複雑・ファジー小説
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- 世界は君に期待しすぎてる
- 日時: 2019/06/09 21:47
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: 3W5gzPo5)
*
精通してすぐに、僕は童貞を失った。
□はろう、浅葱です。のんびりと執筆していこうと思います。
□軽度(r15程度)の性的表現が頻繁に入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。
□軽度(r15)の暴力描写が入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。
□目次
『土砂降りレイニー』>>001-008
>>001 >>002 >>003 >>004 >>005 >>006 >>007 >>008
幕間『夜更け過ぎの雨とともに』
>>009
『爽天シャイン』>>010-020
>>010 >>011 >>012 >>013 >>014 >>015 >>016 >>017
>>018 >>019 >>020
幕間『朝、溶け出す淡い期待』
>>021
『夏色セゾン』
>>022
□
相沢 幸太 / あいざわ こうた
相沢 伊織 / あいざわ いおり
井口 真弘 / いぐち まひろ
大畠 暦 / おおはた こよみ
木城 春輝 / きじょう しゅんき
奈良間 誠也 / ならま せいや
朝日奈 圭織 / あさひな かおり
佐藤 大輝 / さとう たいき
□special thx(敬称略)
もうきっと、世界の誰もが夢中だ / 三森電池
失墜 / 三森電池
since2017.04.20
*
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.13 )
- 日時: 2018/08/03 19:56
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rtfmBKef)
あの日からほのかさんとは一切会話しないまま、念願の林間学校の日になった。少しでも家にいる時間を減らしたいと思っていた僕にとっては、家にいなくていいことは救われた気になる。父さんの運転する車に乗り込む前、伊織とは会わなかった。今まで通り、特に話すこともなく、日々が過ぎている。
「忘れ物ないか?」
「たぶん」
そうか、と父さんが言って、話は終わった。エアコンの冷たい風が僕の首筋めがけて吹く。父さんは器用に左右の線からはみ出ずに、車を運転する。いつもより遅い時間に家を出るまで、あまり父さんとは話せなかった。あの日から、僕ともほのかさんとも距離をとっているんじゃないか。窓越しでは伺えない父さんの表情を想像する。
「母さんは嫌いか?」
答えられない。驚いて見開いた瞳と同時に、心臓が掴まれるような感覚。血の気が引いていく。
「母さんの火傷と青あざさ、少し良くなってきたぞ」
それでも父さんは話し続ける。
「幸太」
いつもの優しい声。
「今の母さんより、前の母さんの方が好きかい?」
ゆっくりと、言葉は出せなかったけれど、頷くことは出来た。わがままだとは思う。結婚するのも離婚するのも、僕が思ってるより大変なはずだ。
「頑張ってくれてたんだな」
そう言って、僕の頭を撫でる父さんの手に、今までしまい込んでいたものが湧き出る。撫でられたのはいつぶりだろう。中学の入学式とかだったっけ。鼻をすすりながら、腕で目元を拭う。僕の嗚咽がおさまるまで、父さんは何も言わなかった。
「……怒られると思ってた」
目頭がまた、じわりと熱くなるのが分かる。
「幸太がやった事はちゃんと謝りに行かないとダメだぞ? ただ父さんも勝手に決めた部分もあるから、受け入れられなくて当たり前だよ」
右に曲がる。
「あの人は、怒ってないの」
「悪い事をしたって落ち込んでる。本当の母親じゃないのに出しゃばったって」
「……あ、そ」
謝りないといけない、かもしれない。国道12号を右折して、緩やかな坂道を進む。
「楓が幸太って名前つけたって、知ってたっけ?」
「楓?」
聞いたことのない名前だった。知らないよ、と続けると父さんは今まで見たことがないくらい、優しく微笑む。
「幸太の母さん、相沢楓」
「え、お母さんが名前付けたの?」
父さんは、ああ、と笑った。信じられない心地だ。記憶の中だけの、大切なお母さんに名前をつけてもらっているなんて。
「楓がね、幸太にとって、幸太の人生が素敵な巡り合わせで満ちるように、望んだように人生を送ることができるように豊かでありますように、って。……ほらついたよ」
父さんは幸せそうだった。生徒玄関前に設けられた簡易ロータリーには、大型バスが停る。四台伸ばすが並んでいると、教科書で見たベルリンの壁のような感じがした。父さんと一緒に車から下りる。他にも続々とやってくる生徒に、チラチラと見られている気がした。
