムと空いたショットグラスを回収すると、流麗な動作で新たなテキーラをディンゴに提供した。
 そしてリチャードに微笑む。

「ボス、ビットリアをお出ししましょうか」

 リチャードはシチリアの海風を運ぶ葡萄酒【チェラスオーロ・ディ・ビットリア】を好み、今日もそれを嗜んでいた。
 エフの言葉でグラスを見る。今しがたの攻防でワイングラスは空になっていたらしい、それには気付かなかった。
 ああ頼む、と言いかけて喉奥で言葉を呑む。
 もうワインの気分ではなかった。たまには感傷にでも浸ろうか、なんて。
 首を横に振ると黒い革手袋に包まれた己の左手を見つめながら静かに言った。

「いや……今日は【アンバードリーム】を頂こうか」

 リチャードは左手で肩に掛かる長い髪を梳く。
 彼の絹糸が如し金髪は蜜を溶かし込んだような照明に当てられ、琥珀色に艶めいた。





 空なんて嫌いだった。
 記憶にある空はいつ見たって灰色で暗い。
 たまに見上げれば雲は泣きだしてその滴は薄汚れた頬を打った。
 湿った瘴気に内なる肉を晒す傷はいつまでも膿んで治らない。

「自分の手で」

 煉瓦路地の真ん中を一人で歩く。
 初めはその赤と橙の並びに度肝を抜かれたが、一年も経てばもう見知った通りだ。
 山間にあるこの町も滅多に青空は姿を現さない。分厚い雲は木々に引き留められて山のあいだに長らくその身を置くのだ。
 しかし今日は雲一つ無く晴れ渡っている。久方ぶりに見る宇宙を薄めた真っ青はとても綺麗だった。

「自分の生き方を」

 自分の生き方を選べるようになるまで随分かかってしまった。
 多くの後悔を経て今自分はこの煉瓦道の上に立っている。もう話せない人だってたくさんいる。会いたくても会えない人もいっぱいいる。
 しかし亡者の手に雁字搦めに捉えられ歩けなくなりそうだった自分を救ってくれた人がいる事もまた事実だった。

 ふと、アカプルコの空が見たい、と思った。
 
 いつだって重たく這い回っていた雲の向こうにだってきっとこんな青と光が広がっていたのだろう。
 否、この世は地獄しかないと諦めて見ようとしてこなかったのは自分の方だったのかもしれない。
 そして故郷と今立つ路地を繋ぐ空に向かって精一杯手を伸ばす。

「自分の帰る場所を」

 ホセは燦々と笑いかける太陽をその手に掴んだ。



第一章麻薬編〜Dopes on sword line〜

(Dopes on sword line=剣線上の愚か者)

Fine.

Re: What A Traitor!【第2章1話更新】 ( No.34 )
日時: 2019/01/26 17:24
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6221.jpg



──イタリア=トーニャス、冬。

 北イタリアの山脈の麓にあるヨーロッパの旧市街トーニャスには冬が訪れていた。
 イタリア北部の山岳地帯は世界的にも有名なアルプス山脈群にも属している。トーニャスはちょうど裾野に位置していたため雪が積もるほど降るということはなかったが、周りの山々を見上げればその頂上は早々に雪を被っていた。残雪もしつこく、真夏でも視界の端には清らかな白がちらつく。
 夏は涼やかな山颪(やまおろし)も冬には凶器でしかない、トーニャスは厳冬の町だ。
 山から吹き下ろす木枯らしは橙の煉瓦路地を通り抜けてあたたかな色をした小さな町を冷やした。
 アルプスの尾根で生まれた冬の空っ風はトーニャスの町を遊び場にする。冷気の手はもつれあうように道会う人々を撫でて、その肩を縮こまらせるたびにひゅるひゅる笑った。
 しかし前を見ていなかったせいか路地壁に勢い良くぶつかってしまうと、よろよろと針路を変え一件の銃火器専門店の看板の前であっけなく息絶えてしまった。
 その銃火器専門店の名は【トーニャス商会】という。しかし町を形成する煉瓦を纏う佇まいは仮の姿でしかなかった。 

