複雑・ファジー小説
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- 守護神アクセス【Epilogue-2・中編】
- 日時: 2022/05/19 21:16
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: m3Hl5NzI)
2020年、夏の小説大会で金賞もらっていたらしいです。
投票してくださった方々、ありがとうございました。
___
本編の完結とエピローグについて >>173
目次です。
▽メインストーリー
File1:知君 泰良 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6
File2:王子 光葉 >>9 >>10 >>11 >>12-13 >>14
File3:奏白 真凜 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>24 >>25 >>26
File4:セイラ >>27 >>28 >>29 >>30 >>31
File5:奏白 音也 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36-37 >>38
File6:クーニャン >>39 >>40 >>41 >>42-43
File7:交差する軌跡 >>44 >>45-46 >>47-48 >>49
File8:例えこの身が朽ちようと >>50-51 >>52 >>53 >>54 >>55-56 >>57 >>58
File9:それは僕が生まれた理由(前編) >>59 >>60-61 >>63-64
File0:ネロルキウス >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>72 >>73 >>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81
File9:それは僕が生まれた理由(後編パート) >>82
File10:共に歩むという事 >>83 >>84 >>85 >>86 >>87 >>88 >>89 >>90-92 >>93-95 >>96-97 >>98 >>99
FILE11:人魚姫は水面に消ゆる夢を見るか >>100 >>101 >>102-103 >>104 >>105 >>106 >>107 >>108-109 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116 >>117 >>118-119 >>121 >>122 >>123 >>124-125 >>126-127 >>128-129 >>130-131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136 >>137 >>138 >>139 >>140-141 >>142 >>143 >>144
Last File:12時の鐘が鳴る前に >>145 >>146 >>147 >>148 >>149 >>150 >>151 >>152 >>155-156 >>157 >>158-159 >>160 >>161 >>162-163 >>164-166 >>167 >>168 >>169 >>170 >>171-172
Epilogue-1 【守】王子 光葉 >>174-175
Epilogue-2 【護】知君 泰良 >>176-177
-▽寄り道
春が訪れて >>23
白銀の鳥 >>70-71
クリスマス >>120
▽用語集
>>8 File1分
>>15 File2分
>>62 File8まで諸々。それと、他作品とクロスオーバーしたイラストを頂いたのでそちらのURLも
▽ゲスト
日向様(>>7にイラストをくれました、感謝。What A Traitor!作者)
友桃様(Enjoy Clubの作者様。自分にとって小説の師匠や先生みたいな感じの方)
気軽にコメントとかもらえたら嬉しいです。
僕も私も異能アクション書いてるの!って子は宣伝目的で来てくれても構いません(参考にする気しかない)
- Re: 守護神アクセス ( No.168 )
- 日時: 2020/05/05 13:48
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
時は少し遡り、知君が王子から守護神の奪取を宣言したその瞬間。セイラと自分の間にある、目に見えない繋がりが薄れていくことを王子は実感していた。
これまでの日々が走馬灯のように思い出される。決して死の淵にいる訳ではない。しかし、それでも、これまでの王子 光葉は居なくなったことは確かだ。誰かを守れる人になりたいと思っていた。人々から感謝される、テレビの中のヒーローみたいに。
その夢は叶ったのだろうか。決して華々しくなどなかった。知君のように、沢山の人を護れるだけの強さを持つこともなかった。それでも今、自分が知君とセイラのためにできる最善の手を打てた自信はある。手の届く範囲は人それぞれ違っていて、知君は広すぎる範囲を、自分は等身大の腕の長さを持っている。
自分に許可された最大限の力を発揮できた。それは自信を持って断言できた。人知れないところで沢山のフェアリーテイルを助けてきた。ネロルキウスの力では処理することのできない、傾城のお伽噺の姫を助けてきたのはずっと自分だった。
がむしゃらに、何のためかも忘れて、ただ『頑張るために頑張った』時期があった。いつだってセイラは、契約者である自分のためを想ってくれていたのに、セイラのためと嘯いて、生き急いでいた時期。桃太郎と再会し、今度こそ捕まえてみせると息巻いて、後一手で殺されるところだったあの時。
ハッピーエンドを見せたいと願った、彼女を泣かしたのは間違いなく自分だった。幼稚で、我儘な自分は、セイラが優れている証明をする名目で、報われなかった自分が優れていると証明したがっていた。ガキ大将じみた、馬鹿な優越感に浸りたかった。
その後も、全然大人らしく振る舞えなかった。それは確かに、彼も高校生だ。まだ自分勝手なところがあって然るべき年頃だ。それなのに、同い年の知君はいつだって大人びていた。身体こそ小柄で、中学生と見紛うような童顔なのに。いつだって、誰かのためを考える知君に、劣等感を抱えていた。
そのコンプレックスが爆発したのが、病室で彼を罵った一件だった。ずっと誤解していた、知君が恵まれた人生だったと。華々しい強力な能力を得た裏側に、凄絶な人生があったことなど、知る筈も無かったのだ。
そんな時もセイラは寄り添ってくれた。肯定することも否定することも無く、ただ味方として王子と、その心の傷に寄り添ってくれていた。思えばいつもそうだった。正しいことを選択する時も、間違っている時も、傍にいてくれた。けれど、そんな日々ももうこれで終わりだ。
高校を卒業して、知君と一緒に大学も出て。太陽たちの後を追って捜査官になって、奏白みたいな本物のヒーローとなる。何時の頃からかその夢が現実味を帯びていたし、その人生設計を夢ではなく現実的な計画としてみなすようになった。一度諦めた夢が叶うものとなってから、忘れていた。人の夢はいつ潰えるか分からない儚い泡のようなものだということを。
知君には酷な事をしただろうか。今セイラが傍にいる事、これから先もセイラと歩もうとしていた事、そして何よりもセイラと出会った事。それらを脳裏に浮かべていたせいで、余計にセイラを奪わせることを躊躇させてしまったことだろう。
この選択は果たして正しかったのだろうか。ソフィアを救う。ただそれだけの観点で見るならばこれは唯一それが可能な方法だ。ただ、その代償があまりに大きすぎた。自分とセイラの間に交わされた契約の破棄、そしてその実行犯となる知君の心の傷。
ただでさえ知君は他人の守護神を奪うことを恐れていた。幼い頃に彼を育成させていた女性研究者と、王子 洋介。二人の人生を捻じ曲げたと彼は己の行いを、正しくはネロルキウスを御しきれなかったことを悔いている。ラックハッカーからシェヘラザードを奪ったことは当然のことだと割り切れていたようだが、今回ばかりは勝手が違うのだろう。
ようやくできた一人目の友人。その友人が大切に育ててきた大きな将来の夢ごと、略奪しなくてはならなかった。望まぬ形で、他人の道を踏み躙った。そんな傷を負わせてしまった自覚はある。
「でもきっと、大丈夫だよお前なら」
これまでも、辛いことは何度も乗り越えてきた。孤独に、誰からも認められない日々の中で。だが今は違う。真凜がいる、奏白がいる。そして何より、俺もいるだろうと、王子は安堵の微笑を浮かべた。泣いてたって、落ち込んでたって、俺が知君の傍にいて、話し相手にでもなってやろう。
それが無能力者になった俺にもできる、普遍的な唯一の能力だ。
決して特別な力ではない。それでも、自分でもそんな事ができるというのは誇りだった。守護神なんていなくても、何もできないなんてことはないんだ。目指していたヒーローというのは誰かを助けられる人であって、決して巨悪を打ち倒す人ではなかった。
そうだろ、とは尋ねない。もう隣にも、背後にも、人魚姫はいないから。その決断を、意志を、正しいと認めてくれる誰かは、間違っていると諭してくれる誰かは居なくなったのだから。これから先は、自分の頭で進む道を決めなければならない。