「はい荷物」
差し出した手に、父さんから荷物を受け取る。たった二泊分の荷物は軽い。
「行ってらっしゃい」
「……うん、行ってきます」
車が校門を抜けていく。左折する父さんが見えなくなるまで、僕はその場から動かなかった。母さんが付けてくれた名前を、大事にしよう。新たな決意が芽生えていた。僕は父さんと母さんのたった一人の息子なんだ。確かな安心が、僕を包んでいるみたいだった。
バス内でのホームルームも終わり、今は前後左右関係なく様々な話題が飛び交っている。通路を跨いで横一列に、いつもの四人で座った。窓際にそれぞれ真弘と奈良間が座り、僕と春輝の間に通路がある。
「そーいや朝さ、幸太のとーちゃん見たぞ」
身を乗り出して、奈良間が言う。真弘にも数えられだけしか見られていない父さんは、僕達の中ではちょっとしたレアキャラ扱いをされていた。仕事も任せられ、プロジェクトリーダーとしてチームを持っている分、家にいる時間が短いからかもしれない。
「どうだった?」
「すっげー若い……」
春輝に、あの若さは四十くらいだべ、と真剣な顔で奈良間が話す。奈良間の中で、僕の父親像はどうなっているのか気にもなったが、奈良間の予想はいい線だ。ちらりと僕の左手に座る真弘を見る。周りが大声で話しているのが嫌なのか、高そうなヘッドフォンを付けて、窓に頭を預けていた。大畠から連絡がきてから、僕は真弘と連絡をとらなくなっている。その事を気にする素振りを見せない真弘は、もしかしたら、僕がいてもいなくても変わらないのかもしれない。
「父さん、まだ三十四だよ。今年で五になる」
笑っていれば、奈良間達と話していれば気にしないはずだ。大きな声で驚いた二人を笑いながら、僕は背中に真弘を隠した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.14 )
- 日時: 2018/08/25 19:44
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: L5UrJWz7)
林間学校の間使われる、道立みどりの村。だだっ広い草原は行事がない限り、一般市民にキャンプ場として解放しているらしい。バスを降りてそれぞれ荷物を持ち、管理者がいるらしい場所まで向かう途中、日差しと暑さにやられてしまいそうになる。奈良間は他クラスの生徒と楽しそうに話しているが、真弘も春輝も汗をかいて辛そうだ。
「春輝、何か持つか?」
春輝の腕にはレジ袋に入った料理用品をたくさんかけられ、五キログラムと表記された炭の箱を二つ持っている。男子といえど文化部だ。運動部の僕や奈良間と比べ、力は無いだろう。
「まじ助かる……」
立ち止まった春輝から炭の入った箱を二つ受け取る。やっぱ文化部だな。
「楽?」
「かなり」
ありがとう。そう言って笑う春輝に、頷く。頭も良くて人当たりも良いのに、不思議と春輝は彼女がいない。中学時代から仲のいい女子がいてもおかしくないような気がする。
「それにしてもあっついし遠いなー。まだあと何百メートルとかある気ぃするんだけど」
「え、あー、たしかに。僕らより、女子の方が大変そうだけど」
そう言い近くを歩いている女子を見る。露出している腕や脚に日焼け止めを塗りながら歩き、中には腕を守るために取り外しできる袖のようなものを付けている生徒もいた。手で日除けをしているけれど、化粧は汗で崩れているから、ほとんど意味はないんだろう。
「あっちにはしんどそうな真弘がいる」
苦笑いする春輝の方を見ると、眉間にしわを寄せ、息を荒らげて歩く真弘がいた。持参してくれたらしいテントの部品を、重たそうに持っている。
「手伝ってくる」
「うん、俺は誠也回収してロッジ向かうな」
春輝と別れ、真弘の元へ向かう。途中から僕に気付いていたらしく、僕が笑うと真弘も困った様子で笑った。
「テントありがと。炭と交換する?」
「しねーよ、そっちのが重てーべぜってー」
「多分」
首元の汗を拭い、「っし」と気合いを入れ直し、真弘が歩き始める。いつもより前傾で必死に歩く真弘にペースを合わせ、僕ものんびりと歩く。春輝ほどではないが、だんだんと腕が疲れて、息が荒くなりそうだ。
「あと少しだから、ダッシュして勝った方がジュース奢るってどう?」
「あー……? 幸太勝つだろ」
僕の提案は、じっとりとした目付きの真弘に、暗に否定される。
「ハンデ付けるよ」
「ちょーしのんじゃねーよ」
「僕、十数えたら行くから。はい、よーいスタート」
「覚えとけよ、てめー」
そう悪態をつきながらも走っていく真弘の背中を見る。奥に、ああ、大畠か。自分用の泊まる荷物しか持っていない様子だった。恨めしそうな顔。僕に対してかもしれない。真弘への恨みが、今この時も積もってるのだろうか。ドラマで見るようなあからさまの悪意に、真弘はきっと気付いていない。
「世界が違うんだよ」
