複雑・ファジー小説
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- もうきっと、世界の誰もが夢中だ
- 日時: 2018/02/18 02:05
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: rBo/LDwv)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=18913
しあわせは星を崩し、夜明け前きみは、ほほえんで誰かのすてきな偶像に変わる。
女性アイドルものです。どうかよろしくお願いします。
前作「失墜」URL先にて
原題 エデン 1/6 改題
0 プロローグ >>1
Ⅰ 天瀬乙葉は死ぬことにした
1 TOKYO BLACK HOLE >>2-6
2 透明な日 >>7
Ⅱ 彼女の持つ少女性について、またそれを失う時について
Ⅲ いつか夢見た日の昨日
Ⅳ 地球最後のふたり
- Re: もうきっと、世界の誰もが夢中だ ( No.5 )
- 日時: 2018/01/17 23:55
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: uDks5pC4)
「天瀬さん、天瀬さんってば」
肩をゆすられて、目を覚ました。椅子の背もたれに寄りかかったまま、私は気を失っていたらしい。心配そうな顔をした桐山さんが、目の前にいる。
意識が急激に浮上し、すぐに桐山さんに謝ろうとして、周りの異変に気がついた。
あれって天瀬乙葉じゃないか、と声が聞こえてくる。マイシェリー、園宮アリサは気の毒だったよなあ。ざわつく店内で、店員すらこっちを好奇の目で見て、何かを話している。背筋が一瞬で凍るのを感じた。やっぱり、駅前のチェーン店なんか利用しなきゃよかった。
「天瀬さん、立てる? すぐ近くに、僕の車あるからさ。とにかくここから出よう」
桐山さんは目深に被っていた、大きめの帽子を外し、私の頭にぽんと乗せる。そんな事をしたら桐山さんが危ないじゃないかと思ったが、どちらかというと天瀬乙葉の方が、この時期に見つかるとまずい。桐山さんの手を借りて立ち上がり、テーブルにコーヒーを残したまま、出入口の方へ歩いていく。帽子のサイズが大きいせいか、周りの声は、もうほとんどなにも聞こえなかった。ちらりと見えたガラス張りの窓に映る私は、泣いていたせいか、酷い顔をしていた。こんな顔をしてたって、周りは私だってわかっちゃうのか。
店の外に出て、裏路地に入ると、桐山さんは私の腕を引いてくれた。いくら私がさっき倒れかけたとはいえ、アイドルという職業の女が男子に引っ張られて歩いているという状況は良くないのだが、周りには誰もいなかったし、やめてくれとも言えなかった。仕事以外でこういうことをするのも初めてだったし、疲れているから、今は、私に優しくしてくれるんならなんだって、誰だって許してしまいそうだ。
「桐山さん、ごめんなさい、迷惑かけて」
「いや、僕の方こそ、疲れてる時にごめんね」
でも、知り合いの女の子が泣いてたら、誰だって放っておけないと思うんだよね、と桐山さんは笑って言った。
知り合いっていうか、仕事仲間なんだけどな。私にとって彼は、星野やアリサと同じくくりの人間だ。もしプライベートの時偶然見つけても、見て見ぬふりをするかもしれない。私はそれが当たり前と思っていたが、桐山さんは、きちんと知り合いの女の子として、私のことを見てくれているらしい。
きっと、Toxicは、私たちの何倍もメンバー仲がいいんだろうな。
「ほんと、いきなり声かけたりしてごめんね。せっかくのプライベートなのに」
「いえいえ、これからもう、帰るだけなんで」
またいつ降り出すかわかりませんしね、と私は言う。自分で言って気がついたのだが、すっかり雨が止んでいた。さっきまであんなに降っていたのが、すっかりと止んでいる。相変わらず空は鈍色のまんまだったが、向こう側からは光が差し込んでいた。
「帰るだけなんだ、それなら送っていこうか? 車もあるし、体調も悪そうだし」
「悪いですよ、うち、横須賀だし」
「いいよいいよ、どうせ、川崎までは行かなくちゃダメなんだよね。天瀬さんがあれなら、せめて川崎まででも送らせてよ」
「川崎? お仕事ですか?」
「いや、うちのお子様の送り届けがあるからね」
桐山さんはなんだか楽しそうに言いながら、車のキーを指で回して遊び、駐車場へ向かう角を曲がる。角に停めてあった黒い車、車について何も詳しくない私は、これはきっと軽自動車ではないだろう、と簡単な仮説を立てるが、どうやらこれが桐山さんのものらしい。誰かが乗っているのか、中からは大きめの音量で八十年代くらいのハードロックが流れており、当然私は男の人の所有している車に乗るのは初めてなので、少し身構えてしまうな、と思った瞬間、後部座席の窓がゆっくり開く。
「だれがお子様だよ」
