複雑・ファジー小説
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- オレンジ
- 日時: 2018/12/20 15:07
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: z2eVRrJA)
のんびりまったり更新です。
うん、今日も偏頭痛がひどい。
低血圧です。
- Re: オレンジ ( No.3 )
- 日時: 2019/01/14 01:47
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: exZtdiuL)
すべての授業が終わって、みんなぞろぞろと教室から出ていく。期末テストが近いので、部活動はしておらず、ほとんどの生徒が家に帰っていく。もっとも、近くのファミレスやゲームセンター、カラオケでどんちゃん騒ぎをするのだろうけれど。
私は日傘をさして、音楽を聴きながら家を目指す。自転車を持っていない私は、片道30分かかる道を歩いて通っている。歩くことも嫌いではない。高校の近くにはいろいろとお店や遊び場があるけれど、そこを過ぎると田んぼばかり。人通りも一気に減る。暗くなるのが早い冬のあいだだけ、電車で通学しているが、定期のお金と電車を待つ時間がもったいない。
歩いているあいだ、私は帰ってからしなければいけないことを、順序立てて考える。
きっと洗濯物は干されてもいないだろうし、炊飯器のなかも空っぽ、テレビだけがついている。ちかちかと光る画面を、今日も虚ろな目で母さんは見つめているのだろう。
学校は嫌いだ。教室もうるさいので嫌いだ。
家は、ただただ居辛い。
息がつまりそうになる。
「ただいま」
アパートについて、玄関を開ける。
私が想像したとおり、洗濯物は干されていないし、炊飯器のなかは空っぽ、そしてテレビがついている。母さんは、やっぱりその前に座っていた。返事はないけれど、気にせずカバンを自分の部屋に置いてから、米を研いでスイッチを押す。次に洗濯物を手早く干して、冷蔵庫から朝に作っておいたきんぴらごぼうを取り出す。私はあまり食べないが、母さんが料理をしないので私が用意をするしかない。
ごはんが炊けたので、テーブルにきんぴらごぼうと、お茶碗に装ったごはん、漬物と麦茶を並べる。
そして二人で無言のままそれを食べ、また母さんは自分の定位置へ。私は食器を片付けてから、自分の部屋に行く。そして宿題を済ませて、シャワーを浴びて、ぽんっと布団に寝転んだ。父さんはきっと今日も遅くなる。
いつからか、母さんは私の顔をまともに見なくなった。私を見ると辛くなるのだろう。
自分の右頬を撫でてみる。醜い、私の傷跡。嫌いな、私の顔。
「うー……うー……」
この家は、私という存在を曖昧なものにさせる。本当に私が実在するのかどうかわからない。母さんは私が小さい頃から、感情の起伏の激しい人だった。ちょっとしたことで叫びだしたかと思うと、とろけたように優しくなる。私は、この人をできるだけ怒らさないようにしようと、常に緊張して生活していた。父さんは、もともと子どもとの接触が苦手なようだった。私が近づいてもどうしていいのかわからないといった感じで、まともに話したことはない。
だから、母さんが私を叩いたり世話をしなくなったりしても、無関心だったのだろう。それがエスカレートしても、彼は私のほうを見向きもしなかった。
爪を噛む。舌の上で溜まっていく爪を飲み込むとき、ぐっと喉の奥に異物感と痛みが生じた。それを耐えて、また爪を噛む。これは作業である。
7歳のとき、頭がついにおかしくなった母さんは、私の右頬に熱したアイロンを押し当てた。さすがにこの時ばかりは、私の悲鳴を聞きつけた父さんが止めに入って、すぐに病院に連れていかれた。父さんの親戚か何かがしている病院で、虐待のことは大人たちのあいだで黙認された。母さんはあの日から、私を見ない。テレビだけをずっと見ている。
