複雑・ファジー小説

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七夜、八夜
日時: 2024/02/12 20:17
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: .tTl60oj)

  画面を見て、動きがとまる。
  そして僕は思った。

  なんて馬鹿なことをしたのだろう、と。



 □挨拶
  浅葱といいます。
  実質六年ぶりに当スレを動かしました。
  ssを78作書くスレです。のんびり更新していきます。


 □目次(6/78)
  >>001 ⇒ からっぽらっぽ
  >>002 ⇒ 金魚は円周率をおぼえることが出来るか?
  >>003 ⇒ 僕らつぶ色の日々を過ごす
  >>004 ⇒ 公園のあの子
  >>005 ⇒ 紫煙に揺らるる
  >>006 ⇒ あまいあめ
  >>009 ⇒ 告白
  >>010 ⇒ ねむれない夜のしょほうせん
  >>011 ⇒ 夕嵐




 □開始日20160822

Re: 七夜、八夜【SS】 ( No.2 )
日時: 2016/08/25 19:17
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: EM5V5iBd)


 私は遠い底で夢を見ていた。橙色が濃く広がり、それはあきらかに変化しているのに、誰も気に止めない不思議な世界。橙色は世界を深く深く飲み込んで、それでも人目には、うつくしいと映る。
 目が覚めて外を見ても、私が見た夢の色は一つもなかった。着色料と添加物、それと少しの保存料で、この世界は出来ている。

「おはよう、また今日も目が覚めてしまいました」

 一人ぼっちの部屋に私の声は溶けだして、もう形をとどめていない。昔は友人も沢山遊びに来ていたけれど、気づいた時には一人ぼっちだった。
 寂しさとか辛さなんてものは無くて、もしここに夢見た橙色があるなら、なんて事を寝惚けながら考える。それくらい、あの夢の世界は美しかった。

 私は誰かに決められたわけでもないのに、ここ数年ベッドから出たことは無い。排泄物にまみれたシーツは、出入りの激しい女中さんが一日何回か変えにくる。
 臭くて汚いでしょう。そう笑いかけたけれど、女中さんは小さく会釈をしただけで、その真意までは分からなかった。きっと彼女は、私と違う立場にいるんだろう。

 囚われの身といえば同情してもらえそうだけれど、私は今この場に満足していた。枷をはめられ留まり続けるという、常人には苦痛でしかない日々。私にとって、変わらない物はひどく安心できる。
 私が辛くないように、女中さん達が定期的に模様替えをしてくれるのだから、私は恵まれていると思う。ここに居さえすれば、私は辛さや苦痛から開放された状態でいられる。

「今日のご飯は何かしら」

 唯一の出入口からやってきた女中さんの手には、小さな銀色のトレイが乗せられていた。また同じご飯だろう。そう分かっているのに、心は踊っていた。
 ヘンダーソン先生が、食事は楽しいひとときだって言っていたんだもの。また、なんて気持ちを隠して楽しそうにしなくっちゃ。

「本日は旦那様のご好意で、お嬢様の好きなものをとのことです」
「まあ! 今日はフレンチトーストね」

 思わぬ誤算に、わっと嬉しさが湧き上がる。機械じみた女中さんの声も気にならない。手際よく食事の用意を始めていく女中さんを傍らに、私は気分よく鼻唄をうたう。
 お父様がよく聞いている、有名な海外の歌。たしか車のコマーシャルに使われているって、言っていた気がする。そのリズムが好きで気分がいい時は、よく一人で鼻唄をうたう。同じフレーズを飽きるまで何度も何度も。

「ご用意が出来ました。お食事が済みましたらベルでお呼びください」
「はぁい」

 女中さんが部屋を出てから、トレイに向かう。私の大好きな甘い甘いフレンチトースト。もう部屋いっぱいに充満した甘いにおいを、思いっきり吸い込み、少しずつ吐き出す。
 身体いっぱい甘いにおいに包まれているようで、嬉しい気分になってきた。なんだか心がふわふわしている。食べやすくあらかじめカットされたフレンチトーストを、口いっぱいに頬張る。しっかり味が染みたトーストを数回噛むと、上にかかっていたハチミツが良く香った。

 ほんの数分でたいらげ、汚れた手でベルを鳴らす。ベルが汚れるくらい、シーツが汚れるのに比べたらマシだろう。
 静かに入ってきた女中さんがトレイを下げ、もう一人の女中さんが私の指を拭く。一度に二人の女中さんが来る事はほぼなく、きっと今日はお父様が指示を出したんだろうと納得した。

「では失礼致します」
「うん」

 同じタイミングの揃ったお辞儀を見て、トレイが乗っていたオーバーテーブルの上の本を手に取る。小さい子向けの学童本ではなく、少し難しそうな物語。
 分厚い本の背表紙を見、表紙を見、もう一度背表紙を見る。

「あっ。前にお父様が読んでいた本じゃないかしら」

 魔法使いが杖と知力をもって、仲間と出会いながら成長していく長編小説。その初めの巻だった。表紙をめくり、目次を見る。
 少し難しそうな文章だけれど、お父様が読んでいるから、同じように読み進めていく。私の世界を形作るすべては、お父様から与えられていた。

 物心がついた時から私の世界を作っていたのは、お父様だけ。窓の外に見える、時間によって変わる空の色を教えてくれたのも、時間を教えてくれたのも、お父様。
 私が見ている世界は与えられた、作られたもの。そう、すぐ居なくなってしまった女中さんが言っていたけれど、私にとってはこの世界が全て。

 私が今生きるため、何かを感じるため、そのためだけに作られた空間に不満は感じたことがない。出る努力も、したことはなかった。
 作中の主人公が感情の狭間で揺れ動く。だんだんと私がその主人公になっているような、そんな不可思議な感覚になっていく。自尊心の塊みたいな子との対立、仲のいい少年少女との協力。