それは過去の自分にとってとても難しいことだっただろう。けれど、もう大丈夫だ。道しるべなんてなくても、正しい方へ歩むことができるだろう。
目の前で、翡翠色の髪が揺れていた。鱗の形をした耳飾りも、もう後数日で見納めだろう。ただ契約が切れるだけではない。この戦いが終わればきっと、セイラはシンデレラたちと共に異世界に帰るのだろう。彼女がそう決めるような気は薄々していた。だからこそ、自分も守護神アクセスを放棄できた。
もう契約は途切れてしまったが、未だ声は届くだろうか。その鈴のような声を、まだ俺は耳にすることができるのだろうか。手を取って触れ合うことはできるだろうか。
放心していたところ、振り返ったセイラと目が合った。同じようなことを考えてくれていたのだろうかと、痛む胸が少し弾んだような気がした。
「頑張りましたね、王子くん」
その意思決定が彼にとってどれだけ大きな意味を持つのか理解できないセイラではない。それが正しいと分かっているからこそできた決断とはいえ、王子にとっては大切なものをごみ箱に自ら捨てたことに等しい。そしてそのごみ箱をあさることは、誰にもできないのだ。
「別に。俺にできることをしただけだ」
むしろ頑張るのはお前の方だろうと釘を刺す。王子の戦いはもう終わった。けれども、セイラの戦いはこれからまた始まるのだ。大切な、姉のような存在。異世界でずっと仲良くしてきた親友のシンデレラを取り返す必要がある。
「忘れ物はちゃんと取り返してこいよな」
彼なりの激励の言葉を彼女はただ頷いて受け取った。これ以上言葉を交わしては、王子のいる場所に縫い付けられてしまいそうだったから。時間は限られているのに、この別れが惜しい。
私は彼に感謝を伝えきれただろうかと、不安になる。誰にも見つけてもらえなかった人魚姫を見つけてくれた、お伽噺の外にいる王子様、運命の相手。等身大で、人間臭くて、不完全な人だった。だが、そんなどこにでもいるような人でありながら、背伸びを忘れない彼のことが、ずっと愛しいと思っていた。これから先も、彼が没する時まで寄り添い続けたいと願っていた。
けれどもう、それは叶わない。白雪姫の継母、魔法の鏡の力で王子の行く末を見守ることはできても、傍にはいられないし声も届けられない。
行動や態度で伝えることはもうできない。だから、言葉で伝えよう。どんな言葉なら王子は喜んでくれるだろうか。そう自問して、初めに思い浮かんだ言葉は、これまで伝えたことのないものだった。
守護神が人間に、そんなことを伝えるのは身分違いだと思えてならなかった。拒絶されたらどうしようかと恐れていた。あくまでも王子が望んでいたのは守護神であり、セイラそのものではないのではないか、と。
だがその躊躇は全部、自分の気恥ずかしさを塗りつぶすための言い訳だった。王子はきっと、その言葉を拒んだりはしない。受け入れてくれるに違いない。だから、逸る鼓動を抑えてでも、熱くなった頬に気が付かないふりをしながらも、思いの丈を伝えることに決めた。
「ねえ、王子くん」
ついぞ、白馬に跨った王子様には伝える機会さえなかった言葉。かぐや姫の見せた幻覚の中でも、口にすることができなかった言葉。
特別な想いを飲み込み続けたのは、きっと今日この時のためだったのだろう。月明かりの照らす彼女の笑顔は、十五夜の月よりも、ずっと美しかった。
「私を見つけてくれて、手を取ってくれた、君のことがずっと大好きだったよ」
その言葉を真正面から受けて、王子は目を伏せた。嫌がっている素振りがないとは分かった。意味を理解した瞬間から、面白いように彼の顔が耳まで赤らんだことをセイラは目にしたのだから。
すぐ傍にいた奏白は、気の緩んだ笑みを浮かべ、真凜は呆れた態度で誤魔化しながらも、気まずそうに目を背けていた。
存外喜んでくれたようで、セイラも満足だった。僅かばかりの満足感を胸に、戦地へ赴こうとしたその時のことだった。王子が引き留めるようにその腕を掴んだのは。
その後の光景は、見ている側が照れ臭くなるようなものだった。奏白はもはやあまりの度胸に吹き出し、免疫のない真凜はというと、気まずさどころか王子以上に顔を真っ赤にしていた。
片手は驚いて振り返ったセイラの頭を包み込むように、もう一方の手は背中に添えて。自分のもとへと王子は人魚姫の身体を引き寄せた。次第に王子が近づいてきて、人魚姫の視界には愛しい人しか映らなくなる。
ほんの一瞬、刹那の一時。月光が伸ばす二人の影は重なっていた。契約など無くとも、交わせる心があるのだと、王子は証明した。言葉で伝えたセイラとは対照的に、行動で。
「ちょっと……ずっと前にクーニャンにも言われたでしょう……! せ、戦場でこのようなは、はしたな……」
「許してくれよ、緊張感が欠けてる訳じゃないんだから」
最後かもしれないだろ。
泣きそうに揺れている瞳のまま、そう問いかけられては否定できない。
できるだけ笑顔でいようと努めてはいるが、押し込めた感情のダムは決壊寸前だった。
それもそうだ。彼女にとってもそれは同じだったのだから。
別れの覚悟を決めたとしても、胸の中にある寂寥感は決して消えはしない。覚悟だけではどうにもならないこともある。
「ほら、急げって。シンデレラが待ってる」
「うん、行ってくるね」
背中に回していた方の手だけは離さないまま、彼女の背中を押して、戦場へと送り出す。
初めて会ったあの時、少年は人魚姫の手を取った。もう彼に、その手を取ることはできない。だから今度は、その背中を押してやろう。手を引いてくれる誰かが居なくても、誰かに見つけてもらえなくても、魔女の薬なんて無くても彼女が一人で歩いていけるように。
少年が、最後の最後に施したおまじないが、僅かな満足感しかなかったセイラの胸の内に広がっていく。温かな安心感と、彼からの信頼に裏打ちされた自信が、心臓さえ持たない守護神の肉体の内側で脈打っている。
きっと、本人は気が付いていないけれども、王子は何度もセイラの夢を叶えていた。だから、ここから先は彼の願いを自分が叶える番だと彼女も決めた。
自分が幸せになること。そのためにアシュリーを取り返すこと。彼の親友、知君のためにソフィアも救い出すこと。彼の決断で救われた人間を一人でも増やすために、戦うのだ。
セイラが知君のもとへ向かい、去っていく背中を見つめる中、緊張の糸が切れた王子はその場にへたりこんだ。元々身体は無理を言っていた。声も本当ならば出せないのに、無理に言葉を紡いだ。知君に檄を飛ばし、セイラを最後まで励ました。もう、身体も、心も限界なのだろう。
戦局的にも見守ることしかできない。残された王子にかける言葉もないまま、真凜は知君を応援することしかできなかった。ここで自分にかけられる言葉は無いだろう。多分に、この少年は兄の音也から伝えられた方が、喜んでくれることだろう。
「なあ、光葉。ちゃんと胸張って見守ってやれよ」
地面に蹲って、突っ伏したまま、声なきまま彼は感情を吐露していた。ぽつりぽつりと、晴れた夜空の下、通り雨が落ちる。膝をついたまま、身体を丸めて、誰にも見られないように顔を伏せたまま、人魚姫から見られなくなったところで彼はついに我慢の限界を迎えていた。
奏白の言葉にも頷いたものの、ものの数秒では分別などつかないのだろう。縮めた全身を震わせて、何とか立ち直るべく嗚咽を飲み込もうとする喘鳴のようなものが聞こえてきた。
「お前は多分自分の事を、満身創痍で、何もできなかった奴だって思ってるかもしれねえけど、そんなことねえよ。……落ち着いたらちゃんと、あいつらのこと見守ってやろうぜ。あの二人にとって、お前の言葉以上のエールは無かった。強いとか弱いとか、そんなの関係ない」
奏白も、もうとっくに王子のことを仲間だと認めていた。画面の向こうで活躍する、華々しい英雄の一人、捜査官の若きエース戦闘員。王子がフェアリーテイル対策課に合流した後も、その鮮烈な戦いぶりを何度も目にしてきた。知君と同じかそれ以上に敬意を寄せている、立ち振る舞い含めて誰よりヒーローらしい男だと奏白を尊敬していた。
「俺……ずっと前に約束じてたんです……。バッドエンドで終わる人魚姫の、セイラを、ハッピーエンドにしたい、って……」
「ああ、とっくの昔に叶ってたよ。気づいてなかったか? お前と一緒にいる人魚姫、いつだって幸せそうにしてたぜ」
返事はない。身体は縮めたまま、何とか自分の感情と折り合いをつけようとしているのだろう。出会った頃と比較して、彼は大きく変わった。奏白は彼の肩を叩いて、少年が歩んできたそれまでの長い道筋を称えた。
「別に、強い訳じゃなかったかもしれない。今までのお前は子供っぽいところもあったかもしれない。けどな、光葉。お前は間違いなく、今日一番かっこいいヒーローだったよ。この天才、奏白 音也が保証する」
だから、ヒーローが下ばっかり向いてちゃ駄目だろうと、顔を上げろと、最後まで見届けるように示唆する。
だが、未だに少年は微動だにしようとしない。どうしたものかなと首を傾げた奏白を、隣に立つ真凜が笑った。
「馬鹿ね、兄さん。兄さんにそう言われたら、嬉しすぎて泣いちゃうでしょ」
これは決してリップサービスでも何でもない。親友である知君が肉親を取り戻すために、愛したセイラが親友のシンデレラを取り戻すために、自分の宝物を秤にかけて、それでもなお代償として差し出すと決めたのだ。その勇気ある決断を下した王子が、英雄でなくて何と呼ぶというのだろうか。
戦争の中心では、今まさに人魚姫と知君とが守護神アクセスを行っていた。月夜の晩に、人魚姫の影が溶け込んでいく。