目を閉じても眠れないので、音楽を聴こうとウォークマンをカバンから取る。すると、携帯が鳴った。
滅多に鳴らない私の携帯だが、相手は一人に決まっている。
急いで部屋のドアを閉めて、布団に潜り、咳をして声を整えてから通話ボタンを
押した。
「もしもし」
『おお、藤!勉強してたかー?』
「していないわ。なにもね」
『僕もだよ。本当になにもやる気が起きなくて……。ずっと音楽を聴いていた』
末田くんの声はいつも優しくて、私のなかにすとんと届く。
どこにいても、彼は私がここにいることを思い出させてくれる。
「音楽を聴きながらじゃ、頭に単語とか入らないでしょう」
『そうなんだよな。でも静かなところで勉強しろっていうのも、絶対に無理だ』
「末田くん、塾は行っていないんだっけ」
『行かないよ。行って頭が良くなるんだったらいいけど、僕は絶対に続かない』
「確かに!あまりイメージがないもの」
『……それ、すっげぇ僕に失礼だ!』
「あははは。ごめんね」
自分が笑っていることに、一番自分が驚く。いま、私はとても無防備で隙がある。
電話越しに聞こえる末田くんの声。会いたい、と思う。だけど、私はそれを口にしちゃいけない気がした。許されないと思った。
末田くんみたいに素直に生きていきたいけれど、私は日向には出られない。
末田くんが照らしてくれないと、私はどこにも行けない。
それから10分ほど電話は続いて、最後は「おやすみ。また明日ね」で電話を切った。しんと静まる部屋。ヒグラシの鳴く声が身に染みて、涙が出そうになる。お願いだから切らないで、一緒にいて、と喉まで出かかった言葉を飲んだ。さっき口のなかに入れた爪が、唾と一緒に流れ込む。
なぜだ。慣れているはずの一人が、こんなにも苦しい。
末田くん。
末田くん。
末田くん。
「末田くん」
電話だけじゃ足りない。
声を聞いたら会いたくなる。
私はどんどん、弱くなる。
- Re: オレンジ ( No.4 )
- 日時: 2019/02/13 12:55
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: 6..SoyUU)
翌日、学校で末田くんが、きれいな子と話していた。
一度も同じクラスになったことがないので、名前がよく思い出せないけれど、隣のクラスの子だということはわかる。それぐらい彼女は目立っていて、美人だ。付き合っているという感じではなさそうで、お互いのことを苗字で呼び合っていた。
すごく気になったけれど、ぐっと堪えて自分の席に着く。今日も豚小屋はうるさい。視界の端で、末田くんとその子が話しているだけで、どうしてこんなにイライラするのだろう。彼は誰とでも仲良くなれる。私みたいなものにも、親しく話しかけてくれたぐらいだ。こんな場面、しょっちゅう目にしてきたはずなのに──。
どうしたら、私だけを見てくれるのだろう。
私だけのものになるのだろう。
私だけが、彼のものになれるだろう。
気づけば、授業中そればかりを考えていた。
隣に座る彼の、ちょっとした動きや息遣いが気になってしまう。でも、気づかれてはいけない。彼は誰に対しても同じ態度をとるのだから。末田くんにとっては、私も友人あるいは同じクラスメイトのうちの一人なのだから。
……それなら、その輪のなかから抜け出してしまえばいい。
私だけに注目を向ければいい。多少強引なやり方でもいいから、末田くんも私のことしか考えられないようになってほしい。
「これって……けっこうアブナイ思考になっていないかしら」
その日、帰宅途中に思わずつぶやいてしまった。
自分でもけっこうキているなと思う。誰かの特別になるためには、相応の努力が必要だとはわかっていたけれど、浮かんでくる方法があまりにも極端だ。あなたがいなければ私は死ぬ、というほどの勢い。さすがにそこまで情熱的ではないと思っていたけれど、私には、末田正臣という人間が必要だから。
さすがに今日はテスト勉強をしようと思い、帰宅して用事を済ませてから机に向かった。
