複雑・ファジー小説

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夜を統べる君よ
日時: 2018/11/01 22:25
名前: りんた (ID: aruie.9C)
参照: https://musyokucode.jimdofree.com

ハイファンタジー。歌守りと呼ばれる少年が、何かを決意する話です。
しばらく更新遅くなります。

【ひとりぼっちの歌守り】
>>1 >>2
【木漏れ日の街】
>>3 >>4
【歌を口ずさめば】
>>5 >>6
【小さな英雄】
>> >>
【良き隣人】
>> >>
【透明な雨】
【ほころび】
【やがて夕闇へ】
【夜をこえて】
【モーンガータの歌守り】

Re: 夜を統べる君よ ( No.2 )
日時: 2018/09/10 16:59
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 屋敷の中庭は、朗らかな静けさを秘めていた。緑の蔦が壁を這い、地には野花が滴る。カフネは、そこに居た。彼がなだらかな旋律を口ずさめば、野花や木々はふたたび、ともしびを宿す。

「カフネ」

 キリグが声をかけると、少年はゆっくりと振り向いた。そうして、僅かに開かれていた口を閉じる。目の色や髪の色は、キリグと瓜二つだ。あどけなさを残してはいるが、二つ並んだ、挑戦的なまなこが印象的だ。

「はじめまして、カフネ。私はイチカ、貴方のお母様から言付かり、次期歌守りの家庭教師としてやって来ました」

 イチカは一歩前へ踏み出す。カフネは灰色の眸を数度瞬かせ、そうして眉をひそめた。陰りが宿る。

「……聞いてないんだけど。おい、キリグ!」

 カフネは声を荒げる。挑戦的な視線がキリグを射抜いた。いつものことなのだろう、キリグはため息をついてみせた。そうして、イチカに密かに耳打ちする。

「申し訳ない、カフネは先代を亡くしてから、気性が荒い」

 かつて溌剌としていた少年に影を濃く落としたのは、母の死がきっかけだったのだろう。そうして、次期歌守りの重圧さえも、脆弱な背に負っていたのだ。

「家庭教師なんて、いらないだろう」

 吐き捨てるように言ったカフネは、いたく大人びてみえた。けれども、イチカは一歩も引くことを知らない。それどころか、正面からカフネを見据えるのだ。二人の視線がかち合って、張り詰める。思わず、カフネは息を飲んだ。

「……それに、歌守りなんてなるつもりは、ない」
「でも、そうしたらこの美しいモーンガータの地は」
「うるさい、僕の知ったことか!」

 カフネの叫び声が弾ける。中庭に轟いた声に、カフネ自身さえも驚いてみせた。怒りのせいか、彼の肌は淡く紅潮していた。風が吹く。穏やか昼下がりは、とうに泡となった。
 イチカは黙したまま、かぶりを振った。カフネに近づき、僅かに屈む。灰色の双眸は、目と鼻の先だ。

「ならば、こうしましょう」

 思いがけない言葉に、カフネの時が止まる。壁に背を預け、終始を眺めていたキリグさえも、呆気にとられていた。

「私は、次期歌守りの家庭教師になるために来ました。でも、君はなりたくないと言う。それならば単純に、カフネの友人として、一緒にいたい。どうでしょう」
「……無理に決まってるだろう、大人しく帰れ!」
「困ったことに、私、王都の家を引き払ってしまって、行くところないんです」

 快活に、イチカは笑う。底のない、無垢な笑みだ。それに気圧されて、カフネが声を荒げることはなくなった。

「お前は、馬鹿か」
「一応、学は修めていますよ」

 カフネが反論しようとして、口を開いたが、またすぐに閉じてしまった。キリグが側に寄ったからだ。彼は冷徹な眼差しをカフネに注ぐ。居心地が悪そうに、カフネは顔を逸らした。

「カフネ、いい加減にしろ。それ以上怒鳴ったら、喉を痛める」

 それきり、カフネは何も言わずにその場を駆け出した。小さな背を見送って、後に残された二人は、互いに顔を見合わせた。そうして、キリグは軽く頭を下げる。

「イチカ、ありがとう」
「私は、何にもしてませんよ。怒らせてしまったくらいだもの」
「俺も、ここへ来て日が浅いけれど。カフネは長らく屋敷に引きこもっていたから、友達がいない」

