複雑・ファジー小説

アスカレッド
日時: 2019/03/19 14:07
名前: トーシ

 ヒーローって、何だ。

  *

 《COLOR》と呼ばれる異能力が存在する社会。
 瀬川飛鳥は、10年前に自分を助けてくれた『ヒーロー』に憧れながら生きてきた。
 高校2年生のある日、飛鳥は席替えで水島青太と隣同士になる。青太は《COLOR》を持たない人間――の、筈だった。

  *

 閲覧ありがとうございます! トーシです。透、とかいう別名義もあります。
 今回、初めて小説を書かせていただきます。異能力アクションものです。
 どうぞよろしくお願いします。

  *

毎週金曜日に更新。

目次
(☆挿絵付き ★扉絵付き)
 
プロローグ カラーボーイ
>>1

第1話 アオタブルー
>>2 >>3 >>4 ☆>>6 
>>8 >>9 >>11 >>12  ☆>>13
(一気読み >>2-13)

第2話 ミクロブラック
>>16 >>17 ☆>>18
>>19 >>20 >>21 >>22
>>23 >>24 >>25 >>26
>>27 >>28
(一気読み >>16-28)

第3話 ハイジグレー
>>31 >>32 >>33 >>34
>>35 >>36 >>37 >>38
>>39 >>40 >>41 >>42

第4話 シトリホワイト
第5話 ********
エピローグ アスカレッド

  *

その他

クロスオーバー・イラスト(×守護神アクセス)
>>10
PV(『闇の系譜』の作者さんの銀竹さんが作ってくださいました!)
>>34
閲覧数1000突破記念イラスト
>>15
閲覧数3000突破記念イラスト
>>30


  *

お客様

荏原様
日向様(イラストをいただきました!>>14)
立花様

スペシャルサンクス

藤稲穂様
水様
四季様
しろながす様

  *

記録

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  *

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3−8 ( No.38 )
日時: 2019/01/15 22:43
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−8

 翌朝、飛鳥はいつもより遅い時間に登校した。夜の間はよく眠れなくて、5時頃に灰慈をこっそり家から送り出してからもう一度眠ったところ、寝過ごしてしまったのだ。
 久々に母親に起こされて、体調は大丈夫かと心配までされてしまった。母は飛鳥に何かあると白鳥に相談することが多いから、姉さんにだけは言わないでと頼んで、朝食も摂らずに家を出てきた。

 ――アンタにも《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする。

 灰慈の言葉が回らない脳内を埋め尽くしている。
 もし、自分に《COLOR》があるとしたら。
 答えは簡単には出なかった。「あるとしたら」の仮定ばかりが頭の中を占めていて、その先を思考することができない。
 ふと見上げた空では図体の大きい不気味な怪物のような雨雲が蠢いていて、それを見ていると眩暈がしそうになった。
 教室に入ったのは授業開始の10分前だった。重苦しい空気が生徒たちをこの狭い室内に閉じ込めてしまったようで、教室内は騒々しい。飛鳥はクラスメイトに「おはよう」とか「遅かったね」とか声を掛けられ、適当に返事をしながら自分の席に行くと、隣席には青太の姿があった。青太は珍しく自分より早く学校に来ていたようだった。

「おはよう瀬川」
「……おはよう」
 
 自然に笑いかけてくる青太に、飛鳥は不愛想なまま挨拶を返す。
 青太は1限目の予習をするのではなく、かといって窓の外を眺めているのでもなく、机上の1枚の紙をぼうっと見つめていた。飛鳥の机にも同じ紙があった。いくつかの欄があって、一番上に「進路希望調査票」の文字が大きく印刷されていた。

「来週の水曜日までに提出だってさ」

 そう教えてくれた青太の進路希望調査票には、彼のクラスと出席番号を名前しか書かれていない。大抵の生徒は附属の鏡大学に進学するから、青太もエスカレーター式に内部進学するものだと思っていたが、彼は外部進学と内部進学のどちらかに丸を付ける欄すら空白のままにしていた。
 それを見つめていると、青太に気付かれて「どうした?」と訊かれる。

「内部進学じゃないんだなって思っただけ」
「ああ。どうしようかなって、悩んでて」
「どうしようか……」
「将来の夢とか目標とか決まってないし、なのに私立に行くのもなって思ってさ。学費高いし」
「……ちゃんと考えてるんだね」
「そんなことないさ」

 青太は照れ臭そうにして、進路希望調査票を机の中に仕舞った。

「瀬川は?」
「僕?」
「内部進学するのか?」

 進学――首を絞めつけられるような心地がした。高校2年生の夏。1年生の内は有耶無耶にできていたことも、刻々と迫る受験期に向けてそろそろはっきりさせなければいけない頃だ。
 飛鳥は、内部進学はしたくなかった。

「いや。外部に行くよ」
「そうなのか。府外?」
「分からない。まだ決めてないから」

 そっか、と青太がころころと笑う。
 飛鳥は机の横にかけた鞄からペンケースを取り出すと、プリントに自分のクラスと出席番号と名前を書いた。それから内部進学か外部進学を選択する項にペン先を滑らせていき、やや逡巡してから「外部進学」に丸をつけた。
 次に、進学を希望する大学名を記入する欄。そこで飛鳥の動きは完全に止まってしまう。第一志望の大学は中学生の時から決めていた。しかし、それを書くのが恐ろしかった。
 だから飛鳥は大学名より先に、学部名を書いた。飛鳥のペン先を見ていた青太が「法学部かあ」と呟く。