末田くんにおすすめされた音楽を聴きながら、すいすいと問題を解いていく。今日は電話、かかってこないかな。自分からかけるには、まだ勇気がいる。
気が付けば真夜中だった。
日付をまたいで、土曜日になっている。
エアコンのないこの部屋は、小さな扇風機だけがぶぅーん……ぶぅーん……と廻っている。蒸し暑くて、火傷痕が少し痒い。うんと、背伸びをしてから、教科書とノートを閉じる。近所(といっても歩いて10分弱はかかる)のコンビニに行こうと思い、そっと家から出た。駐車場に父さんの車はない。この家に帰るのが嫌なのだろう。大人はいいな、逃げ道があって。いくらでも自分の力で好きな所へ行ける。私も、連れて行ってくれればいいのに。途中で捨ててくれてもいいから。こういう考えをしている女の子は、意外と多いのではないか。家に息苦しさを感じて、早く年上のカレシと同棲したいと言っている子を知っている。
──同棲。
末田くんと一緒に住むことができたら、幸せなのだろうな。
コンビニの前で、煙草を吸っている男たちがいるのを見つけた。4人が、揃いも揃って夏の夜に煙を吹かしている。見たところまだ若く、きっと未成年だろう。いかにも悪そうです、といったやつらの中に、ひとりだけ見覚えのある男がいた。誰だっけ。思い出せない。クラスメイトですらうろ覚えの私だ。はっきりとは思い出せないけれど、うちの高校の生徒だということは確かだ。
あまり関わりたくないので、さっとそいつらの隣を通って、店内に入る。
適当にジュースやお菓子を買って、少し高いアイスも選んだ。レジに並んで、何気なく店員の後ろに陳列されている煙草を見つめる。吸ったことはない。だけど、なんとなく興味はあった。
「34番ね」
後ろで、低い声がした。
いきなりのことだったので、一瞬肩がびくりと動いたのが自分でもわかった。振り返ると、さっき店前で煙草を吸っていた男がいた。近くで見ても、やっぱり見覚えがある。誰だ、この人。
店員がマルボロの赤を手に取り、ピッとレジに通す。通したあとで、「ああ、別々ですか?」と私を見た。答える前に、男が一歩前に出る。
「この子のと、一緒に買うから」
「かしこまりました。では、画面タッチをお願いします」
「へーい」
男は慣れた手つきで年齢確認の画面に指を触れ、煙草だけを取り、私の方を見て微笑む。
気づけば私のものも一緒にお金を払ってくれていた。
「あ、あの」
「ねえ、藤。こんな夜中に女の子ひとりで何やってるの」
名前を、知られている。
やっぱり同じ高校の人だ。
「えっと……テスト勉強の息抜きで」
「勉強!?やっぱり真面目だなぁ、藤は。僕なんかしてないよ。……しないと、生徒会長に怒られるんだけどねぇ」
ああ、やっぱりこの人知っている。
うちの高校の副会長だ。集会でよく見かける。末田くんとも、何度か廊下で話しているのを見かけたことがある気がする。背が高くて、真っ黒い髪の毛が猫みたいに癖っ毛で、くすぐったそう。末田くんと同じで、この人も誰とでも親しいイメージがある。でも、私と彼は話したこともなければ、名前を知り合う関係でもないと思うのだが。
「なに、その変な顔」
「私、あなたとほぼ初対面だと思うの。……副会長ってことは知っているけれど、名前は知らないし」
少し、副会長の目元が歪んだように見えた。
「ええ、僕の名前知らないの。真乃明磨だよ、まのはーるーまー」
「はるま」
「そうそう。明るく磨くって書いて、はるまって読ませるの。珍しいっしょ」
確かに、珍しい。いや、それよりも真乃明磨か。昔、どこかで聞いたような気もする名前だな。
副会長は店から出ると、他の男たちに手を軽く振り「僕、もう行くね」と声をかけた。「女とどこ行くんだよ」と茶々を入れるやつらを無視して、彼は私の手を引いていく。
どこへ連れていかれるのだろう、と思ったけれど、彼はコンビニから少し歩いた所にある、小さな公園で足をとめた。
ベンチに座って、煙草に火をつける。白い煙が宙を漂い、境目を見失って、消えていく。
