複雑・ファジー小説

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世界は君に期待しすぎてる
日時: 2019/06/09 21:47
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: 3W5gzPo5)

*


 精通してすぐに、僕は童貞を失った。




 □はろう、浅葱です。のんびりと執筆していこうと思います。


 □軽度(r15程度)の性的表現が頻繁に入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。


 □軽度(r15)の暴力描写が入ることが考えられます。好きな方のみご覧ください。


 □目次
 『土砂降りレイニー』>>001-008
 >>001 >>002 >>003 >>004 >>005 >>006 >>007 >>008

 幕間『夜更け過ぎの雨とともに』
 >>009

 『爽天シャイン』>>010-020
 >>010 >>011 >>012 >>013 >>014 >>015 >>016 >>017
 >>018 >>019 >>020

 幕間『朝、溶け出す淡い期待』
 >>021

 『夏色セゾン』
 >>022


 □
 相沢 幸太 / あいざわ こうた
 相沢 伊織 / あいざわ いおり
 井口 真弘 / いぐち まひろ
 大畠 暦 / おおはた こよみ
 木城 春輝 / きじょう しゅんき
 奈良間 誠也 / ならま せいや
 朝日奈 圭織 / あさひな かおり
 佐藤 大輝 / さとう たいき


 □special thx(敬称略)
 もうきっと、世界の誰もが夢中だ / 三森電池
 失墜 / 三森電池


 since2017.04.20

*

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.8 )
日時: 2019/03/27 21:28
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)


「ああ……だから」
「ええ、少し具材も大きく切ってみたのよ。もうすぐ伊織も帰って来るから、幸太くんも一緒に食べない?」
 首筋から滑る水滴が、Tシャツに湿る。一瞬何も考えられなくなった。
「……やることあるんで、先食います。洗い物は済ませるんで」
 寂しそうに笑ったほのかさんに、胸がちくりと痛んだ。どうしてこの人からの好意を受け取ることができないのか、まだ分からない。戸棚から皿を出し、白米を盛りカレーをかける。いい匂いがした。ほのかさんも言っていた通り、具材は大きく切られている。ほのかさんが来た当初は、一口大に切られた具材がたくさん入っていた。それを美味しそうに伊織は食べていたし、父さんだって笑顔で食べていた。
「うま」
 空腹は最高のスパイスと言われる所以が分かる。カレー美味いしか考えられない。大きなじゃがいもをスプーンで切り、食べる。カレー発明した人に将来的になんか貢ぎたいレベルでカレーが美味い。ほのかさんの手前静かに食べるが、気持ちの上ではダンスが止まらない。美味いぞカレーライス。大輝さんのせいで体が痛いのもどうでも良くなるほど、カレーが美味くて仕方ない。あっという間に空になった皿をシンクに持って行き、洗い物を済ませる。
 美味しかった。久し振りにほのかさんの作った食事を食べた気がする。リビングで音楽番組を見るほのかさんは、ちょうど奈良間が好きだと言っているアイドルを見ていた。心の中で美味しかったですと伝え、部屋へ向かう。

 椅子に座り、引き出しから一つ手紙を取る。今まで返事が出せずにいた、朝比奈への手紙。随分前に貰った手紙も捨てられず、返事も出せずに置いていたものを今になって出した理由は、特になかった。大畠を見たからかもしれない。あの瞬間、確かに目が合った。目が奪われる感覚だった。あの感覚は、人生でたった二回しか味わったことがないくらい、稀有で心に強く残るものだったように思う。
 大畠は変わった。身長はもちろんだが、人と屈託なく笑っていた、あいつは。雑種と呼ばれていたあの頃からは、考えられないほど眩しかった。二枚目の便箋に手を伸ばした時、カバンからメッセージの通知音がする。奈良間がテレビを見て騒いでいるのかもしれないと想像するだけで、面倒くさいが、笑みがもれた。
「んーと、あった——?」

 大畠暦さんがあなたをグループに招待しました。

「は?」
 思わず声がもれた。携帯をいじっていない手は自然と口元を隠す。なぜ、大畠が僕のアカウントを知っている? 誰だ教えたのは。拒否するか悩んでいると、奈良間から通話の呼び出しが鳴った。まずは落ち着くべきだと、すぐさまその通話に出る。
『おーっす! 見たかMysherry! すっげー可愛かったよな! もうまじで乙葉可愛すぎてアップ来るたび死んだわ』
「俺飯食ってたから見てねーけど、可愛かったのは伝わった」
 鼻息荒く、いやー可愛かったー! と繰り返す奈良間に、いい加減な相槌を返す。
「それだけのために通話かけてきたのか?」
『ちげーよ、俺そこまで暇じゃねーからな! これからMysherryのライブDVD見んだよ! あ、そうそう伝えたかったのは、大畠がお前のアカ知りたがってたから教えたからな。連絡行ってるかも』
「お前明日覚えてろよ」
 何か言いかけていた奈良間を遮り、通話を切る。バカなのかこいつ。けれどこの大畠は、あの大畠だと決まった。どうしろっていうんだ僕に。グループのメンバー欄を見ると、僕と大畠以外に、あーちんという名前があった。大畠の友人だろうか。見覚えのないアイコンで、それも人ではなく風景であるため、見当もつかない。大畠の友人だろうか。拒否する選択もあった。けれど僕の指は、少しの躊躇いの後、参加ボタンをタップする。
 緊張しているのか鼓動が早くなった。他にやる事はあったが諦め、ベッドに寝転ぶ。あーちんの一言やホーム画面、タイムラインを確認していると、通知音が鳴った。それは大畠からであり、仰向けでそれを見た僕は、キーボードの打ちやすいうつ伏せになる。
『こんばんは』
『こんばんはー。幸太くんだよね? 中学一緒だった大畠だよー』
『奈良間から聞いてる。急に何? 高校で大畠に関わるつもりないよ』
 既読1と表示されるまま、僕は大畠とやり取りを続ける。画面越しの大畠が何を考えているのか、まだ分からない。もし僕が真弘にこの事を話せば、真弘はまた大畠に対して何かするのだろうか。違うなと、そう思った。真弘は自由人だ。自由人が持て余した暇を潰すために、当時の大畠は使われた。そこに大きな理由はない。僕が何かされようと、そもそも僕は人に話さないじゃないか。自分の中で大切に育てた悪意は、誰にも見せないうちにきっと僕は処分している。その処分の仕方は、僕自身知らないけれど。
『突然なんだけどさ』
 メッセージ欄に、何、と打ち込んだところで、大畠から次のメッセージが飛んでくる。

