複雑・ファジー小説

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 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

裂才
日時: 2018/07/28 21:44
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: MHTXF2/b)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19504

れっさいと読みます


中〜短編集です
Twitter @delayed___


1 マイちゃん、全部夢 >>1
2 5000円の恋人 >>2
3  墜落、ハイライト、婚約指輪 >>3
4 自殺 >>4
5 目も眩む空色 >>5
6 一瞬の夢 >>6
7 慰霊 >>7
8 夢の跡地(10代への遺書) >>8

(2、4〜7は、浅葱游さま、ヨモツカミさま主催の小説練習企画、『添へて』に寄稿したものです。)

Re: 裂才 ( No.4 )
日時: 2018/07/28 21:25
名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)

 「問おう、君の勇気を」

 僕に対峙して、僕が立っている。そいつは、フェンスに寄りかかったまま、すうっと息を吸いこんで、僕らしかぬ余裕の表情で言い放った。

 「なんだってんだよ……」
 「だから、ここから飛び降りて死ぬ勇気が、君にはあるかって、聞いてるんだよ」

 やれやれ、と僕にとそっくりな何かは、首を横に振る。透きとおるような晴天の空の下、こっちの僕はさっきから冷や汗が止まらない。
 遡ること五分前、僕は、このビルの屋上から飛び降りて死のうとしていた。二十五歳でフリーター、人生にやりたいことが見つからず、友情や恋愛においてもろくでもない経験しかできなかった。僕に生きることは向いていない。明日が来るのが億劫で仕方ない。手取り十余で食いつなぐような惨めな人生は、もう終わりにしてやる。思い返すと突発的な決断であった。今日、朝八時に出勤しいつものように働いて、三十分間の昼休憩の時、ふと人生、これでいいんだろうかと頭によぎって、これまでの経験とこれから直面するであろう出来事を考えてみて、もう死んだ方が楽ではないかと感じはじめたのだ。
 そこに現れたのが、こいつである。僕にそっくりな見た目をしている、というか髪型も仕草も服装も靴も、僕そのものの人間。職場の近くの廃墟ビルの屋上まで上がってきたとき、そいつはフェンス間際に立っていた。そして、

 「やぁ、僕。よくここまで来たね」

 と、けらけらと笑い出したのだ。
 僕は腐っても死を覚悟した人間だ。これは死ぬ直前に見える、ある種の幻覚なんだろうと自己完結させるも、目の前に自分がもう一人いるという気持ち悪さから、動揺せずにはいられなかった。当たりを見回して、他に人がいないかと探す。こんな廃墟に僕やこいつ以外の人間がいるはずがないのは分かっていたため、結局諦めてそいつにこう言い返すしかなかった。

 「死ぬ覚悟が、できてるからここにいるんだろ」

 声を絞り出した。強く吹く春の風に、かき消されてしまいそうになりながら。死ぬ覚悟、といざ口に出してみると、死に対する現実的な恐怖がこみ上げてくる。並べた言葉とは逆に、自分でもわかるくらい、とても弱々しい声色だった。目の前に立っている僕は、それを見て、またにやりと、趣味の悪そうな笑顔を浮かべた。

 「今日日世の中、年間五十三万もの人間がなんらかの自殺手段を決行しているけれども、実際に天へ旅立てるのはたった三万だ。死って怖いもんなあ、君の気持ちも、わかるよ」

 でもねえ、もし君が本当に死ぬってんなら、僕は、その勇気を讃えて見送ろうと思うんだ。そいつは言って、フェンスに寄りかかった体を起こした。

 「ネタばらししてやろう、僕は、未来から来た君だ。顔も服装も髪型もそっくりだろう、僕は君なんだ。これでも、自殺を止めに来たつもりだ」

 人差し指を立てて、僕に似たなにかは言う。
 えらく頓珍漢なことを言っているが、これだけ見た目がそっくりなのだから、彼の言うとおり、これを未来から来た僕だと確定する以外に他はない。死ぬ前に見る幻覚とは、こんなにリアルなものなのかとぼんやり思いながら、本当はさっさと飛び降りたかったが、僕が心置きなく死ねるように、少しだけ自称未来人のおしゃべりに付き合ってやることにした。

 「……逆に問おう。未来の僕は、どうなっている?」
 「ああ、いい質問だねえ」

 ぽん、と手を合わせた未来人は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。僕そっくりの人間がこんなにも笑っているのは気持ちが悪く、まるで、お面をかぶっているようであった。

 「君が死ななかった世界線の僕は、相変わらずフリーターだし、友達も彼女もいない。それに加えて、父親が三年後、末期がんで死ぬんだ。まだ三十歳くらいまでしか僕は生きていないけど、相当運の悪い人生だね」
 「なんだ、よかった。もう現世に悔いはないよ、安心して死ねる」
 「たださ、聞いてくれよ、僕。君の好きだった水曜十時のバラエティ、二年後に、深夜枠だけど復活するんだ。あと、読んでたあの漫画、最終回めちゃくちゃ良かったよ。相変わらず無趣味だけど、貯めたお金でちょっと良い車なんか買ってさ、僕は今、少し楽しいんだよ」