それを目で追いながら、私は頭のなかでどうしていいのかわからないままでいた。副会長が、煙草を吸っている。べつに本人の自由なので、校則だとか法律だとかを押し付けるわけではないけれど、ギャップがすごい。さっきの悪そうな仲間たちといい、この人、裏では不良だったのか。
「隣、座れば?アイス、溶けるよ。せっかく高いの買ったのに、もったいないじゃん」
「ああ、そうか」
家に早く帰ればいいのに、なぜか言う通りに隣に座ってしまった。
アイスを食べながら、リリリリという虫の音を聴く。甘い物体が口のなかでとろけて、冷たい液体となって喉を通る。そういえばお金を払ってくれたと思い出し、慌てて財布を取り出すと、「いいよ、べつに」と笑われた。
「どうして。私、副会長に奢られるようなことしてないもの」
「明磨でいいって。それは僕の気まぐれの結果だから、おとなしく受け取っておいてよ」
「よくわからないわ」
「わからないだろうなぁ」
苦々しく笑う。
その表情がどこか懐かしく思えて、胸がきゅぅっと痛んだ。なんだ、これ。どうしてこんなに、痛いんだろう。副会長は──明磨は、もう一度「わからないだろうなぁ」と同じことを呟いた。灰が舞う。落ちる先は、私のつま先。
「ねえ、それどういう意味?」
明磨は煙草の火を足で踏み消したあと、やけに真面目な顔つきで私の方を見つめた。
「火傷痕、昔よりもマシになってるな」
- Re: オレンジ ( No.5 )
- 日時: 2019/02/22 19:12
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: 50PasCpc)
いきなり話題が私の醜い容姿に移ったので、なぜか彼の前では貼られなかった警戒心が、みるみる私を覆ったことに気づいた。顔を背けて、長い髪で頬を隠す。触れられたくない。見ないでほしい。忘れてほしい。
明磨は私の態度が変わったことを気にするでもなく、再び新しい煙草を取り出した。
ジッポライターのカチッという音。深く息を吐くのを感じながら、私はただ硬直していた。
「そこに触れられるのは嫌なんだ」
「いや……嫌でしょう。誰だって、この火傷を見て驚いたり、話しかけたりするのよ。これは、話題作りのきっかけなんかじゃないわ」
「僕はあんたを口説くために、それをきっかけにしているんだけど……。って言ったら怒る?」
思わず明磨の顔を見た。この人は一体、何の冗談を言っているのだろう。
口説く?
私を?
「あなたと面識なんかなかったのに、どうして口説くのよ」
「一目ぼれだから」
「──高校であなたと話したこともないし、会うとしてもすれ違ったぐらいなのよ?」
「まあねぇ。高校だとねぇ」
「それに、私は好きじゃない」
「好きなやつがいるから?」
がつんっと後頭部を殴られたような気がした。
何も言えずにいると、明磨は勝ち誇ったように口角を上げる。
「例えば、末田正臣くんとか」
名前を口にされた瞬間、ベンチから立ち上がり、去ろうとする。獰猛な肉食獣を目の前にした、ちっぽけな生き物みたいに。逃げなきゃ、と思った。そう体も動いていたはずなのに。その前に腕を掴まれてしまった。冷たい明磨の手が、私に触れている。
焦りで、振り払おうとするのに、うまくできない。
「いやいや、逃げなくてもいいじゃん」
彼は笑っていた。
なぜだか苦しそうに、笑っていた。
苦しいのはこっちよ。
どうして、あなたが、そんな顔をするんだろう。
「べつに邪魔するとか……そういうの考えてないし。みんなに言いふらすこともしないし。あいつ、いいやつだし、好きなのは勝手だと思うよ」
「べつに、好きなんかじゃないわよ」
「あっそう。まあ、末田ってカノジョいるから、どんなに頑張っても無理だと思うけどね」
さっきの後頭部とは違う、心臓を抉られたような衝撃が走った。
カノジョがいる。
嘘だ、末田くんに?
だって、末田くんはそんなこと一言も言ってないし、仲の良さそうな女子は何人でもいるけれど、みんなに対して平等で、私にだって話しかけてくれるぐらいだから、みんなのもののはずなのに、末田くんにカノジョがいるとか聞いていない、ない、ない、ない、聞いていない……!
