複雑・ファジー小説

飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】
日時: 2020/08/08 18:51
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

飛んでヒに入る夏の虫

 暗がりを恐れているのか、灯りが恋しかったのか。それとも君も、死にたかったのか。
 白熱灯に触れた羽虫は、ジジッとノイズと共に生命を散らして、地に落ちる。イカロスだっけ、太陽を目指してロウで固めた翼を羽ばたかせたのは。少しだけ似ているかもしれない。
 いいな。空を掴めない掌で、太陽に焦がれた。遠い、遠い、蒼穹の中の光への羨望は、日に日に募っていく。
 
 きっと、どこかで野垂れ死んでしまう、羽虫のような存在。死んだって誰も気にかけない、ちっぽけな何か。
 夏は嫌い。溶けて消えてしまえとでも言いたげな炎天下が嫌いだった。夏休みの宿題を終わらせなければと焦らされる感覚が嫌だった。何かしなければいけない気がする感覚も嫌で、堪らなく嫌いなのに、夏の終わりが来ると、どうしてか寂しくなるのが、何よりも嫌いだった。
 ヒグラシの声に、耳を塞ぎたくなる。毎年同じ臭いのする、別の夏を見てきて、思う。
 
 死んでしまいたいなって。
 
 
初めまして、今際 夜喪(いまわ やそう)と申します。夏が来たらこの話を書こうと思っていたので。
短いですが、この猛暑で溶けて消えてしまいたいような、そのくせ溶け残ってしまった、何かみたいな、暗い話です。
(二年前の夏に更新停止したものを再始動しております)
 
目次
♯01 陽炎/カゲロウ>>1>>2>>3
♯02 蛍火/ホタルビ>>4>>5>>6>>7>>8
♯03 空蝉/ウツセミ>>9
 
登場人物
日暮 禅/ヒグラシ ゼン
源氏 蛍/ゲンジ ケイ
薄羽 秋津/ウスバ アキツ
 

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Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.5 )
日時: 2020/07/23 10:58
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

 4日目。

 あの後、アキツが中々立ち上がろうとしなくて、「気持ち悪い、吐きそう」とか言い出すから、取り敢えず俺の家で休ませてやることにした。引きこもり生活が長くて突然炎天下の中出かけたら、そうなっても仕方が無い。
 エアコンで冷やされた部屋で、アキツに冷たい麦茶を渡してしばらくしたら、大分顔色も良くなってきたように見えた。
 その間、俺はケイの遺書に目を通して、言葉を失っていた。何度も読み返して、息が詰まる感じがして、なんだか海水に溺れているみたいだって思った。水面を見つけられずに、泡に呑まれて、沈んでしまうような錯覚。それもこれも、いつの間にか頬を伝っていた涙の味が原因か。

「ケイじゃない」

 こんなのは、ケイじゃない。字体が違うし、ケイはこんな事思わない。彼女は思い通りに動かない自分の体を嫌っていたかも知れないが、誰かを恨んでなんていなかった。人に頼らないと生きられないことに罪悪感や悔しさはあったと思う。それで自己嫌悪に陥って、いつも苦しそうに笑っていた。でも、それだけだ。
 彼女が嫌っていたのは自分自身であって、世界ではない。
 じゃあ誰がこんな物を書いたのか。
 紙を握る手に力が篭って、くしゃりと音を立てた。

「アキツ。コレは誰から受け取った?」

 俺の声が、明確な怒気を孕んでいた。
 麦茶の入ったグラスを片手に、ソファに腰掛けたままぼんやりしていたアキツを睨みつける。
 アキツは緩慢な動作でグラスを口に運び、中身を飲み干してから、短く答えた。

「ケイ」
「嘘だ」

 呆れたような視線が俺を射抜く。

「……現実見なよ」
「お前こそ、嘘付くなよ」

 アキツは眉を顰めて俺を見つめたまま、小さく溜息をついた。

「うーん。ゼンがぼくを信じたくないなら、それでもいいよ。じゃあ、ゼンの思う真実って何?」

 一瞬、俺は視線を下げる。

「お前がこれを書いて、ケイは自殺なんかしてなくて、」
「それはゼンにとって都合良すぎない? 世界は君中心に回ってるわけじゃ無いんだから」

 アキツは「烏龍茶ご馳走様」と言いながら、空になったグラスを机に置いた。

「それ、麦茶だし」
「ああ、麦茶か。いや、そんなことはどうでもいいんだよ。とにかくさ、ケイの自殺は、線路に飛び込んだ死体を検死だかなんだかすれば確定するし、ぼくの字はもっと綺麗だし。君の妄想はただの妄想。だからゼンには、ケイのことが見えてなかったんだって」

 歯を食いしばって、必死に言い返す言葉を探すが、中身のない暴言ばかりが浮かんで、泡沫のように爆ぜては消える。
 やっと声にした言葉は、妙に弱々しく口から零れていった。

「なんだよ、分かったような口聞きやがって。じゃあお前には見えてたのかよ」
「ううん。見ようとも思わなかった。それでも何となく視界に入っちゃう部分だけ、見ていたと思う」

 アキツは淡々と言葉を紡ぐ。床に視線を落としたまま、何処か遠い目をしながら。

「ケイは多分、生きたかったんだと思う。じゃなかったら、1年前君が死のうとしたのを止めて、君に一緒に死のう、なんて言わない。ひとりで死ぬのが怖かったから、ゼンに1年待ってって。一緒に死のうって言ったんじゃないかな」
「じゃあなんで、昨日、先に逝っちゃったんだよ!」
「知らない」

