複雑・ファジー小説
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- 汚れた青春
- 日時: 2016/09/02 22:33
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
短編で、また、再び、ここに。
溶けるような若い快楽と、ひび割れた時間と、最愛の誰か。
- Re: 汚れた青春 ( No.3 )
- 日時: 2016/09/18 16:33
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
「お姉ちゃんって呼ばれたかった?」
「うーん……そこまでかな。私も弟っていう感じではなかったからなぁ」
「でも確かに、あそこまで育った汐音くんを見ると、弟って感じではないよね!格好いいもん!」
高校時代の友達の椿と久々に会った。
明日は日曜日。ゆっくりできる。仕事終わりに近くの居酒屋で待ち合わせして、お酒を飲む。私は弱いけど、椿はなかなかお酒に強い。すでにビールジョッキを3つ空にしている。
医療事務の仕事をしている私と、介護士の仕事をしている椿。話題の大半は仕事の愚痴か、ありえない上司の言動、理不尽な利用者の要望などが多い。だいたいは私が聞き役で、椿が喋り役だ。
高校の頃は楽しかったと、何度も椿が言う。そのとおりかもしれない。高校時代という青春を過ごしたはずなのに、社会人になった今となっては、「若かったなぁ」の一言でしか語ることができない。
あの頃、確かに私たちは、輝いていた。
今ではこうしてお酒を飲みながら、不満を垂れ流してストレス発散をするしかない。それを楽しみとしないと、社会の渦に呑まれそうだ。
話題は仕事の話から、汐音の話に移っていた。
高校のときから椿は汐音を見ると「将来、ぜったいにイケメンになる!」と断言していた。当時、小学生だった汐音は将来が楽しみねと近所のおばさんに囁かれるほど、美男子として有名で、人気があった。そして本当にその通りになっている(と私も思う)。
汐音の外見は10人が見れば10人ともが「格好いい」と肯定する仕上がりなのだ。とてもじゃないけど増田家(私の家系)の遺伝子からは、ああいう逸材は生まれないだろう。
「あれが弟ってねぇ〜。間違いとかおこらないの?」
「おきません」
「なんか血の繋がりのないきょうだいが、恋を抱いてしまう……っていうドラマ、よくあると思うの!」
「それはドラマの話でしょう」
「でも私がアンタだったら、ぜったいに禁断の恋に落ちているわ〜」
正直に言うと、私は彼を弟とは思っていない。弟としてこの家にいなかったら、たとえば、街角で汐音とばったり会ったとしたら、「ああ、きれいな子だなぁ」と思うだろう。肩と肩が触れ合うとドキッともするだろう。
でも、弟だから。
弟に、なってしまったから。
そしてなにより、愛子ちゃんの子どもだから。
私が汐音に特別な思いを抱くことは許されない。
「汐音くんのお母さんが、夏鈴のご両親と親友だったんだよねぇ」
「そうそう。中学時代からのね」
「その人も、とってもきれいな人だったんだろうなぁ」
椿には、愛子ちゃんの自殺のことを話していない。
汐音の親が亡くなって、汐音がひとりきりになって、親しい友人だった私の両親が引き取ったということだけを伝えている。彼の母親が自殺したことは伝える必要はないし、だれも知る必要はない。
「汐音くんってカノジョとかいないの?」
「いないらしいよ。前はいたんだろうけど、全然気づかなかった」
「秘密主義なのねぇ。最近の男子高校生ってどんなこと考えているんだろう」
「エッチなことよ」
「きゃーっ」
自分で言ってみて恥ずかしかった。そりゃあ、汐音だって高校生なんだから、そういう経験のひとつやふたつぐらいあるに決まっている。
私が知らないだけで。
勝手に大人になっていく。
……そういうものだろう。
「私でよかったらいつでも汐音くんオッケーだなぁ」
「年上がいいって言っていたじゃない」
「でもいい人いないんだよなぁ」
