複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 【完結】TEARdrop——魂込めのフィレル外伝
- 日時: 2020/08/24 09:44
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
霧の彼方に、封じた記憶がある。
霧の彼方に、閉じ込めてしまった想いがある。
その日々は、確かにとても大切で、涙が出るほど愛しいけれど。
——痛いから。
想い出すことすら、そのあまりの切なさに狂いそうになってしまうから。
忘れられない思い出なのに、大好きな人との思い出なのに。
——思い出してしまうから。
彼女と過ごした喜びを。
思い出せば、喪失感に、おかしくなってしまいそうで。
だから。
霧の彼方に、霧の彼方に。
閉じ込めて、見えなくしたんだ。
僕の灯台はもういない。
——————
傲慢だった霧の神様と、人間の娘との恋物語。
◇
「魂込めのフィレル」の外伝です。3万文字程度の中編。
「フィレル」に出てきた霧の神、セインリエスの過去を描いた作品です。
よろしければお付き合い下さいませ……。
- Re: TEARdrop——魂込めのフィレル外伝 ( No.7 )
- 日時: 2020/08/17 16:55
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
秋の森を霧の狼が駆ける。色付いた木々の間を疾走する。ぐったりとしていたティアは元気になって、目を輝かせてそりの上で歓声を上げていた。森を歩いてみたいと言うティアのため、ある日セインリエスはそりを止め、二人で森を探索した。
ティアはセインリエスが霧を凍らせて作り持ち手に木の葉を巻いた籠に、たくさんの木の実やキノコ、秋の味覚を詰め込んで笑っていた。錦色の雨の下で笑う彼女は、本当に楽しそうだった。まるで病気なんて抱えてはいないように。
「これまで、何度も秋の森は見てきました。でもここの森って……本当に、綺麗ですー! 近所の森はここまで綺麗じゃなかったんですよー!」
笑う彼女の隣、セインリエスは静かにたたずんでいた。けれどそうしていると「セインさんも!」と彼女は彼を誘い、二人で錦色の雨の中踊るのだ。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。セインリエスは切に思った。自分がもしも氷の神だったら、一番幸せそうな彼女を凍らせて閉じ込めて、ずっと自分の近くに置くのだろうか?
——いいや、僕はそんなことなんてしない。したいとも思わない。
思ったとき、彼の心が否定した。
彼が愛するのは、生きて輝いている彼女だから。氷に閉じ込め動けなくしたら、確かに彼女は永遠を得られるだろうけれど。しかしそれはもう彼の愛した彼女じゃない。生きているからこそ、生きて笑っているからこそある確かな輝き。彼はそれを愛したのだ。そんな彼女を愛したのだ。
「今日のご飯は秋の味覚ですー!」
嬉しそうな顔をしながら、彼女はセインリエスと二人で落ち葉を集め、火を熾す。熾した火で栗やキノコなどを焼いて二人で食べた。火の前だとセインリエスの霧も蒸発してしまうから遠ざかっていた彼に、「じゃあ私もそっちに行きますー」と彼女はそっと寄り添った。腕と腕とが触れ合う。
腕に淡い恋心を抱いた人の温かさを感じながら、セインリエスはいつか彼女が失われる日のことを恐れた。この温かさが消えることを恐れた。
そしていくら楽しげに笑っていても、病魔は確実に彼女の命を奪いに来る。
遊び疲れて紅葉の布団の中で眠る彼女の呼吸は、細く荒く不規則で、見守っていなければそのまま止まってしまいそうにも見える。
