複雑・ファジー小説
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- こわして、みせて
- 日時: 2017/02/05 01:49
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
お腹痛いとき、より一層、孤独を感じます。
なんだかんだ、冬の夜は寂しいですね。
そんな自分が嫌いじゃないです。
- Re: こわして、みせて ( No.3 )
- 日時: 2017/02/26 13:17
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
今日は土曜日なので、夕方からバイトが入っていた。
今は昼前。まだ時間がある。
カップラーメンに湯を注ぎ、きっちり3分待ったあと、蓋を開けた。立ち込める湯気にのって食欲をそそる匂いがする。千秋もすみれも、黙ってそれを食べた。自炊をしていないわけではないが、今は何かを作ろうという気になれない。カップラーメンはどちらかといえば苦手な分類だ。食べる前は美味しそうな匂いだと思えるが、完食したあとも部屋に充満し、見知らぬ誰かがこの部屋に入ったら必ずラーメンを食べたという事実がわかってしまう臭いが嫌なのだ。よほど自分が料理することに気のりしないときに食べようと思っていたが、今がそのときなのだろう。
食べ終わり片づけたあと、千秋は何気なくすみれに尋ねる。
「どこに住んでいるの」
「別れた男のところに住んでいたの」
寄生虫みたいにね、とすみれが付け足す。
反応しづらいなと思った通り、千秋は無反応を貫いた。貫くことにした。
「仕事は?」
「してないわ。だから、あいつがいなくなったから、人生終わり」
「終わりって……」
「おーわーりー」
そう言って宙を仰ぐ。左腕の傷はうっすらとしていて、注意深く見ないと気づかないほどまで回復していた。変な話だが、時間は確実に流れているのだと気づく。皮膚の細胞が切り裂かれた肌を再生させ、時間をかけて、その痕を消していく。目の前にいるすみれは確かにすみれ本人なのだが、3年前の16歳だった少女はどこにもいない。そう思えば思うほど拭い去れない既視感が纏わりついて奇妙な感覚に陥った。
すみれの容姿が3年前とそれほど変わっていないせいかもしれない。
傷はほとんど見えない。時間自体は流れている。すみれには変わっていないと評されたが、千秋自身もいろいろと環境の変化に伴って、自身の外見的な(内面は相変わらずではあるが)変化はあった。でもすみれは変わらない。ぞっとするほど、彼女は彼女のままだった。
「セーブ地点が千秋のところなのよ」
自分の人生をゲームに例えるなら、とすみれは続ける。
「千秋のところでセーブするでしょう。それで、また冒険をして、ゲームオーバーになったら、もう一度セーブ地点に戻って……。だから、ここにいるんだと思うわ」
「僕はセーブ地点かよ」
「いいじゃない、利用させてよ」
千秋は苦笑する。それってつまり、ここに住まわせてほしいという、遠まわしな要求なのだ。そしてすみれは、千秋が断らないことを知っている。
ため息をついた。
つきながら、これで煙草が吸えたなら、どれほどいけている男になれただろうと、自分の体質を呪った。アパートの自分の部屋から、やけに感傷的な気分になって、煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐く自身の姿──。そこまで想像したが、やはりどうしても自分の女顔のせいで、いまいちきまらない。
「どこかであなたに会えると思っていたの」
「嘘だろう」
「予感、といえば聞こえはいいけれど。でも、これで本当に会ったら、もう私たちは呪われていると思ったの。だって、あれほど互いに影響を受けようとして、失敗した例ってほかにないから」
失敗、ねぇ。
千秋は目を細めて、当時のことを思い返そうとした。
でも無理だった。
