複雑・ファジー小説

【短編集】蓼食う虫は好き好きで
日時: 2018/09/25 14:59
名前: 彼岸花 (ID: EnyMsQhk)

初めまして、私の名前は彼岸花と申します。
とてもスローペースですが、君が焼け朽ちるその前に。というものを書かせていただいております。

中々書く速度も上がらず、そちらが進まないので文章を書く練習の意味合いを込めて、他の方々もよくやっていらっしゃる短編集に手を出そうと思いました、よろしくお願い致します。

我こそはという方、もし何か文を読んでいて稚拙だと感じるところがありましたらぜひご教授いただければ有り難いです。

>>1 【たとえその顔が異形でも】大人・男
>>2 【それは戦場に咲き誇る。】三人称
>>3 【問答】会話文
>>4-5【青】少年
>>6 【2月13日】少女
>>7 【死滅の国のアリス】三人称
>>8 【幻灯聖火】紳士

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Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.4 )
日時: 2018/02/28 03:11
名前: 彼岸花 (ID: hgzyUMgo)

 生まれた生命は間違いでしたか?
 僕は誰に宛てた訳でもない手紙を締めくくり、綺麗に三つ折りにした。ちょっとのずれも無いよう、有終の美を飾るべく、爪の先で念入りに押さえつけて端から端まで折り目を引いた。
 百均で買った便せんは、今僕が教室の窓から見上げているのと同じくらいに淡い、空色をしていた。

 上履きが擦れる足音を抑えようともせず、いつもと同じ足取りで僕は階段を上る。目指しているのは最上階のさらにその上、屋上である。一歩一歩、その所作を味わうように僕は斜め上へと進み続ける。こんなに感慨深く階段を上ったことなんてあるだろうか。
 無くも無かった。というのもそれは、とても幼くて物心ついて間もないような頃。当然僕はまだまだ小さかった。目の前に立ち塞がる階段がまるで雄々しくそびえる試練の壁のように思えた。登れるかなと、挑発されるように感じたんだっけ。階段一段一段が、自分の腰くらいまであるくせに、僕は勇気を出して踏み出した。
 息を吸って、吐いて。両手をついてあの時はようやっと一段昇った。それが今やどうだ。心の欲求にほだされて涙を流すよりも、ずっと簡単だ。一段飛ばししようが二段飛ばしで進もうが、達成感なんてありゃしない。まだ、苦労して自販機の下から一円玉を拾った時の方が喜べる。けれども当時の僕にとって、その一段はとても大きな意味を持っていた。乗り越えられたことが嬉しかった。
 その充足感を得るために、一段、また一段と進み続けたんだっけ。幼い自分を想像すると、どうにもその姿は頼りなくてならなかった。えっちらおっちら上る自分は今にも落ちてしまわないかハラハラするような様子だったろう。
 あまりに遠い日の思い出だったため、僕はそれ以上そのことを思い出せなかった。あの日、僕はどうして階段を上ろうとしたのだっけ。そして、上りきることはできたのだっけ。
 上手く思い出すことはできなかった。けれども、焦る必要はない。どうせこれから、僕の生きた日々は全部思い出せることだろう。走馬灯が走る、という言葉があるくらいなのだから。

 屋上と聞いた時多くの人が思い浮かべるのは、日差しに照らされたきれいなタイルの絨毯の上で談笑している姿、ではないともう知っている。屋上で弁当を食べるだなんて、映画や漫画で見ることはあっても実際にそんな事許してもらえないって、僕らは皆知っている。
 なら何を連想するか。そんなもの簡単で、飛び降りだ。そうでもなければ、世の屋上は南京錠や鎖なんかで大げさに閉ざされてはいない。皆知っている、首を吊ってじわじわと死ぬ度胸も無い人でも、楽に死ねる薬を入手できない人でも、高いところから飛べば死ぬのだって。
 だって僕らに、翼なんて無いから。飛んだと思った刹那の後には、重力に引かれ落っこちる。イカロスなんかよりずっと呆気ない。彼はまだ、短い間でも空を飛べただけましだろう。尤も彼は死ぬ覚悟なんて最初からしていなかっただろうけど。
 なら僕に覚悟があるのかと問われると、分からなかった。死ぬ覚悟ができてるんだねと同意を求められると、でなければ屋上になど向かわないと答えられる自信はある。けれども、ほんとに死ぬだけの自信があるのかと尋ねられたら僕はきっと否定する。
 多分、生きる意味を無くしたから死のうとしてるんだろうな。あまりに短絡的な己の発想には失笑を禁じ得ない。生きる意味なんてその内見つかるだろうに、今この瞬間に無いからって死に急ぐだなんて。大人になった僕が嗤ったような気がした。その笑顔を思い起こすのが何だか苦々しくて、これからお前も無かったことになるんだ、ざまあみろと天に唾吐く。
 べちゃりと、頭の上に自分の涎がかかったみたいに、独り言が降りかかってきた。そうだよな、死ぬのは僕なんだ。けれども、やっぱり怖くなんてなかった。

 この学校の屋上は、南京錠という門番が侵入を防いでいた。昔は金色に輝いていただろう老兵の錠は、今や錆で赤茶けていた。けれども、拳ほどもあるその番人は、古ぼけてなお使命を果たしそうなほどに堂々としていた。
 けれども僕は知っている。五階と屋上の間に位置する踊り場、そこから外へと繋がる扉を眺めた。重苦しくて、何年も開いてこなかったであろう扉。そこが閉ざされていることは皆知っているので、誰も近寄らない。放課後、青春を謳歌する生徒たちはほとんどが教室かグラウンド、あるいは体育館にいるため、僕が屋上へ登ろうとする影を見られることも無い。そしてきっと、確かめた人もいないのだろう。実はあの錆に覆われた南京錠は、鍵など無くても力任せに引くだけで開くことを。
 それに気が付いたのは、一年前の事だった。隣のクラスにいるアイツが気に入らなくて、逃げ出した。まだ一年の初めの方だったので、僕らは物珍しそうな目で見られ続けた。けれども僕は、アイツと比べられるのだけはどうしても嫌だったんだ。だから逃げ出した、屋上へ続く扉の正面は、息を潜めてさえいれば誰にも見つからない、絶好の隠れ場だった。
 あいつさえいなければな、って思うけれど。それは違うと訂正する。むしろ初めからいなければ良かったのは、僕の方だった。
 一段踏み出すごとに、僕の命のろうそくに、息が吹きかけられるようだった。消えろ、消えろって、呼びかけ続けているのは果たして自分の声なのか、アイツの声なのか。同じ声をしてるから、どうにも聞き分けが付かなかった。
 いっそ別の人の声だったなら良かったのに。僕は思う。とすると誰だ、父か、母か。どっちでもいいか。
 上りきる。もう、階段は無い。着くところまで来てしまったなと、僕は思った。けどまだだ、人生の終着点にはもうほんのちょっとだけ早い。僕だけが秘密を知っている、そう思っていた南京錠を見て、僕は目を丸くした。昨日、最後に確認した時には閉じていたその錠前は、その役目を放棄していた。そんな馬鹿なと、昨日の行動を思い返す。昨日は確かに、三回も『施錠されていること』を確認したはずだ。
 だとすると、誰が。衝動に駆られるようにして、僕は急いで扉を開いた。ただし、誰に悟られる訳にも行かないので、静かに。
 目の前に現れた濃い青に、僕の目は焦がされるようだった。

