複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 夏のための戯曲
- 日時: 2016/07/14 20:56
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
夏の最初から最後まで、僕らはここにずっといて、灼熱の太陽を浴びている。
高校二年、夏。その日は彼女が自殺した翌日だった。街を焼き尽くすように暑くて、だけど少し風があって、緑の草がさらさらと揺れる音だけがする、静かな日。午後の通学路をチャリで飛ばして、向かうは約束の場所。スピードは少しも緩まない。澄んだ透明の夏を、駆け抜けていった。
1 「夏の最初の日」
>>1->>2->>3->>4->>5->>6
2 「夏の魔物」
3 「さよなら、」
4 「夏の最期の日」
登場人物
田無穂高(たなし ほだか)
桜庭敦史(さくらば あつし)
遠野夢香(とおの ゆめか)
飛澤桐子(ひざわ とうこ)
水原花楓(みずはら かえで)
山川千尋(やまかわ ちひろ)
- Re: 夏のための戯曲 ( No.2 )
- 日時: 2016/05/20 07:53
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: LA9pwbHI)
僕はまた消毒液の匂いの中にいる。平日午後二時の、総合病院の精神科は思っていたより空いていた。
日本の自殺率は、夏休み明け最初の日に大きく跳ね上がるらしい。そんなことが書かれたポスターを眺めながら、僕は自分の名前を呼ばれるのを待つ。その間に、朝に見た飛澤さんの透明な笑顔を何度か思い出しては、少し頭が痛くなった。
顔が綺麗だったなあとか、そんなポジティブなことを回想しているわけではない。あの時僕は、彼女に対してまともな受け答えができただろうか。内心飛澤さんも、僕を馬鹿にしていたりしないだろうか。一度そう思ってしまうと止まらなくて、ついズボンの中のポケットを探ったけど、カッターはなかった。制服をコインランドリーに持っていった時、母が捨ててしまったことを思い出して、また憂鬱になった。
「田無穂高さーん」
穏やかな目をした若い看護師が奥の診察室から出てきて、僕の名前を呼ぶ。
まばらに埋まったソファーに座る人の目を気にしながら立ち上がって、僕は歩き出した。
「君、またなんか嫌なことあったでしょ。顔色も悪いしね」
年齢は30代くらいだろうか。白衣を着た、僕の担当の生野先生は、100円で売ってそうなシンプルなシャーペンをデスクに置いて、僕に言った。
「・・・・・・別に、なにも」
嫌なことは多すぎて、何から話していいのかわからない。自分は学校にも家にも居場所がないと思っている、典型的な思春期をこじらせた子供だ。その現状は痛いくらい理解していて、でも解決策は見つけられないから、精神的にどんどん負の方向に向かっていっているだけで。
「最近の子に多いんだよねぇ。鬱病をファッションと勘違いしてるのか、大したこともないのに精神科に来る若い子が」
先生は、煮え切らない僕を見てそう言い放つ。
具合が悪くなりそうな、エアコンの風を真下で受けている。長袖のワイシャツを着ているとはいえ、寒い。窓越しでもわかるくらい、外はかんかん照りなのに。
今回も薬出しておくから。生野先生はどうでもよさそうに僕に言って、看護師を呼びつけ、メモを取らせた。先生から見ると、僕は「鬱病をファッションと勘違いしている現代の若者」らしい。
僕は自分の事を鬱病だと思ったことはないし、メンタルヘルスは母に無理矢理行かされているだけなので、この先生の対応については特に何も思わない。ただ、こんな寒いところで、よく普通にしていられるなと感じるだけだった。
薬は減らされていた。回復方向に向かっているのなら、よかった。
会計を済ませて薬局を出ると、さっきまで寒かったのが嘘のような熱気が一瞬で僕の体温を上げた。暑い。思わず口にしてしまった言葉さえ、溶けてしまうほどだった。