「私が経験したことのないものばっかり」

 ぽつりと呟くけれど、誰の耳にも届かない。物語はもう終盤が近付いてきた。窓の向こうは、夢で見た橙色より人工的な色が、世界を淡く照らしている。
 まだ読み終わらない本を閉じ、外の色を無気力に眺める。女中さんもお父様も、この景色を美しいと思っているのかしら。緩やかに色が変わるわけでもなく、黄昏たいと感じるわけでもない。

 こんなに、世界はつまらない。

 ある日見た写真集の風景はどれも美しく、私が見る世界のどことも明らかに違っていた。遠い世界は陰影がおぼろげで、光は全て柔らかかった。
 それに比べて、と思わずため息がこぼれる。大好きなお父様と一緒、過ごしやすい空間。何でも手に入る完全な世界は、ただ一つだけ不完全だ。

「いつか私がお父様から離れた時、一体何が残るのかしら」

 きっとお父様は、私と初めからやり直そうとする気がする。だって今のお父様にとって、私はたった一人の永遠だもの。血が繋がっていようがいまいが、お父様は私を見捨てない。
 だから私はお父様を拒絶する。何も持ってない私は、お父様の優しさに溺れて浮かび上がってこれないもの。私に与えられたすべては、一瞬でなくなってしまう。

 私が生きた証なんて脆いものも、外から見たら何の価値もないことくらい、この籠の中にいても分かっている。何をしたわけでもない私は、本当に今を生きているのかしら。
 ふかふかのベッドに、ゆっくりと倒れ込む。考えても分からないことを悩むのは、ひどく頭が疲れてしまう。視線を下げ、お父様の本をじっと見る。

 私が今お父様にさよならを告げたら、どうなるのかしら。途方もない考えに、目尻が熱く濡れた。きっと、きっと。お父様は心にぽっかり、穴が空いてしまうかも。
 それでもきっとお父様は許してくれる。勝手に泣く私に気付かない振りをして、お父様は笑ってくれていたもの。優しい優しいお父様に、私はどろどろに溶かされて離れられなくなっている。

 愛し愛され壊れてしまう一歩手前。私は私じゃなくなって、いつかお父様の一部になってしまいそうな、そんな言いようのない不安がいつも私につきまとっている。
 一番愛されている今だからこそ、私はお父様から離れなくちゃ。一番愛する大好きなお父様だからこそ、私はお父様を自由にしなくちゃ。






□金魚は円周率をおぼえることが出来るか?


—————

 何も残せない私は、何を得られたのかしら。
 せめてもう一度、お父様とひとまたたきの永遠を。

—————

 2014年、たろす@さんのアンソロジー企画が初出しです。
 この掲載を報告と返させて頂きます。
 変わらぬ敬愛を。

Re: 七夜、八夜【SS】 ( No.3 )
日時: 2016/09/28 14:39
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rS2QK8cL)




「知ってるか? 今この時は、あっという間に過ぎてくんだぜ」
「急に何?」

 両手を広げて話す相田和馬に、また始まったと言わんばかりに嫌そうな顔をして、三野駿太が返す。始発電車に乗っているのは二人だけで、声の大きさを気にせずに話していた。

「なんつーかさ、俺らって若いじゃん? まだ中学生だからってふざけてたら、あっという間に大人になると思ってさ」

 和馬の言葉に、「それもそうだね」と肯定する。ただ朝五時に話す内容なのか考えると、別に今じゃなくてもいいだろうと感じられた。
 そんな駿太の考えを知らない和馬は、得意げになって話を続ける。

「だから今しか出来ねーことをやんねーといけない気がしてさ。夏って、ハメ外す季節じゃん?」
「いや、それは違うだろ」
「でも電車乗ったんだから、俺とどーるい」
「まあ……たしかに」

 にやっと笑う和馬に、駿太はため息を吐く。二人がわざわざ始発に乗っているのは、夏休み初日に和馬が考えた計画を実施するためだった。
 なんど駿太が反対しても、一度決めたら頑固な和馬は聞き入れなかった。本当は来たくなかった駿太だったが、和馬を一人にするくらいなら一緒に怒られようとわざわざ来たのだ。

「この時間に学校行っても無駄な感じするけど」
「人がいないうちに外から見えないとこにするんだよ。んで、さっさと裏から帰る!」
「うわー……巻き込まれる俺の身になって」
「だから、駿太が付いてきたんじゃん」

 今日のアナウンスは機械ではなく、鼻声気味の車掌のものだった。ワンマン列車の最後尾に座る彼らは、不規則に揺れる車内を前へ前へ進んでいく。
 楽しそうに歩く和馬と違い、駿太は何度もあくびを噛み殺していた。夏休みに入って一週間、宿題をすべてこなした駿太は昼夜気にせず映画を観ていた。

 大学生の兄から渡された海外ポルノ、グロテスクなもの、ホラー、ラブロマンスなど節操無く観ては、その感想をブログに書き留めていた。
 初めこそ趣味の範囲であったが、ブログを書き続ける間にファンが増え、今やブログを更新する度に様々な反応が得られるようになってしまっていた。そうなってしまうと後は義務感。書くために観て、見られるために書く。

「まだあのブログやってんの?」

 大きなエナメルバッグを肩にかけたまま、後ろを見ないまま和馬はいう。聞き様によっては馬鹿にしているように感じられるが、長い付き合いの駿太は慣れていた。
 和馬は自分に興味のある事が全てで、それ以上でも以下でもない。

「うん。おかげさまで寝不足だよ」
「だろーな、クマやべーもん」

 停車した電車から降りる。定期の更新を忘れていたが、日付の下一桁を指で隠し何事も無かったかのように。そんな和馬の姿を見て、駿太は呆れ顔をしていた。
 堂々と進んでいくものだから、怪訝そうに和馬を見る駅員さんも声をかける事は無かった。得意気な顔をして改札を通過し、簡素な駅から一歩踏み出す。

