複雑・ファジー小説

アスカレッド
日時: 2018/10/14 01:47
名前: トーシ

 ヒーローって、何だ。

  *

 《COLOR》と呼ばれる異能力が存在する社会。
 瀬川飛鳥は、10年前に自分を助けてくれた『ヒーロー』に憧れながら生きてきた。
 高校2年生のある日、飛鳥は席替えで水島青太と隣同士になる。青太は《COLOR》を持たない人間――の、筈だった。

  *

 閲覧ありがとうございます! トーシです。透、とかいう別名義もあります。
 今回、初めて小説を書かせていただきます。異能力アクションものです。
 どうぞよろしくお願いします。

  *

毎週金曜日に更新。

目次
(☆挿絵付き ★扉絵付き)
 
プロローグ カラーボーイ
>>1

第1話 アオタブルー
>>2 >>3 >>4 ☆>>6 
>>8 >>9 >>11 >>12  ☆>>13
(一気読み >>2-4)

第2話 ミクロブラック
>>16 >>17 ☆>>18
>>19 >>20 >>21 >>22
>>23 >>24 >>25 >>26
>>27 >>28
(一気読み >>16-28)

第3話 ハイジグレー
>>31 >>32 >>33 >>34

第4話 シトリホワイト
第5話 ********
エピローグ アスカレッド

  *

その他

クロスオーバー・イラスト(×守護神アクセス)
>>10
PV(『闇の系譜』の作者さんの銀竹さんが作ってくださいました!)
>>34
閲覧数1000突破記念イラスト
>>15
閲覧数3000突破記念イラスト
>>30


  *

お客様

荏原様
日向様(イラストをいただきました!>>14)
立花様

スペシャルサンクス

藤稲穂様
水様
四季様

  *

記録

4/13 連載開始
5/30 閲覧数1000突破
7/16 閲覧数2000突破
8/28 閲覧数3000突破
9/23 閲覧数4000突破

  *

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3−1 ( No.31 )
日時: 2018/09/24 00:40
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−1
 
 スマホのバイブレーションで目が覚めた。
 カーテンの隙間から白い朝日が差し込んでいる。半袖から出た腕に触れる空気は乾いても湿ってもいなくて、少し冷たかった。携帯端末の画面を見れば、数字は中途半端な時刻を示していた。
 階段を下りると、丁度玄関で靴を履いていた白鳥と鉢合わせる。寝癖のない白い長髪は背中にさらりとかかっていた。

「おはよう、飛鳥」
「おはよう姉さん。今日も早いんだね」
「まあね」

 ぼうっと立っていると白鳥に手招きされる。近寄って屈むと、白鳥は飛鳥の頬に手を添えて親指で目の下を撫でた。

「隈、できてるかな」
「ううん、大丈夫よ。……やっぱり寝てないのね」
「寝てないわけじゃないよ。最近は思うような時間には起きられてないけど」
「眠りが浅くなってるってことじゃない」

 白鳥は微笑んでいたが、声は苦々しいものだった。飛鳥が目線を落とすと、白鳥の手が頭に乗せられる。その温かみがなぜか居た堪れなくなって、飛鳥は僅かに身を引いた。

「母さんから、この前、飛鳥がびしょ濡れになって帰って来たって聞いたの」
「傘を忘れただけだよ」
「傘を忘れたからって、飛鳥は、濡れ鼠になって帰ってくるような子じゃないでしょ」
「……風邪はひいてないから」
「そういうことじゃないの」
「ちゃんと学校には行った」

 咄嗟に反論して返って来たのは溜め息だ。白鳥は飛鳥が逃げないように腕を掴むと、飛鳥の眼を真っ直ぐに覗き込んだ。
 白鳥の眼を見ると心がざわつくようになったのは、最近のことだ。それは普段の飛鳥と同じ琥珀色をしているが、その中には橙色も黄色も茶色もあって、透明な球体の中に絵の具のそれらが浮遊しているように見える。薄いコンタクトレンズに着色されただけの、飛鳥の偽物の琥珀とは全く違うものだ。
 