「一週間戻らないからそのつもりで頼む」

 リチャードは重そうなトレンチコートを羽織ると端的にそう告げた。
 彼がいつも着用している洗練されたデザインの青いスーツは垂れ幕のような裾で隠されてしまう。
 リチャードの言葉を受けたホセはオフィスチェアに背を預けて短い片眉を吊り上げた。

「随分急じゃねーか」

 床につかない両足を遊ばせるその顔はどこかぶすくれていて面白くなさそうだった。
 冬の彼はオーバーサイズのアウターに身を包んでいるため平生よりも小さく見える。赤道近くの常夏の地アカプルコで育ってきた彼にトーニャスの寒さは身に染みるのだろう。何処で買ったのか中に着ている起毛のパーカーもゼブラ柄のワンポイントが入っている。
 彼のデスク後ろにあるスペースにはマフラーに手袋や耳当てなど数々の防寒具が置いてあった。暖房を効かせた室内でも指先が冷たいのか、リングを嵌めた指を擦り合わせている。
 リチャードは支度の手を止め、ホセに向き合った。

「そうだ、彼はいつも急でな。今朝連絡が入ったんだ」

 ホセが訝るように首を傾げると、二連の黒いネックレスはかち合って部屋に金属の音が反響した。

「どこ行くんだよ」

 ホセはどこか不機嫌そうな声色で静かに噛み付いた。
 そんな彼の問いにリチャードは微笑んでホセに答える。

「日本、広島だ」
「日本……?」

 日本、日本は知っていた。
 何故ならばホセのゼブラ柄に数々の装飾品という格好は日本のアパレルカルチャーに刺激を受けたものだったからだ。
 アカプルコで暮らしていたときに偶然日本の若者ファッションを取り上げた雑誌を目にしたのがキッカケで、ただその一回で東洋人が身に付けているものに魅了されたのだ。
 ストリートで生きる薄汚れたぼろ布を纏う当時の自分と見比べて、あの世界は眩しかった。
 首のネックレスと手首のブレスレット、そして多くのピアスが嵌まった耳を所在なさげに触って、それからハイカットのショートブーツを見る。
 日本に行くなんて羨ましい、と思う自分も正直いて。
 ホセは何も言わずに肩を竦めてしまうとオフィスチェアをくるりと一周させた。

「イタリアから広島へは直行便が出ていなくてな、ミラノから東京経由で乗り継いでいくよ。空にいる方が長いかもしれない」

 リチャードは笑ったがホセは唇を押し上げてオフィスチェアからじっと彼を見るだけだった。
 彼のひび割れた宝石のような淡いプリズムからはどこか不満げな光が分散している。
 どうしたものかなと思いつつも、リチャードはデスクで顧客リストを整理していた浩文に声を掛けた。

「浩文、留守は頼んだ」

 声を掛けられた浩文は顧客情報の詰まったファイルバインダーを静かに閉じた。
 彼は【トーニャス商会】の核を担う戦闘部のリーダーであり、ボスであるリチャードが不在の際は彼が商会を取り仕切っている。そして特に先方からの指定がない限り、戦略戦法に関する事項を練るのは浩文の役割だった。
 浩文は顔を上げると少しずり下がった眼鏡を押しあげて上司に応えた。

「イエスボス、お任せ下さい」

 頼んだとリチャードが浩文に微笑むと、ホセはじめっとした声色で再度尋ねた。

「何しに……」

 旅行の類いではないことは明白だったがそれでも尋ねずにはいられなかった。
 ホセはオフィスチェアの上で膝を抱えててそこに顔を埋めている。あの淡くて大きな瞳だけを出してリチャードをじっと伺っているのだ。
 なんだか責められている気分になるような。
 ペットを飼ったことはないが子犬に留守番を頼むときはこんな気持ちになるのだろうかと、リチャードは心の中で苦笑するしかなかった。