『幸太くんさ、俺達の復讐に協力してくれない?』
『俺達は井口真弘に復讐するつもり。達っていうのは俺とあーちんね』
『俺の中学時代を壊した井口真弘と、あーちんの青春を踏みにじった井口真弘に復讐する』
『幸太くんだって思ってたんじゃない? どうして真弘は俺を雑種って呼んでるんだろうって。女を取っかえ引っ変えしてる理由はなんなんだろうって。違う?』

 返事をする間もないほど、連続で送られてくる大畠からのメッセージは、そのどれもから真弘に対しての怒りが滲んでいるように見えた。真弘への仕返しを復讐と呼んでいることに、背筋が冷える。大畠からのメッセージは止まらない。当時の真弘が抱いていたであろう悪意、人となり、行い、性格、発言。その全てを否定し、真弘の隣にいた僕を、大畠と同じ被害者だと言うのだ。だって幸太くんは、僕のことを気にかけていたでしょう、と。
 その一つ一つにメッセージを送ろうとしたけれど、大畠が吐き捨てるように送ってくるメッセージを見ていると、僕が真弘に対して何を思っていたのか、今真弘に何を思うのかが分からなくなってしまった。友情はいつまでも不滅、なんてくさいことを話した事はないけれど、友情が揺らぐことはないと思っていた。
『幸太くんさ』
 それからメッセージを送ってこない大畠に、何、と返事をする。尋ねなくても、何を言われるかなんて本当は分かっていたと思う。
『一緒に復讐しようよ』
 心臓が掴まれた感覚がした。僕が思いついていた提案。心臓が早鐘を打つ。携帯を持つ手が、じんわり、熱を帯びた。復讐という言葉が理解できないまま、指先が震える。息が荒くなっているのが自覚出来た。僕が、大畠と、何のために。僕には真弘に復讐する理由がなかった。
『しないよ。真弘は友達だから』
 必死に打ち込んだ言葉を送信し、携帯をベッドに置く。大畠はたしかに変わった。あの頃の、真弘に雑種と呼ばれ、下に見られていた頃の大畠はいないんだと思い知らされた気分だ。僕にはそれが裏切りのように思えてしまっている。大畠に嫌がらせをしていたのは真弘だ。そして僕は、助けてと懇願するような目をしていた大畠を、見ない振りしていた。
 どうして。自分にそう問いかけるが、答えは出てこない。僕はどうして真弘と一緒になって、大畠を遠ざけたんだろう。あの時の僕が大畠をどう思っていたのか、それすらも思い出せなくなっていた。想像でしか昔の自分を語れない。仰向けに戻り、瞼を閉じる。思い出される断片的な記憶から、少しずつ思い出を探していく。
 あの時何があったのだろう。何が始まりだったのかは、やはり思い出せない。容姿が気に食わなかったのだろうと思っていたけれど、本当に僕は大畠の容姿が気に食わなかったのかさえ、曖昧で、事実ではないような気がしてしまう。瞼越しに淡く映る蛍光灯の光に、電気を消さないといけないことを思い出した。朝比奈への手紙は、また今度書こう。起き上がり、携帯に充電器をさす。フォンと小さな音がして、充電が開始されたことが分かった。電気を消し、来た道を戻った。
 ベッドに寝転んでからも、考えはおさまらない。今の僕は、当時の僕を見て、きっと大畠のことが嫌いだったんだろうと考える気がした。事実大畠の事は真弘だって良く思っていなかった。僕だけが大畠を嫌いだと思っていたわけでは、ないのだろう。目を閉じて、何度か寝返りを打っている内に、雨音がしていることに気が付いた。時に雷を連れて降る雨は、時間が経つほど雨脚が強くなっている。
 明日は道がぬかるんで、学校へ行くまでに制服は濡れてしまうだろう。着替えるためにジャージを持って行かなくてはいけない。悶々とした大畠への気持ちを、雨音に消す。思い出した頃に襲ってきた筋肉痛に眉をひそめつつ、遠くにいる睡魔へ手を伸ばした。






 ■土砂降りレイニー 終

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.9 )
日時: 2018/04/23 16:54
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: z5Z4HjE0)


 その日は彼らにとって、今までの人生を大きく変えるほどの衝撃をもたらした。

 興味本位で開いた配信に、彼は目を奪われた。真っ暗で画面はよく分からない。音も遠く聞こえる部分があり、時折電波が悪いのか、配信がとぶこともあった。泣きじゃくる少年の声。その少年に向けて放った配信者の言葉。

『うるさい、僕の人生めちゃくちゃにしたくせに』

 メッセージ欄に記載していた『やらせ乙』の文を送信する手前で、指が止まる。許して、何でもするから、助けて。その泣きじゃくる少年は被害者じゃなかったのか。配信している人が、画面に映る少年を泣かせている人が、被害者なのだろうか。彼はすぐさま配信をバックグラウンドで再生させ、アプリケーションを開く。
 リアルタイムで増えていくメッセージ達を見るのではなく、検索欄を開いた。今何が起こっているのかひと目でわかるトレンド機能に、先程の殺害配信が入っているのを確認し、タップする。彼らはどこの誰なのか、とても気になった。同級生を殺そうとするなんて、普通の人だったら有り得ない話だ。仲が悪かったにしても、そうそう殺すなんて発想するわけがない。
 少年達の名前はすぐに出されていた。青山瑛太と、矢桐晴。青山瑛太がモデルだった、という書き込みに繋げられた様々なリンクを進んだ彼は、目を見開いた。その少年は彼が購入していた雑誌によく出ているモデルで、憧れていた本人そのものだったから。矢桐晴が言っていた生活保護の話が、モデルとしての青山瑛太のものとは思えなかった。
 モデルだった青山瑛太がクラスメイトの人生を壊しただなんて、どこのドラマなのだろう。彼は心の中で有り得ないと決めつけた。もしかしたらなんて好奇心を押さえつけるためだった、モデルと一般人は住むところが違う、ましてや生活保護なんて弱者なわけがないと。とっくに配信は終わっていたようで、イヤホンから音はしない。
 けれど彼はイヤホンを外すことを忘れ、青山瑛太と矢桐晴の本性、所属していた高校、どんな生徒だったのかまで事細かに検索を続けていた。それほど、彼にとってこの事件は魅力的だった。まるで自分自身が矢桐晴になったかのような錯覚さえ、彼にもたらす。想像するだけで興奮が収まらなくなった。
 彼をいじめていた人間が、彼自身の手で殺される。汚い泣き顔を晒して、助けてください許してくださいと彼に懇願し、立場が逆転する。その想像が、今までの何よりも幸福で、現実味のある仕返しのように感じられた。思わず勃ち上がった性器に手を伸ばし、扱きあげる。最後果てるまで彼の思考を占領したのは、泣いて生を懇願する元クラスメイトの姿。
 澄んだ頭で、彼は知り合いにメッセージを送る。彼と同じように心に傷を負った友人。今でこそ仲の良い付き合いをしているが、昔の立場は対照的だった。その人は彼を嫌っており、彼はその人と自分は同類だと思っていた。二人がつながるようになり、当時からの話を繰り返して漸く彼らが互いを同類だと認めるに至った。互いに苦しみの淵にいたこともあり、本音を語り合うまでの仲になったのは早かった。

