複雑・ファジー小説

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手折られた花の行方
日時: 2019/01/31 13:06
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: P37QCNCD)
参照: http://twitter.com/imo00001

『人間が今よりも善い人間になるのは、木が体だけ大きくなってゆくのとは異なることだ。樫の木が三百年の間、立ち尽くし老いさらばえて材木となって倒れてゆくのとは違う。それよりも、僅かな時を生きる五月の白百合の方が立派だ。例え一晩で萎んで死んでゆくにしても、未来永劫、光を宿す草花であったからだ。小さいものにはものでそこに美がある、ほんの僅かな時の中の命にも、素晴らしい人生はあるのだ』

それが真理だしても、少女は美しく装飾された死をその手に取らなかった。彼女が望んだものはただ一つ。不完全でボロボロに擦り切れた生という希望のみである。

———
こんにちは、ポテト侍です。本小説は私が参加させていただいているリレー企画とは全くの別であることご理解ください。また、陰惨な描写が度々出てくるのでその点をどうかご留意くださいませ。

『』内の詩はベン・ジョンソン作 詩集“underwood”(1640)の一節を抜粋した内容となっております。

各章のタイトルは

・平井正穂 編(1990)『イギリス名詩選』岩波文庫
・亀井俊介・川本皓嗣 編(1993)『アメリカ名詩選』岩波文庫
・安藤元雄・入沢康夫・渋沢孝輔 編(1998)『フランス名詩選』


より引用しています。        


※No.7に加筆しました(2018.9.13)
※No.8に加筆しました(2019.1.31)

Re: 手折られた花の行方 ( No.4 )
日時: 2018/09/03 21:17
名前: ポテト侍@スマホ ◆jrlc6Uq2fQ (ID: 3WUuRto.)
参照: http://twitter.com/imo00001

 眩い光に包まれた先にあった景色は夢か現か。弥生は息を呑んだ。先程まで薄暗い校舎の中にいたはずなのに、今、己が立っている場所は屋外でしかも日が照っている。中世ヨーロッパを彷彿とさせる石畳みの道とそこに沿うように建てられている煉瓦造りの建物。空は青々と澄み渡り、気温は高いが湿り気の少ない気候は日本の夏の特徴である高温多湿からは遠くかけ離れたものであった。往来する男性の多くは草臥れたシャツとよれたズボン、薄汚れた帽子をかぶり、女性は踝が隠れるほど裾の長いワンピースと風船のようにふんわりと膨らんだスリーブをつけ、頭には真白なボネットを被って町を歩いている。時折、彼らとは比べものにならないほど身なりの良い男性や女性が町を歩いているが、早々に馬車に乗り込むとカーテンを閉めてさっさとその場を後にした。しかも皆が話している言語も日本語ではない。流暢な英語なのだ。いよいよ弥生はパニックを起こした。そもそも、ここはどこなのか。何故、私は此処にいるのか。答えの見つからない問いが頭の中をぐるぐると回る。呆ける少女の背後で男性が叫んでいるがよもや自分へ向けてだとは思うまい。何て言っているかは分からなかったが、誰かに注意を呼びかけているような、切羽詰まった声であることだけは理解できた。何気なしに振り返ると途端、鼻先を馬車が通過する。あと数歩後ろに下がっていたら衝突していたことだろう。と、御者の男は馬車を止めると首をぐるりと回し弥生に向けて睨んだ。急に止めたせいで被っていた帽子が落ち、テカテカと輝く頭が露わになる。しかし、そんなことは気にも留めず、顔を真っ赤に染めた男は頭の輝きと相俟って茹で蛸のようであった。衆目は男の頭と少女に二分された。注目を浴びたことが、余計に男の癪に障ったのだろう。唾を飛ばすよう、捲し立てるような早口で彼女を罵った。弥生はというと、瞳を右往左往と泳がせるのみで何も言わない。いや、言えないのだ。小中高と英語を勉強してきてはいるが、聞いて返事を出来るほどの語学力はない。だんまりを決め込む少女に、男は更に苛立ちを募らせ、激情が最高潮に達した時、一際大きな声で彼女を怒鳴りつけたのだ。理不尽とも言える叱咤に少女は照準を向けられた兎のように体を縮こませた。少女の瞳に涙が浮かび「御免なさい」とたった一言、日本語で謝罪の言葉を口にした。ギョッとしてマシンガンのように浴びせられていた言葉が止まると、これ幸いと言わんばかりに男に背を向けて走りだす。民衆の好奇な視線から逃げるように、人にぶつかりながら、自らが衆目から逃れられる道を探す。だから薄暗い路地導かれるように入ってしまったのだ。吐瀉物や生ゴミ、排泄物が混ざったような汚臭に鼻をつまみつつも決して足を止めようとはせず、そこを抜けた先にあった空間でようやく足を止めた。四方を壁で囲まれた殺風景な景色の中、雲だけはゆるりゆるりと形を変え、唯一時の流れを感じることが出来る。
「もう……、何なのよ」
 ズルリと出た本音は自分が考えているよりもずっと頼りなく、堪えていた涙が再び瞼の裏に溜まっていく。少女の嘆きは誰にも届くことはなく、壁に体を預けると、そのままズルズルとしゃがみこんでしまうのだった。