そして、彼ら勇気ある少年たちの、総力戦が幕を開ける。残された時間は、もう十分と存在していなかった。
- Re: 守護神アクセス ( No.169 )
- 日時: 2020/05/08 03:15
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
ネロルキウスの力で奪った守護神というのは、言うなれば二つ目の特殊能力であり、ネロルキウスとは全くの別個体である。そのため、知君と契約した人魚姫の能力であれば、傾城の性質を得たシンデレラに対して能力が有効となる。知君にネロルキウスから王の特質が受け継がれていたとしても、そこから人魚姫に二重に移ることはない。
そのため、人魚姫の癒しの能力を用いることができるようになる。歌、つまりは声を媒介とする彼女の能力を、本来の契約者である王子は使えなくなってしまった。ならば、能力の行使権の譲渡先を変えてしまえばいい。王子から知君へその所有権を一時的に譲り渡す。その代償こそが、王子の契約だった。
だから、この千載一遇の好機だけはどうしても逃す訳にいかない。ただでさえ圧倒していた知君の手数はさらに増えていく。水を得た魚のごとく、助けられる手段を得た彼を止めることなどもう誰にもできない。
最後の数分だとばかりに、知君の集中力は頂点まで高まっていた。それに対してソフィアはというと、とうとう正気を失って破壊衝動に飲み込まれてしまった。血涙を流しているのかと見間違うほど、毒の瘴気の紅色が瞳を侵食していた。獰猛な肉食獣のように、犬歯を剥き出しにして目の前の障害に襲い掛かる様子は、麗しい歌姫に似つかわしくない形相だった。
そこらに散らばる飛沫たちを、空気中の水蒸気を集める。渦巻く水の触腕をいくつも生成した知君は、四方からソフィアを攻め立てた。宙を駆け巡る意思を持った水流は、さながら船を沈めるクラーケンの触腕のごとく。隙間を器用に潜り抜けるソフィアを的確に追い詰めていく。
ただし油断をする訳にはいかない。人魚姫の能力が通じるということは、シンデレラの能力で人魚姫の能力を打ち消せるということになる。ティアラの中央でルビーが瞬いた。紅蓮の炎がソフィアの手を覆い、真正面から迫る水の触手を薙ぎ払った。音を立て、瞬時に蒸発して触手は焼き払われたように見えた。
だが、人魚姫の能力は蒸発させても止まらない。再び凝結させ、シンデレラの右腕を掴んだ。一つの腕が掴んだと同時に、次々と別の触腕が襲い掛かる。両手両足を絡めとるように掴み、するすると全身に巻き付いていく。
完全に彼女の身体は水没し、空中で水の牢獄が完成した。動きは完全に止めた。そう思った瞬間にガラスの靴が純白に煌いた。白い光は氷雪を従えたことの証。瞬きの瞬間に、彼女を捉えたはずの水は一瞬にして凍てついた。水の状態だともがいても逃げ出せない。だから一度固めて、砕くことにした。
真っ白に凍てついた水の牢獄は、瞬時に内部から打ち砕かれた。黒薔薇のドレス、シンデレラが唯一自分自身に働きかける、肉体活性の装束。その身体能力は、奏白にさえひけを取らない。
氷の礫を目くらましに利用し、死角から回り込んで知君の背後へと到達した。無防備な胴体を今、シンデレラの凶槍が貫こうとしていた。ガラスの靴の先端は、アリスのトランプ兵の武器にも劣らない、絶命の凶器となる。
パチンと、軽やかな合図が響いた。発信源はソフィアの真正面、すなわち知君だった。刹那、ソフィアの身体を衝撃が襲う。二重、三重、否、数え切れないほどの痛みが彼女を襲った。先ほど砕いた氷の残骸が、次々と弾丸となって彼女の身体を打ち付けていたのだ。
腹を撃たれたと思ったら次は脚、足かと思えば次は肩。一瞬前の衝撃を、次々と迫りくる砲撃が上書きしていく。氷の砲弾は、完全に知君の視界にあるはずのソフィアを的確に撃ち抜いている。
「ガァッ!」
それは悲鳴ではなく、威嚇だった。身体が痛みを訴えても、もはやその刺激を理解する理性は失われている。己の身体さえ省みずに、筋肉が引き千切れてでも動き続けるキリングマシーン。
彼女を傷つけないようになどとは言っていられない。このままではソフィアの身体は自己崩壊する。だからこそ、出し惜しみなく容赦もなく、知君は攻め立てるしかなかった。
見えていないはずのソフィアを正確に撃ち抜いたのは、当然のことながら理由がある。遠目に見守っている数々の捜査官達から視界を奪い取ることで、自分の死角というものを完全に潰していた。
確かに、複数のカメラの内容を理解するには、必要な脳の処理能力が膨大となる。しかし、知君にとってそれは難なくできることだった。彼は己の守護神と打ち解ける以前、何十、何百回と、焼ききれそうな程の情報の洪水を乗り越えてきたのだ。たかだか十程度のカメラの視覚情報など、朝飯前だ。
ただし、やられっぱなしの姫君でもない。シンデレラはあくまで最強のフェアリーテイルであり、契約者と守護神アクセスした状態だ。そう簡単に力尽きることはない。あくまでも今彼女に攻撃しているのは人魚姫の能力だ。ならば反撃も不可能ではない。
今度瞬いたのは、ネックレスのエメラルドだった。翡翠色の閃光は薫風を表している。かまいたちのごとく、万物を切り裂く鋭利な風刃が、彼女を中心として巻き起こった。氷の礫を、たちまち無害な粒子レベルに砕き、裂き、分解していく。
エメラルドグリーンの刃の竜巻。それが止んだ後に姿を見せるのは、風に愛された王女一人。
その筈だった、本来は。
翠嵐の消えた其処には、シンデレラに屈することのない一人の少年の姿があった。たとえ人魚姫と新しく、二つ目の契約をしようとも、彼がネロルキウスの契約者であることに変わりない。
ELEVENである以上、彼にシンデレラの能力は通用しないのだ。裂刃に身を晒そうとも、彼にとってそれはそよ風と相違ない。粉々になった氷をもう一度水へと転換し、一つの塊に凝縮していく。
その能力の間隙を埋めるべく、知君は己の身体一つでソフィアを攻め立てる。空を蹴り、三次元的な動きでソフィアを追い詰める。ソフィアの頭上から、脳天を砕くような踵落とし、何とかソフィアはそれを両腕で受け止めるも、腕に痺れるダメージが残っている内にもう、知君の姿は無くなっている。
次は側方から肘打ちが飛んでくる。これは受けることができず、そのまま胴体に直撃した。ただ、ドレスの下にあるコルセットが上手く防具として働いた。ぐしゃりと嫌な音がしたため、もう二度目は無いだろうが、一度は何とか受け切れた。
だが再び、足音だけ残して少年の影は消える。消えたと思った、はずだった。それなのに認識したその瞬間にはもう、反対側から衝撃は走り、そのダメージを知覚した時には彼が地を蹴る足音だけが残されている。
回避もできず、防御もろくに間に合わず。何とか氷を従えることで、物理的な盾の役割だけ持たせているが、人魚姫が憑いている以上それは無駄だ。知君の前に現れた氷の壁は人魚姫の力で簡単に操作され、彼の身体が通る穴を開けられる。
炎の壁、風の刃の障壁、それらも無駄だ。形が存在しない以上、それそのものが攻撃力を持たない限りバリアの役割は果たさない。そして知君には能力による負傷は与えられない。抜け出せない牢獄という意味でも、打つ手が無いと言う意味でも、彼女は今、八方塞がりに陥っていた。
先ほどは氷の砲弾をいくつも利用していた。だが今度は、水の弾丸を全方位から無数に展開していた。既に、触腕から逃げ惑い、全身を礫で撃ち、能力を濫用し、肉弾戦闘でも疲弊している。
能力が及ぶ全域から、利用可能な水源全てを知君は利用していた。何にでも応用が利くネロルキウスの力を使いこなしてきた彼だからこそ、制限がある守護神の能力であっても十二分に引き出せる。ELEVENの超耐性も相まって、人魚姫さえ自分が自分でなくなったかと錯覚したほどだった。
人魚姫の弱点である肉体活性が不十分という部分もネロルキウスがカバーしている。そしてネロルキウスにできない、シンデレラの浄化は彼女の能力で担当できる。
理性を失っていた彼女以外、全ての人間が一様に理解した。今の知君に、弱みは何一つない。ただしそれは決して、彼が他の追随を許さない存在だったことに由来している訳では無かった。当然、彼にできないことはこれまでいくつもあった。彼は自分にできないことを、他者の協力を得ることで乗り越えただけだ。
全ての人は不自由で、完璧な人間など存在しない。ただし、それでも、本当にできないことなど何一つ存在しはしない。
腕を振り、準備していた大質量の水全てを一斉に解き放った。ソフィア一人を攻め立てるように、逃げ場全てを塗りつぶすように洪水が襲い掛かる。捕らえられてなるものか。本能的に、身体を燃え焦がすような衝動に任せて、彼女は一点突破に賭けた。
翡翠の光、紅蓮の一閃、同時に瞬いて彼女を黒薔薇の装束ごと包み込んでいく。光は凝縮し、次第にその煌めきは高まる。紅も翠も、融けるように色を失い、黄金色のオーラだけが小さく等身大に圧縮されていた。
次の瞬間、耳を劈くような轟音を響かせ、一点に集中したエネルギーは解き放たれた。ハリケーンを思い起こす突風の勢いで体を加速し、目の前の大瀑布を紅蓮の業火で薙ぎ払う。
さしもの彼女とて、何トンもの水全てを消し飛ばすことはできない。だから、自分に触れる部分のみに焦点を合わせる。最低限の水だけ蒸発させ、行く手を阻む知君の懐へ、最大速度で潜り込む。そのための一点突破。
だが、それでも届かない。
超高速で撃ち出された筈の彼女の身体を知君は完璧にとらえた。腰の辺りを抱きかかえるように体当たりで突撃し、そのまま自分の勢いに乗せて彼女の身体を今来た道へと押し戻す。