『こんな時間に何……メッセージじゃダメだったの?』
「あの殺害配信見た!?」

 途中でメッセージを打ち込むのを諦め、通話を開始する。すぐに出た相手は呆れた様子で、彼を非難するよ唸ら声色の女子だった。

『見てたけど』

 女子はため息混じりに言い、その言葉はつまらなさそうだ。

「あれ見てどうだった? 俺はすごい興奮してさ! 俺らがやりたい事って、あれじゃないかなって思った! 圭織ちゃんもそう思わない?」
『一緒にしないでよ。私もあいつは嫌いだけど、殺したいってわけじゃないんだから』
「分かってるよ! だから、俺が満足するまで痛めつけて、その後圭織ちゃんが好きにすればいいじゃん! 一緒に協力してよ!」

 もし現実に出来ることになったら。そう考えるだけで心が跳ねる心地になる。女子——圭織——は小さく唸った後に、息を吐いた。興奮に任せて圭織をまくし立てたことに気付き、彼はわずかに緊張する。圭織の機嫌を損ねることは今まで何度かあり、彼はその度に辛い思いをしていた。
 圭織からの返事がない。呼吸音はノイズのように聞こえるけれど、自分の言葉への反応がないことが彼は気になった。そこまでのことをやるつもりはないのかもしれない。そうだとしたら、この思いをどう昇華すればいいのか、今の彼には思い浮かばなかった。

「俺さ、転校するんだ! それで、そっちに戻るからチャンスはいっぱいある! 圭織ちゃんとも会って何ができるような距離になるから、あとは覚悟さえあればできるんだよ!」

 そう、覚悟さえあれば。圭織に向けた言葉は、どこかで怯える彼自身を駆り立てるためのものでもあった。矢桐晴はどれほどの思いであんな事をしたのか、できるなら参考のために聴きたい。彼はどんな些細なきっかけであったとしても、自分の行おうとしていることに意味を持ちたかった。背中を押してくれる言葉を求めていた。

『あ……雨』
「雨?」
『うん、雨。やっぱこの時季は雨降るよねー』
「いや……まあ、うん……」

 それから圭織は雨についての思い出や、紫陽花を見に行きたいなどの、彼の話とは関係の無い事ばかり話していく。それを聞き、相槌を打ちながらも、彼は悶々としていた。僕の提案はどうなるのさ。そう圭織に言いたくもなる。
 いい加減に相槌をしていると『大畠イライラしてる?』と圭織はからかう。してないと答えたけれど、大畠自身それが嘘だと自覚していた。圭織を怒らせないようにするのが、何よりも大切であると思っているからだった。

『雨が朝まで止まなかったら、付き合ってあげる』
「朝って」
『大畠が寝て起きるまで』

 おやすみ、と通話を切られる。しばらくそのまま画面を見つめていた大畠は画面を消し、おもむろにベッドの横に設置した、夜空がイメージされたカーテンを少し開けた。圭織が言うように雨が降っていた。けれど、雨足は弱く朝まで雨が降り続く保証はない。無謀な賭けのように感じる。やる気がないのだろうと。
 それでも期待せずにはいられなかった。ベッドに寝転がりまぶたを閉じる。もう零時を越す頃。夜更け過ぎ、朝起きるまで雨が降り続けるよう、大畠は強く願った。

 いつもと同じ午前五時、外はいつもより暗く感じられた。賭けに勝った。それが、大畠が一番に考えたことだ。すぐさま圭織にメッセージを送る。今日この日から全てが始まると思うと、昨日と同等かそれ以上に胸が高鳴り、寝起きだというのにすぐにでも走り回れそうだった。待ってろよ。大畠はガラスに反射した自分を見ながら、彼自身の内に潜む脅威へと告げる。


□夜明けすぎの雨とともに

 その悪意は今も尚夜更け過ぎの雨のように、誰にも気付かれないけれど、確かな存在感をもって彼らの中に生き続けている。彼は今日も、キャプチャし手元に残したそれを、下卑た笑みを浮かべて見続けていた。

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.10 )
日時: 2018/05/01 20:21
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: sPkhB5U0)

『爽天シャイン』





 夏が近付いて来ていることを最近よく実感する。朝は風が冷たいと思うが、昼間から夕方にかけてじっとりと全身が汗ばむから。ここ最近はついていないことが多かった。そんな気がする。また今日も冷房が強く効く電車に揺られながら、大畠のあの言葉達が思い起こされた。復讐。子どもっぽくも、たしかな意思があるのだろう。きっとそれなりの覚悟も。イヤホンを忘れて来たせいでお気に入りのアーティストの曲は聞けないし、嫌な事ばかり反芻してしまう。
 停車し扉が開いたのを確認し、一番に降りる。課題も終わらせた今日、朝早くから学校に行く用事は特にない。ただきっと、じっとしていられなかった。自転車に乗り学校を目指す道中も、誰もいない教室の自分の席に座っている時も、なんだか落ち着かない。そういえばと時間割を確認する。ついこの間父さんに参加していいと言われた林間学校まではあと数日。午前授業などの楽な日を含めて、二週間程で林間学校が始まる事実に、ため息がでそうになる。
 大畠に、朝比奈か。復讐を持ち掛けられた日からメッセージは止まらず、大畠がどれだけ真弘を嫌っているか、あーちんが朝比奈であり、その朝比奈も真弘を憎んでいると言っていたのだ。そして二人とも口を揃えて、「幸太だって我慢してるんじゃないのか」と訊いてくる。今朝起きて見た通知にも、同じような言葉が延々と綴られていて、はっきり言って読むのも面倒くさい。早く学校を出たのも、何かしら動いていれば大畠達のことを、忘れられると思ったからというのもあった。無意味だったけれど。

