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*紹介文/目次*
前編と後編に分かれているので、後編まで読んでいってください。
終わりが確定している朝:前編
第1章:五時四十分の定時
意識が覚醒するより先に、指先が冷たさを感じた。 それは生暖かい体温がシーツに吸い取られていくような感覚ではなく、世界の熱量そのものが、ある一点を境に強制的に奪い去られたあとの、空虚な冷たさだった。
目を開けた瞬間、篠宮恒一(しのみや こういち)は視線を動かし、枕元の置時計を確認する。
5時40分。
狂いがない。秒針の刻み一つ、液晶の輝度一つに至るまで、寸分の狂いもないその数字に、恒一の口元からは乾いた笑いが漏れた。体内時計というにはあまりに出来が良すぎる。まるで、世界という精巧な舞台装置が、この時間にセットされたタイマーで一斉に再起動しているかのようだった。
恒一は重い体を起こし、枕元のスマートフォンを手に取った。 液晶の光が、まだ暗い部屋の中に青白く浮かび上がる。指が震えることはもうなかった。 三か月前、この異変が始まったばかりの頃は、通知を見るだけで肺から酸素が消え、指先は痙攣したように動かなかった。自分の死を宣告されるという事態に、脳が情報の処理を拒絶し、ただただ震えることしかできなかったのだ。だが、今は違う。慣れという名の麻痺が、彼を冷徹な観測者に変えていた。
【死亡通知】 被害者:篠宮 恒一 死亡推定時刻:本日 23:17 加害者:未特定
今日も、昨日と寸分違わぬ文面。フォントの一点一画まで同じ、無機質な宣告。
恒一は大きく息を吐き、天井を見つめた。ひび割れも染みもない、どこにでもある賃貸マンションの白。三か月前、この天井を初めて「絶望」と共に見た朝は、喉が潰れるほど泣き叫んだものだ。 当時はまだ、この現象を「事件」だと信じていた。ストーカーによる悪質な悪戯か、あるいは何らかのハイテク犯罪。警察に駆け込み、震える手でスマートフォンを差し出した。だが、警察官の反応は一様に同じだった。「何も映っていませんよ、篠宮さん」。 彼らの目には、この不気味な通知は見えていなかった。友人たちに助けを求めても、SNSに投稿しても、誰もが彼を「疲れているだけだ」と憐れんだ。そして、挙句の果てには神という不確かな存在に毒づいた。
だが、今日この日に至るまで、誰一人として恒一を救うことはできなかった。 正確には、恒一が救いを求めたという事実さえ、次の朝の5時40分には世界から消去される。彼の記憶だけを置き去りにして、すべての出来事は「なかったこと」にされるからだ。
感情は、摩擦係数の高い地面を滑るように摩耗していく。 人は「終わり」をあらかじめ、それも秒単位の精度で知ってしまうと、驚くほど冷静になる。恒一にとっての一日は、もはや丁寧に使い切る価値もない「使い切りの紙コップ」のようなものだった。中に何を注ごうが、どれほど高価なワインを満たそうが、一日の終わりには必ず握り潰され、捨てられることが約束されているのだから。
第2章:死のアーカイブ
ベッドから這い出し、洗面所へ向かう。 鏡に映る自分の顔は、ひどく血色が悪い。頬はこけ、目の下には消えない隈が張り付いている。死神に追いかけられている人間の顔というよりは、死神そのものに飽きられ、見放されたような、うつろな瞳。 恒一は無言で歯を磨き、冷たい水で顔を洗う。 顔を洗う際、ふと手の甲の傷が消えていることに気づく。昨日、苛立ちに任せて壁を殴りつけた際についたはずの傷だ。痛みだけが脳の裏側にこびりついているのに、肉体は一点の曇りもない「初期状態」に復元されている。この乖離が、彼をいっそう狂わせる。
キッチンに立ち、一杯のコーヒーを淹れる。豆を挽く音だけが、静かなワンルームに響く。 窓の外に目を向けると、始発に近い通勤電車が走り、街の歯車が回り始めているのが見えた。あの中を歩く人々は、今日の続きに明日があると信じて疑わない。昨日の失敗を反省し、明日の予定に胸を膨らませる。 だが、あの中に、昨日の恒一はいない。そして、明日の恒一もいない。 世界という巨大な円環から、自分だけが外れた場所に放り出されている。自分は、時間の激流の中に打ち込まれた、動くことのない杭のような存在だ。