「旧友の顔を見てくるがてら仕事の話をしてこようと思ってな。そうだ、ホセはお土産何がいい?」

 ホセはリチャードの言葉に目を丸くして肩を強張らせた。
 彼の淡くひび割れたような瞳からは隠しきれない動揺と期待の光が漏れ出た。
 ホセの心は日本のお土産という文言に躍った。
 日本には甘くて美味しそうなものも沢山あるし、自分の好みのアパレルブランドもたくさんあればアクセサリーショップだって沢山ある。
 言いかけて、喉元で言葉を飲み込む。
 欲しいものはたくさんある。でも口から次いで出たのは心にもない言葉で。

「は、は? ガキじゃあるめーしそんなんいらねえ……馬鹿にすんな」

 ホセは短い眉を寄せて視線を彷徨わせた。
 寒さに擦り合わせていた指は無意識にお互いを突っついている。リチャードはホセに柔い視線を送って別の答えを待ったが彼はぶすくれて表情で口を閉ざしたままだった。
 そしてホセは誤魔化すようにしてアウターに顔を埋めると、オフィスチェアを爪先で蹴って時計回りにゆっくり回った。

「ふふっ本当か? そうだな、みんなは何がいいんだ? 遠慮せずに希望を言ってくれ」

 リチャードが一堂に会する商会面々にそう告げると、応接室すぐのソファに腰を落ち着けていたファティマが一番乗りに手を挙げた。
 はいはいと挙手をすると彼女の黒衣はビロードのように艶めいて、部屋の景色を鈍く映す。
 リチャードがファティマを指名すると彼女は嬉しげに眉尻を下げて明るく言った。

「はいっ! わたくしは黒いつぶつぶがいっぱい入ったライスケーキがいいです!」
「ん、ファティマは大福だな。俺も和菓子は好きだ!」

 そんな二人のやり取りを見ていたホセが小さく鳴く。

「なっ」

 浩文もファイルに綴じられた書類を捲る手を止める。
 そして暫し考え込むような素振りを見せたのち、右手を軽く挙げてリチャードに言った。

「じゃあ僕は書き消し出来るボールペンと手帳をお願いします」
「浩文は文房具か。日本製のものは使いやすいもんな!」

 二人のやり取りを受けて、ホセは潰れたような声で鳴いた。

「ななっ」

 ファティマと浩文が品物を頼んでいるあいだ、アマンダは自らのオフィスチェアに背を預けて何やらパソコンで検索を掛けているようだった。検索しては再びエンジンに打ち込み直し、検索することを繰り返す。
 しかし浩文が言い終わると同時にマウスをスクロールする指が止まった。
 そしてパソコン画面から顔を上げるとリチャードに声を掛けた。

「そうしたら熊野の化粧筆を頼めるかい? そうだ、これだよ。ずっと前から気になってたんだ」
「おっ素敵じゃないか。アマンダは熊野筆だな」

 そわそわした様子で二人のやり取りを追っていたホセは目を見開いて鳴いた。

「んななっ」

 そしてリチャードは最後残ったシンに声を掛けた。

「じゃあシンは何が良いんだ?」

 リチャードが視線を滑らすと、シンは大型マシンに繋がるキーボードを忙しなく叩いていた。
 彼は背中を丸めたままリチャードに応える。

「え? えっと、うーん。ボスにLSI(大規模集積回路)を頼む訳にもいかないしなあ……」

 そして手を止めるとシンは無精髭を擦りながら思案する仕草を見せた。
 彼のキーボードの押下音が止むと分かったが、マシンは呼吸するように作業音をごうごうと立てている。
 彼は暫くうんうん唸っていたが、液晶を見続けて腫れぼったくなった瞼を押し上げて言った。