 薄暗い階段を抜けた先に現れた青空は、教室から見た景色とはまるで違っていた。絵の具を塗りたくったみたいに、ぼんやりと朧げな水色をだらしなく広げるのではなく、強烈な光を放って見た者の心をわしづかみにする、鮮烈で、どこまでも深く、美しい青。ぼたりと落とした白の絵の具、それを力強く筆で引っ張ったような不格好な雲が、二、三浮いている。どこまでも澄んだ青に、生きていない僕の胸の奥は焼けるようであった。
 何だこれ。呟いた。何だよ。問うてみた。こんなの知らない。感動した。宝石みたいに煌びやかでもなくて、海みたいに全部飲み込む貪欲さも感じなくて、もっとずっと排他的だった。俺はお前とは違うと、突き放されたみたいだった。空なんて、無機物ですらない概念のはずなのに、僕はどうしてか自分よりもずっと生き生きとした印象を受けた。
 排他的。僕は自身の抱いたその言葉を噛み締める。飛んだものはいつか落ちる、滞在を許さぬその気高い姿がそう感じさせたのだろうか。死にたいなら、勝手に死んでろ、そんな彼の声が聞こえるようだった。喋るはずも到底ないのに。
 視線を落とす。先客も、同じ感慨を抱いていたようだった。屋上の中心に、じっと立ち止まっている。天高くを見上げて、じっと固まっていた。頬には一筋の光瞬く軌跡があった。泣いているのかと気づく。でも、どうして。それはきっと僕が最もよく分かる。扉を開いてからというものの、瞳の奥がどうにも熱くて仕方なかった。この場所に、鏡が無くて良かったと思う。
 走り抜ける、一陣の風。あまりに強い突風に、先客のスカートがバサバサと音を立ててたなびいた。太ももの裏にスカートの布地が引っ掛かり、前方の布が空気をはらんで膨らんだ。背中の中ほどまで伸びた、綺麗な黒髪も風にあおられ、肩の上の隙間から前方へと振り乱れる。彼女が瞬きをする、溢れた涙が頬を伝って、風に煽られ、輝きながら宙を舞った。
 風がやんで、彼女はようやっと見上げた首を元に戻した。いつも後ろにある髪が耳を覆い隠しているのが不愉快なのか、彼女は髪をかき上げてその横顔を見せた。僕は一歩を踏み出す。彼女の仕草があんまりにも魅力的で、さっき見た青い空と同じように鮮烈な印象を僕に与えてきた。

 扉を押さえていた手を離すと、ぎぃぎい耳障りな音をさせて、扉は閉まる。その音に、気づかれた。ゆっくりと彼女は僕の方を振り向いた。その所作一つ一つに、僕は惹きつけられる。こんな所で出会ったせいだろうか。先刻の感動をそのまま彼女に重ねてしまったからだろうか。青空に拒絶されてしまった僕の目には、もうその人しか見えていなかった。
 彼女は何となく、僕の様子から何のために現れたのか察したようであった。それはきっと、彼女自身も同じ理由でそこに来たと言うのが大きいのかもしれない。

「君はどうして、泣いているのかな?」
「……言わなくても、分かるでしょう」

 その時初めて、先輩は己が涙したことを知ったようだった。えっ、と呟いて、目を閉じて顔の左半分を手でなぞる。雫に濡れ、光る掌の様子を見て、まるで自殺しにきたとは思えないくらいに、愉快そうに笑った。
 先客のその方が履く上靴は、靴底のゴムが藍色だった。学年によってその色が異なるため、足元を見れば互いの学年がすぐに分かった。大人ぶろうとしたのに恥ずかしいなと、頬を紅潮させる。多分だけれど、僕の頬も紅潮していたと思う。
 そうして僕らは言葉を交わした。長いこと、ずっと、ずっと。先輩の身の上を聞いたうえで、今度は僕の話になった。初めに自分の話をすると言ったのは先輩で、簡潔に虐めが辛くなったと言って、それだけで終わった。
 だから長いこと話し合っていたのは、実のところ僕が先輩に相談していただけだった。

>>5

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.5 )
日時: 2018/02/27 23:22
名前: 彼岸花 (ID: hgzyUMgo)

「双子の兄がいるんです」
「うん」
「いつも比べられてきました」
「うん」

 先輩はただ、淡々と相槌を打つだけだった。だけど、話している間、片時も僕から目を離さないでいてくれた。それがどれだけ、心強かっただろうか。
 急かされた訳でもなくて、慰めてもらった訳でもなくて。でも、するりするりと言の葉は胸の内から溢れ出た。私は聞いているよって、言葉じゃなくて態度で示してくれて。だから、僕はきっと――――。

「生まれた日は同じなのに、弟ってレッテルを張られた時から、何だか違いを感じてならなかったんです」
「そっか」
「僕はここ何年も、家に居ないみたいな感じで過ごし続けてます」

 父も、母も。試験が返ってくるのは僕も兄も同じだと言うのに、兄の方ばかり気にかけた。僕だって、頑張っているのに。兄は天才だったけれど、僕は秀才どまりだった。たった一科目、兄よりいい点を取ったところで、他で巻き返されて結局僕はその日陰で控えているほかない。勉強だけでなく、あらゆる才能その全てがほんの少しばかりずつ奪われたようで、何をしても兄に敵うものなどなかった。

