複雑・ファジー小説
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- Bloom Of Youth's Season
- 日時: 2024/12/05 00:36
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)
初めまして。あわきおといいます。ゆったりと執筆します。
恋愛小説です!
タイトルの「Bloom Of Youth's Season」は直訳では青春の季節という意味です。最初は分かりやすく日本語のタイトルにしようかなと考えていたのですが、大文字をとっていただくと「BOYS」、少年たち、となるのでなんだか素敵だなと思って分かりにくいですが命名しました(笑)。呼びにくい方に、BOYS、と呼んでいただくのが夢です(笑)。
皆さんに楽しんでいただけるような小説を書けるように頑張ります!
X:【@mum1chan】
(※2017年当時使用していたアカウントが使用できなかったため、別名義のアカウントになります)
※閲覧に関して
・荒らし等はお控えください。
・感想やアドバイス随時お待ちしております!
・みんなで雰囲気のいい掲示板にしましょう〜!
※内容に関して
・犯罪・死に間接的に関わる表現が出ます。苦手な方は閲覧しないようにしてください。
【お知らせ】
2015/0502 スレッド設置
2015/1218 参照300突破
2016/0202 参照400突破
2016/0303 参照500突破
2016/0514 参照600突破
2016/0515 雑談 >>26
2016/1022 参照700突破
2016/1113 参照800突破
2016/1226 参照900突破
2016/1231 雑談 >>35
2017/0306 参照1000突破
2017/0430 参照1100突破
2017/0802 参照1200突破
【目次】
◆プロローグ / 別れの曲
>>01
◆壱 / はじまり
>>02-06 >>09-10
◆弐 / 浮遊症
>>11-16 >>20-23
◆参 / 熱帯夜
>>24-25 >>27-32
◆肆 / 交差点
>>33-34 >>36-38
◆伍 / 溺惑
>>39-41
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.33 )
- 日時: 2016/12/26 19:03
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)
「俺の涙を見た彼女の方が、今にも泣きそうな顔をしていた」
肆◆
頬に生ぬるいものが付着した。なんだろう、なんて思う暇がなく、瞬間には鉄臭い錆のように匂う。目の前で起こっていることは、明らかに殺人だった。母さんは人を殺していた。男の人の腹部から血が流れる。滞りなく、ドクドク、時々小さく飛び散りながら、血を吐き出していた。壁にもたれかかる俺の足元にも血が広がる。床とも体温とも違う妙な温かさが俺に嘔吐物を催促させる。今の状況に何にも説明なんていらないはずなのに、俺は何もかも分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない、けど、怖くて気持ちが悪くて、顔を背けることすらできなかった。動けなかったのだ。細く息をするのが精一杯だった。母さんの嗚咽ともとれる叫び声が聞こえる。それと同時に、自分のズボンがジンワリと濡れていることに気付いた。漏らしたのか、床を伝っていた血がズボンを濡らしたのか分からない。そんなことどうでもよかった。相手の顔を見なければよかったのに、俺の眼球は意志に従わなかった。人間の最後の顔は醜かった。涎も鼻水も涙も、血も。汚くて、俺は手を口に当てた。手の平からも鉄の匂いがして、強く逆流してきたものを一気に吐き出す。何も入っていない胃が悲鳴を上げて、涎と嗚咽が俺の口から吐き出される。辛くて、どうしようもなくて、目から涙が千切れた。