すみれを知った高校3年の7月。そして、千秋が卒業するまでの約7か月間の出来事を、正直よく覚えていない。誰かに説明しようとしても、本当に自分が経験したことなのだろうか、自分の人生は誰かの夢なのではないかと、ひどく不安になる。不安になったと思えば、すぅっとその枠組みから自分だけが抜け出した気持ちにもなるので、すみれとの時間は曖昧なのだ。
「手伝ってほしいことがあるのよ」
「なにかな」
「男の部屋から、私の荷物を運び出してほしいの。べつにたくさんあるわけじゃないわ。少しの服と、煙草と、ぬいぐるみぐらいよ」
男の住むアパートは電車を乗り継いで20分ほどのところにあった。
電車から降りた途端、目的地へ向かうためにせかせか歩く人間の波にのまれ、何度かすみれとはぐれそうになったので手を繋ぎながら、互いの存在を確認し合いながら辿り着いた。
アパートは駅から出て、ドラッグストアやリサイクルショップや今にも潰れそうな飲み屋が何軒か立ち並ぶ通りを真っすぐ行ったところにあった。千秋の住んでいる「やなぎハイツ」とそれほど変わらない外観だった。
階段を登り、「304」とある表札の前に立つ。千秋がインターホンを押そうとするのを手で軽く制し、すみれが当然のように鍵を出した。当然といえば当然だ。昨夜までここはすみれの自宅も同然だったのだから。
千秋は内心ドキドキだった。不法侵入している気分だ。
中に入ると微かな煙草と、甘ったるい芳香剤の混じった匂いがした。男は留守のようだ。すみれは「ちょっと待っていて」と言い残し、一番奥の部屋に入った。しんとした廊下は冷たく、本当にここに昨夜の男が住んでいたのかどうか怪しいほどだ。彼は、年齢は千秋と同じぐらいだろう。すみれに何度怒鳴られようが、喚かれようが、この時間さえ耐えきれば自分はこの女から逃げられると思っている目をしていた。千秋が、高校時代に何度も見てきた目だ。すみれに惹かれる男が、必ず最後に見せる目。勘弁してくれ、もう俺はこりごりだと言いたげな──。
「おまたせ」
すみれがピンク色の、つやつやと光るキャリーバッグを重たそうに持ってくる。それを千秋に渡し、自分はもう一度奥へ引き返し、大きいクマのぬいぐるみを抱いて戻ってきた。鍵はテーブルの上に置いたとすみれが言う。なので、鍵はかけなくてもいいと。千秋は何も言わず頷き、階段を降りた。
キャリーバッグが鈍い音をたてている。アスファルトと小さい丸タイヤが擦れる音。
すみれはぬいぐるみを脇に抱え、器用に煙草に火をつけて吸った。
「好きだったはずなの、お互いにね」
小さく呟いた。
聞こえないふりをして、千秋は空を見る。
目が眩むほどの青だった。
- Re: こわして、みせて ( No.4 )
- 日時: 2017/03/05 14:50
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
「恋愛っていうものほど、情熱的で周りが見えなくなることってないよね」
帰りの電車のなかで、唐突にすみれがそんなことを言う。
千秋は足のあいだにピンクのキャリーバッグをしっかりと挟み込み、これから本当に始まろうとしている無計画なすみれとの同居生活を想像していたので、やや反応が遅れる。
「うん、そうだね」
「そんな恋愛をしたことがあるの?」
「ないよ」
千秋は即答する。すみれへの好きという感情は、情熱的でもなんでもない。実際、すみれに恋人ができたときも、千秋の心が荒れ狂うことはなかった。恋愛と呼んでいいのか定かではない。べつにすみれと関係を持ちたいと強く思ったことはない。彼女を抱いて眠るとき、反応してしまう己の体の仕組みは別にして。
同じ車両は千秋とすみれのほかにも、シワ一本に深く己の歩みを刻んでいそうな初老の男性と、みょうちくりんな頭の女の子とその母親と思わしき女性、金髪の青年が乗っている。彼らは大きなぬいぐるみを抱くすみれを怪訝な表情で見たが、すぐに視線を逸らす。
ただ、みょうちくりんな頭の女の子──小学校低学年ぐらいで、男の子のように刈り上げている短髪のいたるところに、イチゴやレモンや桃などのピンバッチをつけている──が、丸い目をもっと大きく見開き、すみれを見ていた。
すみれはそれに気づくことなく、ぼんやり窓の外を見る。
甘いものが食べたい、と千秋は思った。
駅に着き、煙草を吸ってからすみれが急にハイになった。