「今何時」
「えーっと……六時十分ちょっと」

 同級生のほとんどが持っていないスマートフォンで時間を確認する駿太を、和馬はじっと見ていた。和馬がいなければ、駿太はいじめの被害に遭っていた可能性があったためか、和馬は過保護気味になりつつある。

「俺あげた腕時計は? 安もんだけど」

 まばらに人が往く大通りを進む和馬の背中に、「大事に飾ってる」と駿太は答えた。思わぬ回答にため息を吐いた和馬だが、思いまでは駿太に届いていない様子だ。
 駿太からしてみれば、親友から貰ったものは身に付けるのがはばかられ、大切に取っておく以外選択肢がない。和馬はそうした傾向を知っていながらも、淡く期待をしていた。

「お前にそんなつもりなくても、他の奴らは見せつけられてるって感じてんぞ」
「うーん……好きに言わせておいていい気がするんだよね」

 他人に理解される必要がない事。そう、夏休みに入る前駿太は言っていた。和馬にとってはどうしようもない事だったが、どうにかしてやりたいという気持ちがある。
 駿太は昔から対人関係の場において、何も期待していかなった。虫一匹に刺されても、ある特定の種の一部を嫌いになるだけで、すべてを嫌いになる訳では無いのと同じ。人一人に嫌われようが、ほかの全ての人間に嫌われる訳では無い。

 だから、中学という特殊な環境下で進行形に害を被っている。けれど、見えないところに隠した傷痕にさえ、駿太は期待していない。その事も、和馬はすべて分かっていた。
 通っている中学校の正門をぬけ、堂々と生徒玄関から中へ進む。朝早い時間にも関わらず来たのは、おじいちゃん事務員さんが扉を開けていると知っていたからだった。

「な?」
「……さすが。こっからどうするの?」

 おじいちゃん事務員さんは朝一で校内を見回り、一度帰宅する。その時に施錠されてしまう事も、和馬は把握している。
 外靴を手に持ち、上靴と別に持ってきたスニーカーを履いた。出席番号順に並べられた上靴は、帰りに確認されるのだ。

 中央階段を上り、自分達の教室を目指す。南側に面した教室には、まだ影ばかりが存在していた。もう事務員さんはいなくなったのか、静まり返る三階が妙で不思議な感じがする。
 階段側、手前の扉から「2-3」と札のかかった教室は、当たり前だががらんとしていた。普段はどのクラスよりも騒がしい教室も、休暇中なのかと駿太は思った。そもそも教室に休むという概念が無いことも、迫り来る睡魔と高揚感で忘れてしまっている。

「んじゃー作戦会議すっか」

 たった二人だけの作戦会議が始まった。手始めに事務員さんが帰った後、職員室でマスターキーを手に入れる。職員室に行くまでにセコムもあるが、事務員さんが一度解除したらそのままにしていくことも、リサーチ済みだった。

「——って感じ、どう?」
「それだけ?」
「刻みつけようぜ。強気でさ!」
「……本当、ついてこなければ良かったよ」

 静まりかえった校内、駿太と和馬だけを残して息を止めていた。小さな衣擦れの音が、何倍にも膨れ上がって聞こえる。
 緊張と興奮で、二人の身体は小刻みに震えた。武者震いだと笑う和馬に、駿太は笑う。クラスの誰にも見せない、屈託のない笑顔だ。

 誰もいない校舎を、上へ上へと行く。鍵はあらかじめ和馬が外していた。扉を開け、まだわずかに冷える外気を感じ、身震いする。
 どちらからともなく手を繋ぎ、潰れそうになる心と戦いながら、屋上の縁に立った。小さなグラウンド、すぐそこにある真っ青な空。和馬か小さくため息を吐いた。

「んじゃ、行くべ」
「よくこんなこと思いつくなー」
「俺のいいとこっしょ」

 愉快そうに話す和馬の手は、強くかたく駿太の手を握っている。そしてまた、どちらからともなく、空をつかむために大きく飛び上がった。






 □僕らつぶ色の日々を過ごす


—————

 淡い粒は濃く色を刻み込んだ。

—————

Re: 七夜、八夜【SS】 3/78 ( No.4 )
日時: 2016/12/26 07:50
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: cYeSCNTQ)



 僕がよく見かけるあの子は、いつも、夕方にブランコで遊んでいた。

■公園のあの子

 そこで僕は彼女に倣って、遊びはしないけれど、彼女が帰るまで公園のベンチに座ることにした。春が終わり夏に差し掛かろうとする頃の出来事だった。
 日が暮れると、まだ外は薄ら寒い風が吹くが、彼女は気にせずブランコをこぐ。高く高く。だんだんと輝く星空に、いつか届いてしまうんじゃないかと思うほど、彼女は高く高く、上がっていった。

 ついに星を掴むことはなかったけれど、僕が彼女を観察していた間中、彼女はいつも星をとろうとしていた。
 僕らはいつからか「赤の他人」から「同じ公園にいる顔見知り」になった。彼女が僕をしっかりと見ながら、控えめに会釈をする。僕は少し遠慮がちに、同じく会釈をし返した。

 春の香りなんてなくなって、木々が青く変わる頃にもなれば、僕らは「知り合い以上友達未満」に変わっていた。僕が公園に来てから読んだ本は、もう三十冊にさしかかろうとするところだ。
 彼女は僕の読む本に、過剰とも取れるほど反応を示した。例えるなら、太陽と共に生活する人に、いつでも明るい白熱灯見せたような感じだ。

 僕らはそれからよく話すようになって、彼女に倣って星をとることもあった。けれど、やはり星は取れずに終わる。それでも悪い気はしない。
 地面に立つことで安心や安寧を感じる人類の、とても主体的な、現在からの脱却行為だったからだ。ほとんど経験のない浮遊体験。僕と彼女は、少し関係が更新された。