「何やっても敵わなくて、十年以上続いて、気づいたころには僕は期待なんて、されてませんでした」

 まるで、二人分の才覚を、兄に集約させるためだけに作られた部品みたいだと何度も思った。こんな惨めに暮らすくらいなら、最初から生まれて来ない方が幸せだったんじゃないかって、数え切れぬ夜、枕を濡らした。僕という材料が、欠片一つ残さずに兄の中に入ったとしたら、きっと兄はもっと愛されたのだろう。僕も彼の中でその一部として愛してもらえたのだろう。
 何より辛かったのは兄の態度だった。悲しいことに、こんな根暗なことを考える僕と違って兄は、僕が自分を心底蔑んでしまうくらいに優しかった。今回は僕の方も頑張ってたぜって両親に伝えてくれた。兄の名だけが刻まれたバースデーケーキに僕の名前を書き足してくれた。僕に冷たい両親の素気無い態度を見るたびに、申し訳なさそうに僕を見てくれた。
 両親は僕に興味が無くて、兄はずっと手を伸ばそうとしてくれた。振り払って逃げ出したのは僕だ。周りに居たのがそんな風だったからだろうか、僕は、突き放してくれたさっきの青い空が、どうにも大好きでたまらなくなった。
 続けて。そう、彼女が小さく促した。いつの間にか、僕は言葉を失っていた。親身になって聞いてくれる先輩の、切れ長の瞳が弧を描いて。西日に照らされるその笑顔に、言葉を失っていた。

「クラスに、友達はいるんですけど。こう言ったら皆に失礼かもしれないけど、やっぱり兄の方が好かれてるんじゃないか、って」
「重症だねえ」
「けど、そう思うには仕方ない日々でした」

 誰からも愛されていないのに、何を糧に生きればいいのか。体の糧は与えてもらえるが、心の糧は与えてもらえなかった。
 ほんと? 幼い日の自分が唐突に問いかけてきた。ほんとに、みむきもされてなかった?
 さっき、途中までで途切れてしまった遠い過去の思い出がよみがえる。あの日僕は、何をしようとしたんだっけ。
 階段の上には誰がいたっけ。父と、母と、兄。どうして僕だけ下にいたんだっけ。そうだ、兄がインフルエンザにかかって。僕にうつらないようにって遠ざけて、二人は心配だから兄に寄り添って。
 薬を飲んでも、兄は調子が戻らなくて。その日その体温は40度を超えていた。ああ、思い出してきた。僕は不安で仕方なかったんだ。一人で待つのがじゃなくて、大好きな兄がどこかに行ってしまいそうだったから。
 だから僕は、勇気を出して上ったんだ。途中で振り返って、上るのも帰るのも怖くなったっけな。そうして上りきって、皆のいる部屋に入って。
 おにいちゃん、だいじょうぶ? そう尋ねてすぐに父も母も振り返って、僕に驚いていた。二人の、不安で心が張り裂けそうな想いなんて全然気づかないで、僕は得意げにえらいでしょって自慢して、苦しそうな兄に駆け寄った。
 とても苦しそうにうなされる兄に対し、能天気にがんばれだなんて応援して、一人で階段を上りきった武勇伝を語って、そうして僕はこっぴどく両親に叱られた。

「勝手にそんなことして、危ないじゃないか!」

 あれ、そんな言葉だったっけ。おかしいなと首を傾げた。それじゃまるで、僕が心配されたみたいで……愛されていたみたいじゃないか。

「そうみたいね」
「えっ」

 間抜けな声が僕の口から洩れる。急に彼女の声がした。吃驚した僕があまりに可笑しかったのか、彼女は楽しそうに噴き出した。何その声、ってからかう声に悪意なんて感じられなくて、何だかとてもくすぐったかった。
 どうやら僕の思考は駄々洩れになってしまっていたようで、一人で思い返していたはずの思い出も、全部ぶちまけてしまったらしい。何だ、ちゃんと見てもらっていたんじゃないと満足そうに先輩は言う。

「……そうみたいです」
「じゃあ、何で見てもらえなくなったのかな」
「きっとそれは、僕が拒んだんだと思います」

 兄のためを想って駆け付けたのに、褒めるどころか叱られた僕は、やり場のない悲しみをずっと抱え込んでしまった。ほとぼりが冷め、冷静になった両親を、僕が突き放したんだ。もういいって、思い通りに動かないゲームのコントローラーを投げ捨てるみたいに。我儘言って放り出した。差し伸べてくれる掌を、一つ残らず弾いて、無視して、全部気にしないようにした。
 そのうち両親も諦めて、より一層僕は意固地になって、罅が日に日に深くなった。今じゃもう、何マイルかけ離れた大峡谷になったかなんて測ることもできない。
 多分僕は、差し伸べられた手を拒んでも、また差し出してくれることに満足していたんだと思う。ただの構ってちゃんだった僕は、自分が満たされるだけのために、家族に迷惑かけて、心労だけ与えて。
 両親は僕を見ようともしないんじゃなくて、僕のために見ないようにしてくれているだけだったのだった。きっかけとなった出来事を忘れてしまった僕は、愛が与えられないだなんて勘違いして余計に彼らを嫌って、それを見た家族は、より一層僕を放任すべきだと考えたのだろう。
 そうだ、そうに決まっている。愛してもいない息子のために、食事なんて用意しない。僕が、自分の居場所なんて無いと思っていた食卓には、ちゃんと僕の分の温かい食事があった。愛していないならば、衣服だって買い与えない。僕が着る服だって、兄のお下がりでもなく余り物でもなく、僕が好んで着そうな服ばかり箪笥に入っている。嫌いな人間の嗜好を、誰が知ると言うのだろうか。

 この後二人で、泣いたんだっけ、笑ったんだっけ。僕は自分の話を終えると、今度は先輩の話をちゃんと聞いた。先輩がしてくれたみたいに、相槌だけ打って、じっと彼女の目を見た。辛いことを思い出す彼女の視線は時折右下に向いた。けれども、彼女は言葉を止めなかった。
 太陽はもう、街の向こうに沈んでいこうとしていて、下校時刻五分前の音楽が校庭の方から聞こえてきた。サッカー部も、野球部も、陸上部も急いで着替えて帰ろうとてんやわんやだ。体育館の方からは、バスケ部の面々、教室からはゆったり歩きながら楽器ケースを抱えた女生徒の群れが現れた。