「人の調査票見るなよ」

 調査票を引っ込めると、ごめん、と全然申し訳なくなさそうに謝られた。

「すごいな、法学部って。じゃあ将来は弁護士とか検察官とか?」
「いや……」

 飛鳥は青太から目を逸らした。喉が痙攣する。青太なら絶対に馬鹿にしたり否定したりしてこないのは分かっていたが、音にするには自信が足りない。

「……警察官に、なりたくて」
「そっかあ警察官か、かっこいいな」

 どうにか声にした言葉に、青太は素直に関心してくれた。妙に納得したような顔をしているのは、白鳥のことを思い浮かべたからだろうか。

「瀬川はなりたいものが決まっててすごいな」

 青太が濁りのない深海色の目をきらきらさせて飛鳥を称賛するのは今までに何度もあったが、今回ばかりは、飛鳥はこのまま無限の奈落へ落ちて行ってしまうのではないかと思う程の居心地の悪さを感じていた。
 警察官になりたいというのは真っ直ぐな本心ではない。確かに警察官にはなりたいけれど、本当は、警察官の中でも《COLOR》犯罪対策を専門にする『戦闘員』になりたい。
 無色(colorless)の分際で不相応な夢を描いてしまっている。だから第一志望の大学名を書くことができないのだ。

 吾妻(あづま)大学――それが飛鳥がずっと望んできた大学だ。
 文系と理系両方の学部を有する、一見すれば普通の大学だが、吾妻大学法学部は多数の警察官を輩出していることで有名だった。警察官輩出でよく知られる大学は他にも幾つかあるし、国公立や私立に関わらずどの大学に行っても警察官にはなれるが、吾妻大学には日本で唯一、戦闘員を育成する為のコースがある。
 白バイ警官と同じで、戦闘員の訓練を受けられるのは警察官として採用されてからだが、吾妻大学では警察官になる前から戦闘員の訓練を受けられる。20代前半で既に戦闘員として前線で活躍しているような人は皆、吾妻大学の卒業生であり、姉の白鳥もそこで戦闘員の訓練を受けた。
 姉が大学生の内から訓練を受ける姿を見て、飛鳥も同じようになりたいと思っていた。まだ無邪気に夢を見ていられた自分は、絶対にそうなるんだと心に決めていたのだ。
 その夢を見苦しく引きずり続けてしまうくらい、強く。
 偏差値が足りないわけじゃない。寧ろ、飛鳥の成績なら余裕で合格できるだろう。担任にはもっとレベルの高い大学を受験した方がいいと言われるだろう。吾妻大学でなくても警察官にはなれる、と。もし「戦闘員になりたいから」なんて言ってしまったら。おそらく「戦闘員にはなれない」と突きつけられるだけだ。
 だから、書けない。

「……水島は?」
「オレ?」
「将来の夢とか目標とか無いにしても、興味あることとか、ないの」

 心の痛みから逃れるために、青太に話を振った。青太は天井を仰いでしばし悩む。

「……経済学とかは、無理かなあ。数学苦手だから」
「経済学」
「うん。それから文学とか、言語にもあんまり興味ないし、哲学とか宗教もよく分かんないし……」

 少し、意外だと思った。青太が後ろ向きな発言をする印象が無かったのだ。

「どうした?」
「何でもないよ」

 意外だと思ったのが顔に表れていたらしい。青太に訝しまれて、飛鳥は慌てて取り繕う。
 青太は首をかしげて不思議そうにしていたが、また自分の思考に入ってしまった。それから唐突に、低く、優しく、澄んだ声で呟いた。

「――でも、人の役に立つことがしたいな」

 ああ、水島らしい。

「それなら、福祉とかが合うんじゃないの」
「福祉?」
「うん。うちの大学だったら、社会学部で専攻できたはずだよ」
「そっか、福祉か……」

 青太は1人で何度か「ふくし」と繰り返していた。それが心の中に上手く落ちていったようで、ちょっと考えてみる、と嬉しそうに言ってきた。胸の片隅がほっと温かくなった。
 
「まあ福祉以外にも、教育学とか、あとは心理学とかも」

 調子にのって言葉を続ける。すると青太は最後の言葉に反応して、眉根を顰めて、直後に不自然な笑顔を作った。

「あー……『心理学』は、いいかな」
「……ああ、そうだね」 

 青太の反応の理由は訊かずとも察することができる。きっと心理カウンセラーの『あの人』を思い浮かべたのだろう。
 青太は自分の進路希望調査票を机から引っ張り出して、隅に「福祉」とメモをした。それと同時に、彼は別のクラスメイトに呼ばれて席を立った。
 飛鳥はもう一度、瀬川飛鳥と記名された紙に目を落とす。今回も第一志望に吾妻大学とは書けないだろう。飛鳥は担任から薦められていた関東の国立大学の名前を書いて、調査票をクリアファイルに入れた。
 始業まであと3分だが、青太はクラスメイトと話し込んでいるようでなかなか帰ってこない。
 飛鳥がノートと教科書を机上に出していると、右隣に座る潮田から話しかけられた。

「飛鳥くんって、意外と水島くんと喋るんだね」
「まあ、隣の席だから」
「友達になったの?」

 潮田にそう訊ねられて、飛鳥はちらりと隣の空席を見た。
 自分は本当に卑怯な人間だと思った。

「別に……友達じゃないよ」

 力なく呟いた言葉は、冷たいまま机の上に落ちていく。
 青太が席に戻ってきてすぐに授業開始のチャイムが響いた。

NEXT>>39

3−9 ( No.39 )
日時: 2019/01/30 23:34
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−9

「そういえば、白鳥さんと話できたのか?」
「え?」
「ほら昨日、白鳥さんが帰ってくるから早く帰るんだって言ってただろ」

 放課後、当然のように飛鳥と同時に立ち上がった青太は、机の横に掛けたリュックサックを背負いながら唐突に訊ねた。
 訊ねられた方の彼は、青太より早く歩き出す。友達じゃないと言ってしまった手前、友達らしく青太の隣を歩けない。

「瀬川、今日元気なさそうに見えたから、白鳥さん帰ってこなかったのかなって思ってさ」
「……帰ってきたよ、ちゃんと」

 飛鳥はぶっきらぼうに答えた。ただ、「話をした」とは言えなかった。一方的に白鳥の言葉を拒絶してしまったあれは、会話ではない。
 青太はそれ以上の追及はしてこなかった。
 狭い教室から出た時、飛鳥はちらりと青太を見た。