総合病院の周りはコンビニもツタヤもあって、僕は帰りに平成ポンデライオンのCDでも借りていこうかな、と考える。その途中で、まさか、あいつと会うとは思わなかった。
僕の嫌いなクラスメイトワースト1位の、桜庭敦史。遠目で見てもわかってしまうほど、高い身長と整った顔立ちに、僕は思わずUターンをキメて走り出したくなったけれど、相手に気づかれたら、もう終わりだった。今、何円持ってたっけ。
「田無、奇遇じゃん」
高架橋の向こうからやってきた彼は、教室では到底見せない、僕を嘲けるような表情をしている。その声色だって、教室で友達と話している時より低くて、僕のことが嫌いなんだろうなと嫌でも思ってしまう。
ケンカなんて、中学生の頃の友人と少し殴りあった程度の僕は、自分より身長が20センチくらい高い桜庭を前にして何も出来なくなってしまうのであった。
「お前がこっち方面にいるの珍しいな。どこ行ってたんだよ」
「総合病院」
「こんな季節に風邪かよ」
精神科に行っていたとは言えないので、僕はそこで言葉を濁す。精神科にかかるようになったのは他でもない桜庭のせいだけれど、そんなことは口にできなかった。
僕の父が、桜庭の人生を狂わせた。その腹いせに僕は、桜庭にいじめられている。
元はというと、僕の父親がすべて悪い。若かった僕の父は、桜庭の母親という正式な婚約者が居ながらも、職場の同僚であった僕の母親を妊娠させてしまったのだ。そしてほぼ同時期に、桜庭の母親の妊娠も発覚する。
父は最初は桜庭の母親の元にいて、彼女と正式に結婚をしたが、僕の母との関係も切れず、結局数年後、僕の母親と当時5歳の僕と三人で駆け落ちをした。突然夫が消えた桜庭の母親は悲しみの末、自殺。駆け落ちした僕の両親も長くは続かず、今は元いた場所に帰って、母親がひとりで家計を支えている。
僕と桜庭は、母親は違うけど父親が同じだから、兄弟関係にあたる。「田無って苗字だから予想はしてたけど、まさかこんな奴だったとは思わなかったよ」と、初めて会った時彼は言った。そして、今までの傷みのすべてをぶちまけるように僕を殴り、蹴り、持っていた金を全部奪って、彼は古いアパートへ消えていった。
今日も思いっきり殴られ、血が滲む足を引きずって立ち上がると、大きな倉庫の中に思いっきり突き飛ばされて、外側から鍵をかけられた。さっきまで数千円が入っていた僕の財布が目の前で転がっていて、もうその中に金は入っていなかった。
幸いこの倉庫には大きめの窓が付いているので、ここからは出れる。でも問題は、どうやって家まで帰るかだった。今日の僕の行動スケジュールに、「桜庭敦史と遭遇」と最初からわかっていれば、財布の他にいくらか小銭を持っていったのだが、こうなってしまうともう電車賃がない。このクソ暑い中を、怪我した体を引きずって歩くとなると、気が遠くなりそうだった。
趣味の悪い落書きで埋め尽くされた古い倉庫には、窓があって、何らかの理由で使えなくなった木材がたくさん積まれている以外には何も無い。お金なんて到底落ちていなさそうだ。母は夜まで仕事だから、迎えには来てくれない。
どうしようかと思った時、ふとひとりのクラスメイトが頭に浮かんだ。僕はしばらく迷った結果、スマホを開いて、彼女に連絡を入れた。
- Re: 夏のための戯曲 ( No.3 )
- 日時: 2016/05/22 12:28
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: LA9pwbHI)
「河川敷で転んでそんな怪我するって、天性のアホなのかな、穂高くんは」
ファミレスの涼しさが傷に染みる。目の前でフォークにボロネーゼを絡めているのは、クラスメイトの遠野夢香だった。
僕が電話をしたちょうど三十分後に、彼女はやってきた。放課後に市街地で遊んでいたのか、夏物の制服を身にまとったまま。
僕を見るなり、「ちょっと、どうしたの、その怪我」と目を見開いた遠野は、すぐに鞄からティッシュと絆創膏を取り出して、僕に応急処置を施した。いくら昔からの付き合いでも、クラスメイトの女子に、いじめられていることを言うのは嫌だったので、河川敷で転んだことにした。相当変な転び方をしたとしても、こんな傷にはならないのだけれども。