彼女には時間がない。それをわかっているけれど、だからこそ残された時間で精いっぱい、楽しい思い出を作りたいともセインリエスは思っていた。しかしそれで歩みが遅れれば、彼女は最大の夢である極光を見ずに、そのまま死んでしまうかもしれない。それだけは避けたかったが……。
「ティア……。君にこんな病魔さえ、宿っていなければ」
思わず、呟いた。
「もしも」のことなんて、願っても仕方のないことだけれど。
そんな彼と彼女の頭上で、死をつかさどる北極星が、早くおいでよと不吉に輝いていた。
◇
- Re: TEARdrop——魂込めのフィレル外伝 ( No.8 )
- 日時: 2020/08/19 23:14
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: .uCwXdh9)
霧の狼を駆って北へ、ひたすら北へ。
北大陸を越え、そのさらに北にある極北の大地プルリタニアを目指す。
極光はその地でしか見られないから。稀に北大陸最北端で見られることはあるが、そんなわずかな可能性に賭けるよりは確実性を選ぶ。
その道の途上で立ち寄った、とある村での出来事。
「ティア、今日はこの村で休もうか」
夕暮れの橙色の明かりが辺りを照らし出す。セインリエスが見詰める先には村らしき光景。
ティアは病人だから、出来るだけ野宿はさせたくないというセインリエスの判断だった。
うん、とティアは頷く。
そして霧の狼の引くそりは、ついにその村に辿り着く。
「わぁっ、神様だぁっ!」
村に着いた途端に聞いた、第一声。そう言えば霧の狼も凍霧のそりも戻していなかったなと気付き、慌てて戻そうとするがすでに遅い。彼とティアは子供たちに囲まれていた。
ふわっふわの茶色の髪の毛の男の子が、その目を純粋な好奇心に輝かせていた。
「あのね、ぼく知ってるの! 霧の狼と凍ったそり! それってね、霧の神様のシンボルなんだよー!」
「あ! あたしも知ってるー!」
男の子の隣、金の巻き毛の女の子が元気に声を上げた。
「でね、そんなの魔法で作れるわけないの。だからあなたは霧の神様なのー! なのなの!」
「……水の魔法では霧は生み出せない。そもそも霧を人工的に作り出すことなど不可能だ。ましてや霧を凍らせてそりを作ったり、霧に実体を持たせて狼として使役することなんて。そんなことが出来るってことは……あなたは本当に神様なのか」
静かな声と同時、子供たちの後ろから、黒い髪に青い瞳の、クールな雰囲気の少年が現れた。
「ようこそ、ポメルの村へ。こんな辺境に神様が何の用だ? この先には何もないぞ?」
「極北の大地プルリタニアに行くんだよ。でももう日は暮れた。だから一晩だけ、泊めてほしいと思ってね?」
それにしてもいい村だねぇと彼は辺りを見回した。
のどかな雰囲気の村だった。村人たちも皆明るく純朴そうで、暗く排他的な雰囲気のあったティアの村人たちとは全然違った。
そんな空気を感じるのか、ティアは顔を輝かせて、辺りをきょろきょろしている。
「神様がこの村に泊まるの?」
茶髪の男の子が嬉しそうな顔をした。
「ならねならね、村のおっきな集会所にね、そういったお客さんのためのお部屋があるんだよ。そこに行く? でもその前に! ねぇね、ぼく、いっぱいお話聞きたい!」
「あたしもー! 神様に会えるなんて、もうこの先ないかもしれないんだもん!」
元気よく金髪の女の子も乗ってくる。
わかったよ、とセインリエスは頷いた。
そっとティアに問う。
「体調、大丈夫かい?」
ええ、とティアは頷いた。
「この村にいると落ち着くんです。だから大丈夫。それに……私も聞きたいです、セインさんのお話」
「その子は……あなたの仲間なのか?」
問う黒髪の少年に、
「いいや、大切な人だよ」
愛おしげにセインリエスは答えた。
そして子供たちに連れられて、村の集会所に向かう。