「……元気、なさそうに見えたの」
「うん。何となくだけど」

 飛鳥は親指で右目の下に触れ、柔く擦ってみた。隈ができていたのだろうか、それとも顔色が悪く見えたのだろうか。でも、最近眠れてないんだ、なんて青太には言えない。

「あんまり笑ってなかったし」
「君に笑いかけたことなんて、今までにないだろ」
「オレはいいんだよ。他の人に」

 他の人に、と口の中で復唱する。

「瀬川は、オレ以外の人には優しかったからさ」

 思わず立ち止まった飛鳥を、青太は半歩後ろに立ったまま首を傾けて見上げていた。少し寂しそうな表情をしている気がした。けど瞬きをした次の瞬間には、青太はいつも通り穏やかな笑顔に戻っていて、見間違いだったんだろうなんて言い訳をしそうになる。

「別に、僕は優しい人間じゃないよ。水島が一番分かってるだろ」

 また歩き出す。上履きの乾いた音が、人の少ない廊下ではやけに大きく聞こえた。放課後と言っても、飛鳥は5限目の授業が終わってからクラスメイトに数学を教えていたので、終業から1時間は経っていた。だから、校舎内の終業直後の喧騒はもう消えていたのだ。
 そのお陰で青太の歩く音もはっきりと聞こえる。そして、2人の歩くリズムは少しだけずれていた。

「そうかなあ」

 青太の返事に、飛鳥は何も言えなくなって鞄の取っ手をぎゅっと握り締めた。一瞬でもほっとしてしまった自分が、やっぱり惨めで仕方なかった。
 というか、どうして青太は自分のことを待っていたのだろう。彼は教室で勉強するタイプじゃないのに、飛鳥が別のクラスメイトに数学を教えている間ずっと教室にいたのだ。でも、「なんで待ってたの」なんて問いかければまたからかわれるんだろう。
 青太は自分のことを見透かしてくるのに、自分は青太のことがいまいち読めない。しかし、不思議と居心地の悪さや気味悪さは感じないのだった。

「瀬川は、今日は図書館?」
「うん」
「そっか。頑張れよ」
「水島も勉強しろよ」
「はいはい」

 階段を下りながら、ふと、踊り場の窓の向こうの景色が目に映る。目を凝らさなくても目視できるくらいの大粒の雨が降っていた。
 以前青太と一緒に階段を下りたのは、確か青太の過去の話を聞いた時だ。
 あの時までは、青太に暗いところなんてないと思っていた。自身の《COLOR》を持て余して苦しんでいる姿さえ、心のどこかでは「恵まれている」なんて思っていた。でも青太は《COLOR》の所為で中学3年生の半分近く学校に通えなくなってしまって、《COLOR》の所為で信頼していた人に利用されそうになったのだ。
 それでも自分の為に《COLOR》を使うことを厭わない水島青太という人間を、矮小な自分が理解できるわけない。勘違いして傷つけたことを謝れない自分が、そもそも彼を理解できる筈が無かったのだ。

「水島……あのさ。勉強、分からないところとかあったら、教えるから。だから、その」
「じゃあ分かんないとこあったらラインする」

 ありがとな、瀬川。と、外界の雨音よりもリノリウムを叩く足音よりも、何よりも大きく聞こえた。
 飛鳥は振り向いて青太を見ようとした――が、それはできなかった。
 踊り場を通り過ぎようとした時、飛鳥の目は1階の階段の麓に向けられたまま、彼は固まってしまった。

「……海黒さん」

 岬海黒の焔の目が、そっと上げられる。彼女は壁に預けていた背中を離すと、飛鳥の方に向き直った。

「飛鳥先輩、待ってましたよ」
「……どうして?」
「飛鳥先輩に用があったので」

 今までのように怪しく口角を上げるわけでも、飛鳥を冷たく睨みつけるでもなく、平坦に飛鳥の名を呼ぶ。
 それに答えたのは、飛鳥ではなく青太の方だった。

「……瀬川に何の用だよ」

 青太は飛鳥の前に立って海黒を見下ろす。青太がどんな表情をしていたのかは分からない。しかし、彼の声音は強ばっていた。体側に下げられた青太の拳は血管が浮き出る程きつく握り締められている。
 そんな青太に、海黒は怯えず、瞳を細めて青太を見上げた。

「お兄ちゃんが、飛鳥先輩とまた会いたいそうです。だから、飛鳥先輩をお兄ちゃんのところに連れて行くために待ってました」
「行かせるわけないだろ」

 鋭利な響きの言葉に、海黒は動じなかった。動揺する飛鳥と、飛鳥を海黒から隠そうとする青太に、彼女は最後の通告を突きつけた。

「お兄ちゃんは、水島青太さん――あなたにも、会いたがっていました。絶対に連れてきてほしい、と」

 息を吸い込む、枯れた音。青太の喉から発せられた音だった。

「一緒に、来てくれますよね?」

 彼らの沈黙を、重い雨音が埋めていく。

NEXT>>40

Re: アスカレッド ( No.40 )
日時: 2019/02/09 19:46
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−10

 岬家は相変わらず静かだった。そして玄関に置かれている靴も少なかった。飛鳥は青太のスニーカーの隣に自分の黒いローファーを並べて、静かにフローリングに上がる。家全体に冷房が効いているのか、それともこの家を温める人間がいないのかは分からないが、初夏とは思えない程に床はひんやりとしていた。
 昨日灰慈が履いていたあのくたびれたスニーカーは、そこにはなかった。
 海黒がリビングの引き戸を開けると、クーラーの冷気が流れ出てきて足元から這い上がってくる。
 岬紅野は大きなガラス窓の前にいて雨雲を見上げていた。しかし飛鳥たちの気配を感じ取ると、頭だけ振り向いて、紅い目を細めて笑った。

