複雑・ファジー小説

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うつくしきものたち
日時: 2019/06/20 17:06
名前: 葉鹿 澪 (ID: 06in9.NX)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=11967

 わたしには、ひみつの友達がいる。
 家の近くにある、小さな図書館。本がたくさん置いている部屋の、ずっと奥のとびら。そのむこうで、いつもその友達はわたしを待っている。
 図書館でみんなが読んでいるものよりも、ずっと古い本たちに囲まれたそこで、友達はにっこり笑ってわたしに「おはよう」と言ってくれた。
「おはよう! ねぇねぇ、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「そんなに楽しみにしていてくれるなら、私達も嬉しいな。良いよ、今日もいろんな話を聞かせてあげる。……でも、約束は忘れてないよね?」
「うん、守ってるよ。だいじょうぶ!」
 わたしと、この友達とのたった一つの約束。それは、ここで聞いたお話を決して外で誰かに話さないこと。この友達のことを、この部屋の外で喋らないこと。
 ふしぎな約束だけど、友達のお願いだ。たまにお母さんや学校のみんなに、自慢したくなるけど。
 ちょっとお行儀がわるいけど、床に座って友達を見上げる。
 友達はないしょばなしをするみたいに、人差し指をくちびるにあてた。
「さあ、今日も語って聞かせましょう。これは、東から旅してきた風が囁く物語。西で揺れる花が見た幻。北に降り積もる雪が包んだ夢。南の鳥たちの噂話」

——世界の秘密を覗きましょう。



>>1 群青/>>2 濡れない水/>>3 足りない人間/>>4 夜喰む化物/>>5 木曜午後三時/>>6 小匙一杯分の悪意/>>7 黒い港/>>8 鳥籠/>>9 造花葬/>>10 春は憎し 桜は愛おし/>>11 胡蝶の夢

黒い港 ( No.7 )
日時: 2018/03/30 17:52
名前: 葉鹿 澪 (ID: xplvrg7n)

 海、という言葉を聞くと私が思い出すのは、或る港だ。
 母の実家。函館の外れにある人気の無いただの港。魚もいなければ、小さな漁船が何隻か泊っているだけのそこには、ただ暗い色をした海が広がっている。
 そこは、私の祖父が死んだ場所だ。
 当時の私は一年前に父方の祖父を亡くしたばかりで、だからその葬式で祖父と指を結んだ言葉もはっきりと覚えていた。
「じじが死んだら、私のおじいちゃんいなくなっちゃう。だから長生きしてね」
 七歳の私は、大人との約束は絶対に守ってもらえるものだと信じていた。酷い勘違いだと気付いたのは祖父のやけに綺麗な死に顔を見た時ではなく、その棺桶に釘を打った瞬間だった。
 身勝手な失望は涙腺だけではなく心のどこかも一緒に埋めてしまったようで、終始祖父の死を前に私の心は凪いでいた。
 調査をした警察によれば、何の変哲もない事故だったそうだ。車を停める時パーキングをかけ忘れて、寝ている間にコンクリートの上をゆっくりと動いてそのまま落ちる。
 随分あっけないな。港へ花を供えに来た時、幼心ながらそんなことを思っていた。あの約束は一体何だったのだろう。そんなことも思ったが、ただ波に揺れる水面を見ていれば答えはそこから浮かび上がってきた。
 祖父にとって私との約束は、その程度のものだったのだ。
 その答えは海の色に似て、暗く沈んだ色をしていた。
 今では、祖父は決して死ぬつもりではなかったことは分かっている。分かっているが、それが何だと答える私は十二年前から消えはしない。涙一つ流さないまま、黒い海を睨み付けていた私。
 理不尽だと知りながら私はまだ、約束を破った祖父を、祖父を飲み込んだあの港を許せていない。
 数年前、何回忌かの際に久し振りに港へ行った。
 十年前と変わらないそこは、しかし一つだけ見覚えの無いものが増えていた。
 縁に付いた、車輪止めのような四角いコンクリート。
 どうやら祖父の事故の後に、同じことを繰り返さないよう設置されたらしい。
 私の知らないところで、祖父の死を誰かが持ち出したのだ。
 見知らぬ人間の取って付けたような善意は、気持ち悪いものだった。

鳥籠 ( No.8 )
日時: 2018/05/13 14:28
名前: 葉鹿 澪 (ID: C3NVtWiG)

