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アイタイモノクローム
日時: 2011/12/22 01:40
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)

   —あの時、僕等は、一体何を夢見ていたのかな?







第一章「頭蓋骨を抱いた人魚」



Prologue

 人魚は存在する。

彼らは美しい姿をした、実体を持つ生き物である。けれどその多くは、尾を捨て、人間として生きている。

人魚は、とても賢い。

何年、何十年、何百年と生き続ける中で、記憶が途切れることは、まず無い。
だから、海の賢者と呼ばれる。

しかし彼らの中でも、時として愚かな者も居る。

一番有名なのが、人間に恋をした、哀れな人魚。彼女は、人間に近づいたばかりに、泡になってしまった。

そんな彼らにとって人間は食べ物である。

彼らはその美しい歌声と姿で人間を水の中に誘いこみ、真珠のような可愛らしい白い歯で、綺麗に肉を平らげてしまう。

そして人間にとって、人魚はクスリである。

不老不死の、特別な薬。人間はそれを手にする為なら、どんなことでもする。
人魚にはそれが理解できない。
彼らは、長く生き続けるのが、どれだけ苦痛で、孤独なのか知っているからである。故に、人魚は人間に強い嫌悪と侮蔑感を抱くと同時に、強く小さな憧れも持っているのである。



 そんな人魚の一匹が、とある村の、とある滝壺に住んでいた。

何百年も孤独な彼女は、ただひたすら死を願って生きていた。いつも胸に抱えている、白い頭蓋骨と共に。

暗い森の奥深く、誰の目にも触れる事がない、大きな岩の壁に囲まれた小さな滝で、
人魚は一人、死を夢に見続けていたのである。

そんな彼女の元に、ある日奇妙な少年がやって来た。

少年は、眉を思い切りしかめた人魚に向かって、こう言い放った。


「僕と友達になってくれる?」


 あの初夏の風は、まだ何も知らなかった少年に、何を告げたかったのだろうか…







柴崎高志の父親は、満州国から帰ってきたばかりの陸軍大尉で、立派な軍人として有名だった。
柴崎家には、子供が三人いる。一人はもう立派な兵隊の、父親に良く似た兄。二人目は士官学校に通っている、母親似のおっとりした弟と、三人目は、まだ幼い妹である。
 高志は十五歳で、母親に似た、明るい色の柔らかな髪と、優しそうな二重の目を持つ、整った顔立ちをした少年だ。線が兄よりもずっと細く、力も弱い。けれど高志は、父や兄の様に、立派な軍人になることを目標としていた。
高志は、大日本帝国が戦争に勝ち続け、清に露西亜と、大国を相手に勝利を収めていたことを、人生の喜びの一部としている。けれども高志は、戦場というものを見たことも、感じた事も無かった。
父は厳格そうに見えて、実は誰よりも優しく、面白い人だった。その包容力ときたら、女性である母が思わず負け惜しみを言う程である。高志はそんな父が大好きで、いつも戦争の話をねだるのだが、父は何故か、その話しをしたがらなかった。高志にはそれが、不思議でならなかった。父にとっても、名誉なはずなのに。
兄が父と入れ替わりに満州へ旅立ち、もう大分経った頃。
母方の祖父が急に倒れ、高志は母と一緒に、祖父の家へ向かった。妹はまだ五歳だが、父が面倒を見る、と自信ありげに宣言したので、二人きりの帰郷だった。
祖父の家は、とても山奥の小さな集落にあった。街は近代化していっているのに、ここだけ江戸時代に取り残されたかのようで、高志はそこがあまり好きでは無かった。