「青太」

 飛鳥も海黒もその場にいたのに、彼は青太ただ1人の名前を呼んだ。

「立ったままはなんだから、座ってくれ」

 紅野は目でリビングの椅子を示す。重い足取りで室内に入ったリビングに入った青太だったが、その足は椅子の前で止まる。

「水島、立ったままじゃ埒が明かない」
 
 飛鳥が後ろからそう言ってやっと、青太は奥の椅子を引いて座った。飛鳥もその隣に座る。紅野は机を挟んで、2人の丁度真ん中にあたる位置まで車椅子を動かした。
 
「久しぶりだね青太。会えて嬉しいよ」

 視線を隣に滑らせて窺った青太の横顔は、今までに見た中で最も緊張して、最も恐い表情をしていた。青太の目線は上がらない。彼はずっと机の真ん中を睨み続けている。

「……この前も会ったじゃないですか」
「うん、そうだね」
「白々しい」
「でもこの前は、大して話もできなかっただろ」

 ねえ、と突然、飛鳥は同意を求められた。投げかけられた細い紅玉から、思わず目を逸らしてしまう。

「青太、学校は楽しい? ――『俺が勧めた』学校は」

 ぎり、と奥歯が擦れる。青太が悔し気に下唇を噛む前で、紅野は楽しそうに続ける。

「10月頃だったかな。青太は成績がよかったから、鏡高校を目指したらどうかって、丁度ここで言ったね。青太の中学校は鏡高校から遠かったし、青太の同級生でそこに進学する子は少ないだろうからって。――連絡がとれなくなって、完全に嫌われたんだと思ってたから、まさかそこに進学してるなんて想像もしてなかったけれど」

 紅野は笑みが、決して醜悪な物ではなく寧ろ相変わらず柔らかで優しいものだったから、飛鳥は紅野の顔を直視することができなくなった。

「『俺の言う通り』にしてくれるなんて、青太はやっぱりいい子だな」
「アンタの言う通りになんかしてない、オレはオレで決めたんだ」
「でも俺の思い通りに動いたじゃないか」

 瞬間、椅子が乱暴に投げ出され、隣を見れば青太が今にも紅野に掴みかかろうと机上に身を乗り出していた。
 でも完全に掴みかかるには机越しでは遠すぎて、青太の体重で押された机は紅野の方に傾いている。このままでは車椅子の紅野もろとも青太まで倒れてしまう、と飛鳥は慌てて青太の袖を鷲掴んで、なんとか彼を机から引き剥がした。

「――お前なんか嫌いだッ!」

 飛鳥に腕を掴まれたまま青太は叫んだ。悲しく、痛々しい絶叫だった。
 しかし、紅野の表情は一寸たりとも変わらなかった。
 青太を落ち着かせ椅子に座らせると、飛鳥も席に着き直す。その時海黒が奥のキッチンからトレーを持って現れた。かたん、と机上にカップとソーサーが置かれると、紅色の水面が音もなく揺れた。
 端の方は色が薄くて、真ん中の方は濃い紅が沈んでいる。紅野の瞳を思わせるそれは、どうやら紅茶のようだった。
 先程の緊張状態が僅かばかり緩んだ為だろうか、唐突に喉の渇きを感じた飛鳥はカップの持ち手に指を添え、ちらりと海黒の方を見た。彼女は小さく首を横に振った。危険な物は入っていないらしい。
 だからカップを持ち上げて、少しだけ飲んだ。甘酸っぱい果物の香りが鼻を抜けていく。苺に近い酸味と甘みがあるが苺とは微妙に違う味。飛鳥が知っている限りでは柘榴の味に似ていた。
 
「お兄ちゃん。私、部屋に行ってた方がいい?」
「そうしてくれると助かるよ」
「うん、分かった」

 海黒は頷くとすぐにリビングを出ていった。
 紅野も海黒が淹れた紅茶を一口飲んだ。青太は一切それに手を付けず、力なく俯いていた。

「……あの」
「ん、何かな?」
「今日僕たちを呼んだ用件は何ですか」
「ああ、そうだね」

 紅野はカップを置くと、柔らかく微笑んで、問いかけた飛鳥ではなく項垂れる青太を見た。

「青太のカウンセリングを再開したいと思っているんだ」

 え、と青太が顔を上げる。紅を映す深海の瞳が揺れている。

「治療の途中で青太と連絡手段がなくなってしまったから、カウンセリングも中途半端なままなんだ。青太が今の高校生活を安定して送れているのならいいけど、さっきのように、まだ不安定さが残っているみたいだからね。このままじゃ、青太だって辛いだろう」

 カップの持ち手を指先で撫でながら、彼は淡々と言った。でも飛鳥には、青太がそんな提案に乗るとは思えなかった。きっと彼は禍根が残るこの家をこれ以上訪れたがらないだろう。
 しかし紅野は、まるで飛鳥の思考を読み取ったかのように言葉を重ねた。

「でも青太は自分からじゃここに来たがらない。だから、飛鳥くん、君に青太をここに連れてきてほしいんだ」
「僕ですか……?」
「なんで、瀬川は関係ないだろっ」
「青太」

 紅色の鋭い眼光が青太の喉元に突き刺さる。青太が口を噤んでしまうと、彼は満足そうに笑って、机の上で手を組んだ。

「どうかな」
「……水島をここに連れてくることはできません。水島も嫌がっているし、僕にも何のメリットもありませんから」
「そうか。でも、メリットなら提示できるよ」
「……何ですか」
「ここに来てくれたら、君に『可能性』の話をしてあげよう――君が『無色(colorless)ではない』という可能性の話、をね」

