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忘却の壁と明日の鼓動:後編
第5章:死せる肺腑と反響する遺言
三階の廊下は、外の世界よりも数度気温が低いように感じられた。そこは単なる冷気ではなく、時の流れが堰き止められ、数年前の「閉鎖」という瞬間を閉じ込めたまま腐敗した真空カプセルのようだった。 一歩踏み出すたびに、ひび割れたリノリウムの床が、古傷を抉るような鋭い悲鳴を立てる。剥がれかけた壁紙は、湿気と乾燥を繰り返した末に、まるで剥離した死者の皮膚のように力なく天井から垂れ下がり、微かな風に揺れていた。天井の隅には、何層にも積み重なった煤けた埃が、巨大な蜘蛛の巣、あるいは飢えた獣の毛のように波打っている。
恒一は、一階の受付で見つけた「黒く塗りつぶされたカルテ」をコートのポケットに突っ込んだまま、廊下を奥へと進む。指先が紙のざらついた感触を執拗になぞると、その端に、インクの掠れた小さな走り書きを見つけた。 『被験者は自己の存在を罪と定義し、因果の拒絶を試みている。救済には外部からの「観測」が不可欠である』 その筆跡に、恒一の心臓が不規則に、しかし激しく跳ねた。見覚えがある。この病院の精神科医が書くような事務的な書体ではない。それは、彼が幼い頃から宿題を見てもらうたびに、あるいは誕生日のメッセージカードに、必ず添えられていた姉の几帳面で少し右上がりの字、そのものだった。
脳の最深部に封印されていた「開けてはいけない箱」が、錆びた鉄槌で叩き割られるような衝撃が走る。 『大丈夫だよ、恒一。あなたは何も悪くない』 再び、姉の声が鼓膜の奥で反響した。それはかつて、母がこの病院の四〇二号室で真っ白な霧に溶けるように息を引き取った夜、恒一の凍りついた手を強く握りしめてくれた彼女の、微かな石鹸の匂いと、生きている人間だけが持つ掌の柔らかな温もりを伴っていた。
封印されていた記憶が、泥濁りの奔流となって恒一の意識を蹂躙する。 父が消え、母が倒れたあの冬。恒一は自分を責めるあまり、ある「実験的治療」の被験者となった。トラウマを脳の特定の領域ごと「時間的に隔離」し、仮想のループ内で処理させるという、倫理の境界線上にある精神医療。 あのスマートフォンに届く「死亡通知」。 それは外部の殺人鬼からの宣告ではなく、恒一自身の壊れた精神が破綻しないよう、姉が、あるいは彼自身が最後の一線を越えて現実の命を絶たないよう組み込んだ、**「自死の衝動をシミュレーションの中で九十九回完結させ、現実の肉体を強制的に眠らせ続けるためのループ・プロトコル」**だったのだ。
だが、その安全装置は長い年月を経てバグを起こし、彼を永遠の檻に閉じ込めた。 「僕は……救われようとして、自らこの無限の地獄を設計したのか?」 その仮説が猛毒となって彼の髄まで侵食する。恒一は吐き気を堪えながら、さらに奥へと進んだ。
第6章:境界に刻まれた絶望の年輪
屋上へ続く重厚な鉄の扉の前に立ったとき、恒一の呼吸は肺が焼けるほどに乱れていた。視界の端には、かつての自分が流した血のような紅い残像が、フラッシュバックのように明滅している。 ドアノブに手をかける。錆びつき、茶褐色の粉を吹いたその鉄の塊は、驚くほど滑らかに回った。いや、違う。この三か月間、毎日、何百回、何千回と、恒一がこの場所を訪れ、このドアノブに絶望という名の加重をかけて回し続けたからだ。鉄は、彼の絶望という砥石によって、鏡面のように研磨されていた。