開いた窓の向こう、居た彼は、その大きな瞳を光らせて、桐山さんと、そのついでに隣の私を見る。
日頃からぼーっとしていると言われることが多い私が、やっと我に返った時には、桐山さんが手に取っていた私の左手をすとんと放し、
「ほんとうに、耳がいいんだね」
と感心していた。
窓の向こうの彼の名を私は知っている。まあ、一緒にお仕事をした経験があるというのもあるけれど、Toxicの、ギターボーカルの折原さんである。
苦手な人にばかり会ってしまっているなと思っていた。いい人である桐山さんが苦手だ、ギターボーカルなんかやって、ステージの一番目立つ位置にいる折原さんや、似た立場の星野が苦手だ。いつからか、私は好きなものより嫌いなものの方が多い気がして、劣等感ばかり募っていたのだけれども、この彼との出会いも、私のそれを更に強くするだけであるんだろうな、と思った。
「ったく、ふりっちゃんはいつも寄り道ばっかして来るのが遅いんだよ。おかげで二曲か三曲書きあがりそうだったよ」
「はいはい、目的の品は買っておいたから、窓しめて、あとゴミも捨てて」
ふりっちゃん、と呼ばれた桐山さんが、慣れた手つきでドアの鍵を開ける。今のやりとりで、折原さんがわがままを言って、桐山さんがそれを受け流しつつもスマートに対応する、という構図が、このバンドの関係についてなんにも知らない素人の私にも見えた。桐山さんは、とても常識のある人だけれども、折原さんはなんだか、周りから天才だとか呼ばれているだけあって、変わっているというか、自分が決めたことはどんな手段でも通してしまうような、生まれた時から人生うまくいっているんだろうなっていう、月並みな感想を私に持たせるのであった。
「となり、席空けといてね。今日は、この方も一緒に乗るから」
「どうも、お疲れ様です」
「あぁ、久しぶり、マイシェリーの、えっと……」
折原さんは、桐山さんの横におまけのように立っていた私を見る。茶色がかった、とても綺麗な目の色だ。最近のアイドルはみんなカラコンなどを入れたがるから、仕事柄、こんな人を見るのは逆に珍しい。なんだか私が必死で色々取り繕っているのを見透かされているようで、ついに目をそらそうとしたとき、彼は私にこう言った。
「……誰だっけ?」
□
あんな言い方をしなくてもいいのに、と思った。私はとても不機嫌なまま、桐山さんの運転する車の後部座席に乗っている。天瀬乙葉の知名度なんて、星野やアリサに比べたらまあ当たり前に劣るが、なにも、一緒に仕事をした人間を、目の前で覚えていないと一蹴する必要なんてないではないか。社交辞令というものを、全く知らないままで、よくここまでやってこれたなぁと、心底思っている。
さっきあんな言い方をされたので、私はMysherryの天瀬乙葉です、とわざと丁寧に挨拶をした。しかし、この折原という男は、ああ、天瀬さんね、っていかにも知らない人のように受け止めるので、これは一生、特に、女の気持ちなどわからない生き物なんだなと悟る。彼はこれが平常運転のようで、桐山さんも、特に何にも突っ込みを入れることなく、車に乗りこんでしまった。
「最近アイドルの勢いがすごいからさぁ、特に目立つMysherryのことは顔と名前くらいは一致させるようにはしてたんだけど、一昨日園宮さんが亡くなってからは、世間はすっかり彼女だけ見てるよね」
車は恵比寿を抜けて、23区外方面に走り出す。高速道路に乗ると、一気にスピードも外観も変わって、高いところからのぞむ東京の景色が綺麗に写っている。もう雨など、どこにも降っていないようだった。
「人の死って、エンターテインメントじゃあないんですけどね」
「そういう職業だろ、俺達だって天瀬さん達だって、傍目の一般人からしたらエンターテインメントでしかないんだからさぁ」
一緒に仕事をしたことは覚えていてくれたらしい、折原さんは、Mysherryの仲があまり良くないことを知っているのか、それともただの無神経か、平気でアリサの話を振ってくる。私は私なりに、傷ついたり悲しんだりはしているので、そんな言い方をされたことに腹は立ったが、それよりも桐山さんの運転が意外に荒いことが、今は気になって仕方ない。高速に入ってからは気持ちよさそうに走っているものの、さっきまでは対向車を煽ったり、マナーの悪い車に舌打ちをしたりと、桐山さんのいい人というイメージを若干崩しつつある場面がいくつか見受けられた。
折原さんは、この運転には慣れているのか、私の不安や怒りをよそに、楽しそうにスマホのゲームアプリをいじっている。男の子の部屋とはこういうものなのだろうか、座席に散らかる無数のメモと開けたままのお菓子の袋、さらに助手席に積もる漫画本なんかをまじまじと見ていると、桐山さんは、僕は綺麗好きなんだけどね、カナタが持ち込むんだ、人の車だから好きにしていいと思ってさ、と笑った。