 ――アンタにも《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする。

 一瞬、灰慈と紅野の声が重なって、思考回路に絡まって。不協和音になって際限なくループを始めた。 
 『無色(colorless)ではない』可能性。今までの人生をまるっきり覆すような可能性。そんなの本当にあるのだろうか。だってもし自分に《COLOR》があったとしたら、傷ついて、誰かを傷付けてきたこれらの事実は、一体どこに葬られてしまうのだろうか。
 しかし飛鳥はそれ以上に、灰慈のことで頭がいっぱいだった。紅野は絡んでいないと思って彼を家に泊めたのに、彼の発言は紅野の指示によるものだったのかもしれないのだ。飛鳥は、布団で小さくなって眠っていた沖原灰慈に裏切られたような気分になった。
 こめかみの辺りに視線を感じて、見れば青太が心配そうに、横目でこちらを窺っていた。自分のことで精一杯なくせに、他人の心配なんてしてる場合じゃないだろう。人の不安を全部受け止めきれるわけじゃないくせに。だから紅野に付け込まれるんだ。
 なんて、とても言えやしないけれど。
 紅野は、今すぐに答えを出す必要はないと言った。それから青太としばらく問答を繰り返していた。青太は黙りこくっていて紅野の問いにはほとんど答えなかったが、紅野の言葉が増えていくにつれて、ぽつりぽつりと短い返答をするようになった。
 会話から外された飛鳥は、残った紅茶を飲んだ。最初から冷えていた紅茶は時間が経っても冷たいままで、この部屋だけまるで、時の凍った世界に在るように思えた。

 岬家から出た2人は海黒に帰路の途中まで案内されて、最後の横断歩道の前まで来た。あとは道なりに真っ直ぐ進むだけだと教えてくれた海黒に礼を言って、飛鳥は信号機が青に変わるのを待った。
 ふと、海黒が動かないままずっと青太を見つめているのが、目に入る。

「水島に言いたいことでもあるのかい」
「……いえ。今はいいです」

 海黒が言ったのはそれだけだった。さようなら、と踵を返した彼女の背中を見送っているうちに、信号機は青に変わった。
 しかし歩き出してすぐに、青太の足音が聞こえないことに気付いた。
 飛鳥が振り返ると、青太は信号機の下にいて、俯いたまま口許を手の甲で押さえていた。

「……水島?」

 雨音の中で、彼の返答は聞こえなかった。垂れ下がった前髪のせいで彼の顔も見えない。
 嫌な予感がした。
 青太の肩が上下に揺れ始める。それが徐々に大きくなっていく。口許にあった手は、胸元を強く握り締めた。
 そうして、砂の城が崩壊するように、彼は膝から頽れた(くずおれた)。
 寸でのところで飛鳥は青太の身体を支える。近付けばぜえぜえと、彼の異常な呼吸が鮮明に聞こえた。過呼吸だ。はっと息を吸う音と、冷たい風のような、全てを切り裂く甲高い音が間を置かず交互に繰り返され止まらない。
 飛鳥はどうしていいか分からず、ただ青太の背中を擦った。こんなことは初めてだった。青太の顔からみるみる内に色が失われていくのを見て、自分の手まで震えそうになった。歪に軋み停止していく脳味噌に、濁って掠れた呼吸音が流れ込んでくる。青太の名前を呼ぶことすらできなかった。
 青太の方に傘を傾ければ、2人の傘は窮屈に折り重なる。青太の傘の露先から雫が落ちて、飛鳥の袖を冷たく濡らした。
 その内に、信号機はまた赤色に変わってしまった。

NEXT>>41

3−11 ( No.41 )
日時: 2019/03/17 23:01
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−11

「……やっぱり、怖いな。『紅野さん』は」
 
 青太は依然青ざめた顔のまま、そう呟いた。
 横断歩道のところで過呼吸で蹲ったときから、青太は顔を上げようとしない。黒い前髪が覆い被さってしまって青太の表情を見ることもできない。ただ彼の顔色が悪いことだけは分かっていたから、飛鳥はそれ以上青太を見ないようにしていた。彼を真っ直ぐに見つめると、胸の奥から冷たいものがせり上がってくるようで、目を逸らすしかなかったのだ。
 車窓の向こうで走り去る景色は次第に緩やかになり、やがて止まる。停車時の揺れでバランスを崩しかける青太を支えたとき、リュックサックを抱える青太の手が震えているのに気が付いた。
 早く彼をどこかに座らせてあげたかった。しかし退勤と下校が丁度重なった午後18時過ぎの車内は人で溢れていて、空いている席は見当たらない。
 最初は満員電車に青太を乗せることすら躊躇った。だが飛鳥は、それよりも青太を早く帰宅させるべきだと考えた。慣れない土地にいるよりは、慣れた自分の部屋にいた方が少しは気持ちが和らぐかもしれない。せめて青太が乗客たちの塊に圧し潰されてしまわないよう、青太をドアの近くに立たせ、自分は他の乗客と青太の間に立った。青太はリュックサックを胸に抱え、壁に凭れ掛かっていた。
 ほどなくして電車は再び動き出す。次の駅で降りることを伝えると、青太は小さく頷いた。飛鳥は乗り換えがあるから下車しなくてはならないが、青太はこのまま数駅行けば自宅の最寄り駅に着くらしい。
 彼を独りきりにするのは不安だった。でも、自分が一緒にいて青太に何かをしてやれる自信もなかった。

「瀬川」

 青太が、またぽつりと零す。
 
「ごめん」
「……そんなの、いいよ」

 何も悪いことなんてしてないのだから謝らないでほしかった。謝られると、まるで自分が青太を迷惑に思っているかのように錯覚してしまう。

「なあ、瀬川」
「なに」
「オレ、また、紅野さんのとこに行かなくちゃいけないのかな」

 心が弱いままだから、と青太は怯えているようだった。行かなくていい、と伝えると彼は僅かにほっとして、それから窓の外に目を向けた。飛鳥も同じように外の景色を目に映す。沈みゆく夕日の前で、見慣れた風景のシルエットが見え始めた。