「飛鳥。明日は確か、塾はなかったよね」
「うん」
「明日の夜、絶対に帰ってくるから、だから……大事な話をしよう」

 うん、ともう一度頷いた。

「それじゃあ……いってきます」
「……いってらっしゃい」

 白鳥の姿が扉の向こうに消えて、外からの光が閉ざされた時、飛鳥は胸の奥が波打っているような気がした。
 真冬の海の、灰色の波が押しては返すような感覚。朝日に網膜を焼かれてしまったのだろうか、温かい色をしていた筈の扉が、飛鳥の瞳孔にはモノクロに映る。
 耳奥で響く波の音に体が突き動かされて、飛鳥は急いで自分の部屋に戻ると、スマホを手にしてメッセージアプリを開いた。
 彼とのやりとりは、相手からの返信で終わっていた。
 彼からのメッセージは、雨の中で彼らと逃げた『あの日』の晩に送られてきた。クラスのグループラインから見つけ出した連絡先を前にして、何を言えばいいのかベットの上で考えあぐねていた時、「怪我してないか」という言葉が届いたのだ、すぐに既読をつけてしまったから、何か答えなくてはと思って慌てて「大丈夫」とそっけない返事をしてしまった。
 本当は、自分が最初に送るべき言葉だったのだろう。
 「よかった」と、1分もしない内にメッセージが表示されて、続けて「オレも何とか怪我はしてないみたい」と送られてきたから、飛鳥はもう何も言えなくなってしまった。心配する言葉も、謝罪も、感謝も、どれも違うような気がしてしまった。
 あの夜は無言のままアプリを閉じて、スマホを投げ出して、暗闇の中で改めて彼の優しさを思い知った。ただの優しさじゃない。彼の優しさは、自分がいかに矮小なのかを明らかにしてくる優しさだ。
 今、4つのメッセージしか表示されていないトーク画面を見て、飛鳥はキーボードの上で指を彷徨わせていた。しかし右上に表示されている時刻に気づいて、我に返りスマホを机に置く。
 こんなことをしている場合じゃない。早く学校に行く準備をしなければ。そもそも、こんな朝からメッセージを送ったって、彼にとっても迷惑だろう。
 1階に下りて、洗面台に向かう。顔を洗って鏡を見れば、そこには『薄茶色』の眼をした自分がいる。カラーコンタクトをつければ簡単に琥珀色になる。脱色と染髪を繰り返して傷んだ白髪は、枝毛が増えてきた。だから毛先が頬に刺さると痛い。
 リビングに行けば母親がいて、飛鳥に朝ごはんを出してくれた。時計はやはりいつもより遅い時間を示していたが、母親が飛鳥を急かすことはなかった。飛鳥も味噌汁を啜りながら、急がなくてもいいか、なんて思い始めていた。どうせ早く行ったって窓際の隣人はいない。会えないのなら、早く行く意味もないだろう。姉と違って、飛鳥が薄い隈を作っていたところで彼は気付かないだろうが、彼の優しさにどこか期待していた。 
 温かい味噌汁を体の中に流し込みながら、飛鳥は優しい青太のことを考える。考えても考えても、胸の奥のざわめきは止まなかった。

NEXT>>32

3−2 ( No.32 )
日時: 2018/09/29 07:15
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−2

 水島青太はやはり優しい人物で、クラスメイト全員分の英語課題を運ぼうとしていた飛鳥に、「手伝おうか」と当然のように声をかけてきた。
 テスト期間に入ったこともあって、放課後だというのに廊下にある人影は疎ら(まばら)だ。教室に残っている生徒も既に自主勉強を始めている。緊張感が張り詰める校舎内はとても静かだった。
 職員室に40人分のノートを運び終わったところで、青太は飛鳥に問いかけた。

「瀬川って日直だったっけ」
「違うよ。今日の日直が早く帰らないといけないからって、代わりを頼まれたんだ」
「ああ、そうだったのか」

 職員室の前に置いていたリュックサックを背負い直しながら、結構重かったな、と呟く青太に、そうだねと返す。通学鞄を肩にかける飛鳥を見て、青太は再び口を開く。

「瀬川も帰るのか?」
「いや、図書館に行って勉強するよ」
「真面目だな」
「テスト期間中じゃないか」

 呆れて言えば青太は困ったように笑った。隣の席で彼の解答を見る機会ができたからこそ分かることだが、彼は英語が苦手なようだった。語彙力は一定の水準に達しているが、文法や文章構造を理解するのに時間がかかるらしい。塾で教わったことや参考書に書かれていたことを噛み砕きながら説明すれば、彼は素直に感謝し、飛鳥を褒めた。
 最近は脳の回転が鈍っているような気がして、教師の話を聞くことだけで精一杯になってきている。以前とは違ってどの授業も苦痛だった。しかし、英語の授業で隣と机をくっつけて解答を確認し合う時間だけは、今でも楽しい。
 英語くらいは教えてもいいかな、とふと思った。
 飛鳥は図書館に行くために、そして青太は生徒玄関に行くために、2人は階段を降りる。踊り場の大きな窓ガラスの向こうには、大きな水溜まりができた校庭が広がっている。それから、目を凝らしてようやく視認できるような細い雨が降っていた。

「水島は帰るのかい」
「帰る、けど」
「けど?」

 突然言葉を詰まらせた青太を、飛鳥は数段下から見上げた。

「これから、警察署に行くんだ」

 警察、と聞いてぞっと鳥肌が立つ。まさか数日前の戦闘が警察にばれたのだろうか。
 だが青太はすぐに、この前のことじゃないと否定した。

「瀬川と一緒に警察署に行ったときに、『抑制器具』の話しただろ」
「《COLOR》を抑制するために、支給される物……だったっけ」
「うん。それの話を、もう一度聞きに行こうかと思ってさ」

 青太の《COLOR》は強力だが、彼は《COLOR》を過剰に出力してしまう傾向にあった。《COLOR》を高出力のまま使い続ければ、暴走し、他者を傷付けてしまうかもしれない。かつて《COLOR》の暴走を経験している青太は、勿論抑制器具を受け取るだろうと飛鳥は思っていた。
 しかし彼は、意外にも、抑制器具は受け取らないと答えた。

「あれって、自分の意思で装着はできるけど、検査を受けて矯正されたのが認められないと解除されないんだ。でも、もしもの時に、それは困るだろ。だから、自分でどうにかしようと思うんだ」