ふと、部屋の隅にあるゴミ箱に目が止まった。そこには、数日前に書いたはずの「遺書」が、シワ一つない状態で置かれている。いや、厳密には「数日前」という概念はこの部屋には存在しない。すべての物質は、5時40分の状態に、一ミクロンの誤差もなく復元される。 ただ一つ、恒一の「記憶」を除いて。
傍らに置かれたサイドテーブル。そこには一冊のノートが置かれている。 これは、恒一が自らの意志で、毎日のように書き留めている「ループの記録」だ。物質がリセットされるこの部屋で、どうやって記録を残しているのか。その答えは単純だった。彼は毎朝5時41分に、記憶を頼りに「昨日までの記録」をノートに書き写す。それが、この三か月間で彼が身につけた、唯一の執念だった。
『12日目:23時17分、何の前触れもなく視界が消えた。痛みはない』 『32日目:23時17分、マンションの屋上から飛び降りた。落下中、風の音を聞きながら朝を迎えた』 『45日目:自宅の玄関を内側から補強し、あらゆる侵入を拒んだが、時刻になると強制的に意識が途絶えた』 『64日目:睡眠薬を致死量服用。眠りに落ちる感覚と、リセットの感覚が混濁した』
ページをめくる手が止まる。 それは、自分の死に様をコレクションするような、異常な日々の記録だった。 これまでの三か月間、彼は「加害者:未特定」という言葉に踊らされてきた。誰かが自分を殺しに来るのだと信じ、ナイフを買って待ち構えたこともあれば、防犯カメラを設置したこともある。だが、カメラに映るのは、23時17分に糸が切れた人形のように崩れ落ちる自分の姿だけだった。
死ぬこと自体よりも、死ぬ理由がわからないことのほうが、ずっと重く心に沈殿している。 不治の病ではない。昨日の健康診断(ループを利用して毎日受診している)では、どこにも異常はなかった。 誰かに恨まれている様子もない。恒一は、他人の恨みを買うほど熱のある生き方をしてこなかった。
なのに、なぜ。
第3章:更新された真実
ノートを閉じ、冷めたコーヒーを喉に流し込んだときだった。 テーブルの上のスマートフォンが、再び震えた。 短いバイブレーションの音が、静寂を切り裂く。
恒一は眉をひそめた。これまでの三か月間、5時40分の通知以外にメッセージが来ることは、一度もなかった。何かが、決定的に変わろうとしている。
震える手で画面をスワイプする。
【訂正】 加害者:篠宮 恒一
窓から差し込む朝日の熱が、指先から奪われていくような感覚がした。 「……え?」 声が震えた。喉の奥が引き攣り、酸っぱい液体がせり上がってくる。
加害者、未特定。 それが、これまでの絶対的なルールだったはずだ。誰が自分を殺すのか、それさえわかれば、あるいはその人物を止めれば、この輪廻から抜け出せるのではないかと、彼はあらゆる可能性を試してきた。 だが、導き出された答えはあまりに近く、そしてあまりに残酷だった。
犯人は、自分だった。
胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に崩壊する音がした。怒りでも、恐怖でもない。それは、パズルの最後のピースが、ひどく歪な形でパチリとはまったような、寒気のする納得感だった。
「……そうか。そうだったのか」
誰かのせいでないなら、辻褄は合う。 世界がおかしいわけでも、誰かが自分を呪っているわけでもなかった。 壊れていたのは、世界ではなく、自分自身の精神の方だったのだ。
自分を殺したいという強烈な願望が、あるいは死ぬべきだという強迫観念が、23時17分という瞬間に収束し、自分自身の命を絶っている。しかし、深層意識のどこかで「死にたくない」という本能が働き、帳尻を合わせるように朝の5時40分へと時間を巻き戻す。 このループは、彼の内側で起きている凄絶な自己矛盾の現れだった。
恒一は改めて、自分の部屋を見回した。 必要最低限の家具。読みかけのままページが進まない小説。クローゼットに並ぶ、同じような色合いの服。 ここには「続き」を想定したものが、何一つとして存在しない。 いつから自分は、明日を信じるのをやめていたのだろうか。 いつから自分は、自分自身を「殺すべき対象」として認識し始めていたのだろうか。