だから今こうして、暇つぶしの為の分厚い本を風呂敷に包んで、田んぼに囲まれたゆるい坂を登っている。
「ねぇ母上、おじい様の家って、こんなに遠かったですっけ…?」
軍人らしくきびきびと歩きながらも、高志が泣きごとを呟く。普段あまり外で走りまわったり、遊んだりしない高志にとって、これはかなりの重労働に感じられたのだが、母の方は着物なのにも関わらず高志よりもズンズン先に進んでいた。
「はぁ〜やぁ〜くぅ〜!日が暮れちゃうから〜!」
と大きな声で叫んで、ニコニコしながらまた歩き出すその背中を、高志はため息をつきながら見ていた。
 時は1943年、夏。
緑豊かな、小さな集落。街は西洋の空気に酔っているが、ここではそんな空気は一切感じられない。かやぶき屋根の古風な民家が建ち並び、青々とした田んぼと畑が民家よりも目立つ。平安時代から存在すると言われる、謎に包まれたこの集落には、暗黙のルールがあった。それは…
『北の森に入らない事』。
北の森。それは、この集落を囲む森林の中でも、もっとも広大で、もっとも豊かな森林。この集落の水源を担っている北の森には、ここの人間なら誰でも近づかない。そして、森の入口には、古びた鳥居が、忘れ去られたように建っている。その鳥居の意味を、誰も知らない。
知っているのは、北の森に行った人間は、絶対に帰って来ないという事だけだ。触らぬ神に祟りなし。母も昔からそう言われて育ってきた。
戦火も、自然災害も、なぜか滅多に振りかからないこの謎の地で。
 高志がまた歩き出した。太陽が南中してしばらく経つ。もう少しで夕方だ。重い風呂敷を背負い直して、シャツの袖をまくったまま、もう目の前に見える古い民家を目指す…

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Re: アイタイモノクローム ( No.6 )
日時: 2011/12/22 01:54
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)




「あの〜、高志さま、いらっしゃいます…か?」
高志が森で右往左往していたその頃。
高志の祖父の家、『山本家』の玄関で、鈴を転がすような可愛らしい声が張り上げられた。しーん、と静まり返った家をひょこりと覗きこんで、少女が首を傾げる。
「…あれ?おかしいですわね…」
怪訝そうに眉根をよせる少女。
少女は、少し栗色がかった腰までの髪を後ろだけ残して、横の部分を、薄紅色をした大きなリボンで結んでいる。綺麗に切りそろえられた前髪が眉のあたりで揺れて、髪と同じ色のくりくりした目が、元気そうに光っていた。少女の名前は、霧宮香。十五歳。
大富豪のご令嬢であり、高志の幼馴染でもある。霧宮瀧永ご自慢の、愛らしい一人娘。
「ああ、つまらないわ、いらっしゃらないなんて…」
香はそう呟くと、鶯色の振り袖を翻して玄関を離れた。ううん、と頭を悩ませる。顎に手を当てて考え事をしているその様子は、まるで刑事のようだった。かんかんに照っているお日様を避けて、木陰に入る。あいにく、愛用のフランス製日傘を、屋敷に忘れてきていた。

実はこの令嬢、高志が母親と二人きりで帰郷してきたことを人伝いに知り、一晩中猛スピードで馬を走らせ、この村へやってきていた。香の屋敷は、ここから遠い。そして、香が居た女学校、梅の宮女学院はもっと遠い。
それを校長ご自慢の馬をちょろまかしてここまで来ていた。
しかも、ここへ来る数分前に、追いかけてきた家政婦から着る者だけを奪い取り、なんと高志の母に家へ泊めてもらえないかと懇願し、OKを貰っている。高志の為ならば、いや、高志に会いたいという自分の欲求の為ならば、どんなことさえもやってのけるこの根性は、高志と初めて出会った時から確実に、段飛ばしで成長している。香の父親は俗に言う親バカで、香のそういった所を、『母親に似て至れ尽くせりだ、良い子だ』と評すものだから、家政婦や召使などは、公認の令嬢の暴挙を、必死で止めらければならなかった。
けれど香の母親は、5年程前に肺を患って亡くなっていた。だから家の者は誰も、彼女がどんなに自分達に迷惑をかけても、なんだかんだで許してしまうのだった。
そして今月に入り、先生との揉め事、イギリスへの留学拒否、寮内での下着泥棒の犯人との取っ組み合いなど、様々な事件の数を更新した出来ごとがこれだ。
…高志さまおっかけ騒動。
香にしてみれば、あの無口で威圧感たっぷりの怖い『高志さまのお兄様』も、力強く優しげな『高志さまのお父様』もいない高志に何かあってはと、心配で心配でたまらなかったうえでの脱走なのだから、従来の、『自分はなんら関係無かったのになんだか気がついたら巻きこまれていた』なんて事件とは区別してほしいかぎりだった。
昨日の夕方頃受け取った、少々汚い字の手紙を懐から取り出す。
それは、最後にここに来た時に、あることを約束した、この村の幼い男の子からの手紙だった。
手紙には、