「私さ」
「はい」
「楽しそうに部活してる連中に、見せつけるように飛び降りようとしてたんだ」
「そうなんですか!」
「君も同じのくせに」

 芝居がかった驚き方をした僕を、彼女が窘めた。その顔は、青空の下で初めて見た、今にも張り裂けそうな表情とは全く違っていて。夏の夕日のオレンジ色みたいに、温かくて穏やかだった。

「でもさ、何か飛べなかったんだよね」
「そうですね」
「何でだろ?」
「突き放してくれたからですよ」

 何物の侵入をも拒む瑠璃色が、勝手にしろと言いながら僕らの飛翔を拒んだのだ。僕らの歪んだ気持ちを、想いをその青で全部焼き尽くした。後に残ったのは、一抹の希望だけ。その一抹の希望が何を指すのか今はまだ言えないけれど。
 いつか必ず、勇気を持ちたい。たとえその勇気が溶かされて、身も焦がされながら地に堕ちることになろうとも。例え気が弾んで失敗してしまったとしても、大空への一歩を踏み出したイカロスの勇気には、敬意を払うべきものだから。

「にしても君の遺書、何だか詩人みたいだね」
「やめてください! それもう捨てるつもりなんですから。っていうか先輩の遺書だって黒魔術の教科書みたいに恨み言だらけじゃないですか!」
「はは、違いない。ところで、生まれた生命は間違いだった?」

 たった一人で教室に残ってから書いた遺書、その結びには、家族に宛てたその言葉があった。しかしその問いは、僕に降りかかる。考えるより早く、口をついて答えは出た。

「これから、正解にしてみせます」

 かっこいいねと茶化される。苦々しい顔を僕はわざと浮かべた。やっぱり何だか、くすぐったくて仕方が無いからそれを隠すようにして。
 勇気の種を、心に一つ。いつか必ず花を咲かせてみせる。

 別にその時、隣にいて欲しいだなんて言わないけれど。
 まだちょっと、他人の優しさを拒みがちなその言葉は、口にせぬように僕は胸の内にしまいこんだ。

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.6 )
日時: 2018/03/18 14:10
名前: 彼岸花 (ID: dRebDXey)

 今日は決して、特別な日などではない。言うなれば、嵐の前夜、穏やかな凪。だけれども息遣いは聞こえてくる。明日は一体、何人が笑うのだろうか。何人が涙するのだろうか。関係ない人は沢山いる。私も「ほぼその一員」と言えるだろう。
 けれども、私の目の前で褐色の板切れと今もなお格闘している彼女にとって、明日は勝負の一日である。恋と言う化粧をした女の子が、お菓子という名の武器をとり、好いた男に想いを打ち明ける日。そう、バレンタインデーだ。
 そして今日は2月13日。繰り返すが、決して特別な日などではない。

「ふぃー、疲れたぁ」

 まな板の上の板チョコを細かく刻み終えた彼女は、ため息を一つ吐き出した。普段料理のお手伝いなんてしないものだから、見ていて危なっかしかったけれど、自分でやると言い出して聞かなかった。それらを全てボウルへと入れ、こちらの様子を見るべく振り返る。光を受けるとほんの少し茶色く見える、彼女の綺麗な黒髪が踊る。
 ふわりと膨らむようになびいたその様子に、私は見惚れてしまう。「大丈夫?」の問いかけに一瞬気が付かなかったくらいに。
 その問いかけの意味は、火にかけているクリームは大丈夫かという意味なのだろう。表情こそ変えなかったが、内心慌てた私は鍋の方に視線を戻した。木べらでかき回す手は止まっていなかったものの、湯気は強く立ち上っている。さっきまではもっと薄い湯気だったのだけれど。
 もう少し見惚れていたら危なかったなと、私は火を止めた。沸騰させてしまうと台無しだ。ボウルの方へ鍋を近づけ、溢さないように温めていたクリームを注ぎ込んだ。針のようなチョコレートの山を真っ白な洪水が飲み込んだ。彼女の想いも、これぐらい熱いのだろうか、なんて。

 少なくとも、私はこれに負けないくらいに温めている自信はある。

 溶けだしたチョコレートが渦を巻くように真っ白な海を染め始めた。じわりじわりと、茶色い色味は強くなっていく。レシピを再確認する。10秒から20秒待ってから、そろそろだろうか。じいっと時計を眺めて15秒経ったことを確認した彼女はゴムベラを手に取った。全体が均一になるよう丁寧にかき混ぜ始める。

「雑に混ぜると、分離する……」

 ネットの指南を声に出して、自らに言い聞かせるようにしている。独り言のようにぶつぶつと呟いているが、何を口走っているのか耳にしなければ呪詛のようにしか聞こえない。まあ、恋なんて呪いみたいなものと思えば、それも分からなくもない。
 それはよく分かる。私だって、欲しくて欲しくて堪らないものが一つくらいはちゃんとある。手に入れられないのはよく知ってるけど。
 クラスの男子から一番人気の彼女が明日このチョコレートを渡そうとする相手。それは、マネージャーとして彼女が所属するサッカー部のゴールキーパーの子だった。お相手が、女の子皆から人気で、U15だかの選抜に選ばれているようなエースじゃないことに私はひどく驚いた。けれど彼女は、いつも皆のゴールを守ってくれる彼の事が、たまらなく愛おしいのだとか。ああ、確かにその選択は、彼女らしいと言えるだろう。
 丹念に、丹念に。そして丁寧に彼女はかき混ぜ続ける。一周するごとに自分の恋心を確認するように。純真な天使みたいだなと私は思う。頬をちょっぴり赤らめて、輝く瞳を離すことなく。きっとその目線の先にいるのは、ボウルでもゴムベラでも、ましてやチョコレートなんかでもなくて、きっと彼。

 全くもう。どろっどろだよ。
 そう思う。

 次第にかき混ぜるチョコレートの表面に光沢が出てき始める。初めはクリームのおかげでさらさらとしたものだったけれど、次第にとろりとした粘度が出てきた。ゴムベラで褐色の流体を持ち上げると、ツーッと伝って落ちるのでなく、ゆったりと下へ歩くようにボウルへとつく。