 彼は嬉しそうに語る。今の僕には、きっとこんな表情はできない。そんなこと、言われたところで、僕の将来に対する漠然とした、それでいて確かな不安は消えない。こいつが楽しそうに笑っていられるのは、今だけだ。現状は何も変わらない。少しいい車を買っても、好きな漫画の最終回を見届けても、僕はフリーターだし、友達も彼女もいない。何も前に進めていない。

 「……生憎だけど、僕は死ぬよ。君みたいには、なりたくないから」

 確定した未来をこいつに訊いたのは正解だっただろう。さっきよりも、強い意志を持って、その言葉を言える。

 「そっか、そうだよな。ただ君、考えても見てくれよ」

 お前みたいにはなりたくない、とまで言われておきながら、彼は笑顔を崩さない。まるで僕が薄っぺらい宗教団体にでも嵌ってしまったみたいだ。そいつは、冷や汗を拭う僕を見ながら、言った。

 「自殺といえども、自分という人間をひとり殺しているんだ。君が向かう場所は、天国じゃなくて地獄だろうね。殺害を犯した人間は、地獄の中でも特に罪が重い。灼熱の中永劫の時を苦しむんだ。どうかい? その覚悟はあるかい?」
 「この世に存在しない場所のことを語られても、僕に答えは出せない。ただ、このまま生きているよりはずっとマシだ」
 「でも、完全に存在しないとは言いきれないだろう? 子供の頃から、死んだら天国と地獄があって、と教えられてきただろ」

 永遠に苦しむ。その言葉を聞いて身が怯む。人間は死んでしまった瞬間、意識ごとぱたりと消えてしまうものだと思っているが、そこに行って帰ってきた人間が今まで一人もいないのを見る限り、天国や地獄の可能性は、完全には否定できない。
 未来人の僕は、僕が少し怯んでいるのをいいことに、また言葉を続ける。

 「なあ、僕よ。結局のところ、僕は君に、死ぬ勇気じゃなくて、生きる勇気を問いたいんだ。僕は今幸せだよ。もし現状が嫌なら抜け出す術は山ほどある。運命は変えられないけれど、自分で変えていくものでもある」
 「なに、言ってんだよ、僕のくせに」
 「僕だから言ってるんだよ。僕を止められるのは、僕だけだ」

 うるさい。結局僕はなるようにしかならない人間だ。抜け出せる術なんていらない。今起きているこの現状が、人生が、もう耐えられないのだ。
 息の仕方がわからなくなって、自然に脈拍数が上がり、蹲る僕を見下ろす未来人は、さっきまでの笑顔が嘘のように、冷めきった目つきをしていた。それに怯えて唾を飲むと、恐ろしく冷たい声が上から降ってくる。

 「なあ、僕。実は知っているんだ」
 「うるさい、僕は、本気で、死に」
 「君も僕なら知っているだろう、僕がなにもかも中途半端以下の存在だってこと。生きるのも死ぬのも怖くて、だらだら努力もせずに日々を続けているってこと。だいたい、本気で死ぬ気はあるのか? 僕のことだから、今朝突然思いついて……とか、そんなくだらない理由で、人生から逃げようとしてるんじゃないのか」

 かっとなって、未来人を思い切り睨みつけようとしたが、うまく体が動かない。とても悔しいことに、こいつは僕だから、僕のことをすべて知っている。本当は死にたくなんかないことも、でも生きるのも怖いということも。
 ノイズが入って、未来の僕はだんだん、見えなくなっていく。もうそろそろ、潮時か。こいつが消えるか、僕の意識が途絶えるのが先か。脈拍はさらに上がり、視界がぼやけてくる。
 なにもかも中途半端ならば、せめて、最後だけは。

 「悔しいなら生きてみなよ、僕」
 「違う、違うんだ、僕は……」

 立ち上がり、僕を押しのけて走り出した。
 驚いた顔をしている僕をよそに、力ずくでフェンスを越える。足がもつれて宙に投げ出され、それでも構わずに、向こう側に片足をつき、それをバネにして、快晴の空へおもいきり飛び込んだ。そして、ぽかんとした顔でこっちを見ている、ノイズだらけのあいつに向かって叫んだ。

 「これが、僕の勇気だ」

Re: 裂才 ( No.5 )
日時: 2018/07/28 21:26
名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)