「じゃあボクはあの葉っぱの形をした饅頭がいいな、前食べた時美味しかったから」
「テメエもあに言ってんだよ!?」
「ひっ何でボクだけ……」

 ホセが目を見開いて牙を剥くと、シンは肩をびくつかせて強張らせた。
 リチャードは途端に威勢の良くなったホセの様子を見て笑いを堪えることが出来なかった。シンはこの商会内でホセが遠慮なしに接することの出来る数少ない人間だ。
 ホセが気弱な彼に絡む図式は商会の中ではよく見られる。初めはホセがただ彼を当てつけにしているだけの険悪な関係だと思っていたが、一緒に昼食をとる姿もよく見られたしよくよく見ればホセの方が彼に懐いている様子だった。
 接し方が分からない彼はつくづく不器用だ、なんて思いながら見守ってはいるが。
 シンは怯えたように身を縮こまらせてリチャードとホセの顔を恐る恐る交互に見た。

「だ、だってボス出張に行くときいっつも僕たちにお土産買ってきてくれるから」
「あ゛!?」

 そしてホセはリチャードの方を睨むようにして振り返った。
 瞬間、音を立てて淡い縞瑪瑙と深い蒼玉がかち合う。
 淡色の瞳を囲う稜線は細められ、刃物に浮かび上がるような波紋が映る。
 しかしリチャードはホセの鋭い視線を受けて尚微笑むと肩に掛かったトレンチコートを羽織り直した。

「そうだぞホセ、遠慮するな」

 リチャードの存外柔らかな返答にホセは毒気を抜かれてしまい、大きな瞳をぱちくりするしかなかった。
 ぶかぶかのアウターの胸ぐらが彼の細い肩に滑り落ちる。
 ホセは二の句も継げずに鋸歯の据わった口をぱくぱくと動かすと不規則な呼吸が漏れ出た。

「あー、えっと、なんでもいいわけ……?」

 反して弱気な口調に変わる。
 上目遣いにおずおずと尋ねるとリチャードは朗々と笑って応えた。

「何でも言ってくれ!」 

 欲しいものと聞かれて、浮かんでは消えていく。
 インターネットで簡単に輸入出来る世の中になったとはいえ、日本では英語もスペイン語も公用語の内に入っていないためホセの欲しがるようなアイテムは手に入りづらかった。

「じゃ、じゃあ……」

 そうしてリチャードから視線を外し、真っ赤に茹で上がった顔をアウターに埋めて言った。

「日本のメンズファッション誌……がいいかな、とか」

 ごにょごにょとしょぼくれた語尾は尻すぼみになって部屋の暖気に吸い込まれていった。
 不得意なインターネットではなく、日本で流行っているファッションを紙媒体で実際に見てみたかったのだ。服装は参考にして街に出たとき自分好みの同じようなものを買えばいい。
 ホセはリチャードの表情を首元まで伺っては顔を背け、上目遣いに心配げな顔をしては頭(かぶり)を振る。 
 リチャードはメモ帳を取り出して各々の希望を書き取ると、ホセの目を見て頷いた。

「ああ分かった。 楽しみにして待っていてくれ」

 ホセがほっとしたような表情を浮かべるとシンは頬杖を突いてここぞとばかりに口を挟んだ。

「素直じゃないねぇ」
「あぁ!? ンだとテメエ表に出やがれ! その口にサルミアッキを詰めてやっかんな!!」
「わ、怖い怖い」

 牙を剥くホセを尻目にシンはわざとらしく肩を竦めて再び液晶と向き合う。ホセはもう不満げな瞳をすることもリチャードを見ることもしなかった。
 リチャードはそんな二人のやり取りを見て、安堵した表情で言った。

「それじゃあ行ってくるよ。また連絡をいれる」


 
 店から一歩出ると、待ってましたと言わんばかりに山颪はリチャードの長い金髪を掠(さら)った。
 北欧系人種的特徴を持つ容姿に違わず寒さには強かったがトーニャスもアルプスの端くれである。リチャードは肩を縮こまらせて黒の革手袋を嵌めた手をトレンチコートのポケットへ突っ込んだ。
 今日のトーニャスも曇りだ。否、冬は分厚い雲が山脈から流れ込んで太陽が顔を出す日の方が珍しくなってくる。
 金刺繍が縁取る澄んだ青の瞳に曇天が映り込んで、彼の瞳だけは雲向こうにある蒼穹を映していた。
 すれ違う者もおらず、こころなしか彩度の落ちた煉瓦路地を独り歩く。戯れに息を吐き出してみると自身の呼気は白く凍らされ、空っ風に流されていった。
 そして郊外にあるバス停まであと少し、といったところでジャケットの懐が震えた。