その先でセインリエスは語った。天界で見聞きしたこと、数々の物語を。人間好きな闇神が関わった数奇な運命を持つ人間たちの話や、兄である風神ガンダリーゼの語った、まだ見ぬ様々な土地の話。傲慢だった時代でも、セインリエスはこの二人の言うことは聞いていた。兄はともかくとして闇神の話も聞いていたのは、闇神が自分よりも格上だからという理由だけではないだろう。
強い力を持ちながら、決して驕らずいつもクールに笑っていた闇神。そんな彼にも憧れの念を抱いていたのかもしれない。
子供たちはそんな彼の話を一生懸命に聞いていた。セインリエスは子供たちを喜ばせるために、霧の力を披露した。子供たちの反応はとても良く、セインリエスは満足だった。
やがて、夜も遅くなり皆がうたた寝し始めると、黒髪の少年が子供たちを家に帰らせ、セインリエスらを客室に案内した。
「オレはラヴァン。ポメルの村で警備隊をやってる。何かあったら呼んでくれ」
「ありがとうラヴァン。君に灯台の祝福を」
微笑み、セインリエスはラヴァンの頭に手を乗せる。乗せた手から光が溢れ出す。驚くラヴァンに「動かないで」と言い、しばらく。光の奔流はおさまり、セインリエスは手を退けた。
「ちょっとした魔法を掛けたんだ。僕は惑わす霧だけじゃない、導く灯台の神様でもあるからね。君がこれから何か迷ったとしても、その迷いから抜け出せるように」
セインリエスはラヴァンの瞳に見る。その奥に、星の光が宿っているのを。
その星の光が宿っている限り、ラヴァンは迷っても正しい選択をすることがだきるだろう。そんな魔法を掛けたのだ。
「ふふ、ちょっとした贈り物だよ。この村って本当に素敵だから……何かしたいなって思ってね」
「……ありがとう、ございます」
ラヴァンは深く礼をして、部屋を出た。
そしてセインリエスはティアと二人きりになる。
部屋の窓からは星空が見えた。輝く真夜中のイルミネーションを眺めながら、セインリエスはティアが確かに今ここにいるのだと意識した。
いずれは消えてしまう命だけれど、今はまだ、確かにここにいる。
死をつかさどる北極星は確かに頭上に輝いてはいるけれど、死はまだ彼女に追いついていない。
あと何回、その笑顔が見られるのだろう。あと何回、その優しさに温かさに触れられるのだろう。
失いたくないから、セインリエスはティアをそっと抱きしめた。セインリエスの腕の中で、ティアは幸せそうに笑っていた。
セインリエスは知らない。
この穏やかで優しい部屋の外、物騒な話し声がしているのを。
「魔女だ」「殺す」「殺さねば」
言葉に、ラヴァンはきゅっと唇を噛み締め俯いた。
「ラヴァン、やれるな? 警備隊なんだろう?」
「……ええ、当然です」
クールな少年の青の瞳に、仄暗い灯りが揺らめいた。
◇
- Re: TEARdrop——魂込めのフィレル外伝 ( No.9 )
- 日時: 2020/08/21 11:20
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: clpFUwrj)
翌朝。
セインリエスは、自分の首に刃が押し当てられているのに気が付いた。思わず眉を上げて、問い掛ける。
「おや、ラヴァン。いったい何のつもりだい?」
「…………」
ラヴァンは答えない、答えようとしない。薄暗がりの中、青の瞳が迷うように揺れる。迷い、惑い、どうすればいいのかわからないというような顔で、それでもラヴァンは刃を引かない。けれどそれ以上刃が押し込められることもない。
「……魔女が」
やがてラヴァンがぽつりと呟いた。
「魔女が来たって聞いたから! 殺せって言われたんだ。警備隊なんだろう、外部からの侵入者は排除せよ、って」
魔女。ティアのいた村からの情報が、この村にも届いていたか。
心の中で舌打ちしながらも、セインリエスは鷹揚に笑う。