  かおるおねえちゃんえ

 あのね、たかしくんが あのおうちにかえてきたので、やくそくどおり、
 てがみお かいたよ
 たかしくんは おかあさんと ふたりだけ だそうです。
 うちの おばあちゃんが いてました。
    
               じろう


と記されている。香はその手紙を読み返して。また懐に仕舞った。これは何よりの、高志がここに居るという動かぬ証拠だ。要するにこのお淑やかなお嬢様は、自分が居ない間にいつ高志がここに来ても分かるよう、男の子に金平糖を渡して、諜報活動をさせていた訳だ。
 おしとやか、という言葉よりも、したたかな、がお似合いな香の後ろで、蝉がせわしなく鳴いていた。

Re: アイタイモノクローム ( No.7 )
日時: 2011/12/22 01:54
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)


「高志さまのお母様とおばあ様は畑で、おじい様はお散歩かしら?なら高志さまはどこへ?
せっかく、二人きりになれると思いましたのに…あ、いえ、そういう下心は!……」
一人で何やらぶつぶつ呟いて、火照った顔を白い両手で押さえている。いつもは桜色の頬をした色白の顔が、今や秋の林檎のように赤くなっていた。ぶるぶる、と首を振り、顔から手を離す。
辺りを見回して、突然ツッと目を細めた。
「もしかして……」
高志が、行きそうな場所。何も知らない高志が、行きそうな…。何か胸騒ぎを感じて、香は息を潜めた。
「まさか…北の森……なんてことは…ありませんわよね…?」
少し離れた所に鬱蒼と広がっている暗い森を睨む。一陣の風が、ザワザワと木を揺らしていった。
(…嫌な予感がしますわ…)
高志の変なクセは、当然ながら香も知っていた。高志の持っている下着の数も全部御周知の令嬢は、そのクセも全て含めて、全力で高志を、「愛している」わけだ。
「今、行きますから、香は高志さまを、今、助けに参ります…!」
香はそう呟くと、自分の荷物を置いている山本家の玄関に向かって走り出した。




Re: アイタイモノクローム ( No.8 )
日時: 2011/12/22 01:58
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)





「小僧め……許さん…絶対に許さん…呪ってやる…」
人魚は、赤い宝石細工のような小さな唇を細かに震わせて、美しい顔を怒りに歪めていた。呪ってやる、とブツブツ呟くその姿だけを見ると、まるで西洋の絵画のようだ。
蒼い滝壺の真ん中にポツンと顔を出した苔だらけの岩の上にチョンと腰掛け、長い髪を濡れた体に纏わせながら、尾鰭で水面を叩いているその光景は、神話の中の一場面のようにも、夢の中の一場面のようにも思える程美しく、神秘的であった。
美しい容姿と、素晴らしい歌声を武器に人間を喰らう、海の賢者。
その異名にピッタリなこの人魚は、素晴らしい歌声の代わりに、ひどく禍々しい呪詛を呟いている。それだけの違いだ。
「我に…我に水をかけかえすなぞ……許さん…呪ってやる…」
低い声で、ブツブツと。白い頭蓋骨を、抱えたまま。
実を言うとこの人魚、この頭蓋骨を手放した日は、頭蓋骨を手にしてから今日までの何百年の中、一日も無かった。頭蓋骨の下部分にあるはずの体の骨はもう朽ちて、水底奥深くに沈んだけれど、この頭蓋骨だけは、絶対に手放さないと、人魚が決めていた。
どれだけ淋しくても、どれだけ肉に、愛に餓えても、どれだけ惨めでも、この頭蓋骨さえあれば、人魚は、「自分」のままでいることが出来る。いわば、感情のストッパーのようなものなのだ。
…もう五百年ほど前にここに移って来てから、ずっと。