椿のことだから、格好いい人を見つけたらすぐに「好きになった」と言いだすんだろう。メンクイなのだ。好きになる映画の俳優はいつも二枚目で、それに似た人を探すのが椿の楽しみだった。
「夏鈴は、どうして平原くんと別れたの?」
懐かしい名前が鼓膜を震わせる。
高校二年から大学一年まで付き合っていた男の名前。
だれにも別れた理由を言わなかった。椿にも。
「三年付き合ってみて、わかったんだよ」
氷で薄まったお酒をごくごくっと飲んで、私は言いきる。
「私たち、合わなかったの」
帰宅するとすでに日付は変わっていた。
うちはみんな寝るのが遅い。次の日が休日となれば、夜更かしが当たり前だ。リビングに行くと、お母さんがチューハイを飲みながら連続ドラマの録画を見ていた。私に気づいて、きゅるっとこっちを見る。……うちのお母さんは、きゅるっとか、きゅるりんとかの効果音が似合う人だ。
「おかえり。椿ちゃん、元気だった?」
「ただいま。相変わらずだったよ。お父さんは?」
「少し前に帰ってきて、そのままばたんきゅうよ。珍しく寝ちゃっているから、私の晩酌に付き合ってくれないの。明後日から出張だって」
「どこに?」
「名古屋に」
うちの両親は仲が良い。今でも同じ部屋で眠っている。お母さんは少し子どもっぽい人なので、面倒見のよくて優しいお父さんは、放っておけないのだろう。
「一週間も帰ってこないのよ……。寂しいから、私も一緒に行っちゃおうかしら」
「やめときなよ。単身赴任でもあるまいし」
ほんのり赤くなっている頬を手で押さえながら、ほぅっとため息をつく。
そんな母親の姿を見ながら、私はいつも両親の仲の良さを羨ましく思うのだ。
シャワーを浴びて寝室に行き、ボフッとベッドに寝転ぶ。明日は日曜日。仕事はない。もうこのまま眠ってしまおうか。
そう考えていると、ふっと意識が離れていった。
- Re: 汚れた青春 ( No.4 )
- 日時: 2016/09/19 20:38
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
…………………まただ。
夜が深くなるとき、私の部屋はまるで別世界のようにしんとなる。時計が秒針を刻む音も、外から聞こえるカエルの鳴き声も、私の呼吸の音ですら、聞こえなくなる。
けれど、確かに感じる、誰かの存在。
私のベッドの縁に立ち止まって、じっとこちらを見下ろしてくる。
気づいてはいた。
ずっと。
けど、知らないふりをした。
触れてくる気配もない。私に話しかけようともせず、汐音はじっと私を見下ろす。何をするわけでもなく、ただ、じっと。
そして長い時間、そこに佇み、また自分の寝室へと戻っていく。
ほぼ毎夜繰り返されるこの時間を過ごしたあと、音が戻ってきて、私の心臓は扉が閉まった瞬間、バクバクと鳴り出す。
緊張した。
起きていることが相手に伝わってしまってはいないか。それを考えるとお腹が痛い。どうか、寝たふりだと気づかないでほしい。
汐音が、深夜に私の部屋を訪れるようになったのは、二年ほど前からだ。もっとも、私がそれに気づいたのが二年前というだけで、本当はいつからなのかよくわかっていない。もしかしたら、それよりもっと前から部屋に来ていたのかもしれない。
どうして私の寝顔を眺めているのか、謎だった。
それをして、彼にどんなメリットがあるのかもわからない。
弟というより男を濃く感じる時間が、どうしても苦手だ。
翌日の彼は何事もなかったかのように振舞うので、こちらも聞きにくい。
「おはよう、夏鈴」
翌日の昼に起きると、バイト前の汐音が何かを作っていた。フライパンでご飯と野菜を炒めているので、作っているのはチャーハンだろうか。私に気づくと笑顔になり、挨拶をしてくる弟は、本当に昨夜の男なのだろうか。
口の中が異常に渇いたので、冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を取り出して、ごくごくっと飲む。
「チャーハン、作ったんだけど。夏鈴もいる?」
「ほしいー。珍しいね、汐音が作るのって」
「母さんはまだ寝ているから」
「お父さんも?」
「明日から出張なんだし。ゆっくりしたいんじゃない」