「うおーっす、はよー」
「おーす」
 朝だというのにTシャツが汗で色濃くなっている。奈良間は疲れた無理寝たいと念仏のように呟きながら、自分の席へと向かった。クラスメイトの机に手をついて、重たそうな荷物を机や椅子にぶつけながら。
「朝練?」
 満身創痍という表現が合っているような、疲労で身体が休みを求めているようにも見えた。奈良間は自分の席に乱暴に座ると、大きなため息を吐く。何なんだこいつ。僕の言葉が聞こえていないのか、返事をする気力もないのか、カバンを置いた机に突っ伏したまま動かない。
「奈良間ーなしたんー」
 そう呼びかけながら教室の窓を開ける。梅雨とはまた違うが、雨の続く時期が終わり、湿度による肌のベタつきを感じなくなった分、日中の過ごしやすさは格段に上がった。その代わりに晴れの日が続いているけれど、窓を開けて換気さえしてしまえば苦ではない。三つ前の席で死ぬ奈良間の右隣に座る。この席の女子はいつも来るのが遅いから、八時にもならない時間帯は座っていたって問題ない。
「聞いてくれよ幸太……」
「あ、待って朝飯持ってくる」
 胃が萎むような感覚に、朝ご飯を食べていないことを思い出す。少し荷物は重かったけれど、奈良間くらいしかいない教室で何を食べたって自由だ。これを持ってくる時にはそんな事を考えてすらなかったけれど、いざ使うとなるとそれなりの理由を求めてしまう。静まった廊下を進み、十分な水道水を入れて戻る。奈良間はまだ机に突っ伏したままで、息が苦しくないのだろうかと思った。
「っし。したら準備できたし、何の話?」
「俺の姉貴がやりやがったんだよ……あいつ……許せねぇ……」
「あの綺麗なねーちゃん?」
 一年生の頃、奈良間が姉に忘れ物を届けると言っていたのを、面白半分でついて行った事がある。その時のぼやけつつある記憶の中でも、奈良間の姉は当時高校二年生だったにもかかわらず、美人という言葉が合う人だったと思い出された。身長もたしか奈良間と大して変わらないんじゃなかったっけ。
「たしかに俺の姉貴は綺麗だけど! そうじゃないんだよ! あいつ俺の天使達の円盤にひび入れやがったんだよ! 許されないと思わねぇ? つーかお前何食ってんのもっと俺に親身になって!」
「はは、うるせー」
 奈良間が項垂れている間に作り終えたカップ麺をすする。電気ケトルを持ってきたかいがあった。奈良間には信じられないという目で見られたが、こんな早い時間に教室を巡回する先生がいないのだったら、手軽に暖かい食事を摂ることができるカップ麺を選ぶに決まっている。
「天使達ってあのアイドル?」
 カップの中に箸をさし、ちょうど良い麺の量を調節する。奈良間はか細い声で「そう……」と呟いた。バイト代のほぼ全部を注ぎ込んで、初回生存盤を買っていると言ってた気がした。奈良間は突っ伏したまま荷物を抱え、そのまま額を押し付ける。全身で姉へのやるせなさをぶつけているらしい。
「奈良間のねーちゃんはなんて言ったの、ヒビに関して」
「あいつありえねーんだよ!」
 勢い良く起き上がった奈良間に、思わず肩が跳ねる。情緒不安定にも程があるだろと言いたくなってしまう。
「うわっ……あんたこんなんに興味あるの? 弟がドルオタとかマジキモいだけど、誠也がそこ置いといたのが悪いんだからね。——って言いやがったあいつ! これは戦争! 第二次奈良間家大戦!」
「あー……」
 立ち上がり、そう宣言する奈良間に同情してしまった。弟へのドルオタ発言もそうだが、奈良間の姉は綺麗で口が達者らしい。姉の真似をして、表情を作りながら話していた奈良間が面白かったのは秘密にした。第二次奈良間家大戦というのは何度も聞いており、今回の姉弟喧嘩で、高校で出会ってから第五次は超えたのではないだろうか。
「ありえねぇ……ありえねぇよお……」
「話聞いててやりたいけど、ちょっとお湯と汁捨ててくるわ」
 食べ終えたカップ麺を持って教室を出る前、「汁は飲めよ!」と声が聞こえてきたが無視だ無視。ちらほらと遠くから話し声が聞こえたりもするが、二年教室に来ている学生は少ないみたいだ。じゃあなバリカタとんこつ、そこそこの味だったぞ。白濁とした汁を流し、口をゆすぐ。家で歯を磨いたから、とりあえずブレスケアくらいでいいだろう。
「あ」
「お」
「ん?」
 二度目のうがいをし終え、ゆすいだ水を吐き出したところで頭上に声が降った。何かと思いそのまま見上げると、仲良く登校してきた春輝と真弘が不思議そうに僕を見ているところだった。ハンドペーパーを二枚出して、手と口を拭きゴミ箱へなげる。ついでにカップ麺のゴミも、手洗い場になげた。
「朝から何やってんのかと思った」
「学校でカップ麺食べるのさ、結構さーあれ、背徳感あって楽しい」
 呆れ混じりに笑う春輝にそう言うと、苦笑いされたけれど、事実楽しかったから今後も活用しようと思う。真弘は笑いながら携帯をいじっていた。きっと彼女だろう。僕達との集まりや、クラス行事よりも真弘は彼女を優先しているから、真弘が携帯をいじっている時は決まって彼女に連絡していると、噂されていることもあった。概ねその通りではあるけれど、最近は頻度が高くなっているなと思うこともある。