ハルシオン・エディンバラ支部の朝は一杯のコーヒーから始まる。二十四時間開放されている食堂が最も賑やかになるのは昼時と朝のこの時間で、多くの者がコーヒー片手に席に着くと、周囲の者と好き好きに会話を始めるのだ。或る者は民衆を煽る革命家のように、また或る者は食堂の隅を陣取り、まるで密談するようにこっそりと耳打ってはクスクスと笑い合う。女性ですらそれらの談義に加わり自らの意見を雄弁に語る。もしも、外に居る人間が、この状況を見たら、腰を抜かし、そして嘆くであろう。女性が政治について語るなどと。だが、ここではそのようなことは些事である。むしろ、逆に紛糾されるであろう。何故、女性が語ってはならぬのかと。ここは何しても自由である。平等がある。性別も人種の垣根を越えた社交場であった。
 コロンビア原産の豆は、挽くと香ばしい香りの中にジャスミンのような華やか香りが同居している。苦手だという者も多いが、ローリン・ラッセルズはそんな上品な香りが好きであった。家に居た頃、好いていた使用人が煎れてくれたコーヒーの香りにそっくりで、ソレを飲んでいるときのみ、僅かに覚えている家族の思い出に浸り、業務を忘れることが出来るのだ。ノスタルジーを感じて溜息を一つ零す。湯気を断ち切るようにコーヒーをかき混ぜていると茶色い水面に影が落ちた。顔を上げると新緑を思わせるエメラルドグリーンの瞳と目が合う。口角をゆるりと持ち上げた女性はレベッカ・ウォルシューである。買ったばかりの革靴のような艶やかな赤茶色の髪は耳たぶを隠すくらいの長さで彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。くすみがない白い肌は年齢よりも彼女を若く見せ何も知らなければ二十代前半だと思うであろう。垂れた目尻は顔を合わせた者に柔和な印象を抱かせ、スッとした目鼻立ちでも冷たい印象を与えない。ニコニコと笑う彼女に合わせてローリンも琥珀色の瞳を細めた。
「おはようレベッカ。今日は早いね」
 嫌味では無くローリンの本心である。任務のない日の彼女は昼頃まで自室に籠もっていることがある。彼女が朝早くに食堂に上がってくるなんて珍しい。彼女がそれを咎め紛糾されないのは、彼女にしか出来ない別の仕事を任されており、それを確実にこなしているからである。
 レベッカは「おはよ〜」とどこか気の抜ける返事をし、ローリンの前の席へ座る。女性にしては骨太でがっちりとした手は家が漁師の家系だった名残か。
 直径二十センチはあろうかという水晶玉が二つ乗せられており、ガス灯の青白い光に照らされると光が閉じ込められているようにキラキラと輝いている。
「口で説明するのは面倒臭いからさ、とりあえずコレをみてよ」
 差し出された水晶玉を涼しい顔をして受け取ったローリンだったが内心はまた面倒事かと辟易した。自ら選んだ仕事であるが、予想外のアクシデントが多ければ、中間管理職という役職も相俟って対応が全てこちらに回ってきて終わりがない。現在も提出が必要な書類が十枚ほど手元にある。今は何とか珈琲を飲めるくらいの余裕は確保しているが、これ以上手のかかる問題が発生したとしたら、愈々これは腹を括らなければならないだろう。
 気が付けばローリンの隣と後ろには人が群がり、皆、ローリンが持っている水晶玉に映る映像を見つめている。二つ渡された内の一つを後ろに立っていた男性へ手渡した。
 球体の中に映ったのは一人の女性。顔は見えないが、壁際にしゃがみ込み、スンスンと鼻を啜っては目元を拭っている。だが、それ以上に彼らの関心を惹いたのはその格好であった。あまりにも心許ないスカートの丈、下着が見えてしまいそうだった。
「娼婦か何かか?」
 誰かが揶揄したがそれは至極真っ当な感想である。イスの脚すら隠せと皮肉される時代、この町は、国は、無辜を至高とし、質実を徹底した。こんな堂々と足を晒すなど正気の沙汰ではない。ましてセレクターでもないのに! 彼女は武器を持たずに敵陣にたった一人、立ち尽くしているのと同じ。もしも彼女がヴェイグラントならば誰かが守ってやる必要があるだろう。
「いきなり現れた。こんま1秒にも満たない間に」
「ヴェイグラント?」
「恐らくね、あの戸惑いようからすると。私はそう踏んでる」
 それでもローリンの顔は晴れない。
「でも、前にもいたじゃないか。殺したヴェイグラントから服を奪って成りすまそうとした奴が」
「目を離したのは一瞬。瞬きを一回するかしないかの刹那。殺せるもんか」
「前に対応したのは?」
「スヴェンだよ。確か。任務帰りに保護させようとしたけど……」
 レベッカはここで言葉を切り、トントンと白い光を放つ球体を叩く。
「これで見てたけど凄かったねぇ。悪鬼羅刹生ずるが如し。敵味方情け容赦なくとは正にあのことだろうさ」
「任務帰りってことはあったんだろうけどね、アレ。激しい戦闘だったんだろう?」
 あの時、血の臭いを垂れ流して帰還した彼の顔をローリンは未だに覚えているのだろう。肩を震わせた男を緑の瞳の女が笑う。
「んで、どうするんだい支部長様。またスヴェンを行かせる?」
「残念。彼は今、任務中だよ」
「どこへ?」
 ため息交じりにローリンは答えた。
「シレジア。ラヴァーズの回収へ行かせた」
 シレジアと言葉を聞いたとき、レベッカの瞳が見開かれた。シレジア、正確にはシュレージエン。此方は現在オーストリア・フランス連合軍から侵略を受けている。現在進行形で戦闘が行われていることだろう。
「シレジア!! はぁー、こりゃまた……、えっぐいところに行かせなさる。スヴェンが嫌いなの?」
「まさか! 彼のことが嫌いだったら、ここじゃなくてフランス支部に飛ばしているさ」
 元の世界でヴァイキングと共にパリを攻撃していた彼を現地の人間はどう思うか。恐らくは彼を詰り責め立て最悪、”不慮”の事故を起こそうとするだろう。尤も、彼の場合はそんなことを気にしない豪儀な男だ。からかってくる輩など歯牙にもかけず、せいぜい鼻で笑う程度だろう。
「シレジアがどんな状況か分かってる癖に」
「分かっているから行かせたんだ」
「無言の帰宅になるかもねぇ」
「そうしたら叩き起こしてやるさ。なぁに、血の臭いを嗅がせればすぐだろう?」
 鮫のような男さと零し、レベッカも黙って頷いた。
「現在、ここにいるセレクターは?」
 問えばレベッカの代わりに隣に座っていた白衣の男が答えた。彼は錬金術を用いて魔具の開発を行っている。あまり寝ていないのだろう。不養生に見えるほど白い肌にボサボサの髪、目の下には隈があった。
「フィル・インとエディ・アーミティッジだな。治療室にいるのもを含めるなら、アリシア・トナカもいるけどね」
「ふむ……」
 水晶玉に映る少女は未だにしゃがみ込んだまま、動こうとしない。泣いているのだろうか。時折、肩を震わせたり、顔を拭ったりしている。
「フィルとエディに行かせよう。ただ、慎重に行動してくれと、そう伝えて欲しい。もしも彼女が人間だったならば、その時は……保護するように」
 僅かに目を伏せたのは自信の無さの表れである。しかし、彼にはそうする以外の選択肢など残されていなかった。疑わしきは罰せよ。化生が人へと化ける時代なのだ。ハルシオンを、そしてここにいる全員を守るためにはコレしかないのだ。水晶の中で蹲る少女を見据え、またまた厄介なことが起きそうだと頭を抱える。冷めたコーヒーは不味かった。