「行く必要ないよ。僕も、君をあの人のところに連れて行こうなんて思ってないし」

 そっか、とか細い返事。飛鳥は、それからは黙っていた。
 次の駅が近づいてきて、乗客たちはドアの近くに寄り始める。青太が潰されないようにしながら、飛鳥は預かっていた青太のビニール傘を、席が空いたら早く座れという言葉と共に彼に渡した。
 空気が抜けるような音を立ててドアが開き、車内に入り込んでくる外気とは逆に、人々はホームへ溢れ出していく。

「せがわ……っ」

 青太に呼ばれて、飛鳥は振り向いた。

「水、ありがとな」

 青太はリュックサックのサイドポケットからわざわざペットボトルを抜き出して、飛鳥に笑いかけた。横断歩道の近くの自販機で買って青太に飲ませたものだ。
 たった100円とちょっとのミネラルウォーターのペットボトルを、青太はとても尊い物のようにしっかりと持っていた。
 しかし飛鳥は降車する人の波に押されて、青太の笑顔に何の言葉も返すことができなかった。

 電車から降りた飛鳥は、そのままホームでしばらくぼうっとしていた。壁に貼られた大きな広告の情報なんか一切頭に入ってこない。次の電車がホームに滑り込んでくる。無機物の風に袖口を煽られて、飛鳥はやっと我に返った。飛鳥はその時、青太が乗った電車から降りて初めて、自分が緊張から解放されたのだと気付いた。
 JRから阪急に乗り換えるため、飛鳥は改札口へ向かう。学校の最寄り駅ともなると同じ高校の制服を着た生徒があちらこちらに見えて、飛鳥は無意識のうちに構内の端を歩いた。
 ふと前方に、既視感のある『色』がちらつく。
 黒でもない、白でもない。どちらともつかない、煤を被ったような灰色の髪の毛。
 今朝とは違って、パーカーではなく飛鳥と同じ高校の制服を身にまとった彼は、行き交う人波の中を頼りない足取りで歩いていて――彼がたまたま顔を上げた時、その半透明の瞳と、吸い寄せられるように目が合った。
 飛鳥は慌てて俯いた。しかし予想外だったのは、灰色の少年――沖原灰慈の方から近付いてきたことだ。
 意を決して目線を上げ、再び灰慈を目を合わせる。半ば睨みつけているようなものだった。灰慈は足を止め、はく、と口を開く。けれど音が喉でつっかえて言葉が出てこないようで、唇を何度も開閉させていた。

「……なんだよ」
「……昨日は……泊めてくれて、ありがとうございました」

 そうして、頭を下げられる。まさか見るとは思っていなかった灰慈のつむじが見えて、飛鳥は「え」とたじろいた。
 不器用なお辞儀をした灰慈は、不安げに頭を上げるとしばらく飛鳥の様子を窺っていたが、飛鳥が黙ったままなのを鑑みて無言で踵を返そうとする。
 でも彼には訊かなければいけないことがある。紅野のこと、そして、飛鳥にも《COLOR》があると言った発言の意図。
 飛鳥は灰慈の腕を掴み、「ちょっと来て」と駅地下の駐車場へ歩き出した。灰慈は困惑の声を漏らしたり、その場に留まったりしようとせず、驚くほど従順に飛鳥について来る。彼の腕は、16歳の少年にしては細く、硬い気がした。

「僕に『《COLOR》があるかもしれない』って言ったのは、紅野さんに命令されたから、なのか」

 飛鳥の第一声は、人気のない地下駐車場に重く反響した。眉を顰め目を見開くものの何も言わない灰慈に対し、飛鳥は言葉を重ねる。

「今日、紅野さんに会ってきた。それで、僕が『無色(colorless)じゃないかもしれない』って言われた。沖原灰慈、君が昨晩あんなことを言ったのは、僕を動揺させるためだったのか」
「……違う。紅野さんには何にも言われてない」
「じゃあどうしてあんな――」
「なあ」

 突然言葉を遮られ、飛鳥は訝し気に片眉を上げる。
 灰慈はすぐには続きを言わなかった。自分の制服の裾を握り締め、そして浅く息を吸った。

「このこと……オレが、アンタに『《COLOR》があるかもしれない』って言ったこと、紅野さんには言わないで」

 しばし逡巡して、分かった、と飛鳥は答えた。灰慈の目があまりにも真剣で、それ以外に言いようがなかったのだ。

「紅野さんには言わない。でも」
「でも……?」
「その代わりに、どうして僕に『《COLOR》があるかもしれない』って言ったのか、教えてほしい」

 暗色の瞳が大きく揺れる。言葉を詰まらせる彼に「言わないと紅野さんに全部伝える」と強く畳みかけると、全部知ってるわけじゃないという前置きの後、灰慈は小さな声で話し始めた。

「《COLOR》は外部から、意図的に強化できる可能性がある。それで、紅野さんは《COLOR》を強化する方法について調べてる」
「《COLOR》の強化……?」

《COLOR》を端的に言い表すとしたら、火事場の馬鹿力。つまりその詳細は、窮地に追い詰められた時、生存本能によって人間の潜在能力が解放されること。《COLOR》とは潜在能力が具現化したものだ。
 姉の白鳥や青太、海黒のように《COLOR》の出力を自由自在に操れる人間は存在する。けれどそれはあくまで『自身の《COLOR》』は操れるということであり、『他者の《COLOR》』を操作するのは不可能だというのが現在の常識だ。
 しかし灰慈は、『他者の《COLOR》』を外部から操れるかもしれないと確かに言った。

「人間が究極まで追い詰められて《COLOR》が発現するなら、外側からストレスを与えてそれの出力を上げたり……《COLOR》が発現していない無色(colorless)の《COLOR》を引き出したりもできるんじゃないかって、紅野さんは考えてる」
「……だから僕にも『《COLOR》があるかもしれない』って」
「ああ」
「……外側からのストレスっていうのは」
「身体面と精神面がある。精神面なら、介入したい《COLOR》の所持者にプレッシャーを与えて精神を摩耗させる。自己肯定感を削いだり外界への不信感を煽ったり、そうして少しずつ対象の余裕を奪っていけば」