何時間、いや何分だったかもしれない。少し経って、急に包丁が床に落ちる音が部屋に響いて、思わず肩を震わせて驚いてしまう。怖くなって顔を上げると、男の人は床に転がったまま動かなくなっていた。俺の目の前にドスンと崩れ落ちてきたのは、まぎれもなく俺の母親だった。彼女は血だらけだった。視界の端に映る彼を殺したのは母さんだと分かっているはずなのに、どうして血だらけなんだろう、大丈夫かな、とすら思った。彼女に見つめられて、どうすればいいか分からずに、俺も彼女を見つめた。それから初めて、これからどうなるんだろう、と思った。母さんとはもう、会えなくなるのかもしれない。父さんはどんな顔をするんだろう。俺が小学生になる頃建てた家だった。三人でずっと楽しく暮らしていくはずだった。どうして俺と母さんはこんなに泣いているんだろう。母さんが血だらけの両手で俺の頬を包んだ。母さんの匂いがしない。
「ごめんね、奏、ごめんね……もう会えないんだ、奏……」
母さんも同じことを考えていた。だから、独り言のような母さんの言葉に「うん」と頷いた。母さんは声を上げて泣いた。
「一生懸命生きて……、周りに何を言われても、お父さんと幸せに暮らすんだよ。……今見たことは、もう思い出しちゃ駄目よ。……奏、奏……」
また、うん、と頷いたけど、約束はできそうになかった。この匂い、忘れるわけがなかった。あの人の顔、忘れられない。母さんと話してても脳裏に浮かぶ。気持ちが悪かった。もうあの男の人は死んでいる。母さんが俺を抱きしめる。鼻に擦れる彼女の衣類は鉄臭くて、ああ、この人は母さんじゃないんだ、と思った。母さんも、もう死んでいた。俺も死にたい。……かあさん。無意識に口から漏れ出た言葉とともに、俺の全部を彼女の肩に乗せてしまったような気がした。警察のサイレンが近くに鳴っている。彼女の腕の力が強くなった。ごめんね、と繰り返し言う彼女の背中に腕を回す。部屋の静寂の中、インターホンが響く。一回、二回、三回……。鍵が開いてドアが開く。ばいばい、と耳元で聞こえたような気がした。
父さんが警察と一緒に来て、血だらけの俺を抱きしめた。「奏が無事で良かった」と言われたけど、俺は別に無事ではなかった。この世の終わりを見たような気がした。昨日までの高槻奏はいない。あの頃と同じようには振舞えない。仲が良かった友達の顔が頭の中でぼんやりと並んでいる。一緒に笑ってきた三年間は、全部他人の記憶だったかもしれない、とすら思えてくる。俺が今までどんな奴だったかとか、どんな奴と関わってきたとか、もう今の俺には関係のないことだった。高槻奏は、母親と一緒に死んでしまった。
「こいつ、なんで本当生きてんの」
「犯罪者の息子のくせに」
噂というのは子供も大人も大好きで、俺の母さんのことはあることないこと尾ひれがついて近所に広まった。通学路にも教室のドアの向こうにもたくさんの敵を作って、完全に孤立してしまった。大きな会社で勤めていた父さんはそれを辞めたし、俺は完全にいじめの標的になってしまった。あの日から、俺の生活は一変してしまったのだ。
「聞こえねえフリすんなよ。お前、ちょっとこっち来いよ」
井上が俺の腕を引っ張る。抵抗しても無駄だということは一週間で分かった。——井上、と叫びたかった。あんなにたくさん遊んだのに。一緒の高校行こうって約束したのに。何にもなかったことにしてるお前のことが、俺はどうしても分からない。教室の真ん中に引っ張り出されて、井上たちが乱暴に机をよける。丸い円状にそれらをはけ終わると、井上と俺だけが円の中に取り残される。呆然と立ち尽くす俺を見て井上はほくそ笑む。
井上の拳が俺の腹で鈍く音を鳴らした。低い歓声と小さな悲鳴が混ざり合う。……こんな風じゃなかった。俺の知っている三年二組の教室はもっと居心地の良い場所だった。……好きだった。
頬を殴られて、口の中が血だらけになった。拳が鼻に当たって鼻血が出る。顔全体がぼんやりと痛み出す。どこが痛いのか、自分が悲しいのか怒っているのか、何にも分からなくなった。倒れて動けなくなった俺を囲んで楽しそうに笑うクラスメイトが薄目に見えた。俺が積み上げてきたものはこんなものだったのか、案外つまらないなあ。視界がだんだん狭くなっていく。もう何も見たくない。目を瞑ったら楽になれる。
「……はは」
瞼の裏に映ったのは、人間最後の顔だった。鉄臭いのが鼻を掠めて、「何笑ってんだよ、気持ちわりぃ」井上の言葉で大きく笑いだすクラスメイトの声を聞きながら、俺は小さく笑い続ける。俺の居場所はどこにもなかった。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.34 )
- 日時: 2017/01/29 13:57
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)