お前と真弘の住む世界が、同じなわけがないんだ。先に走っていく真弘を追いかけながら、僕は大畠と目が合った。視線を外す瞬間に、大畠が悪く笑った気がする。ああ、気持ち悪い。もう真弘に追い付くことはできないだろうけど、大畠を忘れるには、走ることは最適だった。
「いけいけ奈良間ーおせおせ奈良間ー」
木槌を持って杭を打つ奈良間に、ジュース片手に座る真弘が応援する。教師や施設からの長い話が終わってからは、教師に言われた通り、だだっ広い野原の好きなところに、それぞれ、テントを設置し始めていた。僕と春輝は力仕事を二人に任せっきりにし、自動送風機を使ってエアマットレスを作る。
「っらおらあ! でーきた!」
「いいぞー奈良間ー」
Tシャツの袖をまくり上げ、汗をいっぱいにかいた奈良間が空に向かって拳を突き上げる。最低限の作業しかしていない真弘は、楽しそうに笑っていた。周りの生徒達も、少しずつテントの設立を終わらせられているようで、野原がカラフルになっていく。僕らのテントは、真弘の家から持ってきてもらったかまぼこ型のテント。男四人で寝ても十分な大きさのテントと、必要な金具を持っていたのだから、真弘があんな死にそうな顔で歩いていたのも納得する。
「こっちも終わったよ」
充分に空気を入れたエアマットを、真弘の指示でテントの奥に入れる。寝るためのスペースに荷物を置き、テントの設立が終わった。今の時間は正午を少し過ぎたくらいだ。鞄から取り出した要項を見ると、この後は自由時間として、一時間半が昼食として用意されているらしい。
「アスレチックで遊びついでに飯食わね? 今日くらいしかぜってーアスレチックできねーから!」
「賛成。真弘と幸太は? どうする?」
太陽くらい眩しい笑顔を引っ提げて僕らに提案してくる二人。たった二年、されど二年という、密度濃く日々を過ごしたのだ、ほとんどの時間をこの四人で。だから二人が笑顔で提案してくるときには、否定しても連れて行かれることも、断固として拒否したら後々面倒くさい事も分かっている。真弘が黙って立ち上がったのを見て、「行くよ」と返事をする。それぞれコンビニの袋を持って、数十メートルほど離れたところにある、アスレチックの入り口を目指して歩く。
アスレチックがある場所なら、初めからジャージで登校させてくれればいいのに気の利かない教師たちだ。暑ければ暑いほどテンションが上がるのか、奈良間は普段よりも元気がいい。
「何がしんどいって風が無い事と、奈良間のうるささ」
「夏の誠也はセミだと思った方がいいんじゃない?」
うんざりした表情で後ろを歩いている真弘に、その隣にいる春輝が笑いながら言う。
「俺がセミとかふざけんなよなー! 肉食えねーじゃん!」
「着眼点がバカ。そこじゃねーだろ普通」
「はあ? そこだろ!」
真弘に何かを言われると、決まって噛みつきたがる奈良間に、真弘はうんざりしながらも楽しそうに笑う。きっと奈良間がいなかったら僕らはこんなに仲良くなることは無かったし、そもそも話すことすら無かったはずだ。きっと、奈良間だけでも、春輝だけでも駄目だ。二人がいないと、僕と真弘は、またあの頃みたいに二人きりで過ごすことになった。もしもの話だけれど、確証があった。
腐敗が進んでいそうな、木で作られたゲートをくぐり、木端が敷かれた階段を上る。高い木々の隙間からこぼれる、少し緑がかったような雰囲気の光。セミの鳴き声に重なりながら、嘆息が漏れた。テントを設置した野原よりも涼しく感じるのは、育った木の葉で、直射日光が遮られているからだろう。わずかではあるが、抜ける風に汗が冷やされ、体感温度も下がっている。
「アスレチックっていうか、山道に遊歩道があるってだけだね」
春輝がそう言った通り、二人が並んで歩くことができる程度の幅に作られた木端の遊歩道。細い丸太を利用された木の階段を、ゆるやかな傾斜に沿って歩いていく中に、今のところアスレチックはない。セミの鳴き声と、小さな羽虫が飛んでいる程度の、ただの山。
「えも、いひぐひろおうの……看板に書いてたべ? だから、上の方までとりあえず行ってみよーぜ」
「奈良間のおにぎり美味そうだけど、食べる時は食べるで分けような」
「おー」
ん、と中身を見せてくれる奈良間に、僕は「ありがとう」と伝える。大きめで、米の密度が高いおにぎりの真ん中に、梅が二つ入った、ボリューム満点のおにぎりだった。運動部だから食べる量が多いのも納得だ。きっと家族が食中毒予防のために梅を多めに入れたのだろう。奈良間の隣でウイダーを取り出すと、怪訝な顔をされたが、僕は気にしない。どうしても食べたいという食事はほとんどなく、三食同じものが食卓に出されたとしても、ほとんど何も思わない自信がある。
「美味いよ」
「米食えよな陸部ー」
うん、と従うつもりもない返事をする。サンドイッチを食べる春輝の一段後ろで、大豆バーを食べる真弘を見て、安心してしまう。まあ、そんなもんだよな。真弘とファミレスに行って、メニューを決めることができない理由が、胃に入れば変わらないから。どうしても食べたいと思うのは、互いにラーメンくらいだろう。