ということは、今日は汐音が一番に起きたのか。
お皿に盛られたチャーハンを、向かい合わせで食べる。ほとんどない二人きりでの食事。美味しいねって言うと、くすぐったそうに笑う。子どものころから変わらない笑顔。私からしてみれば、今でもじゅうぶん子どもだ。
子ども……。
そういえば、汐音が子どもっぽかったことってあっただろうか。
この家に来て10年。
小学生だった汐音は、私たちにすんなりと溶け込んだ。家族という型にぴったりとはまった彼は、子どもだったのに、子どもっぽくはなかった。友達と喧嘩をしたことも、テストの成績が悪かったことも、何かを買ってくれと駄々をこねたこともない。迷惑や心配をかけてこなかった。
それは今も。
汐音の弱さが見えたのは、愛子ちゃんのお葬式の、あのときだけだった。
「今日はバイト何時からなの?」
「2時から。夕方には戻る」
「そもそもなんのバイトしてたっけ?」
「カフェでーす」
お洒落かよ。
カフェでバイトする汐音を想像する。彼目当てでカフェに通い詰めるお客さんもいるんだろうなぁ。
「だから料理も手慣れているのだな……」
「夏鈴のも美味しいけど」
「そういってくれるのは汐音だけよ」
「……なに、カレシは美味しいって言ってくれないの?」
「いませんから。そういうの」
きっぱり言うと、なぜか目を丸くする。
「意外。いるのかと思った」
「どうしてよ」
「なんとなく。昔はいたよね。あの……なんか爽やか系の人」
「平原ね」
確かに爽やかではあったけど、ベッドではかなりねちっこい人だった。思い出すとうんざりするぐらいに。どうしてあんな人と3年も続いていたのか、今となってはわからない。
恋愛なんていつもそうだ。お互いが熱に浮かされているあいだは求め合って情熱的になって周りのことなんか見えやしない。だけど、冷めてしまえば、冷静になってしまえば、彼が本当に私にとって必要な存在だったのだろうかひどく疑問が残るのだ。好きという感情のきらめきも、正直よくわかっていなかったのだろう。錯覚していただけで。
時間は確実に過ぎていて、あんなに大きかった平原の存在も、私にとっては小さくて薄っぺらなものになっている。
だから、汐音のほうから彼のことを話題に出すことが不思議だった。家にも連れてきたことはあるけど、興味が無さそうだったのに。
「平原さんのあと、いないの?」
「いないねぇ」
本当は何人かいた。だけど、恋人になってしまうとだめなのだ。べつに平原を思い出すとかそういうのではなく、ただ、私にとって恋が面倒くさいものであるとはっきりわかったせいだ。けっきょく誰とも続かず、今となっては出会いを求めることすらなくなった。
「夏鈴ならいろんな男から好かれそうだけど」
「なあにそれ。私、そんなにもてそう?」
「もてそうっていうか…………よくわからんけど、包容力があるじゃん」
「ほう」
それは何人かに言われたことがある。
弱さも欠点もすべて包みこんでくれそうだ、と。
確かに私は相手の弱っている姿を見ると、守ってあげたくなる。べつに男性に限ったことじゃない。捨てられている猫を拾っては、何度も「元の場所へ返してきて」とお母さんに言われたし(幸いなことに貰い手が見つかった)、クラスでいじめられている子がいれば手を差し伸べたし、フィクションだとわかっていても、映画のなかの病気で死んでいく女性を抱きしめたいと思って泣いた。
「可哀想って思っちゃうのよ。私がなんとかしてあげないとだめだっていう、正義感みたいなものにとらわれちゃうの。本当は私なんか何もできやしないのに」
「そうかな」
「そうよ。私が勝手に助けたいと思っただけで、相手が勝手に救われた気になっているだけ」
言ってしまってから、私は、目の前の弟が悲しげな瞳でこちらを見ていることに気づいた。
どうして、泣きそうなの。
聞こうとしたけど、やめておいた。
私の言葉を聞いて、汐音がどんな気持ちになったのか。想像するだけでずしりと心が重くなる。
「救われてるよ」
対照的に彼の言葉は、私の心に沈殿した重みを汲み取るような清らかさがあった。
「大丈夫。俺もそのひとりだから」
言って、途中にしていた食事を再開する。
救われている。
…………本当に?