 口を半開きにしたまま、俺はアキツの顔を凝視した。俺よりもケイのこと理解しています、とでも言いたげに話したくせに。急に突き放すみたいにそう言った。
 感情のやり場が分からなくなって、俺は思わずアキツの胸ぐらをつかんでいた。

「馬鹿にしてんのか、」
「それ、やめてよ」

 氷のように冷たい声。一瞬、アキツに言われたのだと気付かなかった。アキツは俺の手を払い除けて、睨みつける。

「ゼンって、もしかしたらぼくの嫌いな人種かもしれないね」

 俺が掴んだところを守るみたいに自分の手で覆って、アキツは顔を俯かせた。それから低い声で、ボソボソと喋りだす。

「ぼくが外の世界が嫌になっちゃった理由。いじめなんだ。今のゼンみたいに、大きな声で脅してきて、大人数で暴力振ったり。お金を取られたこともあった。ものを壊された事もあった。プールに突き落とされたりもした。カッターで腕を削られたこともあった。ぼくの態度が気に食わなかったんだってさ。馬鹿みたいに毎日、人を玩具みたいに扱って、暴力と罵声で服従させて、ぼくが嫌がるのを見るのが楽しかったんだって、ぼくはただ普通に生きてただけなのに、成績が良かったからムカついたとか下らない事言っててさ、ぼくの生きるのを邪魔して、あいつら、流石にムカツイたからさ、やり返したんだ、殺しても全然死なないでさ、」
「アキツ……」
「ほんっとにしぶとかったよ、ぼくにしたことを同じようにやり返してやってそれだけじゃ足りないから、殺してやろうとしたのに全然死なないの、でもいい気味だったよ、虫けらみたいに藻掻いてさ泣き喚いてね、当然だよ今まで自分を人間だと勘違いしてたんだよあいつら馬鹿みたいだよね、でも」
「アキツ!」

 名前を呼びながら肩を掴むと、電池の切れた機械のように、急に静かになった。「ごめん」と口にしたアキツの声はか細く掠れて、辛うじて聞こえた程度のものだった。

「俺の方こそ、なんも知らなかった。俺とは“逆”なんだな」

 アキツは少しの間俺の目を見ていた。俺の言葉をどう取ったかは知らないが、ただ、黙ったままだった。

「……ケイのこと、ちゃんと見てあげなよ」

 アキツがケイの遺書を押し付けてくる。
 受け取った指先が震えた。

「見たく、ない」

 このケイの存在を認めてしまえば、俺は何処にもいなくなってしまう。この遺書を肯定すれば、俺が否定されてしまう。

「こんなの、知らない。誰だよ、誰が書いたんだよ。俺の知ってるケイは、何だったんだよ。俺、ケイのために生きてきたのに、なんで、置いて逝くんだよ」

 声が震えた。喉の奥がチリチリと熱い。また強く握り締めてしまった遺書がクシャリと歪む。そこにぽつり、水滴が落ちて、文字が滲む。目を瞬かせると、頬をなぞって滴が溢れてゆく。
 アキツが少し動揺した様子で声をかけてきた。

「えっと、ゼン……」

 顔を上げる。アキツの顔が霞んでいた。

「あの、ほら、一緒に死のう? 大丈夫、魂は49日くらいはまだこの世界に留まってるんだって。だから、大丈夫だよ」

 何が大丈夫なのか。何が悲しくてこんな奴と共に死ななければならないのか。

「一緒にいこう。ケイに会いにいこうよ。ね?」

Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.6 )
日時: 2020/07/28 14:58
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

 7日目。

 私は君と出会ってから初めて人生を歩みだしたのです。君が色を与えてくれてから世界を知った。君を愛して初めて喜びを知った。君を恨んで初めて悲しみを知った。ずっと本当は寂しかったのかもしれない。それに気付いたのも、君を知ってからだ。
 君を知らなかったら私は、ずっとずっと、言い様のない、不定形の寂しさを引き連れて今も歩んでいけたのかもしれない。あの日、飛ぶ勇気等、本当はなかったのだから。
 でも、そうはならなかった。君を知り、私は初めて生きた。
 
 この激しくのたうった感情と折り合いを付けて、結果私は死ぬことにした。
 「名前のない感情」に、名前が与えられてしまう前に、私は「名前のない感情」を独り占めするために、逃げ出したかったのだ。
 君に抱いた、君だけに抱いた私の気持ちを、誰にも理解させるものか。君にさえ、理解させたくはない。この苦しみが君だというなら、私は敢えてそれに呑まれてしまおう。そう思ったのだ。
 
 俺は、とても不器用に生きてきた。君と出会う前の無色な人生なんて、否定して無かったことにしたいくらいに、なんにも無かった。
 勿論友達なんかいなかった。いたのは僕の妄想の中だけ。イマジナリーフレンド。君によく似た明るくて優しい女の子がいた。ただ、物心付いたときには消えてしまう。その程度の存在だった。私の妄想なんだ、その程度に決まっている。


 4日目。

 しばらく俺達は黙ってソファに腰掛けていた。高3にもなって泣くことになると思わなかったが、一度思い切り泣くと、なんだか憑き物が落ちたような感覚になる。冷たい麦茶を飲むと、体の奥底から冷やされて、心地よかった。ようやく落ち着いてきたので、ずっと気になっていたことをアキツに訊ねた。