「ならば殺せよ、抵抗はしない。だが、ティアに手を出したら絶対に殺す」
セインリエスは、ラヴァンを迎えるように両手を広げた。しかしラヴァンは動かない、動けない。その場で刃を押し付けたまま、ただただ震えるばかりで何もできない。額から伝い落ちた汗が、周囲を濡らし染みを作る。
「こんなの間違ってる……!」
ラヴァンが呻くような叫びをあげた。
「オレはあなたたちが悪人じゃないってわかってる。でも、でも! オレは警備隊だから——ッ!」
セインリエスは見る。ラヴァンの中の迷いを惑いを。
今のラヴァンは霧に迷える船だ。暗い夜の中、導いてくれる光もなくて。どうすればいいのかわからず途方に暮れる、一隻の帆船だ。
——灯台がなくて困っているのなら、僕が導いてやればいい。
セインリエスは優しく笑う。彼は霧と灯台の神。惑わすだけでなく、導くこともできるのだから。
昨夜、ラヴァンの瞳に宿した星の光に呼び掛ける。目覚めよと、目覚めてそのまま光となれと。船を導く灯台となれと。
セインリエスは問い掛ける。霧の神ではなく、灯台の神として。
「……なぁ、ラヴァン」
優しい声音で。
「君は何がしたい?」
「オレは……」
ラヴァンの奥で戦う二つの感情をセインリエスは見る。警備隊としての使命感と、セインリエスたちを信じたい純粋な気持ち。
「オレは……」
耳を澄ませば「魔女だ」と声が。「ラヴァンが向かった」「すぐに死ぬさ」
声を聞き、セインリエスの瞳を見て。
ラヴァンは覚悟を決めたようだった。
「オレは!」
青の瞳に宿った星の光が明滅し、確かな輝きを宿す。
ラヴァンは刃を引いて窓を開けた。吹き込む冷たい風に、村の人たちの怒号が混じる。そのままセインリエスの方を向き、叫ぶ。
「ここから、逃げて下さい! オレはあなたたちを信じます。彼女は魔女じゃないしあなたは邪な神じゃない。ここはオレに任せて下さいッ!」
彼が導いた答えは、信じること。
ありがとうとセインリエスは頷いた。
「君はきっと素晴らしい大人になるよ。ああ、約束するともさ。よく僕を信じてくれたね」
ティアを抱き上げる。腕の中で目をこするティアを起こすまいと霧をかけて窓から外へ出る。身を霧で覆い隠して見えないようにし、凍霧のそりに乗り、霧の狼を呼び出して再び大地を駆けていく。時間がないのはわかっていた。だから急がなければならないのだ。
「……彼ならきっと、この先もやっていけるだろうさ」
自分を信じたラヴァンを信じ、心の中で小さく礼を言って先へ進む。
いくつもの森を越え、山を越え、谷を越え。最後には海さえ霧の狼の引くそりで渡る。霧の狼は海の上を駆けた。それなのに水飛沫は感じない。霧の狼は海から少し浮上した空を駆けていたのだ。
「狼さん……こんなこともできるのですね……!」
ティアは驚いた顔で、そりから見える景色を眺めていた。
ふふとセインリエスは微笑みを浮かべる。
「僕は最強の神の一柱だからね……。これくらい余裕なのさ」
「セインさんって、本当にすごいです!」
「君の方がすごいよ。だって……普通の人間なら、ただ倒れている人間にあんな優しさなんて示せないよ。僕はそんな君に救われたからこそ、変わることができたんだ」
海の上を渡りながら交わされた、ささやかな、しかしかけがえのない会話。
セインリエスは知っていた。この海を渡り切った先に、極北の大地プルリタニアがあると。そこにたどり着いたら極光は見られると。
彼は恐れる。極光を見たら、そのままティアが死んでしまうんじゃないかと。
だから頼んだ。
「ねぇ、ティア」
ずっと一緒にいたいから。
「この先に極光の大地があるよ。でもお願いだよティア。極光を見ても死なないで、ずっと傍にいて。僕は一人ぼっちになりたくない……」
「あなたには素敵なご兄弟がいるじゃないですか。私が死んでもあなたは一人ぼっちにはなりませんよー?」
きょとんとした目で彼女は彼を見る。