 それは、いつか、精神崩壊を起こして、それと引き換えに《COLOR》が発現するかもしれないという可能性で。

「精神崩壊まで追い詰める必要があるかは分かんねえ。でも、紅野さんが考えていることは……そういうことだと思う」

 飛鳥ははっと息を吸った。喉が痺れるような、嫌な空気だ。傘の柄を握る自分の手は汗で湿っていて、小刻みに震えていた。

「なら……岬紅野は僕を試験体にするために、あんなことを言ったのか」
「紅野さんはそんなことするような人じゃない」
「でも」
「紅野さんには紅野さんの考えがあるんだ。何にも知らねえくせに、紅野さんのこと悪く言うな」

 突然声を荒げた灰慈に、飛鳥は口を噤んだ。鋭い言葉が高いコンクリートの天井にすべて吸い込まれた後、「君も全て知ってるわけじゃないんだろ」と静かに突きつけると、灰慈は唇を噛んで俯いてしまった。
 恐らく、紅野の目的は《COLOR》の強化の調査ではない。紅野の経歴は知らないが、一般人が考え付くようなことなど、自分達よりもずっと頭が良くて知識のある――それこそ、国家直属の碩学(せきがく)によって調査も研究も進められている筈だ。だから民間の中で、高校生まで使ってそんな調査をする必要はない。
 紅野の目的はきっと、《COLOR》の強化を手段としたその先にある。
 灰慈は自身の爪先を見つめたまま、震える声で零した。

「オレがこんなこと話したの、紅野さんには……絶対に言わないで、ください。こんなのばれたら、オレ、紅野さんに嫌われる……」

 灰慈が寂しそうに訴えるのを聞いて、飛鳥は、ますます居心地の悪さを感じた。

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3-12 ( No.42 )
日時: 2019/03/17 23:08
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−12

 青太と一緒に下校することになったのは、本当に偶々だった。青太が飛鳥を待ち伏せしていたわけでも、飛鳥が青太を呼び止めたわけでもなく、偶然下足場で鉢合わせただけだ。

「瀬川はこれから帰るのか?」

 青太のスニーカーが、コンクリートの床の上にぱたっと落ちる。飛鳥はローファーを履きながら、首を横に振った。 

「いや、塾があるから。塾に行く」
「そっか。どっちにしろ駅に行くだろ」
「うん」
「オレも」

 ついて来るな、なんて意地悪なことは言えなかった。弱っている同級生に対してそんなことは言えない。
 今朝、青太は始業時間ぎりぎりに登校してきた。青太はいつも始業5分前に教室に入ってくるから、普段より少し遅いくらいだった。飛鳥の隣に座った彼は、まるで昨日路上で過呼吸になって蹲ってしまったのが嘘かのように元気で、いつもどおり飛鳥に「おはよう」と笑いかける。
 おはよう、と飛鳥も小さな声で返した。あくまで、くじ引きで隣同士になっただけのクラスメイトにかける挨拶だと思われるように。他の生徒に自分たちが放課後に会っているのを知られてはいけないような気がしていた。
 たった4文字を発することにすら怯えてしまうような自分とは違って、青太は強い。そんなことは既に知っている。だが青太が虚勢を張っていることは、飛鳥にはすぐに分かった。
 何物に対しても、折れず、挫けないと思っていた彼は岬紅野というたった1人の男の前に立っただけで簡単に崩れた。昨日の今日で岬紅野の影響を払拭できるはずもない。
 青太が瞬きをすると、睫毛にかかる前髪が静かに揺れる。目を凝らして初めて、彼の目の下に薄い隈ができているのに気付いた。やっぱり眠れなかったのだろう。だからいつもより遅く学校に来たのだ。
 それを理解してもなお、飛鳥は教室の中で彼に特別言葉をかけることはなかった。
 だから飛鳥は、青太が自分より半歩遅れて歩いているのを感じながら黙って歩いた。相変わらず2人の足音は僅かにずれていた。
 学校を出てほどなくして鮮やかな色をした自販機が視界に入る。瞬間、口内に甘いような、酸っぱいような味が蘇ってくる。この前ここで水島にカルピスを貰ったんだっけ、と青太と並んでカルピスを飲んだのが遠い昔のことのように思えて、飛鳥は思わず一瞬自販機の前で足を止めた。
 そこで、通学鞄の中のスマホが震えているのに気が付いた。5秒以上続くバイブレーションはLINEやショートメールではなく、非通知からの着信だった。

「誰?」
「……知らない」

 適当に「母さんから」などとでも言っておけばよかったのだろうが、飛鳥の言葉を聞いて青太は眉を顰めた。
 
「別に、危険なものじゃないと思うよ」
「でも」
「電話に出たからってすぐに危険に晒されることもないだろ」

 心配しすぎだ、と青太を見遣ると、彼は寂しそうに俯いて数歩後ずさった。きつい語調だっただろうか。青太の表情から彼の心情は読み取れなかった。
 仕方なく飛鳥は通話ボタンの上に親指を滑らせて、そっと押す。

『――もしもし』

 スピーカーの向こうから聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。まさか非通知の正体が海黒だとは想像していなかった飛鳥が、小さな驚きでしばらく声を出せないままでいると、もう一度呼びかけられる。

『飛鳥先輩?』
「……あ、えっと、海黒さん?」
『はい。岬海黒です』
「どうして非通知から?」
『今、この前まで使ってたのじゃなくて自分の携帯から電話かけてるんです。この間電話番号教えたじゃないですか』
「ああ……そうだったね」

 確かに、1人で岬紅野と会った帰りのタクシー乗り場で、『プライベートの』携帯電話の番号を教えられていた。だがあの時は、海黒が泣いていたのに気を取られて連絡先に登録するのを忘れていたのだ。
 