──私がこの部屋に閉じ込められてから、二日が経った。 



 群青色の海から浮かび上がるような感覚があった。
 ぼんやりと明かりだけ見える視界に、自分が眠っていたことを知る。閉じた瞼を開けば、真っ白な布団とその向こうに続くフローリングの木目が見えた。
 体を起こそうとして、その重さに枕へ顔を埋める。布団についた腕に力が入らない。肩や膝に何か挟まっているような、嫌な痛みがあった。右足首に布が擦れるたびに、違和感を覚えた。
 寝返りを打つと、肌に張り付いた布地が気持ち悪い。伸ばした腕を覆う星柄が目に入って首を傾げた。私はこんなパジャマを着ていただろうか。
 仰向けになれば見慣れた天井が見えた。真っ白な中に、昨日のことを思い出そうと頭の中で記憶を映し出す。
 二日経った気がする。昨日はひたすら体と喉が痛かったことだけ覚えてるけど、それ以外のことが曖昧だ。一度目が覚めた時は、部屋の中は真っ暗だった。今は雨戸の隙間から光が差し込んで、部屋がぼんやりと群青色になっている。窓から外を見たかったけど、雨戸と窓枠に錠が付けられていて諦めた。朝だろうか。それとも、もう日は高く上っているのだろうか。
 部屋を見渡しても壁には時計が掛かっていない。ただ白い壁紙が、私を取り囲んでいるだけだ。フローリングにも私が寝ている布団が一枚敷かれているだけで、時計どころか家具の一つもない。天井は見慣れているのに見慣れない部屋だ。
 とにかく自由に動ける内に、外の様子が知りたい。
 今度はしっかり腕に力を入れて立ち上がる。布団から出て、部屋に一つしかない焦げ茶色のドアへ。顔のすぐ下にあるドアノブを掴もうと手を伸ばす。手の平から金属の冷たさが伝わってきた。
 握った手に更に力を入れて押し込もうとした時、ドアノブがひとりでに下がって、私の目の前には白いシャツが現れた。
 見上げるとドアから一歩離れた向こう側、薄暗い廊下を後ろに少し驚いた顔が私を見下ろしていた。
「駄目だよ、まだ寝てないと。お腹が空いちゃったのかな。丁度お粥を作ってきたんだ、食べてくれるよね?」
 穏やかな声と一緒に、大きな体が私を部屋の中へ押し返す。背中の向こうで閉じていくドアを、私はただ見上げることしかできなかった。
「ほら、布団に入って。そう、良い子だね。流石は妹ちゃんだ」
 陶器がぶつかって、かちゃりと綺麗な音が鳴る。枕元の床に直接置かれたお盆の上には、小さな土鍋とレンゲが乗っていた。
 熊の顔を模った、一人用の土鍋。焦げがもう取れないと母がぼやいていた。その記憶を手繰るように手を伸ばすと、「いいよいいよ、妹ちゃんはそんなことやらなくて。僕が食べさせてあげるから」と取り上げられてしまった。
「でも、元気そうで良かった。随分ぐったりしてたから、このまま死んじゃうんじゃないかと思っちゃったよ。お薬が効いたみたいだね。うん、迷ったけどお医者さんに診てもらったのは正解だった」
 一人で頷きながら、その手は器用に小さなレンゲで鍋の中身を一口分掬う。
 白くとろりとしたお粥の中に、薄黄色のものが混ざっている。たまごだろうか。うっすらと湯気が上っている。
「はい、口開けて」
「……やだ」
 思わず言ってから、しまった、と息を呑んだ。
 彼の顔を見るといつもの笑顔のまま、ただ首を傾げていた。下がった眉だけが、いつもと違う。どうしよう。失敗した。
「うん? なんて?」
「……えっと、熱そうだから」
 なんとか思い付いた言葉を絞り出す。声は震えて、擦れてしまった。それでも向けられた表情がほっと緩くなる。私も気付かれないよう小さく、喉に詰まっていた息を吐きだした。
「あぁ、そういうことか。大丈夫だよ、少し置いたから火傷はしないと思う。うーん、そうだなあ」
 私じゃなくて自分の口元にレンゲを持っていくと、乗ったお粥にそっと息を吹きかける。
「ほら、これで大丈夫だよ。はい、あーん」
 今度は言われるままに口を開いた。
 温かい出汁の味に、つい安心してしまう。
 口の中のものを飲み込めば、また一口分が顔の前に差し出された。そうしてそれを、咀嚼する。食べたくなくても、その繰り返しで鍋の中身はどんどん減っていった。
 やらなければいけない事があるのに、布団に入ったままのんびりとお粥を食べている。そのずれが、ただひたすら私を焦らせる。重たい体はここに置いて、心だけで飛び出してしまいたい。
 そんな事を考えているうちに、最後の一口が私の口から入って喉の奥に落ちていった。
「全部食べたね。少し残っちゃうかと思ったけど……偉い偉い」
 大きくて硬い手の平が、私の頭を撫でる。汗でべとべとの髪を指で梳くような、優しい撫で方だった。
 床の上の土鍋に、レンゲが入れられる。お盆が持ち上げられて、茶色い裏側が頭の真上に浮いて見えた。
 高くなった彼の頭を、布団からただ見上げる。
「また後で様子見に来るから、それまでちゃんと寝てるんだよ」
 そう言い残して、彼はまたドアの向こうへと消えていった。
 音の無い部屋の中に、リズミカルな足音が届く。段々小さくなっていくのは、階段を降りているからなのだろうか。
 少し忘れかけていた怠さがぶり返してきて、布団に体を倒した。ぼすりと頭が枕に受け止められる。
 お腹が空いていたわけではないのに食べたからか、体の中に食べたものがぎゅうぎゅうに詰まっているようだ。それに頭もぼんやりとしている。大きく息を吐けば、肺の中の熱い空気が部屋に混ざっていった。
 ここから出なければ。立って、歩いて、外へ。
 そう考えているうちに、いつの間にか視界はまた群青色の闇に覆われていた。瞼が閉じている。そう気付いた時には開く気にもなれなくて、また眠気の海の中に沈んでいった。