 彼女はよく笑う子だった。星をとろうとする間も、僕と話している時も、常に笑顔を浮かべていた。ただ学校の話をする時だけ、表情がぱっと変わる。何度か意図的に聴くことで、彼女の事を少し知ることが出来た。
 名前は安東 祐奈といって、中学二年生らしい。部活動に所属しているらしいが、もう半年近く顔を出していないらしかった。家族関係は良好だが、学校の教員や友人と上手くいかないことが多いと、彼女は笑った。

 僕の中で彼女は彼女であるけれど、その実、中身なんて一つもないように感じられる。彼女はそれくらい儚くて、きっと、あの日僕が観察を始めなければもういなくなってた様な気がした。
 少しずつ学校の不満や、家族との思い出を語る姿に、僕は本を閉じた。安東祐奈という人間にとって、こうした体のいい話し相手がいふことは、何よりも嬉しいことだろうと思う。

 僕らはこうして、夏の一番暑い頃、秘密を共有した。安東祐奈が、安東祐奈の中に抑えきれない気持ちを、僕らは共有したのだ。
 次の日からは、また何も変わらず、僕は本を読み、彼女は星をとろうとしていた。じっとりと出る汗のせいで、指を置いている部分がふやける。

「これだから、夏は」

 僕は夏が嫌いだった。暑い日差し、元気な子どもたちの声、脱水で運ばれる年寄り、プールサイドでインタビューを受ける若者、エトセトラエトセトラ。誰も家にこもって本を読まない。
 暑い暑いと言って薄着をする女も、僕は好まなかった。汚い肌を晒して、ばかみたいに大声をあげて笑い合う姿が、ひどく醜く映る。

 その日以来僕は公園で本を読むことはやめた。この日も変わらず彼女は空へ飛び上がる。僕はぼんやりとそれを見つめていた。もし、彼女が星を掴む日があるなら、僕はその場に立ち会いたい。そう思っている。
 彼女はきっと僕のことを、誰にも話していないんだろう。僕も彼女のことを、誰にも話していない。彼女はいつも学校の制服で、空を飛んでいた。僕は私服で、彼女を見る。

 名前も知らない他人だった頃と比べて、彼女は笑顔が増えた。会釈はいつしか挨拶に変わっていて、僕らは違和感なく交流をしている。
 白っぽかった彼女の肌は、気付けばほどよく焼けて健康的な色に変わっていた。僕も彼女と同じように焼けて、皮が剥けつつある。

「もうすぐ七夕だよ、お兄さん」

 うとうとしていた僕を腰を曲げて見つめながら、彼女が言った。暑さと眠さで働かない頭で、彼女の言葉を反芻する。七夕なんて、しばらく触れていなかった。
 昔は願い事を書いて、地域で用意した笹竹にくくりつけた記憶がある。けれどそれも随分昔のことのように思えた。僕の両親は元気に過ごしているけれど、三人で出掛けた覚えはあまりない。

「七夕って……。もう本州だったら終わってるじゃないか」
「ここは内地じゃないじゃん」
「そうだけど……」

 私、七夕になったらもう来ないからね。普段星をとるときと変わらない笑顔で、彼女はそう告げた。告げたというよりも、もっとあっけらかんとしていて、親しい友人に今日の天気を告げるようなものだ。
 あまりにも突飛なことで、僕は呆然として口を開けっ放しにしてしまっていたらしい。長い髪を揺らしながら、僕を指さして笑っていたから、そう考えた。

 この曖昧な関係が終わる日が、だんだんと近付いている。永遠に続くなんて考えていた訳では無いけど、終わりが見えてしまうと、何故だか頭を殴られたように衝撃がはしって、つらくなる。
 僕はこんなに女々しかったのかと、ふふっと笑いをこぼした。怪訝そうな表情を彼女は向けてきたが、すぐに表情が変わる。

「だから、お兄さんと七夕の日は過ごそうと思うんだよね!」

 最期の七夕だし、とVサインを向けてくる。

「最後、か。うん、いいよ。君がそれでいいなら、付き合う」
「ありがとう!」

 僕が承諾すると、目の前には今まで見たことがない、年相応の彼女がいた。星をとろうとしている時も、僕と話している時も、大人っぽさを貼り付けていた彼女が、だ。
 それくらい、彼女にとって僕がほかとは違ったのだろう。彼女にしてやれることなんて何も無かったけれど、最後に感謝の気持ちを伝えられるチャンスかもしれない。

 今日はそのまま解散した。彼女はずっと僕の隣で話をして、僕はそれを聞くだけだった。初めて空を飛ばなかった彼女は、いつもより清々しい表情で笑う。僕も、その自然な笑顔を見せる彼女が好きだった。
 彼女と別れたのは、まだ太陽が沈みかけている時間。公園で遊んでいたほかの子供たちが、揃って帰っていく頃だった。

 いつもより早く帰ってきた僕を見て、母さんは何か感づいたらしい。いやらしい笑顔を貼り付け、いい日だったみたいね、とだけ僕に言った。女の勘が怖いと思ったのは、これで二度目だ。
 帰宅の遅かった父を待って、三人で食卓を囲む。スプーンで浅い皿に盛られたスープを飲む。食事の後、部屋から見た星空は、少しもの悲しく見えた。

 彼女は夏休みだったらしい。
 午前中、おつかいを済ませるために自転車に乗っていたら、ベンチに座る彼女を見つけた。話しかけようかと思ったけれど、優先順位を考えて自転車をこいだ。可能な限り早く帰って、彼女に会わなくてはいけない。今日は七夕だった。

「お兄さん遅いよー」
「いや……うん、ごめんね。でもこんなに早くいるとは思ってなかった」
「最期にする七夕なんだから、急ぐよ」

 楽しみにする心にせっつかれたの、と彼女は笑顔を見せる。数日前の約束では、いつ集まるかなんて話していなかったから、仕方が無い気もする。
 肝心の笹は昨日の内に町内会の人たちが、公園の中心に一本、植えていた。小さい子を連れた親たちが、笑顔で短冊をかけていく。