 手紙は何日も前から書き始めていた。
 空色の自転車のペダルを踏む。飛ばす、飛ばす。目的地はずっと先だ。この夜が明けるまでに、辿り着かないかもしれない。それでも必死で漕ぐ、君に会いに行くために。
 僕のリュックの中には、財布と、地図と、地元のブティックで買った小さな飾りのついたネックレスと、君へ宛てて書いた手紙が入っている。スマホは家に置き忘れてしまったのか、先ほど時刻を確認しようとしてポケットをまさぐっても見当たらなかった。不便ではあるが、絶対に必要なものではない。それに、この想いを伝えるのに、電子機器などを通す必要は無い。
 僕はただの大学生だ。中高ではお遊びのような運動部に属していたものの、今は体力は落ちてしまった。何時間も自転車を漕いでいると、脚の感覚が薄れてくる。それに君の住む所は、かなり入り組んだ集落にあるらしい。後輩からも「頼りがいがない」「ぽやんとしてる」と言われるような僕が、無事に到着できるかは、わからない。それでも行くしかない、君に会うためならば、どんな苦労をしたってかまわない。
 街灯もほとんど無い坂を登りきると、今度は長い下り坂が待っていた。一息をついて、ペダルを漕ぐ足を止める。すうっと勝手に進んでいく自転車と、体全体に浴びる風が気持ちいい。深夜三時、この街にももうすぐ春が来ようとしている。それでも夜はやっぱり冷えるから、家を出た直後はもっと厚着してくるんだったと後悔したが、今となっては少し涼しいくらいだった。
 君は、きっと眠っているだろう。僕と一緒に住んでいた頃から、日付を超えたあたりで既に眠そうにしていたから。僕としてはもっと君と話していたかったし、君が持ち込んできたゲームで遊んだりもしたかったけれども、僕が朝起きると、早起きした君が、きまって朝食を作ってくれていてた。おはよう、と笑う君と、焼きたてのパンの匂い。もともと一人暮らしの小さな家で、僕と君はそれだけで、すごく満たされていた。二人で朝食を食べて、一限はもういいや、二限から行こう、と朝のニュースを見ながら笑いあった。君は酷く気まぐれで、毎朝放映される占いの運勢が最下位だと、拗ねて「今日は大学行かない」と言い出すことがあり、連れ出すのが大変だった。けれども昼頃になれば、美味しい、と学食のカレーを頬張り、最後まで授業を受けて、一緒に帰った。
 僕は三年生になったけど、君はどうしているのだろう。
 都会育ちの僕には、田舎のことはわからない。澄んだ空と美味しい空気、めいっぱいに広がる海、そんな曖昧な光景を想像すると、羨ましいな、と思う。だけど、君の生まれた田舎はそんな綺麗なところじゃなくて、未だ悪い風習に縛られ、他の町や村からも断絶された、酷い場所だと聞いた。君は周囲の反対を押し切って東京に来て、大学へ通い始め、僕と出会った。僕はさいしょっから君には本気で、まだ早いかもしれないけれど、結婚すら考えていた。それを酔っ払った時、間違って君に話してしまったことがある。思えば君は、嬉しそうにしながらも、困ったような顔をしていた。今考えると、そういう事だったのかと思う。君には、村から定められた、婚約者がいたのだ。

 「コーヒーひとつ、ください」

 自転車を停めてコンビニに入った。こんな辺境にあるコンビニに、深夜に来る客などほとんどいないらしい。後ろの部屋から面倒そうに出てきた茶髪の男が、無愛想にコップを差し出した。コンビニのコーヒーは、基本的にセルフで、自分で煎れる仕組みになってはいるのだが、もう少しサービスが良くてもいいのではないか、と僕は苦笑いをして、小銭を差し出した。ありがとうございます、と思ってもいないことを言われ、僕も一礼する。あとは機械が勝手にコーヒーを注いでくれるので、僕は自動ドア越しに、外を見ていた。なんにもない。これから先、進み続けてもきっとなんにもない。でも、君の所へは徐々に近づいてきている。もう少し、もう少しだ。コーヒーを注ぎ終えたことを示す電子音がきこえる。僕は砂糖を一つ入れて、蓋をして外に出た。休憩したら、また出発だ。

 「お兄さん、こんな夜中に何してるんですか」

 店の横でコーヒーを飲んでいると、掃除をしていたのか、箒とちりとりを持った、コンビニの制服を着ている若い女性がやってきて、驚いた顔をしてこっちを見ていた。
 この人も夜勤のスタッフなんだろう。「研修中」の文字が名札に書かれている。こんなところにあるコンビニで、二人体制で夜勤をする必要はあまり感じないのだが、まあ、そういうものなのだろう。

 「お疲れ様です、ちょっと、用事があって」
 「へえ、どんな用事ですか?」

 踏み込んでくるなあ、と思った。この人は単に仕事をサボりたいだけなのか、それとも僕に興味があるのか。僕は急がなくてはいけない身だが、ずっと自転車を漕ぎ続けて疲れてしまい、休憩がしたかったので、彼女の話に付き合うことにした。