 一人きりの寂しさというのは、気づかぬうちにしんしんと降り積もり、やがては身を沈めてしまう。本来ならば、この屋敷は、カフネとその女中のみしか住まわない。この屋敷の空白を埋めるには、二人だけでは広すぎる。

「でも、あいつだってわかってる。歌守りの責任と、重圧を」

 カフネは、いつだって母の傍らで歌守りの務めを見てきた。先代歌守りに座したカフネの母は、儚くも病で旅立たれた。モーンガータの民は、歌守りに縋らねばならない。この紺碧の地を、カフネの小さな身に引き受けているのだ。

Re: 夜を統べる君よ ( No.3 )
日時: 2018/09/15 20:36
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

【木漏れ日の街】

 モーンガータの朝は、一等晴れやかな風を運びゆく。屋敷の部屋で、イチカは目を覚ました。寝台のそばに拵えられた窓を開ければ、朝のまどろみが頬を撫でる。丘陵地帯の麓、モーンガータの街並みが見渡せた。この屋敷に来てから、まだ一月にも満たない。けれども、イチカはこのモーンガータを気に入っていた。
 イチカは手早く、朝支度を整える。そうして部屋を出れば、心地よい朝食の匂いがした。日が昇ると同時に、この屋敷の女中は働き始めるのだ。

「あら先生、お早いこと。サバヒ・カリメラ」

 食堂へ行くと、もう既に朝食の準備は終わっていた。清潔なテーブルクロスに飾られた机の上に、パンや果物が並んでいる。この屋敷のただ一人の女中、アキヒはホットミルクの小瓶を携えて、花開くよう微笑んだ。ふくよかで、白髪交じりの髪を丁寧に編み結わいたアキヒの姿は、たおやかな気品がにじみ出ていた。
 聞き慣れない言葉に、イチカは首を傾げる。

「サバヒ・カリメラ?」
「この地方で遥か昔に使われていた言葉ですよ。今でも、ちょっとした挨拶の時に言うんです」

 イチカは口元を綻ばせ、興味深そうに耳を傾けた。長らく王都にいたイチカには、新鮮なことのように思われたのだ。席に着いて、マグカップになみなみと注がれた、蜂蜜入りのミルクに手を伸ばす。優しい味がした。

「どんな意味があるんですか?」
「光の朝よ、という意味を持ちます」
「ふふ、素敵な言葉ですね」

 焼きたてのベーコンを口に運んだところで、ふと、イチカは辺りを見回す。二人きりの食堂は、大きさに見合わず物寂しい。

「カフネと、キリグさんは?」
「坊ちゃんはきっと、中庭ですよ。キリグさんは……どうでしょうね」
「こんな美味しい朝食をとらないなんて、もったいないなあ」
「まあ、ありがとう。でも、そろそろ来る頃でしょうかね」

