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第4章:亡霊たちの潜伏
強制徴収の執行は、魂を紙ヤスリで削るような作業だった。 カイがスラムの路地裏で目覚めたとき、彼の脳内からは「言葉の語彙」の三割と、「計算能力」、そして「自転車の乗り方」といった実用的な技能が失われていた。エターナル・アーカイブの執行官たちは、金にならない感情などは見向きもせず、市場で即座に換金できる「知的なリソース」を根こそぎ奪っていったのだ。
「……くそ、身体が思うように動かねえ……」
カイは、廃棄された冷却ファンが回る異音の中で、震える手をついて起き上がった。そこは「中身のない抜け殻(ホロウ)」たちが集まる、通称『ジャンク・ヤード』。かつては社会を支えていたエンジニアや教師たちが、記憶をすべて吸い取られ、ただ呼吸をするだけの肉塊となって転がっている。
「無茶するな。ニューロンの結合を無理やり引き剥がされたんだ。三日は眩暈(めまい)が取れないぜ」
段ボールと基板を重ねた粗末な寝床から、タケルが顔を出した。彼もまた、数日前にすべてを失っていた。かつての快活な面影はなく、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。しかし、その瞳の奥には、濁った炎のような執念が宿っていた。
二人は、炊き出しの代わりに配られる、味も栄養もない薄い合成粥を啜りながら、小声で話し始めた。
「タケル、お前……言ってたよな。このシステムは詐欺だって」
「ああ。俺は確信したよ。俺が売ろうとした『娘の結婚式の記憶』、あんなに鮮明で、あんなに俺の心を温めてくれたものが、なぜ『非真正』なんてエラーで弾かれたのか……。ジジのところへ行って、俺も剥がしてもらったんだよ。……そうしたら、出てきたのは真っ黒な現実だった」
タケルは、震える手で自分の頭を叩いた。 「実際には、俺は娘の結婚式に出させてもらえなかったんだ。借金まみれで、親子の縁を切られてな。俺は式の当日、教会の外で一人で酒を飲んで寝てた。……でも、俺の脳は、自分を壊さないために『バージンロードを一緒に歩く夢』を見せたんだ。システムは、それを『ゴミ』だと言って捨てた」
カイは、自分の母の記憶を思い出す。 母の呪い。絶望。それもまた、システムにとっては価値のない「汚染データ」だ。
「いいか、カイ。メモリー・ドレインが買い取っているのは、単なる『事実』じゃない。奴らが欲しがっているのは、社会の不都合な部分を綺麗に濾過した『合成された幸福』だけなんだ。貧困、差別、怒り、後悔……。そういった、システムにとって毒になる記憶を『エラー』として排除し、俺たちをゴミ捨て場へ追い込む。そうすることで、街の『平均的な幸福度』を偽装しているんだ」
カイは、自分の胸の奥に居座る「母の罵声」に意識を向けた。 以前はあれほど自分を苦しめたその記憶が、今は不思議と、自分をこの世界に繋ぎ止める唯一の「杭」のように感じられた。
「……じゃあ、俺たちは、システムが『あってはならない』と定義したバグそのものなんだな」
「そうだ。そして、バグにはバグのやり方がある」
タケルは、どこからか拾ってきた旧式のハッキング・デッキを取り出した。 「カイ、お前の持っている『母の呪い』は、純度100パーセントの負のエネルギーだ。これはエターナル・アーカイブの無菌室のようなサーバーにとっては、致死性のウイルスになる。奴らが俺たちから『幸福』を奪ったのなら、俺たちは奴らに『真実の絶望』を返してやるんだ」