桐山さんは、折原さんのことを下の名前で、カナタと呼んでいるらしい。散らかった車内を見ながら、私はさっきまで乗っていたタクシーのことを思い出していた。重苦しい雰囲気、喪服、鉛色の空、土砂降りの雨、悔しそうな星野。今はもうその全てが無くて、未だにハードロックが流れている車内と、たぶん仲がいいんであろう、Toxicのふたり。私は星野を星野と呼ぶし、星野は私を天瀬と呼ぶ。
Mysherryって、本当に全然、仲良くないんだな。
今日、いや、最近は反省することがあまりにも多い。アリサを救えなかったのも、仕方ないなんて諦めているんじゃ、現状はなにもよくならない。
- Re: もうきっと、世界の誰もが夢中だ ( No.6 )
- 日時: 2018/02/23 01:23
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: QxkFlg5H)
桐山さんは時々私の体調を確認しながら、車を飛ばしていく。私はそのすべてに、大丈夫です、と答える。このやり取りが、まるで機械的に感じられた。車に乗って三十分も経つとすやすやと寝息をたて始めた折原さんをよそに、私はそんな種類のよくない居心地の悪さを感じはじめていた。
仕事で知り合っただけの、知らない人の車になんて乗るべきではなかったと今更思い知る。桐山さんは、社会的な面でとても接しやすく楽な人であるからこそ、こうやってプライベートの領域にやすやすと入り込むのは避けたかった。誰だって、一定の距離を置くから付き合いやすいし、それを無視して踏み込んだり踏み込まれたりすると、面倒だと思うのだ。
私はテリトリーを荒らされることが嫌いだ。同時に、誰のテリトリーも一切荒らしたくはない。つまり、人間と、深く付き合うという行為が、とてつもなく苦手なのだ。こうやって桐山さんの車に乗っているのが、私じゃなくて星野とかアリサとかだったりしたら、もっと楽しい時間を提供できたのではないか。つまらない人間だと思われることに対して、恐怖心は少しはあるが、だからと言って自分から話題をぽんぽん出せるほど頭も良くない。へらへらと笑っているのは、カメラの前だけでいいとさえ思う。
折原さんが眠っているのを確認すると、桐山さんは流れていた音楽の音量を小さくした。ごめんね、うるさくして、と言う桐山さんに、私は今日十度目くらいの大丈夫です、を返した。
「暖房、これくらいでいい?」
「はい、大丈夫です」
「川崎まで結構かかりそうだけど、いい?」
「大丈夫です」
「うちの折原が無神経な事言ってごめんね」
「……大丈夫です」
困ったな、本当に私、機械じゃないか。
高校に通っていた頃、やたらと私のことを気にかけてくる教師と、こんなやりとりを何度もしたことを思い出す。横浜の女子校に通っていた私は、最終的には卒業したものの、仕事の関係で遅刻早退を繰り返し、友達も一人もいなかった。そんな私に、若い世界史担当の円谷という男が、最後まで良くしてくれた。ろくに出ていなかった授業の単位を、なんとか願い入れて仕立ててもらい、ちゃんと三年で高校を卒業できたのだ。
懐かしいな、一年前か。私は高校生の時から、何も変わっていないんだな。当時から私は変にプライドが高くて、誰も寄り付いてこないのは私がアイドルだから、なんて勝手な決め付けをしていたけれど、クラスの女子たちが、なんであれが、星野純華の方が、と陰で話しているのを、何度か聞いてしまったことがある。
「あぁ、嫌なこと思い出したなぁ」
私ではなく折原さんが、隣で背伸びをする。まさかと思い横を見る。今無意識に言葉を発してしまったのは、私じゃなくて折原さんだ。
「ふりっちゃん、そういや明日朝早いじゃん、嫌だなぁ」
あだ名を呼ばれて桐山さんは、少し振り返って、ああ、起きたんだ、と返した。
ちょうど私も嫌なことを思い出していたところだが、この男と、こんなくだらない事で共鳴したくはなかった。明日の朝が早いという話と、私の暗い青春時代の話では重みというものが全く違うのだ。
「早いって言ったって、十時じゃん」
「十時なんて、なんならあたし達はお昼ご飯食べはじめますよ、スケジュールによっては」
「十時は早朝だよ。俺は夜中、勝手に寝落ちるまで起きてるから、睡眠は時に夕方まで必要なんだよ」
折原さんに音楽の才能があってよかったなあ、多分この人普通に社会に出てたら生きていけないよなあ。心の中で悪態をつきながら、桐山さんも同じようなことを口にした。彼に対する客観的な意見は、大方どこでも一緒らしいことが伺えた。
トンネルを抜けると、高い道路から多摩川が一望できた。さっきまであんなに降っていたのにもう、ため息が出るほど晴れている。アリサのことも、今の私の気持ちも、もう忘れて元気になれという暗示のようで、なんだか嫌になって目を逸らした。私たちを置いて勝手に天国に行ってしまったアリサに、猜疑心さえ覚えてしまうのは、よくないことであると知っていながらも、まだそれをやめることはできずにいる。葬式が終わって解散するまでのの暗い雰囲気を思い出しながら、ゆううつになって、今度こそ本気でため息が出そうになった時、折原さんがこう切り出した。