 折良く、扉が開く音がした。カフネとキリグが連れ立って顔を出す。カフネは常と変わらぬ、不機嫌を剥き出しにした表情を浮かべていた。

「おはようございます、坊ちゃん、キリグさん」
「サバヒ・カリメラ、カフネ。今日は課外授業をしましょう」

 カフネはイチカを睨めつけた。ぶっきらぼうな仕草で椅子に腰掛けると、アキヒが注ぎたてのホットミルクを差し出す。

「だから、僕は歌守りになんてならないって」
「ああ、そっか、そうでした……」

 イチカはしばし考え込む。そうして、名案だとばかりに、両手を合わせてみせた。

「じゃあ、友人としてお願いしましょう。このモーンガータの街を、案内してください」

 皿に手を伸ばす、カフネの手が止まる。助けを乞おうとしてアキヒを見遣るが、無駄だった。

「でしたら、もうパイの材料を切らしていて……。坊ちゃん、買いに行ってくださいますか?」
「アキヒ!」
「じゃあ、朝食をたっぷりととったら、行きましょうね」

 後に残るのは、同じ歌守りを生業とする、キリグばかりだ。最後の望み追い縋れば、青年は表情一つ変えず、ただ肩をすくめて見せた。

「……仕方ない。俺も、行く」

 目に見える形で、カフネは落胆した。一方のイチカは、もう次の話に飛び乗っては、アキヒと談笑を交わしている。キリグは、未だにイチカを信用などしてはいなかった。カフネの母、先代歌守りから家庭教師の任を言付かったのは本当だろう。しかし、この脆く歪な少年は、ひとたび采を間違えてしまえば、朽ちてしまう。カフネを扱う力量が、イチカにあるのか。キリグの本心は、そこにあった。


 モーンガータの街並みは見事だ。家々は漆喰の白い壁で統一されており、丘陵地帯から見下ろしたならば、白いさざ波がいくつも立っているように見えるだろう。加えて、紺碧の海と白い壁は良く映える。丘陵地帯の麓に面しているため、高低差があり、階段がなだらかに入り組んではいるが、ことさら趣を漂わせるものとなっていた。
 イチカは目を輝かせ、モーンガータの商業区を眺めていた。活気がある通りは、いくつもの店が並んでいる。あいも変わらず白い装束に身を包んだキリグと、次代の歌守りのカフネを連れ歩いているのだ。行き交う人々は一行の姿を目に留めるたびに、軽やかな挨拶を投げかける。

「やはり、すごくいい街ですね」
「僕は嫌になるほど、見飽きてるけどな」

 カフネはつまらなそうに、通りを悠々と歩く猫を目で追った。13年という年月を、この地で過ごしたのだ。今更、モーンガータに美しさを見出すことなどない。

「それにしても、キリグ、暑くないのか」

 隣に佇む青年は、モーンガータの照りつける日差しにも構わずに、手首をも覆う装束を身に纏う。けれども、彼は涼しい顔をしていた。

「慣れているから」
「……ふうん」

 本来ならば隣の領に住まう青年を横目で見ながら、カフネは考える。この真白の衣に慣れるなど、何年の月日が掛かるのだろう。聞き及んだ話では、キリグが歌守りになったのは、彼が19の砌だ。それから6年経ち、いわばよそ者でありながらにして、モーンガータの土を堂々と踏む。少年のカフネには、この年月は気が遠くなるくらい長いものに思われた。

「カフネ、案内して下さるんでしょう、はやくはやく!」

 群衆に溶け込んでいたイチカは、いつのまにか二人の元へ帰っていた。幼子のようなまばゆいばかりの声を立てて、カフネの服の裾を掴んだ。

「ああ、わかったから引っ張るんじゃない!」
「だって、今日という日は限りありますから。ほら、あそこのお店から焼き菓子の匂い!」

 カフネの抵抗も虚しく、イチカは彼の手をとって駆け出した。キリグは二人の背中をぼんやりと眺めては、緩慢な動作で歩き出す。イチカを咎めるべきだろうかと思案して、密かにかぶりを振った。もしかしたら、歌守りではないからこそ、導くものもあるだろう。

Re: 夜を統べる君よ ( No.4 )
日時: 2018/09/22 21:23
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 黒くこんがりと焼かれた、釣鐘型の焼き菓子を口いっぱい頬張る。砂糖とラム酒の濃厚な味わいが広がり、イチカは頬を緩める。その後ろに続くカフネもまた、ひそやかに焼き菓子の甘みを噛み締めていた。
 賑わいのある商業区とは打って変わり、居住区はひっそりとした平穏に包まれていた。子どもが立てるはしゃぎ声や、主婦達の熱心な世間話。全てが綯い交ぜになって、やがてはひだまりへ溶ける。イチカの先導によって、いつのまにか居住区の方へ迷い込んでいたのだ。

「王都とは違って、ここはなんだかゆったりとしてますね」

 イチカが呟いた。青と白に染め上げられた街を愛おしむように、褐色の瞳を細める。

「王都は、どんな所なんだ」

 最後の一欠片を飲み込むと、珍しくカフネから声をかけてみせた。彼にとって王都とは、お伽話に伝わる国の一つに過ぎない。イチカは一つ伸びをして、はるか遠くの地へ思いを馳せた。

