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その別れ、買います!
作者: マツタケの香料  (総ページ数: 4ページ)
関連タグ: オリジナル 恋愛 青春 感動 記憶 
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第1章:記憶のショーケース
 「本日のレートは、青春群が1キロバイトあたり0.8クレジット。恋愛カテゴリー、特に『成就しなかった初恋』は現在需要が高まっており、ボーナスがつきます」

 無機質な合成音声が、清潔すぎてかえって不気味な店内に響く。  カイはカウンターの硬い椅子に深く沈み込み、目の前のホログラムディスプレイを眺めていた。そこには、彼が今日「売りに出す」と決めた記憶のリストが、淡い光を放ちながら並んでいる。

「……『高校時代の初恋』。これをいくらで買ってくれる?」

 カイの問いに、受付の型落ちアンドロイドが首を傾げた。その関節が動くたび、かすかに油の切れたような金属音がする。 「スキャンを開始します。対象の記憶をフォーカスしてください」

 カイは目を閉じ、意識を脳の奥底へと沈めた。  埃っぽい放課後の図書室。窓から差し込む斜陽が、古い床のワックスを黄金色に焼いている。古い紙の匂い。そして、向かい側の席で髪を耳にかけていた少女の横顔。  ――「あなたは私の宝物よ」  不意に、別の、もっと深い場所にある母の声が混ざりそうになり、カイは慌てて意識を切り離した。今は「初恋」に集中しなければならない。

「――抽出準備完了。保存状態は良好。純度82パーセント。査定額は1,200クレジットです」

 画面上の「SELL」ボタンを指先で弾く。  一瞬、こめかみの奥を冷たい針で刺されたような感覚が走り、数秒後、目を開けたときには――少女の愛らしい仕草も、胸の痛みも、すべてが消失していた。  覚えているのは、「自分には初恋があった」という事実という名のインデックスだけ。色彩を失い、中身が抜き取られた空っぽのフォルダが、脳内の書棚にひとつ増えた。

 店を出ると、カイは足早に近くの居酒屋『バックアップ』へ向かった。そこは、記憶を売って小銭を得た連中が、その寂しさを紛らわすために集まる吹き溜まりだった。

「よう、カイ。今日もまた自分を削ってきたのか?」

 奥のボックス席で、友人のタケルが合成ビールのジョッキを掲げた。彼はカイの数少ない「昔からの知り合い」だ。  カイは黙って向かいに座り、届いたばかりの安酒を煽った。

「……ああ。初恋を売った。意外と高かったよ」

「初恋か。ったく、お前、そのうち自分の名前も忘れちまうんじゃないか?」  タケルは笑い飛ばしたが、その目は笑っていなかった。彼は身を乗り出して尋ねる。 「なあ、覚えてるか? 十年前、俺とお前と、あいつ……ほら、サトシの三人で、夜の海までチャリを飛ばした時のこと」

 カイはグラスを持ったまま、動きを止めた。  記憶のライブラリを検索する。サトシ。海。チャリ。 「……ああ、行った気がする。海、だったな。暗くて、波の音がしてた」

「それだけかよ。あの時、サトシが波打ち際で転んで、携帯沈めて泣きべそかいて。俺たち腹を抱えて笑っただろ。俺、あの時のお前の笑い顔、今でも覚えてるぜ」

「……そうか。サトシは、泣いてたのか」  カイは自分の声が冷たく響くのを感じた。  事実としての情報は残っている。だが、その時の「おかしさ」も、友人との連帯感も、もうエモーションとして再生されない。一ヶ月前に「友人とのバカ騒ぎ」の記憶をまとめてバルク売却してしまったからだ。

「……冷てえな。お前、どんどん人間じゃなくなってくみたいだ」  タケルが寂しそうに目を逸らした。 「俺は、どんなに貧乏しても『楽しかった思い出』だけは売らねえよ。それがなくなったら、今ここにいる俺が、偽物になっちまう気がするんだ」

