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その別れ、買います!
作者: マツタケの香料  (総ページ数: 4ページ)
関連タグ: オリジナル 恋愛 青春 感動 記憶 
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第七章:断捨離の向こう側
 『ムネモシュネ』の心臓部が停止した瞬間、世界は「音」を失ったのではない。世界は、数十年間にわたって強制的に流され続けていた「ノイズ」から、ようやく解放されたのだ。

 カイは、焼き切れたインターフェースから崩れ落ち、熱を帯びた床に突っ伏した。  脳内を駆け抜けた数百万人の絶望の残響が、耳の奥で激しい耳鳴りとなって鳴り響いている。視界の端では、システムの崩壊を告げる緊急灯が、断末魔の鼓動のように赤く明滅していた。

 「……終わった、のか」

 タケルが、火花を散らすコンソールに寄りかかりながら、掠れた声で呟いた。  二人はフラフラと、崩壊を始めたセンターを脱出した。非常階段を駆け上がり、たどり着いたのは、アッパー・シティを見下ろす展望デッキだった。

 そこで彼らが目にしたのは、人類が初めて「忘却の盾」を奪われた瞬間の、壮絶な光景だった。

 常に輝いていたネオンサインは次々と立ち消え、街は深い闇に沈んでいる。だが、その静寂を切り裂いたのは、街の至る所から噴き出した「叫び」だった。  サロンのポッドから這い出した富裕層たちは、高級な衣服を自ら引き千切り、コンクリートに額を打ち付けていた。彼らが買い取ってきた「美しい少年時代の記憶」の裏側から、カイが流し込んだ「母の呪い」と「名もなき者の怨嗟」が、劇物となって溢れ出したのだ。

 「……見ろよ。あそこの大通りの連中を」

 タケルが震える指で下を指した。  かつて優雅に歩いていた市民たちが、互いの襟首を掴み合い、あるいは膝をついて嗚咽している。  自分が誰から記憶を奪ったのか。自分が何を忘れるために金を払ったのか。その「帳尻」が、今、強制的に合わされたのだ。  ある者は、自分が捨てた親の死に際の顔を思い出し、ある者は、自分が裏切った友の背中を思い出した。漂白されていた街は、今、人間らしい「痛み」という名のどす黒い染料で、塗り潰されていく。

 夜明けが、ゆっくりと、だが拒絶できない確信を持って東の空から迫っていた。  太陽の光が、偽りのない冷たさで瓦礫の街を照らし出す。その光は、かつての黄金色のライティングとは違い、隠したい傷跡までを容赦なく暴き立てた。

 カイは、自分の胸の奥に残された、あの「母の記憶」を再びフォーカスした。    ――『あんたさえいなければ』

 不思議だった。以前は心臓を握りつぶされるような苦しみだったその言葉が、今は、冷たい朝の空気のように心地よく感じられた。  母は、絶望していたのだ。  母は、この冷酷な記憶売買社会の歯車になれず、すり潰され、その痛みを息子という唯一の「繋ぎ目」にぶつけるしかなかった。  その醜悪な形相こそが、母がこの世界で「生きた」唯一の、そして最大の反抗だったのだ。

 「母さん……。あんたは、俺を愛してなかったんじゃない。……俺に、この世界の地獄を教えてくれたんだな」

 カイは呟いた。美しい嘘で飾られた「宝物」よりも、この残酷な「呪い」の方が、どれほど深く彼を形作ってきたことか。痛みがあるから、自分はここにいる。悲しみがあるから、自分は他人の悲しみを知ることができる。

 「……これから、世界は長い冬に入るぜ」  タケルが、瓦礫の隙間に腰を下ろし、震える手でタバコに火をつけた。  「記憶を売って楽をしてきた連中も、それを買って誤魔化してきた連中も、みんな、自分の『物語』の重さに耐えなきゃいけないんだ。……死ぬほど苦しいはずだぜ。誰も助けてくれない、自分の地獄だ」

 「ああ。でも、それでいいんだ」  カイは、朝日に照らされた自分の汚れた手を見つめた。  「もう、誰にも自分の物語を編集させない。たとえそれが、呪いだけの物語だったとしてもだ」

 二人は、立ち上がった。  ホームレスとなり、財産も、名前さえも剥ぎ取られた二人。  だが、その眼差しは、メモリー・ドレインの恩恵を受けていた頃の誰よりも澄んでいた。

 街のあちこちで、人々が泣き止み、呆然と空を見上げ始めていた。  それは、希望の夜明けではない。  自分たちが犯した罪と、背負わされた絶望を、一滴残らず引き受けて生きていく「覚悟」を強いられた者たちの、沈黙の始まりだった。

 カイは、朝露に濡れた空気を深く吸い込んだ。肺の奥まで冷たさが染み渡る。  脳内で、母のあの歪んだ笑顔が、今度こそ静かに消えていく。  それは「消滅」ではなく、カイの血肉となり、細胞のひとつひとつに染み込んだ「共生」の完了だった。

 彼はもう、二度と自分を切り売りすることはない。  この重たい真実、この耐え難い痛みこそが、彼が未来という名の荒野へ進むための、世界で唯一の、そして自分だけの地図なのだから。

 光溢れる廃墟の中を、二人の亡霊は、新しい世界の「最初の一歩」を刻む住人として、堂々と、静かに歩み去っていった。    断捨離すべきものなど、最初から何ひとつなかったのだ。  人間を人間たらしめるのは、美しい思い出などではなく、その裏側に潜む「忘れ得ぬ痛み」なのだから。

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