 枕に顔を擦り付けてから目を開くと、雨戸の隙間から差し込む光はオレンジ色に染まっていた。
 朝より体はずっと軽くなっている。起き上がることすら辛かったのが、嘘のようだ。ただその代わりにやけに息苦しかった。鼻の通りがとても悪い。口から大きく息を吸うと、喉の奥が呼吸で乾いて変な味がした。
 布団から抜け出して、ドアの前に立つ。そっと耳を当ててみても、物音は何も聞こえない。彼がいると、いつも何か音が聞こえてくるからよく分かる。今はどこかへ出掛けたのだろうか。それが何故かは分からないけれど、とにかく出ていくなら今しかない。
 ドアノブを掴んで、そっと押す。キイ、と蝶番がこすれる音が小さく鳴って、ドアは開いた。
 隙間から覗くと、部屋と同じフローリングの上にいくつも段ボールが積み重なっていた。数えてみると六つ。それほど廊下は長くないのに、他の部屋に続くドアの前にも置かれている。
 そういえば物置にしていた空き部屋に、取っておくものをああやって段ボールに詰めて置いていた。私を寝かせるために、わざわざ段ボールを出したのだろうか。だとしても、それは優しいからじゃない。きっとそうだ。
 更にドアを開いて、部屋と廊下の境目をまたいだ。静かな中に、心臓の音がうるさく響いている。
階段は部屋を出てすぐ、右側にあった。
 手すりを掴んで、そっと足を出す。きっと彼は留守だけど、どこからバレるのか分からないから慎重に。音が鳴らないよう、一段ずつ下りていく。
 階段が終われば、左右にドアが一つずつ。右がトイレで、左が洗面所だ。
 そして、正面には外へ続く玄関。
 あそこを出れば。外に出て、誰かに会えたら。そうすれば私は逃げられる。
 家で一番大きなドアに駆け寄ろうとした足が、ふと止まる。彼は一体、どうして私を閉じ込めていたんだろう。
 私は彼から殴られたりはしなかった。ただ、彼はこの家の中で私に優しくしていただけだ。些細な言葉に喜んだり、悲しんだり。
 振り返って玄関に背を向ければ、リビングのドアが少しだけ開いているのが見えた。
 今なら隠されていた彼の何かが、あそこにあるかもしれない。
 大丈夫。少しだけ。少し覗いたら、すぐにここを出よう。それくらいならきっと間に合うから。
 リビングに入るとなんだか甘いような、でもお菓子とかではない臭いが私の鼻に流れ込んできた。 嫌な臭いだけど、どこかで嗅いだことがある気がする。火曜日のゴミ出しを手伝った時とか。
 見回してみても、変わったところは何もない。記憶と同じ家具に、窓から入った夕日の光が映っていた。
 電話が乗っている棚の取っ手を掴む。滑りが悪い引き出しは、レールが引っかかったら少し戻してもう一度引くと、ちゃんと開いた。
 中にはプラスチックのかごに仕切られて、薬が入った瓶や箱が並んでいる。細かい字で難しいことが色々書いているけど、多分いつも使っていた風邪薬や胃腸薬だろう。他の引き出しも探してみるけど、印鑑や今までもらった年賀状、銀行の通帳が出てくるばかりで、彼のものは何も見つからなかった。
 他のところを探してみようと、食卓テーブルの横を通った時。ふと綺麗に片付いた上に一枚だけ置いてある紙の、大きく書かれた漢字が目に入った。
「登校、許可証……?」
 その下には細かい字で色々書いてあり、真ん中には四角の中に何かを書く部分がある。アルファベットのシーの上に小さな丸があるから、温度を計るのだろうか。
 紙を元のテーブルに置いて、次はキッチンを見てみようかと思った時。ドアの向こうからガチャリと重たい金属の音が鳴った。
 足が竦む。どこかへ隠れなければと思うのに、動かない体の中で胸だけが内側から叩いている。
 廊下からリビングを隠すドアが開かれる。喉の奥から、悲鳴になり損ねた息が音を立てた。
「──あれ、どうしたの? 起きちゃった?」
 優しい声が、少し硬くなって私の耳に刺さる。足元を見たまま、顔が上げられない。
「あの、その……喉、かわいちゃって……」
「ああ、そっか。部屋に飲み物置いておけば良かった。ごめんね。今体温計と一緒に色々いいもの買ってきたんだ。スポーツドリンクとか、お茶とか。お水もあるよ」
 矢継ぎ早に飛んでくる言葉と一緒に、テーブルの上に物が置かれていく。
 私が返事に悩んでいると、彼は更に口を開いた。
「キッチンは今ちょっとゴミを溜めちゃってるから、入っちゃだめだよ。熱は下がってきたみたいだけどインフルエンザだもん、清潔な場所で安静にしてないと。大丈夫、学校も一週間くらいは欠席扱いにならないって」
 楽になって良かったね。そう言いながら、俯いたままの頭を大きな手が撫でる。
 喉が渇いたと言った手前、何か飲まなくてはいけない。テーブルの上から、水が入ったペットボトルを取った。
 キャップを握って捻る。いくら力を込めても、なかなか開く気配は無い。
「ほら、貸してごらん」
 彼はそう言うと、私の手からペットボトルを取り上げた。そして軽く捻って、また私の手の中に戻す。キャップはちゃんと開いていた。
 ありがとう、と言おうとして開きかけた唇に、慌てて飲み口を付けた。冷たい水が干乾びた喉を通っていく感覚が気持ちよくて、気付けば中身は半分くらい減っていた。
「本当に喉渇いてたんだ。ううん、妹ちゃんにそんな我慢させるなんて、兄失格だなあ」
 照れたように笑う声に、思わず彼の顔を見上げる。この人は何を言っているんだろう。
 私に兄なんか、いないのに。
「さ、そろそろお部屋に戻ろうか。もうアンクレットも付け直して大丈夫だよね」
 買い物に持って行ったらしい鞄の中から、鉄で出来た輪とそれを繋ぐ鎖が出てきた。
 そっと、跪いた彼が私の右足を取る。足首に輪が通されて、揺れる鎖がじゃらりと音を立てた。
 二日振りの重みが戻ってきた。
「二階のあの部屋、妹ちゃんの新しい部屋にしようと思ってるんだ。今は何も無いけど、これから妹ちゃんに相応しい家具を集めていくから。ちょっと我慢しててね」
 楽しそうに笑いかける彼に、私は何も返さない。
 私がここに、自分の家に監禁されてから、もう二週間が経つ。