道の先か、後ろかに生徒がいるらしく、ほぼだんまりな僕らとは違う話声が徐々に大きくなってきていた。休み時間を持て余した男子と女子のグループらしく、高い声と低い声が混ざり合った笑い声が聞こえている。聞きなれた声が混じっていることに気づき、足が、重くなった。セミの声がやけにうるさい。熱中症か、思い違いだろうか。このままよく分からない奴らと鉢合わせるくらいなら、少し待ってから上がったほうが良いんじゃないか。盛り上がっているのなら、奈良間が遊びたがっていたアスレチックがあるのかもしれない。
「あれ、幸太君?」
口を開いて、三人に伝えようとしたところだった。
「久しぶりだね。……真弘君も」
「——は?」
「……久しぶり」
薄ら寒い笑みを浮かべた大畠が、僕らを見下ろしていた。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.15 )
- 日時: 2018/11/18 21:28
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
先行ってて。そう、大畠が言うのを、僕は黙って見ていた。
「奈良間くん久しぶりー。おかげで幸太くんとまた話すようになったよ」
「あ、おー! 大畠よーっす」
二人の間は、僕と真弘みたいに、ただの友達としての空気が流れている。こんなに柔らかく笑う奴だったのか。僕は大畠のことを何もわかっていないらしい。むしろ今なら、奈良間の方が大畠について細かに話せるような気さえした。
「奈良間くんと、そのお友達だよね。……よくこんな二人と付き合えるね」
奈良間と春輝を蔑むような、下卑た笑み。大畠は僕と真弘に一切視線を寄越さず、二人を見る。不快そうに眉間にシワを寄せたのは、春輝だった。
「こんな二人って、幸太と真弘のこと?」
「それ以外にいないじゃんか。俺、奈良間くんとは友達だしさ」
「……そう。大畠くんが用あるのは真弘達でしょ。誠也、先行くよ」
大畠の横を通り、春輝は木の階段を頂上を目指して歩いていく。面食らった表情をしていた奈良間も、「じゃー後でな」と僕達に残し、春輝の後を追った。やわらかかった空気は張り詰め、息苦しさを感じてしまう。
「真弘くん、元気だった?」
「お前に関係ねーだろ」
「……あいっかわらず俺様な暴君やってんだね。ガキのままじゃん」
真弘を見下して、鼻で笑う大畠。あの時の関係とは違うと、暗に伝えているみたいだ。真弘は不機嫌なことを隠しもせず、舌打ちを一度。
「幸太」
行くぞ。言葉にしていなくても、真弘がそう言ったのが分かった。大畠の隣を真弘が進むのを見たまま、僕の足は動こうとしない。
「来ねえんだ」
返事も待たずに、真弘が行く。その背中が小さくなっていくのを見送り、大畠に向き合った。嬉しそうな顔で僕を見て、大畠は僕に近づく。
「ここで井口を見捨てるとは思ってなかったよ。やるね、幸太くん」
目が、口元が、歪められた。
「こんな所で接触してくるとは思わなかった」
楽しみに胸を踊らせた林間学校初日。それも、到着して数時間しか経っていない、自由時間の山の中で。わざわざ僕らが四人でいる所に、来る必要なんてなかったはずだった。大畠が復讐したいのは、真弘だけなんだから。
「たまたまだよ。それに俺達がいた所に、幸太くんたちが来たんだからね?」
だから、タイミング悪いのはそっちのせいだよ。そう、大畠は続ける。黙っていれば肌寒ささえ感じる風が、僕と大畠の間を吹き抜けた。大畠の髪が、風に攫われそうになる。
「林間学校中にさぁ、井口の彼女の話聞いておいてくれない? 名前とか、学校とかさ」
「真弘の彼女?」
嫌な想像が頭に浮かんでいく。大畠は、碌でもないことをした僕らに無関係な、真弘の彼女を標的に選んだ。当時の真弘にはいなかった、真弘自身よりも大切な存在。
「僕も知らないんだけど、真弘の彼女のこと」
真弘は自分のことを話したがらない。夜に見てる番組も、最近好きな歌手も、彼女のことも。何でも話す奈良間とは正反対で、僕らは真弘のことを何も知らなかった。知らないといっても、愛用のシャープペンシルのメーカーや、肉より魚派という程度は知っている。けれど、真弘自身の根幹に近い、パーソナルな部分は知らなかった。
「つーか、真弘の彼女のこと知って何するつもりでいんの」
早く話を終わらせ、三人と合流したい気持ちに駆られる。折角林間学校に来たのに、なんでこいつに構ってやらないといけないのか。大畠が口を開く度、それに素直に返事をする自分に、嫌気がさす。大畠は驚いたように目を見開いて、こみ上げる笑いを体を"く"の字にして耐えた。殺しきれなかった笑いが漏れる。
「そんなの教えるわけないだろ! ほんっと、ほんっとうに幸太くんって幸せな頭してるなあ!」
堪えるのをやめた笑いが、山道に響いた。大畠に呼応するように木々が揺れ、葉が擦れ合う。腰の高さにある雑草も、僕を嘲笑して揺れた。僕の中にカッと焼けるような感情が沸き立つ。
「名前通り幸せ満開な頭で、くくっ、ぬくぬく育てられたんだろうね。……あーかわいそう゛っ」