「今日で私、この街からいなくなるんだよね」

 彼女の唐突な言葉に、そう、とだけ返した。自分でも驚くほど、冷たい言葉に聞こえた。

「だから、せっかく仲良くなれたお兄さんと、最期に七夕したいなって思って。部活も辞めて、なんていうか、合わなかったのかなって思う」
「楽しかったんだよ、中学校。私と同じ学年に、たしか、えーっと……飯田 春馬って人がいてね? その子がずっといじめられてて、私、やめなよって言ったんだよね」
「知らない子なのに助けようとしちゃって……。いやー、我ながら偽善者だなって思うし、多分それが原因でいじめられちゃったのかなー」

 まるで彼女は、遠い昔のことを思い出しながら話しているかのようだった。もう触れられない思い出の扉を、少しずつ閉めながら、消しながら話しているような印象があった。
 飯田春馬は、駿栄中学校を中退した生徒だった。素行はよく、真面目。勉強もできる優等生で、教師からの信頼が厚かった。それが自分の首を絞めていたことに、彼は中退するまで気付かない。

「君は、自分のした事が正しいと思う?」

 僕の問いかけに、彼女は腕を組んで目を瞑る。うーん、と唸る姿を、静かに見つめた。

「でも、みんながしてたのは良くないことだよね……」

 そうだね、と僕は頷く。彼女は悩み抜いて、分からないと答えを出した。僕はそれが正しいと思う。彼女と飯田春馬、いじめグループを取り巻く問題なんて過去のことなのだから。
 僕らはしばらく黙ったまま、何をするでもなく座っていた。きっとお互いに、願い事を書いてお別れするのが嫌だったんだろう。僕は少なからず、後ろ髪を引かれる思いかあった。

「まあ、とりあえず、願い事書きに行く?」

 少し不安そうな顔をする彼女を見て、僕の口から自然とこぼれ落ちる。少し前までの僕は、こんな風に彼女の気持ちを考えることもなかったのに。

「お兄さんはなんて書くか決めた?」
「いいや、まだ何も考えてないよ」

 だけど、書きたい言葉はある。それを彼女に知られてしまうのが、少し嫌だった。彼女はもう書きたいことが決まっていたようで、ペンを持つとさらさらと先を滑らしていく。
 僕は少し手で隠しながら、ここ数日で膨らんだ思いをぎこちなく書いていく。名前は書かなかった。書いてしまったら、彼女と二度と会えないんじゃないかと思ってしまったからだ。

 僕の方が先に書き終わって、彼女が届かない上の方に括りつける。彼女は書き直しているようで、先に取ったピンクの紙をくしゃくしゃにしていた。
 他の人の願い事を見ながら暇を潰す。世界征服、お母さんの病気が良くなりますように、好きな子と両想いになりたい、エトセトラエトセトラ。

「終わったよー、お兄さん! 今日はこれでお開きにしよ!」

 手に持ったままの願い事。僕は素直に頷いて、ひと足早く帰路についた。きっと彼女には彼女の大切な思いがあって、僕はそれを見たらいけないのかもしれない。
 前より早く帰ってきた僕を見て、母さんは驚いていた。七夕祭に参加したと言ったら、なお驚いて、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 母さんのそんな顔は見たことがなくて、僕は驚いてしまった。この日はご飯を食べず、部屋から外を眺めていた。彼女が取ろうとしていた星は、誰の手に触れられることなく、ひたすら輝いている。


「あ」

 次の日公園に行くと、願い事ばかりの笹竹はまだ飾られていた。僕はその前に立ち、彼女が書いた短冊を探す。一枚だけくしゃくしゃになった短冊と、僕の短冊と同じところにくくられた一枚が目に止まった。
 それを静かにとって、見る。

 思わず笑みがこぼれた。彼女は、安東祐奈は、僕が飯田春馬だと分かっていたらしい。意図せず涙が溢れた。彼女はもうこの街から飛び出して、もう手に触れることはできない。
 変な関係だった。不登校といじめられっ子、星をとる少女と現実に浸かる少年、妹と兄のような雰囲気の差。けれどそれだけが僕にとっての全てで、僕は昨日彼女に伝える言葉があった。

 きっと彼女は、僕の短冊を見たのだろう。短冊の隅に「こちらこそ!」と走り書きされていた。涙を流しきると、少しすっきりした気がする。僕はそっと、彼女の定位置に移動した。
 まだ明るくて分からないけれど、僕は、彼女を真似て星をとる。



—————

あの子に届かなかった手を、今、僕は彼女に伸ばした。

—————
To はるたさん

Re: 七夜、八夜【SS】 4/78 ( No.5 )
日時: 2017/08/26 11:11
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: wGslLelu)



■紫煙に揺らるる

 彼女はいつも甘い香りを纏っていた。血のように鮮やかなドレスはおおきく胸元が開き、豊満な胸があらわになっている。美しくくびれた体のフォルムを見せつけるかのようなドレスに、会場中の男が目を奪われていた。
 私は良くも悪くも平凡な顔立ちであるので、彼女が嬉しそうに駆け寄ってきたのを、少し疎ましくさえ感じてしまう。彼女は私と青春を捨て合った仲だった。今はどこかの大きな会社の役員と結婚し、こうして大きなパーティを催している。

「あら、久しぶりね。楽しんでる?」
「いいや、今楽しみが終わったよ。君が私の元に来ては、他の参加者がつまらないだろうに」

 甘いにおいが鼻腔をいっぱいにし、先程まで口にしていたワインの香りが遠のいていく。彼女は、いつもそうだ。素晴らしい体験を、経験を、瞬間を、何よりも早く奪い去っていく。
 彼女は気がついていないようであるが、それはたしかに私の心を締め付け、失われた時間を取り戻そうと躍起にさせた。彼女が気が付かない原因は、私にもある。だからこそ、私と彼女は上手くいっていたのではないかとさえ思う。