Re: 手折られた花の行方 ( No.5 )
日時: 2018/10/19 13:46
名前: ポテト侍@スマホ ◆jrlc6Uq2fQ (ID: CsDex7TB)
参照: http://twitter.com/imo00001

 弥生が顔を上げたとき、彼らは目視できるところまで迫っていた。彼らが何者なのか、何が目的なのか、分からない。ただ、熱心に弥生を見つめる瞳には恋慕とはほど遠い冷ややかな感情を垣間見ることができた。そして弥生はそれに気付かぬほど弥生は鈍感な人間ではなかった。見知らぬ男性二人に見られる恐怖に怯え、己の身長を超える煉瓦の壁に退路を断たれた小鹿は彼らから視線を外さぬまま相対することしか許されないのだ。もっともそのような態度をとられて困ってしまったのは二人の男性、もとい、エディ・アーミティッジとフィル・インである。秋の小麦畑を彷彿とさせる溌剌とした金糸を耳の後ろで一つに束ねているエディは如何するべきかと目線で指示を仰ぐ。
 フィルはガシガシと三分に刈り込んである頭を乱暴に掻いた。やることは決まっていたが……、人を説得させたりするのは得意ではない。見た目のせいで相手に威圧して話し合いにならないこともそうだが、何も考えずに拳を振るう方が好きなのだ。 
「あー、怪しいもんじゃねぇよ。落ち着け。そんなにビクつくな。な? イライラすんだよ、そういう態度。別にとって食おうってワケじゃねぇんだ。話し合いでもしようぜ?」
 フィルは怖がらせないようになるべく優しい声色をしているつもりだったが、どこか棘があるように聞こえたのは賭けに負けたからだろう。保護する女性がアマゾネスのように屈強か庇護欲を刺激するような華奢であるか。フィルは前者、エディは後者に賭けたのだ。今日の夜、ハルシオン近くのパブで酒を奢らなくてはならない。昨日賭け事で散財した彼にとっては痛い出費である。
 敵意が無いことを証明するようにフィルは両手をあげたが、弥生は警戒を解こうとしない。むしろ突然手を挙げたことに何か意味があるかもしれないと更に萎縮してしまう。
「埒が明かねぇな」
「しょうがないさ。戸惑っているんだろう? いきなりこんな所に飛ばされたらさ」
 彼はあくまでも弥生がヴェイグラントであると信じているようである。同情的に、言葉を選んで発したエディに対し、フィルは小馬鹿にしたように鼻で笑った。そのような性格故に過去に騙されて財産の三分の二を奪われたことを忘れているらしい。もっとも、それはローリンが裏から手を回して事無きを得たらしいが。とにかくエディは(少なくともフィルからすれば)優しいを飛び越えた甘さがある。
「フリしているだけかもしんねぇぜ?」
「あれが演技なら素晴らしいね。リア・シーヴァルを超える女優になれるよ、彼女」
「ふざけてる場合じゃねぇだろうが。とりあえず幻狂病かどうかだけでも確かめるぞ」
 とは口に出してみたものの、フィルは何らかのアクションを起こすつもりはないらしい。エディの肩に手を置くとひたすらに彼を見つめるのだ。彼の口元が僅かに引き攣った。
「もしかして、それは僕の役目かい」
「俺は何も言ってないぞ」
「嫌だなぁ。彼女が罹っているかまだ分かってないじゃないか」
「それを確かめるためにやるんだろう?」
 頑として自分は確かめるつもりはないらしい。確かにフィルの能力は彼の人生を表しているかのように派手なものである。避けられずに傷をつけるならエディの方が向いている。
「はいはい。嫌になるねぇ。人使いが荒いのさぁ治した方が良いよ?」
 軽口を叩いているが、エディにしてみれば憂鬱で仕方なかった。これから始まることを体良く言えば検査、悪く言えば尋問である。彼女が人間だったらそれで良し。しかし、もしも幻狂病を患っていたら、その時は、その正体を炙り出さなくてはならない。
「あー、なんて言うか。とりあえずごめんね?」
 肩からぶら下げていたポーチから取り出したの黒い革張りのケースである。長方形をしており、彼が触れるとカチリと小さな音を立てて蓋が開く。そして箱から青く光るダートのような取り出したかと思うと……、そこから先の動作を弥生が目で追うことは出来なかった。気が付けば頬に一本の赤い線が走っていた。それが傷なのだと認識したのは生温い液体が頬を伝ったと感じたからである。よもや攻撃されるとは思うまい。この時、弥生は初めて生命を脅かされる恐怖を覚え、呆然とした。意を決し恐る恐る振り向くと淡く発光しているダートが壁に突き刺さっており、やがて泡が弾けるように消える。あれが自分に向かって投げられたと知るのは容易く、彼の手には二投目が握られていた。
 弥生の頬に引かれた赤い線は修正テープを張られたかのよう、溶けるように消えていった。その様子は見た途端、エディは驚き「あっ」と声を上げたあと、その柳眉をひそめ、哀しそうに顔を伏せた。対照的に愉しげに口角を引き上げたのはフィルで首筋に彫られているタトゥーに手を当てる。
「どうやらあいつはリア・シーヴァルを超えた嘘つきだったみてぇだな」
 用済みと言わんばかりにエディを後ろに押して自分が前へと出る。その顔に狂喜を貼り付けて。
 無論、弥生にはこの二人が何と言っているのか分からない。だがぞくぞくと背中を駆け抜けるこの感覚は覚えがあった。夜の校舎で初めて人形のような少女と会ったときと全く同じである。
 マッチを擦るように右手が刺青を上を走る彼の掌には野球ボールほどの火球が囂々と音を立てながら座していた。
「ふざけた芝居はやめろよ? 少しでも楽に死にたいならな」
 フィルの言葉を弥生が少しでも理解できていたなら、彼女はすかさず反論していたであろう。掌から炎など出るものか、青く光る矢が創り出せるものか。ふざけているのはどっちだと。
しかし、矢継ぎ早に紡がれる彼の言葉を、英語を、理解できるはずもあるまい。彼女からすれば彼らは、山で追いはぎを行う賊徒と何ら変わらないのだ。
「や、やめっ……」
 懇願は盛る炎の声に打ち消された。彼女の声が二人に届いていたら、彼女が日本語しか話せないと分かっていたら、この凶行はなかったやもしれぬ。男達の瞳は冷たく氷のようだ。何を言っても彼らは聞く耳を持たないだろう。
誰に助けを呼ぶことも、助けを乞えぬ少女はただただ自分を恨むのだった。

Re: 手折られた花の行方 ( No.6 )
日時: 2018/10/19 13:45
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: CsDex7TB)
参照: http://twitter.com/imo00001