「Mysherryってさ」
「はい」
「仲悪いでしょ」
「えっ?」
素っ頓狂な私の声の後、何秒か沈黙が続く。よくもまあ歯に着せない物言いをする人だなあ、と逆に感心してしまう。
ぶっちゃけ、噂好きな別グループのメンバーにも、ここまで切り込まれたことはない。番組で共演した時、やたらとメンバー内の距離感があるMysherryを、やんわりと指摘する声は何度か聞いたことはあるが、マスコミ以外に、Mysherryの仲を明確に指摘されるのは、たぶんこれが最初で最後だ。
「まあ、仕事仲間だし」
「随分と他人行儀だね」
「所詮こんなものですよ、アイドルなんて」
アリサがやってるんなら、きっと別のグループの女の子も枕営業してるだろうし、私達は自殺を止めてやれなかったほど結束は薄いし。そこまで呟くように言うと、折原さんは、なぜか嬉しげな声のトーンで、アイドルって全然、夢とか希望とかないんだね、と返した。今話題の売れっ子バンドToxicと、あとは堕ちるのみの私たちじゃあ、まったく違うのだ。
「へえ、天瀬さんってさ、アイドルなのに馬鹿真面目に現実見てるよね。前から思ってたんだ、舞台に五人で立ってても、一人だけつまんなそうな顔して、振られた仕事だけこなしてるって感じがして」
「それはどうも。あたしの顔も名前も、覚えてなかったのに」
「違うんだよ、その逆。他の四人は顔と名前が一致してるのに、天瀬さんだけ最後までわかんなかったんだ」
「それは、あたしが……」
「天瀬さんが一番、その辺にいそうな女の子だから」
馬鹿にするのも大概にしてよね、あたしはアイドルで、天瀬乙葉だから、なんて痛いセリフを、気づいた時には口走っていた。
あまり人前で怒ったことはない。直後冷静な自分が戻ってきて、何恥ずかしい事言ってるんだ、と自責の念がこみ上げ、頭の奥が冷や冷やしてきた。それでも、私は、その辺にいる、ただの女の子ではいたくなかったのだ。この無神経極まりない男の前でも、私はアイドルでいたい。つまんないプライドだ。わかっている、舞台の上で私がつまらなそうな顔をしていたのではなく、周りの女の子たちが輝きすぎているということも。私がただの女の子であるということは、私が一番知っている。
高校の同級生が、星野純華の方が、園宮アリサの方が、と私に聞こえるように、わざと言ってきたことを思い出す。ああ、もうだめだ、泣きそうだ。ふいに、今日のこととか、これからのこととか、考えて勝手に辛くなっている。折原さんはきっと私のことも、Mysherryのことも考えていなくて、私は今弱っているから、そんなこと、どうでもいいと分かっていても辛いのだ。
「天瀬さん、俺に曲書かせてよ」
「え……?」
「俺らも人間相手にやってるから、かっこいい曲を日々作り続けなくちゃいけない。俺ら、いつの間にかかなり有名になっちゃってね、だんだん擦れてきてるような気がして、だから、天瀬さんをモデルにして、曲を作りたいんだ」
要するに、私の素人っぽいオーラや、纏った負の感情を買って、こんなことを言っているのだろう。やっぱりこの人は滅茶苦茶だ。
「そういうのは事務所を通してから……」
「もちろん天瀬さんって事は公表しないよ。バンドマンなんて、駅前の通行人でさえ曲にするからね。一々モデルを明かしてらんないよ」
手をひらひらと振りながら、折原さんは言う。
私にとって利益のある話ではない。しかし、ここで断っても、彼は食い下がらないだろうと予想した。というか、この人が私に何か言われて従う図がまるで見えなかった。仕方なしに私は言う。
「それで、あたしは何をすればいいんですか」
「簡単だよ。日々思ったこととか、愚痴とか、俺に逐一報告してくれたらいい。もちろん、メールとかラインで送ってくれるだけでいいよ」
「なにそれ、あたし、日記とか続かない人間なんで。それに、アイドルが異性と親密にするのは良くないし」
「なにも親密にしようとなんかしてないよ。これはそれこそ仕事。心配しなくていい、俺は君の顔を覚えてなかった男だぞ」
「それはそうだけど」
そんな事で胸を張られても、と思ったし、実際に口に出した。なんだかこの人と居ると無神経が移る。元々私はとても大人しい人間なのに、誤解されてしまいそうで嫌だ。折原さんはそんな私を他所に、スマホの連絡先を差し出す。口角をあげて、にっこりと笑う。
「ここに送ってくれたらいいよ。よろしく、天瀬さん」
渋々、私もスマホを取り出した。
丁度、車は川崎駅に到着し、面白そうだから黙ってやりとりを見ていたと言う桐山さんに、やっぱりこの人も少しおかしいのではと思いながらも、お礼を言って、私は車を降りた。黒い車が、西口の方へ走っていく。一礼して、見えなくなるまで見送ると、どっと疲れが押し寄せて来た。なんだ、あの人たちは。今はとにかく家に帰って休みたい、鞄から変装用の帽子を取り出し身につける。
まあ、私が天瀬乙葉であることなんて、やっぱり誰にも気付かれないんだけど。