 一言目にはだるい、二言目にそれなと中身のない会話をして教室に戻ると、まだ奈良間は机に突っ伏したままいた。開けっ放しにしていた扉からは、外からの新鮮な空気が流れている。そのおかげか奈良間の背中にあった大きなシミは、少しずつ消えているようだった。怪訝そうに二人が奈良間を見ていたから、簡単に経緯を説明する。引いたような表情を浮かべた春輝に、僕は笑った。真弘は苦笑いを浮かべて、携帯をしまった。
「可哀想だな」
 愛らしい目下の人を見るように、柔らかい表情で真弘が言う。バカにしているわけでも、同情しているわけでもない様子だった。ほかの人だったなら、そう感じることもないんだろうな。
「奈良間ー、今日部活終わり飯行くかー?」
 かばんを置いた真弘が、突っ伏したままの奈良間に声をかける。
「行かない! 俺の心の傷は飯で癒えない!」
 少し間を置いた返事に、僕らは目を見合わせてニヤリと笑う。
「したら春輝飯行く?」
「行く行くー、今日急ぎの用事なんもないし」
「幸太も来るよな」
「うん。今日も父さんの帰り遅いし」
「したっけ三人で飯。決まりな」
 ぱらぱらとクラスメイトがやってくるのに挨拶をしたり、ただ目で追ってみたりしながら、奈良間を放っておいたまま今晩何を食べるか話す。ファミレスは行き飽きたのは三人の中で共通していた。焼肉は制服ににおいがつくからだめ、ラーメンだったら何味が食べたいか、市内で食べるか市外で食べるか。食べ物の話をしている時が、一番楽しく話をしている気がした。
「誠也、お前も行くんでしょ?」
 頃合いを見て、春輝が奈良間を呼ぶ。男女関係なく苗字で呼ばれる奈良間を、春輝はいつも名前で呼んでいた。たまにつられて苗字で呼ぶこともあるが、それ以外は常に名前で奈良間を呼ぶ。そんな春輝に対しては奈良間も素直で、今も名前を呼ばれて立ち上がり、面倒くさそうにたらたら歩いて来た。いつも通り、相変わらずだ。
「なんで俺の事ほっぽって決めるの」
「誠也行く? どうする?」
 笑う僕達の代わりに、優しく春輝が言う。年の離れた弟みたいなんだよね、と昔奈良間のことを話していた春輝は、奈良間の扱いに長けている。
「俺の心の傷は飯で埋めるからラーメン食いに行きたい!」
「お前さっき飯で癒えないって言ってたべや」
「いい! 俺はやけ食いする!」
 真弘にそう言われても、奈良間はもう行かないなんて言わないと、どこかで聞いたことあるようなフレーズを言い、席に戻った。まだ時間に余裕はあったけれど、クラスメイトも随分集まってきており、僕と春輝もそれぞれの席に戻る。真弘は廊下側の真ん中の席で携帯をいじり、僕は中央の列の一番後ろへ。春輝は窓際の一番前の席。
 後ろの席のメリットは何をしていても、大抵バレないという事に限る。挨拶をしていなかったクラスメイトと挨拶を交わし、席に座る。週の半ば、いつも通りの午後三時半までの授業が苦痛で仕方ない。隣の席に座る女子が、ワイシャツを谷間が見えるほど開けていて、急いで目線を違う所へやった。女子なら恥じらえよ、僕が非難されんのに。
 だるそうにやってきた教師の話を、ペンを弄りながら聞き流す。七月も近付いきているかは、女子の露出度合いで判断できる気がした。先週まで長袖の白セーラーを着ていた女子が、今週は半袖になっている。これからブラジャーが透けても気にしない女子が増えるのは喜ばしい。女子にとっては不本意だろうけど。そんな不謹慎なことを考えてた過ごしていると、始業の鐘が鳴った。


「今ならラーメン替玉三回はいける」
「ほんとそれ」
 それぞれ参考書を開いたり、携帯を弄りながら同じような事を何度も言う。極わずかな人数しか残っていない教室は、普段よりも静かでいることを押し付けてくるような空気感があった。だから僕達は話さなくていいように、わずかに会話はするけれどその内容を発展させていくことまではしていない。春輝はひたすら参考書とにらめっこして、問題と向き合っている。携帯画面の上に光る時刻は、五時を回ろうとしている頃だ。
「春輝勉強終わった?」
「今解いてるので課題終わるけど」
 奈良間を待つのにも飽きてしまった。それは僕だけじゃなかったようで、春輝と目が合う。二人で真弘を見れば、すぐに真弘とも目が合った。そうして三人でニヤリと笑う。そこからは早い。春輝は広げていた教科書達をしまい、僕と真弘はかばんを背負った。春輝がかばんを背負ったのを見て、教室を出る。
「携帯連絡入れときゃ見るべな」
 欠伸混じりにそう言った真弘と、僕達は笑う。
 奈良間に連絡を入れ、生徒玄関に向かう廊下を進む。奈良間遅いよなー。まあ自業自得だべやあれ。そんな風に、踵を鳴らしながらのんびりと歩く。先輩達からしたらイキった後輩に見えて、後輩から見たら怖い先輩あたるのだろう、僕らは。
 会話が途切れたタイミングで携帯を見る。通知を切っていない例のグループからは、しつこく、メッセージが送られてきていた。内容は変わらない。真弘への暴言や、どうして僕が共感してくれないのかを、延々と。
『ねえ幸太くん、真弘に依存するのやめなよ』
 新しく来たメッセージに、胸が、心臓が掴まれたような感覚を味わった。

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.11 )
日時: 2018/11/26 18:07
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: v8Cr5l.H)

 依存なんてしてない、とだけ返事を打つ。衝動的に打ち込み、送信ボタンを押した。いつどこで僕が真弘に依存したというんだ。携帯をポケットにしまい、楽しそうに笑う二人の後ろについて歩く。相変わらず失礼な奴だ。ここ最近、ふとした時に心を抉るようなメッセージがくる。見透かされているようで気持ちが悪い。
 靴を履き、そのままその場に座り込んだ。僕らは揃って携帯をいじり始める。
「あ、奈良間今から来るって」
「したっけあいつ来るまで待つか」
 真弘はあくび混じりにそう言い、僕と春輝はいい加減に返事をする。携帯をいじって数分が経った頃、ばたばたと玄関に駆けてくる足音がした。
「おっまーたせー! 置いてかれたかと思って焦ったマジで」
 快活に笑いながら言う奈良間に、僕らは呆れるしかできない。そもそも奈良間が呼び出されたのは自業自得で、呼び出されないようにすることなんて簡単だったはずだ。
「真弘が替玉三ついけるってさ」
「まじ? したら俺五回するわ!」
 駐輪場から自転車を出す春輝と奈良間が楽しそうに話す。たしかこの二人は小学生の頃からの付き合いだったはずだ。よく二人で買い物に行ってきたと話をしてくれるあたり、女子の言葉を借りるとズッ友というやつなのだろう。
「奈良間ー荷物入れてく?」
 チリンとベルを鳴らす真弘に、奈良間は表情を明るくして「さっすが真弘わかってるー!」と笑う。
「真弘んとこさカバン入れるんだったらさ、部活の道具こっちいれる?」
「もー幸太大好き」
 語尾にハートが見えそうなほど甘ったるく言う奈良間に、笑いが起きる。
「きっめぇ」
「可愛かったべや!」
 ツボに入ったらしい真弘の横で、奈良間は可愛子ぶりながら歩く。朝とは打って変わって元気になった様子の奈良間は、真弘の顔を覗き込んで話しかけたりしているようだった。真弘の笑いがおさまった頃に、自転車で足を轢かれるんじゃないかと内心ひやひやする。
「春輝ー、どこのラーメン屋行くか決めてんのー?」
「らいく行くよー」
 前を進む奈良間が大声で言う。春輝も両手を口元にもっていき、同様に大きな声で返した。ふざけて歩いているのに、真弘と奈良間は進むのが早い。
「奈良間のテンションの上がり方ちびっ子すぎない?」
「ほんとよ」
 そこが弟っぽくて好きなんだけどね。そう言って笑った春輝はどこか照れくさそうに見えた。

