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(3)
僕はいつものように一日を過ごし、家へと帰宅した。そこへ待っていたのは、フラスコの中に入った小さな女性。
しかし、僕は昨日と今朝の会話の中で、彼女との間に殆ど意思の疎通を見出せなかった。よって、感動的な再会とはいかず、当たり前のようにフラスコを素通りし、僕は夕飯の支度をし始める。トン、トン、トン、と僕のまな板で野菜を切る音が響く。そこで僕はふと気が付いた。この女性は、食物を食べないのだろうか。
僕は、一かけらのブロッコリーを持って、彼女の前に座った。だって、餓死でもされたら、夢見の悪いことになる。
「きみ、食べ物は食べれるの」
「食物はすべてわたしにとって造花のチューリップのようです。わたしは植物の光合成とも動物の食物連鎖とも無縁なのです」
僕は、またも顔を引き攣らせた。
「どういうこと」
「食物はわたしに意味を与えてくれません」
「食べられないってことか」
女性は、じっと視線をよこすことで、質問を肯定する。
無駄なことをした。
僕は、またフラスコに背を向けると食事の支度を続けた。鍋を煮込みながら、僕は考えた。餓死の心配をするなんて、まるで、ペットを飼っているようだ。ペットの犬やハムスターと比べて違うところと言ったら、おかしな言葉を喋ることくらいか。僕が夕飯の支度をしていると、後ろのほうで小人の女性の声がした。
「知りたがりのわたし、あなたは喋りたがり?」
僕は思わず振り返って答えた。
「僕が喋りたがりに見える? どうも、僕は知りたがりの君を満足させてあげられることはできないようだ」
「そんなことありません」
「根拠は?」
「あなたはあなたの世界を知っているからです」
これの一本張りだ。僕は、このわけのわからないフラスコの中の女性に、だんだん怒りを覚えてきた。
「本当に、何で僕は君みたいなものを拾ってきてしまったんだろう。僕まで頭がおかしくなりそうだ」
「それは、私の頭がおかしいということですか」
小人の女性が片眉をぴくりと上げて静かな怒りを示す。
「ああそうだ、そうでなければ、一体何だって言うんだ」
この日、僕はわけのわからない悶々とした怒りに取り付かれ、「おやすみ」の一言を言わなかった。
その日、僕は夢を見た。
宇宙で一人ぽっかりと自分が浮かんでいる。周りには、高校で習った銀河系が張り付いているように静止している。息苦しい。このまま窒息死しそうだ。世界が変わらない、ってこんなに苦しいものだったのか。
うなされているとき、一筋の光がさすように声が聞こえた。
「あなたの世界は姿を変えます」
僕は目を覚ました。目には、何故か涙が浮かんでいた。苦しかったからだろうか? いや、そうではない。確かに、あの声のように、世界が姿を変えたからだ。
なんとなしに目に入ったテーブルの上のフラスコの中では、女性が丸くなって寝ていた。
この女性が言っていた言葉を思い出した。『あなたの世界は姿を変えた。朝というものに。私の見るものは変わらない。あなたが朝を迎えたことは、幸せなことであると言っているのです』
無意識に、この女性の言葉を夢に見たのか。
ふとフラスコの中の女性に目をやると、いつの間にか起きていたようで、小さな唇を開く。
「おはようございます」
僕は、理科室でこの女性を見つけたとき、この女性が僕と同じ『一人でぽっかりと宇宙で漂っている』ように見えた。しかし、この女性は僕のように苦悩することはないように見える。僕の中に疑問が浮かんできた。
「君は、悩んだりしないの」
「わたしの世界は姿を変えません。何もかもを知り尽くした世界から。すべてを知っている世界、そこに悩みなどありません」
『姿を変えない』その言葉に、僕は、静止した宇宙に張り付けられたような、今日の夢を思い出した。
「それって、すごく退屈ではない?」