- Re: もうきっと、世界の誰もが夢中だ ( No.7 )
- 日時: 2018/02/18 02:13
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: rBo/LDwv)
2 透明な日
その日から私と折原さんの奇妙なやりとりが始まった。
最初は何から切り出せばいいかわからず、「天瀬です」から始まる、仕事の相手に送るようなつまらないラインを送った。返事が来たのは二日後で、まったくこの人は、何のつもりで私にあんなことを言ったのだろうか、と思った。どうせ曲を作ると言ったことも何かの気まぐれだったのだろうと考えつつも、少しだけ、自分だけの曲ができると期待していたのが馬鹿らしくなった。
そうしている間にも、MySherryでは上層部の人間たちが動き始めていた。私達は落ち着くためにも一週間の休養を命じられ、マスコミに捕まらないように、できる限りの外出を制限された。私の両親は幸いなことに、アイドル活動に対しての理解がある。しかし今回の件が起きた時は流石に、母親に呼ばれ、しばらく話をすることになった。私はまだアイドルでいたい、お父さんやお母さんを悲しませるようなことは絶対にしないから。そう約束して、無理矢理納得させたけれど、私がまだアイドルをやることを、両親は許しても、世間がきっと許さない。家から出られないため、私は事実に篭って、ただ天井を眺めていた。アリサは今何を思っているだろうか。堕ちていく私たちを見て笑っているだろうか。こんな思いをするんなら、アイドルなんて遠い夢を、現実にしようとするんじゃなかったなあ。考えれば考えるほど気分は重くなり、ベッドに横になっていることすら辛く、寝返りを打っては呻き、アリサに恨みや同情か、もはや解らない感情を抱いた。星野は、静穂は、ひなせは今どうしているだろう。生憎私達は全然仲良くないから、こんな時にさえ頼れない。結束しなきゃいけない時だというのに、それすら諦めているのだ。
MySherryって、なんだったんだろう。アイドルのフリをした、ただのどこにでも居る女の子の集まりだったんじゃないだろうか。キラキラした世界に思いっきり飛び込んで、閃光のように輝いて、そして一瞬で消えてしまうような、そんな存在。できるならもっと舞台に立ちたかった。五人でこの先の景色も見ていたかった。もうすべては遅いのに。
そうしている時に空気を読まず連絡を寄越してきたのが折原さんだった。最初は、この人もマスコミとグルで、なんとかしてMysherryの情報を聞き出そうとしているのではないかと疑った。でも、あまりに彼の連絡の頻度や内容が適当な事と、私がとても弱っていた事もあり、普段絶対に人に言わないような弱音を、スマホに向かって打ち続けていた。
日々思ったこととか、愚痴とかを、俺に送ってくれたらいいと折原さんは言った。
私はアイドルに憧れ、幼い頃からずっと目指してきたが、実力や才能がとてもそれには見合っていなかったため、よく人に馬鹿にされたし、友達もいなかった。両親も共働きで、迷惑をかけたくなかったので、実の所、人に相談をしたり、泣き言を言ったりした経験が無い。だから、知り合ったばかりの折原さんに、どんな言葉を選んでいいかわからなかった。辛いとか、悲しいとか、ぶちまけたいことは沢山あるのに、どう伝えていいのかわからない。悩んでいるとまた辛いことばかり思い出すので、ラインを送るのをやめようと何度も思ったが、この黒々とした思いをどこかへ向かって吐き出さないと、私が駄目になってしまう気がした。どうせ相手は無神経の塊のような折原さんだ。あまり気負いをすることなく、私の言葉で、私の思ったことを、伝えてしまった方がいいのかもしれない。いや、そうするしかない。
この時点で私は、自分が曲のネタにされることさえ忘れてしまうほど疲れきっていた。もうそんなことはどうでも良く、ただ、誰かにこの辛さをわかって欲しかった。休養期間に入ってから思ったが、人間、忙しい方が余計なことを考える暇がなくて良い。こうして暇になると、普段押し殺してきた負の感情ばかり、波のように押し寄せてくるのだ。何か行動的なことをしたくても、今は何も出来ないのが現状。スマホに文字を無心で吐き出しながら、救われたいと願っている。羅列された支離滅裂な文章を読み返す気力も消え、こんなの送られたら迷惑だろうなぁと、ただ思った。打った文字をすべて消してしまおうともした。でも、消してしまったら、私が今抱えているこの感情ごと、また深いところまで堕ちてしまいそうで、とうとう、震える指で送信のボタンを押してしまった。