声を荒らげると笑われて、歯を食いしばるとまた笑われる。体にたくさん痣を作って帰ると、父さんはいつも心配そうにした。遠くへ引っ越すにもお金がいる。仕事を変えたばかりの父さんには無理だった。どこにも行けない。ここは思ったより住みづらい町だった。
母さんとは、あの日以来一度も会ってない。昔から周りの人より弱い人だった。そして何より、父さんのことが大好きだった。父さんの帰りが遅れると泣いて暴れ、父さんが仕事の弱音を吐けば、上司を殺した。病院へ何度も父さんと通っていた。友達のお母さんと比べたらおかしい母親ということは分かっていたけれど、俺は母さんのことが好きだった。
机をはけて一方的に殴られるクソみたいなゲームはそれから一週間に一、二回くらいのペースで放課後に行われた。最初は悲鳴を上げて中止を促していた女子も、段々と目に慣れてきたのか、知らないふりをして教室の隅で世間話をするようになった。いつも俺と井上にくっついていた奴らが薄く笑いを浮かべているのを見て、グ、と拳を握りしめる。……やり返したら、絶対に悪者にされる。分かっていたから何もできなかった。
保健室の先生も、担任の先生も、俺の傷や状況の変化に深く言及しようとはしない。ある程度心配の言葉を並べると気まずそうにする。それならいっそ何も言ってくれない方が良かった。
「やっべ、血ィついた、きも」
周りの乾いた笑いとともに井上も楽しそうに笑う。
泣いたら負けだと思う。何をしても笑われるなら、せめて涙だけはこいつらに見せてはいけないと心の奥で決めていた。
ああすっきりした、と井上が満足そうに手を叩くと、野次馬たちがゆのろのろとカバンを持って立ち去る準備をする。もう彼らは俺に興味がない。彼らにあるのは“どうすれば井上に気に入られるか”ということだけだ。
目を瞑る。「じゃあな、奏」と井上の声が遠くで聞こえて、それから教室のドアが勢いよく閉められた。全身の力が一気に抜けて、荒く酸素を貪りながら目を開ける。霞んだ天井が見えた。
鼻を拭うと、俺の白い腕に鼻血が付く。
その刹那にはもう俺はあの場所にいた。フラッシュバックだ、と思う暇もなく、衣服に血が飛び散る。空気が重い。うまく息が吸えない。血は赤い。母さんが泣いている。体が動かない。
「おい」
低い声が俺を教室へ戻す。意識の戻ってきた俺の視界の中には、井上のしかめっ面があった。あいつは俺と目が合うと更に眉を寄せて怒ったような顔をする。横になっている俺を覗き込む井上。何してるんだろう。彼の顔を見ていると、井上の方も表情を変えずに押し黙っている。
「……なに」
「何って、何。忘れ物取りに来ただけなんだけど」
久しぶりに会話した井上の声は酷く低く、冷たかった。
井上はふいと顔を背けると自分の席へ歩いていく。しばらくして、忘れ物とやらを見つけたのかガタン、と小さく音がして、足音が聞こえる。足音はドアの方へ向かってどんどん遠ざかっていく。
——なんで俺、ちょっと期待してたんだろう。近づいてこないあいつの足音で、どうして俺はこんなに悲しくなっているんだろう。また天井が霞んで見える。瞬きをすれば零れてしまいそうだった。
「あの、さあ」
ドアの方にいるはずの井上が、また声を上げた。目をそちらに向けられないでいる。俺の視界は揺れた天井のままだ。
「一緒の高校行くって約束したの、まだ覚えてたりすんの」
唐突な質問に、我慢していた涙が頬を伝って地面を濡らす。どうか井上がこっちを見ていませんように、と願いながらそれを拭う。
何なんだ、突然。お前はいつも突然すぎるんだって。喉まで出かかった言葉が、嗚咽によって飲み込まれる。井上の息遣いが聞こえる。多分彼は今俺を見ている。慌てて腕で目元を隠すようにすると、先ほど拭った赤いものが俺のそこにこびりついていた。……体が急に冷えていくのを感じる。そうか。これは確認じゃない。許しを請うているのだと分かった。
「……もう覚えてない」
今更、虫のいい話だった。
「……あっそ」
分かった、と最後小さく聞こえて、ドアが閉まる質素な音を聞いた。
大きく嗚咽が漏れる。余力で上半身を起こすと、誰にも言えなかった感情が一つ二つ、雫になって俺の頬を濡らす。その感情が唇まで伝う。しょっぱい。そうか俺、今、泣いてるんだ。拭っても拭っても涙は止まらなかった。
これまでの自分は捨てたなんて言っていたけど、俺は、母さんが殺人をしたあの日から、ずっと、ずっと、溺れていた。そんな素振りを誰にも見せられずにいただけで、ずっと。ずっと苦しかった。彼だけは味方をしてくれるんじゃないかと思っていた。あのとき井上は俺を捨てたのだと思っていた。だけど、俺は井上を捨ててしまった。彼が俺を捨てるより前に。