「お金貸すのはいいけど、一週間以内に返してね。一日ごとに利子が500円ずつ増えるから」
先ほど遠野が貸してくれた一万円札が、僕のポケットに入っている。これから電車で帰るだけなのだから、小銭を少し貸してくれたら、それでいいのに。それを伝えると遠野は、私、今小銭持ってないのと笑った。
僕と遠野は、小学校3年生の頃からずっと同じクラスだ。話をするようになったのは中学生になってからだったような気がする。
遠野は何事においても、他の人より少しだけ優秀で、僕とは違って生きるのが上手い。だから友達も沢山いて、外れがちな僕をうまくクラスの中に入れてくれた。中学生の僕はそんな遠野のことが、多分好きだったんだと思うけど、当時のことはもうほとんど思い出せない。少なくとも、今の遠野に対してそんな感情は無かった。挨拶を交わす程度のクラスメイトであり、それ以上でも以下でもない。だから、こうして呼び出してしまったことに対してけっこうな罪悪感に苛まれている。
さっきから、ごめんと何度謝ったかわからない。いいのいいの、気にしないでと遠野は笑って言うけれど、僕は申し訳なくて遠野が頼んだフライドポテトにも手をつけられなかった。
「ごめん、遠野。絶対金、返すから」
「意外と義理堅いんだね。中学生の時、私のCD借りパクしたくせに」
また懐かしい話を出してきたな、と思った。
遠野に中学生の時貸してもらったスピッツは予想以上に良くて、今でも聴いているくらいだ。僕の家の棚にまだアルバムが置いてある。
いつか返そうと思っていて、返しそびれているうちに、高校生になってしまった。時間が経つのは、早かった。
「ごめん。それも返すよ」
「いいよ、もう。代わりに穂高くんがなんか一つCDちょうだい、それでチャラ」
ボロネーゼをこくんと飲み込んで、遠野は笑う。
ちょうど、今僕のリュックにはCDが一枚入っていることを思い出す。違うクラスの、たったひとりの友人である夏川くんに貸して、今日の放課後返してもらったナンバーガール。割れていなければいいのだけれど、と思いながら、リュックのボタンを開ける。教科書で板挟みになっていたCDは、奇跡的に割れていなかった。
「これでよかったら、あげるよ」
大好きなナンバーガールは、もうスマホに入っているし、このアルバムも、また今度買えばいい。僕はCDを遠野に差し出した。今どきの女の子といった感じの遠野は、きっとジャニーズとか、アイドルソングを聴いているだろうから、「気に入るかどうかわかんないけど」と後出しのように付け加えて。
「こんなの聴くんだ」
夏の制服の女の子が、大きな銃を背負っているシンプルなジャケットイラストを見ながら、遠野は呟いた。そして、CDがちょうど入るくらいの小さな袋に入れて、お菓子やポーチが沢山入っているスクールバッグのチャックを閉めた。
まっすぐの、背中までの黒髪。幅が広くてぱっちりした二重。細くて白い手足。遠野は、クラスの男子の間でも人気がある方だ。近寄り難い高嶺の花の飛澤さんよりも、親しみやすいのだろう。人と話すのが得意ではない僕も、遠野となら人並みくらいにはしゃべることが出来るから、その人気には納得していた。
「会いたいんだ今すぐその角から、飛び出してきてくれないか〜」
ヒットソングを口ずさみ、やけに上機嫌になった遠野が、次は苺と生クリームのパフェをオーダーしようとする。夏の魔物に連れ去られ、と嬉嬉として続きを歌おうとする遠野を阻止して、どこからそんな金が湧いてくるんだと聞くと、少し視線を伏せて彼女は、
「バイトしてるから、実は」
と言った。聞くところによると、今もバイトを抜けてわざわざ来てくれたらしい。ますます申し訳なくなって、また謝ろうとすると、その前に止められた。
「穂高くんから連絡来るなんて珍しいから、何とかしてあげなきゃって思っただけ。気にしないでよ」
屈託のない笑顔を浮かべて、遠野は言う。