「わかりません。わたしはわたしのことを知らないから」
僕は思った。この女性はもしかしたら感覚が麻痺しているのではないだろうか。
もしかして、知らないところで、僕と同じ、世界が変わらない苦しみを味わっているのかもしれない。
そして、この女性の唯一の動く世界の希望の鍵を、僕が握っているのだ。
何だかこの女性に協力したくなる気持ちが湧き上がる。
けれども、また数分悩んで、出た結論はどうしようもないものだった。
この謎の女性の生い立ちなど、僕が知るわけが無い。せいぜい、僕がわかるのは彼女が黒い長い髪をしていて、白い簡素な服を着ているということくらいだ。
僕はまたいつものように一日を終え、家に帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
奇妙な関係だと思う。こうして挨拶するだけで、何かが通じ合っている気がするのだから。
そして、僕は机の脇にフラスコを置いたまま、食事をする。
「ごちそうさま」
時々、女性は今までと同じわけのわからない言葉を言ってくるが、それに対しての応酬も、僕は大分上手くなってきた。
「あなたのシーツは夢見の鏡」
「へえ、それなら、このシーツで寝たら僕もいい夢を見れるかもね」
布団を敷いているときの会話である。
不思議と、自分は家に居て笑みを浮かべることが多くなった。主に彼女と話しているときに。
一ヶ月経ち、彼女が家に居ることが当たり前になった。そして、夜をいくつか重ね気づいたことがある。僕の宇宙でぽっかりと一人で浮かぶ苦しい夢を見なくなったのだ。
途端に、彼女が言った。
「わたしは、『知恵の小人』の集落からはぐれてきました。知恵の小人は、何でも知っています。けれど、自分の知らない何かを知ったとき、その小人は消えると言われています」
僕は、彼女の言葉に疑問に思った。
「きみは、消えたかったの?」
小人は首を振って僕を見上げる。
「私の知らない何かがあるのなら、知りたいと思っただけ。そのためなら、消えても構わないという覚悟でした」
僕は息を呑む。彼女は自分の存在をかけても知らないことを知りたいと思っていたのか。
彼女は静かに言った。
「二人の相互作用。わたしは喜んだ。あなたは喜んだ」
僕の胸に、その言葉は響いた。彼女の言葉は、今の僕らの関係を的確に表していると思ったのだ。
「でも、それが、わたしとあなたの終わりの時間です」
僕の心にひやっとしたものが落ちてきた。
「・・・終わり?」
「わたしは喜んだ。わたしは喜んだ。意味がわかりますか?」
「・・・わからない」
「それは、わたしの知らないわたし。やっと知ることができました」
女性は、初めて笑みを浮かべた。思わず見惚れるほどの綺麗な笑みだった。
「あなたの世界は姿を変えた。わたしの世界も姿を変えた」
そして、女性は沢山の光が瞬く中に姿を消した。
僕は泣いた。沢山泣いた。彼女の正体が何かなんて、どうでもよかった。ただ、彼女がそこに居てくれればよかったのだ。
それから月日が経った。
僕は今日も淡々と生きている。相変わらず友人とは距離を感じる。だが、なんだか、この人も、実は宇宙でぽっかり浮かんでいるのかな、と思ったりしてちょっと可笑しくなって・・・少し、嬉しくもなったりする。
今日もあの女性は居ない。けれど、あの彼女の、おかえり、と言ってくれる存在。それは、僕に確かな変化をもたらした。
僕は、あの女性に恋をしていたのかもしれない。
いまだに、宇宙でぽっかりと浮かぶ自分の夢を見る。しかし、以前と違うことが一つだけあったのだ。
僕は気づいた。こうして、宇宙で一人で浮かんでいるもの同士の出会う奇跡は、世界に一つではないのだ。
ぽっかりと宇宙に浮かんだもの同士が引き起こした相互作用。
あなたは喜ぶ。わたしは喜ぶ。
その時、あなたは言うでしょう。
「おはよう、世界」・・・と。
【完結】