喉が高い音を出してヒクつく。もう限界だった。
ドアがさっきよりも慎重に開く。——井上、かもしれない。
「いのう、」
彼の名前を言いかけて、止まった。……違う。市原藍。隣の家で、隣のクラス。まだ止まらない雫を慌てて腕で隠す。
「え、……あ、えっと」
困ったように目をそらして、足を小さくジタバタさせる。彼女の困惑は痛いほど分かる。
あの、とか、えっと、とか、まだ小さく繰り返す藍に小さく笑う。
「……もういい。分かってるよ」
立ち上がって、じゃあ、と彼女に声をかけて教室を出ていく。少し行ったところで、奏、と彼女の声が聞こえたみたいだったが振り向かなかった。
俺の涙を見た彼女の方が、今にも泣きそうな顔をしていたのは何故だろう。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.35 )
- 日時: 2016/12/31 23:59
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)
◆雑談
こんばんは。あわきおです。もうすぐで2016年が終わります。どうしますかどうしますか、何かしたいですね。浅見家と立花家はどっちかの家に集まってパーティーしてそうです。立花家のお庭は広そうなので(←)、美音の提案で二人で1月1日0時00分にジャンプして「2017年のはじまりの瞬間いませんでしたー!」ってやってそうです。付き合ってくれちゃう優に感謝ですよ、美音ちゃん。藍ちゃんは、そうですね……、いつも通り優しい母と父と年越しそば食べてそうです。素敵家族(^_^)! 藍ちゃんはこの四人の中では比較的普通の家庭に生まれて普通に育てられた感じの子ですね。フッツーの子、なはず。美音も優も普通な感じがしますが、他の兄弟の末っ子だったりして、あんまり構ってもらえなかったという裏話があります。どうしてこんなところで暴露してるんだろう。こんなことしてる間に55分になってしまいました。えーと、高槻家はお察しの通り、あんまり贅沢はできないのでは? 私、この話を作ったときに、自分で何にも動かない奏くんが本当に嫌いで扱いにくかったんですが、でも、奏くんをかわいそうにするのが本当に気持ちよくて(最低)、もうある種の性癖だと思い始めてます。だから、年末も彼はきっとコンビニ弁当ですね。
さて。今年もたくさんの人と交流することができました。本当にありがとうございます。
来年もよろしくお願いします。
さようなら、2016。こんにちは、2017。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.36 )
- 日時: 2017/01/27 21:47
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)
——奏のピアノが一番綺麗だったね。いつかもっと大きなホールでお母さんのために弾いてほしいな……。
母さんが笑ってる。白い肌に唇がよく映える。家の中でも化粧を欠かさない人だった。母さんはいつ見ても綺麗な俺の母親で、弱くて脆くて、守ってあげたかった。
——うん。分かったよ、母さん。大きいホールでたくさんの人の前で、母さんのためだけに弾いてあげる。たくさん練習して、母さんの一番好きな曲を弾くからね。
綺麗に笑った母さんの顔。目を合わせて笑ったはずなのに、あのときの母さんの顔が思い出せない。……母さんって、どんな顔してたっけ。見上げて彼女の顔を見たいのに体が動かない。赤い唇しか見えなかった。ありがとう、と唇が動いた。そういえば母さんの一番好きな曲って、
——ごめんね、奏。
「ぅあ……! は、はぁっ……!」
目を開けると、そこは殺風景な俺の部屋だった。しばらく肩で息をしていると、奏、と俺の名前を呼ぶ低い囁きが聞こえる。目玉だけでそちらを見ると、ベッドの横に父さんが座っていた。心配そうに俺を見つめる彼の目と、焦点の合っていない俺の目が合う。父さんの手に握られたタオルが俺の首に優しく触れた。冷たいそれが俺の汗を吸い取っていく。
あの日から何度も何度も母さんの夢を見る。白い肌に赤い血がよく映えた母さん。足の先から生ぬるい人の血の感触が伝う。目が覚めると、いつも父さんがいる。心配そうに俺を見て、汗を拭う。大丈夫かと聞かれて、俺が頷く。