反射的に、手が出ていた。左頬を庇うように、両手で覆う大畠を見る。驚きと怯えが混ざりあった、可哀想な顔をして、大畠は体を折ったまま僕を見ていた。大畠は期待していたはずだ。あの日よりも、大畠自身が力をつけているという幻想を。何もしてこなかった僕が、当時のように大畠につくことを。その思い違いに、きっと適応できていないのだろう。弱い奴ほど、力を過信して身を滅ぼす。どこかで知ったその言葉が、頭の中に浮かんでいた。
「大畠」
早鐘をうつ心臓を落ち着かせるため、優しく、ゆっくりと話しかける。
「僕はお前が真弘に何かできるなんてこと、期待してないから。あと、朝比奈にも」
大畠が僕を睨みつける。睨みつけるだけで、反論も、反撃もない。口答えをしないように躾られたような姿を、可哀想だと感じた。
「殴ってごめんな」
自分の右手を擦る。初めて人を殴った。大畠の頬に当たった部分だけでなく、手首まで痛む。
「協力はする約束だったから、それは守る」
殴っても気持ちがすっきりした訳ではなかった。むしろ、虚しさがひっそりと顔を覗かせているような気がする。何も言わずにいる大畠を無視し、僕は来た道を戻って行った。靴裏で主張する小石を、強く踏む。鈍く刺さるその痛みに、心地良さを感じた。
テント設営場には、既に登山の準備を始めた生徒達で溢れていた。奈良間達も例外なく、学校指定のジャージを着て、カバンを背負っている。先頭にいる生徒が少しずつ前進しているのを確認し、僕もジャージに着替えるためにテントに入った。
「雑種は」
「……もう戻ってきたと思うけど」
まだジャージに着替えていない真弘が、苛立たしそうに頭をかく。その滲み出る不機嫌さは、あの頃と同じように僕の心臓を雁字搦めにした。息が詰まる。十分にあるはずの酸素が、ここだけ薄くなっているみたいに。
「奈良間達もう着替えてるけど」
「知ってる」
昔ドラマで見た倦怠期のカップルのような、反抗期を迎えた娘と親のような、微妙な空気。漏れだしそうなため息を飲み込み、制服から指定ジャージに着替える。ボストンバッグに入れていた黒いリュックに必要なものを詰める頃、真弘もジャージに着替え始めた。薄く見える体ではあるが、多少鍛えているようで、腹には筋肉が浮き出ている。
「鍛えてんだ」
僕の視線に気付いたのか、Tシャツを着てから、真弘が静かに話す。
「ヒョロガリじゃかっこ悪いしな」
「どうせ僕はヒョロガリ予備軍だよ」
陸上部で鍛えた最低限の筋力があるとはいえ、不要な脂肪が落ちてるだけのもやしに違いはない。悪く口角を上げた真弘に笑いかけながら、内心、安堵していた。まだだ。まだ、真弘は大畠を不快としか思っていない。そのままでいてほしい。僕だけで大畠の復讐を止められれば、それが今生み出せる最高のシナリオのはずだ。
準備が終わった真弘とテントの外に出る。待ちくたびれた様子の奈良間に平謝りし、僕らも他の生徒と同じように山道を目指した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.16 )
- 日時: 2019/03/28 16:08
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
海暝生の長い列が山道で連なり、後方は進みが遅くなっていた。山道に入る前に渡された手作り感溢れる台紙には、荻の山スタンプラリーとポップなフォントで書かれている。奈良間に持たせた台紙も、残すところあと一枠残っているだけだ。最前列の生徒達はもう終わっているのかもしれない。勝ち負けはないと分かっていても、なぜか負けたような気分になってしまう。
けれど真弘は順番を気にしていないらしく、自然と僕自身も無駄な焦りを鎮めようとしいた。
「昼の後に登山ってきついね……」
僕らとは違い運動から身を置いている春輝が、少し息を荒らげながら話す。男子だから登山も平気という訳ではなく、足場の悪い上り坂は慣れていない人の体力を奪うには十分なものだ。少ないとはいえ荷物も抱えているのだから、より体力は奪われているんだろう。
「頑張れ帰宅部」
「下の上の運動神経で頑張れ帰宅部」
「うるせー……」
軽口を叩く言葉も、無理やり息を吐き出したようなもので、限界が近いんだろうなと分かった。奈良間は他の男子達と一緒に先に行っている。赤いカバンが、青々とした木々の中で浮いている。
スタンプラリーはこのまま奈良間に任せておけば、時間内に——それも比較的早く終わるだろう。運動が得意なばかはこういう時に頼りになると分かっていた。それは僕と真弘だけじゃなく、付き合いの長い春輝にとってはもちろんのこと。口には出さないけれど、僕達は出さん的な考えが強いんだろうな。都合のいい友人。そんな言葉が、ふっと頭に浮かんで消えた。
「もう少しで一回登り終わるから、そこで休憩するべ」
涼しい顔をして言う真弘に、僕と春輝は頷いた。
「おーす、お疲れー!」
ようやく登りきった山。何分も前から着いていたらしい奈良間が、荷物をまとめて僕達の方へやってくる。
「春輝体力無さすぎだべや」