「そういえば、その首に巻いてる縄は何だ?」

 ああこれ、と呟きながらアキツは自分の首元に触れる。そうして縄の両端を軽く摘むと、俺に差し出すように向けてきた。

「自分で死のうとしたら、うまく行かなかった」

 目を剥く俺の様子を窺って、アキツは小さく微笑むと、またあの冷えきった声で言う。

「ねえ。ゼンには、ぼくを殺せる?」

 人を、殺す。考えたこともなかった。だって、殺人は悪いことだから。どんなに恨めしいやつがいたって、生きる上での障害がいたって、殺すことなんて想像つかなかった。
 今、アキツは俺に殺されようとしているのだろう。自分にできるだろうか。死にに行く前に、人1人くらい殺したっていいのかもしれない。俺はアキツの首に巻き付いていた縄の両端を引く。途端に首に縄が食い込んでいって、アキツが顔を歪める。
 潰れた蛙みたいな声を上げたアキツが、俺を突き飛ばしてきた。思ったより強い力で、俺は縄を手放して床に仰向けに転がった。

「ッてぇな!」
「こっちの台詞だよ!」

 怒鳴った俺に、首に巻き付いていた縄を床に叩きつけながら、アキツが言い返してくる。確かに、縄が擦れて痛かったのだろう。でも、そんなこと気にしていたら、死ぬことなんてできやしない。
 俺は口をとがらせながらボヤくように言う。

「お前が殺してくれって」
「別に、言ってない。けど、殺して欲しいとは思ってた」

 首筋に手を当てながら、アキツは床に落ちた縄を景色みたいに眺めていた。

「ぼくは、学校休んで引き篭もってる間、何回か死のうとしたことがあったんだ。でも、全部失敗してる。生きてちゃ駄目なぼくは、死ねばいいのに。世の中上手く行かないことばっかだね」
「……ホントに、そうだな」

 何もかも上手く行っていれば、俺達が死のうとすることなんてなかったのにな。声にせずに言う。
 アキツにはいじめがあって、1年引き篭もってる間、何度も死のうと試した。俺には家庭でのいざこざがあって、1年前に死のうとした。それをケイに止められて、1年待ったのだが。
 普通に、人間関係に恵まれた環境で生きられたなら、死のうなんて考えもしなかっただろうに。生まれた瞬間から、ハズレくじを引かされていたんだ。俺自身の努力じゃどうにもならない不幸の渦中にいて、どう足掻いても逃れられなかった。円満な家族の中で生きているクラスメイトが羨ましかった。友達が沢山いるクラスの中心人物が、羨ましかった。
 俺だって、普通に家に帰ったらおかえり、と言って迎えてほしい。学校に行ったら友達におはようと笑いかけてほしい。そんな当たり前のことが、当たり前に迎えられる彼らが妬ましかった。
 ああ。……なんで、こんなに上手く行かないのだろうな。考えるだけで疲れてきてしまい、溜息を吐く。

「まあ……、上手く行かないのも今日で終わりにしようよ、ゼン。ぼくらで死に場所を探しに行こ? 遠くがいいな。誰も知らないところ。そうだ、夏なんだし海を見てから死にたいな」

 アキツは少し子供っぽい顔で笑いながら、楽しそうにそう言った。

「海か。確かにいいかもな」

 白い砂浜から碧い海に繋がって、水平線と青い空の境界を思い浮かべる。自分がどれだけちっぽけな存在か、痛いほどに突きつけてくる海を見て、ちょっと波打ち際で遊んだりなんかして。夏らしいことをしてから、全部終わりにしよう。

「明日。駅のバス停に集合しよう」
「今日じゃないんだ?」

 俺の提案に、アキツは不思議そうな顔をする。

「だってお前、身辺整理とかしなくていいのか? 死んだら誰かに勝手に見られるんだぞ、全部。変な日記とか捨てておきたいし、遺書とか……は、死ぬ寸前に書きたくなったら、書こうかな」

 アキツはまだ不思議そうな顔をしている。「あ、そうだね」と口で言いはするものの、あまり共感して発した言葉とは思えない。
 どうやら、アキツは死んだあとのこととか、あまり考えてなかったらしい。それもそうだ、死んだらそれまでで、死後のことなんか確かにどうでもいいかもしれない。価値観は人それぞれだ。

「だから、また明日な。今日のうちに全部片付けるからさ。お前、1人で帰れる?」
「平気。わかったよ、また明日」

 そう言って、アキツは俺の家を出ていった。
 アキツが帰ったあとに、首に巻きていた縄を置いていったことに気付いて、そっと拾いあげる。どうするか迷ったあと、それは明日の荷物に入れることにした。当然、ケイの遺書も持っていく。
 それから、自分の遺書を書くための紙とペンも鞄に詰めた。


7日目。

 私は(黒く塗りつぶされている)悪かったから、気にしていないよ。強いて言えば、常識や現実や回避の仕方。私がおかしいってことを教えてくれなかった、両親を恨んだ。
 奴らは私に触れると穢れると言って、私を避けていた。私にとって、奴らはみんな敵だったけれど、本当に淘汰されるべきは私1人だった筈なんだ。周りを恨むことしかできない不器用な私だった。あの頃に、しっかり自分を殺せていたなら。君に出会わずに済んだかもしれないのに。私が人生において後悔していることは、小学生の時、ちゃんと死なななったことと、君に出会ってしまったことと、生まれてきたことだ。