 人魚は、ふと呪いの言葉を中断したかと思うと、ザブリ、と水の中へ沈んでいった。無数の水滴が、キラキラと光り、踊り、人魚を追うように、ぽちゃん、と元の場所に落ちる。
ほの暗い水中で、人魚の黒い髪が、不吉にうねり、人魚の身体の周りをゆったりと漂っている。人魚の肌は水中で見ると、より一層白く、透き通るようだった。水底の岩の窪みにうずくまり、琥珀色の瞳を水面に向ける。
サメのように縦に伸びた瞳孔が、ぐわん、と大きく広がった。
冷たい、静かな水底。
光が筋になって忍び込み、揺れて、儚げな光の柱を至る所に作っている。魚は、何故か一匹もいない。人間の肋骨と思わしき白い物体が、あちこちに散らばっているだけ。中には、大腿骨のようなものまである。青とも黒ともとれる水底の景色に、真っ白なそれは、真珠のように華をそえていた。単調な、華。五百年程前から、何も変わりはしない。
ゆうらゆうらと、黒い絹が煙のように漂う中、人魚は頭蓋骨の真っ白な額に、そっと顔を近づけ、優しくキスをした。
大事な人にする、唇を少しつけただけのお休みのキスのような、甘くて優しいキス。人魚が、目を開いて、頭蓋骨から唇を離す。その瞳は、ただ冷たい哀しみだけに曇っていた。
孤独と、哀しみと、倦怠。尚も死ねない人魚を苦しめる、その三つの感情。
(……お前とそっくりな魂を持つ小僧…)
人魚が頭蓋骨を見つめながら、無言で語りかける。
(生意気な小僧よ。我に向こうて水を掛けたのだ。
なあ、ユワン…あれは、お前の寄越した者なのか?……)
暗緑色に輝く、長い髪。コバルトブルーの尾鰭が、ピクリと動いた。無表情だった人魚の顔が、複雑な表情にゆっくりと変わっていく。
(それとも…)
人魚が、ゆっくりと瞬きをした。
(それとも、あやつは、お前自身なのか…?ユワンよ…)
ありえない予測。ありえない、期待。人魚は、自分で自分をせせら笑った。
あの世で待ちくたびれた恋人が、わざわざ自分に逢いに来てくれただなんてそんな滑稽な予想を、他に誰が考えよう?
(ユワンよ、いつになったら我を迎えに来てくれる?)
唇が、ギュッと一文字に歪められた。責めるように、愛しむように頭蓋骨を抱きしめる、哀れな人魚。
(我は、もう疲れた…お前の魂と、つまらん小僧の魂を間違えるくらいに、な。面倒なことになったことよ)
人魚は、瞼をゆっくりと閉じた。世界が暗闇に包まれる。すべすべした骨の感触を頬で感じながら、人魚は過去に思いを馳せた。
何度も何度も夢に見た、戻りたくても戻れない、きっと幸せだったハズの、あの時間。この場所を見つけた時、二人は誓い合った。ここで全てを終わらせる事を。この場所で、二つの種族の相対を終結させることを。やがて時は流れて、それから数年が経った頃。
一人は朽ち、一人は、本当に一人ぼっちになった。
これは摂理だ。しかるべき法則だ。それは人魚にも解っていた。人間は、弱いからすぐに死んでしまうのだ。ずっと一緒には居られない。
…滝壺に住むこの人魚は、南の海に住んでいたある人魚のことを知っていた。