「……まじでうるさい」
僕が支えていた春輝を、当たり前というように奈良間が支える。身長差の大きくない二人だから、僕に支えられるよりも、春輝は楽だろうと思う。
「あのへん座って、昼飯食うべ」
そう言って奈良間が指をさしたのは、男女の混合グループなど、大人数のグループが陣取るスペースの近くだった。
「あっち行きにくくね?」
「そうでもなくね?」
真弘が少し嫌そうに言う。クラス内外問わず友人がいる奈良間と違い、真弘は万人受けするような中身をしていない。僕もそれを分かっていた。
「お前が気にしすぎてるだけだべや、大丈夫だって」
ただ奈良間は分かっていないのだろうと思う。人懐こい満面の笑みで僕達を見て、春輝を支えながら奈良間は進んでいく。たまに僕と真弘を振り返るけれど、早く来いと言いたい様子だ。
「夜覚えとけよ、あいつ」
「真弘、顔怖いぞ」
眉間にしわを寄せて真弘は呟く。僕達も後を追って、先に荷物を置いていた奈良間と合流する。
この山は標高が特別高いわけではなく、小学校では遠足の目的地となることが多いらしい。奈良間がとったスペースの周りでは、それぞれ持ってきていた昼食を摂っていたり、写真を撮りあっていたりと、自由な雰囲気だ。早いグループは既に下山を始めているらしく、見かけないクラスメイトも数名いる気がする。
ただ、ほとんどの生徒は慣れない登山の疲れを癒すように、地面に座って雑談をしていた。奈良間の正面に僕が座り、僕の隣には真弘が座る。遅く来た僕達に視線を向けた生徒もいるけれど些細なもので、すぐに興味をなくしたらしい。僕達も周りと同じように、雑談する内の一グループになった。
「慣れてないにしても春輝疲れすぎじゃね?」
食べ損ねていた昼食を摂る僕達に、ゼリー飲料を飲み込んだ奈良間が言う。少し呆れ気味だけれど、優しさの隠れた言い方。
「体育の成績3なめないでもらっていいすかね」
不機嫌そうに答える春輝だけれど、少し嬉しそうに聞こえる。
「僕達と違って、春輝はそんな筋肉もないから仕方ないっしょ」
「俺だけじゃなくて、真弘も帰宅部じゃなかった?」
「最近トレセンで鍛えてっから俺は」
「え、まじ? なんで誘ってくんねーの?」
「お前部活あるだろ」
そういう問題じゃねーじゃんか。不貞腐れたように真弘を睨む奈良間を無視して、真弘は正面に座る春輝を見た。
「鍛えんなら連れてっけど、どーする?」
「えー……」
答えに悩みながら、春輝はコンビニのちぎりパンを一つ食べる。僕が二つ目のおにぎりを食べ終え、三つ目のおにぎりを開けたタイミングで、意を決した春輝が「行こうかな」と返事をした。
「トレセン何円かかるんだっけ。高いと行けないんだけど」
「ん」
口にジャムパンを詰めた真弘は、右手で"五"を示したあと、"ぜろ"を表す。
「えっ安い」
パンを飲み込んだ真弘が、口元を指先で拭いながら続けた。
「二階使うだけなら、五十円払えば誰でも使える。回数券とかあるけど、別に買わなくても値段的には変わんねーよ」
へえ、と目を輝かせたのは三人ともだった。特に奈良間は部活動の関係で筋力トレーニングを日課にしているから、専門的な器具を使えるトレセンが格安で使えることは、魅力的らしい。僕も箔星と合同練習ができない時の部活に悩んでいたから、トレセンが格安で使えることは嬉しい。
林間学校まで来て地元の話題で盛り上がるのは仕方ないなぁと、談笑の最中ふと思う。地上にいる時よりも冷えた風が、髪を揺らす。ひいた汗を容赦なく冷やすせいで、肌寒さが感じられた。僕だけが寒さを感じたわけではなかったらしく、真弘と春輝は食べ終えた昼食のゴミをカバンにしまっている。着いてから二十分ほど経っていることを、携帯で確認できた。
「降りたっけ次何すんだっけ」
下りになり、生き生きし始めた春輝が嬉しそうに笑って、
「休憩のあと、晩飯作りだよ」
夜が過ぎるのは早かった。まだ奈良間と春輝はテントに戻ってきてはいないるしい。晩御飯として、同じ班になった女子達にからかわれながら作ったカレーは、ほのかさんのほどではないにしても美味しかった。久しぶりに笑いながら晩御飯を食べた気がする。
「女子の気遣いすごくなかった?」
人数分置かれたカレーの皿にご飯を盛り、僕と真弘がそれにルーをかけ、女子がテーブルに持っていく。全部終わらせて席に戻れば、先に座っていた女子がコップにお茶を入れてくれていた。
「俺らの分までやってくれてるとは思ってなかったな」
「それな。あれ、あの子……メガネの子名前なんだっけ」
普段話をすることがない女子生徒の名前は、何となく教室を飛び交っているミサキやキョウカしか覚えていなかった。
「やなぎまちありさだろ。文化委員じゃね? たしか」
「やなぎまちさん」
やなぎまち。何度か脳内で呟きながら記憶を辿るが、ついさっき見てたはずの顔も曖昧だ。クラスのことに興味がない訳では無いけれど、特定の女子を覚えられるほど、関わりがないから仕方が無いのかもしれない。
「やなぎまちさん、なんか凄かったな。媚びてるわけじゃないんだろうけど、すげー女って感じした」