造花葬 ( No.9 )
日時: 2018/06/13 21:35
名前: 葉鹿 澪 (ID: zqBo0Cgo)

 造花の中に眠るその顔は、世界で一番幸せそうな寝顔に見えた。

「それでは、最後のお別れとなります」

 喪服の葬儀屋が小さな窓を閉じると、憎たらしい顔も見えなくなった。
 最後。最後ってなんだろう。もう起きることのない人間に何か言って、何になるんだろう。
 私の言葉があの真っ白な皮膚に染み込んで、肉の隙間を埋めて血管の中にまで満ちるなら、どんなことでも、何度だって言うのに。
 すすり泣く声も惜しむ声も、ただ空気の振動になって消えていくのだ。その鼓膜すら揺らさずに。
 重く分厚い鉄が口を開き、白木の箱を飲み込んでいく。てっきり中は炎が燃え盛っているのかと思っていたけど、ずっと燃えているわけではないようだ。ただ、それでも熱い風が私の頬を微かに焼いた。
 もし、今駆け出して、あの棺に縋りつき、一緒に灰になってしまえたら。
 私の体が急に透けて、二人を隔てる全てを通り過ぎ、小さな箱の中で寄り添って目を閉じる。
 ごうごうと唸る熱に囲まれながら冷たい皮膚と私の肌が触れ合って、溶けて一つになっていく。細胞膜はもう邪魔をしない。
 白木は火を灯し、放たれた紙の花弁は白から赤へと色を変える。その美しさに、私は息を吸うのもやめて見惚れるのだ。そうか、彼はこれが見たかったから、造花を選んだのだ。
 彼の頬に朱が差す。あぁ、いつもの夜だ。白いシーツの上で、彼の上に寝そべる私を見上げるその顔。私は心を擽られて、笑い出す。
 喉はもう焼けている。それで良い。私の言葉はきっと一足先に飛んで行ったのだろう。今頃彼の言葉と一緒になって、戯れているのだ。
 彼の白装束も私の黒いワンピースも、とっくのとうに消えてしまった。剥き出しの肉で、歯を見せて笑いながら触れ合う。貴方のこんな奥深くを知っているのは私だけ。私のこんな恥ずかしいところを見るのは貴方だけ。それは遂に、永遠になった。
 唇も無くなった口でキスをする。ずっとこうしていよう。二人で一緒に。
 私と彼の骨はきっと区別がつかなくなって、同じ骨壺に入れられる。暗く狭いところで、ゆっくり眠ろう。どこへも行けなくなったまま。
 造花は次々に焼け落ちていく。私の眼も彼の枕元へ零れ落ちた。
 真っ赤に染まった視界の中、同じ温度になった彼に寄り添う。
 全てはただ、作られた花のように。

春は憎し 桜は愛おし ( No.10 )
日時: 2019/06/15 22:31
名前: 葉鹿 澪 (ID: 06in9.NX)

 申し上げます。申し上げます先生。あの子は酷い。酷い人だ。そう手紙に書いてやりたいのに、今年出した年賀状は宛先不明の判子と共に返ってきました。裏切りです。
 約束をしたのは忘れもしない、十一歳の六月でした。先生、私の生まれ故郷である北海道は、六月に春が終わるのです。ソメイヨシノの北限である北海道では、五月の山桜が春の風物詩。その春の死骸が爽やかな風となって、澄んだ空と私達の間を吹き抜けていました。一足先に歩道橋の階段を上った十二歳のあの子は、真っ黒できらきらした長い髪を揺らして、引っ越しが決まった私にこう言ったのです。「ゆいちゃんがうちに来て残ってくれたらよかったのに」「待ってるから」。その時の私がどんなに嬉しかったか、先生にはきっと分かりません。私だけのものです。