Re: 飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】 ( No.7 )
日時: 2020/08/02 12:54
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

 5日目。

 本日も憎らしいほどの快晴なり。直射日光に唸りながら、俺達は最寄り駅のバス停で、バスに乗り込んだ。
 乗客の中に小学生くらいの3人組がいて、キャッキャと楽しそうに行き先の話をしたり、お菓子を分け合っては、キラキラ眩しい笑顔を振りまいている。冷房で寒いくらいに冷えきった車内、今にも死んでしまいそうな顔した俺達には、ちょっと眩しすぎた。実際死にに行く俺達と、未来のある子どもたちじゃ何もかもが違いすぎる。眩しいものは苦手だ。目がチカチカして、頭だって痛くなる。そこにあるだけでこちらが不調になるのだ。遠ざけたくて仕方がない。
 早く下車しろ。そう思わずにはいられなかった。
 幸いなことに、小学生たちは俺達が降りる予定のバス停のいくつか前で、元気よく去っていった。水族館前、とアナウンスされていたので、それはそれは楽しい夏休みの思い出を作りに来たのだろう。本当に、死ぬための移動をする俺達は何をやっているのだろうな、なんて気持ちになる。
 隣に座るアキツの様子を窺うと、窓枠に肘を付いて眠りこけていた。これで俺も寝たら、知らないバス停まで連れて行かれてしまいそうだ。仕方なく俺はスマホを弄って時間を潰す。

「……あ、着いたぞ。ほら、起きろよアキツ」

 しばらくバスに揺られて、俺達は目的地に辿り着く。眠そうに目を擦るアキツの腕を引いて、さっさと下車した。冷房の効いていた車内とは裏腹に、噎せ返りそうなほどの熱気にクラっとする。
 アスファルトからも、空からも、酷い熱が襲い掛かってきて、サンドイッチみたいにされる。
 憂鬱に思いながらも、俺はそっと深呼吸した。夏の空気は、トマトの匂いだと思っていた。何処にもトマトなんて無いのに、確かにトマトなんだって。以前ケイに言ったら「青臭いだけでしょ」と言われたのを思い出す。そうなのかもしれない、というかそうなのだろうが、俺にとっての夏の匂いはトマトなのだ。
 毎年同じ臭いがするのに、別の夏が来る。変な感じだ。

「夏の空気って、トマトの匂いがするよな」

 アキツにも同意を求めようとして、ポツリと言う。未だに少し眠そうなアキツは、キョトンとした目で俺を凝視するばかり。もう、何でもないと冷たく言い放って、目線を逸らす。きっと俺だけの独特な感性なんだろうから、わかってもらえなくてもいい。

「言われてみれば、トマトかもね」

 思わず振り向く。……わかるやつもいるんだな。それだけの小さなことなのに、なんだか無性に嬉しかった。

 俺達は海が見えるところまで来ていた。堤防の下を覗けば、少し街並みがあって、でももうそこには紺碧の海水が何処までも続いている、といったところだ。潮の匂いと、少しべたつく空気が心地よい。海に、来たんだって感じがして、少し気分が高揚する。あとは、この照り付ける酷い直射日後さえなければ最高なのだけど、と思う。

「もっと先のバス停で降りれば海、近かったかもな。こっからじゃ結構歩くことになりそうだけど、アキツはへーきか?」

 もやしみたいに白くて頼りない彼の顔を覗き込みながら問う。なんだか既に顔色が悪いように見えるし、もしかしたらデフォルトでこんな顔色だったかもしれない。

「暑くて死にそう」

 低い声でそんなことを言われたって、もうバスは行ってしまったし、俺達は歩くしかないのだが。がんばれ、と軽く労って、俺は潮風を楽しみながら進む。きっと最後に見ることになる海の青さを、存分に目に焼き付けたかった。
 しばらく2人して寡黙に歩いていたが、なんとなくアキツの横顔を見たとき、本気で気分が悪そうに見えたので、思わず声をかける。

「お前、大丈夫?」
「……無理」

 無理、って言われてもなあ。どうしたものかと辺りを見回すと、ちょうどいい所に自動販売機があるのを見つける。車通りの少ない道路を渡って、対岸側。小銭を何枚か入れて、適当なミネラルウォーターのボタンを押した。ガタン、と子気味いい音がして下に落ちてきたペットボトルを手に取る。よく冷えていて、気持ちが良かった。
 フラフラと道路を渡って付いてきたアキツを屈ませて、いきなり頭から水をぶっかけてやった。

「っわ! 冷た、なに、うぺぺっ!」
「これでマシになっただろ?」

 アキツの髪を滴る雫が、Tシャツにまで染み込んでいる。でも実際、顔色はマシになったような気がするので、多分これで良かったのだ。

「俺のお陰で生き返っただろ。よかったな」
「よかったけど、なんか違う……」

 後のペットボトルに残った水は、その場で飲み干した。水分補給がどれほど大事なものなのか、よくわかる。一気に飲みきって、ふうと息を吐いてから、空のペットボトルは自動販売機脇のゴミ箱に押し込んだ。