じゃあどうしてあんなに悲しい目をしていたの。10年前と同じ表情で私を見るの。
「──眠れてないの?」
チャーハンをすくうその手が、止まった。
構わずに私は続ける。ほとんど勢いだった。
「愛子ちゃんのこと思い出して、眠れてないの?…………だから、私の部屋に来るの?」
「────やっぱり気づいていたんだ」
汐音の声が震えている気がする。
私は言ってしまったことを後悔した。それは小さな傷となって私を苦しめるだろう。これからもずっと。
それ以上は何も言わず、汐音はバイトへ行って、残された私は味のしないチャーハンを食べ終えた。
ただただ悲しかった。
言わなくていいことだったのに。
彼が隠し通そうとしていた内側を、暴こうとするなんて。最悪だ。
- Re: 汚れた青春 ( No.5 )
- 日時: 2016/09/25 14:25
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
日曜の晩にお父さんが名古屋に発った。お母さんは「ちゃんとご飯食べてね」などと言って、愛おしそうにお父さんの頬に触れていた。私と汐音が見ているせいか、きまりが悪そうにお父さんが目を逸らす。
本当に仲がいい。
年齢を重ねてもここまでお互いを必要としているなんて、なかなかできることじゃない。私には無理だ。
翌日、月曜日。
今日も私が一番早く起きた。いつも通りの家のはずなのに、ここに父がいないのかと思うと不思議な気持ちになる。まだ眠っているお母さんは、昨日、ちゃんと寝られただろうか。まるで親が子を心配するような感覚だ。お母さんは甘え上手なので、よく「夏鈴、肩を揉んでほしいなぁ」とか「お洗濯物がそろそろ乾いているころかも」とか、私に手伝いを要求してくる。ずっと昔からだ。嫌そうな顔をすると、少し目を逸らして「まぁ、もし無理だったら私がやっとくけど」と付け足すのだ。イタズラが公になった子どものようで、思わず笑ってしまう。
簡単な朝食を摂り、身支度をして、私も出勤した。
家から自転車で10分のところにある歯科医院。青い屋根と白い壁の小さなクリニックで、中に入ると胸が詰まるような匂い(私は病院の匂いが少し苦手だ)と、飼っている熱帯魚の水槽に取りつけているフィルターの音がする。受付の窓口から見える場所に水槽があるので、私は暇なときに美しい熱帯魚をじっと眺めている。ふわふわと気持ちよさそうに泳ぐ彼らに自由がないこと。本人たちは気づいているのだろか。
もうあと20分もしたら診療時間になって、ここは治療を嫌がって泣く子どもの声でいっぱいになるだろう。
院長はとても優しい人で、子ども好きな人でもある。
壁には子どもの好きそうなキャラクターが歯ブラシを持っている絵を貼ったり、待合室にはアニメソングのオルゴールバージョンをBGMにして流したりしている。なるべく医療器具の、あのキィィィィィンッという音が聞こえないようにしたいと思っているらしいが、それは難しそうだ。
時計を見る。
お父さんはきっと名古屋にもう着いている。
仕事から帰宅すると、お母さんがご飯を作っていた。
お味噌汁の匂いと、魚の焼ける音。お父さんが出張でいなくても、この家は生活音で溢れている。「ただいま」と言うと「おかえりー」という声が返ってくる。それが当たり前だ。お父さんはあまり喋らない分、不器用な優しさのある人で、思いきりのいい人だ。お父さんが仕事で夜遅くまで帰らないとき、お母さんはきまって、私にお父さんのことを話してくれた。ずいぶん小さいころに。
私は家族の誰かが欠けることに慣れていない。お父さん、お母さん、私、そして途中から汐音。このなかの誰かが死んでしまったら、私はどうなってしまうだろう。出張で不在の父を思って、ここまで心が沈んでしまうのだ。出張先で事故に遭ってしまったら……そう考えると胸が張り裂けそうになる。
ここまで思うのは、きっと、愛子ちゃんに置いていかれた汐音の姿を、今でもはっきりと思い出せるからだ。
「夏鈴、どうしたの。ご飯食べるでしょう」
「ああ、うん」
「汐音はバイトで遅いから、先に食べちゃいましょう」
お母さんの柔らかい声は私の不安をそっと拭ってくれる。きっと一番寂しいのはお母さんなのに。
テーブルを二人で囲んで、焼き魚と筑前煮とお味汁とご飯を食べる。お母さんは和食が好きだ。お父さんも。
「お父さんから連絡があってね。ホテルが広くて機嫌が良いみたい」
「そっかぁ。よかったじゃん。意外に潔癖なところ、あるし」