 「前に付き合っていた、彼女に会いに行くんです」
 「え、それ、夜中に自転車で、ですか? 明日の朝、電車じゃダメなんですか?」

 女性は、驚いたように言う。制服を着ているのでわからなかったが、この人は多分僕と同じくらいの年で、僕の大学に沢山いるような、明るくて、人懐っこくて、少々配慮に欠けている、女の子なのだろう。改めて目を合わせると、その人はけっこう整った顔立ちをしていて、夜勤だというのに化粧もしっかりとされていた。

 「電車が通ってないんですよ、彼女の住んでるところは」
 「え、今どき、そんなとこあるんですか? 私、生まれ青森ですけど、普通に電車は通ってましたよ」

 まあ、三十分に一本とかなんですけどね、と言って、女性は笑った。
 僕だって信じられなかった。僕が今追いかけている君は、東京に出るまで電車を利用したことがないと言っていた。そもそも集落からの脱出は許されていなかった。週に一、二度、郵便物などを届けに来る業者が来るだけで、完全に閉ざされた場所なんだよ、と教えてくれた。

 「でも、お兄さん、その彼女さんと付き合ってたのって、前なんでしょ? 別れた女にわざわざ会いに行くって、重くないですか?」
 「うーん……もしかしたらそうかもしれませんけど、僕と彼女は、強制的に別れさせられたようなものなので、今でも思ってくれてると、信じたいですけどね」
 「なにそれ、悲恋みたい。もうちょっと聞きたいです、何があったんですか?」

 僕は少し迷ったけれど、この女性と会うのもきっとこれっきりだろうし、話すことにした。

 「彼女が住んでたところは、かなり閉鎖的な村というか、集落なんです。彼女は逃げるように東京に出て大学に入ったんですけど、もともと村に婚約者がいたみたいで、二十歳になった時、村に連れ戻されたんです。それで、明日が、結婚式だって」

 沈黙が流れる。通り過ぎていくバイクの音が、いやに耳に残る。
 女性は、そうなんですね、と言ったっきり、黙ってしまった。そして、少し考えこんだ後、

 「私なら、絶対そんな人生嫌ですよ、ありえないです、本当に好きな人と結婚出来ないなんて、嫌だ」
 「だから、僕が取り返しに行くんですよ」

 ああ、柄にもなく、なんかカッコつけたことを言ってしまった。恥ずかしくなって目を逸らし、頭を掻く。しかし女性は真剣で、僕をしっかり見ている。そして、こう言い放った。

 「絶対取り返してきてくださいよ、私応援してますから」

 こんなので良ければもらってください、と女性はポケットから、ツナマヨ味のおにぎりを差し出した。よく見るとそれは、消費期限が過ぎていた。いわゆる廃棄物だろう。僕はそれを何事もないように受け取り、ありがとうございます、と笑った。女性も笑っていた。

 「お兄さん、頑張ってくださいね。彼女さんの人生は、あなたにかかってるんだから」
 「ありがとうございます、お姉さんも、夜勤頑張ってくださいね」

 そろそろ、出発の時間だ。空になったコーヒーを、ゴミ箱に捨てた。
 女性は僕に手を振っている。僕も手を振り、自転車をまた漕ぎだした。コンビニの光がどんどん遠くなっていく。少しずつ、君のところへ近付く。もうすぐ会える。君が最後に放った言葉は、ありがとうでも、さよならでもなく、こんなの嫌だよ、だった。最後まで君は泣いていた。僕も泣きそうで、かける言葉をその時は見つけられなかった。でも、手紙にして、ちゃんと僕の思いはまとめてきたつもりだから。文章なんて全然上手くない。ましてやそれが恋文だと話したら、今どきそんな、とさっきのコンビニの女性に笑われるだろう。それでもいい。お願いだから、届いてくれ。再びスピードを上げていく。濃い緑色の空の向こうに、儚げに浮かぶ月が見える。もうすぐ夜は明け始める、それまでには、と願う。君の笑顔も、声も、随分遠くなってしまったけれど、絶対に繋ぎ止める。ときどき地図を確認しながら、着実に、僕は君のところへ向かっていく。

 朝日が昇り始める。君の好きだった朝だ。キラキラと光る太陽が、コンクリートを照らしている、あと少しで君のところへ辿り着く。広い歩道で止まって、さっきの女性からもらったおにぎりを食べた。消費期限が過ぎているとはいえ、ちゃんと美味しかった。
 右へ曲がって、左へ曲がって、を繰り返す。辛うじて道路があるくらいで、周りは大きな木ばかりで、まるで森のようだった。さらに進むと道路さえなくなり、昔、興味本位で画像を見た樹海のようだ、と思った。地図をしっかり確認しながら進んでいく。足元は極端に悪く、必死に漕いでいるのに、全然進まない。
 鬱蒼とした森を抜けて、急に視界が開けた。知らぬ間に坂を登っていたらしい、高いところから、景色が一望できた。森に囲まれた中に、何軒か建物があるのが見える。慌てて地図を確認し、場所が合っていることを確認する。あれが、君の住むところだ。ようやく、辿り着いた。
 空色の自転車を飛ばしていく。自転車で迎えに来たなんて、かっこ悪いだろうか、と今更思う。遠まわしに言うのも何なので、手紙には、結婚してくださいと書いた。恥ずかしくて、ペンを持つ手が震えた。何度も書き直して、何日もかけて、ようやく君に見せられる、ようやく君に会える。
 さあ、君はもうすぐそこだ。自転車を停めて、大事な手紙の入ったリュックを背負って歩き出した。心臓がばくばくする。君は、どんな顔をするだろう。僕は、どんな顔をしているだろう。
 明け方の空の向こうから、一筋の光が差し込んでいるのが見えた。