 青太は自らの開いた右手を見つめていた。彼はそこから目を逸らさない。
 どうにかすると言ったって、自力でやれることには限界がある。それに《COLOR》を使用するということは、その分身体に負荷をかけることになる。負荷が蓄積すればいずれ腕や肩が壊れてしまうだろう。
 だから理性的に考えれば、青太は抑制器具を受け取るべきだ。けれど飛鳥は、彼の考えを否定することができなかった。
 青太に守ってもらわなければならないのは事実だ。青太の強力な《COLOR》がなければ、飛鳥だけではなく青太まで怪我をするかもしれない。彼から《COLOR》という「盾」を奪うことはできなかった。そして何より、青太自身が、飛鳥を守るための「矛」を捨てはしないだろう。
 考えている内に1階に着いた。生徒玄関の方へ歩いて行く青太の背中を見て、飛鳥は言わなければならない言葉を思い出した。

「水島っ。あの、さ」

 普通に、自然に、友達のように。直前まで「言える」と思っていた言葉が、青太が振り返った瞬間喉から出てこなくなってしまった。彼の両眼の深海に真っ直ぐに捉えられる感覚は、やはり慣れない。
 言い淀む飛鳥に、青太はそういえばと声を被せた。

「海黒ちゃん、ちゃんと学校来てるのかな」
「……海黒さん、学校来てないのか?」
「少なくとも、今日はな」

 先程職員室で1年生の連絡ボードが目に入った時に、欠席者の欄に海黒の名前を見つけたらしい。
 海黒と最後に連絡をとったのは、海黒が電話をかけてきたあの雨の日だ。その日の夜と翌日の放課後にはこちらから電話をかけたが、どちらも繋がることはなかった。その上、巨大な鏡高校でクラスも知らない海黒を探し出すのは難しく、海黒を探していることが青太に察知される可能性も高い。彼は、飛鳥を海黒に――その背後にいる岬紅野に近づけさせたくないようだから、海黒を案じての行動だとしても、きっといい顔はしなかっただろう。

「水島は海黒さんのこと、心配してるのか」
「……ちょっと気になっただけだ。岬海黒からアクションがないなら、こっちも下手に動くべきじゃないし」

 ややあって、そうだね、と頷く。それ以外の言葉は、蛍光灯に照らされる廊下のどこを探しても見当たらなかった。
 また明日、と言って遠ざかっていく青太の背を見送った後、飛鳥は図書館の方に歩き出す。
その時、鞄の中でスマホが震えた。その画面に表示されているのは『岬海黒』という文字列で、突然の海黒からの着信に飛鳥は急いで通話ボタンを押した。しかし、海黒の声が聞こえてくることはなかった。

「――こんにちは、瀬川飛鳥くん」

 それは、男の声で――間違いなく、岬紅野の声だった。

「海黒からではなくて残念だったかな。妹は今体調を崩していてね。足のこともあるし、しばらく学校を休ませていたんだけど、明日からは登校させるつもりだ」

 一瞬で思考は停止した。透明な水に紅い絵の具を溶かすように、静止した世界に、意識の中に、紅野の声が流れ込んでくる。

「すぐに電話に出てくれる程、海黒を心配していてくれたんだね。兄としても嬉しいよ。ありがとう」

 さて、と彼は息を吐いた。まるで、今までのことはどうでもいい、と言い放っているかのようだった。

「瀬川飛鳥くん、これから、うちに来てほしい」
「……え?」
「俺の自宅に来てほしいんだよ」

 予想外の誘いに飛鳥は困惑した。当然、岬紅野の自宅に1人で行くなんて危険だ。青太にも迷惑がかかるだろう。迷惑だけならまだましだ。これ以上彼に無駄な被害を被らせることはできない。 
 飛鳥は間を置かず、行かない、と返そうとした。その返事を、紅野は狙っていたかのように自らの声で遮った。

「当然君は警戒しているだろう。けど俺は誓って何もしない。俺は海黒から君の報告を受けているんだ。君が模範生であることも知っている。真面目な優等生が家に帰らなければ、周囲は1日とおかず怪しむだろう。青太は間違いなく俺の仕業だと考えるだろうさ。それで警察に通報されでもしたら、困るのは俺たちだ。君を傷つけたり殺したりしても、何のメリットもない。デメリットしかない。だから君を害することはしない」

 それから、と彼は付け加える。

「もしうちに来てくれたら、君が知りたいことを、できる限り教えてあげよう。海黒とも会える。君だって、自分の目で海黒の無事を確かめたいだろう」
 
 裏門にハイジを待たせている、と言い残され、一方的に通話を切られてしまう。有無を言わせないその態度は、裏を返せば、飛鳥の行動を全て読んでいるということだった。
 彼の筋書き通りに行動してはいけない。しかし、彼から提示されたメリットは大きい。もし、青太や海黒を取り巻く闇の全容が分かったら。もし、彼らを救い出す糸口を手繰り寄せることができたら。
 もし、紅野が犯罪者ではないと、憧れのヒーローそのものであると確信できる何かを得ることができたら。
 事態は好転するのではないか。

 裏門では、ビニール傘を差した男子生徒が立っていた。蒸し暑い中で、彼は鏡高の学ランを着ていた。襟に着けられた一本線のエンブレムが、彼が1年生であることを示している。
 ピアスは全て外されているが、傷の多さは変わっていない。灰がかった髪に、血色の抜けた肌。目の下に刻まれた隈。そして、長い前髪の下から覗く、暗い瞳。
 飛鳥に気付いたハイジは黙ったまま、視線だけを飛鳥に向けた。

NEXT>>33 

3−3 ( No.33 )
日時: 2018/10/14 01:15
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−3