もう大丈夫と伝えると、そうかと彼は俺の頭を撫でる。弱々しく笑った彼の顔が薄暗い部屋の中でも簡単に想像できた。学校よりももっと尺度の広い世界で肩身の狭い思いをしている父さんの方が俺よりずっと疲れているはずだった。今まで母さんに任せきりだった家事も今はほとんど父さんが行っていて、我慢して俺には疲労を見せないようにしているんだろうけど、きっとすぐにボロが出る。ここのところ、俺の睡眠を自分の力で確保しようとするあまり、自分の睡眠時間を削っているのに彼は気づいていない。
「父さん、俺もう寝るよ?」
「うん。おやすみ」
「……そうじゃなくて、もう大丈夫だから。ありがと、もう父さんも寝たら」
相変わらず不安そうに俺の頭を撫で続ける父さんに注意を喚起する。俺に甘い母さんの代わりに、父さんは少し厳しい人だった。仕事も忙しいみたいだったからきちんと話せるのは日勤の夕食くらいで、俺の世話も授業参観もピアノの発表会も、全部してくれたのは母さんだ。二人きりの生活になってからそんな余裕がなくなってきているのか、俺のことは一切叱らないようになったし、むしろ慣れない料理で失敗したり、やっと見つかった仕事から帰ってきたら俺の世話や家のことで休み暇がなく失敗が多い。ごめんと謝ることが多くなった。
はだけた毛布を俺に掛けなおしながら、本当にもう大丈夫なのかと父さんは聞く。冷たい毛布に俺の体温が伝っていくのが分かる。文字に表せないような生返事をした後、俺は父さんに背を向けた。
“殺人プロレス”と影で名付けられていたあの行為はあの日を境にぴったりと止んだものの、誰かが俺の味方をしてくれるわけでもなく、俺が一人で行動するのに変わりなかった。井上たちの小さな嫌がらせはそれからもずっと続いて、あのときの言葉の続きが聞けることはもう二度となかった。井上の方も取り巻きに言った雰囲気はなかったし、俺もわざわざ掘り返そうと思わなかった。
早くここから離れたかった。味方やそばにいてくれる人が欲しいわけなじゃない。ただ、“高槻奏”という人間が意識されないところに行きたかった。住みづらい町に一変したこの場所で、いつまでも静かに周りの人から注目されて生きていくのが苦痛だった。
物心つくときから俺はピアノを弾いていた。母さんがやらせたがったらしい。アウトドアで野球少年だった父さんは、スポーツ中継を見て、「野球をやらせれば良かった」「ピアノなんて女々しいじゃないか」といつも悔しそうにしていた。だけど俺は結構ピアノを弾くのが好きだった。何でも少しやってみれば人並みにできたし、勉強もピアノも、人間関係だって、あんまり苦労せずにやってきた。自分で「俺は器用な奴なんだなあ」と自負していたほどだった。合唱発表会ではいつも頼まれて伴奏役をした。何より、こういうときに母さんが喜んでくれるのが一番うれしかったのだ。
「え、……伴奏、」
「うん、あの……、難しい曲でさ、なかなか今の伴奏の子じゃ弾けなくってさ。でも、みんなで歌える最後の曲じゃん? 変えたくないんだよね。奏なら、……弾けるかなって思ったんだけど」
気まずそうに目の前の女子は俺から目を逸らす。右手に握られている指揮棒がかすかに震えていた。
「……弾かない。もう弾けない」
「そんな、困るよ。アンタがやってくれると思って……こっちは……」
頭下げてやってんのに、と、聞こえたような気がした。彼女から屈辱の表情が伺える。——すごいね、奏。母さんの声が、頭の中で何度も何度も反響した。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.37 )
- 日時: 2024/12/03 17:11
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)
卒業式の伴奏代打は俺の承諾なしで既に先生たちに報告されていた。指揮者の女子が焦るのも分かる。困るからと必死で懇願されて結局断ることができなかった。同じクラスになったことはないが、合唱部の部員で、俺が伴奏をしていた頃も何回か指揮をしていた女子だった。話をしたこともあるし、名前で呼び合う仲でもあった。思い出そうとすれば彼女の名前はすぐに出てくるのに、頭の中でそれがぼんやりと薄くなっていて、そんな気力もなくなってしまった。強制的に渡された楽譜を見つめながら帰り道を歩く。弾けないというのはあながち嘘ではない。俺のピアノに熱心だった母さんが家からいなくなってから俺はピアノに一切触れていない。あんなに好きだったはずなのに。ピアノを弾くことも、母さんのことも。