僅かな一瞬で構わない、彼女の身体を水面に付けてしまえば構わない。シンデレラの能力は『万物を魅了し、隷属させる能力』。全能ではない、しかし万能である彼女の能力を封じて癒しの聖歌を押し付けるためには、『空間と意思の疎通のみが存在する世界』へ案内せねばならない。
ソフィアの背後へ、全ての流水を収束させる。即座に蒸発させられるせいで、水面は次第に遠ざかっていくが、それ以上の速度で距離を詰めるべく、足取りを速めた。
まだ足りない。暴れる姉の身体を押さえつけ、奥歯を食いしばる。炎と激流の狭間、水分が揮発していく騒音の中で、気付けの咆哮を轟かせた。小さな体に似つかわしくない、強い感情のこもった怒号。
もはや時刻を確認する余裕もない。今が何時かも分からない。だが目の前でソフィアはまだ生きている。だったら、まだ手遅れなんかじゃないに決まっている。
勢いを増した二人の身体は、じりじりと水面に近づいていた。其処が入口だ。地道にその入口へと足を踏み入れようとする時間が余りに永く感じた。頭の中で時計の針が音を鳴らして動いている。その音がやけに五月蠅い。はち切れて壊れてしまいそうな心臓の悲鳴も五月蠅い。
永遠にも思えるような、はたまた須臾とも思えるような数秒の後、とうとうソフィアと知君とは、水面に辿り着いた。
彼女の背が水の塊、その表面に触れた。それこそが潜り込む条件であり、其処こそが入り口だった。
歌の能力で回復などの支援をする。水を自由自在に操る。その裏に隠れた、第三の人魚姫の能力。
窓ガラスや水の表面など、鏡面を入り口としてもう一つの世界に潜り込む力。その世界には、風が吹くこともなく、炎が立つこともない。
踏み入った者と、彼らを繋ぐ意思の疎通だけが存在する世界。風は吹かねど歌声響く。彼女の人柄を表したような、人を傷つけることを許さない、優しい世界だ。
「ねえ、姉さん……」
ずっと気を張り続けていた。王子から守護神を奪い取る決断をするその前から。唯一血の繋がった彼女と向き合う瞬間よりも前から。ラックハッカーと向き合う前から。
かぐや姫たちとの最終決戦を控えて、今日こそ大切な人を失うかもしれないと思った時から、強靭な知君 泰良という人間の中の、弱い部分は常に張り裂けそうな危うさを持っていた。
とうとう二人きりとなった瞬間に、ついに緊張の糸は切れた。感情のダムは決壊した。
「姉さんは、お母さんがいなくて悲しかったんだよね。僕も……会ったばかりだけど姉さんが死んだら悲しいよ。だから、この先姉さんがどんなレッテルを張られることになっても、十字架を背負うことになっても大切な家族になるって約束するから」
今にも涙しそうなか細い声を必死に張って、震えて詰まってしまいそうな自分を叱咤して、何とか絞り切るように彼は懇願した。それは依頼でも命令でもない。歳の若い家族が、年上の家族にねだるような、駄々のようなお願いだった。
「僕じゃダメですか? 僕と生きてはくれませんか?」
この先の幸せな人生を、家族として見守ってくれる姉が欲しいと願った。そんな彼の、細やかながらも、何より優先しなくてはならない、我儘だった。
- Re: 守護神アクセス ( No.170 )
- 日時: 2020/05/07 21:52
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「ソフィアはお歌が上手ね」
小学校の音楽会で、低学年のクラスは合唱をすることに決まっていた。全員が全員、楽器を器用に扱うことは難しく、笛や木琴のような道具を用いる演奏はもっぱら高学年の役目だった。
合奏、合唱の合同発表会。その帰り道にお母さんは、とても嬉しそうにそう言ってくれた。いつも仕事で忙しいのに、その日だけは無理して休暇をとって、私の姿を見に来てくれた。手袋越しでも、私の手を握ってくれるお母さんの掌は、とても暖かかった。
世界は音に満ちていた。それは雑草を踏みしめる音だったり、フォークと皿がこすれ合う音だったり。生活音のない空間は存在しないし、風がそよぐことは誰にも止められない。耳が遠くなっても、大きな銅鑼の振動は直接この体に訴えかけてくる。
世界は音楽に満ちていると、私は幼い頃から直感的に知っていた。相対音感と呼ばれる才能を持っていたおかげで、歌うことは比較的得意な子供だった。テレビでも、ラジオでも、沢山の音楽をかじった。交響曲さえも、その旋律を声で再現した。
一人ぼっちで留守番をすることになっても、両親が集めていたクラシックや最近の流行曲を聞いていれば寂しくなかった。メモリに刻まれたその曲を通じて、知らない誰かと繋がった気になれた、向き合えた気になれた。そうして、独りの時間を音楽で埋めてきた私は、知らず知らずのうちに音楽を愛するようになっていた。
決して私は、音楽の神様に愛されていた訳ではない。ただ、私が歌を愛していた。だからこそ、若くして歌姫と呼ばれるようになった。歌姫という壮大な二つ名を与えられるより二年ほど前、ハイスクールに上がりたてだった私の成功を、お母さんは泣いて喜んでくれた。
あらゆるメディアの広告において、私の姿は無くても私の声が響いていた。当時はギリシャに住んでいたが、国内で私は瞬く間に時の人となった。色々あって、会社を退職したお父さんが私のマネージャーになってくれて、私の活動は国外に向けても活発化していった。
その頃からだったろうか。敏腕経営者として、一ベンチャー企業を牽引してきたお母さんが仕事を休みがちになってきたのは。時折、収録や公演の合間に実家へ立ち寄った際に、お母さんと顔を合わせる機会が増えた。段々スケジュールが密になって、私の帰省自体は激減したにも関わらず、だ。
本当は、その頃からずっと、辛いはずだったろうに、私の前でお母さんはいつも笑っていた。小学生の私の歌が上手だったって、喜んでくれたあの日と同じ笑顔だった。
歌姫という大げさな名前がつけられたのは、ヨーロッパ全域において最も人気のあるアーティストだと認められた年だった。判断基準は曲の売り上げやプロモーションビデオの再生回数から算出されたスコアだった。どちらの面から見ても圧倒的だったらしく、私は東洋人と西洋人のハーフとして、ユーラシア全土でも愛されるようになる。
家に帰る頻度はまた激減し、お母さんとも中々話せなくなった。けれども、脳裏にお母さんの姿を思い浮かべて、自分を鼓舞し続けた。お母さんのあの笑顔だけが、私の心の支えだったから。
人前に立って恥ずかしくない自分であろうと、自分磨きも忘れなかった。お母さんがとても綺麗な人だったから、私も美しく成長できたのだと思う。そこに目を付けた多くのスポンサーは、私を女優たちの代わりに広告塔としても利用し始めた。
アメリカに進出して、大統領のラックハッカーに直々に認められ。星羅 ソフィアの名声は、とうとう全世界に轟いた。お母さんの故郷の日本でも何度も公演があった。二年にも満たない短い時間だった、私にとっての幸せな時間が続いたのは。
実家のある母国よりも、国外で活動する時間の方が長くなった時の事だった。父に病院から電話が届いた。私は何も知らされていなかったが、父は何となく察していたようだった。お母さんが倒れた。電話を切ったお父さんは、端的に、それだけ告げた。
真っ白な病室、ベッドの上で横になっているお母さんは、見たことが無い程小さく見えた。弱り切った人間というのは、まるで風船のように萎んで見えるのだと初めて知った。声が出なかった。少なくなったとはいえ、帰った時にはいつも会っていた筈なのに、私はお母さんの不調に気が付いていなかった。
いや、教えてくれなかったのだ。いつも通りに振る舞うお母さんと、お父さんは、いつ倒れてもおかしくない病状をひた隠しにしていたのだ。私を心配させまいと。ただ、それは間違いだった。だってそれは、治ると分かっている時にだけ有効な手立てなのだから。
医療技術も高度に発達した筈の今の社会であっても、その病気は不治の病に部類されるものだった。だから、私は、手遅れになって初めて知ったのだ。それを知っていたなら、仕事なんて頑張らなかったのに。歌なんて届けなかったのに。できるだけ、傍にいたのに。
二人が隠していたせいで私は、共に過ごす時間を失ってしまった。
「ねえ、守護神の力でもどうにもならないの?」
「難しいだろう。ナイチンゲールの能力を用いれば可能ではある。だが、ナイチンゲールは……」
「ELEVENだからなんだって言うの? 私達のコネクションならきっと交渉もできるわ」
難しい顔で思いつめていた父を何とか説き伏せて、どんな手を使ってでもお母さんを助けようと決めた。ELEVENの能力を個人の願望のためだけに用いるのはルール違反。しかしナイチンゲールでなければもう助ける手立てはない。その狭間で、お父さんは揺れていた。
だが、このままじゃ諦めがつかないと主張した私の気迫に、とうとう根負けした。これまでひた隠しにした負い目というのもあったのだろう。私はそこに付け込んだ。
元々、お父さんだってお母さんを溺愛していたのだ。一度決心してからは、彼女を助けるのだと父も乗り気になった。
「幸い、琴割には貸しがある」
だから頼みごとの一つや二つであれば聞いてもらえるかもしれない。そう期待して、琴割へとアポイントを取ることにした。十年以上も前、とある交渉のために彼とプライベートで連絡を取り合うためのアドレスを手に入れていると、淡々と父は口にした。