「別に私が知ってる人ばかりじゃないわよ。ほとんどがあの人の知り合いとか取引相手」

 ボーイからシャンパンを二つもらいながら、つまらなさそうに彼女は言った。どこか恨めしそうな視線の先、会場の中央あたりでできた人だかりの真ん中に男はいる。
 ふくよかな腹と頬だけで、男がどれだけ裕福な暮らしをしているかが分かった。彼女は卑下して役員というが、実際には御曹司てある。

「いい玉の輿じゃないか。私といるより、はるかに安定してる」
「もう……そうでもないわ」

 人工的に作られた鮮やかな赤が、結ばれた。何かを考える時、彼女は口をゆるく結び、今のように私の顔をじっと見る。言葉を選ぶのが下手な彼女には、常人よりも長い時間を与えなくてはならない。
 慣れない生活、理解されない気持ち。そんななんてことないものに、彼女は押し潰されかけているのだろう。

「……子供の予定はあるのかい?」

 果実の甘味を飲み下し、彼女に声をかける。驚いた顔をした彼女だったが、すぐに自嘲しているような笑みを浮かべた。私は頷く。私たちの間に、余計な言葉は要らない。
 今の旦那に呼ばれた彼女は名残惜しそうに微笑んだ後、大きな和の中に溶け込んでいった。まざまざと突き付けられる現実は、いとも容易く私達の過去を塗り潰していく。


 やるせない気持ちを埋めるために食事を楽しみ、慣れたリップサービスをしていれば、パーティーは終わりに差し掛かっていた。最後に食べたショコラの心地よい苦味。
 彼女の夫が両手を広げて話すのを無視し、一足先に外へと出た。冷たい夜風はパーティで火照った体に、心地の良さをもたらす。呼ばれると思っていなかった場に呼ばれたこと、美しい彼女の姿を見てしまったこと。そのどれもが、私を浮き足立たせる要因だった。

 彼女が子供を産めない体にあることが、唯一の救いだった。彼女の中から出てくる、意思を持つ動物は見たくない。それがたとえ彼女にとって絶望の淵に立つような辛苦の原因であったとしても、私が最後に一つ、彼女に出来た孝行だった。
 アルコールで火照った体が、また、内から熱を産んだ気がする。思えば、彼女との出会いは必然で、別れは偶然の産物だったのだろう。大きな川沿いにあるベンチの一つに腰掛け、葉巻に火をつける。彼女とは違う、違和感の残る甘い匂いが、周囲に広がる。

 暗闇に揺蕩う灰色の煙が、雲を醸しているかのように感じてしまう。外は雲一つない好天で、大きく欠けた月が夜道をうっすらと照らす。その光が私の前ではぼんやりと色味を失い、雲の中に消えてしまった。
 昔彼女が愛した味を。

(嗜むつもりは無かったんだけどな)

 葉巻独特の香りと共に吸い込まれる甘い匂い。吐き出した煙も、独りでに揺蕩う煙も、その全てが甘い。葉巻を吸うことは、彼女と別れてから一度もなかった。そもそもが、彼女に勧められてから吸い始めただけで、出会わなければ吸うこともなかっただろう。
 甘い匂いを吸い込む度に、彼女の事が思い出されていく。初めて会ったのは、いつだったか。たしか父が仕事の同僚と飲みに行き、意気投合してからだったはずだ。彼女は親に連れられて、寒い冬の日に私の家へと招待された。透き通るほど美しいブロンドの髪に、雪が積もっていたのを覚えている。その瞬間に、彼女に惚れてしまったことも。

 それからは週に何度も手紙のやり取りをした。好きなもの、好きな遊び、学校での愚痴。そんな他愛もない話から彼女を知っていく体験の一つ一つが、子供心に幸せだった。彼女の事を、私が一番知っているとさえ思ってしまうほどに。
 別れたのは、いつだっただろう。私が州立大学に入り、私立大学に彼女が入学した時だったか。肌を重ね合わすことがなくなり、そうして、全てが終わった。最後に肌を重ねた日の、彼女の涙。罪悪感と切なさから逃げるようにその場から消えた私を、一体どんな気持ちで彼女は見ていたのだろう。

 既に知ることは出来ない彼女の気持ちすら、今の私を惑わせる。
 

Re: 七夜、八夜【SS】 5/78 ( No.6 )
日時: 2022/06/05 21:13
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: EPsFuHPE)

【あまいあめ】


 梅雨前線は数日停滞する予想です。近隣の住民の方は雨による土砂災害や、浸水などにも注意してお過ごしください。また、所によってはゲリラ豪雨による水害も起こる可能性がありますから、気をつけてください。それでは、いってらっしゃい!
 朝、カーテンを開けても日差しは入らず、厚い雲が下がり、外は薄暗い。目と鼻の先に見えるだだっ広い海からの吹き荒ぶ風が、街路樹を左右に揺する。枝が数本アスファルトに落ちていた。天気予報が終わったら学校へ行こう。そう思っていたけれど、そう思うのは学生として一般的なことなのだけれど、ソファに沈みこんだ体は動きそうもない。

 本州よりも遅く訪れる、梅雨と呼んで良いのか分からない雨の日々。この地域には梅雨がない。どれだけ強い雨が降ろうとその雨が水害をもたらそうとも、梅雨のせいで、なんて強がりを言うことすら許されていないのだ。梅雨入り速報にも無縁で、その後発表される梅雨明け宣言も遠い他人の話。
 ソファに沈んだまま、ぐしゃぐしゃのブランケットに身を包み、天気予報後のニュースを流し見る。その全てが、私には関係の無い話題だった。怨恨による殺人、若者にお金を騙し取られたおばあちゃん、梅雨が明けた地域では夏が訪れて、大粒の雨に打たれるサラリーマンの群れ。モノトーンの花々に時折混ざる鮮やかな花が、皆一様に駅を目指して進んでいた。

「行きたくないなぁ、学校なんて」

 行かないといけないのだ、学校には。テレビ画面の左上、時刻が五十五分になったら家を出よう。タイムリミットが少しずつ近づく。ああ、行きたくない。雨が降っていること、風が強いこと。また、あの子に会わなくちゃいけないこと。