 「岬」の表札がかかった家に着くと、ハイジは飛鳥の傘を無言で奪って傘立てに立てた。ハイジ自身のビニール傘は傘立てには入れられず、靴箱に立てかけられた。
 そこは広い家だった。飛鳥の家よりも廊下の幅が大きく、スロープが造られた玄関も広々としている。階段の見当たらない紅野の家は、1階以上が存在しない平屋だ。
 ハイジは慣れた動きで靴を脱いで廊下を進み、左手にある横開きの扉をノックした。すぐに、奥から声が返ってきた。
 
「こんにちは、紅野さん」
「やあ、ハイジ」

 薄暗い部屋の中で、車椅子に座る紅野が振り向く。
 デスクワークの最中だったらしく、机の上には書類が広げられていた。光源は卓上ランプとブラインドカーテンの向こうから射す弱い日差しのみ。ハイジが入り口で立ち止まったまま中に入ろうとしないので、飛鳥は紅野の部屋の全貌を見ることはできなかったが、床に物は置かれておらず整然とした様子だった。無駄な物が少ないのはおそらく、車椅子での動線を確保するためだろう。
 
「わざわざすまないね」
「紅野さんのため、なので」
「ここでは何だし、リビングに行こう」

 紅野が動き出すのと同時に、ハイジも飛鳥をリビングへ促した。
 紅野と一瞬目が合う。彼の笑顔は作り物のようではなく、純粋な柔らかい笑顔だった。妹とは似ていない、と飛鳥は頭の隅で思った。
 リビングで紅野に勧められて、飛鳥はレザーのソファに座る。紅野とテーブル越しに対面するような形だった。何となく落ち着かず恐る恐る通学鞄を床に降ろすと、キッチンからハイジの声が飛んできた。

「紅野さん、紅茶きれてます」
「そうなのか。冷蔵庫にウーロン茶があった筈だから、そっちでいいよ」
「分かりました」
 
 ハイジの動作には迷いがない。まるで自分の家かのようにスムーズに動く。何がどこにあるのか全て把握しているのだろう。もしかして、ここに住んでいるのだろうか――いや、まさか。

「ハイジのことが気になるのかい」
「……彼は、鏡高の生徒だったんですね」
「沖原灰慈(おきはらはいじ)、鏡高校の1年生だ」

 だから頭がいいんだ、と紅野は笑った。

「兄弟ではないんですね」
「それは初めて言われたな。俺と灰慈は似ていないと思うんだけど」
「灰慈くんが、この家に随分慣れているように見えたので」
「ああ、灰慈はここによく来るんだ」

 やがて灰慈が2人分のウーロン茶を持ってテーブルにやってきた。彼がグラスを置くと、こん、と木を叩く柔らかい音がした。
 傘を立てかける時にも、靴を脱ぐ時にも、扉を開ける時にも、そして今まさにグラスを置く時にも感じたことだが、灰慈の所作には、見た目に反して荒さが無かった。どの動きも柔らかい。歩くときもほとんど足音を立てない。育ちがいい、と形容すればよいのだろうか。それとも、躾の行き届いたとでも言えばいいのか。

「ありがとう」
「いえ」 
「今日は、学校は?」
「3限目から行きました。本当は1限目から行こうと思ってたけど、朝起きられなくて」
「それでも学校に行ったんだろう、えらいじゃないか」
「……それで、数学の小テストが、あったんですけど」
「どうだった?」
「100点、でした」
「すごいね、ちゃんと勉強したんだな」

 灰慈の頬が緩んだ。隈のせいで変色した目尻を下げて、嬉しそうに笑んだ。そんな彼の口から零れたのは称賛を受け入れる「ありがとうございます」でも、それ以上の称賛を求める言葉でもなく、「次も頑張ります」と――その一言だけだった。
 紅野から2人きりになりたいと告げられた灰慈は、頷いてリビングから出る。本当に、従順な少年だ。

「……ここまで来てくれて、ありがとう。瀬川飛鳥くん」
「……いえ」
「俺のことは、知っているよね」
「それは、勿論です」
「だろうね。だって、10年も前のことを今でも覚えていてくれたんだから」

 10年前、誘拐されそうになった自分を助けてくれたヒーロー。紅い目、紅い髪。記憶の中で決して色褪せることがなかった色彩。紅いヒーロー。
 それが『岬紅野』という名前を持って今、そこにいる。知らない家のリビングの、窓から射す無彩色の光の中で笑っている。

「あの」
「何?」
「海黒さんって、今どこにいるんですか。玄関に海黒さんの靴はありませんでした。ここにはいないんですよね」
「……ああ、それが俺にも分からないんだ」
「分からない?」
「俺も20分前に帰ってきたばかりで、その時にはもういなかったんだ。でも、遠くには行っていないと思うよ」

 そう言いながら彼は、灰慈が運んできたウーロン茶を少し飲んだ。
 なんて悠長なのだろうか。体調を崩して怪我をして、つい最近まで危険な目に遭っていた妹が知らない内にどこかに行ってしまったら、普通はもっと心配するのではないか。少なくとも自分なら、迷わず外へ探しに行く。
 だが紅野は、あの子は俺に迷惑をかけたがらない、と呟いた。迷惑をかけたがらないから、余計なことはしない。迷惑をかけたがらないから、自分の言うことをよく聞くのだと、暗にそう言っているようだった。そして、レンズの奥の目を細める彼を見て、飛鳥も妙に納得してしまった。だから言い返すことも訊き返すこともしなかった。否、できなかったのだろうか。