「それで、どうして僕に電話を」
『飛鳥先輩に訊きたいことがあって』
「訊きたいこと……?」

 はい、と細い返事が聞こえて、海黒の言葉が若干の間を伴って途切れる。それから彼女ははっきりと、灰慈くん、と言った。

『……今日、学校に灰慈くんが来てたか知りませんか』
「……知らないな。学年も違うし、そもそも僕は彼が何組なのかも知らないから」

 そうですよね、と少し落胆したような声が返ってくる。彼女はそのまま「ありがとうございます、それじゃあ」と通話を切ろうとしたが、飛鳥は慌ててそれを止めた。

『なんですか』
「どうして、沖原灰慈が学校に来たかどうかを知りたいの」
『どうして……』
「何て言えばいいのかな。海黒さんは、その、沖原くんのことをあまり好いてないと思ってたから、君から彼が学校に来たかどうかを訊かれるとは思ってなかったんだ」

 海黒と灰慈が嫌悪な関係にあるのは、本人達に確認せずとも明らかだった。だのに海黒が灰慈の所在を気にするのはおかしいし、そもそも彼女が彼の居場所を知る必要があるのだろうか。そんなことを考えていると、言い淀んでいた海黒が言葉を接いだ。

『……お兄ちゃんに頼まれたんです』
「……沖原くんが学校に来たかどうかを、僕に訊くように、って?」
『いえ。お兄ちゃんは、灰慈くんが登校したかどうか知りたいだけです』

 海黒曰く、灰慈は入学してすぐ登校拒否に陥ったらしい。
 そんな彼が少しずつでも他の生徒と同じように学校に通えるようになる為に、紅野は灰慈に「学校に行ったかどうか」を毎日報告させている。1限目からでなくとも、2限目や3限目から、昼休憩が終わった午後からの登校でも、学校に行けたら褒める。もし辛くて学校に行けなかったら、話を聞いて「大丈夫だよ」と伝える。それが彼らのカウンセリングだった。
 しかし今日は灰慈からの連絡が無かった。だから紅野は海黒に、灰慈が「学校に行ったかどうか」を尋ねたのだ。
 だが海黒だってそれを調べるのには限界がある。

『私、灰慈くんと違うクラスなんです。でも彼とは、学校では一切関わってないので、他のクラスの人に、灰慈くんが学校に来たかどうかを訊くことはできないんです。不自然に思われたら困るし、少しでも怪しまれたら、まずいので』

 自分たちがやっていることは堂々と公表できるものではないという自覚があるからこそ、彼女は周囲に詮索されるきっかけとなるものを徹底的に潰しておきたいのだろう。全ては兄である紅野の為だ。

「灰慈くんの姿は見てないよ。一応水島にも訊いてみようか?」
『そこにいるんですか?』
「うん」

 ちらりと青太を見ると、彼は不思議そうに首を傾げた。青太を呼ぼうとして、ふと昨日のことが脳裏を過ぎる。

「――その前に、僕も訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
『訊きたい、こと……?』
「昨日、水島に何か言おうとしてたよね。何を伝えたかったのかなって思ってさ」

 ああ、と海黒が渇いた声を漏らす。

「……これは、面と向かって言わないといけないことなので……あの、今どこにいますか」
「学校から駅に向かう道の、コンビニ近くの自販機の前にいるけど」
「分かりました。これから向かうので、青太さんの足止めしててください」
「え、これから……?」

 飛鳥の返事を聞かず、お願いします、とだけ言って一方的に通話は切られてしまった。
 飛鳥が呆然としながらスマホのスピーカーを耳から外すのを見計らって、青太が駆け寄ってくる。

「誰からだったんだ?」
「海黒さんから」
「海黒ちゃんから? どうして」
「僕に訊きたいことがあったみたい。あと水島に話したいことがあるらしくて、これからここに来るって」

 話したいこと、と言っても青太はよく分からないという表情をしていた。心当たりがないのか、それとも思い当たる節が多すぎるのだろうか。青太と海黒の間にも今だ多くのわだかまりが残っているようで、海黒の名を聞いても青太は決して顔を綻ばせはしなかった。

「瀬川もここで待つのか?」
「一応、ね。君の足止めを頼まれたから」
「塾は」
「早く行って自習室で勉強しようと思ってただけだから、いいよ。講義は夜からだし」

 飛鳥は自販機の側面に背を預けて、重りのような通学鞄を下ろした。心なしか気怠くて、瞼を閉じればこのまま眠ってしまいそうだった。

「そういえば水島、今日学校で沖原灰慈を見たか?」

 青太は飛鳥を見つめたまま、二度瞬きをした。

「沖原灰慈? 誰だよ、それ」
「岬紅野と一緒にいた奴だよ」
「紅野さんと一緒に……?」
「灰色の髪の男の子」
「……ああ、あいつか」
「……知らなかったのかい?」
「うん」

 てっきり彼も紅野の患者で青太とも面識があると思っていたが、そうではないらしい。青太は1年以上紅野との連絡を絶っていて、その間に彼と灰慈が出会っていたのだとしたら青太が灰慈のことを知らないのも無理はない。
 それに飛鳥が覚えている限りでは、青太が彼を見たのは海黒が紅野を呼び出したあの時だけだ。自分は彼と何度も会っているし言葉も交わしているから、沖原灰慈の存在やその名前の響きに何の違和感も感じない。だから青太も灰慈のことを知っているものだと勘違いしていた。

「あいつ、同じ学校だったんだ」
「ああ、1年生だよ。毎日は来てないみたいだけど」
「そっか……あのさあ」
 
 瀬川、と青太に呼ばれる。
 その時やっと、飛鳥は自分が間違いを犯したことに気付いた。
 青太も知らない岬紅野の傍にいる人間を、自分ががこんなにも詳しく知っているのは不自然だ。

「どうして、あいつの名前知ってるんだよ」

 冷たい汗が首筋を撫で、落ちていく。顔を強ばらせる青太の前で、言葉は続かなかった。

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