「本当ね。私も一週間を乗り越えないと。……遠距離恋愛ってこういう感じなのかしら」
「そうなんじゃない?」
味の染みた筑前煮を口に運び、咀嚼する。
きれいな持ち手で箸を使う。お味噌汁を飲んだあとに吐く息の温かさ。優しい音。
「こういうの、汐音は経験できなかったのかな」
「……ん?」
ほろっと口に出た私の言葉に、お母さんが顔を上げる。
少し慌てて私は付け足す。
「いや、ほら、私は小さい頃からお母さんたちの仲良しぶりを見てきているじゃない。夫婦円満というか、温かい家庭というか。それを汐音は味わってきたのかなぁって……」
家庭が満たされていると感じるたびに、愛子ちゃんのお葬式での汐音が浮かぶのだ。まだ7歳だった汐音の幼い手と強張った表情。周りの視線に怯え、警戒し、力の入った肩なんかも。
お母さんはじっと私の言葉を聞いている。
言いたいことがあるのなら、言ってごらん。
その瞳は、そんなことを言っているように見えた。
「愛子ちゃんは、どうして汐音を残して、自殺しちゃったんだろう」
ずっと抱いていた疑問でもあり、愛子ちゃんに対する怒りでもある。
汐音は愛子ちゃんの死体とずっと一緒にいたのだ。ひとりぼっちになりたくないから。首を吊って、ぶらぶらと天井から吊られている母親と時間を共にしていた。
恐ろしいことだ。
「どうして、だなんて。わからないわ」
お母さんは目を細めて寂しそうな顔をした。
「ただ、愛子は…………ものすごく繊細だったのよ」
中学時代からの親友。お父さんとお母さんをずっと傍で見守り続けた人。自分は幸せになれなかった人。子どもを置いて死を選ぶほど、追い詰められていた人。
「どうして汐音を引き取ろうと思ったの?」
「成り行き…………いいえ、違うわね。あの子を引き取ったのは、私とお父さんの義務だったのよ。愛子を守れずにいた…………守り方を間違えた私たちの、最後の罪滅ぼしなの」
お母さんはそう言うと、遠くを見る目をして、何かをじっと考え始めた。それは私の知らないお母さんの顔で、少しドキッとする。いつも甘えん坊で子どもっぽい彼女からは想像できない、影を忍ばせた大人の顔だった。
- Re: 汚れた青春 ( No.6 )
- 日時: 2016/10/01 20:59
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
お母さんと少し苦みのある話をした後、汐音が帰ってきた。
彼にこの雰囲気を悟られないよう、自然を装う。汐音は特に不審がる様子もなく、部屋に入っていった。一週間が始まったばかりなので、私もお風呂に入って、早々に部屋に行く。早起きでもあり、早寝でもある私は、布団に寝転がるとすぐに眠る。子どもみたいだ。
今夜も、汐音は来るだろうか。
人の気配に敏感な私が目を覚ましたとき、汐音はどんな顔をしているだろう。
きっと今にも泣きそうな子どもみたいな顔なんだろうな。
「起きているんだろう」
私の予想通り、夜が深まったころ、扉が開いた。キィッという小さな音で、私の意識は完全に覚醒する。目が開いてもはっきり見えるわけではない。暗闇に目が慣れるまでしばらく時間はかかる。
それまで息を潜めていると、驚くことに、汐音のほうから声をかけてきた。思わず体がビクッと硬直する。でも嘘は通じないだろう。ゆっくりと布団から出て、体を起こした。
そこには汐音が立っていた。
顔はよく見えないけれど。
「……暗いところが、だめなんだ」
初めて聞く。
私はじっと人影を見つめながら頷いた。
「どうしてか、聞いてもいい?」
「知っているくせに」
「きみの口から聞いたことがないから」
くすっと笑われた気がした。おそらく、私を見下ろしているであろう汐音が、手で首を掻く動きを見せる。
「ずっと暗いところにいたんだ。部屋の中もだけど、雰囲気というか……とにかく、あの人を纏う気配が“闇”だった。俺はそれが怖かったけど、俺には、あの人しかいなかったから」
汐音から自分のことを話してくれるのは初めてだった。
一緒に住んで10年間、私はこの子から、こういう話を聞くことはない。実際にどんな生活をしていたのか、愛子ちゃんはどんな存在だったのか、どういうことを思いながら生きてきたのか。それは、彼が話そうと思ったときに話せばいいと思っていたからだった。
でも、違う。
だれかが察して、気づいて、寄り添ってやればよかったんだ。
汐音が自分から話すわけがない。
こんなに周りに気をつかっている人が、自分の弱さを明るみに出すわけがない。