Re: 裂才 ( No.6 )
日時: 2018/07/28 21:29
名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)

 名前も知らないのに、私は「その子」をじいっと見ていた。
 日曜の午後、急にお仕事が休みになったママが、ショッピングセンターに連れて行ってくれることになった。初めて目にする大きな大きな建物、力一杯見上げても一番上が見えない立体駐車場。その中には黒、白、赤、青っていろんな色が並んでいる。車には顔がある、ママが乗ってる車は、目が尖ってて、何だか怒っているみたい。腕を引かれて歩きながら、あの車は目が丸くて笑ってる、あの車はママのとそっくり、怒ってるってはしゃいでいたら、うるさいって何時ものように頭を叩かれた。それを見ていた、おばさん達が何かをヒソヒソと喋っていた気がするけれど、私はママとお出かけができることが幸せなんだ。でもその幸せなんか、全部吹っ飛んでしまうくらい、私は「その子」に目を奪われた。
 笑っても怒ってもいない、なあんにも浮かんでいない顔。ママが「キャバクラ」っていう仕事に行くときに着るみたいな、綺麗なドレス。長い睫毛、パッチリ開いた目、ピンクのパッケージ。四階のおもちゃ売り場を歩いていた時、私と「その子」は目が合った。ちょうど、私の手に取れる位置にいてくれた。手を伸ばす。指が震えるのを感じた。きれい、きれい。まっすぐで腰まである長い髪、真っ白なドレスには、皺ひとつない。両手に置いて眺めた。「その子」はプラスチックのパッケージ越しにいる。もっと近づきたい、肌に触れてみたい。私は、保育園に行ったことがない。お友達って、こんな感じなのかな。この子が居てくれたら、ママがキャバクラへ出かけて行く夜も寂しくないのに。ねえ、私とお友達になろうよ。箱の中の「その子」に言う。返答はない。無いのは、きっと口元までテープで板に固定されているから。箱の中に入ってしまった私の友達を、早く、私が助けてあげなくちゃ!
 セロハンテープを剥がした。箱はぱかりと空いたが、私はどうしても、一刻も早く「その子」に会いたかった、ので、包装ごとぐちゃぐちゃに引き剥がした。初めて髪の毛に触れた。艶やかで、柔らかくて、三日もお風呂に入れてもらえない私とは大違いだった。顔や服を固定して居たテープも無理に引きちぎる、早くその肌に触れたいから。シワ一つ無いドレスを、触った時には感嘆の声が漏れた。わあ、すごい。お姫様みたい、私の友達はお姫様だ。とても小さいお友達の、小さな手を握ってみる。冷たい、けれど、ママが怒った時、私の頭にかけてくる水よりは、あったかい。そのまま私はお友達を手の上に乗せた。ドレスってこんな手触りなんだ。歩きにくくないんだろうか? と思いながら、その長いドレスを引っ張ったり撫でたりしてみた。私も将来ママみたいになれたら、こんな可愛い服を着れるのかな。どきどきしながら、ドレスの裾を上げて行く。私のお友達は、お姫様なのにちゃあんとドレスの下に足があったし、下着もつけて居た。友達。小さいけれど、あなたは今日から私の大事な友達! 嬉しくなって私は、お友達と不恰好に手を繋いで、このおもちゃコーナーを歩いて回ろうとした。ああ、なんて今日はいい日なんだろう。周りのみんなも、私たちを見ている。でも、次第に気づき始める、それは初めてお友達ができた私を、一緒に喜んでくれる目ではなくて、あんなお母さんの元に生まれてかわいそう、なんて言ってきた、あの人達の目。思わず私は叫んだ、お友達と一緒に。もうママに置いていかれて泣いている、ひとりぼっちの私じゃないんだ。

 「違う、私はかわいそうじゃない! ママもいるし、お友達もいる! 私はかわいそうじゃない、私は、保育園に行ってないのにお友達ができたの!」

 日曜のショッピングセンターともなれば、まあまあそれなりに混んでいる。ママと、パパと一緒におもちゃコーナーにいた男の子達は、逃げるように私から遠ざかって行く。二人組の女の子が、「見て、あの子、リカちゃんがお友達なんだって」と笑っている。