「藤、なにその顔。かわいいね」
目から、大量の水があふれていた。それが涙だと認識するのに少し時間がかかった。泣くなんて、滅多にしたことがなかった。ふやけた私の顔を、明磨が煙草を持っていない方の手で触れる。優しく、甘く。火傷痕をなぞるように、触れる。壊れたものに触るような手つきなのに、まるで嬲られているようだった。
どれぐらいの時間が経っただろう。
涙は乾いて、頬にこびりついていた。
明磨は私と手を繋いで、歩き出す。
「家まで送る」
言った通り、明磨は私を家まで送ってくれた。
だけどそのとき何を言われたのかとか、私が何か喋ったかとか、全然覚えていない。
やけに残っているのは、私にずっと触れていた明磨の冷たい手の平の感触だけだった。
- Re: オレンジ ( No.6 )
- 日時: 2019/02/23 11:56
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: YzSzOpCz)
第2章 みだして
「いらっしゃいませー。何名様ですか?」
土曜のお昼のファミレスはいつも混雑している。
家族連れや、中高生カップル、主婦の皆様方……。
私はぴっちりとしたファミレスのバイトの制服を身にまとい、作り笑顔を客に振りまいている。忙しい。なんでこんなに忙しいのに、全然バイトが入っていないんだと思ったけど、今はテスト期間中で、本来なら真面目な学生たちはシフトを入れていないのだったと気づいた。
実際、私ぐらいだし。テスト勉強していないの。
月曜日からテストが始まるんだけど、もうさっぱりわからないし、わからないことにいくら時間を割いても無意味だ。こうしてバイトをしてお金を稼ぐほうがいい。私の両親も、欠点をギリギリ免れている成績に文句を言うことがないし。
それにこうしてせかせかと動くことは嫌いではなかった。だから、べつにいいんだけど……それにしても、忙しすぎる!
バイトが終わるまで、あと4時間。早く終われと頭の中で叫びながら、ベルが聴こえると反射的に体がテーブルの方へ動くので、人間ってすごいなと思う。
「お疲れ、宮竹さん」
「お疲れ様でーす」
スタッフルームに行くと、私と入れ替わりのシフトの佐野さんが来ていた。まあまあのイケメンで、大学2年生らしい。身長が高くて、180近くはあると思う。私のお兄ちゃんより高い。佐野さんはすでに制服に着替えていて、気怠そうにスマホをいじっていた。
「忙しかった?」
「忙しいなんてものじゃありませんよ。今、テスト期間中だから、バイト少なかったんです」
「ああ、そうだった。俺のところはもう試験が終わりかけだけど、宮竹さんはまだなんだっけ。勉強しなくていいの?」
「勉強、したことないです!」
「それ、自信満々に言えることじゃないけどねー。若いうちから努力はしとくべきだよ」
「先輩面しないでくださーい」
お互いに笑いながら冗談を言い合う。
このファミレスでバイトをして半年になる。佐野さんは高校生のころからバイトしているらしくて、今年で3年目の古株だ。ここでバイトを始めたとき、一から色々と教えてもらったので、バイト仲間のなかで一番親しい。まあ、バイト仲間っていうだけでそれ以上でもそれ以下でもないのだけど。
スタッフルームの隣にある、狭い女子更衣室で制服から私服に着替えたあと、まだスマホを見ている佐野さんにお辞儀をする。
「それじゃ、お先でーす」
「ほーい」
ファミレスから出て、すぐに近くのカフェに向かう。
道中、何度も髪の毛を直しながら、リップグロスを軽く塗った。夏だから汗をかくので、香水もつける。お気に入りの可愛いハンドタオルで、首元の汗も拭った。
カフェに着くと、顔見知りの店員がぺこっと一礼して、「奥のテーブルですよ」と教えてくれる。「ありがとうございます」と言って、彼の待つ席へ急ぐ。
見つけた。
他のテーブルとは少し孤立した、奥まった場所。
適当に選んだ雑誌を、興味もなさそうに見ていた彼が、顔をあげて私を見つける。
「お疲れ様」
正臣が、笑った。
今までの疲労が一気にどこかへ行って、すごく満たされた気持ちになる。向かい側に座って、彼がまだ何も注文していないことに気づき、「何にする?」と目で問う。お互い、ここのカフェには通いすぎていて、メニューがなくても把握してしまっているのだ。
「今日はアイスコーヒー」
「私は、冷たいミルクティー」