気分の浮き沈みが激しく、扱いづらくて面倒くさいが、千秋は慣れている。近所のコンビニで涼み、買ったアイスバーを店内で齧っているときも、妙な鼻歌を歌っていた。すみれは音痴だ。
「きみが一緒に住むのなら」
機嫌がよさそうなので声をかける。
雑誌コーナーで週刊誌を眺めていたすみれが顔をあげる。
「僕は学生だから、バイトと少しの仕送りでなんとかなっている。だけど、きみが一緒に住むっていうのなら、バイト代だけでは足りない」
「あら、じゃあ私、働くわ」
あっさりとしたものだった。
千秋は少々面食らったが、「働けるんだ……」と正直な感想を述べた。すみれが眉間にシワを寄せる。
「私だってバイトをした経験ぐらいあるわよ。千秋はどこでバイトしてるの」
「居酒屋だよ。今日も、夕方からあるんだ」
「そのあいだ、私はどうすればいいの」
「部屋にいてよ」
「退屈じゃない」
「ついてくるつもり?」
「店長に話をつけて、そこでバイトできるように頼んでみる」
そうだった、と千秋は思い出した。
すみれは「やる」と決めたことに対して行動を起こすのが早い。思い立ったらすぐに動き出すのだ。それが後からどういう結末になるのか、まったく予想もしないで。危なっかしいのだ。
週刊誌を戻してコンビニから出る。
直射日光がじりじりと肌を焼く。アパートまで歩いてすぐなのに、鬱陶しいほど汗が流れる。頭部のてっぺんが痛い。すみれは涼しそうだ。どうしてこの暑さのなか、あんな涼し気な表情ができるんだろう。暑くないわけはないのに。
「さっきのバイトの話、本気?」
「本気だよ。だから今日、私をバイト先に連れて行ってね」
「それはいいけど…………」
心配事はひとつだけだった。
千秋はバイト先のメンバーを思い浮かべ、一体だれがすみれに恋をするだろうと想像する。あるいは、すみれが恋に落ちるか。恋愛事に関して暴走気味のすみれのことだ。常に渦中にいて、嵐のように、引っ掻き回す。これだけ聞くとただの疫病神のように思われるが、そうではない。
すみれは、人間の本質的な闇を引き出しやすいのだ。
相手が彼女に油断しているせいなのか、胸の内を打ち明けやすいのか、それとも依存してしまってダメになるのか。どちらにせよ、すみれはずっと人間の闇と一緒にいた。
千秋と出会ってからも。
出会う前も。
- Re: こわして、みせて ( No.5 )
- 日時: 2017/03/16 21:41
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
千秋の働く居酒屋「ノドカ」にすみれを連れて行くと、店長の静流が「おや」という顔をした。とたんに口元を緩めて意味深な視線を送ってくる。酒の瓶が脇に置かれているので、それを倒さないように奥に向かう。営業開始30分前なので、まだ客はいない。
静流の視線を無視して、小汚い厨房の奥の事務室にいる愛子に「すみません」と声をかける。
スマホをいじっている手をとめて、愛子がちらっと千秋を見る。千秋と、その隣に立っているすみれを見て口をぽかんと開けた。
「えらく美人な子だな」
「高校のときの後輩なんですよ。ちょっと愛子さんにお願いがあって」
「ええ〜、なになに」
愛子の目が好奇心で輝く。相変わらず化粧が濃い。しなくてもきれいなのに、と千秋は思う。
「実はいろいろあって、今僕と一緒に住んでいるんですよ。それで、バイト先を探していて」
「一緒にって……師岡くんと?」
「そうです」
「ほほーう」
唇を指先でついっとなぞる。愛子の癖だ。
「年頃の若い男女が同じ屋根の下ふたりきり……。師岡くんもやるね」
「いや、そういうのではないんですよ」
「恋人でもない女の子と一緒に住むなんて、そっちのほうが妙だわ。まさか、妹みたいなものとか言うんじゃないでしょうね」
「違いますよ。後輩です」
「ただの後輩?」
しばらく考えて、
「そうですね」
と答えておいた。
自分たちの関係性を他人に説明するのには「よいしょ」がいるし、何しろ、うまく伝えられないので面倒だった。言葉にすればするほど安くなると思ったのだ。
ただの後輩と一緒に住んで、バイト先まで探すなんて、絶対に二人の間柄に何か特別な関係がある、と愛子は思ったが、千秋の澄んだ静かな目を見ていると、根掘り葉掘り聞こうという気は起きなかった。