その交渉の具体的な内容は、その時は教えられなかった。機密事項であり、ジャンヌダルクの能力で口外することを禁じられていたせいだった。今にしても思う。自分はそうやって能力を使っているのに、私達が頼み込んでナイチンゲールを使おうとするのは許さないと言うのは、矛盾であり、ダブルスタンダードでしかないと。
大丈夫、お母さんのためだもの。多くの人は快く協力してくれるはずだ。瞼の裏の母の笑顔に後押しされて、琴割との話し合いに臨んだ。
だが、交渉の場での琴割の態度はというと、にべもないものだった。
「ならん」
私達の必死の頼みを全て聞いた上で、彼が応じたのはそのたった三文字だった。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。たった三文字、それだけを残して彼はその場を去ろうとしたのだ。
彼が扉に手をかけた時、ようやく我に帰った。待ちなさいと金切り声を上げ、男をその場に留まらせる。無表情に佇む、体温を感じさせない白髪の男は、まるで蛇のようだと思った。
「規約違反だとは分かっているわ。でも、医療じゃどうしても無理なのよ!」
「あのな、そんなんお前の母親だけちゃうわ。世の中似た境遇の奴らがごまんとおる。そいつら全員をナイチンゲールで直すのは無理や。術者の負担も半端ない」
ナイチンゲールが持っている能力は大きく二段階に分かれる。契約者の肉体に、どのような傷病が現れようとも、瞬時に回復して健全な、五体満足な肉体へ復帰させる超再生回復能力。および、他人の傷病の概念を切除し、自分へと移植する能力。つまり、病気やけがの苦痛全てを、術者に肩代わりさせる能力だった。
「何千、何万とナイチンゲールの契約者に死ぬより辛い苦痛を与えるような所業を強いる。その覚悟がお前にあんのか。お前が同じ立場やったら、赤の他人何百人のために発狂しそうな痛みを堪えられんのか?」
加えて、ナイチンゲールの使用が許可されれば、キングアーサーやシェヘラザードといった、世界を壊しかねない能力を利用するハードルも下がってしまう。それは許されない。だから、たとえ星羅 ソフィアが要人であったとしても、その願いには答えられない。
琴割というのは完璧主義であり、血の通った人間というよりむしろ、ルールに縛られた中で稼働するシステムのような存在だった。
「朱鷺子は……かつてお前に協力した筈だ。その借りを返そうとは思わないのか」
「貸しと借りのバランスが釣り合ってへん。延命治療の費用やったり、優先的に治験薬を投与する権利を譲る形では貢献したる。だが、これだけは許されへん。ナイチンゲールは使ってはならん力や」
議論は平行線だった。どうしても説得したい私達と、頑として首を縦に振らない琴割。その過程で、お母さんがどのようにあの男に貢献したのかを聞いたが、余計に腹が立った。
自分はELEVENの力を使うために、お母さんの遺伝子を、私の弟を利用しているというのに、なぜ他人にそれを許さないのか。お母さんが愚弄された気がして。奴がずるをしている気がして。私の弟が不憫でならなくて、怒りとも哀しみとも分からない涙が溢れて止まらなかった。
結局、許されはしなかった。私達はわざわざあの男に会って、お母さんと会う時間を減らしてまで懇願したのに、何一つ聞き入れてもらえなかった。社会として、厳正な規則としてその選択が何より正しいとは理屈の上でなら理解できた。でも、助けられる手段があるのに、その可能性に賭けることが許されないことがどうしても歯がゆかった。
「ごめんね。……ごめんね、お母さん」
「いいのよ、ソフィア」
「こんな事なら、歌の才能なんて要らなかった。何で、何で教えてくれなかったの?」
そう問いただすと、お母さんはひどく困り果てた笑みを浮かべた。自分が愛されていることを面映ゆく喜びながらも、私の言葉に酷く傷ついているようだった。
「私は、ソフィアの歌が好きだからね。世界中で沢山の人を喜ばせている姿を、テレビで何度も見て、私は幸せだったわ。貴女だって、心底楽しそうに歌っていたもの」
病気で弱った自分にただ寄り添ってくれるよりも、自分が手にした翼で、どこまでも飛び立つ姿を見ていたかった。だから隠し通したし、最も信頼できる人間にソフィアのマネージャー業を託した。
「私はね、沢山の人を救える人間になりたくて、父の会社を継いだの。ソフィアは知らないだろうけどね、私の会社はそういう仕事をしているの」
「知ってるよ。有害な廃棄物を処理したり、環境問題の改善のための事業を請け負ってる会社、でしょ?」
「うん。だからね、私一人がソフィアを独占していたくなかった。貴女の歌は、世界中に届けるべきものよ。だから、……この先もずっと、頑張ってね」
決してお母さんは、「私がいなくなってからも」とは言わなかった。そんな事を言えば、より一層私が傷つくと知っていたからだ。
もしかしたら治るかもしれない。そう信じて私は頑張り続けた。公演のスケジュールは決まっていたし、歌姫としての姿を、お母さんにも望まれてしまった。だからステージから、逃げる訳にいかなかった。
病院のベッドの上でも構わない。お母さんが笑っていてくれるなら、何でもよかった。
それなのに。
会うたびに腕が細くなっていた。日に日に血色が悪くなっていた。帰国する度に、その身体は小さくなっていた。
日本での海外公演を終えた夜だった。私が母の訃報を知ったのは。
お母さんの願いを叶え続けた私に待っていた仕打ちは、大好きだった母の死に目にも立ち会えないというものだった。
「何これ。ほんとに、私ってば馬鹿みたいじゃない」
急いで便を取って帰国すれば、何とか火葬前の母親と対面することができた。使い古された表現だけれども、ただ眠っているだけに思える安らかな表情をしていた。最後まで笑っていた。苦しい病気と闘っていた筈なのに。
お母さんが眠っていたベッドの隣には、私のコンサートを記録した映像記録媒体が山のように積み重なっていた。
お葬式が終わって、その表情も二度と目にすることができなくなった時、私の胸にぽっかりと穴が空いた。先に泣いていたせいで、心の中の悲しい感情は尽きてしまっていた。涙も哀しみも全て枯れて、洞のように空いた私の胸の内に巣食ったのは、灯ったのは、復讐の業火だった。
「絶対に許さない。あの男はただの独裁者よ。私が止めなきゃ。私みたいに、あの男に泣かされる人間を、これ以上産むわけにはいかない」
私は、使える物は何でも利用すると決めた。たとえ、その途中で自分が利用される側に回ったとしても構わないと。
アメリカの大統領だって、ELEVENだって協力者にしてみせる。自分の命を投げ打ってでも、琴割の創った制度に泥を塗って見せる。腕が千切れようと、脚を失おうと、永遠に歌など歌えなくなっても構わない。
首だけになっても、その喉仏を食い破って殺してやる。たとえ死ななくても、いつまでも呪ってやる。強い怨嗟の感情だけが私を衝き動かした。
慎重に計画を練った。これまでの実績と、各国首相とのコネクションも最大限利用した。自分が母の喪に服している間の活動休止期間さえ利用して、復活公演と銘打ってあらゆる国を守ることを決めた。米国を訪れて、ホワイトハウスでパフォーマンスをすることで、内密にラックハッカーと面会する機会を得た。
何も不足などなかった。復讐のための準備は整った。ネロルキウスと人魚姫の存在こそイレギュラーだったものの、軌道を修正するために計画の最後の部分に手を加えた。
全部、全部お母さんのためだった。私にできる努力は全部した。その無念を晴らすためだけに一年生きた。だからきっと、お母さんも喜んでくれるに違いない。その筈なのに。
復讐を決意したあの日から、ずっと。
瞼の裏のお母さんは、二度と私に笑いかけてくれなくなった。
- Re: 守護神アクセス ( No.171 )
- 日時: 2020/05/26 22:33
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
琴割 月光はELEVENの中でも他ならぬラックハッカーを最も警戒していた。他のELEVENの契約者たちは、宝くじに当たった小心者のような反応を示す中、彼だけがその力を自分のために使うことを躊躇わなかったからだ。例えば他のELEVEN、キングアーサーの契約者は、学者になるためにこの能力は必要ないと、phoneを所有してすらいない。
しかしラックハッカーは、能力を用いないままでも世界を牛耳るに足るカリスマ性を持っていた。一時、大統領選挙を有利に進めるためにシェヘラザードを使ったこともあるようだが、そもそも彼は守護神抜きにしても何度も議員として母国の政治に参加していた。
それだけ影響力のある、頭も切れる男がどんな願いでも叶えられるようなシェヘラザードの能力を使おうものなら、どのような影響が出るか、考えずとも分かるだろう。一国のみならず、世界中が彼の独裁政権下におかれることとなるだろう。
だからこそ琴割はラックハッカーに最大の警戒心を向けていた。彼の側近の中に、自分の息のかかった人間を潜り込ませ、彼にphoneが決して渡らないようにと見張らせていた。それどころか、彼と親密な人間、ボディーガードとなり得る人間全員に対してジャンヌダルクの能力を使ってでも『ラックハッカーへphoneを提供することを拒む』までの徹底ぶりだった。
だから本来、彼の手に渡る筈など無かった。守護神アクセスを行うための端末など。全ての合衆国民がジャンヌダルクの対象予備軍だったと言っても過言ではない。絶対に“彼女”の能力だけは使わせない。そのために最新の注意を、過敏すぎる程に払っていた、はずだった。