「いいんじゃない? これ絶対上手に出来たやつだ!」

 喜び振り返り、私の目を真っすぐに見つめるその瞳は、思わず目を背けたくなるくらいに輝いていた。期待に胸躍らせて、満面の笑みをこぼす彼女は、どんな花束よりも色とりどりな光を放っているようで。これはどんなゴールキーパーだって撃ち抜いてしまいそうだって、考えてしまう。

「味見しよーっと」

 引き出しを開けて、ガチャガチャと器具をいじくる。そんな事せずとも、味見なんてへらについたもので十分だと言うのに。取り出した小匙でひょいと掬う。それを彼女は自分の口元でなくて、私の鼻先に差し出した。

「はい、あーんして」
「えっ」

 まさかそんな事されるだなんて思っても見なかった私だが、言われるがままに口を開ける。それはまるで、チョコレートの甘い匂いと、近づいてきた彼女のシャンプーの甘い香りに誘われるがままに。
 甘ったるい味が口の中に広がった。それ以外の細かな味なんて、今の自分に分かる訳も無い。

「ねぇねぇどう? 美味しい?」
「ん……いいんじゃない」
「やった!」

 口元を隠す、ふりをして顔の下半分を手で覆った。飲み込む前に何とか表情を整えて。
 心配そうにする彼女に、味は問題ないと私は告げた。やったぁと、お淑やかな彼女に似合わないガッツポーズ。
 純真無垢に差し出された味見のための5mL。無知と言うのはとても罪深く。所詮前座の私にとって、その一口は、さながら小匙一杯分の悪意だ。

「一日早いバレンタインデーだ」

 そう前置いて、どうだ、一足先に本命チョコを食べた感想は、って彼女は訊いてきた。ああ、そうか。そう言えばこれは本命のチョコレートだった。
 そうかそうか、例の彼には申し訳ないが、私は君のための、義理ではないチョコレートを君より先に味わってしまったらしい。それは非常に申し訳ない、なーんて、心無いことを。

「なるほど、愛がこもっている訳だ。大層美味しゅうございました」

 からかうように私が言って、返ってきたのは綺麗なVサイン。
 重ねて繰り返そう。今日は2月13日。決して特別でも何でもない一日だ。


 私以外の、人にとっては。




おしまい


後書き

別に作者は百合好きでも何でもないのに気が付いたらこんな内容に。
直接は書いておりませんが、視点人物は女性で、想い人でもある友達の「彼女」のお菓子作りを手伝っています。

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.7 )
日時: 2018/04/25 10:17
名前: 彼岸花 (ID: EnyMsQhk)

title:死滅の国のアリス


 アリスが気づいたその時には、もうとっくに彼女は彼の地に立っていた。紫色の霧が足元に立ち込め、真っ黒に淀んだ大地はなぜだかその模様が蠢いている。泥が波を打っているようにも見えるが、彼女の足元の地盤はちゃんと固まっている。実際のところ、足元の地面の模様が蠢いているという表現が最も正しいのである。
 空気は、うすら寒いというのが最も適していた。乾いた風がうねるようにして体の表面を撫でて、首筋から、足元から、彼女の体温を奪っていく。アリスの体温を亡者が奪うかのようで、元々薄着であったアリスはカタカタと歯を打ちながら体を震わせ始めた。寒い。地平線の先まで続く真っ黒な空を見ながら、彼女はあまりの寒さとそして、恐怖に体を強張らせつつあった。
 ここはどこなのか、アリスにはそれがまるで分らなかった。けれども、立ち止まっていることだけは避けようと思い、足を一歩踏み出した。というのも、じっとしているのが何よりも怖かったからである。どうして自分はこんなところにいるのだろうか、それすらも彼女には思い出せなかった。

 思い出す?

 ふと脳裏を過った言葉に、彼女は疑問符を浮かべた。そのまま立ち止まっているのが居心地が悪いのは依然として変わらないので、方角も分からないのに前へ前へと足を進めながら考える。どうして自分は、分からないではなく思い出せないと胸中でつぶやいたのだろうか。まるで、自分がこの地に立つ理由を、本当は知っているみたいだと彼女は悟った。
 思い出せる範囲で、アリスは直近の記憶を呼び覚ましてみることにした。最期に食べたご飯は一体何だったのであろうか。豆のスープ、だっただろうか。母親が得意としていた料理だ。味は、匂いは、舌触りは、色合いは……すべて、滞りなく思い出すことができる。けれども、それら全てに違和感を感じざるを得ない。本当に、自分が恋焦がれたスープのそれであったか?
 歩いていると、地面の様相が異なる土地に出た。真っ黒な地面ではなく、茶色く枯れ腐った草原だった大地が現れた。見ると、カラカラに水分を奪われた枯れ木がポツリと立っている。

「げっひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 バサバサと、翼を宙に打ち鳴らす音がした。そこで初めて、この世界がずっと静寂に包まれていたことをアリスは思い出した。誰も、何も口にしない。そう言えば、アリス自身も声を出そうとは一度もしていなかった。何となく、それが禁忌であると自分でも察せられ、言葉にするのが憚られたためだ。
 羽音の方に目をやってみると、そこに居たのは一羽の小さなカラスだった。小さな羽をせわしなく宙に叩き続け、よろよろとよろめき歩くような軌跡で、たった一本立っている枯れ木の枝に足を止めた。真っ黒な羽毛は本物のカラスとまるで相違なかったが、明らかにそのカラスは普通のカラスではなかった。頭だけが、羽毛どころか目も肉も何もなくて、ただただ目と、鼻のような孔がぽっかりと空いた、鳥の頭蓋骨が首の上に乗っかっていた。ふとその髑髏ガラスは割けそうなまでの勢いで嘴部分の骨を大きく開いた。

「げっひゃひゃひゃひゃっ!」

 笑っている。アリスはそう感じた。何かが、愉快で愉快で溜まらない、そう感じる声だというのはすぐに分かった。とても下卑たその声は、どこかで聞いた覚えがしてならなかった。頭の奥で、ズキリと鈍い痛みが走った。これは警鐘だ。アリスの直感が、そう告げていた。