 もしも水晶に映る映像が正義のための行いというのならば、正義とは一体何なのだろうか、とローリンは思案する。自分の信念を貫くことであるとある哲学者は言っていたが、そのために他人が苦しんだら、それは正義であると呼べるのだろうか。「痛い」「やめて」「ごめんなさい」幼い言葉でひたすらに助けを乞う弥生の言葉は届かない。しかし、意味は分からなくても彼女が出す音が許しを乞うものであるのはここにいる誰もが理解していた。それでもフィルとエディを非難しないのは彼らの行いが真であると皆、知っているからだ。否、信じているからだ。異常とも呼べる治癒の早さは弥生が患者であるという理由に十分なりえる。無論ローリンにはその確信があった。幻狂病にかかった者は通常の倍以上の早さで傷が癒えていく。例外などなかったし、他の地域でも確認されなかった。だから自信を持って良い。そのはずであったのに……、今、彼の胸にあるのは口を噤んでしまうほどの違和感であった。咲いた竹の花を見た時の様な不安を養分に罪悪という花が咲く。重大な間違いを犯しているのではないかと嘯く声に耳を塞ぎ、目の前に映像に集中するが気分が優れることはない。
 遂に耐え切れなくなった数人が青い顔をして席を立った。咎めることはしない。彼らの気持ちも十二分に理解できるのだ。水晶に映しだされているのは二人の男性が女性に向かって死なない程度の攻撃を繰り返している拷問の様な映像だ。確信が持てるまで殺さないつもりなのだろう。彼らは。そして弥生が本当の姿を現したとき、彼らは本来の力で怪物を捻じ伏せ、そしてその首を情け容赦なく撥ねるのだろう。それを命令したのは他でもないローリン自身なのである。それがどのような結果を招いているか、本人が知らぬわけではなかった。しかし、いざ見せつけられると心臓を握られているような心地であり胸が苦しくなる。逃げるように視線をずらすと、レベッカがこちらを見ていた。普段はその迷いのない瞳に安堵するが今は不安を煽る材料でしかなかった。
「君は何も感じないのか?」
 苦し紛れの会話であった。しかし、彼女がそれを気にしている様子はない。
「何かって?」
「ほら、これ。なんていうか、こういう映像って気持ちのいい物じゃないだろ?」
「思わないことが無いわけじゃないけどね。私は慣れてるから」
 水晶へと加工されたラヴァーズを受け取ったその日から、彼女は自らの仕事を休んだことはない。己の就いている仕事が役割を担っているのか十二分に理解し、そこから発生した仕事に対しての責任感の強さ、そして普段の言動や行動によって巧妙に隠された彼女の生真面目さがそうさせているのだろう。恐らくレベッカは何が起ころうとこの町を、世界を、その小さい球体で見続けるだろう。どんなに惨いことが映し出されたとしても目を背けずに、小さな二つの網膜に焼き付けるだろう。そのような地獄を見せられてもなお、気を病んでる様子を見せたことは一切ない。冷徹と呼ぶに相応しい洞察力でピンチを切り抜けるアイディアを打ち出してくれる。迷いのないその強さが羨ましいと思った。
「そうかい……」
「そうかいって、しっかりしてよ。局長殿。みぃんな貴方を信頼して命令を聞いているんだ。それを裏切るようなこと、しちゃいけない」
 反論しようにも言葉が咽頭を絡みついたまま出てこない。渋い顔をしたまま居心地の悪さに自然と視線が下へと逃げる。弱い男だと嘲ることも失望した様子もなく、レベッカが何か言ってくることはなかった。吸い込まれそうなほど鮮やかな新緑で彼を見下し、空になったコーヒーカップを返却口に戻そうと立ち上がった。その途中にパンと白いマグカップが乗ったトレーを持った少女とすれ違う。エディとは違う金髪。シルバーブロンドの髪は肩につくくらいの長さで切り揃えられ、内側にくるりと巻いてある。雀斑やニキビのない白い肌には、ほんのりとピンクに色付けされた頬が良く似合う。そのような可愛らしい容姿だからこそ、左目の眼帯とグレーの輝きを放つ右目が余計に目立っていた。子供らしからぬ強い意志をもった瞳には思わず二度見してしまいたくなる美しさがあった。少女はレベッカがいた席にトレーを置き疲れたという代わりに溜息をつく。彼女はテーブルの天板の高さよりも小さく、椅子の上に立ってようやくテーブルから顔が出るくらいの背丈だった。しかし、少女——リアーナ・マーティンは、エディンバラ支部においての最古参、かつ、一番の年寄りは彼女であろう。