 首から何か四角いものをぶら下げたおじさんが、私に優しい声で話しかけてきた。ママはどこにいるかって、とりあえず、お人形はレジの人に預けておいて、迷子センターに連れて行くからついて来てって。もうすぐ、ママに会えるからおいでって言った。私は最後までお友達の手を話さなかったが、おじさんが面倒そうに放った舌打ちがママみたいで、怖くなって、私はその場でお友達の手を離してしまった。人形は床に転がる。

 『あー、すいません、すいません、うちのクソガキが。あ、え? あたし? あ、今パチ屋出るとこです。ご迷惑おかけしました、すいませーん』

 おもちゃコーナーはあんなにきらびやかだったのに、迷子の子供を預けておく部屋は無機質だ。電話越しにママの声が聞こえる。おじさんは、とがめもせずに、ここの場所と、あと「お友達」のお金を申し訳なさそうに言った。
 私は、スカートの裾を握りしめている。
 

Re: 裂才 ( No.7 )
日時: 2018/07/28 21:35
名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)

 笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。こんな場所にも、こんなものがあったのか、と。
 湿った地面に這う指、薄汚く澱んだ緑色、時折混じる人間の体液は、赤。ぽたぽたと、滴る水の音、ごおん、ごおんとどこからか聞こえてくる鐘。お前も狂えと言わんばかりの重苦しい空気に、今にも飲み込まれそうで足掻いている淡い泥たち。何百人、ここで生命をみずから絶ったのだろう。きらきら星たちが、静かに見守っている樹海に、それは死んだように横たわっていた。
 盆は過ぎ、ゆだるような熱気は日に日に涼しい風へと変わり、風鈴を鳴らす。夏だからと馬鹿騒ぎしていた若者たちも、今の時期は小休止、夏の残量を使い切り、家でごろ寝しているか、期限の迫る課題を慌てて片付けているだろう。盆、線香の香りとともに、私は死者へと祈りを捧げた。車で一人親戚の家に赴き、挨拶をして子供たちとスイカを食べ、将来は、星を見る人になりたいと笑顔で語るすがたが、どこか切なくも、美しく見えた。硝子玉をそのまま埋め込んだような、きれいな目をしている。私たちは、墓前に果物を並べ、墓石に冷たい水をかけてきれいにしてやり、遺影の中でほほ笑む先祖たちに、親族一同、並んで手を合わせた。お坊さんの詠むお経、のなかで、ちりんと鳴る風鈴と、外で遊んでいる子供と犬の声と、風の音。私たちは元気にしていますよ、あちらでもどうか、健やかに日々を過ごされていますように。私の父は言った。厳格な性格の父だが、その性格を形成したのは、祖父の教育が大きく関係しているらしい。私は、祖父とは幼少期に数回会ったが、いつも笑顔を浮かべ、優しい人であると記憶していた。遺影の中でも、微笑みをたたえていた。縁側で父は、ハイライトの煙を吐き出しながら、隣で正座している私に昔の話をしてくれた。親父は頑固だった、特に家の中では、俺や妹にそりゃあ厳しくてよ、でもお前が生まれたら途端に、優しいおじいちゃんになっちまって。お前が小さい頃は、親父が着物とか、びい玉とか、ランドセルとかを全部買いあたえてやっていたんだぜ。ハイライトの副流煙が、青い空へとふわふわ、揺れながら天へ昇っていく。正座していた私は、足のしびれに気づき、やっと、その体勢を崩した。父はそんな私を見て笑った、煙を沢山吐き出しながら。奥から母の声がした、「ふたりとも、なんでそんな暑いところにいるのよ。今麦茶持っていくわね」と、どこか、久々にそろった家族を嬉しがるような声色。父は懐かしそうに、目を細めている。また、ちりんと風鈴が鳴る。ふと下に目をやると父の影と、私の影が長く伸びている。高く高く咲いたひまわりも、もうすぐ下を向くだろうか。親戚の子供が東京に帰ってしまって、ぽつんと置いてある、買いすぎてやりきれなかった花火の残りが目に留まる。来年までには湿気るな、ありゃあ。とたとたと、母がやってきて、ガラスのコップに入った麦茶を父、私の順番に、縁側に置いた。私はありがとう、と言う、父は何も言わない。

 「あんな親父だったけど、最後は親族みんなに囲まれて、眠るように逝ったんだ。大往生だったのもあってね、葬儀に集まった親族もご友人の方も、悲しむより、あの人はすごかった、ずいぶんと長生きをしたものだ、って思い出話で盛り上がっていたよ。おまえはそんなのおかまいなしに、従妹のねえちゃんとお手玉で遊んでいたな」

 先祖たちは、お墓の中で、安らかに眠っている。年に一度、こうして親族が集まり、宴を開き、死してなお、おじいさん、おばあさん、そのまたおじいさんおばあさんもこっちへどうぞ、と酒を注がれる。宴のあと、母は密かに、仏壇に向かって手を合わせ、涙を流していた。こうして盆は暮れ、夏も終わる。涼しい風がカーテンを揺らす。死者たちは冥府へと帰り、また来年会おうじゃないか、と約束して、親族もそれぞれの生活に帰っていく。