 一歳の時から、私は同じ保育所にいたあの子に育てられてきたのです。桜庭春樹。四月四日に生まれた、美しい名前の美しい女の子。私に黄緑の葡萄はマスカットというのだと、青空と桜の色はとてもよく合うのだと、そう教えてくれたのはあの子でした。当時、親や保育士に呼ばれるがまま一人称をゆいちゃんと言っていた私に、自分のことは「私」と呼ぶのだと教えてくれたのも。そうです。私が「私」という言葉を使うとき、それは私の言葉ではないのです。私の口を借りた、あの子の言葉なのです。靴箱の名札に貼ってあった、秋桜のシール。笑うと薄い唇から覗く八重歯。桜色よりも空の青色が似合うような子でした。青色が好きだと言っていました。私も青色が好きになりました。あの子が私に、「ゆいちゃんの髪は色が薄くて綺麗だね」と笑いかけてくれたから、それ以来私は髪を短く切れません。服にも化粧にも興味は無いのに、この髪だけは大事にしようと思うのです。そうしていれば、あの子はきっとまた会ったときにこう言ってくれるのです。「ゆいちゃんは変わらないね」と。
 再会を何度夢見たことか数え切れません。駆け寄る私に冷たい目を向けるあの子。抱きとめて、会いたかったと囁いてくれるあの子。そもそも別離なんて無かったように笑い合ったり。それなのに毎年出していた年賀状は、今年返ってきたのです。先生、便利な世の中になりました。住所も連絡先も何一つ分からずとも、顔と名前を憶えていればこの時代、調べることはできるのです。あの子はどうやら北海道を出て、大阪にいるそうです。インスタグラムに同年代の人と写っている笑顔が載っていました。髪は短くなって、仄かな桜色の唇は赤く下品に塗られて。酷いでしょう先生。でも、赤い口紅が世界で一番似合うのはあの子です。
 繰り返し見た再会の夢を、私は正夢にしようとは思ってません。だって心から望んでいる再会は、まだ夜に迎えに来てはくれない。私はあの子に、私の葬式に来てほしいのです。十数年振りに見る幼馴染の顔が、遺影と死に顔であってほしい。そうすれば生きて笑っていた私は、永遠に過去のあの子のものになるでしょう。そして私を置いていったことを後悔してくれたら、先生、こんなに贅沢なことってないと思いませんか。私はずっと、あの子のことが好きなのです。裏切られてもまだ。それならあの子には、私のことを嫌ってほしい。一番を独り占めしてみたい。あの子の十一年、全てを台無しにしたい。その為に先生、お願いがあるのです。私が死んだ時、葬式でこれを読み上げてはくれませんか。こんなこと先生にしかお願いできません。いえ、あの子を傷付けるためなら、親にだって悪魔にだって頭を下げます。ですが今、私の前にいらっしゃるのは先生なのです。先生お願いします。これはささやかな仕返しです。一世一代の復讐劇なのです。私の死体はどうせ、無機質な炎に焼かれて灰になるのでしょう。それなら言葉の死体はどうか、桜の根本に埋めてください。
 嗚呼、先生。四月四日の大阪には、桜が咲いていたのでしょうか。