 タケルの言葉が、棘のようにカイの胸に刺さった。  偽物。  今の自分は、過去という重しを捨てて軽くなっただけの、ただの薄っぺらな器ではないか。

「……じゃあ、もし。お前の『大切にしている記憶』が、誰かにとっての価値に変わるんだとしたら、お前はどうする?」 「そりゃ、売りはしねえよ。絶対にな」

 カイはポケットの中で、家賃の催促通知が表示された端末を握りしめた。  タケルには、守るべき家族がいる。自分には、もう何もない。  いや、一つだけ。  脳の最深部、厳重にロックをかけた「秘蔵フォルダ」に眠る、あの記憶。

『母との、最期の会話』

 タケルと別れ、一人アパートへ帰る道すがら、カイは夜空を見上げた。  星など見えない。街の強力なホログラム広告が、人々の「欲しい記憶」を夜空に投影している。  ――「理想のバカンス体験、一時間からレンタル可能!」  ――「失恋の痛み、即座に消去。メンタルケアの決定版」

 誰もが自分の心を編集し、都合のいい自分を演じている。  カイは自室に戻り、枕元の小型スキャンデバイスをこめかみに当てた。

「……ごめんよ、母さん。俺、もうこれしか残ってないんだ」

 母の優しい声。 「あなたは私の宝物よ。何があっても、自分を信じて強く生きて」  その言葉が、今の自分にはあまりにも眩しすぎて、重すぎた。  これを手放せば、カイという人間を証明する物語は終わる。だが、生き延びるためには、自分という物語の「結末」を売るしかない。

 翌朝。  カイは決意を固め、昨日とは違う、街で一番大きな記憶買取センターへと向かった。  あの日、病室で交わした「愛の言葉」を、最も高く買ってくれる場所へ。

第2章:拒絶された聖域
 街で最も高いビル、その最上階にある記憶買取センター『エターナル・アーカイブ』。そこは、カイが通う路地裏の質屋とは何もかもが違っていた。  全面ガラス張りのロビーからは、記憶を削りながら蠢く街の全景が見渡せる。訪れる客はみな、高価なスーツに身を包み、自らの高潔な思い出を投資信託のように預けに来るエリートばかりだ。

 カイの薄汚れたジャケットは、そこではひどく浮いていた。

「――いらっしゃいませ。プレミアム査定をご希望ですね?」

 現れたコンシェルジュ・プログラムは、実体を持たない流麗な光の輪として浮遊していた。カイは渇いた喉を鳴らし、震える声で告げる。

「……『母との惜別』だ。純度の高い、無償の愛の記憶。これを、最高ランクで査定してくれ」

「承知いたしました。専用のディープ・スキャン・ポッドへどうぞ。当センターのAI『ムネモシュネ』が、お客様の魂の真実を精密に測定いたします」

 卵型のカプセルに身を横たえると、無数のセンサーがカイの頭部を優しく包み込んだ。  視界が暗転し、穏やかな音楽が流れる。  カイは意識を集中させた。一番奥の、一番大切な箱を開ける。

 ――夕暮れの病室。  窓から差し込む斜陽が、母の痩せた頬をオレンジ色に照らしていた。消毒液の匂い。規則正しい心拍音のモニター。母の手は驚くほど軽くて冷たかったけれど、カイを握る力だけは確かに残っていた。  母は酸素マスクを少しだけずらし、微笑んで言った。  『あなたは私の宝物よ。何があっても、自分を信じて強く生きて』  その声を聞くだけで、カイの胸の奥は温かい何かで満たされる。タケルに「人間じゃなくなっていく」と言われても、この記憶がある限り、自分は愛された人間なのだと確信できた。

 (これなら……これなら、数百万クレジットにはなるはずだ。そうすれば、やり直せる)

 だが、その時だった。

『――警告。データに致命的な不整合を検知』

 脳内に、耳を劈くような警告音が鳴り響いた。  穏やかだった病室の風景が、テレビの砂嵐のように激しく乱れる。母の優しい笑顔が左右に引き裂かれ、ノイズの向こう側に「何か」がのぞき見えた気がした。暗く、冷たく、形容しがたい嫌悪感を伴う「何か」が。