「あとで金返せよ」
「水のぶん? 110円程度でしょ、みみっちいな。奢ってくれてもいいんじゃないの」

 俺が水をかけなければ、枯れた植物みたいに干からびていたくせに、よくそんなことを言うな、と思う。でもアキツが、「どうせもう、死ぬだけなんだから」と付け足したので、言葉に詰まってしまった。
 もう俺達は死にに行く。だとしたら、ありったけ持ってきたこの財布の中身は、使わないほうが勿体無い。そうだよな、と納得してしまったので、アキツへの請求はなかったことにした。

 また少し歩いて、コンビニを発見したので、そこで昼ご飯を買うことにする。海辺で駄弁りながら食べようか、なんて、いつか小学生のときに行った遠足を思い出してしまう。でも、悪くない。
 俺は昼食の他に二人で分け合えるアイスとかお菓子もかごに入れる。本当にこれじゃあ遠足気分だ。
 アキツはと言うと、おにぎりをいくつかとお茶のペットボトルを数本両手に抱えていて、なんて面白みのないやつ、と思った。

「もしかしてお前、甘いもの嫌いだったりするの」
「そんなことはないけど」
「じゃあもっとお菓子とか買えば?」

 そう言われて少し悩む素振りを見せたあと、アキツが持ってきたのはシャボン玉だった。「なにそれ、飲むのかよ」とからかえば、当然海辺で遊ぶのだと返される。真面目に答えやがって、やっぱりアキツは面白くないやつだ。
 コンビニの冷気で少し冷やされた俺達は、再び真夏の直射日光に挑む。耐えきれずに俺は買ったばかりのパピコを開封して、半分アキツに差し出す。チョココーヒー味の小さなアイス。2人で分け合えるというのが、ロマンが詰まっている。これ一つで同じ冷たさ、同じ味を共有できる。別にアキツとそれをしたかったわけではないけれど、誰か分け合える相手がいるというのはなんだかとても大事なことに思える。

 二人でパピコを咥えながら歩いていると、ようやく砂浜のある場所に辿り着いた。

 海だ。
 俺は思わず手に持っていたコンビニの袋をその辺に放り捨てて、走り出す。砂に足を取られて上手く進めない感じがする。でも、目の前に海が広がっている。その興奮を抑えきれずに、駆けていって、波打ち際をサンダルで蹴って、服が濡れるのも構わずに浅瀬にダイブした。
 塩っぱい水を思い切り口に含んで、ペッと吐き出す。冷たい。潮の匂いが体いっぱいに包み込んできて、俺は今海にいる。
 あとから遅れて歩いてきたアキツは、俺が落としたビニール袋を持って、不服そうな顔でこちらを見ていた。

「そんなにビッチャビチャになって。着替えなんて持ってきてないんでしょ」

 どうせもう死ぬくせに、アキツは現実的なことばかり考える。死ぬ覚悟がないのかよ、とさえ思う。喧しい話を聞くのは面倒で、俺は足元の海水に両手を突っ込んで、バシャ、とアキツ目掛けて水をぶっかける。

「ぶわっ。何するんだよ、馬鹿なんじゃないの!?」
「馬鹿はどっちだよ、最後くらい思いっきり楽しもうぜ。全部嫌なこと忘れてさ」

 そう言って、また何発か海水をお見舞いする。呆れた顔のアキツは砂浜にコンビニの袋を放って、靴を脱ぎ捨てると海水に足を浸した。冷て、とぼやきながらも、俺と同じように海水を両手で掬って、かけてきた。顔に思い切りかかったそれが口に入って、ペッペッと吐き出す。
 よくもやったな、そっちこそ、と全身濡れることなんて気にも止めず、お互い本気で水をかけ合った。

Re: 飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】 ( No.8 )
日時: 2020/08/05 19:45
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

 7日目。

 俺はあの頃、酷く寂しかった。当たり前だ、周りは敵しかいないのだ。俺が悪かったとしても、何かに縋り付きたかった。結局俺はどうやって生きていたのだっけ。虫食いの記憶しか残っていないよ。だから、色が無いんだ。
 色の無かった世界を揺蕩うだけでも良かったのに。あの日、君を知った。
 太陽と見間違うほどのその光に、俺は溶かされていた。
 衝撃を受けた。
 君という太陽が、俺の人生に与えた歪は余りにも大き過ぎたんだ。俺が今までの俺を否定してしまうことがこんなにも容易いなんて、知らなかった。強い光に、目が潰されてしまったのだと分かるのに、そう時間はかからなかった。


 5日目。

 そういえば、今年が平成最後の夏だと世間では騒がれていたっけ。最後だからこそ、何かを成そうとするやつが大勢いるらしい。俺達も、最後に何か残せるだろうか。
 見事なまでの赤に染まった空の下、海も青さを潜めて、朱に色付いている。それを綺麗だな、と言って眺めている。昼間の暑さも鳴りを潜めて、吹き付ける海風が丁度いい。
 まだ半分湿った服を着た俺達は、海辺から少し離れた砂浜に腰を下ろして、ぼんやりと暮れていく空を見つめていた。
 アキツはさっきコンビニで買ったシャボン玉を吹いている。夕の赤がシャボン玉を照らして、オレンジ色に輝いている。これもまた、幻想的だ。今日が終わろうとしている中、宙を逡巡して、やがて弾けるシャボン玉に俺達は何を思うのだろう。