「ん?」

 トレンチコートの重い布を押し退けて、ジャケットの中にて震える電子端末を取る。
 取り出して液晶画面を見遣ると着信は、朝方彼に連絡をよこした【彼】その人だった。
 リチャードは一息つくと、そのまま黒革に包まれた人差し指を液晶に滑らせた。
 寒い冬はいちいち着脱しなくても良いように指先を電導繊維に変えた手袋を着用している。

「Hello,hello. This is Richard=Garko from Tognas Co.Ltd.(もしもし。【トーニャス商会】のリチャード=ガルコだ)」

 リチャードは淡雪が乗ってしまいそうなほど長い睫毛を伏せて電話越しの相手に応答した。
 彼と直接会うのは数年振りだ。年甲斐も無く戯れに軽口を叩いてしまうのはやむかたなしだろう。

「May I speak to Mr.littleboss?(リトルボスを頼めるかい?)」

 少々の間があった後、リチャードは愉快そうに肩を震わせた。
 端末から漏れ出る不愉快そうな声色もトーニャスの木枯らしに掠われて寒空に溶けていく。

「I know,I know. I'm not kidding.(ああ分かってる、分かってるよ。ふざけてなんかいないさ)」

 リチャードの赤い唇は緩く孤を描いた。
 そして、彼の名を呼ぶ。

「白蛇会直系新屋組組長補佐兼若頭の新屋萩之丞、だろ?」

Re: What A Traitor!【第2章1話更新】 ( No.35 )
日時: 2019/02/09 12:51
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6228.jpg



──日本、広島。

 刻は夜半の月が留紺の空に昇りきった頃。
 男一人、渡り廊下の欄干に肘を預けて酒を飲んでいた。
 臙脂色の羽織を着流し、肌蹴た襦袢の肩口からは水流をあしらった化粧彫りの見切りが覗いている。御猪口の中には小さな夜空が収まり、池の錦鯉は尾ひれの赤を靡かせて水と夜のあいだを泳いでいた。山からの風が吹き抜け、丁寧に手入れされた萩の植え込みの輪郭を撫でる。
 流れるような髪は夜の仄灯りを受けて艶めいている。
 そして涼やかながら香る声が一輪。
 夜風に当てられた酒漬けの月は酩酊したように揺らいでいた。

「それなら明後日には迎えをよこそう。空港でええかい?」

 男はくすりと笑って受話器の向こうの相手を窘(たしな)めた。

「冗談言いなさんな、真珠の首輪を着けたシャム猫をリムジンバスに詰めるわけにはいかんよ」

 しばらく男は笑みを浮かべて電話口の相手に受け答えしていたが、次第に柳眉を顰めるようになった。
 刃物の鋒(きっさき)を思わせる切れ長の瞳がさらに細まる。 

「あのねぇ御前様は目立つんじゃ。長い金髪に瞳の青い大男だなんて、厭でも人目についちまう。此処は広島だよ、そこんとこよおく覚えといてくれな」

 一時会話が止んでしまうと、そこで和服の男は母屋の方から何者かが接近する気配を察知した。
 庭の花鳥風月から母屋に繋がる引き戸に視線を滑らせる。
 いまこの会話を誰かに聞かれたら些か困ったことになる。特に【保守派】の人間に捕捉されたのならば厄介だ。
 なるたけ早く会話を切り上げるべく男は息を吐く。
 しかしそれでも電話向こうの相手は引き下がらないらしく、男はにわかに語気を強めた。