二人は、スラムの重苦しい空気の中で、静かに、だが確かな連帯を感じていた。 もはや売るべきものは何もない。失うべきものもない。 あるのは、システムが「存在しない」と決めた、自分たちの醜い過去だけだ。
「作戦を立てよう。……奴らの心臓部に、この毒を叩き込むためのな」
カイは、遠くで輝くアッパー・シティの、偽りの光を見つめた。 その光が、どれほど多くの犠牲者の記憶で燃えているのかを暴くために。
第5章:偽りのパラダイス
アッパー・シティの空気は、肺を刺すようなスラムの埃っぽさとは無縁だった。 高性能の空気清浄機が微細な塵まで取り除き、街路には常に人工的なジャスミンの香りが漂っている。そこを歩く人々は、他人の「自信」や「快活さ」をインストールしているせいか、一様に足取りが軽く、瞳には不自然なほどの輝きが宿っていた。まるで、出来の良すぎる蝋人形たちが歩いているかのような光景だった。
カイとタケルは、盗み出した清掃業者の作業服に身を包み、高級会員制サロン『レーテの園』の裏口に立っていた。 タケルが、ジャンク・ヤードで組み上げた旧式のデコード・キーを通信ポートに差し込む。剥き出しの配線がスパークし、電子の悲鳴を上げた。
「……よし、ロックをバイパスした。いいか、カイ。ここから先は『感情』を殺せ。お前の脳が激しく反応すれば、バイオセンサーに検知される。この場所は、客の『幸福感』を維持するために、不穏な脳波には過敏に反応するからな」
「分かってる……。でも、吐き気がするよ。この匂い」
二人は施設内へと潜り込んだ。 サロンの内部は、静謐な宮殿のようだった。天井からは数千個のクリスタル・センサーがシャンデリアのように垂れ下がり、客たちの微細な脳波を拾って、空間全体に穏やかなアルファ波の音楽を奏でている。 廊下には、歩くたびに足が沈み込むほど柔らかな真綿の絨毯が敷かれ、壁には「幸福の絶頂」を記録したホログラム映像が、額縁の中で永遠に同じ笑顔を繰り返していた。
やがて、二人はメインホールへと辿り着いた。そこには数十台の豪華なリクライニング・ポッドが繭のように並び、富裕層たちがヘッドセットを装着して「夢」を見ていた。 ポッドの隙間からは、過熱したサーバーを冷却するための青白い冷気が漏れ出し、床を這う霧のように広がっている。
カイは、ポッドの横にあるモニターを盗み見た。 そこには、現在再生されている記憶のキャプションが、優雅なフォントで表示されている。
『カテゴリー:家族愛。田舎の祖母が焼いてくれた、手作りクッキーの温もり』 『カテゴリー:達成感。無名ランナーが、市民マラソンで初めて完走した瞬間の歓喜』
カイは息を呑んだ。 そのマラソンの記憶には、見覚えがあった。以前、リコレクションの店で見かけた、脚の不自由な老人が「これしか残っていないんだ」と泣きながら差し出していた記憶だ。あの日、老人が流した本物の涙は濾過され、ここではただの「心地よい刺激」として消費されている。
「……ひどいな。あいつらは、他人が命を削って守ってきた一番大切な瞬間を、デザートみたいに食い散らかしてるんだ」
「それだけじゃないぜ、カイ。見ろ、あそこの『特別室』を」
タケルが顎で示した先には、ガラスの向こう側、一人の老紳士が恍惚とした表情でポッドに横たわっていた。そのモニターに映し出されていたのは――。
『カテゴリー:初恋。放課後の図書室、夕暮れの告白』
カイの心臓が跳ねた。 間違いない。窓から差し込む斜陽の角度、プラタナスの葉が落とす網目のような影。それは、カイが数日前に家賃のために売った、あの「初恋」だった。 老紳士の口元からはだらしなく涎が垂れ、カイが失ったはずの「胸の痛み」を、あたかも自分の輝かしい過去であるかのように味わっていた。カイの魂の欠片が、贅沢品のコレクションに成り下がっていた。