 少し振り向くと、変なところに背の高い向日葵が何本も咲いている。砂浜に咲くものなのか、と疑問に思いつつ俺はその花に近付いた。
 太陽にそっくりな、その大輪。それが急に忌々しく思えてきて、俺は向日葵の茎に触れる。指と指を少しずらしただけで、ペキ、と単調な断末魔をあげて、その首は折れ曲がった。血は流れないが、よくわからないベタつく液体が滲み出て、俺の手に付いた。

「何してるの」

 花を手折った俺を怪訝そうに見つめるアキツと、視線が交差する。
 俺は答えない。代わりに、隣に咲いていた向日葵の茎に触れて、また同じように爪を立てて手折る。だらしなく項垂れた大輪を見ていると、なんとなくいい気味だと思えてきた。
 誰が植えたのかも知らない、なんの罪も無い花の命を刈り取る。俺は今、最低なやつに見えているだろう。アキツは咎めるような目で俺を見守っている。ただ、やめさせようとはしない。所詮他人事で、でも確かに俺の罪を数えている。
 そこに咲いていたぶん、全ての向日葵の首を折って、死体ばかりの花畑になったそこを眺めて、俺はポツリと言う。

「寒い」
「……風邪でも引いた?」

 肌が冷えるわけではない。凍えているのはもっと奥の方、心だ。
 海の方を振り返って、空を見据える。濃い赤の陽は、海の中に沈みかけている。もうすぐ、物言わぬ夜がくる。オレンジに交じる濃い群青には薄っすらと星が散りばめられていて。赤く染まった雲に、その青さに、滅茶苦茶な空だと思う。

「ケイは俺の太陽だった。俺の太陽は、枯れたんだ。太陽の枯れた世界は、寒い……」

 やっぱり、泣きだしてしまいそうだった。
 彼女が俺を置いて死んだなんて、まだ信じられない。あれだけ一緒に逝こうと約束していたのに、どうしてケイはそれを破ったのだろう。何が目的だったのだろう。俺は、1年死ぬのを待ったのに。
 ケイと一緒じゃなきゃ嫌だった。歯を食いしばっても、その隙間から嗚咽が零れそうになる。

「はやく、ケイに逢いたい」

 そっちへ、逝きたい。もう、終わりにしたい。家族のことも、学校のことも、向き合わなければならなかった現実も。何もかも忘れて、終わってしまいたい。息苦しいなら、息をするのを止めにしたい。

「うん。一緒に逝こう。ぼく達、そのためにここに来たんだから」

 アキツが手を差し出してくる。白くてヒョロくて、頼りないのに、その死神みたいな腕が、今は何より頼りになるような気がした。
 アキツの腕を掴む。ぬるい体温で、俺の腕を引いて、何処かへと歩き出す。どこに向かっているのかはあえて聞かなかった。黄昏の海岸を、俺達は砂を踏みしめて歩く。

 日が暮れて、暗くなっても砂浜を歩いた。昼間はちらほらいた観光客も姿を消した。濃紺の海が空の星を写してキラキラと瞬いている。ずっと進んでいると、砂浜が終わったので、少し道を逸れて歩く。土の道を征く。フェンスの下に海が広がっている。
 道を進んでいると、岬みたいなところに辿り着いた。こんなところがあったんだ。俺達は無言だったけど、お互いそういうことを考えたと思う。
 フェンスのギリギリのところまで行って、海を見下ろす。ここから落ちたなら、簡単に死ねるだろうか。高さに少し足が竦む。

「いいね、ここ。ぼくはここがいい」

 アキツも遥か下の海面を見下ろしながらポツリと言った。どういう意味かなんて聞く必要もない。俺達がしに来たことは1つなのだから。

「もう、いくのか?」

 今すぐに。終わらせてしまうのかと。
 アキツは緩く首を横に振った。

「ぼく、最期に朝焼けが見たいんだ。だからまだ。夜明けまで待つよ。ゼンはどうする?」
「俺もちょっと、書きたいものがある。まだ完成してないんだ」

 俺は鞄に持ってきた書きかけの用紙と筆記用具を取り出して、ペンを走らせる。覗き込んできたアキツが、「遺書?」と訊ねてくる。

「俺は生きていたんだって、遺したいから。アキツは書かないのか」
「ぼくはいいよ。別に何かに書き記すほど、ぼくの人生に厚みなんてなかったからね。誰もぼくが死んだ理由を知らなくたっていい。適当に想像して、こうだったんじゃないかって妄想して。ぼくは誰かの考えた空想の中で生きるから」

 アキツは深みのあることを言っているような、そんな気もする。自分が本当はどうだったか、誰も知らないままでいいというのも、死に方の1つの形なのかもしれない。でもそれって寂しいことじゃないだろうか。俺は誰かに、俺の人生を知って欲しいと思う。
 俺はこんなに生きていたんだって。苦しかったことも、辛かったことも、どうしようもないことばかりで四面楚歌の生きづらさに足掻いて、藻掻いて、その先に死ぬことを選んだんだって。けして簡単な選択じゃなかったんだって。でももう、生きていられないから死ぬしかないのだと。世界に知らしめたい。
 俺とは全然違う考え方をするアキツに、興味が湧いた。