しばらくは怖くてスマホを見れなかった。もともと、事件後は報道が怖くてインターネット環境を基本的に全切りしていたのだが、いよいよ何も見られなくなった。布団に潜り、時が過ぎるのを待ち、外が暗くなってきたら少し安心する。両親が帰宅する時間になると、私はあまり気を病んでいない風を装って、用意された夕食を頑張って胃に押し込んだ。まだアイドルをやらせてくださいと頼み込んだ身だ、悲しんでばっかりはいられない。アリサが首を吊ったと報道された日から数日間は家族も私に気を遣ってくれたが、もういつもの日常を取り戻しつつあるのだ。部屋に戻ると、また私は電池が切れたようにベッドに倒れ込む。重い腕を伸ばして、恐る恐るスマホを確認する。折原さんからの連絡は、来ていなかった。ため息をついて、もう今日は寝てしまおうと枕を手繰り寄せる。もちろん眠れるはずもなく、線香の香りと、まだ辞めたくないと窓の外を睨みつけた星野純華が浮かんでくる。気付けば朝になるのが怖くて、なんとか寝ようと羊を数えてみたりもするのだが、どうにも集中力が続かない。結局寝付けたのは、明け方頃だった。
折原さんからの連絡は、それから二日後に、唐突にやってきた。
- Re: もうきっと、世界の誰もが夢中だ ( No.8 )
- 日時: 2018/05/13 01:30
- 名前: 三森電池 (ID: rBo/LDwv)
『今恵比寿に来てるんだけど、ラーメンでも食べない?』
露骨なナンパ文である。この人は、私を、アイドルという存在を、天瀬乙葉という人間を、果たしてどういう目で見ているのだろうか。いつの時代も、アイドルとバンドマンの交際報道は絶えない。しかし、私たちだって恋愛禁止のつもりでやって来たのだ、星野純華という人間を除いては。折原さんから送られて来たこのメールを読むに至っては、二人の関係を交際に進めようという気すら見えない。偶然、恵比寿で暇になったから、どうせ活動休止で暇そうな天瀬乙葉を誘ってみるか、という塩梅であろう。お前の曲を作りたいまで言っておいて、このザマである。あんたは知らないだろうけど、天瀬乙葉はアイドルだし、Mysherryのメンバーだし、年末は紅白も見えていた、はずだった。即アポ取ってラーメンに誘って来る男なんかにホイホイ付いて行きたくないし、折原さんっていう人間がどれだけ無神経かは、先日車で駅まで送ってもらった時に嫌という程分からせてもらったし。それでもなんとなく、「また今度にしてください」と返信を送ることができなかった。いや、私の大好物がラーメンであることも関係しているけれど、それ以上に、なぜか、あの人にまた会って、振り回されたいと思った。
私は、天瀬乙葉は、ステージの真ん中でキラキラ光る存在が好きだ。例えば、星野純華。あいつは歌もダンスも全然やる気がないし、トークで頭も回らないけれど、その完璧なルックス一つで、会場全てを星野のものにする。憎たらしいけど、そんなアイドルに憧れて育って来た私が、目標とする存在が、星野である。
同じく折原さんも、ステージの中央に立つ人だ。toxicのライブパフォーマンスを見たことはないが、多分あの人が会場を引っ掻き回していることには違いない。そして、そんな折原さんに憧れを持つ人も、まあそれはそれは沢山、居るんだろう。
そういう人たちは、私みたいな凡人を踏み台にして、名声を掴み取る。星野や折原さんから見た私なんて、モブキャラ程度の存在で、簡単に踏み越えて、高いところから、必死で追いつこうとしても全然追いつけない私を見て、笑っている。
そんな彼女ら、あるいは彼らには、世界がどのように見えているのだろうか。きっと、淡い色のフィルターがかかっていて、何でもかんでも甘っちょろいんだ。才能にめぐまれなかった自分に腹がたつ、だからこそ、キラキラした世界の中心で、誰もを夢中にさせていく天才に、同じ業界にいる私でさえ目を奪われるんだ。心がときめくんだ。
今日は午後十六時から、Mysherryの今後についての打ち合わせがある。恵比寿には、行ける。私は折原さんに会いたいんじゃないんだ、ただラーメンが食べたいだけなんだ、と思いつつ、「東口にいます」と素っ気ないそぶりの返信をした。天才はすぐに人を振り回す。星野とか、折原さんとか、あとは、アリサもだ。アリサは自身が負った苦痛の全責任をMysherryに押し付けて、死んだ。今はメンタル的にとても見れる状態ではないが、匿名掲示板のMysherryの専用スレッドでは、メンバーやスタッフの代わりにアリサが犠牲になったとか、アリサが今のアイドル界の闇を全部暴いてくれたとか、あの子は神様になったとか、とにかくアリサが神格化されているらしい。アイドルは宗教みたいなもんで、ファンのことを信者と呼ぶし、ステージに立つ彼女らは神様だ。しかし、私たちを置いて、天使に、神様になってしまったアリサ自身はそれで満足かもしれないけれど、残されたMysherryはボロボロだ、堕天使だ。仕事は来るだろうか。来ないんだろうな、こんなグループ。いや、私だってアリサがどれくらい辛い思いをしたかは、わかってあげたいんだ。あくまでも一仕事仲間として。アリサの葬儀で、制服を着た女子がアリサの遺影にしがみついて泣きじゃくりながら、隔離されたように座っていたMysherryの四人を思いっきり睨みつけていた、あの光景だけは、生涯忘れることはないだろう。だけど、残された私たちは、一体どこへ進めばいい? 人生かけてアイドルをやって来た四人はいま、果てしなく途方に暮れているのだ。