 「……短冊か」

 ぽたり、ぽたり。湖に落ちる雫の音が、不気味に脳裏まで響いてくる。世の中に嫌気がさして、人生を放棄する選択をした結果、ここ、日本一有名な自殺の名所、青木ヶ原樹海で、何人も、人間が死んだ。私がここへ来る途中も、変色しぶら下がった人間の腕や、引き裂かれた衣服の残骸や、荒らされた財布を見てきた。私の仕事は、樹海を掃除することだ。給料は良い。人間がたくさん、恨みつらみを抱えた結果、最期の場所に選んだこの薄気味悪い森。鬱蒼と茂る闇の中、いざ湖を前にすると、そこは別世界のように、しん、としている。時が止まったとさえ感じる。ここで何百人も死んでいる。樹海は迷路だ、湖までたどり着けなかった者もいる。仕事も決まらず、やりたいこともない私は、樹海の管理者に頼み込み、働かせてくださいと言った。この仕事、みんなすぐ辞めていくんだけど、君は大丈夫? と聞かれたとき、やっぱり、やっぱり普通じゃあできない仕事なんだろうなと思い、自分まで緑の泥に引き込まれてしまう気がして、最初はためらったが、大丈夫です、自信はありますと胸を張って答えた。その時は、どうしても金が必要だったので選んだが、なんだかんだで、もう半年ほどこの仕事を続けている。淡々と死んだ人間の「後始末」をしていく私に、管理者たちはそろって感謝した。だけど、こんな仕事を、こんな長い時間やるなんて、あいつはおかしいんじゃないか、と陰では気味悪がられている。
 死者の残した遺書や、衣類品、金目の物などはよく目にするのだが、笹と、それに垂れ下がった短冊を見たのは、初めてだ。どこか、公民館なんかで飾っていたのだろうか、人工的な笹に、何枚も、何枚もお願い事が吊るされている。それは無造作に藻や泥の上に散らかされ、数日もするとそのまま、樹海の中に、溶けていって、なくなってしまいそうだ。私はビニール手袋越しにそれを手に取った。人工的な笹の枝に、連なる葉っぱたち、ピンク、青、黄色。樹海の陰気にのまれ、その文字はほとんど見えないものばかりである。やはり、子供から大人まで利用する場所に置かれていたもののようで、幼児の字で「おひめさまになりたい」と書いてあったり、中高生か若いカップルだろうか、「ゆずと来年の夏も一緒にいられますように」とあったり、はたまた、母親だろうか、「息子が有名中学に合格しますように」、こっちはご老人か、「親族が健康でありますように」。こんなもの、こんなもの、どうして樹海にあるのだろう。私は気になって、何枚も何枚も短冊を見たが、手掛かりらしいものは掴めなかった。七夕なんてくそくらえ、と思った自殺志願者が、公民館から盗んできたのかもしれない。どれもこれも、日常の中にある、とても穏やかで、静かな願いだ。きっとこれを書いた人たちは、七夕の夜、天の川を見ようとして空を見上げたり、織姫と彦星の再会を焦がれたりしたんだろう。足元からは死臭のようなものが漂ってくる。ボロボロになった衣服や、苔の生えてもう読めなくなった遺書や、現金も何も入っていない財布でいっぱいのビニール袋に、私はその笹の葉たちを押し込んだ。「おひめさまになりたい」の短冊が、ぐしゃり、と歪んで汚い苔と、血で混ざる。彼女らの願いは、かなっていたらいいな。もう盆は明け、夏が死に、秋が来る。夏の終わりとは、どうやらセンチメンタルになってしまう人間が多く、樹海で首を吊る人間は、日々、後を絶たない。笹はぐしゃぐしゃになった。私はそのなかでひとつ、かすれた文字で、もうろくに読めもしない短冊を見つけた。

 「あなたがずっと、私のことを覚えていてくれますように」

 樹海。夜の星と懐中電灯だけが私を照らす。澱んだ空気、嫌な緑、這う虫、人の死体と苔の匂いが混ざりあって、脳内でうまく緩和できず頭痛がする。
 盆、子供たちとサイダーを飲んだ。親戚みんな集まり、先祖に向かって線香をあげ、手を合わせた。宴会を開いた、親父は大往生だったと父は、寂しげに、けれども笑顔を浮かべていた。
 ここで死んでいった人たちに、そんなふうに弔ってくれる身寄りは、いるのだろうか。行方不明のまま捜索が打ち切られてしまった人、家族や恋人から縁を切られ、もうどうしようもなくなった人、ここで横たわっているのは、みんな、自分で望んで死んだ人。盆、きっと帰らぬだろう、彼や彼女たちは。それでも私は、それでも私は、生き遂げた命に、盆が終わって初めて、膝をついて祈りをささげる。線香はない。お坊さんもいない。苔と泥と藻でぐちゃぐちゃの、ふやけた地面に座り込み、手を合わせ、目を閉じる。あなたたちの死だって、きっと、無駄じゃない。誰かがあなたに向けた花束を蹴り飛ばそうとも、私はその散らばった花をあつめて添えて、生き切ったことを、せめて、この仕事をしている私だけでも、みとめてあげたい。
 来年の盆も、かえってはこなくていいですよ。向こうで、今度はしあわせに、なってほしいですから。こんな現世なんか忘れて、ふつうの幸せを抱きしめること、それがどんなに素敵なことか、どうか、永らく時間は経ってしまったけれども、いつか、あなたにも知ってほしい。
 私はずっと、祈りをささげている。