僕は、飛澤さんみたいに透明にはなれないし、桜庭みたいに喧嘩が強くもなれないし、遠野みたいに優しくもない。やっと手につけたフライドポテトは、塩が足りなかったのか、何の味もしなかった。
- Re: 夏のための戯曲 ( No.4 )
- 日時: 2016/06/02 16:35
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: LA9pwbHI)
たとえば、僕が今日死んだとしても、跳ね上がった自殺者のたった一人に過ぎないのだろう。9月2日。
目覚めた時、母親は居なかった。たぶん、まだ事務所にいる。テーブルの上には五千円札が置いてあって、これからしばらくの食費に充てろという趣旨のメモ書きが残されていた。
まずは先に遠野に金を返して、残りを桜庭に見つからなさそうな場所に隠しておかなければ。僕は遠野にラインを送った。そして、ひとつ早い電車に乗るため、朝食を抜いて、シャワーを浴びて歯磨きして、家を出た。今日も視界がゆがんで見えるほどの真夏日で、長袖のワイシャツが早速暑くて嫌になって、ボタンを開けて袖を捲る。
左手の手首の、無数の傷は、見ないことにした。
電車に揺られて学校に着いて、教室のドアを開けた。早く来すぎたのか、教室には数名しかいなくて、遠野もまだ来ていなかった。
ひとりで椅子に座っているよりは、どこかで時間を潰したほうがいいかと思い立ち、何の気もなしに廊下を歩く。遠野はいつも、何時頃に来ていたっけ。僕の記憶の中では、遠野は早く来て友達と話をしていることもあるし、遅刻ギリギリに着いて眠そうに目をこすっていることもあったから、今日は後者の方だろうか。
階段を降りる途中で、飛澤さんに会った。学校指定のカバンをちゃんと持ってきている生徒は、僕が知る限り、飛澤さんしかいない。遠野はマイメロディとかダッフィーが死ぬほどついているスクールバックを持ってくるし、真面目を自称している僕でさえ、黒ベースに銀の留め具が光るリュックを持参している。
だから、階段を上ってくる生徒が飛澤さんだということは、すぐにわかった。
「おはよう、田無くん!」
屈託のない笑顔、朝の光の中で透明な瞳。肩までに切ってしまったまっすぐの髪。飛澤さんは、朝から綺麗である。
「おはよ」
「・・・・・・田無くん、今日も一段と眠そうね」
少しだけ困ったように、彼女は言った。確かに、僕は昨日の遅くまで、桜庭の分まで課題をやらされていたし、一本早い電車で来たのもあって、眠さはピークに達していたけれど。そんなに眠そうに見えたかな、と思い返す。
「そんな田無くんに、桐子がとっておきのギャグを披露してしんぜましょう」
こほん、と咳払いをする飛澤さん。対してきょとんとする僕。
飛澤さんの次の言葉に、僕は全身の力が抜ける、ひどい脱力感を感じることになる。
「・・・・・・ジャムおじさん、ジャムを持参!」
□
「間違ってんじゃねぇよ、アホ田無」
さっき食べた300円の弁当を全部吐き出して、僕は地面に倒れていた。昼休み。
昨日僕は、桜庭に英語の課題を頼まれた。全部終えて彼に渡したのだが、そのうちの一問が間違っていたらしい。さっきの英語の時間、ちょうどその問題が桜庭に当たった。「桜庭が間違えるなんて珍しいなぁ」と、クラスのみんなと英語教師は笑い話にしていた。
僕にとっては、笑い話でも何でもない。旧校舎。夏。気持ち悪いほどの晴天の下。汚い地面に顔を押し付けられても、まだ夏の死にそうな空気の中で、僕は息を吸って吐く。喉の奥にまだつっかえている気持ち悪さを押し殺して、なんとか顔を上げる。
「お前さぁ、確か成績良かっただろ? 適当にやってんじゃねえよ、殺すぞ」
僕の長い前髪を思いっきり引っ張る桜庭は、いたって本気の目をしていた。僕は、いつここで殴り殺されてもおかしくない。死んでしまいたいと本気で思ったことはないけれど、生きたいと本気で思ったこともないから僕は、虚ろな目で桜庭を見上げることしかできなかった。
気が狂ったかのような炎天下と、気が狂った桜庭の一発で気を失う数秒前に、飛澤さんのしょうもないギャグを思い出した。全身の力が抜ける感覚と共に、意識が朦朧としてくる。