人間に、自分達の食べ物に恋をした、一族の裏切り者の、愚かな人魚。彼女は人間達の間では安っぽい悲劇のヒロイン扱いされ、人魚達の世界では、軽蔑された。
…無論、あの人魚は、悲しみから海の泡となって消えたのでは無い。
王子を助け、恋心から歌を歌った訳でも、魔女に頼んで人間の脚をもらった訳でも、その代わりに声が出せなくなった訳でも、王子が殺せなかったから海に飛び込んだ訳でも無い。
真実は、全く違う。
あの人魚は、最初は王子を食べる気でいた。嵐で船が壊れた訳ではない。まず、嵐なら人魚は狩りに出かけない。船に乗っている男達は、「歌い手」と呼ばれる人魚、一族の中でもとびきり容姿が美しく、歌が上手な人魚に、「狩られた」のだ。それが恥ずかしくて「嵐に逢って沈没」ということにしたに過ぎない。
人魚は計画的に狩りをする。
人間を海に誘い込むのは一人の歌い手。それを引き摺りこみ、とどめを刺すのが、数人の「刺し手」である。
愚かなあの人魚は歌い手だった。しかしその人魚はまだ若く、狩りに慣れていなかったので、未熟な歌の束縛から逃れた王子は、水面下で喰いちぎられている家来を置いて、一人泳いで浅瀬まで逃げてしまった。若い人魚は焦り、それを一人で追い掛け、ついに浜辺で王子を手に入れようとした。
しかしその時、運悪く人間の女が近づいて来た。女には、人魚の歌は通じない。だからその人魚は急いで隠れた。結局、若い人魚の初仕事は失敗に終わる。けれどその人魚は、諦めなかった。その理由の隅っこに、その美しい王子へ芽生えた、小さな恋心があったらしい。若い人魚は、誰にも見られない安全な場所で、月夜に自分の尾鰭を乾かした。そして、仮の脚を手に入れた。
人魚は、いつも海で狩りが出来るとは限らない。時には、自分から陸へ上がって狩らなければならないことを、誰かが愚かなその人魚に教えたのだ。人魚全員に備わった、特殊な力のことを。
若い人魚は、狩りで使う歌以外に、人間の言葉を知らなかった。だから口数が少なかっただけなのだが、その並外れた美貌で、見事王子に近づいた。
何年か一緒に過ごすうちに、若い人魚は、王子への恋心が膨らみ、押さえられなくなったのか、とんでもない行動に出た。
王子を自分と同じように永く生きさせる為、人魚の肉を食わすことにしたのだ。
若い人魚は、自分の一族が居る場所を王子に教え、耳栓をして人魚に近づくことを教えてしまった。

Re: アイタイモノクローム ( No.9 )
日時: 2011/12/22 01:59
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)

王子は嬉々としてこれに従い、巧みに人魚を捉え連れて帰り、若い人魚の指示するとおりに調理し、食べた。
生き残った若い人魚の一族は、当然のことながら怒り狂った。
…そして、運命のあの夜。
若い人魚は、愛の告白の為に王子をバルコニーに誘い込んだ。けれど王子はやってこない。若い人魚は不思議に思って、王子の寝室へ行った。王子はそこに居た。大きな水差しを持って。
若い人魚はとっさに逃げた。
何故か。それは、捉えられた人魚が、王子に何か叫んでからというもの、王子が自分に対して妙な態度になったのを感じとっていたからだ。その時人魚は悟った。
王子は知ってしまったのだ。人魚が人間に化けているのを見破る方法を。人間と人魚の見分け方と一緒に。
人魚の脚に、水をかければ、元の姿に戻ってしまうことと、「瞳」を見れば、一発で解ってしまうことを、欲に取り憑かれた王子は知ってしまった。
憐れな若い人魚は、切り立った崖に追い詰められた。
人間の王子は不老不死になりたかった。一匹二匹の人魚を食べただけで、満足はしなかったのだ。若い人魚は、迫りくる王子から逃れようと崖から身を投げた。そうすれば自分は人魚に戻り、逃げられると思ったのであろう。しかし、そこには若い人魚の一族の生き残りが待っていた。一族の裏切り者を処分するべく、小さな歯を覗かせて、ずっと暗い水底に隠れていたのだ。
若く、愚かなその人魚は、海の藻屑となって消えて行った。赤い藻屑となって。

 なぜこの話が人魚の間に広まったのかというと、理由は簡単だ。
「海の賢者」である人魚の、一族の誰かが人間に扮して城に潜り込み、その若い人魚の動向を探っていたからに他ならない。