しかし誰が予想できただろうか。世界的なスターである星羅 ソフィアこそが、己の意志で彼にphoneを渡すなど。分かる筈が無いだろう。しかもソフィア達は、時間をかけて信用を獲得した。若き歌姫の復活公演、そのことしか考えていないと誰もが信じた。彼女が大統領と会食をしたとしても、それは接待のようなものに過ぎないと。
切り出したのは彼女の方からだった。ニューヨークで一番人気のレストランで血のような葡萄酒を舐めながら、護衛を含むあらゆる人間の退席を望んだ。こんな間近で見られていると緊張してしまうと。
ソフィアとその父親が大統領に危害を加えるとは到底思えない。それだけの信用を得ていた二人は、何とか護衛に頼み込んでラックハッカーと三人きりの空間を作り出した。時折給仕の者がワインや料理の提供に訪れるのみである。
メインディッシュが机に乗り、ソムリエが注文通りのワインを運び届けた直後のことだ。しばらく何者の邪魔も入らないというタイミングで紙袋に入った贈り物を、レストランの防犯目的で設置された監視カメラに見せつけるように彼女はラックハッカーに渡した。
その紙袋はフェイクだった。その袋に隠し、カメラに捉えられないように彼女はラックハッカーに簡素な端末を手渡した。その真の贈り物を目にしたラックハッカーは目を丸くした。
その端末には一枚の付箋が貼り付けられていた。そこの上には短く指示が書かれており、一秒にも満たない僅かな時間だけ、ラックハッカーはそこへ視線を走らせた。ソフィアからの指示を理解した彼もまた、機械仕掛けの目に映らぬようにそれを上着の隙間に隠した。
「もしもし、私だ」
ラックハッカーが電話をしたのは翌日の夜のことだった。ソフィアから彼へ付箋を通じて伝えたのはとても単純なことだった。守護神を使って一人の状況を作り、そのままそのphoneをプライベートな通信機として電話をかけろというもの。その端末の電話帳にはソフィアとその父、二人分のアドレスだけが入っていた。
「お忙しい中、時間を割いていただきありがとうございます、ミスターラックハッカー」
「構わんよ。理由は分からないがこんなに素晴らしい贈り物をしてくれたのだから。むしろ日を跨いでしまったことを私から謝ろう」
彼が通話をした相手は父の方だった。世界の歌姫と言われるだけのカリスマ、胆力を以てしてもまだソフィアは青さの残る生娘だ。対等な交渉相手として見るなら彼女のスケジュールからプロデュースまで一人で担っているこの男の方だ。
「それで、どうしてこんなものを……」
「それにつきましては、私よりもソフィアの口から聞いていただきたく思います」
わざわざソフィアよりも父を選んだのだが、先方としては都合が悪かったらしい。別段どちらから話を聞くこととなっても変わりはあるまいと、ソフィア達の機嫌を考えてラックハッカーは承諾した。通話口から漏れる吐息が、男から女へと変わる。しかしそこに華やかさは無かった。
先ほどまでは感情を押し殺すような静かなものだった。しかしソフィアの息遣いは違う。身の内に燻る激情を堪えかねているようで、その語気の荒さから怒りが漏れ出ているようだった。
その怒りの矛先は一体誰なのか。不可解な状況に至った自覚のあるラックハッカーは首を傾げた。自分が数年前から、自由に使える端末があればよいと願ってはいたものの入手できなかったphone、それを贈った二人だからと、指示に従ったのは軽率だったかと。しかしソフィアの言葉を耳にした途端、彼は何故彼女らが自分に協力を仰いだのか納得することとなった。
勿論ラックハッカーはこの時、彼らが復讐を誓った理由など知りはしない。だがそれでも、復讐の対象が彼だと言うなら、協力者は己こそが相応しい自負はあった。
「琴割 月光を地に堕とす。そのために協力して」
通話口の向こうで、彼女の言葉を咎める父親らしき声がした。だが、そんなものはただす必要が無いとラックハッカーは笑った。ラックハッカーはひどく選民思想が強い人間だ。自分を最も上に置いていることは当然だが、自分以外にも優れた人間を認めるだけの度量はある。
若くして世界一の歌姫だと称されるソフィアは、充分に選ばれた人民であるはずだ。それならば、対等な言葉づかいも許せるというものだ。その父も、遠慮をする必要はない。そもそもラックハッカーに武器であるphoneを届けたのは他ならぬ彼らだ。彼らの頼み事ならば可能な限り聞いてやろうと言う寛容さを彼は示した。何せ恩義はもう一つあるからだ。
目の上のたんこぶである琴割の権威を引きずり降ろそうと言ってくれるのだから。
「琴割 月光を殺すことはできない。でも、彼という人間、彼が構築した規範を失墜させる手立ては存在しているわ」
ソフィア達との密会は容易にできた。ホワイトハウスでの公演の打ち合わせと、その接待という名目でいくらでも会うことはできる。世間や琴割から疑念を持たれることもなく、だ。しかもシェヘラザードの能力を自由に行使できるようになったため、護衛の目も容易にかいくぐることができるようになった。
そしてソフィア達がラックハッカーと合流する前に琴割を貶めるべく練った計画というのは、琴割という男を正しく理解した完璧に近いものだと判断した。どうしてそれほど琴割を知っているのかは聞き出せなかったが、ただならぬ因縁があるとは簡単に分かった。
ラックハッカーが能力を使っても二人は口を割らない。つまりソフィア達と琴割との因縁は口外しないように口封じをされているのだ。そこに潜む事情は大きなものなのだろう。事実今でも、知君の真実をラックハッカーは知らないままだった。
琴割を嵌めるための作戦は大きく分けて三段階に分かれていた。
一つ、ELEVENでもなければ鎮圧不可能な未曽有の大事件を日本で引き起こす。二つ、琴割に無理を通してジャンヌダルクの能力を用いらせる。三つ、琴割が能力を行使した事実を告発する。
「この全ての過程においてミスター、貴方の存在が要よ」
それは概要を聞かされた時に既に理解していた。特に二つ目、三つ目の段階においては間違いない。大統領であるという事実、ELEVENであるという事実。二つの立場を併せ持つラックハッカーだからこそ可能なことだった。
まず無理に琴割が能力を使わざるを得ない状況を作るという点。これは非常に明快だ。琴割はELEVENであり、表向きに彼が能力を使うためには各国の許可を必要とする。つまり彼が未曽有のテロを鎮圧するためには、それを各国首脳が是としなくてはならない。そして世界一の大国の一つ、そのトップこそがラックハッカーだった。ラックハッカーの影響力は当然大きい。彼が「ELEVENの能力を使うまでもない」と主張しつづければ、追随する国も多い。結果的に琴割はジャンヌダルクを制限されたまま国内のテロに向き合う必要がある。
だが当然、琴割の力を使わない限り鎮圧できないものを用意する。となれば平和を優先する琴割の取れる手立てなど決まっている。捜査官達が通用しないと分かると、自分が能力を行使するはずだ。
「何せ琴割は端末を介さず自由に能力を使える。自分が能力を使ったとしても、その事実の発覚をいくらでも拒絶できる。だからどう転んでも三つ目の段階、琴割の告発は不可能な筈だ」
しかしそれを逆転させるのが、ラックハッカーがELEVENであることだ。彼が琴割を告発する立場に回ればいい。そうすればジャンヌダルクの拒絶の能力はシェヘラザードの超耐性によって阻まれる。
「だからミスターの協力は不可欠。あの男も、ELEVENの歩みを遮ることはできないわ」
「ふむ。それはともかく、どういった暴動を起こすのが問題ではないか」
そもそも日本の捜査官は層が厚いことで有名だ。英国の有名な伝説に登場する大魔法使いの守護神や、アマデウスと呼ばれる戦闘向きの守護神など、養成校や若手だけでも充分な戦力が整っている上、彼らの先達も優秀な者が揃っている。
波の軍隊では日本を切り崩すことは叶わない。しかも一つの国家に喧嘩を売るようなものだ。容易に兵士が用意できるとは到底思えない。あからさまな軍隊を作ろうものならばバッシングは避けられないこととなる。何をどうすればそれだけの壊滅的な被害をもたらすことができるのかと、ソフィアに尋ねた。
正直なところ不可能だろうと鼻で笑うつもりだった。後詰の部分は適切な手法だとは思うが、そもそもそれだけ影響のあるテロを引き起こすことは不可能だと。しかし、その鼻を明かされることとなるのはむしろラックハッカーの方だった。
ソフィアは思ってもみなかったものを利用して侵略行為をすることを提案したのだ。それは彼女の守護神がシンデレラだということも一考する必要があるが、それを言い始めればラックハッカーの守護神はフェアリーガーデンを統べる王である。
ならば、自分とてその解答に行きつく必要があったのだ。しかし至らなかった。その答えを用意できたソフィアの発想力に脱帽する。
「フェアリーガーデンの守護神達を使うわ。彼らならば、並大抵の守護神以上の力がある。その上契約者を用意する必要もない」
かぐや姫の特性を、ラックハッカーは完璧に把握している。何せかぐや姫という概念を異世界で生み出したのは他ならぬシェヘラザードなのだから。
「しかし、予想外の事態に陥った時、第二の策は用意しているのか」
いくら入念に計画を練っても、頓挫する時はある。そのため、第二第三の筋道を用意するのは社会のセオリーだ。
「当然よ。その時は……」
琴割が完璧主義な人間であり、規則に準じることを美徳とするのは十二分に彼女は知っていた。彼が能力を濫用することなど暗黙の了解としてしまえばいいものを、わざわざ隠蔽しようとする。これは、誰もルールを破る者がいないと見せつけたいようであると感じた。