 隣の椅子を借りて顎をテーブルの上に乗っけると目の前に水晶玉がある。マジマジと見つめていた彼女は二人に対し顔を歪めると「趣味が悪い」と悪態をついて持ってきたパンを齧る。元々彼女はフィルの事を嫌っていた。素行の悪さが鼻につくのもそうだが、気に入っていた髪飾りを酔った勢いで燃やしてからは嫌悪に加えて怨恨も付け足された。大きく口を開けて齧ると弾けたパンのカスが球体の上に舞う。さすがにローリンが窘めるが、ごめんごめんと口先だけで謝り、パンを食べるのはやめない。彼は注意するのを諦めた。飢えた獣が獲物を貪る様に少女はパンにかぶりついていた。だが、襲われている少女の顔がちらりと映し出された時、その口が止まった。そして、何かを確かめるよう水晶玉の中を熱心にのぞき込んでいる。彼女の中で疑問が確信に変わった時、大きな目が更に見開かれ、そして、その視点はローリンへ。彼が話しかけるよりも早くリアーナは叫んでいた。
「何をしているのローリン!! 彼女は——」

 もう駄目だと思った。傷は治るにしても痛みは継続される。新しい肌になったとしても、すぐに別の傷が上書きされ、痛みが積み重なっていくのだ。じわじわと奪われていく体力、気力。もう限界だった。服は煤け、破け白いキャミソールが覗いている。剥き出しの四肢には切り傷と皮が剥けるほどの火傷を負い、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった顔は今は傷だらけで少し表情を変えるだけでヒリヒリと痛む。息をすることすら困難で、細い喉からはヒューヒューと息が洩れる音だけが聞こえる。ようやく膝をついた彼女をフィルは静かに見下ろしていた。
「何故、正体を見せない」
 先程とは異なり、フィルの言葉には困惑が混ざっていた。少し痛めつければ、すぐに醜い正体を現し襲い掛かってくるものだと思っていた。しかし、弥生は襲ってはこなかった。二人を怯えた瞳で見つめ、降りかかる火の粉をはらい、身体に突き刺さるダートを顔を歪めながらひたすらに抜いていた。エディも違和感を覚えていたらしい、ついにダートが手から消えた。フィルからの指示を待つが、彼が何かを命じることはなく、今にも倒れそうなほど朦朧としている弥生の様子を窺うことのみだった。ここで彼女が幻狂病を患っていなかったら、二人が行った事は畜生以外の意味をもたなくなる。正義のための高尚な行為が弱者を土足で踏みつけ、甚振る低俗な行為へと堕ちてしまうのだ。だが、斯様な矜持など弥生からすれば至極どうでも良い事だ。何故、嬲るような行為を行ったのか、それこそが目的だったのか。それが問題で、それ以外の事は取るに足らない些事である。自らに非があるなら謝り、相手の只の気まぐれで痛めつけられているのなら、せめて早く終わらせてくれるように乞うてみよう。そう、彼女が待ち望んでいるのは一刻も早くこの地獄から解放されることのみ。そこに生死は問わない。それほどまでに疲弊しきっていた。だから、彼女はフィルの指先に再び炎が灯ったことを知ると思わず笑みが零てしまったのだ。
 それがフィルの癪に障った。彼にとって死とは忌むべき存在で歓迎するような物でもされるような物でもない、諍うものだ。それを受け入れるとならば、いいだろう。与えてやろうと思った。エディの制止を聞かず、彼は更に大きく火を灯す。今までのように掠る程度なんて生温いことはしない。眉間に叩き込み、姿形、思念ですら残さず燃やし尽くしてしまおう。激情に呼応するかのように大きくなった火球がボッボッと音を立てている。そして行き場のない感情を発散させるかのように、弥生に向かって投げつけた。オレンジの軌道を残し、高温の弾が弥生の眼前へと迫ってくる。最早避けられまい。意識を失い今度こそ崩れ落ちた。視界が金色に染まり——。