 人間と関わった人魚は、ろくな運命をたどらない。
 人魚と出会った人間も、また同じ。

 滝壺の人魚は、その話を自己の教訓にしていた。
同じ「歌い手」ならば、同じ失敗をしないように。愚かな人魚にならぬように。広大な亜細亜の海原で、人魚はそう一族と語らいあっていた。もう、ずっとずっと昔のことだ。
今は、この滝壺から、出ようともしないし、出たいとも思わない。愚かな人魚になり下がったのだから、出られない。
ここで一人死を待つしか、人魚に残された道は無いのだ。
(あの小僧が森から出られんことを祈ろう。我の存在を村に広められたら大変だ。悪いが飢え死にしてもらうぞ、愚かな人間の小僧よ)
人魚の白い指が、滑るように頭蓋骨を撫でた。愛しい愛しい、たった一人の「友達」。人間の、少年。
人魚に名前をくれた、優しい少年。
(ああ…しかし不思議な…)
目を閉じたまま、人魚が眉をしかめる。
(なぜあの小僧は、ここまでたどり着いたのだ…?普通ならその前にのたれ死ぬところを。その魂が、ユワンに似ていたことは、関係があるのか?)
分厚い本を小脇に抱えた、変わった服装の少年が、人魚の頭の中をかき回していた。よく似ていた声。少し幼いようでしっかりしている、独特の声。そして、好奇心と知性に彩られた、あの瞳も。
(我には…もう関係無いことだ)
薄く目を開いて、見慣れた岩壁を睨む。滝壺の水は、青くて澄んでいて、とっても冷たい。一年中その温度は変らない。天気の良い昼間は、まるで海中の神殿のように光の柱で飾られるが、夜になると、ただの冷たい闇に姿を変える。全てを凍らせてしまいそうな、無限の闇。もちろんここは海を違って、岩の壁に囲まれている。限りがある。人魚を閉じ込める、要塞のような楽園。
人魚はまたゆっくりと目を閉じた。さっきまで日向ぼっこをしていたせいか、どんよりした眠気が、人魚を侵食していた。
膨大な記憶の海に溺れて行く、頭蓋骨を抱えた人魚。


その夢は、モノ黒で、見えづらい。


Re: アイタイモノクローム ( No.10 )
日時: 2011/12/22 02:01
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)