「可愛いなあ! アリス! 可愛いなあ?」

 ケタケタと笑い、愉しそうに嘴を叩きつけてリズムを取り、それだけ言い残してカラスは去っていった。去り際に、あの汚く耳障りな独特の嘲笑を残して、だ。可愛い、そう評されたはずなのに胃がむかむかして仕方がなかった。脳髄が熱く燃えるような怒りに囚われてならなかった。
 腹が立って仕方なかった。追いかけてその翼を鷲掴みにし、羽をむしり取ってズタズタにしてやりたかった。しかし、彼女にはできなかった。
 なぜなら、背筋が凍り付くような恐怖に捉えられて、仕方なかったからだ。
 あの声の主に近づいてはいけない。唐突にその事実を思い出した。真理に一つ触れたような気がして彼女の心臓は荒れ狂い始めた。知ってはいけない。脳の奥底の鈍い痛みのサイレンが、さっきよりも強く鳴っていた。
 彼女はまた、使命感に駆られるようにして足を動かした。草原を抜け、荒れ地を抜け、ぬかるむ地面の不快さを足裏に感じ取るころ、明かりが見えた。
 太陽も無いのに何とか周りの景色は視認できる、しかし遠方は完全なる闇に覆われてしまったような世界に、唐突に姿を見せた一筋の光明。アリスは、歩き疲れた足を引きずるようにして、明かりの見えるほうへと駆け出した。明かりは、一軒の立派な家の窓から漏れ出ていた。窓の下には花壇があり、かつては色とりどりの花が咲いていたようである。儚く散った、斑に茶色くなった花弁と、力なく地に伏した茎だったものが、かつての美貌を失って打ちひしがれていた。
 その花々に、必死になって水を与えている者がいた。近づいてみるが、その顔は見えない。深くフードを被っており、口元しか見えない。それ以外といえば、金色の髪が少し首元に見えているくらいだ。彼女が水をやるその様子は、まるで枯れてしまった花々にもう一度咲いてほしいと懇願しているようで、アリスは見ていて切なさを感じた。

「お客さんかい?」

 その声に、アリスは足を止めた。じっとしたままの恐怖に耐えきれず、歩き続けた少女も、その水を遣る女の声には驚きを隠し得なかった。どうしてと、目を丸くし、瞬きも忘れて青い瞳でフードの女性を凝視する。

「滑稽かい? 笑うかい? あんたから見たら虚しいだろうね。ほんと、時の流れってのは残酷だよ」

 今じゃこんなでも、昔はもっと綺麗だったんだよ。その花壇の主はそう続けた。アリスは、そんなことないと、声にできない主張を心の中で叫んで大きく首を横に振った。今だって綺麗だって叫びたかった。けれど、できなかった。心の声は、どうしても他者に伝わる言葉には、なってくれなかった。
 アリスは不意にその場から逃げ出したくなった。もう棒のようになってしまっている足を鞭打ち、逃げるようにさらに遠くへ遠くへと走り出す。待ってくれと言わんがばかりに、花壇の主は手を伸ばした。けれども、アリスはそれを振り払って前へと進んだ。

「ごめんね、アリス……ごめんね……」

 また、後ろの方で彼女の声がした。その声は泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。
 アリスは、これ以上母親の声を聴くことに、耐えられなかった。
 逃げた。ぬかるみに足を捕らわれて、転んでしまっても、すぐに手をついて立ち上がり、先へ先へと進んだ。もう母親の声がしなくなるところまでずっと、ずっと、ただひたむきに逃げ続けた。気が付けば、また周囲の景色は変わっていた。
 今度の景色はまるで水晶のようなものがそこら中から巨岩のようにせり出るような場所だった。山道、それも道なき道のようなところを進んでいるような景色だった。歩きづらい、凸凹した道、せり出す水晶のせいで道自体もぐにゃぐにゃと入り組んでいた。
 もう、足に感覚は無かった。けれども、立ち止まったら追っ手に捕まりそうで、歩き続けるしかなかった。誰も追いかけてこないのに、彼女は何から逃げようとしているのだろうか。
 ずっと、もやがかかっていた。アリスは自分自身の記憶に封をしていた。それが、歩いていくに従って、髑髏ガラスの声を、水を遣る母親の声を聴くに従って、ずっとふたを被せて隠されていた、フィルターをかけて見えないようにしていたアリスの記憶が彼女の足首を掴んで引きずり落そうと迫っていた。
 前に進んでいる間は、何も考えなくて済む。つらいことから、ずっと目を背けていられる。だから彼女は、もう痛みさえ感じなくなった足を動かし続けている。
 ずっとずっと、今より自分が小さくて、物心もついていないころ、本当のお父さんは死んでしまっていた。アリスと父親が並んで映っているのは、父親の遺影を持った、黒いワンピースに身を纏った、幼少期のもの。隣には、泣きはらした目で骨壺を抱く母親の姿があった。
 母親は美しく、すぐに再婚相手が見つかった。そこから十年ほど、平和な家族だったのだ。いつから、おかしくなったのだろうか。アリスは考える。きっと、新たな義父が、母親よりもアリスに懇意に、頻繁に、下心を持って接し始めた頃からだろう。
 母親は美しく、その遺伝子を色濃く受け継いだアリスもそれはそれは美しく育った。街を歩けば男は振り返り、同性でさえその美貌に息を呑む。街で噂の可憐な娘であり、だれもがアリスの隣に立つことを望むほどであった。
 そしてそれは、義父も例外でなかった、それだけの話なのだ。それが当然で、あるべき姿なのだが、母親は年を重ねるにつれて肌が荒れ、白髪が増え、皺も見え始めた。母親よりも、若く、これからも今よりずっと美しくなり続けるアリスのことを、義父も女性として見るようになってしまった。
 義父は、真正面からアリスに求愛した。あろうことか、母とは別れアリスと籍を入れたいとまで言い始めた。アリスは断固として拒否した。アリスにとって大事なのは他の誰を差し置いてでも母親であり、母親は義父を愛していたのだから。
 嫉妬の炎というのは恐ろしいもので、それを知った母はアリスに冷たく接するようになった。好きだった母から突き放されたアリスは枕を涙で濡らし、日に日に減っていく母親から自分への言葉に悲しむ。慰めるのも兼ねて、これは好機とより一層アリスにかまう父親に、アリスも母も限界に近づいていた。
 遠くの空から、また笑い声がした。薄汚い下卑た笑い声、あの声は今となっては間違えようがない、アリスを女としてみた義父の声だった。あの時髑髏ガラスが吐き出した言葉、それは父親が力任せにアリスを押し倒そうとした時の台詞だった。
 間一髪母親に助けられて、父親はアリス達から隔離された。これでまた、母親と仲良くなれる。アリスもそう思っていた。けれども、母親はまだまだずっと余所余所しいままだった。