「じゃあ、お前のこと教えてくれよ。どうせ最後なんだから、誰かに聞いてもらったほうがいいんじゃないか」

 アキツは少し目を見開いた。それから、緩く笑う。

「君に話す程のものでもないんだって。ぼくなんて、本当に何もないんだって。なんにも……無かったよ」

 諦めるみたいな口調でアキツはそう言った。そうして、フェンスに体を預けて、宙を見上げる。

「ぼくが不登校になったのは、いじめが原因だって言ったでしょ。ぼく、頭が良かったんだよね。それが気に食わないとかで、変なやつに目をつけられてさ。毎日嫌なことされたよ」

 聞きながら、俺は自分の遺書を書き足して行く。拝啓、で始まる誰に宛てるわけでもない手紙。くだらない人生だったと自分でも思うけれど、それでも誰かに見つけてほしくて、文字に起こす。
 自己承認欲求、顕示欲。そんなものがこの期に及んで働いているのだろうか。臆病な目立ちたがり屋が、拗らせて。何してんだろうって、思う。

「嫌なこと沢山されたけど、最後にはやり返してやったから。別にぼくの死ぬ理由にいじめなんて関係ないんだ、本当は。うん、本当に。いじめさんて些細なことだから、もっと、大きな理由があって……」

 アキツの言葉がそこで止まった。どうかしたのかと顔を上げる。彼の白い頬を次から次へと伝う涙を見て、ギョッとした。

「あれ……、あれ?」
「アキツ」

 どうして涙なんか出るのか、わからないって顔をしている。理由が不鮮明なのに、涙は後を追うように溢れる。アキツはそれを拭って、擦って。唇を歪める。

「ええと、言いたくないことなら、無理に話さなくいいからな? お前の中で、お前だけの中で、大切に隠していてもいいと思う」
「……違うんだ」

 なんでこんなに涙が止まらないんだろう。アキツはへらっと笑った。頬を綻ばした拍子に、ハラハラと涙が落ちて、乾いた地面に染みを作る。

「ぼくのことなのに、なんでわからないんだろう? ねえ、ゼン。ぼくはまだ……」

 アキツはその先の言葉を紡ぐことを躊躇った。まだ溢れる涙を拭いつつ、結局彼はその言葉の先を隠したまま。

「もうやめよう。夜明けまで、下らない話がしたいな」
「賛成。マジで取り留めのないこと話して、修学旅行の夜みたいにしようぜ」
「話しながらでも書けるものなの、それ」

 それ、と遺書を指さされる。別に集中して書くものでもない気がするから、そのへんはどうでもいい。

「気にすんな。ほら、最期の夜なんだからさ」

 話したのは、中身のない雑談。最期だからこそ、大いに盛り上がった。好きな女の子のタイプだとか、教科書に乗っていたあの話だとか、嫌なクラスメイトの話題とか。
 話しながら、遺書を書いて。俺達の最期の夜はとっぷりと更けていった。

Re: 飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】 ( No.9 )
日時: 2020/08/08 18:44
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

#03 空蝉/ウツセミ

 7日目。

 きっと君はあの日、神様だった。ああ、こんなことを言うと流石に気持ち悪いかもしれない。でも、見間違いでは無かった、直感から確信へ。君は俺の神様だった。
 偶像でも構わない。俺は君を崇拝する信者だ。
 









 でも、神様は今日、壊れた。


 6日目。

「ゼン、起きて」

 肩を揺すられて、重たい瞼をもたげる。早朝の冴えた空気が心地よい時間帯。まだ空は薄明の水色をしている。
 ああ、俺。いつの間にか寝ていたのか。
 目を擦って、辺りを見回す。波の音が近い。そうだ、アキツとふたりで岬に来て、遺書を書きながら語り合って、そうして口数が減った明け方、眠りこけてしまったんだっけ。
 あまりの眠気に、二度寝を決め込もうとする。というか、そのまま少し寝たと思う。何分か経ったらまた、アキツに肩を揺すられた。

「ほら、空を見て。いい朝焼けだね」

 ──ぼく、最後に朝焼けが見たいんだ。
 急に昨日のその台詞を思い出したから、ビクリと体を跳ねさせて、飛び上がるみたいに起き上がった。
 薄明の水色が、嘘みたいなあけぼのに染まっている。薄紅と真珠色を行き来するみたいな、見事な朝焼けだった。

「今年ってさ、平成最後の夏だって言われてるじゃん? これで、本当の意味で最期の夏になるんだなあ」

 アキツが他人事みたいに呟いてから、ゆっくりとフェンスに足をかけた。咄嗟に呼び止めようとしたが、それが野暮なことはわかっている。止めてはいけない。これが、アキツの覚悟なんだから。
 フェンスを1つ挟んで、俺達は向かい合った。なんて声をかけてよいかわからずに、ただ黙って彼の目を見る。

「不思議な感じ。なんだか足元がふわふわしてさ、このまま死ぬなんて、嘘みたいだ」
「アキツ……」

 フェンスから、彼の手が離れる。もう、少しでも重心を後ろに下げれば、俺達はさようならだ。
 向かい合っているのに、何を言えばいいかわからない。別れを告げるのが正しいのだろうか、俺は今、一番なんと伝えたい。
 喉の辺りまでせり上がった言葉がどうにも不適切で、結局はそれを声にできずに飲み下してしまう。別れが惜しいなんて、馬鹿みたいだ。
 アキツは目を細める。なんの未練もないような、その澄んだ瞳が忌々しくさえ思えた。

