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*1*
――――「痛い痛い死にたくない死にたくない死にたくないぃぃぃいいいいっ!」
――――「オマエガハイスイシナケレバ」
――――「ネェ、ドコイクノ? オイテイカナイデヨ?」
――――「殺、殺、殺、殺。……ミミミ、ミィーツケ、タ?」
散る飛沫。その色は、赤。
迫る狂気。その色は、黒。
響く絶叫。その色は――――赤と黒を混ぜ合わせたかのような、吐き気がするほどの濃い血臭だった。
捕食者の愉悦を漂わせて、湿った音を響かせて。足音がべちゃりべちゃりと音を立てているのは、血に濡れているからだろうか。
周囲は暗闇。汚泥と狂気に塗れた空間より脱出せんとあの時死に物狂いで駆け抜けた空間に、私はいつの間にか佇んでいた。
足音に混じって、「置いていかないで」「お前のせいで」「生きたい」「死にたくない」という怨嗟の声が足元より湧き上がる。
――――そして、私の足を掴む。あの時見捨てた栗髪の少女が、あの時と同じように私の足を捕らえて。落ち窪んだ瞳が恨み辛みを湛えて「タスケテ」と呪う。
「嫌、やめ――――嫌、いやぁああッ!!」
半狂乱になって、それを振り解こうと足掻く。だが血まみれのその腕は痛いほどの力で私の足を掴み、己と同じ闇へと引き摺り落とさんと決して放そうとはしなかった。
前を向いても、あの時は確かに在った光や、空間の亀裂はなかった。共に脱出を目指したサーリャ、シュミラ、そしてノアもいない。――――暗闇の中で、一人呪われ。
「やめ、やめて、ごめんなさッ、ごめんなさい……ッ!」
見開いた瞳から零れた涙、その一滴でさえも逃さないとばかりに、今度は腕を掴まれる。眼前に迫るのは、私が誤ったばかりに首を排水溝に飲まれ、無惨な死体となった青年の首口。
「ひっ……!」
「オマエノセイデ」
犯した罪が、死体という形で私を奈落へと引き摺り落とす。他人の生を踏み台にして、自らの生に固執した大罪人。救えたはずの命を、誤ることで喪わせた愚か者。そう罵る声無き声に、耳を塞ぎたくとも塞げない。
――――闇が、伸びる。生々しい腕の形をとったそれらは、私の体中至るところに絡みつき、服を剥ぎ、肉を削ぎ、骨を毟ってその命の有らん限りを奪い尽くそうと私に殺到する。
思考を瞬く間に埋め尽くす真っ赤な激痛。瞼の裏にこびりついて離れないのは屋上から見下ろした死体。真っ赤な果実が破裂したかのような無惨な死体。――――私が救えなかった命の末路。
「やめ、て……やめ、いや、嫌ぁあああああああぁあああああああああぁぁあああああああああぁぁぁぁぁぁああぁああああああああああああああッッッッッ――――――――――――!!!!」
暗闇の中で、誰にも縋れず誰にも救われず、あの時自分が見捨てた者と同じ感情に絶叫する私に迫るのは、くるみ割り人形のような真っ赤な口。くぱあと大きく開き、ソレは私の頭蓋を噛み砕かんと――――
その時、だった。
全ての闇が祓われる。噎せるような腐臭と血臭を纏わせながら私に迫りつつあった和服の少女すらも跳ね除け、視界の全てが白に染まった。
あちこち食いちぎられ引きちぎられたはずの体や服は元通りになり、脳に叩きつけるように絶えず送られていた痛覚信号も一切が無くなっていた。
「――――は、……ぁ……?」
体を起こすことも出来ず、そのまま白の世界に横たわっていると、不意に誰かに抱き締められた。視界に広がったのは優しい赤色。薫るのは甘やかでいてなお清冽さを失わぬ匂い。
『よく、頑張りましたね。ヒステリカ』
自分とよく似た声。恐る恐る見上げると、そこには自分と瓜二つの顔があった。そして、直感する。
「セイレーン、さま……」
彼女こそが自らの先祖、古の英雄・トリックスターの名を冠する女性、“セイレーン”。自らの命を以ってして魔神を封じ込め、私にその力を授けたひと。
そして同時に気付く。先程まで私を苛んでいた闇を祓ってくれたのは、彼女なのだと。既に大半の力を失ってしまったとはいえ、その存在は在るだけで周囲を清めるほどの力を持っていた。
彼女が頭を巡らせると、それに伴い周囲の風景が一変した。私たちの傍には清らかな水を湛える噴水。足元にはところどころ剥がれつつも依然白さを保つ石畳の床があり、私たちの目の前には木で作られた扉が静かに佇んでいた。――――扉に吸い込まれたあと、光に導かれるようにして辿りついた、あの神殿だった。
『少し、お話をしましょう。……おいで』
体を離され、手を引かれる。あの時と違い、彼女には確かに実体があった。少し温度の低い手が静かに神殿の扉を押し開き、私を導いていく。
『わたくしはセイレーン。貴女の先祖にあたる者……というのは、既に知っていますね。わたくしは既にこの世ならざる者の身。貴女の夢という形をとってしか、こうして会うことは出来ないのです。……貴女は、悪夢に魘されていましたから』
「……っ」
震えは、抑えることはできなかった。思い出すだに恐ろしいあの闇は、やはり夢だったのだ。……あの夢は私の罪の具現。以降、ずっと見続けなければならないのだろう。
そう思うと、泣きそうになった。
そんな私に大丈夫、とでも言うように、私の手を握る彼女のそれに、少しだけ力がこもった。
『ここはネペトリ神殿。私たちが魔法王と仰ぐ彼女がいる神殿であり、私たちの命である宝石が安置された場所。奥には魔法王――――ネペトリ様がいらっしゃいます』
「ネペトリ様……貴女の、命……?」
疑問だらけの私を振り返り、彼女はくすりと微笑んだ。同じ顔なのに、辿ってきた道が違えばこうも違うかと思うほど、大人びた微笑だった。
『――――話しましょう。ある王国の衰亡と、それを守ろうとした人々の物語を』