一人の少年が、ひんやりとした朝靄の中、目を見開いて立っていた。
「それは何?」
おずおずと尋ねるその声は、十三歳のものとは思えないくらい、か細い。質問された、筋骨隆々の男は、ニヤリと笑った。
「高値で売れるものさ。」
そう言って、血だらけで息絶えたそれを、麻の袋へぎゅうぎゅうと詰め込む。少年は吐きそうになったのを必死で押さえて、目をそむけた。切断された、女性の手や胴体。そして、大きな魚のものなのか、鰭がついた、ブツ切りの尾。あまりの血なまぐささに、少年が呻き声を漏らす。
ゴツゴツした岩が無数に突き出た砂浜には、壊れた船と、訳のわからない肉塊、血だまりがあった。
男が何人か、せっせと肉塊を袋に詰めている。少年は家に帰ろうかと思ったが、帰る場所がもう無いことを思い出した。
度重なる倭寇という海賊の襲来のせいで、海岸近くの村々はもう壊滅状態だった。少年の住む村も、例外ではない。ほんの数日前、家が家族と一緒に燃えたばかりだ。
生き残った者は、少年を入れてたった数人。その中でも若い男衆が昨日船を出して、たった今帰って来ていた。少年は、近くの岩に置いてあった、小さな丸い物二つを指差して言った。
「これは何?」
「ん?」
どっかどっかと男が近づいて、少年の指差す方を目を細めて見る。
「ああ、それは耳栓だよ、ユワン。」
その男の後ろから、空の麻袋を持った細身の男が口を出した。近所に住んでいた学識のある男だ。少年はその男の名も知らなかった。麻袋に肉塊を入れやすいように口を大きく開ける作業をしている。細身の男は弱弱しく微笑むと、
「これを採る時はそれを使う決まりなんだよ。」
筋骨隆々の男が頷いた。
「これがなけりゃ俺達、今頃こんなさ。」
そう言って袋に入れた肉塊を振る。血の匂いが、より一層濃くなった。
「それ、どういう意味?」
少年が手で口を覆いながら袋を見つめる。昇りつつある朝日が浜辺の輪郭をはっきりと浮き上がらせていた。今まで見えなかった、女性の生首と思わしき物が数個、遠くに集められているのが嫌でも目に入る。
その生首は、細部まではよく見えないが、髪が異常に長く、比較的整った顔立ちをしているように見えた。憤怒の形相に歪められていることを覗いて。
「…おじさん達、倭寇になるの?」
不意に投げかけられた少年の問いかけに、作業をしていた男達の手が、ピタリと止まった。カモメが唯一、時が静止していないことを証明すかのように薄暗い空を飛び回っている。みんな少年を苦々しい表情で見た。
少年はそれでも引き下がらない。倭寇が、女性や子供を生きたまま捉えて袋に詰めてさらって行くことを少年は知っていた。それを売り飛ばすことも。男達のしていることが、少年にはそれに見えてしょうがなかったのだ。
…たとえ、もう死んでいるものを袋に詰めていたとしても。「…それ、売るんでしょ?」
少年の静かな声に、細身の男が悲しそうに顔を歪める。
「ユワン、それは違う。」
「だって、売るってさっき言ってたじゃないか」
手で口を押さえているので、少々声がくぐもったけれど、少年は、そんなことを気にしていなかった。鋭い視線で、男達の手元を睨んでいる。
「おじさん達のしてることは、倭寇と、一緒だ」
「なんてことを言うんだ、ユワン!俺達は村の為に…」
人懐っこい顔をしたガタイの良い男が喚いたが、細身の男がそれを制した。誰かが疲れ切ったような呻き声を洩らす。
「この子はこれがなんなのか知らない。動揺するのも無理は無い。解ってやってくれ。
いいかい、ユワン。これは、人間じゃない。獣だ。私達は、村を立て直す為に、危険を冒してこれを狩ってきたんだよ。村の為。人殺しなんかしていない」
「嘘だ!」
少年が叫ぶ。
「だってこれはどう見たって、」
「そう、人間だ。上半身だけね。」
細身の男が麻袋を置いて、少年の方に歩み寄る。彼は少年の前の岩に腰掛けると、肉塊を指差した。
「これは人魚だよ。不老不死の薬だ。」
男がほほ笑む。少年は息を呑んだ。
「…人…魚…?」
頭の中が、真っ白になったような、毒気を抜かれたような、変な感覚が少年の中を駆け巡る。人魚。幻の薬。獰猛な、海の獣。少年は生首を見つめた。あれが?と首を傾げる。
「初めて見ただろう?…これらは、全然危険には見えない。」
少年が、男の言葉に、小さく頷いた。細身の男が、うんうん、と頷く。
「けれどこれは、烏みたいなもので、狡賢くて汚い。人間が主食なんだ。海に浮かぶ死肉だって食べる。
生きている人間が好物だけどな。けれど人魚の肉は、良薬。めったに採れない、幻の良薬だ。」
男の目は、不気味に光っていた。少年の背中に、嫌な悪寒が走る。急に自分を取り巻く世界が、この光景が、汚らわしいものに思えて来た。信じられない程浅ましくて、どろどろしている、欲にまみれた世界…
「ど、どうして…」
「?」
「幻の人魚を、どうして捕まえられたの…?」
震える声で、少年は言った。そう。作り話だと信じたかった。幻の人魚が、こうゴロゴロと捕まる訳がない。今見ただけでも、ゆうに十匹はいるだろうか?
「ああ、それなら簡単だ。ユワンにも見せてあげよう。」
え?と、少年の目が見開かれた。
「倭寇が残していった置き土産さ。奴らは人魚の価値を知らないらしい。おいで」
そう言うと男はすくっと立ちあがり、入江の奥にある洞窟へと歩き出した。少年が慌ててそれを追う。足場が岩だらけなので、ついて走るのはやっとだった。



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