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*64*
「……用もないのにトイレに居るって虚しいな」
適当に時間を潰して頃合いを見てからトイレを出ると、リビングの方からなにやらくぐもった声が聞こえてきた。気になってリビングの扉に近づきそっと様子を窺うと、先輩が何かをやっている。その横でユキが唖然としたような、とんでもないものでも見てしまったかのような表情で立ち尽くしていた。
「一体どうしたっていうんだ?」
気になりながらもドアノブに手を掛けようとした時、またしても声が聞こえてきた。
「……準一……くん」
「――っ!?」
隙間から目に飛び込んできた光景は衝撃的なもので、まるで金縛りにでもあってしまったかのようにその場から動けなくなってしまう。
あの人は、一体何をやっているんだ……。いけないと思いながらも、その場に入る勇気も俺にはない。そう――
「……何で俺のカップに、そんな」
先輩は俺が渡したあのカップに口を付けて、目を閉じたまま恍惚とした表情で俺が座っていたソファーに頬擦りでもするかのように顏をくっ付けていた。
本当にいけないものを見てしまった。先輩は変態なのか? しかも俺の名前を呼びながらとか。もしかして、あんな事を前に俺が帰った後もやっていたんだろうか。
あれじゃまるで――その、俺とキスしているのを想像してるみたいじゃないか……しかも、間接キスだよな、あれ。うぅ、考えたらなんか妙にドキドキしてきた。って、いけない、いけない。今日はユキの話を聞きにきたんだ。ちょっと強引だが仕方ない。俺はコホンっと咳払いをしてから軽く深呼吸をする。
「あぁ〜、あぁ〜、冬は乾燥して喉が痛くなるよな。あぁ〜、あぁ〜」
わざとらしいひとり言を先輩に聞こえるように言いながらドアノブに手を掛ける。演技がド下手くそなのは許してほしい。だって俺も少々テンパってるから。俺の声に気付いて先輩は飛び上がる様な勢いで居住まいを正し、何事もなかったかのように元の位置に戻っていた。
「……だ、大丈夫ですか?」
そう言って、先輩はこちらの様子を窺うように見つめてきた。どうやら先程までの事はバレてないと思ったようだ。作戦は成功。後は――平常心だ。落ち着いてだ。今、俺は秘境で修業する僧侶のように、一点の曇りもない心で先輩に対応しなければいけない。言うならば明鏡止水の心だ。
「え、えぇ、そりゃあもう、全然大丈夫ですから」
と思ったのだが、俺にそんな器用な事ができる訳もなく、出てきた言葉はテンパって調子がはずれた声だった。さっきの光景が脳内でリフレインして頭から離れない。どんなに振り払おうとしても鮮烈な映像が頭の中に、瞼の裏に焼き付いてしまっている。
今までこんな事なんてなかったのに、一体どうしたっていうんだ俺は……。先輩に訝しげな顔をされ、ユキには呆れた表情されながら鼓動が落ち着くのを待った。
***
「妹……ですか?」
「えぇ、先輩には妹がいると思うんですが」
何とか平常心を取り戻して、ソファーに座って先輩と向かいあう。
俺にそう尋ねられ、先輩は首をひねって考える。すぐに出てこない時点で俺の予想は的外れなものだったのかもしれない。もし妹がいるのならわざわざ隠す必要はないはずだ。
それに本当にわからないような表情を見ると、言いたくないとか言えないというのも違う気がする。
「……いえ、私には妹はいません。それどころか、兄妹すらいませんから」
「そう、ですか」
先輩の反応を見てユキの表情が曇る。
無理もない。ユキが姉と思っている人から「妹はいない」と言われたのだから。ユキの事を疑っている訳じゃないけど、こうなると俺の考えていた計画も厳しいかもしれない。
目線だけでユキに「大丈夫か?」と問いかけると、ユキは静かに頷いた。ユキがそう言うのならば、俺は口を挟まない。例え少しの間だけだとしても姉妹水入らずにさせてやりたいと思うから。
「すいません、変な事を聞いて。……それと、この間の返事なんですが」
「は、はい!」
俺の言葉に先輩は、驚いて全身の毛が逆立った猫のようにビクッと反応した。
そして、その澄んだ瞳が俺に向けられる。渚に伝えたように、先輩にも今の俺の気持ちを嘘偽りのない言葉で伝えたい。緊張する自分自身を落ち着かせるように、一度間を取って深呼吸をする。そして――――
「この間、渚……新谷さんに今の気持ちを伝えました」
俺がその一言目を発したその瞬間、先輩の綺麗な顔が不安で歪む。
その表情は悲痛なもので、多分自分の気持ちが受け入れられないと思っているのかもしれない。俺はゆっくりと言葉を続ける。
「新谷さんにも伝えたんですが、俺はいっぱいいっぱいで、先輩と渚にどう返事を返せばいいかばかり考えて……正直、自分の気持ちがわからないのが本音でした。でも気付いたんです。いや、気付かされました」
そこで一旦言葉を切って先輩の隣りに座っているユキにチラリと視線を向ける。
思えばユキが家に現れるようになってから俺の、俺を取り巻く環境は変わった。ユキがあそこに現れなければ、俺が別の場所に住んでいたら先輩と再会する事も、渚に告白される事もなかった。全ては結果論でしかない。たらればの話をしても仕方ないが、それでも俺は良かったと思う。ユキと会えて、渚の想いを聞けて、先輩と再会できて。
もし出会えなかったら、俺はまだあの場所にしがみついて父さんの事を待って、ずっとうじうじと悩んでいたかもしれない。だからユキ、お前と出会えて良かったって―――