扉を押し開けた瞬間、冬の暴力的な開放感が恒一の全身を叩いた。 コンクリートの床は陽を浴びて白く光り、フェンスは海風に晒されて錆びつき、ところどころが外側に、まるで逃げ出そうとした誰かが強く掴んだあとのように歪んでいる。 恒一の視線が、フェンスの下部に絡みついた一点に釘付けになった。 そこには、細い銀色の鎖が絡みついていた。姉が大切にしていた、母の形見のブレスレットの残骸だ。 「そうだ……姉ちゃんは、昨日も、一昨日も、僕を現実へ引き戻そうとして、ここへ……」 これまで感じていた、あの「誰かに見られているような視線」や、背中に不意に触れられたような指先の感触。それは幽霊でも死神でもなく、ループという鉄格子の外側から、必死に手を伸ばし、彼を繋ぎ止めようとしていた姉の、物理的な干渉の痕跡だったのだ。
広くもなく、狭くもない、どこにでもある平凡な、あまりにも凡庸な屋上。 だが、ここが彼にとっての「死の聖域」であり、同時に「時間の牢獄」の起点だった。 恒一は、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、屋上の縁に歩み寄る。靴の裏が劣化したコンクリートの砂利を噛む、ジャリ、という乾いた音が、世界の終わりのように静寂の中で響き渡る。
下を見下ろすと、夕暮れに染まり始めた街並みが、精巧な模型のように広がっていた。あそこにある日常は、恒一にとっての「苦痛」の集積体だ。昨日と同じ電車に乗り、昨日と同じ顔ぶれの中で、自分という個を透明に削りながら生きる。昨日よりも良くなる確信のない、果てしない延長戦。 かつての自分が下した「終止符」の重みが、ようやく身体感覚として、胃の底に鉛を流し込まれたような実感を持って蘇る。
それは激情による爆発ではなかった。もっと静かで、理性的で、徹底的に冷え切った、消去法による選択。 「未来を想像すると、すべてが『地獄の続き』にしか見えなかった。だから、この物語のペンを置いて、白紙のまま終わりにしたんだ。それが、僕にできる唯一の責任だと思っていた」
恒一は、風にさらわれるほど小さな声で呟き、フェンスの向こう側、縁のギリギリに立った。 冬の強風が彼のコートの裾をパタパタと激しく叩き、耳元で「早く来い」と囁くように鳴り響く。その時、ポケットの中でスマートフォンが、今までで最も激しく、断末魔のような振動を上げた。
【最終通知】 因果の収束まで、残り180秒。 「生存」を選択する場合、過去のすべての欠落を肯定せねばならない。
第7章:観測者と透明な糸
震える指先で、ひび割れた画面の通話ボタンをスライドさせる。 耳に当てた受話口から聞こえてきたのは、三か月間、一度も耳にすることのなかった、現実の姉の声だった。
「……もしもし」 『生きてる?』
その一言に、恒一は呼吸を完全に忘れた。 姉の声は、記憶にあるものよりもずっと低く、砂を噛んだようにかすれていた。それは長い時間、暗闇の中で名前すら届かない相手に向かって叫び続け、あるいは人知れず祈り続けてきた者の、魂を削り取って紡いだような響きだった。
『よかった。今日は、電話に出てくれたんだね。ずっと、ずっとかけてたんだよ。あんたがこの屋上に現れるたびに。電波がループの壁を越えられなくても、鳴らし続ければ、いつか数億分の一の「偶然」が起きて、あんたの意識をこっちに引き戻せるんじゃないかって。……ねえ、恒一。私の声、聞こえてる?』
衝撃が恒一の毛細血管の一つ一つを、冷たい稲妻のように突き抜けた。 「姉ちゃん……? なんで……。この病院のカルテ、姉ちゃんが書いたの? 僕をこんな場所に閉じ込めたのは、姉ちゃんなの?」 『……気づいたんだね。あんたをあのプロトコルに合わせたのは私よ。あんたが自分を殺そうとするのを止めるには、時間を止めて凍結させるシステムに頼るしかなかった。でも、私は間違っていた。あんたを安全な檻に入れたまま、私は外側で見守ることしかできなかった。それは救済じゃなく、ただ、あんたが死ぬ瞬間を先延ばしにするだけの残酷な拷問だった』