 次に目が覚めた時、見知らぬ天井が目に入った。


【旅立ち・完】

Re: 手折られた花の行方 ( No.7 )
日時: 2018/10/02 09:48
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: Ex55yMPi)
参照: http://twitter.com/imo00001

2.Ave(祝詞)

 瞬きをするような、そんな一瞬だった。山吹色のカーテンが弥生の四方を囲み飛んでくる火球から身を守った。星にも負けない燦めき、僅かな風と共に裾をヒラヒラと踊らせるソレは紙よりも柔く思えたが、堅固な城壁の如く、弥生をしっかりと守った。猛炎に灰にされることなく、勢いを失うまで火球を受け止め続けたのだ。
 フィルは口を僅かに開けて茫然と立ち尽くしていたが、それの正体が分かると威嚇する獣の低い唸り声が発した。ギラギラと光る瞳の中に怒りを滾らせ、射殺せんとする鋭い眼光は乱入者を探し、見つけ出した。そして咆哮した。
「どういうことだ! おい! アリシア」 
 彼らの背後、アリシアと呼ばれたその女性は立っていた。怒号をもろともせず、コツコツと地面を鳴らしながら男二人の間をすり抜け、弥生とフィルの中間に立った。その時にようやくフーフーと息を漏らすフィルを一瞥したが、声をかけることもなく、ただ目を細くすると、さっと背を向けた。指をぱちりと鳴らせば弥生を包んでいた窓掛けがシュルシュルと小さく細くなる。三本は絹よりも細くなったかと思うと虚空へと消えて、残りの一本は同じくように細くなったかと思うと彼女の着ているブラウスの裾に潜っていった。
 自らの殆どを無視するアリシアの態度にフィルは更に怒りを募らせた。フィルは元々気が長い方ではない。今までの仕事が長く続かなかったのもこれが影響している。白い肌を仄かに赤くして更に吼えた。
「聞いてんのか!! この女は!」
 その時、初めてアリシアがフィルをしっかりと視た。彼の炎とは対照的に冷えた瞳はフィルだけではない、少し離れた場所で静観していたエディですら冷え汗を流すほどの威圧感を放っている。炎の揺らめきによって色を変えるヘーゼルの瞳は今は金色に輝き、狼の瞳のようになっているのが一層凄みを増している。彼女の気に当てられ少しは冷静になれたらしく、ようやく口を閉じた。
「貴方たちの慎重にってこれなの?」
 怒りと呆れ、そして嫌悪を孕ませて二人を詰る。普段ならば、しょうがないと朗らかに笑って済ませる彼女が、目と眉を吊り上げて怒りを露わにしているのは相当な迫力がある。そして何よりもエディが憂虞しているはフィルの態度である。案の定、彼女の怒りに触れてもなお、悪びれず、謝罪のしようともしない。それどころか小馬鹿にするように鼻で笑ったではないか。エディは頭が痛くなる感覚であった。そして大人しくしていてくれと切に願った。
「最初は話し合おうとしたぜ。でも、応じる気がないなら無理だろ、なぁ?」
 願いは天に届くことはなかった。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、大袈裟に肩をすくめれば、アリシアの小鼻が膨らむ。エディが咎めるように肩を軽くど突くがその府抜けた面構えが変わらない。怒気の中に見え隠れする殺意が刺さり、肩が痛い。
「死んでたらどうするつもりだったの?」
「そん時はそん時だろ」
「肉芽の確認はした?」
 この時だけは、フィルは僅かに眉をひそめた。幻狂病にかかると身体のどこかにビー玉ほどの赤い肉芽ができる。尤も、身体のどこかに表れるのかが分からない上に普段の病気や怪我で出来る肉芽と似ているため、見分けるのが難しいのだ。確かめる方法もあるが、それには少々骨が折れる。だから、もう一つの特徴である自己再生が可能な否かで確かめてしまうセレクターが多いのも事実である。
「……忘れてたんだよ」
「嘘。面倒くさかっただけでしょう? 貴方はいつもそうね。ガサツで適当で、丁寧さも慎重さも碌にない。煙突掃除をしてる十歳児の方がまだ丁寧でしょうね? いい? 私達が問題を起こして責任を取るのは局長なのよ」
「分かった分かったよ。小言はベッドの上で聞くから、なぁ」
「ふざけないで。今回だってそうでしょ。一歩間違えばこの子は死んでた」
「こいつは自己再生ができた。それなら罹ってるって考えるのが普通だろ」
 普段よりも低い声でにそう伝えれば、今度はアリシアが小馬鹿にしたように鼻で嗤った。
「彼女はヴェイグラントよ」
 フィルは先程のように笑い飛ばせなかった。ただ、弥生に対して己がした時を全てを否定されたような気がして、収まってきたはずの激情が小指ほどではあるが灯った気がした。
「証拠はあるのか?」
「リアーナが言ったわ。彼女は……ヤヨイはヴェイグラントであると」
「ずいぶん信頼してるんだな」
「彼女は嘘をつかない。つけない」
 「馬鹿馬鹿しい。仮にこいつを保護して違ったらどうするつもりなんだ?」
「その時は私が始末するわ」
 今は意識のない弥生を見下しながらアリシアは言った。指先で自らの武器である黄色いリボンを弄りながら、覚悟を感じさせる真の通った声ではっきりと。その女性らしい恰好や柔らかな四肢からは想像しがたいが、彼女も戦いに身を置いている人間なのだ。ここまで言われればフィルも引き下がる他あるまい。
「勝手にしろよ。俺達は知らねえからな」
「局長が呼んでたわよ」
「叱られる通りはねえぞ。俺達はしっかり仕事を果たしたんだからな。……行くぞエディ」
 アシリアに背を向けて歩き出し、その後をエディが追う。彼らが向かう先には町で一番大きい酒場があるはずである。今日は支部に帰るつもりはないらしい。アリシアが咎める声を無視し雑踏に消えていった。一人取り残されたアリシアは仕方が無いとばかりに溜息を洩らし気を失っている弥生へと近づく。二人の言う通り、傷の治りが異常とも呼べる速さで治っている。逆再生のDVDを見ているようだと思う反面、まだ、元居た世界の知識を覚えていることを嬉しく思った。服は血や煤で汚れ、破けているのに肌だけは傷がない姿は異常であり不気味だった。
「ごめんなさいね」
 一応服を脱がせて肉芽がないかを確認した後に彼女を担ぎ上げる。これなら新しい服を持ってきてあげればよかった。また、次同じような事が起きれば服を持って行ってあげようと思い、アリシアは皆が待つ我が家へと帰るのだった。