「しばらくしたら、帰ってくるんじゃないかな。海黒に会いに来てくれたんだろう? なのに、すまないね」
「……どうして、僕を呼び出したんですか」
「この前の傘の催促の為だよ――ああ、焦らなくてもいい。傘は学校で灰慈か海黒に渡してくれればいいから。今日君に来てもらった理由と言うのは、青太について、訊きたくてさ」
「水島、ですか」

 また、水島青太のことだ。

「そう。瀬川くんは、青太と仲がいいんだろ」
「それ、は……」
「ああごめん。君は、あんまり青太のことが好きじゃないんだったか」

 沈黙する飛鳥を、紅野は口角を上げて見つめ続ける。

「誰にだって好き嫌いはある。別に君が青太のことを好きじゃないとしても、何の問題もないし、そのことを気に病んでいるとしたら、それは君がそれだけ優しい人間だってことだ」
「……そんなことないです」
「そうかな。まあ、彼は優しくていい子だろう」
「そうですね……優しいです。水島は」

 青太は優しい。だからこそそんな青太が「犯罪者」だと言った岬紅野が、青太のことを「青太」と親し気に呼び、それを青太自身も拒絶しないのが、とても怖い。
 ウーロン茶を口に含む。乾いた口内を濡らしていく液体は、少しだけ苦かった。

「青太は今、どうしてる? 中学生の時は学校に行きたがらなかったけど、今はちゃんと高校に行ってるかい?」
「毎日、ちゃんと来てますよ。僕も、今年から同じクラスになったばかりなので、水島の学校生活について、よく知っているわけじゃないですが」
「いや、いいんだよ」

 飛鳥が顔を上げると、紅玉のような目が不思議な光を宿しているのに気付いた。紅野は、どこか遠くの、海の向こうの水平線を見つめるような目をしていた。

「そうか……ちゃんと、学校に行っているのか。それなら、いいんだ」
「……紅野、さん」

 グラスからテーブルに落ちる、濁った色の光。それを見つめた後紅野を見れば、その鮮やかなルビーに目が眩みそうになった。どんなに磨き上げられた宝石でも敵うことはない瞳だ。
 そしてやはり、自分がそれに触れることはできないのだと思った。自分が彼の真っ黒な瞳孔に「真に」捉えられることも、ないのだろうと思う。

「この前お会いした時、10年前のことを『覚えていない』と嘘を吐いたのは、なぜですか」
「……俺もね、動揺したんだ」

 机の上で手を組みながら、紅野は目を伏せた。

「まさか、10年前に、たった一度きりだけ会った男の子と再会するなんて夢にも思わなかった。そして相手が、俺と同じようにそのことを覚えていてくれたことも――だからあの時は、都合がよすぎると思ったんだ。そんなこと、ある筈ないと思った。そんな確証も持てないような状態で、君の大切な記憶を踏み荒らすことはできなかったんだ」
「だから、嘘を吐いたんですね」
「冷たい言葉だったと、自分でも思う。すまなかった」
「謝らないでください。あの……あなたに忘れられていなくて、僕も」

 続く言葉は、突然ドアの向こうから聞こえてきた足音に塞き止められる。
 ドアを開いたのは、ワンピースを着た海黒だった。彼女は紅野を見て、次に飛鳥を見て、黄昏色の目を見開いた。どうしてここにいるんだ、と、音にせずともそんな海黒の声が聞こえてくるようだった。

「おかえり、海黒」
「……ただいま、お兄ちゃん」
「何か買ってきたのか」
「紅茶がきれてたから、新しいの買ってこようと思って」
「そうなのか。ありがとう」
「ううん、いいの」

 海黒はもう一度飛鳥を見たが、声をかけることはなかった。
 ふと海黒が開けたままにしていたドアを見れば、そこには灰慈が立っていた。海黒の足音を聞いて、2人きりになりたいという紅野の頼みを破った彼女を咎めに来たのだろうか。しかし灰慈は、1歩たりともリビングに入ろうとしなかった。紅野が海黒に対して何も言わないから、彼も海黒に干渉することができないのだろう。キッチンの戸棚に紅茶の缶を収めていく海黒を、ずっと見ている。
 全て仕舞い終わって、やっと灰慈の存在に気付いた海黒は、彼からあからさまに目を逸らした。紅野はやはり、黙ったままだった。
 沈黙の中で、灰慈はゆっくりと俯いて、そして静かに扉を閉めた。

NEXT>>34

3−4 ( No.34 )
日時: 2018/10/22 02:05
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6
参照: https://www.youtube.com/watch?v=1Ff6cy_HhDY&t=0s&list=LLGAusmZdyD-FMA24mxeQZNg&index=2

3−4

 君は真面目だろう、と紅野が言った。何と答えていいのか分からず吃って(どもって)いると、彼はグラスの水滴を指先で掬いながら、ふっと笑った。

「君は校則を遵守するタイプだって、少なくとも皆には、そう思われているんじゃないか」

 事実かどうかは別として、と付け加えて。
 飛鳥は思わず自分の首を撫でて、襟足に触れた。何度かの脱色で傷んでしまった髪が肌にちくちくと刺さる。

「けれど瀬川君は、自分が守っている校則は誰が作ったものなのか、って考えたことはあるかい」
「……それは、さっき仰っていたことと、関係あるんですか」
「ああ、そうさ」