 月だけがこの場所を見守っている。

Re: 裂才 ( No.8 )
日時: 2018/07/28 21:45
名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)

 わたしは今、アパートのベランダに立ち、夏風を浴びながら、過ぎ行く日々と、遠い故郷のことを思います。かつては希望を抱いてやってきた夢の跡地に、大きなビルが建ちました。
 公園を駆け回り、小さな花を拾い集め、幼少のわたしは笑っていました。しかし、大人になるにつれて、とくに「十代」と呼ばれるようになってから、わたしはその花たちを毟りとり、ばら撒き、ちぎることで、自分と世の中を否定し、それが愛だと主張しはじめました。なぜこんなことになってしまったのかは、わたしにもわからないのですが、その頃ちょうど、こうして文章を書くようになりはじめたので、行き場のない千切られた花びらは、誰にも見せず、部屋中に文章を書きなぐったルーズリーフをばらまいていました。
 東京は、思っていたより、いい所ではありませんでした。東京に夢を抱いていた、若いわたしに言いたい。渋谷も新宿も汚いし、人が多くて煩いし、毎日のように人身事故は起きるし、部屋中にぬいぐるみを置いても寂しいし、夢見ていた都会での暮らしは、いまやただ、真っ白な自室の壁をながめているだけなのです。書きかけの手紙、飛行機にして飛ばして、墜落するような日々、本当に弱くなった時、本当に大切な人は居なくなります。
 ベランダに寄りかかって午睡ができる、静かで涼しい夏です。わたしは、ある夢を見ました。
 夢の跡地という場所で、落ちている、きらめいた欠片を、次々と拾ってポケットに押し込んでは、苺の月に向かってあるいていました。割れた瓶から溢れ出す青色の液体を踏みつけて、歩を進めていました。夢の跡地はまるで、わたしが耐え抜いてきた地獄の日々を、古い映画のように、永遠に流し続けているかのように思えました。架空の歌をうたいながら、わたしは進みます。だけど、なぜか、進めないのです。いつのまにか、ポケットの中に押し込んでいた欠片が、わたしの脚に突き刺さり、流血していたので、おもわず座り込んでしまいました。苺の月は遠く霞み、わたしは東京から地獄まで、手を繋いで飛んでいけることを、ずっと夢見ていたのですが、そんな思いはこの広い跡地の塵になって、やがてあなたやわたしの記録の一つになりゆくことを、ついに知ったのです。記憶していたことは、その日見た青が、耳元を過ぎる風と共に、ふわりと消えてしまったということです。絶望の淵から這い出ようと手を伸ばし、血塗ろになりながらも、跡地の青を、思いっきりのピンクで汚してやろうとしました。桃色の絵の具がたっぷり注がれたバケツをひっくり返すと、ゆっくりと水溜りは広がっていきます。瓶詰めにしていたピンクの世界に、血をぼたぼた垂らしながら、わたしは立ち上がってまた歩きだします。もう白いワンピースもピンク色に染まってしまった。これがわたしの色だと、頬にたくさんの絵の具をつけて、わたしは、夢の跡地に立っていました。
 苺の月は、遥か遠くにありました。

 わたしは誰よりも澄んだ気持ちの大人でいたいと願います。向こう見ず駆け抜けた日々のことを、一面ピンクに汚した夢の跡地も、ゼラチンの菓子のようにあまい罰を、凍りついた花には月夜の光を、行き場のない感情にはきちんと名前を、今こうして思い耽る人のことも、それは六月の霧雨が煙った池のように曖昧ですが、少女たることを、いつまでも忘れずにいたいと思います。
 昼も近づき、空は青色に澄み渡り、どこまでもどこまでも続いていき、もうわたしを縛るものなどなにも無いのではないかと思う日があります。そしてそのまま、子供のようにはしゃいで回り、夕方にはああ疲れた、と言ってねむります。わたしはわたしの中の少女と、夢の跡地を一緒に汚したことを思い出してくすくすと笑いながら、手を繋いで歩いてゆきます。そうやって、夜更け過ぎをぼうっとして待ち、迎えた朝が少しでもきらめいているように、ただ祈っています。


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