Re: 手折られた花の行方 ( No.8 )
日時: 2019/01/31 13:57
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: P37QCNCD)
参照: http://twitter.com/imo00001

※2019.1.31に加筆しました

 生気のない目で天井を見上げている姿はどこか人間離れしているが、上下に動く胸がそれを否定している。霧がかかったようなぼんやりとした頭で何故生きているのかを考えるが納得のいく答えは出なかった。
 痛みは殆ど無いことから化け物じみた回復力が治しただと悟り、声を出さずに嗤った。寝転がったまま視線を左右へと動かした。シミが無く清潔感のある布団に壁の代わりにクリーム色のカーテンに仕切られており、かつ、薬品の匂いが強い空間。ここは病院、若しくはそれに準ずる場所なのだろう。それならば誰がここまで運んだのか。よもやあの二人組ではあるまい。少し歩いてみようかと上半身を興したく時、カーテンの向こう側で扉が開いた音がした。緊張で身体を強張り、まばたきすら忘れ音のした方を凝視する。声をかけることもなく開かれたカーテンの先にいたのはアリシアだった。
「やっと目が覚めたのね」
 だが、弥生は声を弾ませる女性に面識はない。困惑している様子の見ると、アリシアは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、そうね。いきなりこんな所にいたら誰だって混乱しちゃうわよね」
 長い足を組むことなく、きちんと並べて椅子に座った彼女はヘーゼルの瞳が美しかった。
「先ずは自己紹介を。私はアリシア・トナカ。貴方はヤヨイ・シノザキでしょ?」
 よもや名前が出るとは思ってはおらず、ぼんやりしていた黒い瞳が僅かに見開かれた。
「どうして……私の名前」
 寝たきりでは失礼だろうとゆっくりと上半身を起こした。
「学生証。ポケットに入ってたから。それで確認したの」
 予め聞いていたとは言えまい。彼女は異世界からの客人であり異物でもあるのだ。
「それにしても、ヤヨイって素敵な名前よね。誕生日が三月とか? それとも時代かしら。確か弥生時代ってあったわよね」
「あぁ、えっと……、両親が住んでいた町の名前、からとったそうです」
「そっか。名前につけたくなるくらい綺麗な町なのね。私も行ってみたいわ」
「海が、とっても綺麗ですよ。夏は海水浴目当ての方がたくさん来るので……」
「ふふっ、そっかそっか」
 弥生の話に耳を傾け、相槌を打つ姿は、先ほどフィルとエディを咎めた立てた時とは打って変わって穏やかであった。
 やがて、弥生の言葉から震えが消え、下がっていた口角が僅か上がるようになった時、アリシアは相槌をやめて「ねぇ……」と優しく彼女の手を握った。
「私ね、あなたに訊きたいことがあるの」
弥生の指がピクリと跳ねた。「何でしょうか?」と答える顔に翳りがみえ、不安にさせている罪悪感に苛まれる。
「貴方を助けた時、服はボロボロだった。でもね、貴方自身には全くと言っていいぐらい傷もなかった。それはどうして?」
「傷の治りが凄く早くて。生まれつき……なんだと思います。私もよく分からなくて」
「病院に行って検査したりとかは?」
「検査はしました。それでも分からないそうです」
「同じような特徴を持つ人はいなかった? 肉親でも友達でも誰でも」
「少なくとも私の周りにはいませんでした。お医者さんもこんなの初めてだって言われた記憶があります」
「そっか……。ごめんね。変なこと聞いて」
 頭を撫でると目を僅かに細めた。犬のようだと思った。
「あの、私からも一つ、いいですか?」
「えぇ、どうぞ」
「ここはどこなんですか……」
 本当はもっと多くのことを聞きたいのだろう。アリシアを見つめる瞳は不安に濡れていた。恐らく、十一年前、彼女も、こちらに飛ばされてきたばかりの彼女も同じような瞳をしていたのだろう。だからこそ、弥生の不安を少しでも払拭しなければと使命感に駆られた。恐らくここで共に生活することになるであろう新しい仲間が少しでも馴染めるように。
「ここはーー」
 カーテン越しでも分かった。突然開かれた医務室の扉。ドタドタと足音を鳴らして部屋に入ってきたのは熟れた林檎のように顔を赤くしたフィルと冷や汗を流すエディだった。「アリシアァ!」と叫ぶフィルを必死に宥め、懇願するエディの声は暴走を止められぬ悲壮感に溢れていた。その足音はアリシアと弥生がいる場所に一直線で向かってきていた。マズいと思って立ち上がったが、カーテンが開く方が早く、弥生とアリシアの前にその姿が晒されることになる。
「最悪だ……」
 エディの呟きは最もであろう。フィルとエディが目の前にいると認識した時、弥生の顔が恐怖に彩られたと思うと叫び声をあげた。