前例を作る訳にいかない。それを自分にも強いているということなのだろう。
琴割は今よりもずっと昔、ラックハッカーが丁度生まれた頃に警視総監となった。警視総監となった際に彼の経歴というものがまとめられた訳だが、その際赤裸々に語られた事実がある。
彼が平和を作るのは、失った娘が好きだったアニメ作品の平和を実現させるためだと。争いが無く、魔法の力を人助けのために使うような優しい世界。だから自分が作った今の守護神能力社会において、苦しめられる人がいることこそ彼の完璧主義に泥を塗るための一番の行為。
さらには、ラックハッカーに伝えることはできないものの、琴割陣営にはソフィアの弟がいる。ソフィアを喪ったとあれば、彼からの信頼も地に落ちる。彼もまた、ジャンヌダルクに抗うことのできる一握りの存在。
「あの男の純潔の世界を、私の死という染みで穿つ。そんな世界、虚飾の幸せで塗りたくっただけ、真に優しい世界なんてこれっぽっちも実現できてないと教えるの。私はもう、この世に未練なんてない。私の命であの男の周囲の人間が、不信感を持つと言うのならそれだけで充分よ」
この瞬間こそが、彼女が命を投げ打ってでも復讐を為し遂げると明言したワンシーンだ。それは自分を洗脳する殺し文句だった。この世界にはもう価値など無いと。ここに生きる目的が自分には無いと、他ならぬ自身こそを洗脳する言葉。死ぬための決意を決める言葉。
愛した母が居る場所へと向かうための決断。生を、未来を投げ捨てる躊躇を棄てるための言葉。これから、また会えると希望に縋るための。
それなのに、どうして泣いているのだろうか。未だに母の顔は晴れなかった。それにしても、今になってどうして自分はかつての日々を夢見ているのだろうか。私は暗がりの中に映し出された過去の映像を俯瞰し、首を傾げた。
自分は何をしていたところなのだっけ。それさえも最早おぼろげな記憶だ。そうか、これは走馬灯だ。ようやく私も、お母さんと同じところに行くだけの資格がもらえたのだ。
果たして復讐は成功したのだっけ、それさえももう分からない。ここが自分の意識の内、瞼の裏側のことだと理解すると同時に、目の前にお母さんが現れた。
相変らず、声は聞こえてこない。しかしすすり泣いていることだけは様子から分かった。悲しんでいるのだろうか。いや、そんな事ある筈がない。いつだってお母さんは私を愛してくれていた。
だからきっと、これは感激の涙だ。私とまた、そして今度はずっと、一緒に居られることを喜んでくれているんだ。
そう、言い聞かせたかったのに。お母さんの顔がくしゃくしゃになっているのが見えた。その表情は決して、喜びの破顔では無かった。
「どうして……?」
その悲痛な表情が、記憶の上層部、近い過去において認知した人物の表情と重なった。お母さんの面影を持った、新しい出会い。私と血を半分共有する、試験管で生まれた弟。彼もまた、泣いていた。
何で皆して涙するのだろう。私に後悔なんて無いというのに。
ああ、本当に何も分からない。十二時の鐘はもうすぐ鳴る筈なのに、なぜだか時の流れは酷く緩やかになっていた。
- Re: 守護神アクセス ( No.172 )
- 日時: 2020/05/26 23:58
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
『待っていたんですよ、お姉さん』
『僕がここに来たのは琴割さんの命令でも何でもない。僕自身の我儘だ』
『貴女は死なせない』
それこそが、“彼”が私に突き付けた最初の言葉たちだった。彼はあくまで私の行く手を阻むために現れた。琴割の犬として、だ。そのような存在を受け入れてやる訳にはいかなかった。
突き放そうとした。私は傾城で、あの子は王だったから。かどわかすその手を振り払って、翻弄してやった。それなのにいつまでも喰らいついてきた。全能に近いあの子の唯一の弱点。それに怯むことなく、小さな体を酷使して彼は、何度殴られても、蹴られても、辛い試練を乗り越えてでも立ち向かってきた。
友達の夢を踏み躙ったあの時、あの子は怒りに満ちていた。他人の痛みの分かる、他人の夢の大切さを理解できる、聡明で優しい子だった。気弱に思えるような、華奢な女の子にも思える彼には、笑顔が一番似合うと言うのに、私が穢した。かつて私達を不幸のどん底に陥れた、琴割 月光のように。
初めて写真で彼を目にした時、私も父も言葉を失った。そこには間違いなくお母さんの面影があった。他人のために泣いて、誰かを鼓舞するために笑えるだけの、芯の通った心の強さがうかがえる少年だった。
この子の笑顔は、お母さんとそっくりだった。私がどれだけ公演中に真似しようとしてもできない、誰よりも眩しい太陽のような笑顔を、彼は携えていた。私を死なせないためだけに彼は立ち上がっていた。こんな咎人を、あの子のような優しい子供が救う理由なんてある筈もないのに、それでも助けたいなどと考えている。
社会貢献のためのベンチャー企業を率いていた母と、そういうところも似ていた。自分よりも他人の幸せを想って、誰よりも努力できる、絵本の主人公のような強さ。私はあくまで、いつまでもお母さんのためでしかなかった。たった一人を喜ばせるためだけに歌い続けていた。
だから、これ以上私の前で辛そうにするのは止めて欲しい。私が曇らせている現実をつきつけるのをやめてほしい。そしてその上で、心が張り裂けそうな痛みを乗り越えてまで、私を救おうとするのを、止めて欲しい。私は救われるに値しない人間なのだから。
ずきりと、もう痛む筈など無い頭に鋭い痛みが走った。何か、見ないようにと蓋をした感情が疼いている。脳裏で少しずつ根差しつつある、この違和感の正体は何だ。私は致命的な何かを見落としていると、潜在意識の私が呼びかけている。
だが、今にも燃えて朽ちてしまいそうな私の頭では何も考えられない。せいぜいできる事と言えば、幸せな思い出に浸りながら死を待つことぐらいだ。ドルフコーストの精神を蝕む毒ガスは、刻一刻と私を死へと誘いつつある。もう何も考えることなどできないのだ。だからせめて最期くらいは、幸せな幻想くらいに縋らせてはくれないだろうか。
それなのに、まだ私の胸の内に住み着いたお母さんは笑おうとしてくれない。ずっと泣いている。
「ねえ、どうして? 何で笑ってくれないの? 喜んでくれないの? 私、頑張ったんだよ。お母さんのために、お母さんと会うために。それなのに、何でずっと泣いたままなの?」
かたき討ちのために頑張ったのに。理不尽と不条理を、他の誰かが受けないように最善を尽くしたのに。あの琴割をやりこめてやったのに、どうして誰も褒めてくれないのだろうか。何故いつまでも私の道を阻むのだろうか。
そうやって袋小路の行き止まりで立ち尽くしている私に光明を投げかけたのは、彼の言葉だった。空間的にも遠くて、家族として過ごした想い出さえ与えられなかった少年。母の忘れ形見と呼んでも過言ではない少年。タイラの言葉が、私の脳裏にリフレインする。私と向き合ったあの子は、こうも言っていたじゃないか。
『僕がいるよ。姉さんの間違いは僕が正す』
うん、そうだ。私は最初から分かっていた。自分のしていることが間違いだったなんて。お母さんは優しい人だ。他者が傷つけられる姿を見て、平時の精神を保てる人じゃない。フェアリーテイルによる大量殺戮、それを先導したのが私だと知ったら、悲しむのは当然だ。その行動理念が、自分のためのかたき討ちだと知っているなら、死んでも死にきれないだろう。
でもね、お母さん。私にはもう分からない。じゃあ、どうすれば私は貴女の笑顔をもう一度見ることができましたか。復讐の心を忘れることなんてできなかった。貴女が支えてくれたから、私も強くいられたというのに。貴女を喪って、支えを失ってしまった私は、どう立てばよかったのでしょうか。
せめて、私の中に住むお母さんが幸せそうにしていたら、きっとそれだけで私は生きる活力が湧いた事でしょう。でもお母さんは泣いている。じゃあもう、私に生きる意味は見いだせなかった。
だから、これでお終い。不意に頭痛も耳鳴りもやんでいく。感覚が研ぎ澄まされていく。身体も軽くなっていく。それと同時に、身体からは力が抜けていた。何となくわかった、もうあと百秒と満たない内に私は死ぬということが。
ああ、良かった。こんな性格の悪いお姫様が、ようやくこの世から居なくなるのだ。それに、私もこの憎しみからようやく解放される。ついでに、お母さんが笑ってくれないもどかしさからも、魂が解放される。
永遠に、幸せな思い出の中に浸っていられるんだ。二度と悪夢を見ることも無ければ、辛い現実に目覚めることもない。
痛いだけだった体が楽になっていったのは、命の灯火が消える前に、一際強く、最後のきらめきを放とうとしてのことだろう。次第に視界が開けていく。今自分の身体がどう動いているのか、どこにいるのかも分からない。それを確認するため、そして今生の最後の景色を焼きつけるため、私は目の前に意識を集中した。
其処は、鏡の中の世界だった。聞いたことがある、人魚姫には水面などの鏡面を媒介として鏡の世界に潜り込む能力があるのだと。そして私は、その世界へ引きずり込まれたのだ。成程ここなら誰にも被害は出ない。流石はタイラと呼べばいいのだろうか、人魚姫の能力を完璧に使いこなしている。
そしてそんなタイラはというと、大粒の涙を溢していた。ああ、きっと、この涙は私のせいだ。彼を翳らせた、傷つけた、追い詰めた。それは間違いなく私のせいだ。だが、その涙からは逃げる訳に行かない。どのみち残り僅かの命だ。それなら、己の罪とはきちんと向き合おう。