「あまり、良いところじゃないですよ。ごちゃごちゃしてるし、人は忙しないし」
「でも、お前の故郷なんだろう」

 それは無意識に、口からこぼれ落ちたというようだった。カフネはばつが悪そうに、頸のあたりを掻いた。イチカは一拍置いて、そうして淡く笑む。

「そうですね。たった一つしかない、私の故郷ですもの」

 そう、イチカがしまいこむように呟くと、こちらへ駆け寄る足音が響いた。

「あの、カフネ様でいらっしゃいますか」

 不意に声をかけたのは、まだ年端もいかない少女だった。たどたどしい唇で、必死に言葉を紡ぐ。その顔は、どこか切迫していた。
 カフネを腕で制して、キリグが前に立つ。

「代わりに、俺が話を聞く」

 少女はキリグに驚いたようだったが、白い装束に歌守りと認めて、恐々と言葉を紡ぎ出す。

「お爺ちゃんの花畑を、どうか助けてください」

 ひたむきなまでの少女の望みを受けて、キリグは真っ直ぐに頷いた。そして、彼女の頭を撫でる。

「大丈夫。俺は、歌守りだから」

 その言葉は少女を、モーンガータの民を、かくも鮮やかに掬い上げるのだ。

 少女の祖父の花畑は、袋小路になった路地裏にあった。花畑というにはささやかで、いつくかの鉢植えに季節の花が並んでいるに過ぎない。しかし、今はその花々も萎れてしまっている。そればかりではない。昏く澱んだ、肌がひりつくような空気と腐臭。瘴気だ。

「まだ、そこまで酷くない」

 キリグは静かにつぶやく。

「イチカはその子を連れて、下がっていて」
「……はい、わかりました」

 キリグに命じられ、イチカは少女の背に手を置いて、瘴気から遠ざかるように促す。カフネは縫い付けられたかのように、身動き一つ取ることができなかった。瘴気。歌守りが対峙しなければならないもの。本来ならば、モーンガータが歌守りたるカフネの務めだ。しかし、現に歌守りの装束を纏いて、瘴気を退けるのは、コンムオーベレ領のキリグだった。

「……カフネ、よく見ていて」

 そう告げると、キリグは深く息を吸った。はじまりは、低い旋律だった。あまり抑揚のない、けれども慈雨が土に沁み入るかの声。遠い昔の言葉で奏でられた歌は、次第に独特の世界を形作る。澱みは宙にほどけ、腐臭は散り散りに、首をもたげた花々は生命の灯火を取り戻す。キリグが一節を歌い終えると、あとに残されたのはただの路地裏だ。同時に少女が歓声をあげて、キリグの元へ寄る。

「ありがとうございます!」
「これが、務めだから」
「そして、カフネ様も」

 少女はカフネの方へ向き直り、深々と頭を下げた。歌守りの少年は呆気に取られる。何故、礼を言われるのだろう。花畑を守ったのはキリグで、この地の歌守りは何一つしていない。カフネは嫌悪感で溺れそうになっていた。

「どうして、お礼なんて」
「いいえ、カフネ様のお姿を拝見するだけでも、私たちは救われているんです。この言葉、お爺ちゃんの受け売りだけど」

 少女はついでとばかりにイチカにも礼を述べて、弾む足取りで帰路へついた。カフネは物言わない。黙したまま、彼女が去った方を見つめるだけだ。そうっと、イチカが彼の隣に寄り添う。

「そろそろ、私たちも行きましょう。アキヒさんのおつかいも済ませなきゃ」

 カフネの顔を覗き込みながら、イチカは言った。




「夜のモーンガータも、美しいですね」

 屋敷へ続く石段を登りながら、モーンガータの街並みを眺める。白の街は夜色に飲み込まれ、星のきらめきのように家々に灯がともる。そのようなモーンガータの街を一望できるのは、丘陵地帯に屋敷を構えるからだろう。