店員にそれを伝えて、私は彼にバイトが忙しかったことと、テスト勉強をまったくしていないことを伝えた。正臣も音楽ばかり聴いていたらしく、全然はかどっていないという。
私と正臣は中学のころから付き合っている。
外見だとけっこう派手な私だけど、割と秘密主義だ。多くの女子たちが付き合い始めるとその関係をオープンにさせるなか、私だけはずっと黙っていた。今でも、私と正臣が付き合っていることを知る人は少ない。親にもお兄ちゃんにですら言っていない。
面倒な詮索と噂が嫌いな私は、正臣との関係をあれこれ聞かれるのが嫌だったし、それに馬鹿正直に答えてしまう自分の姿も容易に想像できたからだ。見た目のせいで経験豊富とか言われるけれど、その手の話題にはうまく交わしながら、心のなかでは勝手に想像していてください、と一蹴している。
正臣もけっこう友だちや知り合いが多いやつなので、あれこれ聞かれるのは嫌だと言ってくれた。それに、こういうことはあまり大っぴらに言いたくはないけれど──私も正臣も、よくモテる。告白を断ると、いつも絶対に「誰か好きなやつがいるのか」「付き合っている人がいるのか」と訊かれる。いちいち、それに答えるときに正臣の名前を出したくはない。
なので、「今はいない」と答えている。
それがきっとベストなのだ。
今はいないけれど、少なくともあなたはありえない、と遠まわしに突きつけることができる。残酷だけど、相手をすっぱりと切らなければ未練がましく思われているのも気持ちが悪い。
恋愛というものほど厄介なものはない。
人の抱く恋心とか、愛情とかは、簡単に歪むし壊れるものだと思うから。そして、あっけなく形も、その矛先も変えてしまう。
不確かなもので結ばれているからこそ、シビアにならないと。曖昧にしていたら、絶対にあとで面倒ごとが起こるから。
「だからって、高校でも苗字呼びにしなくてもいいと思うけれどな」
わざと唇を尖らせると、正臣が困ったように笑う。
「いやいや、レイナは目立つじゃん」
「正臣だってそうじゃない。クラスの人気者のポジションにいるし」
「僕は大勢の人と仲良くなりたいから」
中学のころから何も変わっていない。彼はいつも明るくて、太陽みたいだと思う。ヘラヘラしているけれど、見ているところはしっかり見ているというか。あとこれは関係ないかもしれないけれど、歌がうまい。カラオケに行くとこちらが腰を抜かすほどうまい。その歌声にハートを射抜かれてしまう女子がけっこう多いと聞く。
運ばれてきたミルクティーを飲みながら、話題は夏休みのこと、そして今からの予定へと移る。
場所を変えて夕ご飯を食べて、ぷらぷらと歩いて、それから……。
正臣がいたずらに私の手の甲に触れる。温かくて大きな手。この手に触れられると、すごく落ち着く。
カフェから出て、私たちは何気なく距離をとりながら歩く。知り合いに見られても、偶然会ったのだと言い訳ができるように。この人と何度もホテルに行っているなんてみんなが知ったら、きっと驚かれてしまうんだろうな。
- Re: オレンジ ( No.7 )
- 日時: 2019/03/09 09:18
- 名前: 伊藤 宙夢 (ID: 32zLlHLc)
あっという間に土日が過ぎて、テスト習慣になった。
テストを受けたらすぐに帰れるので楽だけど、勉強にマジになっている子たちは間の休み時間にですら必死で教科書を暗記している。私も一応ノートを見るけど、落書きとか、色々なペンで書かれている文字を目で追うことに疲れてしまった。自分の席で、ぼんやりと宙を見ながら次のテストが始まるのを待つ。わからない問題はさくさくと飛ばしているので、時間が膨大に余るから暇だ。50分もいらないでしょう。
いつもとは全然違う、静まり返る教室。その違和感にソワソワしてしまう。シャーペンを走らせていく音が妙に面白くて、みんな真面目だなぁと他人事みたいに思う。
月曜のテストが終わったことを知らせるチャイムに、みんなは一気に脱力して、それぞれのテストについての感想を言い合っている。終わりだーとか、全然できなかったーとか。自信のあるやつは口数少なく、やりきった感のある表情をしているし、私みたいにやっていないやつは無理だ無理だと言いながらもニコニコしている。
「レイナ、英語どうだった?」
「日本人だから、わかりませーん」
「ねー。もう欠点さえ取らなかったらいいよ、私は」