自分を殺していたのは、自分自身の絶望だけではなかった。 自分の時間を止めることで、唯一の肉親である姉を、出口のない「喪失の回廊」に閉じ込めていたのだ。 彼が5時40分に「リセット」されるとき、彼の世界からは姉の苦悩も、彼が死んだという物理的な事実さえも消え去る。だが、姉はリセットされない。彼女は、弟が目の前で虚空に消え、そして世界が歪んで彼が消滅する瞬間を九十回も見届け、そのたびに魂を切り刻まれながら、次の23時を待っていたのだ。
『あんたにとっての「三か月前」は、私にとっては九十回、あんたが冷たくなっていくのを見届けた永遠の時間なんだよ。でもね、恒一。私はあんたを恨んでない。ただ、あんたが私のことまで忘れて、またあの真っ白な無音の朝に戻っちゃうのが、それだけが……恐ろしかった。……恒一、そのスマホを捨てて。自分自身の絶望が作り出したシステムを、あんた自身の手で、今、破壊して!』
恒一の目から、堰を切ったように熱いものが溢れた。頬を伝う涙が、冬の冷たい風にさらされ、氷のような冷たさで彼の感覚を覚醒させる。 「姉ちゃん……僕は、何のために戻ればいいのかわからないんだ。未来を見たって、結局は不幸の繰り返しにしか思えない。やりたいことも、なりたかったものも、もう全部、このループの中で磨り潰されて消えちゃったんだよ」
絞り出すような恒一の言葉に、電話の向こうで姉が、凍えた指を温めるように、静かに、しかし力強く笑った。
『理由なんて、最初からなくていいんだよ、恒一。何かが欲しくて生きるんじゃなくて、ただ、明日も私が電話をかけるから、それに出て。明日もあんたがそこにいるって、私に確認させて。……それだけで、私の明日は「続き」になるの。あんたが生きてるって、その事実だけで、私の止まった時間は動けるんだよ。お願い、私の未来をこれ以上殺さないで!』
第8章:決別と二十三時十七分の火花
時計の針が、23時16分を指した。 世界が、巨大なガラス細工が軋み、粉々に砕けるような轟音を立てて歪み始める。恒一の意識の奥底から、これまで「平穏」という名の分厚い蓋をして押し殺してきた、ドロドロとした濃密な絶望が噴出した。 「もういいじゃないか」「楽になろう」「すべては無意味だ」 それは、システムが提示する「予定された安楽死」の誘惑だった。自分自身の声をした無数の死霊たちが、彼の耳元で呪文のように囁き、彼の背中をフェンスの向こう側へと、物理的な質量を持って押し出す。
視界が白濁し、重力の方向が失われる。 身体が、慣性に逆らえずゆっくりと、闇に向かって傾き始める。これが、これまでの九十回、例外なく繰り返されてきた「因果」の結末だ。重力が彼を、終わりのない、絶望という名の朝へと引き戻そうとする。
だが、恒一は噛み締めた奥歯から血が噴き出すほどの力で、コンクリートを、自らの惨めな過去を、力一杯蹴った。
「……拒絶する。僕は、僕を殺さない! これ以上、姉ちゃんの時間を奪わせない!」
彼は、スマートフォンの通知画面を、地獄の底から響くような呪詛を込めて睨みつけた。 加害者:篠宮恒一。 自分を殺せるのが自分だけなら、自分を救い出せるのも、自分という最悪の怪物を打ち負かせるのも、自分しかいないのだ。 恒一は、スマートフォンの画面をコンクリートの角に、渾身の力を込めて叩きつけた。 バキリ、と耳障りな破砕音が響き、液晶が粉々に砕け散り、内部から青白い火花が散った。通知という名の呪いが、物理的な火花となって夜の闇に消える。