「この景色は、先代がすくいあげた、尊いものです」

 階段を一段飛ばしで登りながら、イチカが呟いた。カフネもまた、夜のモーンガータに魅入っていた。モーンガータ領はいたく小さな地だ。領土とするのは眼下に広がる街と、なだらかな丘陵ばかりだ。それでも、先代歌守りが、カフネの母が愛おしんだ土地。

「だから、今は歌守りになるかどうかは置いておいて、もっと自分を誇らしく思ったっていいんですよ。この地を守ったのは、僕の母さんなんだぞ、なんて」

 歌守りを厭わしく思ったのは、その言葉の重さからだ。血をもってして受け継がれる、歌守り。たったひとりで、モーンガータを黄昏から遠ざけなければならぬ重圧は、いかほどだろう。なによりも、カフネを射抜く次代歌守りとしての期待、それに躊躇する自らへの罪悪感。カフネはひどく、色々なものに縛られすぎていた。
 しかし、カフネの瞳に映る景色はどうだろう。今日という日を、あの街で過ごした。活気のある商業地区や、焼き菓子の味、少女の笑顔。こんなにも美しく、まばゆいのか。カフネは張り詰めた糸が、ふと緩むのを感じた。

「ヌイ・シュクリア」

 古くからの言葉を、カフネは遊ぶように口ずさむ。

「なんて言ったんですか?」
「……教えない!」

 カフネは思い切り階段を駆け上がり、二人を置き去りにしてしまう。イチカはキリグに目で問いかける。

「感謝を告げる時の言葉、だと思う」

 イチカは目を瞬かせ、そうしてゆるやかに笑んだ。

「かわいいところ、あるじゃないですか」
「からかうのはほどほどに」
「はあい、わかってますよ」

 間延びした返事に、キリグは苦笑する。見極めるには、まだ早計だ。この少女は、どこか捉えどころがない。しかし、イチカがモーンガータに訪れてからというものの、カフネが変わっているのは、違うことなき事実なのだ。

Re: 夜を統べる君よ ( No.5 )
日時: 2018/10/13 11:57
名前: りんた (ID: aruie.9C)

【歌を口ずさめば】

 ヒュグリグは領主の娘だ。モーンガータを慈しみ、誰よりも誇り高くあろうとする。だから先代の歌守りが亡くなった時、ひときわ祈りを捧げたのはヒュグリグだった。領主は歌守りに従うことはなく、歌守りとて領主にまつろわぬ。共に手を取り合って、領地を守るのだ。
 何度、性を呪ったろう。男児として生まれたならば、家督を継いだというのに。双子の弟が羨ましくてたまらない。しかし、嘆くばかりでは何も為さないのだ。けして、この地が潰えてはならぬ。ヒュグリグは日が昇るたび、自らに言い聞かせた。



「カフネ様、いい加減にしてくださいませ!」

 ヒュグリグは薄い唇をわななかせ、勢いよく立ち上がった。この地方に多く見られる、亜麻色の髪が揺れる。深窓の令嬢を思わせる顔は、今はひたすらに怒りをたたえていた。
 彼女は、僅かばかりの侍女を伴って、歌守りの屋敷を訪った。そうして通された部屋で、ヒュグリグはひどく憤慨していたのだ。

「キリグ様とて、守るべき地が他にありますゆえ、貴方様がしっかりなさらないと!」
「僕だって、そんなことはわかってる!」
「ならば、どうして!」

 視線が交錯する。ヒュグリグは譲らない。彼女には、矜恃があるからだ。先に逸らしたのは、カフネの方だった。見計らって、キリグが間に割って入る。

「落ち着いて、ヒュグリグ」

 ヒュグリグはキリグを一瞥すると、小さな声で謝った。数度、深呼吸する。頭に血が上っていた。平静を努めて、ヒュグリグは口を開いた。

「とにかく、カフネ様にはやって頂かねばなりません。どうか、歌守りがお力をお貸しください」

 彼女は深く、こうべを垂れた。いくらモーンガータが小さな領とはいえ、ヒュグリグは公女だ。容易く人に頭を下げるべき立場ではないことは、世俗に疎いカフネでさえも理解している。