「俺は彼女じゃねぇと、あれは無理」
「少しわかるわ」
二人がまだ戻らないテントの中で、僕達は今日一日を思い返した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.17 )
- 日時: 2019/03/21 18:24
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
「大畠と何話してた?」
「……なんで?」
突然変わった話題——それも大畠とのことに、水を飲もうとしていた手が止まった。僕は真弘をじっと見る。真弘は退屈そうにスナック菓子に手を伸ばすだけで、僕のことはまったく見ていない。右手で携帯をいじりながら、口にスナック菓子を運んでいく。
「そんなに大した事は話してない」
「俺は、何を話してたのかをきいてる」
「真弘に話すことはない」
「じゃあお前、その手何」
ペットボトルを握った僕の手を、真弘が指さす。忘れていた痛みがぶり返した。
「大畠んとこ行ってからだろ、それ。隠せてると思ってたんならバカ丸出しだな」
呆れたように言う真弘の目は、今度こそ僕のことをしっかりと見据えていた。切れ長の瞳を細められる。真弘が苛立ってることはすぐに分かった。分かったけれど、僕は大畠の復讐を伝える気にはなれなかった。伝えても伝えなくても、きっと真弘は怒るという確信があった。
「別に隠してたつもりはない」
「じゃあ、お前が人殴るような理由ってなんだよ」
「腹が立ったからしかないだろ」
「は? お前大畠に腹立てることあんの?」
「真弘には関係ないんだって、何回も言ってんだろ」
そうだ、真弘に関係なんてない。これは僕が、真弘のために勝手にすることだ。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、その時に近くに僕がいなくたっていいんだから。
そう言い切った手前、真弘がどんな顔で僕を見ているのか伺うことができない。何十分にも感じられるほど長く窮屈な沈黙。ペットボトルキャップの蛇腹を数えたり、無意味にペットボトルを傾け、動く水面を眺める。そろそろ教師の巡回がある時間かもしれないけれど、この場から今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい気持ちだ。そんな度胸は、欠片もないけれど。
ペットボトルを弄ぶには長い時間。忘れていた痛みが、大畠を殴った手にやってきた。無意識にその手を撫でる。人を殴ることは簡単だった。ただ相手の頬を目掛けて、自分の拳を当てるだけ。簡単だった。
「……人、殴ったことある?」
耐えきれない沈黙を壊すために、そう、話題を変える。
「お前よりは」
ぶっきらぼうに答えた真弘は、自分の手を見つめていた。
「彼女のため? 殴ったのは」
「別に。俺のためでしかねーよ」
「自分のため」
乱暴にスナック菓子を噛む音が聞こえた。
「俺の喧嘩であいつになにか思ってほしいとか、そんなんじゃねーから」
煩わしそうに、そう真弘は言った。ガツンと一発、頭を殴られたような衝撃。自分とは違う人間なんだということを、今、強く感じた。
「あのさ——」
「あぶねー! もうちょっとで先生来るとこだったー!」
息を切らして、それでも笑顔のまま入ってきた奈良間に、僕の言葉は掻き消された。
「え、今何時よ」
「八時!」
「中学生だべやそれ」
さっきまでの空気は、もう無くなっている。奈良間に続いて戻ってきた春輝からは、お土産と言われてどこからか貰ってきた蔵生を渡された。
「幸太はずっと真弘と?」
「おー。一緒に動画見てた」
ここまで来て動画かよ、と春輝は苦笑いする。伊織やほのかさんに対してするように、息を吐くように嘘をついた。奈良間も春輝も、この嘘を気にしている様子はない。ただ僕は、真弘のことは見れないでいた。
「さっき見てた動画の女の人エロかったから、皆で見ない?」
「エロい女の人見たい!」
聡い真弘は、きっと気が付いていると思った。僕の携帯を覗き込む奈良間に笑いかけながら、慣れないことはするもんじゃないと、ひっそりとため息を吐く。小さな覚悟の芽が、小さく伸びていった。
ひんやりとした空気で、まだ薄ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。手に握られた携帯を付けようとして、それの電源が切れていることに気が付いた。そうだ、昨日動画見ながら寝落ちたんじゃん。縮こまった身体を伸ばすと、低い唸りの後で大きなあくびが出た。慣れないことはするもんじゃない。普段見ない動画を見たせいで、いつもより目が乾いている感覚がする。心なしか頭も痛い。
まだ重たい体をゆっくりと起こす。隣で動画を見ていたはずの奈良間は、逆さになって少し離れた真弘の横腹を枕にしていた。行儀よく寝ている真弘からしたら、ずいぶん迷惑な寝方だろうな。頭をかいて、カバンに入れていたモバイルバッテリーと携帯を接続する。短く震えたことを確認して、携帯を置いておく。今が何時かも分からないけれど、おおよそいつも通りの時間だろう。