「時刻は五十五分になりました。ここからは地元、札幌のスイーツ特しゅ」

 華やかな衣装のアナウンサーの笑顔に嫌気が差し、テレビを消す。私がこんなにも陰鬱とした気持ちでいることも知らないで。仕方なく体を起こし、昨日には準備し終えたリュックに腕を通して、事前に防水スプレーを噴霧していたスニーカーを履く。
 普段よりも随分近くに降りてきた雲は、ジャンプして手を伸ばせば届いてしまうんじゃないか。雲に掴まって、そのまま風に吹かれて、私を遠くに運んでくれやしないだろうか。
 ありえない空想ばかりが浮かんで、消えて。ドアノブに手をかけ、大きく息を吸い込む。行かなくてはならないから、それだけの使命感で外へ踏み出す。

「うわ」

 レインコートを着てくるべきだったかもしれない。制服のせいで防御力の低い足下はびしょぬれ。傘を差すが風に煽られるせいで、から傘オバケのように歩くしかない。そうしたところで無駄ではあるのだけれど、少しだけでもこの雨風に抵抗する。
 足下を見ながら歩けばいったいどのから出てきたのか問いたいほどのイトミミズが、久々の雨に喜んでいた。中には踏み潰されたかわいそうな個体もいる。踏んでしまわないようにつま先立ちをして、早く安全地帯に、と学校を目指す。早く学校に着いてしまいたい。独特な雨のにおい。私の嫌いなものだ。


「おはよう、芽衣(メイ)。来ないかと思ったよ」
「おはよ。私も来たくなかったよ」

 濡れたソックスが上履きの中で蒸れる不快感。かたい生地のセーラー服も湿り、言い難い気持ち悪さがある。不機嫌さを隠せず、リュックを置いた机が大きく音を立てた。瞬間的に静まった教室内は、またすぐ、さざ波のように騒がしくなり始める。そんな様子を友人の間中三郷(マナカ ミサト)が笑う。彼女は快活で、カラッと笑う。私が口に出す世の中の不平不満も、気まぐれな愚痴も、全て笑ってくれる。
 同調せず、共感せず、後腐れもないようなあっさりした関係を築くことができる彼女は、本当に同じ中学生なのだろうかと疑問に感じることもある。けれど確かに彼女は、私と同じ市立緑陵中学校の三年生。小学校から一緒に過ごしてきた三郷は、間違いなく同級生だった。アイドルとジャニーズが好きな、かわいい人。
 挨拶を交わしたあと、彼女は別のクラスメイトと談笑する。ああ、なんてまばゆい人だろう。

 国語の先生が朗読している間も、数学の問題を解き、保健体育で男子がひそひそ話をしている時も、その片隅に雨音がいた。和気藹々と過ごすことができていた給食の時間は、黙食が始まったことで自宅と変わらない寂しい時間になった。味のしない食事をどうにか飲みこみ、残った時間は頬杖をついて外を眺めるしか、やることがない。
 ただ、黙食を、と言われながらも、小さな囁き声は聞こえてくる。中には三郷の声があり、私の耳は雨音よりもしっかりとその声を拾っていた。三郷は友達をつくる才能をもっていた。解消されない不快さが残る幼心が、三郷の笑い声に刺激され、劣情でじとじとと湿り気を帯びていく。

 午後の授業はひとつも集中できないまま、放課のチャイムが鳴った。

「芽衣、一緒に帰ろ〜」
「うん。また濡れるの嫌だね」
「ふふ。もう今年も雨の時季だもんね。今日もあたしの家来るでしょ? お母さん迎えに来てくれてるはずだから、乗ってって」

 誘われるがまま、まだ湿ったスニーカーに履き替える。風は朝よりも落ち着いたようで、満開に咲いた色とりどりの花が校門に向かって進む。その群れにならって傘を差す。安っぽいビニール傘の私とは違い、三郷の傘は大きなマーガレットが描かれた淡い水色の傘を広げた。

「あの車だよ」

 靴が水溜まりに入り、水滴が跳ねる。きゃあ。楽しそうな声を上げて、三郷の母が運転する車に向かう。大きくてきれいな黒いワゴン車。私たちを見て自動で開いた扉からは、優しい柑橘系の香りがした。助手席に座った三郷が手櫛で髪を梳けば、嫌いな雨の隙間から石鹸の香りが広がった。

 三郷の家は私の家からそう遠くない位置にある。専業主婦をしている三郷の母は、いつでも温かい作り立ての食事を私に振舞ってくれた。学校での出来事を楽しそうに話す三郷は、本当に家族に愛されているのだろう。三郷が両親と話す時に見せる笑顔は、アルバムの中で幼い私が浮かべていた笑みと変わりなかった。

「芽衣ちゃんのご両親もお仕事大変そうね。我が家でよければ、もうひとつの実家くらいの気持ちで過ごしてね」
「……ありがとうございます」

 スカートがしわになりそうな程、強く握る。それはきっと他愛のない心配りだったのだろうけれど、迷惑だと言外に滲んでいるように感じられた。ごめんなさい、帰ってこない両親を家で待たなくて。きっと週に何度も遊びに来て、夜遅くまで居座る子供は不健全だろうし、何より家族の生活を邪魔する迷惑なものに他ならないはずだ。頭ではそう理解できるけれど、誘ってくれる三郷の優しさにつけこみたい。そんな弱さにすがっている。
 いつも通り整頓された、かわいらしいパステルピンクと白を基調としたメルヘンな部屋。部屋の中央に置かれたピンク色のクッションの上が、私の定位置だった。三郷は私を気にせずに制服を脱ぐ。無駄な脂肪のない、日焼けを知らない白い肌。まだ幼子のように家族愛に守られた彼女には似合わない、レースがあしらわれた紺色のブラジャー。発育途上の小ぶりな胸を守るそれが、男を意識しているようで、淫猥に見えた。