 白い布に墨汁を零した時と同じように一度染み込んだ恐怖が消えることはない。死んでもいいと思っていた少女は謎の細君に命を救われて安堵し、そして、再び地獄に叩き落とされた。二人の姿を黒い瞳が捉えた時、二人と対峙した瞬間が鮮明に脳裏に浮かぶ。汗がドッと噴き出し、手脚が震えた。目頭が熱くなり、視界が滲む。叫びたくなくとも、声帯が開く感覚を覚えてしまう。ワァワァと幼子のように声をあげて泣き喚き、癇癪を起こした子どもと同じく、手元に或る物をフィルとエディに向かって投げつける。突然の投擲にも戸惑いつつも一つも当たらずに避けていく彼らは流石はセレクターと呼ぶべきか。
「いい加減に」
 語気を荒くして詰め寄ろうとしたフィルが足を止めたのは弥生の目に明確な怯えを感じ取ったからか。青い顔で歯をガチガチと打ち鳴らしながらも自らを害する者を排除しようとする姿の何と痛痛しいことか。酔いに任せた激情は直ぐに萎みきった。だが、弥生は止まらぬ。一頻りベッドに置いてあった物を投げると今度はサイドテーブルに置いてあった陶器の花瓶に手をかける。
 「ヤヨイ、待って!」
 フィルの顔めがけ投げつけようとしたところでアリシアが彼女を後ろからきつく抱きしめる。女性とは思えない強い力に更に弥生が抵抗する。体を蛇のようにくねらせ、クモの糸に縋る亡者のように手を伸ばす。花瓶から落ちた花がベッドに散り、水が真っ白いベッドを灰色に染める。だが、バタバタと藻掻く足に何度腹を蹴られようと、服の上から爪を立てられようともアリシアは決して弥生を離さなかった。きつく目を瞑り、時折苦しげに呻くだけだった。
 不意に呆然としている二人に目を向けると出て行けと言わんばかりに顎でドアの方に向かえと合図を送り、二人は黙ってそれに従った。部屋を出る寸前、アリシアと弥生の方をチラリと見たが、二人がこちらを見ることはなかった。刺激しないように静かにドアを閉めて、医務室に残されたのはアリシアと弥生のみになった。フーッフーッと息を荒げて悶える少女の爪がアリシアの柔肌に立てられ、苦悶の表情を浮かべようとも彼女を離そうとしなかった。
「貴方も私の敵なの? 貴方も私を、私を殺すの!?」   
 立てられている爪に徐々に力が入っていく。
「いやだぁ! 死にたくない、死にたくないよぉ!」
「いたっ」
一際強く立てられた爪がアリシアの肌に一本の紅い線を引いたとき、そして、粘土を爪で引っかいたような不快感を覚えるとパッと手を離した。腕に出来た紅い線から血が滲むと顔がサッと青くなった。
「ごめ、ごめん。ごめんなさい。そんなつもりじゃ……、そんなつもりじゃなかったんです。ほんと、本当にそうなんです。」
「これぐらい、大丈夫だから。謝らなくていい。いいの。こっちこそごめんね。辛い思いをさせて本当に、本当にごめんなさい」
 きつく抱きしめられると冷たく尖っていた心が解かされていく。色々聞きたいことがあるはずなのにアリシアが今にも泣き出しそうなほど顔を歪めていて胸に顔を埋めて堪えることしか出来ない。
「貴方には信じられないことかもしれない。それでも落ち着いて聞いてほしいの」
 アリシアは瞳を伏せ、しかし、次の瞬間には覚悟を決めていた。張り付いたように動かない喉を何とか動かし、凜とした声で言った。
「ここは1800年のイギリス、エディンバラ。貴方は私達と共に四百年の戦いに終止符を打つために呼ばれたのよ」


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