 ――この世から秩序を排除する。
 水島を何に巻き込もうとしていたのか、あなたは一体何に関わっているのか。単刀直入にそう訊ねた飛鳥に、紅野は一言で答えた。
 秩序の排除。それが、青太が滅茶苦茶だと言っていた彼らの思想らしかった。
 一瞬にして顔を強ばらせた飛鳥を前に、紅野は平然としていた。彼は視線を逸らさない。一方の飛鳥の瞳は、まるで迷子のように揺らいだ。その違いは、飛鳥が自分の方が間違っているのではないかと錯覚しそうになる程に明らかだった。
 
「校則然りルール然り……知らない誰かが作った規定に囚われるなんて、馬鹿らしいだろ」
「だから、無秩序へ作り変えるんですか」
「そうさ」
「極論ですね」
「だろうな」

 自分の思想が極端であることをあっさりと認めた紅野を見て、飛鳥は、今度は琥珀色の目を大きく見開いた。
 紅野の表情はやはり変わらない。指先の濡れた手を組んで、薄ら笑ったままだった。

「君に、『すぐに』理解してもらえるとは思ってないさ」

 次がある、と暗に示すような言い回し。理解できるわけがない、と首を横に振ろうとしたが、身体は動かない。秒針が空気を刻み、冷蔵庫のモーター音が重く床を這っている。
 カタン、と机上に1台のスマホが置かれた。そろそろ塾の時間だろう、と紅野が飛鳥の前にそれを差し出す。液晶画面を見れば時刻は18時を少し過ぎた辺りだった。
 なぜ紅野が自分のスケジュールを把握しているのか。たとえここで問い詰めたとしても笑顔ではぐらかされるだけだ。
 彼は海黒を呼び出して、彼女に飛鳥を駅まで送るように言いつけた。飛鳥が玄関に行った時には、靴箱に立て掛けられていたビニール傘は、地面に小さな水溜まりだけを残して無くなっていた。

 雨は強かった。大きな雨粒が絶えず落ちてきて、傘をうるさく叩き続けるような雨だ。コンクリート上で跳ね返った水は、透明から白に煙って(けぶって)足元を湿らせる。
 間を空けて飛鳥の前を歩く海黒は、何も話さなかった。歩きづらそうではなかったから、足は完治したのだろう。胸を撫でおろすのと同時に、しばらく海黒が学校を休んでいたことを全く知らなかったくせに、彼女の無事に安心する自分が偽善的で気持ち悪いものに思えた。
 
「どうして、うちにいたんですか」

 駅のタクシー乗り場に着いたところで、海黒が突然振り返った。紅野に呼び出されたのだと正直に答えると、海黒は警戒心がないのかと半ば呆れた様に言った。

「僕を傷つけるようなことはしないと思ったんだ」

 紅野からの提案にのったのはリスクよりメリットの方が大きかったからだ。海黒の無事を確認し、紅野から情報を聞き出せるなら――そう考えて紅野と会ったのに、自分が得たものは少なかった。
 紅野は「秩序の排除」を共通思想とする組織の中にいる。そしてその組織には名前がないから、外界の者がそれの実態を掴むことはできないらしい。いつから組織が暗躍しているのか、具体的に何をしているのか、そんなことは話されなかった。

「……海黒さんは、さ」
「……何ですか」
「正しいと、思ってるのかい」

 ぎゅっと、海黒は傘の柄を握って言葉の続きを待っていた。

「紅野さんの、考えを――秩序を、排除するっていうことを」
 
 疑問形ではない。海黒を否定したいわけでもない。彼女の本音を引き出す為に選び出した声は、抑揚に欠けた冷たい声で、自分で自分が怖くなる。
 
「分かりません」

 ばたばたと雨が降る。肌寒い。きっとこの雨は、夜になって空が完全に黒くなってしまっても止むことはないだろう。濡れるコンクリートの匂いすらしなくなって、辺りは息苦しくなるような水の匂いに充たされていた。

「私にとって正しいのは、お兄ちゃんだけです」

 雨音に辛うじて掻き消されない程度の声で、海黒は続ける。

「『それ』が正しいかどうかなんて、どうでもいいんです。お兄ちゃんがそうしろと言うなら、私は『それ』を正しいと言います。それだけです」
「どうして」
「……兄だから、ではだめですか」
「……だめじゃないよ」

 海黒は間違ってはいなかった。正しくはないのかもしれないが、間違ってもいない。
 ややあって、海黒は上着のポケットからスマホを取り出した。紅い花柄のカバーが取り付けられた、海黒のプライベート用の端末だ。

「連絡先、交換しませんか。以前教えた携帯はもう使わないので」

 飛鳥は頷いて、海黒に自分の電話番号を見せた。直後にワンコールだけかかってきた電話番号は、確かに初めに教えられたものとは違っていた。

「……本当に、警戒心がないんですね。これがもし、私がお兄ちゃんに言われてやってることだとしたら、どうするんですか」
「もしそうだったら、君からの着信は全部無視するだけさ」
「そうですか」

 おそらくこれは、紅野の指示ではなく、彼女の意思でやったことだ。ラインでもメールでもなく電話番号だけ交換したのは、2人のやりとりの履歴が残らないようにする為。電話口越しの声のやりとりは、録音しない限り残らない。

「お兄ちゃんは、青太さんとのコネクションが欲しいんだと思います。だから、仲介役になれる飛鳥先輩に接触したんです」
「まあ、そうだろうね。でも僕だって、簡単に従属するつもりはないよ」
「強気ですね」
「……水島がいるから」