「……わかった」

 カフネは額に手を置いて、絞り出すようにそう告げた。キリグが気遣わしげな視線を遣る。

「カフネ、無理をするな」
「いいんだ。いずれは、僕がやらなきゃいけない」

 ヒュグリグに言われたことは、全て正しい。キリグはいずれ、コンムオーベレ領に帰らねばならない。その時、モーンガータ領を守ることができるのは、カフネしかいない。

「早速、行くぞ」

 弾けたように立ち上がり、カフネは足早に部屋を出る。半ば、意固地になっていたのかもしれない。カフネは真っ直ぐに、書斎へと向かった。勢いよく扉を開ければ、飛び込んでくるのは驚いたんだイチカの顔だ。彼女は慌てて、すすけた皮表紙の本を閉じる。

「お話、終わったんですか?」
「これから、歌守りの務めを果たす。お前も、来い」

 カフネの声は、僅かに震えていた。



 瘴気というものは厄介だ。いかに肥沃な大地であろうとも、一瞬にして死に伏してしまう。歌守りは、瘴気を鎮めねばならぬ。そうして、人々を安寧に導くのだ。
 ヒュグリグの話では、今朝方モーンガータの漁師たちが瘴気を見つけたと聞く。とっぷりとした波が寄せては返し、秘密めいたさざめきを紡ぎあげる入り海。そこに、瘴気が蔓延っているのだという。あたりを絶壁で覆われているため、入り海を訪うには、船でゆかねばならない。青い帆をはった船は、歌守りたちを呪われた地へと運びゆく。

「イチカさん、少々、よろしいでしょうか」

 船上、イチカが少しずつ遠ざかるモーンガータの街を眺めていると、不意にヒュグリグに話しかけられた。男爵の娘という身分だというのに、侍女の制止をも振り切って、彼女はここにいた。
 ヒュグリグはかすかに惑い、されども決意はかたく、薄紅の唇を開いた。

「カフネ様は、まだ子どもです。母を亡くし、すぐに跡を継げというのは酷でしょう。けれども、私はモーンガータを……」
「ええ、わかっていますよ」

 萎みゆくヒュグリグの言葉に、イチカははっきりと頷いた。同時に、心根の優しい娘だとも思う。領地に住まう民に心を砕き、そして歌守りの少年の行く末をも案じる。

「この地にまつろわぬ貴女だからこそ、見えるものもあると、私は考えているのです。ですからどうか……カフネ様にお力添えを」

 そう告げるヒュグリグの眸は、ひとすじにイチカへと注がれていた。なんと真っ直ぐで、透いた眼差しか。

「身勝手なお願いを、お許しくださいますよう」
「身勝手だなんて、そんな」
「……ほら、彼処をご覧くださいな。あれが、入江です」

 ヒュグリグが指す方へ顔を向ければ、見えてくるのは瘴気に膿んだ入り海だ。岩壁の下、ひとつの生き物のように、黒い靄が砂浜を這っていた。此処からでも、悍ましい臭気がただよう。
 いたく狭い入り海だ。船が停泊できる場所はない。すなわち、カフネは船上で歌わねばならぬ。

「では、カフネ様。そのお力、モーンガータにお示しになって」

 ヒュグリグから離れたところにいたカフネはそうっと、目を瞑る。白い装束に身をおとした彼は、銀杖を握りしめて、古めかしい子守唄を歌うのだ。
 思い出せ。母の旋律を。あの日、キリグはいかにして花畑をすくいあげたか。カフネは自らに問いただす。ひとたび銀杖を振り上げれば、それが合図となる。カフネは歌う。イチカがいつかにも聞いた、あの声で。

Re: 夜を統べる君よ ( No.6 )
日時: 2018/11/01 22:24
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 滑り出したカフネの音吐は、かすかにぎこちない。緊張のせいだ。日頃、野花綻ぶ中庭で口ずさむのとは、わけが違う。焦り、舌がもつれてしまうようだった。

