SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】

60seconds ( No.2 )

日時: 2020/07/10 00:46
名前: 美奈

こんなこと、初めてだった。

夫を早くに亡くしてから、こんな気持ちになることはなかった。
亡くしてからは、ずっとずっと、胸が苦しくて。何かがつかえたような感覚が残り続けた。歩いているだけで涙が出てきて、呼吸が浅くなって。
それを他人に見られまいと、太陽に照らされてはたまらないと、いつも下を向くようになった。

だから、”全身に衝撃が走るような恋”なんて、ないと思っていたのに。
いつも通り下を向いて通勤電車に乗っていたら、強烈な視線を感じた。
思わず顔を上げると、多くの人間に押しつぶされながらもこちらを見る彼の目に、吸い込まれそうになった。

毎朝、1分くらいの出来事。お互いの電車が停車した時だけに見られる、彼の目。
たった60秒の逢瀬。
…逢瀬は流石に大げさだろうか。


知らない人と目が合うのは気まずいはずなのに、彼の時は違った。妙な言い方だけど、自分の一部みたいな。そんな気がした。
1分間も見つめ合うことができたのは、きっと互いに何の嫌悪も感じなかったから。
目が合ったからって、笑顔や会釈を求められるわけじゃない。車両同士の対面だから、言葉だっていらない。そんな関係性は普段の対人関係にはないもので、だから新鮮で。私は電車に乗ったら、必ずドアの近くを確保した。蠢く人々を必死でかき分けて。
時が経つにつれて私は、例の駅に電車が滑り込む前から、彼を探すようになった。停車しなきゃ分かるはずがないのに。
私は自然と、前を向くようになっていた。朝に期待するようになった。太陽を受け入れるようになった。
たった60秒で、人生はこんなにも変わるんだ。そう思った。

池袋方面に向かう私とは反対に、渋谷方面に行く人だってことは分かっている。
でも、どこから来たのだろう。何歳なのだろう。何をしている人なんだろう。誰と暮らしているんだろう。名前は何て言うんだろう。私は、彼の目にどう映っているのだろう。
その目からは表情がうまく読み取れなくて。でもだからこそ、想像を掻き立てられた。電車を降りても、彼のことで頭がいっぱいだった。とにかく姿を見られれば、明るい1日が保証されていた。毎日毎日、私たちは見つめあった。
たった60秒を、毎日。



まだまだ残暑が厳しい季節だった。

電車内のモニターが、一斉に黄色と赤の画面に変わる。
『急停車します。ご注意ください』
例の駅に着く前に、電車は急停車した。

これでもかというくらいに人間を詰め込んだ電車が、急速にスピードを落としていく。
ただでさえ身動きが取りづらかったのに、私はさらに押しつぶされた。
苦しい。
…たちまち、蘇る。
何かがつかえたような、あの感覚。

何事だ、という雰囲気が全体に広がり始めた時、アナウンスが聞こえた。

ー内回り電車で人身事故が発生したため、急停車いたしました。従って、外回りもしばらく運転を見合わせます。ご迷惑をおかけいたします。

彼に会いたいがために運転再開まで結構粘ったのだけど、いよいよ職場に間に合わなくなりそうだったので、仕方なく振替輸送を使った。
結局、彼を見られなかった。
1日中不安だった。彼が今どこで何をしているのか、そればかりが気になった。
たった60秒、見なかっただけなのに。

主要な路線だったので、その日の事故はニュースになった。
40代の男性が、心不全で線路に転落したようだった。


翌朝、電車は何事もなかったかのように動いて、例の駅に着いた。
彼はいなかった。どんなにくまなく探しても、いなかった。
もしかして、人混みをかき分けられなかった?定位置を確保できなかった?今日は早朝から会議があった?それとも、有給を取った?昨日私に会えなくて、嫌になった?
ねぇ、どこ?どこにいるの?姿を見せて。…お願い、姿を見せて。
たった60秒が、永遠のように感じられた。


電車を降りてから、急に胸が苦しくなった。呼吸も浅くなって、なぜか涙まで出てきた。
…あの時と同じ。また、私を苦しめ始める。
どうして?
どうしてまた、始まるの?
どうして彼は、いなかったの?

呼吸は難しくなるばかりで。良くなる兆しが見えなかった。ホームの柱に寄りかかり、何とか体を支えた。
すごく努力してスマホを取り出して、休むと職場に連絡して、自宅にUターンした。
他人に見られまいと、太陽に照らされてはたまらないと、下を向いて歩き続けた。


やっと自宅に着いて、倒れ込むように中に入った。
そのまま、なぜか取り憑かれたように夫が使っていた書斎に向かう。
書斎に入ると少しだけ、呼吸が楽になった。

机の引き出しを開けて、もうとっくに失効した夫の免許証を取り出した。
…あぁ、そろそろまた、命日だね。


裏に書かれた、臓器提供の意思表示。



”心臓”に書かれた丸が、静かに滲んでいった。

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