だが、滝のように涙を流すタイラが、次の瞬間に見せた表情に私の心臓は凍り付いた。
笑っていた。満面の笑みを作って、泣きながらも私のためだけを想って。そしてその表情は、面影があるなんてものではない。お母さんとまるきり同じだった。『私のためを想って』作ったその笑顔に、常に『私の幸せを願っていた』お母さんが居た。
どうして、其処に居るのだろうか。私がいくら探しても見つからなかったというのに、どうしてタイラの中にお母さんがいるのだろうか。血を引いているだなんてそんな簡単な話では無かった。温度感が、柔らかさが、明るさが、まるきり同じものなのだ。
途端に、私の胸の奥で、沢山の者が弾けた。それは情報と呼ばれるもので、それは思い出と呼ばれるもので、私が宝物と呼んでいたものだった。
「うん。だからね、私一人がソフィアを独占していたくなかった。貴女の歌は、世界中に届けるべきものよ。だから、……この先もずっと、頑張ってね」
「私は、ソフィアの歌が好きだからね。世界中で沢山の人を喜ばせている姿を、テレビで何度も見て、私は幸せだったわ。貴女だって、心底楽しそうに歌っていたもの」
お母さんの言葉が溢れ出てくる。私だけに向けた贈り物が、言葉が堰をきって洪水のように押し寄せる。
ようやく分かった。いつ、お母さんが、どうして笑っていたのか。ずっと気づいていなかった、気づかないように思い出さないようにしていた。
小学校の合唱会の帰りに、
「ソフィアはお歌が上手ね」
とほほ笑んでくれたあの日からずっと、お母さんが笑いかけてくれた理由なんて一つしかなかった。
「ねえ、姉さん……」
目の前でタイラが口を開いた。私にはただ、耳を傾けることしかできない。
「姉さんは、お母さんがいなくて悲しかったんだよね。僕も……会ったばかりだけど姉さんが死んだら悲しいよ。だから、この先姉さんがどんなレッテルを張られることになっても、十字架を背負うことになっても大切な家族になるって約束するから」
私がしようとしていたのはきっと、私が負った心の傷、寂しさ、そういったものを全てこの子に押し付ける行為だった。誰よりその辛さを知っていたというのに、同じ悲しみで誰かを傷つけようとしていた。
現に彼は、精一杯笑おうとしているのに、泣いているではないか。
そうだ、お母さんが私に笑いかけてくれたのはいつだって。
「僕じゃダメですか? 僕と生きてはくれませんか?」
未来の私の幸せを、笑って生きられる日々を想ってくれてのことだったじゃないか。
私に生きて欲しいと願ってくれる、そのための表情にずっとお母さんは隠れていた。だからタイラの笑顔の中に見つかった。それなのに私は何と願っていたのか。
死にたいと願った。そんなの、お母さんはちっとも望んでいなかったのに。私の歌を誰よりも愛して、沢山の人に届けてほしいと願っていたのに。私は全部不意にして投げ捨てようとしたのだ。
自分の命と、一緒に。
「あああああぁぁあああぁあぁああっ!」
気づいてしまった、生への執着が生まれてしまった。だから私はこの瞬間、忘れていた筈の痛みを思い出した。
死の淵で、生き汚くなってしまった私を咎めるように、全身を引き裂くような痛みが私を襲う。それこそが、私への罰なのだろう。
私が叫んでいるのが聞こえる。苦しんでもがいているのが分かる。それなのに、身を焦がす苦痛しか今の私には感じられない。
どんな罰でも受ける。どのような形でも償ってみせる。だから、どうにか私に再び生きる権利をください。
可愛い弟の“泰良”を独りぼっちにさせないであげて下さい。
今の私にはもう、そう願う事しかできなかった。
知君の振り絞った言葉を引き金として、不意にソフィアは発狂したかのごとく叫びだした。まるで死に際の獣のように、狂乱の断末魔を上げている。不意に苦しみだした彼女に面食らうことなく、知君とネロルキウス、そして人魚姫の三人は状況を理解した。
救うための時間はもう残されていないと。ソフィアは目の前で叫び続ける。神に許しを請うように。懺悔して罪を白日に晒して、うわ言のように誰かに謝り続けている。
「ごめんなさいっ……、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 生きなきゃいけなかったのに……強く立ち直らなきゃいけなかったのに! 私は、私は……」
私が火を点けたこの事件で、沢山の人が失われた。赤ずきんも桃太郎も、沢山の人を手にかけた。直接ソフィアが手を下した殺人は無かったものの、彼女が引き起こした事態により、犠牲者は数多く生まれた。
「死にたくない、死にたくない! ずるいって分かってる、死んだ方がましな人間だって知ってるよ、でも生きなきゃ。こんな事起こして、逃げるように死んだら、それこそお母さんに合わせる顔がないから……だから、何だってするから、誰か助けて……。我儘言うのは今日で最後にする。死ぬまで生きるから、その分誰かを幸せにするから……誰でもいいから助けて!」
このままじゃ、天国にいる母も浮かばれない。自分を助けるためでなくて構わない。ソフィアの両親のために生き延びたい。この先の人生は全て世のために捧げても構わない。そんなことを口にしてまでも、彼女は生に縋ろうとしていた。
「今更、何言ってるのさ姉さん」
少年の流す涙は、ようやく止まった。助けたいと願った彼女が、ようやく自分の口から生きたいと言ってくれた、死にたくないと言ってくれた。だったら後は、助けるだけだ。
「最初からそのために戦ってたんだ。僕は守護神譲りの我儘な人間だから、助けるよ。その後ちゃんと僕の友達には謝ってもらうよ。だから……」
一緒に帰ろう。そう呼びかけて、残る言葉は全て人魚姫に委ねた。契約を結んだ知君の身体を媒介にし、人魚姫の歌声が鏡の世界を満たしていく。傷つき、穢れたものを浄化する癒しの聖歌。彼女の精神と根強く繋がった毒ガスを取り除くために人魚姫は想いを乗せる。彼女にとっても譲れない最後の戦いだ。彼女のとってもまた、親友であるシンデレラを取り戻す千載一遇の機会だからだ。
時間との戦いだった。歌を聞けばものの一瞬で癒せるという訳でもない。浄化が間に合わなければ彼女は命を落とし、シンデレラしか取り戻せないことだろう。
それだけは許されない。それは王子の覚悟を不意にするものだからだ。彼は、ソフィアを取り戻すために自分の夢を代償に差し出した。その行為を無為にしないためにも、ソフィアを救い出す必要がある。
鏡の世界の入り口を乗り越え、人魚姫の歌声は街中に響き渡っていた。聴く者全ての心を落ち着かせる、鎮静の歌。本当に彼がソフィアを救えるのかと不安になる一同の心をも沈めていく。深い悲しみも、興奮も、怒りも全て洗い流していく、人魚姫の優しさを示すような透き通る天女のごとき声。
それを耳にした、独りの少年は柔和な安堵の表情を浮かべていた。誰よりも早く、結末を理解した。見るまでもない、確認するまでもない。そうに違いないというだけの信頼が、少年の胸を満たしていた。
永遠とも思えるような時間だった。歌声だけが世界を満たしているような一時だった。気づいた時にはその聖なる凱歌は止まっていた。それに気が付いたのは、名前もろくに知られていない一人の捜査官のphoneのおかげだった。彼の名は王子 太陽と言った。彼には今夜死ぬ訳にはいかない理由があった。だから、今夜を乗り越えた実感を得るため、節目となる刻限にアラームを設定していた。自分の生還を確かめるための、凱旋の音を。
それは、鐘の音だった。リンゴンと鳴る鐘の声が、真夜中十二時を告げていた。同時に、ソフィアと知君が吸い込まれていった水面から、二人の姿が現れる。動こうともしないソフィアの身体を抱きかかえた状態で、知君は座っていた。瓦礫の野原の上に、服が汚れることも自分が傷つくことも厭わずに。
両者の守護神アクセスは解除されていた。二人とも、今はひ弱な女子供でしかない。目を閉じ、静かにしているソフィアはまるで呼吸を忘れてしまったようだった。シンデレラとの接続が切れた今、彼女が纏う布は襤褸と呼ぶべき姿になっていた。
誰も声を発することなどできなかった。自分の端末が音を上げているというのに、太陽も指先一つさえ動かせはしなかった。鐘の音が、何度も何度も鳴り響く。
その中で、初めに口を開いたのは、ボロボロの彼女だった。ひどくか細い声が、静謐の中を漂った。誰の耳にも届かないような囁き声ではあるが、彼女を抱き留める彼にだけははっきりと伝わった。
「鐘の音が……聞こえるわね」
その囁くような呟きを耳にした少年は、夜空に昇った満天の月よりも顔を明るく輝かせた。
「そうだよ……明日が来たんだ。十二時を超えたんだ。だからもう、悪い夢はお終い」
彼は腕にこめる力を強くした。ようやく面と向き合って、敵としてではなく、きちんと対話のできたかけがえのない肉親の身体を抱きしめる。
そんな様子を見て、周囲の者は一様に祝福の喝采を挙げた。夜空に昇った欠けるところのないお月さまは、今この瞬間の、彼の幸せを象徴しているようであった。
「だからもう、魔法の解ける時間ですよ」
長い間、彼女を苦しめていた呪いも、もうすっかり解けた。
まだ彼らには受け止めるべき現実が沢山ある。しかしそれでも、今この場においてその祝勝の余韻には、誰も水を差すことができなかった。
きっとあの月よりも、ずっと遠いところで、彼らの母も笑っていることだろうから。
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