「おい、どうした? 装置の故障か!」

 カイはカプセルから飛び出した。心臓が早鐘を打っている。  しかし、コンシェルジュの返答は、吹雪のように冷酷だった。

「装置に異常はありません、お客様。……残念ながら、ご提示いただいた記憶は『非真正データ(アンオーセンティック)』として分類されました。買取不可、および市場への流通禁止措置をとらせていただきます」

「……なんだと? 偽物だっていうのか? 俺が、この二十年間、肌身離さず守ってきたこの思い出が!」

「本システムは、感情の波形とニューロンの結合パターンを解析し、その記憶が客観的事実に基づいているかを判別します。お客様の提供された記憶は、後天的に、強力な自己防衛本能によって『上書き・修正』された形跡があります。……俗に言う、捏造(ねつぞう)です」

「ふざけるな!」

 カイはコンシェルジュの光を振り払い、センターを飛び出した。  エレベーターを降り、雑踏に紛れても、足の震えが止まらない。

 (偽物? 母さんのあの言葉が、作り物だって?)

 ありえない。もしあれが嘘なら、自分を支えてきた二十年間は何だったのか。自分は何を根拠に「自分」を保ってきたのか。  カイは気づけば、またあの居酒屋『バックアップ』の前に立っていた。しかし、中に入る勇気はなかった。タケルの顔を見れば、自分が「偽物の塊」であることを見透かされそうな気がした。

 彼は街の裏路地、電子部品の死骸が転がる一角にある、非合法の記憶修復師「ジジ」の店を訪ねた。  ガラクタの山に囲まれた地下室で、脂ぎった髪の老人が、古いモニターを眺めていた。

「へぇ……『エターナル・アーカイブ』に弾かれたのか。そいつは相当、根の深い嘘を抱えてる証拠だぜ」

「……治せるのか。本当の記憶に戻せるのかよ」

 ジジは葉巻をくゆらせ、ニヤリと笑った。その瞳には、残酷な好奇心が宿っている。 「治す? 違うな。剥がすんだよ、その綺麗な化けの皮を。だがな、あんた。一度剥がしちまったら、二度と元の『綺麗な思い出』には戻れないぜ。地獄の蓋を開けるようなもんだ。それでもいいのか?」

 カイは、自分の右腕を見た。  そこには、家賃滞納による「強制徴収」のカウントダウンが表示されている。あと六時間。  どのみち、このままでは自分は「無」になる。

「……やってくれ。俺が信じてきたものが嘘なら、俺はもう、自分が誰なのかさえ分からない。本当のことを知って、死にたい」

 ジジは肩をすくめ、カイの頭に古びた電極を繋いだ。 「いいだろう。じゃあ、ダイブするぜ。あんたの脳が、あんたを守るために必死に隠した――『真実』の地層までな」

 強烈な電気ショックと共に、カイの意識は泥濘(ぬかるみ)のような深淵へと沈んでいった。  第1章で売った「初恋」の空っぽな穴を通り抜け、もっと深く、もっと暗い、彼が二十年間一度も開けなかった「重い鉄の扉」の前へ。

 カイは震える手で、その扉の取っ手に触れた。  瞬間に、記憶の壁が剥がれ落ちる。  美しい夕暮れの色が、どす黒い夜の色へと反転し、母の穏やかな声が、呪詛のような響きを帯びて変貌していく。

第3章:書き換えられた残酷
 鉄の扉が開いた瞬間、脳内を襲ったのは、暴力的なまでの冷気だった。  視界が明転する。そこは先ほどまで見ていた「美しい病室」ではなかった。

 病室の照明は切れかかって点滅し、壁にはシミが浮いている。夕陽のオレンジ色は、どす黒い沈殿物のような色に変色していた。  ベッドに横たわる母の顔には、慈愛など微塵もなかった。そこにあるのは、死への恐怖と、やり場のない怒りに焼き尽くされた女の形相だった。