「ええかい? 御前様が着き次第、車を寄越すから大人しくそれに乗って屋敷に来てくれ」

 そう言い切ると男は一方的に電話を切った。
 何やら最後まで抗議していたようだが別段構うこともあるまい、と池の鯉に目を遣る。
 そして端末を懐に隠してしまうと月の入った杯に再度口をつけた。心穏やかに香り高い酒精を聞き、闇に咲く花を心で見る。
 男は渡り廊下の軋みで今しがた感じた気配が近付くのを知った。
 そして木製の足音は彼の隣で止んだ。

「ここにおられたんですかい、萩之丞様」

 馴染み深い声に名を呼ばれた和服の男、すなわち萩之丞は顔を上げた。
 夜半の月明かりに相手の輪郭は仄暗く縁取られる。

「うん? なんじゃ用かい、悪かったのう佐輔」
 
 彼の視線の先には見慣れた顔があった。
 佐輔と呼ばれた男は首を横に振って、萩之丞に一歩だけ歩み寄る。

「いえ、どこにもお姿が見られんかったもんで。若様、真冬なンにこがぁなとこにおられるとお風邪を召されますよ」

 その言葉で一挙として自らが立つ瀬を自覚させられる。
 此処は白蛇会直系新屋組本家の屋敷で、彼はこの組を預かる頭首代行だった。
 日本広島を拠点とし西日本を裏で牛耳る新屋組の若頭、新屋萩之丞。彼がその人だった。
 濡れた黒漆のような深い呂色(ろいろ)の瞳を柔く細めて差し向ける。

「ん、今日はまだ暖かいじゃろう?」
「そんなん言うてももう夜でしょうに」

 萩之丞と佐輔は乳母子(めのとご)の関係にあった。
 母親を早くに亡くした萩之丞を実母に代わって育てたのは佐輔の母親であり、同年に生まれた彼らは肉親よりも強い結びつきを以て共に生きてきた。
 物心が付く前には既に萩之丞の母は他界しており、新屋組の組長を務める実父との関係は希薄で口を利いたことも数えるほどしか無い。
 義理人情と欺瞞の狭間に生きる極道組織の中では佐輔と彼の母だけが萩之丞の家族であり、唯一の味方だった。
 佐輔は心を許せる唯一の友である、筈だったのだ。
 彼は片膝をつくと恭しく萩之丞に尋ねた。

「若様、お背中の具合は」
「一週間前に白を入れ直したばかりじゃ。まだちぃと痛むよ、情けないことにのう」

 萩之丞は臙脂染めの羽織を掛け直すと呂色の瞳を伏せた。
 新屋の跡目には自らの名に咲く花と白い大蛇が背中に彫り込まれている。
 しかし白の顔料は皮膚に馴染みやすく発色が損なわれてしまう為に、定期的且つ半永久的に色を入れ直さねばならなかった。
 広範囲にわたる大蛇を己の身に宿すにはそれ相応の負担と苦痛が伴う。白蛇と新屋の家を継ぐ者としての一種の覚悟と矜持がその慣習には現れていた。
 もう一度風が渡り廊下に吹き込むと、萩之丞は伏せた瞳を押し上げて表情の明度を上げた。

「そうじゃ佐輔。明後日友人が来るけえ、駅まで迎えに行っちゃあくれんじゃろうか」

 萩之丞がそう言うと佐輔は目を丸くしておうむ返しに尋ねた。

「──友人、ですかい」

 彼は首肯すると、御猪口を傾けて喉を鳴らした。
 酒に映り込んだ月は彼の唇に触れると波紋を受けて掻き消える。
 左手で唇を拭うと白の袖口からカイナ袖九分の刺青が覗いた。白蛇の鱗と悠然とたゆたう水は胸元から手首に至るまでその身に刻まれている。
 そして萩之丞は遙か遠くにぼんやり浮かぶ半分の月を眺めた。

「海向こうの、青い瞳をした旧友じゃ」

 海向こうの、青い瞳、といったところで佐輔は眉を顰めた。
 古来より連綿と繋がる白蛇会幹部の一族に混血があったという話を聞いてはいないし、組の内部にも中国人や韓国人の流入を認められるようになったものの青い瞳をした組合員はいない。結局のところ萩之丞が言う友人とは白蛇会と新屋組にとっては余所者でしかなかった。
 佐輔は眦(まなじり)の険を強める。