胡蝶の夢 ( No.11 )
日時: 2019/06/20 16:24
名前: 葉鹿 澪 (ID: 06in9.NX)

 起きてから胃が重く不快だったので、舌の上に指を突っ込んで吐き出してみた。
 口から出てきたのは昨日食べたラーメンではなく。
 死んでもなお鮮やかに青い蝶の群れだった。

「ミヤマカラスアゲハだ」

 幼い頃、何度も開いては眺めていた図鑑。記憶の中でそのページがパラパラと捲れていく。
 黒の中に、光を反射するささやかな色。ところどころ千切れているけど、後翅の雫が垂れたような形もしっかりと残っている。
 幼い頃、家族旅行の最中に見つけて夢中になって追いかけた。
 柔らかな日差し。背の高い蕗。溶けていく薄緑の葉。
 あの蝶は結局、捕まえられたのだったか。その先を思い出そうとしても、どうも靄がかかっている。

「……いや、そもそも昨日食べてないよな?」

 弱いなりに酒を嗜んでしまったせいで記憶に自信が無いが、昨日食べたものは何の変哲もない袋麺だったはずだ。酔った勢いで好奇心に身を任せて蝉や甲虫の幼虫を口にしたことはあるが、その時にはハッキリと記憶に残っていた。
 そもそも、冬真っ盛り。この辺でこう何匹も蝶が飛んでいるはずはない。となると、この群れは一体どうやって私の胃に入ってきたのか。
 胃液と唾液、寝起きに飲んだ水が混ざった中で浮かぶ、艶やかな翅を眺める。
 有り得ないことを全て除外すれば、それがどんなに意外でも真実である。繰り返し読んだ小説に倣って考えてみる。
 悩むまでもない。食べていないなら食べていないのだ。つまりこの蝶の出処は冷え切った土の中でも、私の胃でも、袋麺でもない。脳髄だ。

「病院行くかあ」

 トイレの床から立ち上がる。ついていた膝はすっかり冷めきって、ギシリと嫌な音を立てた。
 ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出し、業務連絡に使われているトークアプリを開いた。
 当日、それも時間を見ると午前をギリギリ過ぎる時間の欠勤連絡は気が引けたが、胃から蝶を吐き出した人間がそのまま出勤する方が危険だろう。うん、この判断は間違っていない。多分。
 そうなると問題は文面だ。流石に「吐いたら蝶が出てきたのでお休みします」とは言えない。確かに今日はしっかりと休みをもらえるかもしれないが、最悪明日から永遠に休みにされてしまう可能性がある。慎重にいかなければ。

『突然の連絡になってしまい申し訳ありません。前日から体調が優れず、嘔吐の症状も出たのでノロウイルスなどの可能性を考え、病院に受診しようと思うため、今日の授業はお休みさせていただきたいと思います。宜しくお願いします。』