良いだろうか。
踏み込んでも。
だれも触れてこなかった汐音の内側に、入り込んでも。
「汐音にとって、愛子ちゃんはどんな人なの」
「すごく弱くて……脆くて……なんだか、優しいときと、怒っているときの差が激しい人だった。あと、すっげぇ遊び人。でもそれは、寂しさを埋めるためだって、子どもなりにわかっていたんだ」
「──愛子ちゃんは、どうして死んじゃったんだと思う?」
「どうしてって……」
「どうして、汐音を残して、死んだんだと思う?」
私が覚えている愛子ちゃんは、幼い私を大事にしてくれる優しいお姉さんみたいな人だった。自分が傷ついているぶん、子どもを可愛がる、第二の母親のような存在。
そんな人が、汐音を道連れにすることなく、一人で逝った理由なんて。
「守ろうとしたんだよ。“自分”という害から」
愛子ちゃんは何もかもお見通しだったような気がする。
自分が死んだ後、きっと遠縁の親戚ではなく、私たち家族が汐音を受け入れるということも。そこで汐音は、今の生活よりも満たされた生活が送れるということも。
それはうちの両親を信じた愛子ちゃんの、最後の守り方だった。
「私は、そう思うな」
あくまで、私の想像だけど。
「あの人は……確かに、俺にとっては最悪の母親だったよ」
「うん」
「だけど、たった一人の家族だったから。……そして不思議なんだけど、ときどき、夏鈴からあの人と同じ雰囲気を感じるんだ」
「私から?」
「あの人の葬式で、夏鈴は俺に言ってくれただろう。自分が俺の居場所になるって。忘れちゃった?」
「忘れないわ」
忘れるわけない。
忘れられるはずがない。
「夏鈴の言う“俺の居場所”っていうのは、“私の弟”って意味だろう」
「そうよ」
「──そういうの、すごく嫌だった」
苛立ちさえ混ぜられた口調。近づく体温と、汐音の匂い。同じ洗剤を使っているはずなのに、明らかに違う、男の人の匂い。
ふと気がつけば、すぐそこに汐音の顔があった。身を屈ませて、私との距離を縮める。
それは弟ではなかった。
絶対に、弟ではなかった。
「苦しいよ、夏鈴」
夜目に慣れないほうがよかったと、このとき思った。
彼が見せる表情は子どものそれではなく、どこか情欲を秘めた男のものだった。一瞬、心臓が跳ねた。いつのまに、こんなに大人になったのだろうと思う。葬式で泣いていた子どもは、どこへ行ってしまったのか。
「苦しすぎて、胸が痛いんだ」
「──私が、好きなの?」
わからない、と汐音は答える。
大事すぎてわからない、と。
「きっと恋人に対する感情じゃない。そういうのではない。だけど、だけど、弟にはなりたくない。……こう思うのはおかしいんだろうけど、何度も、思ってしまう。もし、夏鈴が……夏鈴が母親だったら、どれほど良かっただろうって……」
それは、母親からの愛に飢えた末の葛藤だった。
愛されたい。
求めたい。
受け入れられたい。
抱きしめたい。
そんな思いが内側でごちゃまぜになって、汐音本人も、よくわかっていないのだろう。
「夏鈴を俺だけのものにしたいんだ」
吐き出された言葉が、真意なのだと知る。
優しく抱きしめられた。その手が、声が、震えている。
どうしてこんなに苦しんでいるのに、気づかなかったのだろう。弟という型に無理やりはめ込んだのは、私だ。
「一度でいいから……キスしていい?終わったら、弟に戻るから。いつもの俺に戻るから……」
断る理由は、見つからなかった。
だって私と汐音は血の繋がりのない、他人なのだから。
頷くと、おでこに触れる感触があった。唇ではないことに、少しだけガッカリした。
「おやすみ」
「おやすみ」
だけど、触れるだけのキスだったのに、今までの他の激しい夜を超えてしまった。
優しい夜だった。
汐音が出ていった後、自分のおでこに触れて、確かめる。
彼に愛された、求められたことを、確かめる。
今夜だけ私の弟ではいなかった、汐音への気持ちを、噛み締める。
- Re: 汚れた青春 ( No.7 )
- 日時: 2016/10/01 21:30
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
<27歳 6月>
汐音が県外の大学へ入学して、一年と二か月が経過していた。
優しい夜があったことを、お互いに内側に秘めたまま、時間は過ぎて行く。彼は受験も一人暮らしのことも勝手に決めてしまっていて、最後まで私の弟を貫き通した。
いつまでも甘えてはいられないから。