「名前はなんていうの」
「瀬谷すみれです」
すみれが答える。愛子は目を細めた。
「すみれちゃんかぁ。可愛い名前ね」
「よく言われます」
「ここ、土日とか忙しいけど、やれる?」
「やります」
「いやな客とかいるよ。セクハラとかさ。あなた可愛いから、注文するふりしていろいろ聞き出す人が絶対に出てくるわ」
「半年前までキャバクラに勤めていたから、そういう男には慣れているの」
千秋が微細に眉を動かした。初耳だったのだ。
「あらら、そうだったのか。そういうことなら、お酒の種類とかもわかるわよね」
「ええ」
「よっしゃー、決まり。明日、履歴書持ってきてくれる?」
「わかりました」
淡々と話が進んでいくので、この人に頼んでよかったと千秋は思った。愛子自身、苦労も多かったので、何か訳のある女を見ると世話を焼きたくなると話していたのだ。強い同性が身近にいると、すみれも少しは落ち着くかもしれない。もっとも、そうなってくれれば自分なんていらなくなるだろう……。
二人がシフトなどの話をしているのをぼんやり眺めていると、後ろからぐいっと腕を引っ張られた。
静流が立っていた。
「勝手に話を進めるなよ。ここの店長は俺ですぜ」
「すみません。バイトのシフトとか面接とか、愛子さんが担当されているから」
「まあ、そうなんだけどさ。えらく美人な子、連れてきたな」
驚きと感心のこもった口調。すみれを見た人間はまずその外見を褒める。美人だとか、可愛いだとか、そういった類のもの。それらにいっさい、すみれは感情を動かされない。自分の顔が整っていることぐらい、すみれは承知していた。
予想していたとおりだ。
愛子の夫であり、「ノドカ」の店長である静流は、昔から女の噂が絶えない男だった。愛子も今では浮気を公認している素振りを見せるが、数年前までは派手な喧嘩をしては、バイトたちで仲裁することもあった。
離婚届けを突き出さないのは、愛子自身の器が大きいからだろう。
今も、すみれを興味津々な様子で眺める静流を、じろっと睨みつけ「手を出したらぶっ殺すよ」と言う彼女に「いやぁ、千秋くんの連れなら出さないよ」と軽口を叩いている。
愛子がいれば大丈夫だろう。千秋のなかで妙な安心があった。愛子が激怒した一年前の浮気以来、静流も落ち着いたようだし、なによりすみれのタイプではない。
すみれは急に現れた静流を怪訝そうに見ている。
目が合っているというより、睨み合っているようだ。
「どーも。徳間静流です。愛子の旦那ね」
「仮だけどね」
「仮じゃないよ」
愛子が楽しそうに笑う。
二人の間柄がよくわかっていないすみれだけ、愛想笑いを浮かべていた。
確実に自分の日常にすみれが取り込まれていく。
一瞬、過去に沈殿した淀みの塊が爆発しそうになった。それをぐっと堪えるために、奥歯を強く噛む。自分だけが額の外にいる感覚だ。千秋の日常は、千秋自身のものであるはずなのに、なぜか他人事のように感じてしまう。
「過去に置いていけばいいのよ」
高校の秋。
すみれの言葉が蘇る。
「起こったことはしょうがないから。ここで置いていけばいいのよ。忘れてしまえば、なかったことになるから」
千秋は困惑する。
自分は、何を忘れているのだろう。何か、大切な、暗い思い出を──
- Re: こわして、みせて ( No.6 )
- 日時: 2017/03/18 10:30
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
とても疲れた日になった。
蒸し暑い帰り道。首筋に溢れる汗をタオルで拭いながら、ぐったりした表情で千秋が思い足取りで家路につく。ビール瓶の入った籠を何度も持ち上げたため、腕が痛かった。それに、事務室でテレビを見たり、冷やし中華を食べたりするすみれが一体何者なのかを、しつこくバイト仲間に聞かれたせいでもあった。すみれが明後日から働き出すと知ったバイト仲間は、休憩のたびに彼女に話しかける。見え見えの下心と、好奇心の合わさった瞳ですみれを見つめる。その横顔に嫌気がさしながら、鶏肉を焼くことに専念した。