 息を切らしながら、アリスは走り続けていた。思い出したくない、見たくない、聞きたくない。自らの過去も、誰の顔も、誰の声も。走って、走って、走った。肺はとっくに悲鳴を上げていた。息苦しかった。けれどそれは、立ち止まっていた時もずっとそうだった。彼女はずっと息苦しかった。この世界に降り立った瞬間から、さらにはそれよりもずっと前から。
 こんなの私の記憶じゃないと、アリスは再び記憶に蓋をかけようとする。しかし、無理だった。頭角を現した、ずっと忘れていたかったその記憶はもう、アリスの腕を掴んで離さない。浸食し、アリスの心を握っている。

 母親の得意料理である豆のスープをアリスは作った。母親が何も自分に作ってくれなかったからだ。大好物のスープを啜ってみたが、そこには塩の味しかしなかった。豆の甘味など、何一つ感じなかった。母親のやさしさなど、何一つ味わえなかった。一人ぼっちの虚しさと、目から零れ落ちた涙の味だけが、自分で作ったスープの中にあった。

 いつしか、階段を上っていることに気が付いた。上り坂を駆け上がっていたような記憶もある。だが、今や目の前の景色はただただ綺麗に積み上げられた、水晶の階段だった。先ほど通っていたカーブだらけの山岳地帯ではなく、一直線に天へと伸びる階段だった。
 下の景色を眺めてみる。あれだけ真っ暗な闇に包まれていた世界だったはずなのに、これまで自分が通ってきた景色が明瞭に見えた。初めに自分が立っていた、紫の煙が這う真っ黒な大地、異形のカラスと出会った枯れ果てた草原、無心で駆け抜けた荒れ地に、母親の声を持つ女と出会ったぬかるみ地帯、そして眼下に広がる水晶地帯。
 昇りの階段も終わりへと近づいていた。もう、最後の一段が見える。その奥には平らな床が広がっているようである。もうどうだっていい、そう思いながら、最後の一段まで彼女は登り切った。達成感があった。
 そして、そこに全ての答えがあった。平らなその最上階にはたった一つ、等身大の鏡だけが存在した。艶やかな金色の髪、精巧な人形のような目鼻立ち、サファイヤのような透き通る青い瞳、青と白のワンピースを着たアリスの姿は、誰もが羨む美少女の変わらぬ姿そのものであった。
 たった一点、その首元だけを除いて。首には太いロープの跡が赤黒く残っていた。

 ああ、そうだ。

 思い出した時、目の前の鏡だったものは、鏡からスクリーンへと役割を変えた。映ったアリスの姿は鏡の前に立ちすくむ今の姿でなく、自室で一人ぼっちで、首を吊った後の姿だった。その正面で、母親は泣き崩れている。
 アリスが遺書に残した言葉と、同じ言葉を母親は繰り返していた。ごめんなさい、ごめんなさい……許してください、と。
 声が出なかった理由も息苦しかった理由も分かった。思い出したくない記憶から逃げていることも、最期の最後に現れたのが、天へと続く階段であったことも、全部合点がいった。
 ここは、死んで滅する前に立ち寄る最後の土地。きっとそうなのだろう。
 昇り切った水晶の大地、その断崖絶壁の淵に立った。もう、自分がどれだけの高みに居るのか分からないくらいに地面は遠かった。終わりくらい、自分の望むとおりに終わらせたい、アリスは強くそう感じた。
 あの、カラスのようには嫌だけれど。アリスは大地を蹴った。
 黄金を配るあの燕のように。空を切るアリスの体は加速する。周囲の景色が流れていくスピードも、ぐんぐん速くなる。
 幸福を告げる青い鳥のように。流れて流れて、世界は次第に溶けていく。もう、何も感じない。

 空を飛ぶ心地で逝きたい。
 彼女が果たして満足しているのか、もう誰もその顔を見ることはできなかった。




後書き

半年くらい前に書いたものだったと思います。
そこそこ好きです。自分では。

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.8 )
日時: 2018/09/25 14:58
名前: 彼岸花 (ID: EnyMsQhk)

title:幻灯聖火

「火というものは、かくも幻想的にございましょう」

 外套を羽織り、雪の街を往く私達を捕まえて、少女は恭しくもそう口にした。籠を肘に引っかけているのだが、雪で濡れてしまわないようにと、ハンカチを乗せているために何が入っているのかは分からない。立ち止まった私達の肩に、秒を追うごとに新雪が積もる。寒さのせいか、私達もその少女も、鼻の頭が赤らんでいた。
 ただ、その少女は一際鮮やかな赤をその身に纏っていた。黄金のように光瞬く、彼女の耳元まで伸びたはちみつ色の髪の上には、虹の天辺よりも鮮やかな紅のベレー帽が乗っかっていた。防寒用なのだろうか、腰辺りまでの丈のブレザーも、情熱的な赤に染まっている。表面を白く塗り潰された街並みでは、まるで暖炉に灯った明かりのように目に焼き付いてしまいそうな程だ。
 寒くはないのだろうか。長い靴下を履いているとはいえ、緋色と黒のチェック模様のスカートが時折吹く風に煽られる度に、そんな事を心配してしまう。
 ずっと、長い事立ちっぱなしだったのだろう。一体、いつから。それは分からない。一歩も動いていなかったのか、彼女の真っ黒な靴は、溶ける間もなく次々と降り注ぐ雪化粧に包まれていた。
 手袋はしていなかった。必要無いと強がっているようでもある。ただ、霜焼けしてしまいそうだと嘆いているのか、その指先は鼻の頭と同じように、朱が目立っていた。

「火というものは、間違いなくそこに存在しています。近寄れば暖かく、近づきすぎると身を焦がしてしまう。それなのに」

 それなのに。終始笑顔を絶やしていなかった彼女は、不意にその顔を翳らせた。単なる悲しみを浮かべているのではない。これは何の悲哀だったろうか。私は考え、以前鑑賞した舞台のことを思い出した。あの時壇上で演じていたジュリエットも、こんな顔をしてはいなかったか。
 そう、言うなれば叶わぬ恋だ。手を伸ばしても触れられないものをもどかしく思い、何とか手にできぬものかと足掻こうと企て、その困難に躊躇ってしまう。そして躊躇う己が、何よりも許せない。