死ぬのかな、と一瞬思う。ここで終わりなら、なんてあっけない人生だろうか。沈んでいくような変な感覚は止まらない。次に目を覚ました時、涼しくて柔らかい場所にいますように。最後まで祈りきるまえに、やっと意識は途切れた。
- Re: 夏のための戯曲 ( No.5 )
- 日時: 2016/07/09 14:50
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
目が覚めたら、保健室のベッドにいた。視界に入る水色のタオルケットと、染みがぽつぽつとある天井と、つんと刺すアルコールの匂いで気付く。
慌てて飛び起きると、途端に全身がずきんと痛んで、反射的に目を瞑ってしまい、開こうとしたらまた、切れるような痛みに襲われた。満身創痍。さっきまでのことを、少しずつ思い出していく。僕は、英語の課題を間違えて、桜庭に殴られて、意識を失った。
「起きた? 田無くん」
養護教諭の中島先生が、珍しく心配そうな顔で僕を見ている。
僕はよく保健室に来るから、先生からしてみると、僕の印象は、「少しサボり癖がある生徒」なんだろう。微熱や頭痛を感じて保健室に行く度に、また来たの? と言って体温計を渡す先生は、内心迷惑がっていそうで、僕は学校の保健室にさえ居場所がなかった。
そんな先生が、本気で心配そうな目を僕に向けている。
「中庭の方で倒れてたから、って桜庭くんがここまで運んできてくれたけど、どうしたの、その怪我。ケンカでもした?」
「してないです」
どうやら僕は桜庭のせいで意識を失った後、桜庭によってここまで連れてこられたらしい。そんなことするくらいなら、最初から殴らないで欲しいものである。
中島先生は、まだ陰りのある目で僕を見ている。そして、本当に唐突に、
「いじめられてるんじゃないの?」
と言った。
まさか、先生はその相手が、桜庭だとは思っていないだろう。桜庭は優等生だ。顔もよければ頭もいい、運動もできる、そして中庭で倒れていた僕をここまで運んでくれるほど、優しい。桜庭本人が望んで得たそのポジションを、僕が崩せるとは思えない。
「違います、転んだだけです」
「転んだ傷じゃないよね、それ」
すべてお見通しなのよ、と中島先生は言った。
僕はというと、この16年程度の人生で、いちばんの危機を感じていた。
もし、桜庭にいじめられていることがバレてしまったら? 今までは、考えたこともなかった。桜庭は、みんなのいる教室では絶対に僕を叩いたり殴ったりしないし、顔にもアザは作らない。とても卑怯だけど、うまくやってくれているのだ。だから僕が自己申告しない限り、バレない。
僕は桜庭が大嫌いだ。しかし、僕の存在が桜庭を不幸にした。だから、これは仕方の無いことだ、と自分では割り切っている。僕の父親が、僕の母親との間に、僕を作らなければ、桜庭はちゃんと家族に恵まれて幸せに育ったはずだ。全部僕が悪い。ちゃんとわかってるから、お願いだから、僕と桜庭の事を放っておいてくれ、と何度も頭の中で願う。それを察したのか、はたまた諦めたのか、若い養護教諭は「そ、ならいいんだけどね」と、自分の持ち場へと帰っていった。ほっとして胸をなでおろす。
僕は、大学へは行けないから、卒業したら多分、このあたりの企業に就職する。桜庭も多分同じだと思う。遠野は大学へ行くだろうな。金持ちそうだから、きっと、東京の方とかに。飛澤さんはわからないけど、僕の想像上では、駅の近くの、パティシエ育成の専門学校なんかに入りそうである。
将来のことを考えると、少しだけ心が軽くなる気がした。もう僕は桜庭と会わなくていいし、桜庭も僕と会わなくてもいい。ていうか、僕があの高校入試の日、お腹が痛くなっていなければ、今頃この高校には居なかったのだ。絶対に入れる、もっと上でもいいのではないか、と教師に言われたのに、なんであの時、と今更になってやりきれない感情が湧いてきて、結局気分も落ち込んで、僕は、また教室に入れずに、五時間目が終わるのを白いシーツの中で待っていた。