 幼いカイが、震える手で母の手を握ろうとする。だが、母はその手を忌々しげに振り払った。  酸素マスクの奥から漏れたのは、祈りの言葉ではなく、呪いだった。

「……あんたさえ、あんたさえいなければ」

 母の瞳が、憎しみを込めてカイを射抜く。 「あんたのせいで、私の人生は台無しよ。……顔も見たくない。死ぬ時くらい、一人にさせてよ」

 それが、真実だった。  母はカイを宝物だなんて思っていなかった。生活苦と病魔に蝕まれ、最後に残った僅かな生命力を、息子への恨みとして吐き出したのだ。

 あまりの残酷さに、十歳のカイの精神は耐えられなかった。だから、脳が回路を焼き切る直前で、物語を書き換えたのだ。最悪の絶望から自分を守るために、母の言葉を「愛」へと、その表情を「微笑」へと。二十年間、彼は自分自身が作り上げた『優しい嘘』を、命綱にして生きてきたのだ。

「――がはっ!」

 カイは現実世界へ引き戻され、激しく嘔吐した。ジジの店の床に四つん這いになり、涙と涎が混じったものを吐き出す。  脳内では、黄金色だった「最期の思い出」が、どす黒いヘドロのようなデータに成り果てていた。

「……見たようだな。それが真実だ」  ジジが冷たく言い放つ。「そいつはもう、一銭の価値もねえ。市場じゃ『汚染データ』扱いだ。誰も他人の呪いなんて買いたかねえからな」

 カイは力なく笑った。  家賃の支払い期限まで、あと一時間。手元には、金にならない「母の呪い」だけが残っている。  店を出ると、冷たい雨が降り始めていた。住む場所を失い、自分の過去さえ毒に変わったカイが、雨に打たれながら立ち尽くしていると、背後から聞き慣れた声がした。

「……やっぱり、ここに来てたか」

 タケルだった。居酒屋で見せた陽気な姿はなく、目元を鋭く尖らせ、何かを決意したような顔をしている。

「タケル、悪い。もう俺には、酒を奢る記憶も残ってないんだ」

「そんなのはどうでもいい。……お前も『不適格』を食らったんだろ。俺もさ」  タケルが差し出した端末には、カイが見たものと同じエラーログが表示されていた。 「いいか、カイ。このシステムは狂ってる。富裕層が好む『綺麗な嘘』だけを価値とし、俺たちの泥臭い『真実』をエラーとして排除してやがるんだ。俺たちの思い出をゴミと切り捨てることで、奴らは俺たちの人間性そのものを支配しようとしてるんだよ」

 カイは、脳裏にこびりついた母の罵声を反芻した。  あの呪いは残酷だった。だが、あれはあの格差社会で、壊れるまで戦った母の「生の痕跡」そのものだったはずだ。それを価値がないと誰が決める。

「……タケル。この『ゴミ』と判定された記憶、消さずに持っておくよ。これが、俺の唯一の『本物』だからな」

「その意気だ。……実は、この『エラー』こそが、システムの唯一の弱点、つまりジャマリなんだ。不純物として排除できない、重たすぎる真実のデータ。これを使って、システムの心臓部に風穴を開けてやろうぜ」

 カイは、自分のこめかみにデバイスを当てた。  家賃の期限が過ぎ、網膜に「居住権抹消」の赤い文字が躍る。  今日から、彼はホームレスだ。社会からは「いないもの」として扱われるだろう。

 だが、その瞳にはかつてない光が宿っていた。  すべてを断捨離し、残ったのは最低最悪の、けれど最高に愛おしい自分自身の欠片。

「行こう、タケル。俺たちの価値は、俺たちで決める」

 二人は、ネオンが反射する水溜りを力強く踏みつけ、暗い路地裏へと消えていった。  彼らが抱える「ゴミ」のような記憶が、やがてこの嘘にまみれた街を揺るがす巨大なバグになることを、メモリー・シティの支配者たちはまだ知らない。

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