 ラーメン屋らいく。その店構えは一軒家の玄関に暖簾がかけられているだけと、店というよりただの家だ。学校帰りの学生が多く来ているらしく、玄関の横に用意された砂利の駐輪場には数台の自転車が停められている。安価で美味しいラーメン屋として学生に重宝されていた。
 先に着いていた真弘達に追いつき、僕達も自転車を停める。
「行くか」
 真弘の言葉に、僕らはあの日見た映画の主人公よろしく、覚悟を決めたように暖簾をくぐる。軽い音を立てて開いた戸から、味噌の香りがもれ出した。空いていた中央の四人がけテーブルに座る。
「うわー腹減ったー俺味噌ー」
「え、誠也味噌にすんの? 俺もなんだけど」
「僕も味噌かな」
「俺も味噌」
 水を置きに来た店員がメモを用意するより早く、僕らは心に決めたメニューを口々に言う。味噌が四つですね、と言い厨房へ戻った。ピッチャーに水が入っていることを確認して、僕はグラスの水を一気に飲み干した。
「つか真弘は醤油じゃねーの? いっつも醤油だべお前」
 シャツの袖を捲りながら言う奈良間に、真弘は笑う。
「お前だって普段塩だろ」
「いやそうだけど! そうじゃないじゃん!」
「ちょっと奈良間についてけねーわ」
「うっわうぜー」
「おめーの味噌に南蛮入れまくるからな」
「ごめんお前は良い奴!」
 そんなやり取りを笑って見ながら、メニューを広げる。店に入るまではそれぞれ塩と醤油のどちらかしか選んでいなかったのに、一気に味噌に気持ちをもっていかれた。
「まあまあ、そんだけいいにおいしたからさ、いっしょや」
 春輝にそう言われ、不服そうに二人は黙る。
「さすが」
「いえいえ」
 アプリを開いていた携帯から、春輝に視線を移して一言。柔らかく笑った春輝は頭を少し下げて笑った。ほかの客のラーメンをすする音や、厨房の雑音と、ラジオが流れる店内。うるさく感じるどころか、このまとまってなさが心地よい。

「お待たせしましたー、味噌になりまーす」
 体格のいい男の店員が、お盆に四つラーメンを載せ運んでくる。どれも湯気がのぼり、濃い味噌の香りが僕らのいるテーブルを支配した。無料トッピングで用意されたバターとコーンをそれぞれどんぶりの中に落とし、箸で麺をほぐす。じんわりと溶けだしていくバターが、スープの表面に広がっていく。
 奈良間達はもう食べているが、らいくの麺はかためのため、僕はバターが全部溶けるのをぼんやり見つめる。楽しく食べたいという気持ちと、隣でラーメンをすする真弘を思う気持ちとで、内側が壊れそうだ。鳩尾のあたりがザワつくような、赤点回避出来ていなさそうなテストが返却される時のような不安。溶けきったバターを全体に馴染ませ麺をすすったが、味はしなかった。それでもひり出した「美味い」の言葉には、心がこもっていなかったような気がする。

 駅でみんなと別れ、ぱたりと通知が来なくなったメッセージアプリを開いたまま、窓の外を見上げた。六時になる前の空はまだ明るく、木々の隙間に見える空が橙に変化し始めている。一人になり考えるのは、真弘と大畠のことだ。大畠の言うように僕は真弘に依存しているのだろうか。自分ではそう感じていないだけで、真弘を失う可能性があることに怯えているのか。
 一度前後に揺れた電車が、進み始める。忘れかけていた中学時代を必死に思い起こす。真弘は大畠を心底嫌っていた。僕も、真弘と同じように大畠を嫌った。そこに違いはないはずなのに、夕暮れの廊下で見た、懇願する大畠の顔が僕を責めているように感じられる。真弘に蹴られていた、確か肩口を思い切り。やり過ぎだと思ったんだ、僕は。大畠が涙目で、真弘の奥にいた僕を見ていた。真弘じゃなく、あの時大畠は僕を見ていた。胸の奥がざわつく。膨らませた疑念が、僕の中で暴れ回る。
 無意識にシャツの胸あたりを掴んでいた。窓越しに映る自分の顔はひどく険しい。指先が震えるような違和感。停車のアナウンスが鳴る。身支度を済ませた乗客が扉の前に集まり始めた。その中に、気持ち悪さに支配された僕が混じっていた。