「かわいいね、その下着」

 男を誑かすことを目的としているようで、私は嫌いだけど。

「そうでしょ! 芽衣なら分かってくれると思ったんだよね〜! もう高校生にもなるんだからってお母さんと選んだんだ。芽衣に似合いそうなかわいいのもたくさんあったよ」
「ふうん、いいな。お母さんと行ったんだね」
「さすがにお父さんとは行けないからね。ね、高校入ってバイトしてさ、一緒にお揃いの下着とか買おうよ。ねっ?」
「うん、そうだね」

 嫌味のない笑顔が私を見る。ちゃんと笑えていただろうか。学校では聞き役が多いせいか、三郷は言葉の泉からたくさんの話題を出し始める。私はそれを聞いて、時折「そうだね」「大変だったね」と愛想笑いを浮かべるのに徹した。
 三郷のように心から楽しそうに笑って話を聞くだけの愛嬌はなく、気の利いた一言をかけられるわけでもなかった。一日の会話は三郷と三郷の両親とで、ほとんどが終わってしまう。自宅での会話は最低限のものばかり。最後に学校の話をしたのはいつだったか、思い出す方が難しい。

 それからしばらく三郷の話を聞き、三郷の母が作った料理を食べる。給食と一緒で、いつも味がしない。小料理店を営むことができそうなほど見た目も彩やかな料理だけれど、母が置いてくれるウィンナーと目玉焼きに勝るものはなかった。お腹は満ちていくのに、深い無力感にも似た虚無は心を空っぽにしていく。
 それでも美味しい美味しいと笑顔で食事を摂る三郷を見習い、満面の笑みを浮かべて見せた。満足そうな三郷の母の姿に、ばれないように息を吐く。失礼な子だと思われないように、空っぽの心がばれないように、がんじがらめの戒めで守る。そうしないと幸せな光景に心が壊れてしまいそうだった。
 食後、母からの連絡を待つ時間を、三郷の部屋で過ごす。父は夜遅くまで働いているせいで、ここ数日見ていない。母と少しは会えるけれど、疲れた顔に、私の話を聞いてほしいなど言えるはずもなかった。それでも、明日は一緒に過ごせるだろうか。

「そうだ、明日もくる? 何しよっか明日は」

 時刻は既に二十時を超えた。三郷にとって、今日という日はもう終わるのだろう。私にとってはまだ終わらない夜だけれど。

「明日かぁ。お母さん早く帰ってきてくれると思うんだよね」
「あっ、明日誕生日だもんね」

 私の誕生日を覚えていてくれたことに、少しだけ心が温まる。誕生日かぁ、いいなぁ。ベッドに座りクッションを抱えた三郷は、体を左右に揺らす。私はぎこちない笑顔を隠すことができなかった。誕生日なんていいものじゃないよと、三郷には言えなかった。三郷の気持ちを、私なんかが無碍にしてはいけない。

「駅の近くにできたケーキ屋さん美味しかったから、芽衣ママにお願いしてみたら? すごいんだよ、クリームふわっふわで、すっごく甘くて美味しいの」

 三郷からのプレゼンテーションに耳を傾け、何度か頷く。多忙な両親も私が産まれた日くらいは少し早く帰ってきて、一緒に食卓を囲み、おやすみを言い合って――なんてきっと無理だろうけれど。
 時計が二十時半を過ぎた頃、母から連絡が来たと階下から声がした。大好きな親友から解放される。胸に充満した重たい空気を絞り出すために、大きく深呼吸をした。夜道は危ないからと送ってくれた三郷の母に頭を下げ、真っ暗な自宅へ戻る。雨はいっそう勢いを強くし、時折遠くで雷鳴が響いた。

 玄関扉を施錠し、まっすぐ向かった脱衣所で制服を脱ぐ。湿気でベタつく肌が嫌で、シャワーを浴びたくて仕方がなかった。
 浴室の鏡に晒された私の肢体は、三郷のようなしなやかなものではなく、むっちりとして幼児を彷彿とさせる。ぽこんと出た下腹部と、スポーツブラで間に合う小さな胸。せめて女の子らしくありたいと伸ばした黒髪。そのどれもがアンバランスで、三郷との違いに苦しさすら感じた。
 もっとかわいければ両親は帰ってきてくれるのだろうか。いや、そんなことはないだろうな。目を閉じて髪を洗う。

 留守番を任されるようになったのは、小学二年生頃からだった。初めは、怖さもあったが、何より頼られる嬉しさと使命感に突き動かされていたのを覚えている。けれど少しずつ両親のいない時間が増え、家庭よりも仕事を優先したいだけだったのだと気が付いた。
 私だって三郷のように甘えたい。家にいて話を聞いてほしい。仕事よりも大切な存在だと抱きしめてほしい。両親と過ごした最後の誕生日は、一体いつの事だったか。私の誕生日を覚えてくれているのかさえ、私には分からない。

「なにが、ケーキをお願いしたら、よ」

 良いよね、買ってもらえる子は。良いよね、家に親がいて、愛されて、優先されているのだから。
 汚い感情が、深く底の見えない悲しさを伴って私の中身を満たしていく。温かなシャワーは、溢れた涙を隠すことしかできなかった。
 よれよれの半袖に、小学生の頃から愛用しているショートパンツを履き、ソファに座る。時刻はもう、帰ってきて一時間以上経過していた。テーブルに置いていた連絡用のスマートフォンには、早くても二十三時になりそうと両親からメッセージが入っている。
 ゴオ、とひときわ強い風が吹く。窓に叩きつけられる雨粒が、心細さを強めていく。きっとこの風に乗って遠くを目指しても、私は途中で落ちてしまう。この世界で私は負け組なんだ、三郷と違って。
 冷えたブランケットを肩にかける。部屋の電気を付けないままで、目を閉じて、雨音に耳を傾ける。ああどうか。どうかこの心細さも、三郷への劣情も、雨が溶かして流してくれますように。



*

 雑談スレの某企画に投稿したものです。


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