すみれは軽くあしらい、慣れているのか冗談も混ぜながら相手を拒んでいた。それがぎゃくに可愛いとますます男たちは浮足立っていたが。
すみれの履歴書が必要なので、途中でコンビニに寄り、履歴書を買って帰った。証明写真は明日撮ることにした。
アパートに戻り、交代でシャワーを浴びたあと、千秋はすみれにこれからのことを話そうと言った。千秋が抗議を受けているあいだはどう過ごすか、ひとりで生活する気はあるのか、将来をどう考えているのか。
すみれとは決して恋人ではない。そういう関係になったこともない。
だからこそ、ある程度のビジョンは頭の中に入れておきたかった。未来が見えないことほど不安なものはない。それに曖昧で微妙で複雑な時間を共有してきたすみれと、ずっと一緒にいていいのかどうかもわからなかった。
「愛子さんって人、きれいな人だよね」
「そういう話をしているわけじゃない」
「芯があるっていうか、とても強そう。だからあの店長と結婚できるのね」
酔った女の客から異様なほど話しかけられる静流。普段は温厚で決して人を殴らないが、カッとなると手がつけられず、二十代の頃は傷害で警察に世話になったこともある男。
自分とは大違いだ。
千秋は内心、彼を苦手としていた。憧れてもいるが、どうしても自分にない男らしさを持つ静流を、どこか妬んでいた。嫉妬は面倒くさいし、疲れる。そう思い、普段は感じないようにしているのだが。
「キャバ嬢をしていたって、言っていたね」
「ええ。高校を卒業してすぐに」
「そこらへんの話を聞いてもいいか」
「さっきは未来のことを話そうと言ったのに」
挑発的なすみれの視線に思わず目を逸らしてしまう。どうしても彼女の視線には勝てない。千秋の態度に、すみれの表情は薄い失望の色を濃くさせた。そして口を開く。
「家にはいたくなかったから、こっちに来てみたの。すぐにお金が必要になって、二年ほど働いた。そのあとは、千秋の想像通りだよ。付き合った男の家に転がり込んで、ぐうたら生活を堪能してた。すぐに、捨てられたけど」
「それで僕と再会した」
「千秋がここにいるなんて、思ってもみなかったのよ。だって、きみは卒業後のことなんて、なにひとつ私に言ってくれなかったんだから」
「それは誤解だ。すみれが僕を避けたんだろう」
「そう思ったんだ」
「ああ」
「そう。……そうだね。私は、きみを避けていた。もう会わない方がいいと思っていた」
すみれを手放して三年という時間が過ぎた。確実に二人のあいだに変化がある。それがまだ実感できていないだけで。再会したとき、はっきりと喜びを感じられたのに。あれすら妄想だったのかもしれない。千秋は左のこめかみを激しく指で押してみる。
「ああ、その癖」
すみれが懐かしそうに口元を緩めた。
「高校時代に戻ったみたいね」
その日、千秋とすみれはお互いを抱きしめ合って眠った。
けっきょく未来のことについて話すことはできなかった。
- Re: こわして、みせて ( No.7 )
- 日時: 2017/03/26 09:14
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
02
雨の音がする。今は何時だろう。
浅い眠りを繰り返したせいで、すっきりしない。頭が、ぼうっとする。起きているという感覚もないまま、机の上の時計を探す。昼の11時だった。分厚い雨雲のせいか、灰色の絵具を零したような空だった。薄暗い部屋の小さな窓が、雫で濡れるのを伊豆真琴はじっと見ていた。
どのくらいそうしていただろう。雨の音が耳にこびりつくので、テレビをつける。しばらくして、今日、中学時代の友人が訪ねてくるのを思い出した。カレンダーを見て、火曜日であることを確認する。一瞬、どうして平日に高校生のあいつが訪ねてこられるのか不思議に思ったが、なるほど、一昨日から夏休みが始まったのか。
大学を受験すると言う友人を、自分はどんな気持ちで声をかければいいのかわからなかった。それほど偏差値の高くない、普通の私立大学。自分とは違い、まともに高校に通っている友人が、どうして自分のような人間と未だに関わっているのかわからない。
真琴の父親が事故で亡くなったのは、一年前。