友だちの咲良は毎回そう言って平均点を上回る点数を出している。勉強しているのならそう言えばいいのに、なんでそう悪ぶりたいのかわからない。私は欠点をギリギリで回避しているんだぞ。クラスの平均点を上げないでほしい。
これから塾の自習室で勉強をするのだと言う咲良は、やたらと「さぼりたい」を連発している。そう思うなら、そうしちゃえばいいのに。それをしないってことは、根っこでは点数を落とすことを怖がっているって証拠だ。校則が少し緩いうちの学校で、髪も染めて化粧もしているけれど、どこか中途半端な印象を受ける。咲良はそういう子なのだ。
行くね、と気怠そうに言う咲良に手を振り、私は少し遅れて教室を後にする。
私の家は学校から近いので自転車で通っている。
校舎裏にある駐輪場までの距離は、意外と遠い。生徒数が多いのと運動部が盛んなのとで、敷地がけっこう広くて校舎も大きい。
蝉の声が滝みたいに降ってくるなか、ポカリを飲みながら駐輪場へ向かっていると、後ろから「宮竹」と呼ばれた。
振り返ると、真乃がいた。
「どうしたの」
暑かったけど、わざわざ立ち止まった。ぶわっと汗が噴き出してきそうだ。
人との距離感があまりわかっていないのか、無遠慮に真乃が顔を近づけてくる。中性的で、女子たちがけっこう好きそうな顔立ちをしている。真乃は実際、先輩女子からけっこう人気があるみたいだけれど、同じクラスの女子は真乃よりは正臣っていう子が多い。一応、生徒会に入っていて優等生っぽくはあるけれど、外見も雰囲気も影があるというか。うまく言えないけれど、真っ白っていうわけではないと思う。裏で色々と暗躍していそう。孤独な悪役、みたいな。よくわからないな。
去年も同じクラスで、苗字が「ま」と「み」で近いもんだから、出席番号順だと必ず席が隣同士になった。
あまり友だちを作らない……というか、男子と喋っているところを滅多に見ない。あちらも真乃のことをいけすかないやつだと思っているのかもしれない。容姿端麗で生徒会に入っていて、そのくせ真面目くんっていう雰囲気はゼロで、妙に艶めかしい感じ。そんな男の子だから、「近寄りがたい」と女子も言っている。見ている分には、いいんだけどねーって。
「宮竹に借りた漫画、いつ返そうかなって」
テストが始まる前、こいつにお兄ちゃんの読んでいる漫画を貸していることを思い出した。
「ああ、そういえば。いいよー、いつでも。もう読んだの?」
「うん。面白かった。続きはまだ出てないの?」
「秋ってきいたけれど。そんなにあれ面白いかなぁ」
「まあ、マイナーな漫画だからわかる人にしか伝わらないんじゃない」
「へえ」
真乃は二人きりだとよく喋る。というより、教室でも喋りかければ、ふつうに喋ってくれる。用事がない限り誰も真乃に絡まないし、真乃もあまり他人に興味がないようで、一線引いている。その線を悠々と、私は踏み越える。あまり真乃に対して遠慮を感じたことはない。
きっかけといえば、一年の冬に本屋で真乃とばったり会ったことだ。
お兄ちゃんがインフルエンザにかかって、家族中から隔離されていたころ、どうしても読みたい漫画の発売日が今日なんだ、お願いだから買ってきてほしいと言われて、私が駆り出された。マスクを着用して、あったかいコートを羽織って、手もアルコール消毒して書店へ向かった。
お兄ちゃんの言う漫画は、けっこうマイナーでなかなか見つからなくて、どこだどこだと探しているところに、真乃と行き会った。
「宮竹じゃん。漫画とか読むのか。意外」
真乃がそう言うので、お兄ちゃんに頼まれたのだと伝えると、また少し目を丸くして、
「兄弟いるんだ。意外」
と返された。
私としては、微かに彼の服から漂う煙草の匂いに驚いていたんだけれど。特にそれについて言及はしなかった。悪いやつだ、と思ったけれど。
その日から、こうして度々お兄ちゃんの持っている漫画を貸すような、奇妙な仲になっている。
友だちといっていいのかわからないが、私はべつに真乃を嫌いじゃないし、向こうも下心あって近づいているわけではなさそうだ。それは、かなり気が楽なことだった。
「できるなら、夏休みに入る前がいいかな」
「僕とは長期休暇中は会いたくないってことか」
真乃に対して好感が持てるところは、正臣と同じで、自分のことを「僕」と言っているところだ。本人には絶対に言わないけれど。
「そうじゃなくて、バイトが忙しいの」
「ああ、そっか。あの制服を着ていらっしゃいませとか言っちゃってるんだもんな」