全身が傷だらけで、痛くて、僕はまだ力を入れる度にじんじんする左足を引きずって、廊下を歩く。桜庭は、誰にも習っていないくせに、人を怪我させるのがうまい。見た目にほとんど代わりはないのに、体は酷く傷んで、そんな僕を見る周りの目が気になって仕方ない。僕はいじめられてなんかいない、そう何回も何回も心の中で唱えながら、歩く。
六時間目。教室のドアを引けずに、トイレの個室で震えが止まらない自分の体を抱いて、うずくまった。とてもぐるぐるして、具合が悪くて吐きそうなのに、もはや吐き出す物もない。先生、僕は本当に、鬱病をファッションと勘違いしている若者なんでしょうか。
僕は、ちっとも生きている心地がしない。ここに両足を付いているという感覚もない。ひょっとして、僕は、もう死んでいるんじゃないか。そう思った瞬間、錆び付いてクモの巣が張ってあるトイレの窓を思いっきり開け放っていた。こんな小さな窓からは、空は飛べない。トイレのドアの鍵を開ける。走り出す。目指すは屋上、僕は、一度空を飛んでみたかったのだ。もうチャイムが鳴ったのか、廊下には誰もいない。いや、誰もいないように見えているだけなのかもしれない。どっちでもいいや、僕は、とても晴れやかな気分だった。屋上への階段を駆け上がる頃には、桜庭に殴られた痛みも、苦しみも悲しみも全部消えて、ついに自由になった、と嬉しくて、叫んでしまいそうになる。もう何も考えなくていいんだ、もう何の心配もするもんか。柵を超える。そこでやっと、脚がガタガタと震え始めた。
高い。下が霞んで見える。おもちゃのブロックみたいな車が行き交う道路が、遠い。少しだけ冷静な僕が、「こんな所から飛び降りたら、痛い思いをするぞ」と言う。一方でかなり脳天気な僕が、「なんだよ、空飛びたかったんだろ」と急かす。強めの風が煽る。うるさい、とすべてを振り払おうとして、柵から一歩踏み出した時、後ろから強く腕を掴まれた。
「まって、田無くん!」
懐かしい、古い記憶をそのまま再生しているかのような声が聞こえた。僕の腕を掴んでいる飛澤さんは、涙に濡れた瞳をいっぱいに見開いて、お願い、やめて、と繰り返している。短くなった髪が夏風にひらひら揺れている。
はっと我に帰った。僕は、何をしようとしていたのだろうか。下を向くと、地上4階の屋上から見下ろす校庭が広がっていて、怖くなって飛澤さんの腕を握る手を強める。怖い。死にたくない。助けてくれ、と言おうとしても声にならなくて、意味の無い言葉を吐き出すことしか出来なかった。すると彼女は「大丈夫だよ」と柔らかく微笑んで、僕の腕を強く握る。僕はそれに、酷く安心してしまって、落ち着いて、よく考えたらこの柵を越えた足場は結構面積があることに気づいて、越えた時と同じように、楽に戻ることに成功した。
安心からか、勝手に涙が溢れてくる。僕はそんな自分が恥ずかしくて、誤魔化そうとして笑顔を浮かべるけど、飛澤さんはすごく心配そうな目をして、僕の背中を擦るのをやめない。凄く怖かったけど、飛澤さんのおかげで助かった。ありがとう、と告げると、私のことなんか良いから、もうあんなことしないで、と、なんだか彼女は少し怒っているようだった。
適当な蛇口を使って、携帯している薬を飲むと、感情は完全に安定してくる。飛澤さんは居なくなって、僕は屋上で時間を潰す、六時間目。少し眠って目が覚めたら、さっきのことはすべて夢に思えてきた。全部夢だったのだろう。教科書を持って、家に着く頃には忘れているような、しょうもない夢だったのだろう。
- Re: 夏のための戯曲 ( No.6 )
- 日時: 2016/07/14 20:55
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
家に帰ってから、僕はまた、ソファーで昼寝をしてしまったらしい。目覚めたとき、窓の隙間からはオレンジ色の夕日が差し込んできていた。夕方なのに暗いままの部屋、壁際に落ちるひときわ黒い影と、夏の匂い。向こうの空はうっすらと紫色の雲をまとい、もうすぐこの街にも夜が来る。