サラリーマンだった父は、信号無視をしたトラックに轢かれ、46歳の若さでこの世を去った。あまりの突然の訃報に父がいなくなったという実感がなかった。泣いている祖父母の声だけが響いていたのを覚えている。そのときの記憶が正直薄い。ふわふわと、夢の中にいるような感覚。と同時に、これからどうすればいいのか、未来のことを真剣に考えなければならない残酷さ。夢と、現実の狭間に漂っていた。
高校だけは卒業しろと言う祖父母を押し切って、中退し、土方の仕事を始めた。体力的にきつい仕事だったが、何かに没頭しなければ、悲しみに暮れてしまうと思った。それではいけない。真琴は自分を奮い立たせた。悲しんでしまえば、父親の死を実感してしまえば、自分はどうなるのか。それが怖かった。母親は幼い頃に出ていったため、顔も覚えていない。
煙草に火をつけ、煙を深く肺に送り込む。頭痛がした。眠っていないせいかもしれない。
昼過ぎに来る友人は煙草を吸わないため、煙臭い部屋を換気しようとする。と、雨であったことを思い出し、嫌になった。最近、嫌になることが多い。どれほど些細なことでもキレやすくなっている。人相も悪くなり、前々から「不良だ」と言われてきたが、今では前科のひとつやふたつあるのではないかとからかわれるほどだ。
決してそんなことはない。
洗顔のあと、鏡でじっと自分の顔を見てみる。染めて傷んだ茶色の髪。数か月前まで長かったが、夏は暑いので最近ツーブロックにした。まだ高校に通う年齢なので、どこか幼っぽさも残る。身長が高いので二十代に間違えられるが、誕生日が冬のため、17歳だ。あまり笑わない方なので久々に笑顔を作ろうとしたが、怖すぎると自分でも思う。
きっかり約束の時間に師岡千秋はやってきた。
扉を開けると、どす黒い傘をさした千秋と目が合う。雨で濡れたのか、前髪が少し濡れていた。
師岡千秋は中学の三年間、同じクラスだった。二人とも変な意味で他生徒から注目を浴びていた。真琴は素行の問題について、千秋は性別不詳な外見について。もっとも真琴は、外見が派手なだけで素行には特に問題はなかった。ただ、さぼり気味だったというだけで。喧嘩をしたこともないし、入れ墨だってない。他校のギャルな女子と遊んだこともない。高校2年まで、童貞だった。
特に気が合うわけではなかったが、波長が合った。自分たちを見て色々と言っているやつらを、どこか冷めた目で見ていたし、それらを避けて二人でいる時間を好んだ。だんだん周囲も二人の容貌とのギャップに気づき、普通に接してくれるようになったが、それでも熱が収まるまで半年かかった。
「なんか、ものすごく男らしくなった」
そういえば前に会ったのは髪を切る前だったかと、真琴は思い出す。
千秋は妙に熱っぽい視線で真琴の髪型をじっと見ている。黙っていれば男か女かわからない千秋は、ずっと男らしさについて憧れを持っているらしい。喧嘩が強そうな真琴に喧嘩を教えてくれと無理を言ったこともある。真琴が一度も喧嘩の経験がないことを明かすと、とても驚いていた。
奥の部屋に入ると、千秋はまるでそこが自分の部屋かのようにくつろぎだす。
テーブルに置かれたタオルをとってガシガシと頭を拭き、「あっちぃ」と言いながら扇風機をつける。そして脇にあるシングルベッドにもたれかかり、体の力を抜いた。お互いの家を行き来しすぎて、真琴もそれが当たり前になっている。タオルを片づけたあと、「雨だな」と声をかけた。
「雨っすよ」
「なんかこの時期、頭痛くならねえ?」
「あー……気圧がうんたらかんたらでな」
二人が一緒にいても特に盛り上がる話はない。ぼんやりと、とりとめのないことを話す。
だから、今日も。
真琴はあくびをしながら、いつものように流れる心地いい時間に身を浸そうとした。
その瞬間、千秋がこちらをじっと見ていることに気づく。
「なに」
「ちょっと、僕の話を聞いてほしいんだけど」
なんなんだ、その話の振りは。
今まで見たことのない神妙な顔をしているので、真琴は身構える。
雨の音が強まった。
ノイズのような音。
千秋の首筋に赤い痕があるのを、このとき、初めて気づいた。
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