「それなのに、其処に居てはくれないのです。私達がどれほど強く抱き留めようとも、焔の影もその奥の虚像も、嘲笑うかのように私達を攻め立てるばかり。私達の肌を焼き、肉を焦がして苦悶を与えてくれるのみ。揺らめく姿はあんまりに美しいというのに、どうしてこうも残酷なのでしょう」

 世界には、虫に食べられるのでなく、むしろ誘き寄せた虫を捕えて食べてしまう植物がいるのだという。彼らは往々にして鮮やかで、芳しく、そして美しい。炎とて同じだ。陽炎のごとくゆらゆらと左右する姿は、手招きしているかのように思える。私達の意識が誘き出されると言う寸法だ。
 悲嘆に暮れる彼女は、まるで本当に恋をしているようだった。身分違いと言ってもいいだろう。何せ彼女にとって炎とは想い人であると同時に、決して手の届かない殿上人にあたるのだから。

「火というものは私達の目に映るようで、決してその本質を見せてはくれません。知ろうと企めばいつしか、その舌で舐めとるかのごとく、私達を赤の内に溶かしてしまう。灰燼と成り果て、ようやくその本質に触れようとも、伸ばす手はとうに白き灰。こうして天より舞っている白雪と変わりません。吹けば飛び、気が付けば消えてしまう」

 彼女は虚空に手を差し伸べた。ふわりと降り立った真っ白な雪が、その掌に触れると同時に溶けて消えた。赤を基調とした装束だからだろうか。私には彼女という人間が、炎に魅入られ、もはや取り込まれてしまった精霊のようにしか見えなくなってしまった。むしろ、彼女自身が焔の化身と名乗っても疑うまい。この寒気の中、薄く儚い笑みを絶やすことなく立ち尽くすその姿に、私達も魅入られてしまいそうだからだ。ただ、そうしないのは何処か彼女に、手を伸ばせば針の山が我が手の平を穿つような危なっかしさが透けて見えたからに他ならない。

「……知っていますか、火影の向こうに救いを求めた女の子の物語を」

 生憎と私は聞いたことが無かった。首を左右に振ると、そうですかと短く応え、また翳りある顔を俯かせた。悪いことをしてしまったかと少しだけ悔いたものの、少女は私の言葉に直接傷ついた訳では無かった。
 炎の神秘を知らぬままの人間がいる。その事実を、悲しむのでなく憐れんでいたのだろう。

「火というものは、罰であると同時に救いの光です。神の救済が虚像を持ってこの世界に現れたものが炎なのです。実体無き偽りの像、それゆえ炎の向こう側にはどんな景色でも広がっています。捨ててしまった夢、永遠の別れを迎えた朋友の姿。……愛した人の面影さえも、覗き見ることができるでしょう」

 罪人を、あるいは咎人の背負ったその罪を燃やして浄化する。死んでしまった人間の身体を骨として、肉の内に留まる魂を死後の世界に送ってやる救済。炎というものは天へ向かおうとする習性がある。それは、燃やし尽くした罪も命も、天へ還ろうとする習性があるからだと少女は述べる。
 どうしてだろうか、私達はもう、彼女の声を無視できない。燃え盛るような赤に身を包む彼女から目が逸らせない。やはり、まさしく、彼女こそが、苛烈で危ういというのに、眼球が焼かれようとも注視し続けてしまう、火の化身と呼ぶに相応しい。

「そして私は、そんな夢を、現世の幻想を売っています」

 籠の中、ハンカチの下に手を滑り込ませる。再び現れた手の中には、小さな箱が握られていた。側面に茶色いやすりを装備した、小さな直方体。中には細い木の棒が詰まっているのか、振ればからからと軽やかな笑い声が響いた。

「会いたい人を思い浮かべて下さい。見たい景色を想像してください。なりたかった自分を、思い出してください。きっと、きっと炎は貴方の望む景色を見せてくれます」
「君は見れたのかね」
「ええ、昨年の聖夜に」

 その目は偽りなど口にしていない瞳だった。その瞳は商売相手である私達と目を合わせているようで、もっと別の誰かを見ていた。きっと、少女の目には、幻想的に揺れ続ける、炎熱の先に座す陽炎しか見えていないのだろう。

「いくらだね」
「一箱五ポンドです」
「少し高く思えるが」
「私が売っているのは、あくまで焔の先にゆらめく泡沫の夢ですので」

 ただの火を点ける道具ではない。成程確かに、望むだけでどんな喜劇でも見せてくれるというならば、五ポンドくらい安いものだ。
 長話のせいで、私達の肩にはもうそろそろ一センチは雪が積もってしまっている。早いところ帰ってしまおうと財布を取り出そうとするも、手はかじかんで上手く小銭を掴めない。私は手袋さえもしているというのに、素手のまま立っていた彼女はどうして、あんなにもすんなりとマッチ箱を取り出せたのか。

「ありがとうございます、おじ様」
「いや、興味深い話だったよ。これがただのマッチだとしても、充分に五ポンド以上の価値ある話だったとも」
「ふふ、羽振りの良い殿方依りの賛辞、私も光栄です」

 慇懃に腰を折ったままの彼女の頭頂、その上にちょこんと乗っかったベレー帽に向かい、私は手を振り別れを告げた。律義な事に、私が去っていくまでそのままお辞儀を続けている。
 本当に、けなげな少女だ。文字通り、焦がれるような恋をしている。彼女が慕うその相手に、添い遂げられる日が来るのは、きっと彼女が死した後の事だというに。
 そう言えば。ふと、思い返す。彼女はまるで、体現者のごとく、焔の如き赤を身につけていた。眩い金糸とて、燃え尽きる直前に一際強い光を放つ、蝋燭の灯火を表すかのようだった。
 だが、彼女の瞳がどうにも思い出せない。彼女の瞳は何色だったろうか。想像してみようとするも、どうにも貴婦人のルージュと同じ色ばかり想起される。あるいは、夕焼けと同じ色だろうか。
 寝静まる子供も現れるような夜更け、街中に灯り続けるその双眸は、墜ちることの無い太陽と月のように思えた。

「そこ往くおじ様。マッチを一つ、如何ですか?」

 背後にて、私を呼び止めたのと、寸分違わぬ同じ声。それを耳にする頃には、もう彼女の眼の色など、案じるまでもないことのように断じてしまっていた。

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