「あ、幸太くん」
「……大畠?」
 吸い込んだ息が、逃げ場をなくす。心臓が脈打つのが分かる。発車を告げた電車が、ガタンガタンと音を立て徐々にスピードを上げていく。その間隔が狭くなるのと同じように、僕の鼓動も速く脈打っていた。じっとりと汗ばむ陽気。大畠の脇はワイシャツの色が変わっていた。いつから大畠はここにいた——? ぞわりと背筋が冷える。
「あれ? あいつは一緒じゃないんだね」
 大畠の言うあいつが誰を指しているのか、聞かなくても分かってしまう。
「……真弘は、彼女のところに行ったけど」
「へえ! やっぱあいつって幸太くんのこと案外どーでも良いんだろうね!」
 食い気味の大畠は、口角を上げて嬉しそうに言った。不快。しばらく電車が来ないホームに残って、大畠と話したいわけじゃない。書かないといけない手紙があった。何年も出していなかった、あの日の返事。
「彼女優先だろ、普通」
 そうだ、彼女を優先するに決まっている。きっと僕も真弘達といるよりも、彼女と過ごすようになるはずだ。ポケットに入っていたイヤホンをつける。大畠の声が聞こえないように、音量を上げ、改札へ向かった。改札を抜け待合室を出た僕は、何となく心がむしゃくしゃしていた。不快感、嫌悪感、吐き気。走るのには向いていないハイカットのスニーカーに、学ラン姿。それでも駆け出した。階段を途中飛び下り、走った。扉を乱暴に開ける。カバンが耐えられないと言いたそうに、僕の背中を叩く。足は止まらない。止められなかった。
 痛みも孤独も全て、お前になんかやるもんか。歯を強く噛んだ。歩くと遠く感じる自宅も、走ればあっという間だった。リビングと伊織の部屋が明るい。誰でもいいからそばに居てほしい気分だ。喉も心もカラカラに乾いている。

「おかえり」
「ただいま」
 出迎えてくれたのは伊織だった。眼鏡をかけて、リラコを着た姿でも、ああ頭が良さそうだと感じる。伊織は驚いた顔をしていた。
「……うん、おかえり」
 すぐ微笑んでくる伊織に、一つだけため息を吐き、母さんを無視して二階に上がる。机は昨日のまま。何度も書き直した手紙は、紙がよれている。宛名は封筒に書けないままでいるのを見て、ため息が漏れた。汗をかいていたけれど、下に降りるのも面倒くさい。カバンを乱雑に置き、ベッドに寝転がる。最近買った週刊雑誌が枕元に置いてあるままで、角が耳を掠めて「いって」と心のこもらない言葉がもれた。アプリを開いて、みんなの呟きを眺める。
 珍しく、自撮りをすると意気込んでいた奈良間は、画像付きで投稿していた。なにかの加工か、肌が白くなり、唇はピンク色になっている。同じ学校の先輩後輩関係なく反応されているのは、誰に対しても分け隔てないからだろうなと思う。前に春輝が言っていた、屈託のないバカは愛される、という言葉が思い起こされた。スクロールしながら普段の奈良間を思い出すが、姉以外に悪口を言うこともないし、誰かに悪口を言われていたこともない気がする。
 まあ確かに、あの笑顔はずるいよな。考えてること目に見えて分かるんだから、そりゃ皆警戒しないべな。そんな恨み言を思うけれど、事実は事実として受け止めないといけないことは分かっていた。充電器を挿し、着替えて一階に降りる。
「今日冷やし中華だよ」
 先に食べ終えていたらしい伊織は、リビングのテーブルに参考書を広げていた。家でも学校でも電車でも勉強をしているのかこいつ。完全に別次元の生き物だなと思いながら、キッチンへと向かう。ダイニングテーブルにはラップがかけられた冷やし中華が置いてあり、母さんからの書き置きもあった。
「今日、母さん達は」
 ラップを剥がし、つゆをかける。
「父さんは残業で、母さんは女子会」
 後ろでページをめくる音が聞こえる、二人だけの空間。いつも食事を摂る席は決まっていて、僕は父が再婚してからリビングに背を向けるようになった。元々は父が座っていた席。伊織がリビングで勉強している姿を見たくなかったのだろうと、最近になって自覚した。一人遅く食べる晩御飯の時間に、家族三人が笑い合っている姿も。
 冷やし中華は市販のものと変わらない味だった。ぬるくなった麺が少し気になった。嫌なことが続くな、きっと大畠と一緒になるまで。
 半分以上残した晩御飯と蛇口の水が排水溝に流れていくのを見ながら、そう感じた。何となく手を伸ばすことを躊躇ってしまう。

「水」
 伊織の声に肩がはねた。蛇口から水は流れていない。
「……あ」
「今日変だね、幸太。俺洗い物済ませるから、休んでていいよ」
 僕を押し退けるように洗い物を始めた伊織を見て、自然と足が後ろに動いた。変だね。その言葉が頭の中をぐるぐると回る。僕は、変。伊織に返事をする事も、洗い物をすることも、変。
「……寝る」
 掠れた声だった。自分の声だと思えなかった。伊織が僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、顔を向けることはできなかった。勉強の出来る、頭のいい伊織が僕を変だと言うのなら、それは事実なのかもしれない。何度も送られてくる大畠からのメッセージから、ただ逃げてるだけだ。毎回拒絶すればいいのに、それができない。
 ベッドに寝転がり、充電中の携帯をいじる。時計の秒針か規則的に鳴る。何度も見返した大畠や朝比奈からのメッセージをもう一度見返す。二人の考えを認めたくはなかった。けれど、拒絶もできない。大畠に言われた言葉とはまだ向き合うことが出来ないまま、携帯をいじるのをやめる。今頃テレビを見ていたらアポなし旅とかやってんだろうな。
 寝るにはまだ早い時間だけれど、柔らかなベッドに沈んた体を、もう動かそうとは思わなかった。このまま寝て、また先送りにする。考えないようにしていた今までと同じだった。きっとどうするつもりなのかは分かっている。ただ勇気が足りていないだけということだって、理解している。それでもまだ、あと少しだけでいいから夢を見たい気分だった。

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.12 )
日時: 2019/03/27 21:34
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)

 目覚めは最悪だった。アラームを何度消したか分からず携帯を見ると、もう既に授業が始まる時間。リビングに行けば驚いた顔でほのかさんが僕を見た。何か言っている。聞く気にならなかった。父さんはもう仕事に行ったのかな。少しだけ、一緒に過ごしたかったのにな。母さんに会いた——
「幸太くん!」
「っはい」
 目の前にはほのかさんの顔。いわゆる綺麗系の顔をしているけど、皺結構あるな。
「学校、どうするの?」
 問いかける優しい声色に、忘れていたことを思い出す。今日は大した授業も無いし、サボっても問題はない気がした。
「サボる」
 そう告げ、キッチンのコーヒーサーバーを使いカフェオレを淹れる。注ぎ口からは湯気がたつ。サーバーが動かなくなったのを確認し、マグカップを持って食卓テーブルに置く。真白なテーブルであるのに汚れひとつないのは、ほのかさんの頑張りなのだろうか。椅子に座ると何だかもう立ち上がれない気になってしまった。
「駄目よ、学校はちゃんと行かなきゃ」
 母親らしく、眉尻を少しつり上げてほのかさんが言う。耳障りな声。どうして僕はこの人が母親になる事を許したんだろう。
「関係ないだろ」
 味のしないカフェオレを啜る。舌先を内側に巻いても、その温度で火傷をした。ほのかさんはどうして他人の僕を気にかけようとするんだ。僕は親だと認めてなんかいないのに。父さんの一番を簡単に奪っていったくせに、どうしてお前が一番幸せそうなんだ。ダメだと自制しようにも、湧き上がる怒りは歯止めが効きそうにない。
「関係あるわよ! だって、幸太くんは私達の子どもだもの……」