「若様、そいつぁ新屋の敷居を跨ぐに足る人間で?」

 そして身じろぎすることなく萩之丞の瞳を見据えた。
 萩之丞は目を逸らすことなく佐輔の険を受け止めていたが、にこりと笑ってみせると次いで可笑しげにくつくつと肩を揺らした。

「ふふっ佐輔、御前様は昔っから血の気が多いのう」

 そして愉快そうに顔の横で手を振ると、そのまま佐輔の肩を叩いた。

「安心せえ、そいつとは十年来の付き合いじゃ、別に怪しい人間じゃあない」

 佐輔は肩に置かれた手を一瞥して、それから息を深く吐いた。
 そして軽く身を引くと萩之丞の手がそっと離れる。
 佐輔は諦めたような口調で言いながら萩之丞から視線を外した。

「若様がそう仰られんなら」

 佐輔が後ろに身を引いて萩之丞の手から離れた。
 臙脂色の羽織と襦袢がずり落ちて、化粧彫りの水流の見切りと白蛇の鱗そしてその上に舞い散る赤紫の萩の花が露わになる。
 
 萩之丞は二人のあいだにある埋まらない距離に彷徨う手を見て呟いた。

「のう佐輔」
「何でしょう」
「昔みたいに……萩と呼んじゃあくれんのかい?」

 肩を並べ野山を遊び回っていた時分とは全く何もかもが変わってしまった。
 幼少、新しい遊び場に萩之丞の手を引いて行った佐輔はいつの間にか彼の半歩後ろを歩くようになった。少々荒っぽいがそれゆえ人を信頼させるような言葉遣いも、いつしか周囲の大人たちのように厭に恭しいものへと変わっていってしまった。
 生じた亀裂は土埃を零して崩れていく。両者の距離は広がっていくばかりだった。
 萩之丞の学生時代すなわち広島を離れている期間、それはより顕著になる。
 現当主の落し胤に過ぎない自分は名に花を押し付けられるがまま、成人すると共に白蛇をその身に宿した。
 大学卒業後広島に帰ると、唯一無二の友であった筈の佐輔は【跪いて】再び自身の前に現れた。

「それは……出来ません。乳兄弟とはいえあなたはこの組を継承する若頭で、わしゃあ若様の下に就く者に過ぎません。昔とは一切合切が変わってしまいました、いんやハナッから変わっちまうもんだったんでしょう」

 感情の一切籠もらない声だった。懐古の念すら何一つ感じられない。
 萩之丞は一瞬ぴたりと動きを止めたあと、宙に遊ぶ手を静かに下ろした。
 羽織と襦袢がぱさりと乾いた音を立てて、刺青を隠す。

「そうかい」

 萩之丞は徳利を手に取り、御猪口に傾けた。 
 とくとくと透明な液が虚を満たし、小さな空間に夜を呼ぶ。
 徳利を持ち上げた重みから冬の星々と半月が浮かぶ月見酒もいよいよ酣(たけなわ)だろう。

「佐輔。その名前に生まれて、後悔したことは?」

 答えは間髪入れずに返ってきた。

「愚問じゃあありませんか若様」

 それは幼い頃の記憶と何一つ相違ない芯のある声だった。

「この屋代佐輔、命尽き果てるまで極楽浄土……いんや冥土の果てまで若様の共を致す所存であります」

 彼の家名である屋代(やしろ)。それは新屋の字に降りかかる災を一身に受け、代わりにその身を差し出す贄になることすら厭わないというさだめを意味した。
 そして彼の名は佐輔であり、介添えをするという意の佐と人のたすけをするという意を持つ輔で構成されている。
 生まれ落ちたその瞬間から自らの自由意志など無いに等しい。
 佐輔にとってのいち個人を識別する符号など、人生の全てを新屋の為に捧げよという隠喩でしかなかった。
 彼もまた家に縛られていたのだと知ったのは、広島に帰ってきて少し経ったあとだった。
 互いに知りすぎているからこそ歩み寄れない、歩み寄ってはならない。もう後戻りなど出来ないのだから。
 面(おもて)を伏せたままの佐輔に白い御猪口が差し出された。