怒りで視界が赤く染まりそうになる。その瞬間、こめかみのバイオセンサーが「不穏」を示す黄色い光を点滅させた。タケルがカイの肩を強く掴み、耳元で低く唸った。
「落ち着け、カイ! センサーが反応してる。今ここで暴れたら、すべてが台無しだ。俺たちの目的を忘れるな」
カイは深く息を吐き、激しい動悸を抑え込んだ。 二人はサロンの最深部、メインサーバーへと繋がるメンテナンス・ダクトへ向かった。 そこは先ほどまでの天国のような空間とは一変し、巨大な排水処理場のような、冷たく湿った機械室だった。
ゴウン、ゴウンと重低音が響き、頭上を走る何本もの太いパイプが、不快な振動を立てている。 「見てみろよ。この濾過槽の底に溜まってる真っ黒な滓(かす)……これが、奴らが捨てた俺たちの真実だ」
タケルが指差す透明なドレンタンクの底には、泥のような黒紫色の液体が沈殿していた。システムが「幸福」を抽出する際に取り除いた、憎しみ、悲しみ、絶望の濃縮液。それは時折、ホログラムのバグのように、歪んだ形を結んでは消える。
「……母さんのあの言葉も、ここに捨てられるはずだったんだな」
「ああ。だが、お前が『プロテクト』をかけたおかげで、その言葉はまだお前の脳内にある。それが、この無菌室のようなシステムに打ち込むための、唯一の本物の弾丸だ」
カイは、自分の頭に手を当てた。 脳内にある「母の呪い」が、サーバーの放つ熱気に反応して、疼くような痛みを発している。 その時、廊下から重厚な金属音が聞こえてきた。武装したセンターの警備ドローンが、不自然に低下した清掃員のバイオサインを感知して接近してきているのだ。
「カイ、ダクトへ急げ! 心臓部はすぐそこだ!」
二人は狭く暗い通路へと滑り込んだ。 偽りのパラダイスの裏側で、彼らは「真実の地獄」を解き放つための秒読みを開始した。
第6章:ジャマリの逆流
メンテナンス・ダクトの奥深く、迷宮の最果てにその「心臓」は鎮座していた。 基幹サーバー『ムネモシュネ』。それは高さ十メートルに及ぶ巨大な円筒形のバイオ・タンクだった。乳白色の培養液の中では、街中の人間から吸い上げられた「幸福な記憶」が、淡い燐光を放つ繊細なニューロンの糸となって、巨大な繭のようにうごめいている。 周囲には無数の冷却パイプが血管のように張り巡らされ、液体窒素が漏れる真っ白な冷気が、カイの膝元を不気味に這っていた。
「……着いたぞ。ここが、この街の『夢』を精製している地獄の台所だ」
タケルが震える手でコンソールに端末を直結させる。背後のダクトからは、警備ドローンの金属脚が床を叩く、カチカチという硬質な音が迫っていた。
「カイ、早くしろ! 接続ポートは中央の神経束(プレクサス)だ。俺がシステムの防御隔壁(ファイアウォール)をこじ開ける。お前はその隙に、脳内の『呪い』を全パルスで叩き込め!」
カイは、サーバーの核へと続く、太く湿った神経インターフェースの前に立った。 冷たい端子をこめかみに当てる。その瞬間、眼球の裏側で火花が散り、脳を沸騰させるような膨大な情報が流れ込んできた。
――視界が、無機質な純白に塗りつぶされる。 カイの意識は、システムの内側、数百万人の「喜び」が濾過され、煮詰められた精神世界へとダイブした。 そこは、どこまでも続くクリスタルの回廊だった。壁一面には、誰かの「プロポーズの言葉」、誰かの「我が子の産声」、誰かの「黄金色の放課後」……。選りすぐられた幸福の断片が、悪趣味なほど完璧に磨き上げられ、宝石のように陳列されている。 『――不当なアクセスを検知。不純物の排除を開始します』