 浮かんでくる定型文にそれらしいことを当て嵌め、送信ボタンを押す。
 緑色の枠に囲まれた文章に、何となく違和感があったような気がした。気がしたけどもう送ってしまったので、見なかったことにして画面を戻す。
 未読を示す数字が縦にずらりと並んだ画面も見ないふりをして、ついでにその中の一つを指で触れる。

『蝶吐いたから病院行ってくるわ』

 事実だけを簡潔に書いて、これも送信。報連相はすっきりさっぱりと終わった。
 スマホの画面を消して、トイレの流水レバーを引く。
 季節外れのミヤマカラスアゲハは、羽ばたき一つしないまま渦を作って吸い込まれていった。
 トイレのドアを開いて、リビングへ。財布や保険証、おくすり手帳が入ったままの出勤鞄を持つ。
 ローテーブルに足をぶつけ、からからと黄色い空箱が落ちて音を立てた。
「それじゃあ、行ってきます」
 いってらっしゃい。
 鼓膜にこびりついた声と共に、重たいドアが閉じた。


 ノロウイルスを疑っているのであれば、診断書は内科から出してもらわなければいけないのではないか。歩きながら思い至った。
 道端に落ちていたビールの空き缶を爪先で蹴る。勢い良く飛んで行った銀色の缶は、軽々とした音とは裏腹に鈍く地面に当たって中身を噴き出した。
 アスファルトに、赤黒い染みが広がっていく。

「なるほど」

 ビール缶にも五分の魂。今度から捨てる時はもう少し大事に潰すべきかもしれない。
 さて一体どうしたものか。私が見ているものが幻覚であるとするなら、かかるべきは脳神経外科や精神科だろう。しかし口実で持ち出したノロウイルスを置いておくにしても、嘔気はどう考えても内科だ。近所の総合病院で診てもらうとしても、最初に決めておかなければ受付の人にも迷惑がかかるだろう。平日の昼間というのは人が多い。こんな訳の分からない人間に付き合わせるわけにはいかない。
 並んでいる自分の背中に刺さる視線。上手く出てこない言葉。掌とペンの間に滲む手汗。定まらない視界。
 胃の底がひっくり返るような吐き気。

「っ、うぇ……」

 重く湿った音を立てて、胃液が地面に落ちる。咄嗟に掴んだフェンスが揺れる。
 ぼたぼたと重なっていく蝶の翅が、小さく痙攣した。
 それが酷く気持ち悪くて。恐ろしくて。

「病院、行かなきゃ」

 踏み出した足の後ろで、アスファルトに黒々とした翅が張り付いていた。
 フェンスを辿って道を歩き続ける。たまに縺れる足を引きずって。

──春馬。
──おい山形。

 後ろからそう呼ばれては足を止めて振り返る。しかし右を向いても左を向いても、平日昼間の住宅街なんてそうそう人がいるものではない。
 三度、四度と振り返ったところで、こちらを怪訝そうに見ている中年の女と目が合った。

「こんにちはー」

 声をかけると眉と眉の距離を狭くして、曲がり角を進んでいく。その背中が見えなくなる直前に、少しだけ早足になった。
 なるほど。どうやらあの人は私の知り合いではなかったらしい。となると、私の名前を呼んでくるこの声もどうやら振り返って答えられるものではなさそうだ。
 そう分かれば別に、律義に答えてやる必要はない。
 更に歩を進めていく。家から病院までは、大体徒歩三十分くらいだっただろうか。それにしては、随分と歩いているような気がしている。
 どれくらい歩いたんだっけ。スマホで時間を見ようとしたら、画面は暗いまま一向に液晶が映らない。電源ボタンを長押しすると、赤くなった充電マークが点滅していた。

「まあ、こんなこともあるよね!」

 住宅街を抜けると、目の前にはまたフェンスが横切っていた。なんだか見たことあるような景色だが、特に特徴もない街ならそんなものなのだろう。
 そうは思っていたけど。

「……ん?」

 フェンスを辿って歩いて行った先。
 地面に広がって潰れた蝶の群れは、流石に見覚えのあるものだった。


「なるほど、ぐるぐる回っている」

 蝶の死体と五回目のこんにちはをした。
 私の知らない間に街全体が大規模レジャーランド化してなければ、これは私の歩いている道が同じところを通っているということだろう。
 きっと空から見ていれば、その道筋は綺麗に円を描いている。何も正解していないのに。
 これは困った。