かつて抱いていたはずの野心。誰かに伝えたかった言葉。なりたかった自分。 それらはすべて、この繰り返される三か月という時間の中で、砂時計の砂のようにこぼれ落ち、薄まって消えてしまった。今の自分に残っているのは、死という結果への、無機質な好奇心だけだ。
恒一はふらふらと立ち上がり、コートを手に取った。 目的地は決まっている。自分を殺す犯人が自分であるならば、その「決断」が下される場所へ行かなければならない。
なぜ、自分は自分を殺さなければならなかったのか。 その決定的な引き金となった「動機」と「場所」を、今の自分はまだ思い出せていない。 記憶がリセットされないのは、彼が「真実」に到達するための慈悲なのか、それとも、永遠に答えの出ない問いを繰り返させるための拷問なのか。
時計の針は、まだ6時を回ったばかりだ。 今日という一日を、恒一は「死ぬため」ではなく、「死ぬ理由を思い出すため」に歩き出すことに決めた。
玄関のドアを開けると、冷たい朝の空気が肺を突き刺した。 それは、これまで何百回と繰り返してきた朝と同じ匂いのはずなのに、今日に限っては、どこか鉄のような錆びた匂いが混じっている気がした。
第4章:既視感の街
街へ出ると、光の粒子がやけに鋭く感じられた。 駅へ向かう人々の靴音、コンビニの自動ドアが開く電子音、どこかの家のベランダから聞こえる洗濯物を叩く音。それらすべての「生活の音」が、今の恒一には、剥き出しの神経を逆撫でするノイズのように刺さる。
恒一はポケットの中で、スマートフォンを固く握りしめた。 この端末は、一体どこで手に入れたものだったか。 三か月前、最初に「死亡通知」が届いたあの日、確かにそれは恒一の所有物だったはずだ。しかし、購入したショップの風景も、契約したプランも、初期設定したはずの壁紙の由来も、今の恒一の記憶からは綺麗に脱落している。 まるで、この通知を表示するためだけに、どこからか彼の人生に紛れ込んできた異物のようだ。
電車に乗り、郊外へと向かう。 窓の外を流れる景色は、彼がかつて愛した風景のはずだった。だが、今の彼には、それが色彩を失ったセピア色の写真の羅列に見えた。 「……あそこだ」
街外れの、緩やかな坂を上りきった場所に、その廃病院はあった。 かつては地域の中核を担っていた総合病院。白亜の壁は今や蔦に覆われ、割れた窓ガラスは虚ろな眼窩のように空を睨んでいる。数年前、不祥事か経営破綻か、あるいはもっと不可解な理由で閉鎖され、今では静かに風化を待つだけの巨大な骸骨と化していた。
本来なら地図を頼るべき場所なのに、恒一の足は一度も迷わなかった。 角を曲がるタイミング。視線を向けるべき朽ちた看板。踏むと鈍い音を立てる緩んだアスファルト。 それらすべてに、体が「既視感」という名の拒絶反応を示している。心拍数が上がり、背中を冷たい汗が伝う。
フェンスには「立入禁止」の赤い文字が躍っているが、裏手に回れば、大人が一人通り抜けられるほどに金網がめくれ上がっていた。 「知っている……」 恒一は掠れた声で呟き、その隙間を潜り抜けた。 「昨日も、その前も、僕はここに来たんだ。そして、ここで僕は、僕に殺されたんだ」
建物の中に一歩足を踏み入れると、外の陽光が嘘のように遮断され、冷ややかな空気が皮膚にへばりついた。 埃と、長年蓄積された消毒液の匂い、そしてカビの混ざり合った腐臭が、肺の奥を刺激する。
一階の受付カウンターには、散乱したカルテが積まれていた。 恒一は無意識に、その一枚を手に取る。 文字は掠れて判別できなかったが、そこにある「患者名」の欄が、不自然なほど激しく、黒いインクで塗りつぶされているのが気になった。 誰のカルテなのか。 なぜ、これほどまでに執拗に、存在を消されなければならなかったのか。
階段を上るたび、頭痛が激しさを増していく。 それは視覚的な記憶が蘇る苦しみではない。もっと直接的な、神経を針で刺されるような「感触」だった。 一段上るごとに、自分の中に眠る「もう一人の恒一」が、暗闇の中から這り出してくるのを感じる。
『なぜ、まだ歩いているの?』 『なぜ、終わらせようとしないの?』
廊下の向こうから、誰かの声が聞こえた気がした。 幻聴ではない。それは彼の内側に沈殿していた、姉の声だった。