「僕は、不幸かもしれない! 明日も、泥の中を這いずり回るような日々かもしれない! でも……それでも、姉ちゃんの流す涙を止める権利は、僕にあるはずだ!」
脳内で、巨大な氷河が崩壊し、海へ滑り落ちるような音がした。 凄まじい激痛と共に、三か月分の「死の記憶」が一気に、毛細血管の隅々まで逆流してくる。地面に叩きつけられる衝撃。冷たい空気。肺に溢れる鉄の味。身体が千切れるような凄惨な痛み。 それらすべてを、恒一は逃げずに飲み込んだ。自分の弱さも、醜さも、死にたがりな自分自身さえも、「これこそが僕の歩んできた道だ」と認め、血塗れの腕で自分自身を強く抱きしめた。
23時17分。
世界からすべての音が消えた。いつものような強制的な暗転はない。 ただ、強い風が吹き抜け、遠くで深夜のバイパスを走る大型車の低い排気音が、現実の音として耳に届く。 恒一は、自分の指先がまだ、錆びたフェンスを白くなるほど強く、爪が剥がれるほどに掴んでいるのを見た。肺が冷たい酸素を求め、心臓が爆発しそうなほどの鼓動を刻んでいる。
「……ああ、生きてる。時間が、僕のこの手の中で動いてる」
屋上の入り口で、重厚な扉が勢いよく開く音がした。 そこには、肩で息をしながら、九十回の死を特等席で見せられ続け、それでも諦めなかった現実の姉が立ち尽くしていた。 彼女の泣き声こそが、恒一が初めて自らの意志で、絶望を「肯定」することで勝ち取った「二十三時十八分」の、最初の祝福だった。
第9章:空白に描く新しい色彩
翌朝、目覚めたとき、恒一はすぐに時計を確認しなかった。 それが、これまでとの決定的な、絶対的な違いだった。カーテンの隙間から差す光は、昨日と同じ物理現象であるはずなのに、どこか不揃いで、不器用なほどに眩しく、色彩を持って彼の瞳に飛び込んできた。それはもう「システムによってセットされた舞台照明」ではない、未知の、そして残酷で美しい太陽の光だった。
枕元には、砕けたスマートフォンの残骸が転がっている。 通知は、もう二度と来ない。あの不気味な宣告も、加害者の特定も、すべてが長い長い、悪夢の残滓として消え失せていた。 恒一はベッドに座り、ゆっくりと、初めて自分の肺が大きく膨らむのを感じながら、深呼吸をした。
生きる意味は、まだどこにも見つからない。やりたいことも、輝かしい将来の展望も、依然として真っ白な地図のままだ。 けれど、昨日の夜、死の凄まじい重力に抗って、爪を立てて生き延びたあの瞬間の、フェンスの冷たさと手の平の痛みだけが、彼の掌に確かな熱として残っていた。
生きるとは、立派な目的を持つことではない。 答えが出ないまま、理由がないまま、その不透明で重たい空白を抱えたまま、一秒一秒をやり過ごし、立ち続けることだ。その難しさと、残酷さと、そして死よりもずっと尊い「退屈な明日」を、恒一は九十回の死を経て、ようやくその腕に抱きしめた。
立ち上がり、窓を大きく開ける。冷たい風が部屋に流れ込み、停滞していた昨日までの絶望の残り香を、容赦なく押し流していく。 恒一は、昨日とは違う色、昨日とは違う感触の靴下を選び、部屋の鍵をかけた。
玄関を出る。まだ足取りは重い。心にはまだ、死の淵で見た暗闇の澱(おり)が沈んでいる。 それでも、彼は確かに、自分の足で一歩を、アスファルトの上に力強く刻んだ。 行き先は決めていない。 だが、今日は昨日ではなく、明日は今日の続きだ。 それだけで、生きていくには十分すぎるほど、贅沢で、誇らしい理由になる。
街の雑踏の中へ消えていく彼の足音は、これまでよりもずっと深く、確かな質量を持って、現実の地面を捉えて響き続けていた。