「どうかね一献」

 佐輔が顔を上げると、萩之丞は何も応えず昔と変わらぬ笑顔を彼に向けた。
 そして杯を顔の横まで持ち上げる。

「一人じゃどうにも虚しゅうてやれんのよ。佐輔、付き合え」

 名前という呪縛による人生の拘束か、彼の自由意志に基づいて萩之丞に仕えることを選んだのか。
 今だけは、今だけは目を瞑っていたいと思った。



──二日後、広島空港にて。

「長かった……直行便が無いというのもなかなかに堪えるな」

 リチャードは予定通り日本広島の地に、厳密に言えば空港のロビーに降り立っていた。
 国際線から降りてきたばかりの外国人は未だ多く目立ちはしないもののロビーからは東洋人の数が一気に増える。
 四方八方から視線を感じながらサングラスを中指で押し上げる。
 物珍しさからくる子どもの無垢なまなざしも、長髪の白人に対する好奇の眼差しも、少々色めきだっているような熱視線からもう慣れたものだ。

(しかし人混みに長時間いるのもあまり良くないな。早く出るか)

 今回も偽造パスポートはセーフ、手荷物検査も種々検問などどれもこれも問題無くパスした。
 商会情報部であるシンなくしてこの仕事などやっていけない。彼から頼まれていたもみじ饅頭だが少し奮発してカスタードクリーム味を沢山買って帰ってやろうか。
 なんて思いながらロビーを出ようとしたとき、前方から誰かが此方に向かってくるのを認めた。
 黒髪短髪、そして黒いスーツに身を包んだ見知らぬ日本人男性だった。

「リチャードさん……でよかったですかいねえ」

 彼は外に出ようとするリチャードの前に立ち塞がる。
 サングラス越しの青い瞳のその裏にある網膜まで突き刺してしまいそうな険のある瞳だった。
 リチャードも彼の黒い虹彩を見つめ返す。
 背丈もそれほどあるわけではなく強者特有の厳かな雰囲気も無いが彼は間違いなく切れ者だ、と彼の第六感が告げていた。

「──あなたは」

 全身黒い男はほんの一瞬、リチャードの口から日本語が飛び出したことに面喰らったような表情を見せた。

「ああ、日本語は、少しだけなら話せます」

 リチャードがそう言うと、男は微弱ながら瞳の険を抑えて口を開いた。
 ただ淡々と己の為すべき事をといったような機械的な口調で。
 人々の大小溢れ返る雑踏に塗れても特異なその響きにリチャードは合点がいった。

「わしゃあ白蛇会直系新屋組若頭補佐世話付の屋代佐輔と申す者でさ。頭首代行の萩之丞様の命であんさんを新屋組の屋敷に連れてくるように、と」 

 リチャードは彼の言葉を聞くと頬を掻いて、そして大きく嘆息した。

「結構だと言ったんだがな……」

 緊張感のないリチャードに佐輔は声を低くして語気を強めた。

「そういうわけにゃあいかんのですよ」
 
 そして踵を返すとリチャードに付いてくるようにと示した。
 確かに人がごった返すロビーの黒服の男と白人が対峙している構図は傍目から怪しすぎる。とりあえず空港から離れるほかなかった。

「裏に車を停めてます、早う乗って下さい」

 リチャードは不承不承佐輔の後に続きながら肩を落とした。
 皆へのお土産はちゃんと買えるだろうか。
 久し振りの日本と広島なのだから観光がてら彼の元へ向かおうと思っていたが。

「若様がお屋敷でお待ちです」

 やはりどうもそういうわけにはいかないらしい。

Page:1 2 3 4 5 6 7