 そこから先はよく覚えていない。父さんに殴られた頬が痛い。伊織も午後の授業を受けずに早退した。伊織は何も言わなかったし、何もしてこなかった。警察に通報されんのかな。ベッドに座って何度もそう考えたが、今までに聞こえたサイレンは救急車のものだけだった。
 大畠の思う復讐も、今の僕のように誰かを不幸にするものなんだろうな。きっと真弘が不幸になる。中学の時、真弘のこと止めてやればよかった。窓も開けず黙って座っているだけであるのに、じわりと背中や太腿に汗をかいているのを感じる。気持ち悪さが強まる。ただ心はどこか軽い気がした。今なら何でもできる気がする。
 喉が渇いた。あのカフェオレを飲んで以降、何も口に入れていない。何となくリビングに行くのが億劫だった。また父親に怒られる気がする。そう考えれば考えるほど、このベッドの上から動くことはできない。シワの寄ったシーツに載るこの足先から、少しずつ溶けだしていきたい。
 自分を保つものが失われている今、思い浮かぶのは自分がいなくなれるような想像だけ。動脈だかを切れば死ねるのかも。父さんが悲しまないようにするには、いっそこの家から出て行くか。ベッドから降り、学校に行く時に使っているカバンの中身を床に出す。重たい教科書が全部出てから、いい加減な折り目だらけのプリントが数枚落ちてきた。一番最後に落ちてきたプリントを開く。それは林間学校で必要な物が書かれた、簡易的なしおりらしかった。
 拾い、上下を持って紙を広げる。長々と隙間なく詰められた文字は読む気が起こらず、中段に設けられた『用意するもの』と書かれた部分を見た。林間学校に必要なものが細かく書かれた最後に、不要なものが数個載っている。教師の話を思い出そうにも、一切浮かんでこない。寝ていたつもりはないけれど、覚えていないならそういうことか。今は林間学校に行きたいという気持ちすらなく、手の中でそれを握る。乾いた音を立てたプリントは、拾う前よりぐしゃぐしゃになった。

「入るよ」
 僕の返事を待たずに扉が開く。まだ制服を着たままの伊織が、部屋の真ん中で立ち尽くす僕と、足元に散らばる教科書を見て、目を見開いた。
「何してんの、幸太」
 空のカバンを手に持って呆けた様に立っていたから、自分が何を聞かれたのか理解するまでには時間がかかった。
「家出の準備」
「家出? 何のために?」
「なんとなく」
 伊織を無視し、机の丁度背中側に設置されたクローゼットを開く。脱ぎっぱなしの服が数枚地べたに散らばっている以外は、全てハンガーにかけて管理しており、男子にしては綺麗に保たれているはずだ。中から数枚気に入っている服を取り、たたみもせずにカバンに詰める。そういえば金欠じゃん。学校にケトル忘れたしな。そんなことを思いながら。
「父さんに林間学校の話してなかったっけ?」
「……関係ねーだろ」
「何お前、俺の母さんのこと病院送りにして、んな態度すんだ」
 反射的に伊織を睨みつけた。傍らにあったやるせなさの正体が、罪悪感だと気付いてしまった。気付かされた、伊織に。僕とは対照的に薄く笑う伊織は、今までの優等生ヅラとは違い、不気味だった。
「まあ怒る気は無くて。あの人教育ババアだから疲れてたし」
 頭の後ろを雑に掻き、吐き出された言葉に、眉間に込めていた力が抜ける。僕の知っている伊織はこんなやつじゃなかった。制服を着崩すこともなく、頭の回転が早い奴で、外国の血が少し混ざった端正な顔で優等生らしく笑う男だった。伊織の人間らしさを知るなんて、思っていなかった。
「確かに再婚してすぐあんないちゃつかれたらさ、うざいとは思うよな」
 それを皮切りに、伊織は今まで感じていたらしい鬱憤を晴らすように、僕に吐露する。伊織の言葉には嘘がないように感じられた。伊織の話を黙って聴けば、伊織もほのかさんと父さんの関係にうんざりしていたと分かった。熱気が増した部屋が、僕と伊織の境界を揺らがす。互いの首筋を、額を、汗が滑り落ちた。
 伊織は僕と一歳しか変わらない、普通の高校生だった。
「でさ、俺お前に言いたいことがあって」
「何」
 伊織の口調はどことなく強い。
「俺のこと兄ちゃんって思わなくていいから」
 じゃ。そう言って伊織は部屋から出て行った。揺らいだ境界は元に戻ろうとしない。それどころか壁を作り直すことが出来ないくらい、僕の気持ちは参っていた。伊織のことを兄だと思おうとしていた無意識さを、伊織に指摘された。あんなに嫌がってたはずだろ。そう自分に言っても答えは出てこなかった。
 首を伝う汗を手の甲で拭い、寝巻きで手を拭く。伊織にどう返事をすべきかも分からない。けれど、伊織は兄じゃないと自信を持っていえるようになったことに、安心している。その事実が、悔しかった。
 網戸もせずに窓を開け、書きかけの手紙はそのままゴミ箱へ捨てた。教科書を踏んだが、そんなことどうでもいい。紙を出し、置いていたボールペンで乱雑に書きなぐる。伊織への苛立ちと、大畠と朝日奈への怒りが止まらなかった。

 きっかけは十分すぎるほどあった。僕が怖がっていただけ。可能性を書き起こせば、思っていたほどの障害はないように感じられた。どうせ大畠にできることなんてたかがしれてる。朝日奈はそばにいるわけじゃない。怖さなんてない。
 何重にも重なった黒インクの紙を、ぐしゃぐしゃに潰してゴミ箱に投げ捨てる。今の自分は多分無敵だ。怪人が僕の目の前に来てもマッハを超える速度で逃げたり、漫画みたいな一発KOも夢じゃない。
「待ってろよ」
 


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