 海黒は意外そうに飛鳥をじっと見て、それから「そう」と目を逸らした。
 彼女が視線を滑らせた方に飛鳥も目を向けてみれば、タクシー乗り場の丸い屋根の端から水が流れ落ちていた。
 煙っているのは地面だけではなかった。夕陽は雨雲に遮られ視界は薄暗く、雨に滲んで建物や車の輪郭はぼやけている。霧がかかっているようにも見えた。近くにある筈の信号機の光が、遥か遠くで輝いているように思えた。
 
「飛鳥先輩」
「なに?」
「私、やっぱり、お兄ちゃんが大事なので。お兄ちゃんの為に、また飛鳥先輩を傷つけることもあるかもしれません」
「分かってるよ。海黒さんが、そうしないといけないことだって」

 飛鳥は紅野の隣に仕えていた少年のことを思い出していた。沖原灰慈、彼は特に紅野から可愛がられているようだった。それは、実の妹である海黒を脅かす程に。
 だが飛鳥は、海黒と灰慈は明確に線引きされていると感じていた。海黒はリビングに入っても咎められなかったが、灰慈は紅野が許さなければリビングに入ることはできなかった。海黒もまた紅野にとっての特別なのだろう。
 だから、不安がる必要はない――なんて、言えるわけがない。それは彼女が抱える苦しみを否定するのと同義だ。
 兄弟だから無償で愛されるとは限らないのかもしれない。姉の白鳥に幾つもの隠し事をしたままなのも、きっとその為だ。嫌われたくないからだ。
 手に力を籠めると、封筒がかさりと鳴った。タクシー代にと紅野から渡された3枚の紙幣。乾いた感触は手に馴染まない。

「海黒さんは」

 空車の文字を光らせたタクシーが近付いてくる。腕時計を確認すれば、紅野の家を出てから30分経っていた。塾の講義には間に合うだろう。もうすぐお別れだ。ここに海黒を一人にして、行かなきゃいけない。

「海黒さんは、頑張ってるよ」

 海黒は首を横に振った。薄い肩が震えていた。手の甲で、何度も目元を拭っていた。
 彼女は声を上げようとしなかった。だが堪えきれず漏れてしまう嗚咽と、手首を伝い落ちていく雫を見て、飛鳥は、海黒が泣いているのを知った。

NEXT>>35

3−5 ( No.35 )
日時: 2018/10/16 02:12
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6

3−5

 背後から足音が聞こえる。後ろをちらりと見れば、リュックサックにぶら下がったマスコットキーホルダーを揺らしながら、飛鳥とほとんど同じ速さで青太が歩いていた。

「……なんでついてくるんだよ」
「だってオレも電車で帰るし」

 学校の最寄駅への道は今まさに歩いているこの道だけなので、飛鳥は何も言えなくなる。
 久々の晴れ間を見せた空は薄い水色が広がっている。だが相変わらず蒸し暑く、飛鳥は襟元を掴んでぱたぱたと仰いだ。

「もしかして、オレが瀬川と一緒に帰りたがってるって思ったのか?」
「うるさい」

 拗ねた声で返せば青太が笑う声が聞こえて、飛鳥は歩調を速くする。タンタンと革靴の足音に重なって、柔らかいスニーカーの足音も速くなる。

「やっぱりついてきてるじゃないか」
「いいじゃん、一緒に帰ろうぜ」
「やだよ、そんなの。水島、寄り道とかしそうだし」
「しないって」
「本当に?」
「……滅多には」
「たまにするんだろ」
「たまにするくらいならいいだろ」

 ぱたぱたと足音がより速くなる。自分の真横に青太の横顔が見えかけて、飛鳥も更にスピードを上げた。

「せーがーわ」
「うるさい」
「瀬川っ」
「一緒に帰るなんて言ってないからな」

 ぱっと、前を見れば青太が自分の前に立ちふさがっていて、飛鳥は仕方なく足を止めた。
 また何か用があるのだろうか。昨日青太に何も相談せず紅野の家に行ったことについて咎められるのだろうか。
 確かに、紅野の家に単身赴いてしまったことは軽率で危険な行為だったと自覚している。それに関して自分に弁解の余地はない。だから飛鳥は言い訳は考えず、何の用だと青太に尋ねた。
 しかし青太は不思議そうな顔をして、特に何も、と答えた。

「何も無いのに僕に話しかけてきたのかい?」
「何か用が無いと話しかけちゃだめなのか?」

 だめ、ではない。
 けれど青太とは特別な用事がなければ話してこなかったから、今更、そんな普通の友達のような関わり方をするのは慣れない。
 青太と日常会話をしたことはほとんどないし、そもそも属している友人グループが違う。『こんなこと』さえなければ、飛鳥と青太の接点は隣の席であることくらいだ。
だから、こんなにも長い時間一緒にいて、お互いのコンプレックスを晒し合って、彼の本当の色が他の誰よりも綺麗な『青色』だということも知っているのに、青太の好きな食べ物も好きな本も誕生日も血液型も、飛鳥は何も知らなかった。
 飛鳥が黙っていると、青太は慌てて「嫌だったらもうしない」と一歩後ろに退がってしまった。それがなぜだか苛立たしく思えて、「嫌なんて言ってない」と強い語調で言い返してしまう。
 それから2人はうやむやなまま、通学路を並んで歩き始めた。

「瀬川は学校で勉強するのかと思ってた」
「今日は姉さんが帰ってくるから、早く帰るんだ」
「そっか」

 1分も経たずに、沈黙。青太は別の話題を探しているようで、目線を上の方でふらつかせていた。飛鳥も会話の糸口を考えてみるが、如何せん日常会話につながるような話題はどれも唐突に思えてしまって、なかなか言葉にできない。
 そうしているうちに青太が「あー」と呻いて、やがておずおずと口を開いた。