コーヒーを買っておけば良かった。父さんと飲むより劣る味でも、あの空気を思い出せるから。何をするでもなく、天井を見る。思い返すのは昨日の真弘の言葉だった。
「なにか思ってほしいわけじゃない」
なぞるように口の中でころがした言葉は、どうもむず痒くて、それでいて憧れを孕んでいる。真弘は本当にそう思っていたはず。じゃあ、自分は。
テントの入口を見るように、寝返りをうつ。無性に走りたい気分だ。外に行ったら冷たい空気を吸い込んで、何も考えられなくなるくらい走りたい。箔星の、あのうるさい先輩を思い出す。後ろ手で見つけた携帯の電源を入れる。デジタル表記で示された時間は、今日の集合時間よりも一時間近く早かった。
いつもと違うことをしよう。昨日のままの服で、テントから出る。山の麓は冷たい空気が流れていて、それを直に感じると、悩んでいた頭の中がすっきりしていく錯覚がした。朝露に濡れた地面に座ることはできず、立ったままでストレッチを行う。ふくらはぎが伸びる心地良さと、少しずつ体全体に血が巡っていく心地良さから、気分も上がってきた。最後に大きく上体を反らして、息を吐く。ゆったりとしたペースで走り出す。目指すのは、昨日大畠を殴ったあの場所。
犯人は現場に戻るという表現が正しいかは分からないけれど、またあの場所に僕は立っていた。山に溶け込むような声が、ずっと先から聞こえた。同じように早起きした生徒が山道を登っているのだろう。簡易的に舗装された階段を数段登ったところで、歩みを止める。昨日、大畠と会った場所。真弘への復讐に手助けすると宣言した場所。複雑な気持ちが、思考を支配する。
真弘が最近の僕を変だと思っている気はしていた。ただ何も言ってこないだけで、深いところではなにか感じていたはずだ。僕は真弘を助けたいと思っているはずなのに、大畠を助けるとも伝えていた。この大きな矛盾が、もう自分一人だけでは抱えきれないほど成長している。ひたすらに、苦しい。この苦しさは自覚したらいけないものだった。誰のために、僕は何をしようとしているんだろう。答えは手を伸ばせば届くのに、その答えを知ることが怖くて仕方ない。
肺に溜まった古い空気を、ゆっくりと吐き出す。もう白くならない息をぼうっと見上げた。何となく惨めだ。真弘を助けよう。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、大畠の復讐にあわないように。ジャージ越しに地面に接した尻が、湿ったように感じられる。遠くに聞こえていた声は、もう何も聞こえなくなっていた。戻らないと。来た当初より軽くなった気持ちと、決意を胸にしまい込んで、腰を上げた。
テントに戻ると眠たそうな奈良間と真弘、すっきりした表情を浮かべる春輝とが、それぞれ起きていた。戻ると直ぐに、顔を洗いに行こうと誘われた。
「朝起きたっけいなくてさ、びっくりしたよ」
後ろに眠たそうな二人が続く。僕は春輝から小さなカバンを受け取って、並んで手洗い場へと向かっていた。
「みんな寝てたからさ、起こすのもなーと思ってさ」
「寝てたら声掛けにくいよな」
しゃーないわ、と春輝は快活に笑う。普段から聞き役に徹する春輝の物腰は、他の誰よりも柔らかいと思う。大人数の会話では目立たないけれど、二人で話す時には間のいい相づちが返ってくる。なんでも話してしまえるような雰囲気が、春輝にはあった。
「林間学校がさぁ、終わったっけさ」
「おー」
「映画見に行くの付き合ってくんね?」
だから何かある度に、こうして春輝を頼ってしまう。
「いいよ。振替休日とか使うべ」
映画の誘いはこれで四回目くらいだろうか。初めは驚いた顔をしていたけれど、二回目は今みたいに笑って二つ返事で了承してくれていた。ぬるま湯のような優しさに、今回も甘えるつもりだった。
「したら帰った次の日な」
「おーけー」
約束を取り付けた頃についた手洗い場は、マスクで顔を隠した女子や男子で列ができていた。僕達が並んだ列よりも奥にいた大畠に、自然と視線が向かう。頬が片方だけ赤い。あの光景がフラッシュバックする。僕自身がどうあるべきか答えを見つけたまま宙ぶらりんだからか、まだ中学時代の大畠に対して抱いていた同情がふつふつと大きくなっていた。
「幸太」
「っ、あ……なした?」
「なんも。細かいことは映画の日に聞くし」
「……おう」
列が進み、僕達の番になる。蛇口から出るのはキンキンに冷えた水道水で、顔が洗い終わればすっきりとした気分になった。眠たそうだった奈良間も顔を交換したヒーローなみに元気になっている。
「お前らー、この後朝ごはんになるがその前にテントしまってくるようにー。移動はジャージでいいから、テントしまったら夕べご飯食べたところにクラスごとに集合ー」
数学の三浦がメガホンを使って言う。返事はまばらだったけれど、たむろっていた生徒達はぞろぞろとテントへ戻っていく。
「早くテント片すべー!」
僕達も、元気になった奈良間を追うようにテントへ向かった。