「もう少し、ゆっくりと。……そう、その調子」

 かたわらで、キリグは次代歌守りへ語りかける。そのことに、カフネは胸中で安堵した。彼の歌は、キリグのように落ち着いた深みのあるものではない。少年の清かさと、青年のうっすらとした逞しさ。どちらも併せ持つカフネだから、こんなにも不安定なのだ。
 さりとて、彼は歌守りとしての素質を備えている。不均衡ゆえに、彼の声は魔性めいていた。ふたたび、銀杖を空に掲げては地に打ち付ける。陽炎のように、瘴気がゆらめいた。

「見事でしょう。カフネ様は、先代歌守りのへゼリヒ様の資質を、確かに継いでいます」

 ヒュグリグが、イチカに耳打ちする。カフネに才があるからこそ、歯痒い想いも強いのだ。
 上手く、立ち回れているだろうか。一節を終えたところで、カフネは目を開ける。入り海を覆う瘴気は、半分になっていた。しかし、瞳に瘴気を映すことは、すなわち魔のものと正対することだ。誰よりも瘴気と深くえにしを結ぶ歌守りは、その影響を色濃く落とす。未熟なカフネには、その恐ろしさがわかっていなかった。

「……カフネ!」

 異変に際して、キリグが声を上げる。かろうじて、切れ切れの歌を紡ぎ続けるカフネの顔色は、痛ましいほどに青ざめていた。人ならざるものへの畏怖。それが、カフネの脳裏に焼き付いていた。視界が揺らぐ。銀杖がカフネの手から離れた。気がつけば、小さな歌守りの全身から力が抜けた。キリグが彼の細い体躯を受け止める。そうして、銀杖を拾い上げた。

「キリグ、まだ、終わってない……。僕が、僕がやらなきゃ」

 カフネの切々とした願いに、キリグは顔を横に振った。

「あとは任せて。イチカ、カフネをお願い」

 カフネをイチカへ預けると、彼は息を吸い込んだ。ひとり、禍に祈りをこめるために。



 屋敷へ戻る頃には、日はとうに暮れていた。カフネを絡め取るのは、疲弊や気怠さだけではない、鬱々とした澱だ。ひとたびならず、またしても、キリグの力に依ってしまった。いくら口では歌守りを拒もうとも、カフネは知っている。いつか、歌守りの座につかねばならぬ日が来ることを。だからこそ、今日の失態は、彼にとっていたく忌まわしかったのだ。
 カフネは居間の安楽椅子に身をおさめ、宙を見つめていた。

「カフネ、今日は疲れたでしょう」

 イチカから差し出されたのは、煮立てられたミルクが注がれたカップだった。チョコレートがひとかけら落とし込まれたホットミルクから、甘やかな匂いが広がる。両手で受け取り、戸惑いがちに口をつける。

「僕は何もしてないんだ。疲れてなんか、いない」
「またそんなこと言って。今のカフネに必要なのは、たっぷりの良質な眠りと、ちょっとの甘味です。さあ、これを飲んだら部屋へ戻りましょう」
「歌守りじゃないくせに、何がわかる」

 カフネの放つ言葉は、あまりにもささくれ立っていた。けれどもイチカはらけして咎めることをせず、ただ曖昧に微笑んだだけだった。

「そう言われると、困っちゃいますがね、カフネ。私は友として、人生の師として、言っているんです。はじめての経験は、得てして緊張するもの。そうでしょ?」
「わかったような口をきいて」
「ふふ、私はカフネのええと……7年長く、生きていますから」
「たった7年だ」

 たった7年というには、辿々しい足取りの幼子が、果敢な少年へと転じるには、十分すぎる歳月なのだろう。
 カフネはそう吐き捨てると、うつらとしたまなこを手で擦る。

「ほら、今にも船をこき出しそうな顔」

 イチカがからかえば、カフネは顔をしかめてみせた。そうして、おもむろにイチカの方へと視線を遣る。

「明日、キリグに教えを乞う。その、歌守りとして」

 イチカはかすかに目を見開いて、こくりと頷いた。きっとこうして、少年というものは、ひとりでにうつろいゆくものなのだ。


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