「白鳥さんは瀬川がやってること、知ってるのかな」

 予測していなかった姉の話題に、じわりと汗が噴き出す。声が震えないように、飛鳥はしっかりと息を吸って声を出す。

「知らないと思う」
「話してないのか?」
「話せるわけないだろ」

 飛鳥がそう言い捨てれば、青太は言葉を詰まらせて、その後にそうだよなあと零した。

「白鳥さんに、相談できたらいいなって思ったんだけど」
「姉さんは捜査官じゃないから、相談しても意味無いよ。それに」

 続く言葉で、舌が回らなくなりそうになる。

「……姉さんに、心配はかけたくない」

 とってつけたような、いい弟を演じるかのような台詞に、内側からフォークの切っ先で何度も突かれているみたいに、胸の辺りがずきずきと痛む。
 青太は「ああ」と頷いたが、肝心の自分自身がそれは違うと声を上げていた。心配をかけたくないのではなく、ただ自分のやっていることが露見して、姉に失望されたくないだけなのだ、と。

「白鳥さんは頼れないってことは、やっぱり、オレ達でどうにかするしかないか」
「どうにか、できるものなのか」
「どうだろう。でも、岬紅野の方から介入してこない限りはオレ達は普通にしていればいいし、もし介入されたとしても、あしらうことに専念すれば、回避できないわけじゃない」
「水島」
「ん?」
「水島は、紅野さんのこと、どう思ってるんだ」

 え、と青太の表情が凍りついた。眉は不安げに下がり、薄く開かれた唇からは、乱れた呼吸が漏れ出している。
 きっと彼はもっと楽しくて他愛ない話がしたかったのだろう。けど飛鳥は、どうしてもそこに踏み出せなかった。自分と青太が楽しく話している姿が、全く思い浮かばなかったのだ。
 やがて青太は、苦しそうな声で呟いた。

「正直、分からない」

 彼の、澄んだ水色の空を見ていた目が、汚れたアスファルトの上に落とされる。

「オレは、紅野さんのことを忘れたくてあの人と縁を切った。だから、あの人と会っていない1年間で、紅野さんのことは乗り越えられたって思ってた。でもこの前紅野さんと再会して、名前を呼ばれただけで、身体が動かなくなった」

 それは、青太が硬直してしまった飛鳥の腕を引いて、紅野の前から去ろうとしたときのことだった。それまで紅野に対して強く出ていた青太だったが、たった一つの言葉の鎖に完全に拘束されてしまった。

「好きとか嫌いとか、そういうのじゃないんだ。でも、どう足掻いても、オレにとって紅野さんの存在は大きいんだと思う。よくも悪くも、な」

 そして彼は、飛鳥の目を真っ直ぐ見て無理やりに笑った。その笑顔は彼なりの終止符なのだろう。
 飛鳥は曖昧な返事をして、青太から目線を外す。
 だが、すぐに肩を叩かれた。再び青太を見れば、彼は目線で前の方を示した。

「そこの自販機で飲み物買っていい?」
「寄り道しない、って」
「そんなことは言ってない」

 青太はへらっと笑って、すぐ前方にある自販機に駆け寄った。自分は特に買いたいものもなく、青太の横に立ち止まる。
 ふと青太は飛鳥を見て、それからふっと口角を上げた。

「なんだかんだ言って、待っててくれるんだな」
「早くしろ」
「はいはい」

 青太は楽しそうに、陳列されたペットボトルを眺めていた。色とりどりのパッケージがきらきらと輝く青太の黒い目に映りこんで、ビー玉のようでもあった。
 手持無沙汰になった飛鳥は、通学鞄からスマホを取り出す。待機画面にポップアップで、白鳥からの「7時頃に帰るね」というメッセージが表示されていた。すぐに、分かったと返信。既読はつかない。
 
「瀬川!」

 すると突然青太に名前を呼ばれ、飛鳥はびくりと肩を震わせてしまう。リアクションが大げさになってしまったのが恥ずかしくて眉を顰めながら青太を見やれば、彼はなぜか両手にペットボトルを持っていた。

「当たった!」
「何が?」
「カルピス!」

 青太は満面の笑みで、カルピスのペットボトルを飛鳥に差し出した。
 
「1本買ったらもう1本出てきたんだよ、だからほら」
 
 彼の笑顔があまりにも眩しくて、飛鳥はまばたきをした。カルピスの白に、鮮やかな青いパッケージはよく映える。それがとても甘そうで、飛鳥は喉の渇きを覚えた。
 ありがとう、とペットボトルを受け取ると、手の平から心地よい冷たさが伝わってくる。隣の青太が早速蓋を開けて飲んでいたから、飛鳥も少しだけ口内に流し込んだ。
 淡い甘みが舌の上に広がって、少しの酸味が最後に駆け抜けていく。冷たくて清涼感のある風味に、蒸し暑さによる倦怠感が僅かに和らいだ気がした。
 目の前を、同じ高校の女子生徒達が仲良さげにお喋りしながら通り過ぎていく。
 彼女たちから見れば、自分たちも普通の友達に見えるのだろうか。そんな思考は、次の瞬間には、ペットボトルに付いた水滴が指をくすぐって滑り落ちていく感触に掻き消されてしまった。

NEXT>>(10/26更新予定)

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