「天瀬さんさぁ、もうちょっと変装とかしたらいいんじゃないのー、トップアイドルでしょ」
恵比寿駅で立ち尽くして、アリサなんかに思いを馳せていたら、いきなり後ろから大きな帽子を被せられた。声でわかった、折原さん。アリサも歌が上手かったが、歌がうまいやつは、声質からして、もう違う。平々凡々な私は被せられた帽子を目深にかぶり、大きな瞳でこっちを覗き込み「ひさしぶりぃ」と言って来る折原さんから、なぜか恥ずかしくなって目をそらした。我ながら、ちょろい。天才に、あのtoxicのボーカルに、トップアイドルだということを、二回目にしてようやく認められた。折原さんの少し後ろを歩きながら、駅を出た。彼は特別な変装はしていなかったが、駅の外に出る時、大きなサングラスをかけた。うええ、見るからに大物のオーラが凄いなあ、と思う。天瀬乙葉は駅前のカフェで普通にしていても気付かれないってのに、彼はもう、こんな所から違うんだ。適当に駅前のラーメン屋に入った。私、ラーメンが好きなんですよ、と言ったら、折原さんはサングラスをひょいっと下げて、「俺も」と笑った。いつもは豚骨でニンニク多めで海苔マシで、麺を固めにしてスープもこってりにしているのだが、何だか急にお忍びデート、みたいに思えて来て、オードソックスな味噌ラーメンを食券で買った。ちなみに割り勘である。天才だろ、稼いでるんだからラーメン代くらい奢れよ、とも言いたくなったが、席について運ばれて来たお冷やがきゅうっと喉を通り抜けた時、全てがどうでもよくなった。折原さんは隣の席でスマホを弄っていた。こっそりと見えたラインの画面、意外なことに女は少なかった。スタッフの人やライブハウスの人、後は仲良しの桐山さんくらいである。なんで天瀬乙葉なんかに連絡先を聞いたのだろうか、と思いながらラーメンを待っていた。会話は少なかった。最近どうなのとか、私の曲って本当にできちゃうんですか、とか。
「俺はさ、星野純華よりも、ステージに死んだ目で上がって来て、それでも無理やり輝こうとしてる天瀬乙葉に惹かれたんだよ」
「なにそれ、褒めてんのか貶してんのかわかんない。あたしがどれだけアイドルになりたくて頑張ったって、あんなにかわいい星野や神様になっちゃったアリサには永劫勝てない」
「だからさ、この俺が、天瀬乙葉に一番惹かれたって言ってるだろ。正直アイドルとか興味なかったけど、お前には興味あるよ。面倒そうだから絶対恋愛関係には持ち込みたくないけど」
折原さんはそういって、もう半分くらい無くなったお冷やに口をつけた。私はそんな彼を、猜疑心の塊、みたいな目で見ていた。
天才も、凡人の見えている世界に興味はあるんだな。無理やり輝こうとしている。それを察された時点で、アイドルとしての私なんて、ダメじゃないか。でも、そこに惹かれるって、彼は言った。私は天才の作る世界にいつも恋い焦がれている。みんなそれなりに恋してるんだな、こんなグループの端っこでヘラヘラしてる天瀬乙葉だって、何だか変な理由でだけど、あのtoxicのボーカルに興味を持たれているんだな。
ラーメン屋は混んで来た。早めに食べて、早めに解散だ。折原さんも次の予定があると言っていた、やはりこれはデートなんかではなくて、ただの折原さんの暇つぶしだ。もうなんども言っているし、本当に認めたくないけれど、案外破天荒な人に振り回されるのは嫌いじゃないかもしれない。運ばれて来たラーメンを見ながら、私はそんなことを思っていた。そして、少しだけ、自己肯定感が上がった気がして、幸せだった。これから地獄のMysherry今後の活動予定についてのミーティングがあるのも忘れて、鼻腔をくすぐる甘い味噌の匂いに思わず笑みがこぼれた。
- Re: もうきっと、世界の誰もが夢中だ ( No.9 )
- 日時: 2018/05/27 02:46
- 名前: 三森電池 (ID: Bf..vpS5)
ラーメンを食べている間、私と折原さんは時々言葉を交わした。私は学生時代常にひとりで昼食をとっていたため、食事中にする会話がどうにも苦手なのだ。だから、折原さんが話しかけてきて、私が何かを返す、ということの繰り返しを、最後までスープをすすり終える時まで、していた。アイドルだから、体型維持とか、色々考えなくてはならないのだけれど、今は無視するものとした。人間、結局美味しいものには勝てない。折原さんの行きつけの店だと聞いた、想像の何倍も美味しかった。できればひとりで来たかった。最後の一滴まで飲み干した私に、折原さんはなにかを言うと思ったが、彼は相変わらず私の器の中身などまったく気にせずに自分のバンドの話をしていた。