それが、出発するとき、駅のホームで彼が出した答えだった。
甘えるべき時期に甘えてこられなかったのだから、別にかまわないのに、と思った。でも、彼が求めるもののなかに、姉弟ではいられなくなるものが含まれていることを、知っている。
汐音なりのけじめなのだろう。
お互いに手を振って別れた。
お母さんはずっと泣いていた。お父さんも寂しそうに汐音を見送っていた。どこにでもある家族の風景。汐音の帰る場所があるというだけで、満足だった。
「夏鈴は、結婚はしないの?」
夕ご飯を食べているとお母さんに突然、そんなことを言われた。
思わず吹き出してしまう。
「結婚もなにも、私、相手がいないじゃない」
「あなたなら、素敵な人がすぐに見つかりそうなのに」
「そう簡単にいかないわ」
実際に付き合っている人はいたけれど、少し前に別れてしまった。そのたびに、自分ってつくづく将来のことを考えていないなと思う。計画性がないというか、赤ちゃんが欲しいという気持ちがないというか、家庭を築く自信がないというか。
他人と上手く折り合いをつけて家族になることに、耐えられそうにない。
お母さんとお父さんは、最初から家族だったんじゃないかと思えてしまうから、なおさらだった。
「私がお父さんと会ったとき、運命の人だと思わなかったけれど、結婚までしているし」
「成り行き?」
「気づけば、隣にずっといてくれたのよ。あの頃は、英人くんって呼んでいたなぁ。今でもこっそり呼んでいるけれど」
「じゃあ、お父さんも沙耶って呼んでいるの?」
「恥ずかしいから、呼ばないのよ」
照れて笑うお母さんは可愛い。何歳になっても恋をしている少女みたいだ。
私の恋は、きっと実らない。
遠くにいる弟を思って、ときどき胸が痛くなるけれど、それはきっと、思い違いなのだ。
愛子ちゃんの手紙を見つけたのは、その日の夜だった。
6月も半ばになったので衣替えをしようと、家の押し入れをあさっていた。本当は明日にしてもよかったのだけど、一度すると止められなくなる性分だからしょうがない。
基本的に整理はされていたが、奥に汐音の衣類がわさっと出てきて、驚いた。しかもだいぶん昔の、小学生の頃のものまである。
「これ着てたっけ……懐かしい!」
そのときに流行ったアニメのキャラクターもの、体操服、お気に入りでよく着ていたズボン……。見覚えのあるもの次々と見つかり、笑みがこぼれる。お母さん、大切に取っておいたのか。一着ずつ拡げて確認しては、丁寧に畳んで元に戻す。それを繰り返していくうちに、あるものを見つけた。
思わず、手が止まる。
「これ、お葬式のときに着ていた服だ」
洗濯がされてある服のなかで、薄汚れているそれを見た瞬間、既視感に襲われる。
周りのひそひそ声、経を唱える声、欝々とした空間、愛子ちゃんの死に顔──。
変なキャラクターがプリントされている、汚れた服。丈の短いズボン。
あのとき、汐音が着ていた洋服だった。
「懐かしい……」
埃と、なんともいえない匂いがして顔をしかめる。
洗わずに取っておいたのか。
お母さんも、これに関しては色々と思うことがあったのかもしれない。私は見なかったことにしようと、今までと同じように丁寧に畳み始める。
そして──
「なに、これ」
ズボンの後ろポケットに何かが入っているのを見つけた。
どうやら紙らしい。白い紙──とは言っても、ずいぶん黄ばんでしまっている。四角に折られた紙を広げると、びっしりと文字があった。折りたたまれている手紙のようだった。
一体だれが、だれに宛てたものなのか。
いちばん上の名前が目に入った瞬間、私の頭は真っ白になる。
「────私?」
その手紙は、私宛てのものだった。
夏鈴ちゃんへ。
お久しぶりです。私のことを覚えていますか。
夏鈴ちゃんと仲良くしていたあの日から、7年が経ってしまいました。ずっと連絡もせずにごめんなさい。許してちょうだいね。
高校生になった夏鈴ちゃんの写真を、沙耶から送ってもらいました。制服姿が似合っていてきれいだった。もっと驚いたのは、高校時代の沙耶にとてもそっくりだってこと。さすが親子ですね。
このお手紙は、遺書になります。
突然どうしたのかと心配されるだろうけれど、もともとそのつもりだったの。私はこの遺書を、夏鈴ちゃんに送ります。今から書くことは真実であり、同時に私の犯した罪のすべてです。どうせ沙耶も英人も、あなたに本当のことを言わないだろうから、それではあまりにもあなたが可哀想で。私の身勝手さで、あなたに本当のことを伝えます。