楽譜を読み込んでいるうちに家に到着していて、俺は表札を覆うようにある罵詈雑言の張り紙を一気に剥がした。恒例の作業のようになってきたのだが、最初はいちいち内容を確認してショックを受けていた自分もいた。玄関にも数枚見つけて、勢いよく剥がす。テープの剥がし残しがあったけど気にしなかった。
ただいま、と声をかけても返事がない。夕方から仕事の父さんはいるはずだった。耳をすますと、父さんのワントーン上がった声がリビングの方から聞こえた。どうやら電話をしているようだった。“殺人プロレス”がなくなったおかげでほとんど傷がない状態で帰ってくる俺を見て、俺に対する嫌がらせがなくなってきていると安心している彼は、最近少し顔色が良くなった。良くも悪くも素直で情に厚い人だから安心した。これ以上俺のことであんまり心配させたくないのだ。張り紙を丸めてゴミ箱に投げ、制服のボタンに手をやる。ちょうど電話を終えた父さんはリビングから出てきて「おかえり」と俺に声をかける。
「ただいま」
「今担任の先生から電話があったぞ。奏、卒業式の最後の曲、伴奏やるんだって?」
「電話きたの? うん……断ったんだけど、楽譜まで渡されちゃったから」
笑顔の父さんに、渡された楽譜をペラペラと揺らして見せる。
「すごい。難しい曲なんだってな。頑張れよ、奏」
乱暴に頭を撫でられて髪の毛が跳ね上がる。彼に褒められた自分自身が意外で相当驚いた顔をしていたのか、父さんは恥ずかしそうに眉を寄せて笑った。
三年に進級したとき、一人でいる俺に話しかけてくれたのが井上だった。明るくて積極的で誰にでも平等に接することができる井上。あのときどうして俺を選んでくれたのかは分からないままだ。数人の友人と可も不可もなく生活していた俺と彼とではその当時あまりにも非対称だった。
風の便りで、井上は西高校を志願するのだと聞いた。あの頃、二人で一緒に行こうと約束したところ。登校も自転車で数十分のところにあり、偏差値も県内でトップ一を争う高校だ。「一緒に行きたい」と井上が言い出したから一生懸命勉強したのに、途中になったら「制服がダサい」だの「勉強できない」だの文句を言いだしたりして、それからたくさんのことが重なって結局あの約束はどこかへ行ってしまった。
早く遠くへ行きたい。高校は行った方がいいと父さんや担任にほぼ強制されたので、西高校よりも遠い空宮高校を選んだ。勉強する意味も分からなくなったし、西高校と比べて少しランクの低い高校にした。担任にここがいいのかと何回も確認されたけど、これでいいやと思った。白い進路希望調査のプリントに小さくて質素な“空宮高等学校”の字を見るたびに、俺の黒い未来が見える気がした。
「奏、お前、空宮受けんだろ?」
その日も進路のことで担任に呼び出されていた。二月に入り、独りでいることに慣れたのはそれより前のことだが、相変わらず夢にうなされる日々が続いていて、俺は若干イライラしていた。クラスメイトの大半は後期入試で受験するのでストレスもあってか、教室全体がピリピリした雰囲気だった。そして発散の標的になったのが俺で、右肩下がりだった嫌がらせの数が倍増した。今まで目をそらしていた奴らが急に俺を見て笑いだす。見ているだけでは足りなくなって手を出して、その快感を知る。そうして戻れなくなる彼らを見て、動物みたいだなあ、なんて呑気なことを思っていた。
教室に戻ったとき、一人残っていた井上は振り返って驚いた顔をした。彼の机に見えた日誌を見て、しまった、日直だったんだ、とすぐに彼から目をそらす。気まずそうにしたのがバレたのか、井上はわざと変に明るく俺に声をかける。第一志望のことがどうしてバレているのか、考えたけど答えが出てくるはずもなく、そっけなく言葉を返す。
「……それが何?」
「本当に西高来ねえのな」
「うん」
「つーか何故に空宮? 去年うちから誰も行ってねーべ」
井上が軽く笑う。関係ないだろ、と小さく言葉を吐いて自分の席へ向かう。カバンを取って、早急にこの場からいなくなりたい。
「もう帰んの?」
「うん」
「なんで」
俺たちの間に亀裂が入っていることなど何にも知らないかのように彼の口はまた笑う。
「……井上も、何で? 何でこうやって俺と話すの? 周りがいないときだけこうやって、……こうやって、どっちの味方もすんなよ、どうしたらいいんだよ、俺」
動く口が止まらなくて、結局思っていたことを全部言葉にしてしまった。教室のドアがいつもより重い。強引にこじ開けるようにして廊下に出る。全開の窓から入ってくる冬の空気が鼻をツンとさせた。