「帰ろうと思っても戻ってきちゃうし、どうしたもんかなあ」

 見上げれば、薄い青色が広がっている。ミヤマカラスアゲハの青よりも薄く淡いそれは、西の裾をもう橙に染め始めていた。
 それが無性におかしくて、口角が上がっていく。出処の分からない衝動はそのまま笑い声になって唇から漏れてきた。

「あー、はっはっはっは、どうしよっかなあ。困ったなあ」

 楽しい。何がと言われれば何も分からないけれど。
 心が躍る。ステップを踏む足は地面についていないけれど。
 家にも病院にも行けないのなら、いっそもっと遠いところへ行ってみようか。

「雪の進軍、氷を踏んで」

 鼻歌を口ずさんでまた歩き出す。今度は足の向くまま、角を右へ、左へ。右。たまにまっすぐ。

「何處が河だか、道さえ知れず」

 名前を呼ぶ声が聞こえる。どうでもいいけど邪魔されるのは気に障る。
 こんなに清々しい気分はいつ振りだろうか。

「馬は斃れる、捨ててもおけず」

 背中に銃口が向けられているのを感じる。逃げなければ。どこまで?

「此處は何處ぞ、皆敵の國」

 息が切れる。走っても走っても銃口は私を追ってくる。踏み出した足が雪に取られた。雪なんていつの間に積もっていたんだろう。

「儘よ大膽、一服やれ、ば」

 降りしきる雪が顔に当たる。名前を呼ばれる。ああ五月蠅いな。

「頼み少なや、煙草が──」
「春馬!」

 立ち上がろうと前に伸ばした手が、引き上げられた。
 晴れた夕焼けを背負ったその顔は忘れもしない。でもどうしてここにいるのだろうか。

「夏、樹?」
「お前、どこまでほっつき歩いて……電話も全然出ないし。つーか電源切りやがってお前」
「本物?」
「はあ?」
「いや、蝶とかビールの血とか、その亜種かなって。大丈夫、俺今電柱と話したりしてない?」
「大丈夫大丈夫。本物だから。ほら触ってみろ。温かいだろ。温かいな? よし帰るぞ」

 腕を引いて一歩前を歩く夏樹は私よりも背が高い。見上げた先で色の抜けた髪が、冬の風に吹かれて揺れては日の光を透かしている。
 そうか。確かにこれは現実だ。

「先にマンション行けば玄関の鍵はかかってないし、病院にもいないし、マジで、遂に町内放送のお世話になるかと思ったわ」
「迷子になっちゃって。鍵かあ、そう言われれば掛けた記憶無かったなあ。いやあ、面目ない」
「思ってないくせに」
「えへへ」
「お前そうやっていつも誤魔化せると思うなよ」
「夕飯は夏樹の好きなものにしような」
「お前が作んの?」
「好きだろ? 俺の作る飯」
「今さっきまで徘徊してた奴に刃物持たせられるわけないだろ」
「それは確かに仰る通りで」

 包丁を使わないで作れる料理は果たしてあっただろうか。ピューラーは刃物に含まれるのか。
 ぐるぐると頭を悩ませていれば、「外食もできないだろ。俺が作る」なんて言葉が聞こえてきて目を瞬かせた。珍しい。

「夏樹、ちゃんと作れんの?」
「カレーなら」
「カレーかあ。甘口がいいな」
「お前作ってもらう立場なこと忘れるなよ……?」

 人が多くなり始めた夕暮れの道を、弟に腕を引かれて笑いながら歩く。
 不意に夏樹の声が途切れる。さっきまで続いていた生意気な言葉の代わりに届いたのは、随分としおらしい。

「兄の葬式の喪主とか、させるなよ」
「変なこと言うね。いつか絶対にお前がすることだよ」

 返事の代わりに聞こえた舌打ちに、「ごめんね」と答えれば「思ってないくせに」とまた言われてしまった。
 その通りだったから、もう一つごめんねを重ねる。
 今度は舌打ちも無かった。

「カレー、楽しみだな。久し振りだ」
「手伝わせるからな」
「勿論。助けてあげるよ」

 きっと帰る前に、最寄りのスーパーで材料を買っていくんだろう。それくらいはちゃんと兄らしく、出してあげないといけないな。
 どこからかスパイスのいい匂いが鼻先を擽っていく。それにつられて、胃がきゅう、と小さく縮まった。
 どうやら蝶は、もうすっかり溶けてしまったようだった。


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