「しょうがないでしょう、店のなんだから」
バイト先にはうちの生徒もよく来るのだ。真乃も数回来たことがある。
そのとき年上の(見るからに二十代前半とか後半の)きれいな女の人とよく一緒にいる。カノジョではないらしい。お姉ちゃんとかでも、ないらしい。これについても言及はしていない。ヘラヘラと交わされそうだし。
「なら、明日持ってくるよ。2冊だったら、それほど重くないだろう」
「うん。わかった」
「そうするわ。……ああ、あと土曜日さ」
「うん?」
そこで、
真乃は、ぐっと私に近づいてきた。
唇が触れそうなぐらい、耳元に寄せられる。息が、ふわっとかかった。やっぱり煙草の匂いがする。
「正臣とホテル行くなら、人目気にしろよな」
頬が熱くなっていった。なのに、背筋は冷たかった。
硬直している私を見て、愉快そうに真乃が笑う。
なんて返していいのかわからず、真乃の目を見る。なにか含んでいそうな、本心の読めない表情。
「人違いじゃない?」
数秒後、なんとか声を振り絞った。笑顔も、作りながら。
「末田は別の女の子とホテルに行っていたんだよ」
「──ああ、そう。じゃあ僕の見間違いかな」
言葉ではそう納得しているけれど、絶対に真乃は見間違いなんかじゃないことを確信している。
「そうだよ。末田、女の子からモテモテだし」
「まあ、そうだよね。あいつも正臣のこと好きだって言ってたし」
「あいつ?」
私が正臣と付き合っていることを知らず、私本人に直接彼の事が好きなのだと告白してくる女子は少なくない。だから、べつに真乃の言う「あいつ」がだれであっても驚くことはないし、そこで「正臣は私のカレシだから」と主張するつもりもないのだが、話題をそらせたかった。
「ここに、さ」
真乃は、自分の右頬を指さし、つうっと唇の下まで指先でなぞる。
「火傷の跡が残っている女子、知っているだろう」
「ああ……うん。知っている」
名前はなんだっけ。覚えていないけど、正臣本人から聞いたことがある。
同じクラスに音楽の趣味の合う子がいて、アルバムを貸し借りしていると。それに嫉妬はしたことはない。私だって、真乃に漫画を貸しているし。それと似たような感じかなと思っている。
「あれが正臣を好いている」
「──うん、まあ、そうかもね。ていうか真乃ってあの子と面識あったっけ」
「あるよ」
真乃の表情が、急に雨の中置き去りにされた子犬のようになる。
なにかを思い出しているのか、目を細め、遠くを見つめる。こんな無防備な表情をするところを見たことがないので、新鮮だった。
「ずっと前。僕たちは同志だったんだ」
「同志?」
「ああ。ごみ溜めみたいなところで、ずっと一緒だった」
「──よくわからないんだけど」
「そりゃそうだよな」
乾いた声。なにかに絶望しているような響きを持つ。私には彼の声がひどく不安定なもののように聞こえる。なにもかも完璧なようだけど、この人は実は、ひどく脆くて危なっかしいんじゃないだろうか。
「その子が末田を好きだろうが、末田が女の子とホテルに行こうが、私には関係ないよ。真乃はなにか勘違いをしている」
「そっか。僕の勘違いか。なら……困ったなぁ」
「はぁ?なにがよ」
まったく踏み込めない真乃の意図に、少し苛立つ。
「どうやって正臣を諦めてもらおうかなって」
対して真乃は、その子が自分の思い通りにならないことに焦りを感じているようだった。
……だめだ、名前を本当に思い出せない。顔は出てきているんだけどな。
「──ていうか、真乃。あんたも末田と仲良かったっけ。正臣って呼び捨てにしているけれど」
「ああ……あいつも同志だから」
「なに、同志って」
へらへらといつもの真乃に戻る。あの子犬みたいな彼はどこにいったんだろう。
蝉の鳴き声に押しつぶされそうになりながら、線の細そうな彼の輪郭を目で追う。
「宮竹にはわからんだろうなぁ」
──私には、わからない。
正臣の女性関係に対して、嫉妬をあまりしたことがない。だけどこのとき、なぜかひどく疎外感を感じた。私の知らない正臣を、真乃は知っている。
「なによそれ……」
真乃が帰ってしまったあとも、しばらく彼の言葉を反芻する。
わからない。
私には真乃の言っていることが、ちっともわからなかった。
彼は何を知っていると言うのだろう。
私の知らない、正臣のことを。
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