さっき、自殺未遂じみたことをしてしまったなあ、と思い返しては、泣きたい気持ちになってくる。飛澤さんが手を握ってくれなかったら、僕は今頃ぺしゃんこになっていた。部屋の電気も付けずに、寝っ転がって天井を見る。どうせ明日もこんな人生なら、ぺしゃんこになってしまった方が、僕は幸せだったのではないだろうか。
夏は、何も食べたくなくなる。夕食替わりに、冷蔵庫に入っていたアイスを食べて、やっと居間の電気とテレビをつけた。午後7時のバラエティ番組に出ている芸能人たちは、みんな楽しそうに笑っている。
思いっきり体を伸ばすと、少しの間だけ、自分は自由になったかのような錯覚をする。いつでもどこでも肩身の狭い思いをしている僕は、こんな時でないと、伸びすらできないんだなと、自分で自分に笑いそうになった時、テーブルに置いたままだったスマホが光った。
桜庭から連絡だろうかと思って、手に取る。今日の昼休み、僕が気を失ってしまって、桜庭に保健室まで運ばせたから、その件に関して怒っているのだろう。それか、また金が足りないからよこせと言ってくるかもしれない。桜庭の決めたことに従わないと、僕はすべてを失ってしまう。これからまた学校まで戻ってこい、と言われたとしても、僕はそれに従わなければいけない。見えない鎖でいつだって、繋がれている。
しかし、そんな予想とは反して、連絡をしてきたのは遠野だった。「これから会える?」の後に、可愛らしいうさぎのスタンプが添えられている。桜庭は間違ってもこんな文を送り付けてこないから、すぐにわかった。
これから会える、か。既読をつけてしまった以上、返事をしなくてはいけないのだが、正直なところ、これから出かける気は無い。もう着替えてしまったし、殴られたところの傷も痛いし、出かけない理由の方が圧倒的に多いのだ。僕は、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、「ごめん、今日は」まで打ち出したところで、他の奴から連絡が来た。脳天気な通知音が、静かな部屋に響く。
桜庭である。持っていたスマホを、落としそうになった。手が震えはじめて、止まらない。見たくない見たくないと思いながらも、ページを開いてしまう。たった一文、「今から駅前に三万持ってこい」と、無機質な文字が目に飛び込む。僕はそれを見て、なぜだか安堵してしまった。金さえ渡せば、殴られることなんてないのだ。
ワイシャツに袖を通す。三万円なんて金額、今の僕は持っていない。でも、遠野に借りればいいか、と頭のどこかで思ってしまっていた。もちろん返せる見込みはない。
遠野に了解と連絡を送ると、「公園にいるから来てよ」と指示される。僕らの付き合いは長いから、公園という単語だけで、その公園の細部まで簡単に思い出すことが出来る。そんな幼なじみの女の子から、僕は強引にでも金を貸してもらわないと、今度こそ本当に、桜庭に殺されるかもしれない。頭の中で、何度もごめんと謝りながら、僕は家を出た。
公園に遠野は居なくて、僕はベンチに座っている。見慣れた制服姿の女子はたまに見かけるものの、楽しそうに友達と談笑していたり、あるいは家路を急いでいたりする者だけだった。さっきから連絡がつかなくなった遠野に、若干の苛立ちを感じながら、スマホのサイトをぼーっと眺めている。
「穂高くん、こっちこっち」
しばらく待った時、遠野の家じゃない方から、スクールバックを持った、制服姿の遠野が駆けてきた。驚いて、言葉が出なくなる。僕は挨拶もそこそこに、彼女から要件を聞いて、そして金を借りるつもりだったが、あまりの不意打ちに少し面食らってしまって、何度か予行演習した言葉も出てこなかった。
すぐ近くまでやってきた遠野からは、ふわりとシャンプーの匂いがする。
「バイトの途中だったんだけどね、抜けてきちゃった。穂高くんに、話したいことがあって・・・・・・」
風に揺れる黒髪は、きっと乾かしたばかりだろう。とりあえずここじゃまずいから、カラオケ行こうよ、と遠野は僕の手を引っ張って歩き出す。僕は、理解が追いつかなくて、ただついていくことしか出来なかった。
遠野は、公園のすぐ向かいにある、古びたラブホテルから、ひとりで出てきたのだ。
Page:1 2