夏鈴ちゃんも知っている通り、私と沙耶、英人は幼なじみです。
高校に入ってから恋人同士になった二人を、私はずっと見てきました。本当に仲が良く、お似合いで、心から応援したものです。
私の家庭が荒み、母の恋人から暴力を受ける日が続いても、二人はしっかり私の手を離さないでいてくれました。私が心を病んでも、決して見捨てたりはしなかった。いつだって二人の存在は救いでした。二人は結婚し、夏鈴ちゃんという可愛い赤ちゃんも産まれて、ますます幸せそうでした。
私みたいなものが、この天使のような子を抱いていいのだろうか。
初めてあなたを抱っこしたとき、そんなことを考えたものです。
あなたの成長を8年間ずっと見続けてきました。二人と一緒にあなたの成長への喜びを共有させてもらっていました。
精神がおかしくなり、頭がぐちゃぐちゃになっても、あなたを見ると心が落ち着いた。心は満たされていました。
けれど、それは錯覚でした。
あの日はものすごく雨の降っていた夜でした。
私はその日、ある男性と一緒にいたのですが、その人からひどい扱いを受けました。罵られ、殴られ、蹴られ、傷つけられ──思い出すだけで鳥肌がたち、震えが止まりません。男性が帰ったあと、古いアパートの隅で、私はもうすぐ死ぬかもしれないと思いました。そうすると恐怖でどうにかなりそうでした。警察も救急車も呼ぶは嫌でした。
私が頼れる人なんて限られている。
迷ったけれど、英人を呼びました。
同じ女性の沙耶には、こんな私の姿を見られたくなかったのです。女同士なのに、あまりにも彼女とはかけ離れていますから。彼女はそういう人ではないけれど、同情されたくなかったの。英人はすでに仕事が終わって、これから帰るというところでした。だけど私のただならぬ様子を心配して、すぐに来てくれました。
私の姿を見た瞬間、彼は激しく怒り狂い、私を慈しみ、手当をしてくれました。涙すら流してくれました。私のためにこれほど泣いてくれる人など、いなかった。
私は、彼の優しさを利用したのだと思います。
たった一度きりの過ちでした。
妊娠が分かって、私は沙耶にすべてを告白しました。
彼女は笑ってはいなかった。けれど、そっと私のお腹を撫でて、「お母さんになるのね」と言ってくれました。英人も認知をすると言ってくれました。
私は愚かだった。
母親になれば、子どもができれば、幸せな日々が待っていると思っていたのです。実際は慣れない育児と、先の見えない不安と、病んでいる精神状態とで、押しつぶされそうでした。汐音を小学生まで育てられたのは、沙耶と英人のおかげです。
彼らがいなければ、私は、優しい人の子どもを殺してしまうところでした。
私の子を、殺してしまうところでした。
あなたの前から姿を消していたのは、あまりにも申し訳がなかったから。
あなたのお父さんが変わってしまったわけではないけれど、私という存在は不純で、あなたの近くにいていい存在ではないでしょう。あなたから遠ざかり、ひっそりと暮らして、汐音を育てようと思いました。
だけど、もう限界だったのです。
汐音が成長するたびに、どうして英人が傍にいないのか。嫉妬をしてしまう自分がいました。なんて悪い女なのでしょうか。高望みなどしてはいけないのに。初めて沙耶が羨ましいと思いました。夏鈴ちゃんが消えてしまえばいいと思いました。どうして汐音が寂しい思いをしなくちゃならないのか……。
もうぐちゃぐちゃです。
きっとこの遺書をあなたに送ると決めた時点で、私は悪者なのでしょう。無知だったあなたに、真実を突きつけて、絶望させてやりたいと。
そう願ってしまっているのですから。
愛子
読み終わった瞬間、全身の力が抜けて、私はその場に座り込んだ。
ところどころに涙の痕がついているこの手紙が、私を責めたてる。
何も知らず、のうのうと生きてきた私の人生を、否定する。実の弟に歪んだ感情を持っている私が愚かであると、突きつける。
内容からするに、愛子ちゃんが死ぬ直前に書かれたものだろう。彼女はどういう気持ちで、汐音のポケットにこれを忍ばせたのだろう。この手紙を、12年越しに私が目にしているとは想像もしていないだろう。
「愛子ちゃん」
呼んでも、もちろん手紙が言葉を返してくるわけではない。
だけど。
「愛子ちゃん」
この手紙が証明してくれる。
汐音が、私の弟であると。
たった一人の、弟なのだと。
『私の弟』(終)
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