「ゼン。人生には、死と同じように、避けられないものがある。それはね────」

 彼が言いかけたとき、少しだけ強い潮風が吹いた。それだけのことで、アキツの体は傾げて、真っ逆さまに落ちていく。
 朝焼けに染まった海の底へ、アキツは吸い込まれていった。

 俺は声も出せずに、その一瞬の出来事をただ、見送った。スローモーションになんてならない。人の命が失われるというのに、本当に呆気なく。遠くで水の音が響いたような気がして。
 気がついたらもうそこに、アキツはいなかった。

「……110円、返してくれなかったな」

 自動販売機で買ってやったミネラルウォーター。そんなどうでもいいことを思い出して、ぼやいてみて、風の音しか返ってこなかったから。
 世界に自分だけ、独りになったような気分になった。


 7日目。

 こんな簡単に終わりが来るとは思わなかった。これからずっとずっと、縋っていられると信じていた拠り所が、硝子よりも脆く崩折れて、僕はそれを泣きながら眺めて。
 神様、君は何も悪くない。君が死んで、君の言葉を見た瞬間、僕は生きながらに殺されたのだけど、それは全て僕に非があった。信じたのも期待したのも僕なら、裏切られ、失望するのもまた僕だけでいい。
 僕はもう、君を神様だなんて思ってない。偶像拝はやめたんだ。だけど、まだ、盲信の残渣が僕の中でのたうつのだ。それこそが、君に対する盲目的な愛で、呪いで、嫉妬と恨みと懐古の入り混じった醜い「名前の無い感情」の正体。
 何処までも純粋で純情。だが、何処までも歪み捻じれ、穢らわしい。それが、君に抱く感情。
 君は神様だった。地に堕ちた。僕の中で君は死んだのだ。本当の意味で死んだ。


 6日目。

 俺は岬を離れて、バス停で待ったバスに乗り込んで、住んでいた街に戻っていた。家に帰るわけではない。アキツの最期から、少しでも距離を置きたかったのだ。
 まだ朝早い時間帯だから、一緒に乗り合わせた乗客は皆、なんとなく眠そうな目をしている。目の前で人が1人死ぬところを見た俺は、心臓の熱りが冷めずに、自分だけ場違いなくらいにいきり立っていた。
 命が失われたというのに、世界は普通に時間を流れて、空は色付いて、陽は登る。俺の気持ちなんて置き去りにして、この世は無情だ。
 でもきっと、毎日そんなものなのだろう。誰かが何処かで死ぬのは日常で、些細なことでしかなくて、どんな悲劇が起ころうが、どんな喜劇が起ころうが、世界は追悼も祝福もしない。この大きな喪失感を抱えるのは俺だけなんだ。
 バスの中で、少し皺の寄った書きかけの遺書を開く。完成させなければ。揺れる車内で書くから、字が歪に曲がる。構わなかった。それらしいことが書ければどうでも良くて。

 これは、誰に宛てているのだろう。脳裏に浮かべるのはケイの顔だ。整った顔で薄く笑っている彼女。もう逝ってしまったけれど。
 俺の世界は、ほとんど彼女に対する感情で埋められていたように思う。1年前、一緒に死のうと誓ったその日から、彼女のことばかりが俺の胸を埋めていた。なのに。
 俺は未だにわからないでいる。どうして彼女は先に死んでしまったのか。答えの出ない問いを、問いただし続けたって、不毛なだけだ。でも。なんで。どうして。疑問は止まない。
 ……君のこと、信じていたよ。世界の何よりも。
 そんなものは、俺の一方的な信仰だったらしいけれど。

 窓の外が、少しだけ馴染みのある景色に埋め尽くされ始める頃、俺はバスを降りることにした。
 朝と言えど、真夏の空気は既に暑い。早朝は鳴りを潜めていた蝉たちも合唱を始めている。
 蝉が7日で死ぬというのは嘘で、実は1ヶ月位生きるのだとか聞いたことがある。確か夏休みに入ってから今日で6日経っただろうか。
 俺は、明日死のう。なんとなく、そう決めた。真夜中の時計の針がてっぺんを指す頃、0時丁度。夜の闇に溶けるように、街の中に身を投げるのだ。
 だったら、高いところを探さないといけない。マンションとか、どこかの屋上。蝉みたいに翅を持たない俺は、体を投げ出せば簡単に死ねる。アキツとおなじくらい、呆気なく散るのだろう。

 高い場所を求めて。結局来たのは、ケイが入院していた病院の屋上だった。1年ぶり、とこの場所に挨拶をする。
 あの時と違うのは、ここで待ち続けていたって、俺を止めてくれる声がかかることは無いという部分だ。あの日、あの時。気まぐれにやってきたケイが、俺に話しかけて。一緒に死のうと言ってくれて、だから俺は1年待って。
 屋上のフェンスに指を絡ませながら、振り向いてみる。誰もいない。わかっているのに、あの日の幻想に囚われ続けるみたいだ。

 ねえ、ケイ。どうして君は俺を置いていったの。

 わからない。わかんないんだ。あの日俺を止めたくせに、一緒だって言ってくれたのに、なんで?
 俺には、ケイがいなければ。足を踏み出すこともままならなくなっていた。
 自然と、両目に涙が溜まる。俺は、独りになってしまった。どうしようもなく、この世界に取り残されてしまったみたいに。病院に戻れば人はいる。でも、そういう話ではない。
 この世界で、今俺は誰よりも独りきりだ。

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