元気のいい店員が、食器を片付けていく。サラリーマンが二人出ていって、店内に「ありがとうございましたぁ」と大きな声が、わざわざ私たちの元まで届く。ラーメン屋によく貼ってある、笑顔がどうとか、こうとか、そういうものが私は好きになれない。けれども私はアイドルでいたい。笑顔がいちばん大切だとか言うアイドルになりたいのだ。たとえメンバーが自殺しようとも、そうでいたいのだ。ラーメン屋の安い「元気」「笑顔」なんかより、無理してつくった天瀬乙葉というアイドルの方が、りっぱで尊い。そう思い込むことでしか自分を保てないのは薄々わかってはいるけれども、私がアイドルとしてはもともと才能がなくて、それでもやっと有名になった所を横から撃たれてしまったこの状況下ではもう果てなく苦しいのもわかっているけれども。
胃が痛くなってきた。一気に食べすぎたのだ。やはり学生時代から変わらない、食事はどうせお腹を満たすための手段に過ぎないから、きれいに食べるとか、女の子らしくとか、気にしたことがない。学食の定食を大急ぎで食べて、後の時間はトイレでスマホをいじっていた。Mysherryにもたまに食レポの仕事が来るが、私以上にぽんこつな星野純華のおかげで、私は特に何も言われることはなかった。ああ、いや、私なんか画面にあまり映らないから、適当でいいのだ。笑顔とか、元気とか、なんなんだろうと思う。応援してくれるファンもいるから、いるんだから頑張らなくちゃいけないけど、その「頑張る」がいつの間にか私にとっては大変になっていて、どうすることが「頑張る」なのか、もうわからないのだ。こんなグループだからアリサも首を吊っちゃったんだ、あの遺族達が私達に向けた目のことをまた思い出した、胃が痛くてきつい。新しく隣の席に運ばれてくる器、威勢の良い店員の声、漂う味噌の匂い。湯気が目の前を通り過ぎていくのを見ている。もう店を出たい、と思ったら、折原さんが私に言った。そろそろ行こうか、と。なんだ、たまにはわかってくれるじゃん。私たちはうるさい店員に見送られ、それから、恵比寿の裏路地まで歩いた。胃の痛みは徐々に引いてくるだろう。
「あ、そういえば天瀬さんの曲、さあ」
個人経営のカフェとカフェの間、昼でもひんやりとした空気が流れるところで、前を歩いていた折原さんは突然振り返る。私は驚いて立ち止まる。都会はなぜこんなに坂が多いのだろうか、折原さんに若干見下されながら私は、「なんですか」と口を開いた。久しぶりにこの人に対して自然な敬語が出た。
「俺が作った歌詞にはじめてニナが口出してきたんだよ。これはうちの世界観とは合わないんじゃないかって」
「そんなにあたし暗いかなぁ」
まったく日が当たらないから、コンクリートに沿って生えているたんぽぽも下を向いている。私もそんな感じで地面を見ていた。ニナ、ニナって誰だろう。折原さんは私の知らない人の名前も平気で会話に出す。彼の話によく出てくる人間は、ふりっちゃん(これは桐山さん、桐山さんの下の名前は不律というらしい)、今回のニナ、よっしー、田辺さん、それくらい。いちいち「それ、誰ですか」と聞くのも難儀だったので、黙っていた。しかし私の生き様を折原さんなりに書いてもらった、その歌詞に口出しをしてきたニナという人物に対して、少し興味はあったし、私には聞く権利はあると思った。
「あ、ニナはうちのバンドの蜷川。前のバンドで作詞してたらしいけど、もうしないってさ。だから作詞にはあいつまったく関与してないんだけど、天瀬さんの曲にだけなんか言ってきたんだよな。まあ意見出してくれるってありがたいけど」
そこから折原さんは、ニナこと蜷川メンバーについて話し出した。元は自由区という「19」を捩ったバンドにいたけれど全員二十歳になったから解散した所を、Toxicに誘って、すごくいい奴だけど女性関係に関してはだらしなくて、煙草の銘柄はハイライト。私は話を聞き流しながら、やっぱりメンバーを愛称で呼び合うこの人たちはほんとうに仲が良いんだろうと思った。アリサ、静穂、ひなせ、あと星野。星野に関しては出会った時から星野と呼んでいた気がするし、星野も私を天瀬と呼ぶ。仲は良くはないと思う。だから、折原さんが語るふりっちゃんや、ニナ、そんな存在が自分には居ないことを思い知る。所詮私達は仕事仲間の枠から抜け出せないし、これから抜け出す未来もない。
折原さんは楽しそうに話す。胸のポケットから黒い煙草を一本抜き取って、綺麗に塗装が施されているジッポで火を点ける。ふつう、どんなに折原さんのように無神経な人間であったとしても、人前で煙草を吸うときには一言くらい言葉を添える。だけど、彼は、「天瀬さんも火いる?」と、笑って言った。
だって、私も煙草を吸っていることを、この人は知っているから。曲作りなんかに協力して、無駄な情報を私は送り過ぎたのだ。カバンの中のポーチからセブンスターを抜き取った。オイルの匂いがした。私は最初から、アイドルではないのだろうな、と感じながら、道端のたんぽぽを踏み付け、折原さんの左手の中で揺れる赤い火に、管越しに触れた。
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