システムの意志が、高周波の耳鳴りとなってカイの精神を圧迫する。あまりの多幸感、あまりの眩しさに、カイが抱える「悲しみ」が砂の城のように崩れそうになる。脳が「もう抵抗をやめて、この甘い海に溶けてしまえ」と命令を出す。
「……ふざけるな。そんな、味のしない嘘に用はない」
カイは、意識の最深部に封印していた「黒い塊」を鷲掴みにした。 二十年間、自分を蝕み、同時に支え続けてきた、あの絶望。 死の床で、母の顔が憎悪で歪んだあの瞬間。酸素マスクの結露。痩せ細った指がシーツを掻きむしる音。そして、愛を期待した十歳の子供に突きつけられた、鉛のような呪詛。
「お前らが『ゴミ』だと捨てたこの記憶が、俺たちが、傷つきながら生きた唯一の証拠だ! 食らえッ!」
カイは、脳内のプロテクトを強引に引き千切った。 解き放たれた「母の呪い」は、真っ黒なインクとなって、純白の回廊へと溢れ出した。 ――『あんたさえいなければ』 その罵声が、バイナリの絶叫となってシステムの調和を切り裂く。
異変は劇的だった。 真っ黒なノイズの触手が、美しい「家族愛」の記憶に絡みつき、その色を奪っていく。 幸せそうに微笑んでいた他人の母の顔が、カイの母の、憎悪に満ちた形相へと書き換えられていく。クッキーの甘い匂いは、腐った花の死臭へと反転し、マラソンの歓喜は、膝を砕くような労役の痛みに変貌を遂げた。
「な、なんだ……!? 逆流が止まらねえ! 濾過槽が破裂するぞ!」 現実世界のタケルが、鳴り止まない警告音の中で叫ぶ。
サーバー室の計器類が次々と火花を散らし、赤い警告灯が真っ白な冷気の中に血のような光を投げかける。 濾過槽の底に沈んでいた数千人分の「黒い滓」たちが、カイの記憶を先導役にして、一気に配管を逆流し始めた。ドレンパイプが耐えきれずに破裂し、どす黒い負の感情データが物理的な火花となって空間を焼き焦がす。
『警告。真正性エラーが連鎖。修復不能。全端末へ――未濾過(リアル)データの配信を開始します』
その瞬間、街中のサロンで、高級住宅街のベッドで、ヘッドセットを装着していた富裕層たちの脳に、直接「猛毒」が注入された。 他人の幸福を買って悦に浸っていた者たちの視界が、突如として真っ暗な「真実」に塗りつぶされる。 「あああああッ!」 サロンのポッドから、老紳士たちが絶叫を上げて転げ落ちる。 彼らがインストールしていた「美しい図書室の初恋」の記憶の中に、カイの母の、あの剥き出しの呪詛が紛れ込んだのだ。夕暮れの光は消え、少女の顔は老女の怨嗟へと変わり、彼らの脳は「幸福」と「絶望」の過負荷でショートした。
サーバー室の中央で、カイは端子を繋いだまま、激しい痙攣を起こしていた。 母の記憶だけではない。システムから逆流してきた数え切れないほどの「名もなき者の絶望」が、彼の神経を通り抜けていく。 だが、カイは笑っていた。 鼻から血を流し、意識が飛びそうになりながらも、そのあまりに重く、あまりに汚い真実の感触が、今、彼をかつてないほど「自分」という存在に繋ぎ止めていた。
「これが……ジャマリの正体だ……。見てるか、母さん。……あんたの呪いが、この嘘まみれの世界を、今、壊してるぜ……」
爆発的な閃光が走り、タンクの中のバイオ・ニューロンが黒く焦げ付いて沈んだ。 サーバー『ムネモシュネ』の脈動が止まり、偽りの天国を維持していた青い光が、ぷつりと消えた。 残されたのは、焦げた電子部品の臭いと、深い、あまりに深い、静寂だった。