「でも……そう、私はまだ生きていたいです。極光を見ても、まだまだ見たいこと、知りたいこと、たくさんあるのです! だから——」
秋が終わり冬が終わり春になったら、と彼女は呟いた。
「一緒に行きましょうね、また、様々なところ。春も夏も秋も冬も、綺麗なものがたくさんある。私はそういったものに出会いたいんです」
春になったら、と彼女は繰り返した。
そう、秋が終わったら冷たい冬が来るけれど。冬の先には春がある、生命が萌え出ずる春が来る。そうしたら彼女の身体も回復するんじゃないかと、そうセインリエスは思った。余命など知ったことか、彼女は強いんだからもっと生きると、信じて疑わなかった。
——そうでもしないと、彼女の死への恐怖に、心が潰されそうだったから。
前向きに考えておかなければ心が死ぬのだ。
彼女の存在はいつの間にか、それほどに大きいものとなっていた。
それでも、それでも、北へ近づくにつれて彼女は確実に弱っていった。
旅を始めてから三か月。冬の最初に差し掛かり、セインリエスのそりは北の大地にその身を滑らせた。その頃にはティアはもう、自分で歩くこともできなくなっていた。
セインリエスは背負ったティアに言う。
「ティア……着いたよ。ここが極北の大地プルリタニアだ。もうすぐで極光が見られるよ」
答える声は、とても小さかったけれど。
それでもまだ、彼女は生きているから。灯台の灯は消えてはいないから。
「……行くよ。全速力!」
凍り付いた極北の大地を、霧の神のそりは進む。
◇
- Re: TEARdrop——魂込めのフィレル外伝 ( No.10 )
- 日時: 2020/08/23 12:13
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 49hs5bxt)
極北の大地プルリタニア。この広い世界で数少ない、極光の見られるところ。
凍てついた大地をひたすら進み、やがて、霧のそりは止まった。
ふっと見上げた頭上に——あった。極光が、オーロラが、夜空にたなびく光のカーテンが。美しく、不思議な空気を宿しながら、時に色を変えつつ不規則にたなびいて。凍てついた空気がそれをさらに美しく魅せる。
「見て……ティア」
白い息を吐きながら、セインリエスは愛する彼女に言う。
「極光だよ……君の見たかった極光が、今、頭上に広がっているよ……」
苦しげに目を閉じていたティアは、その言葉に薄目を開けた。よく見えるようにとセインリエスが肩車してやると、ティアはぱあっとその目を輝かせた。
「すごい、です……。これが……お話で聞いた、極光……!」
セインリエスの上で、彼女は動きを止めてその美しい光景に見入っていた。次々と移り変わりゆくその輝き。星の空とも相まってそれは、この世のものとは思えない美しさだった。
「そうです……これが見たかったんです……。お話で聞いた時から、ずっとこれが……!」
その青い宝石のような瞳から、涙がこぼれた。次から次へと溢れる涙は、セインリエスの肩を濡らした。セインリエスは驚いて問う。
「泣いているのか……? ティア」
「セインさん……ありがとう、ございます……」
ひょいと肩から降ろし、その顔を眺めてみる。彼女はこの世の全てに満足したような顔をしていた。
「セインさ……これ、を……」
彼女が何かを渡そうとした瞬間、
死をつかさどる北極星が、かつてないほどの輝きを放った。
背筋に悪寒を感じた。
正面に抱いたティアの身体が急速に冷え、体温を失っていく。
はたり、とその服の下から何かが落ちた。それは青色の模様の入った白いマフラー。彼女と出会った当時、彼女が織っていたあの布だ。彼女はそれをマフラーにして、セインリエスにプレゼントしようとしてくれたのだ。
落ちたマフラー、失われゆく体温。彼女が一生懸命作ったそれが落ちる。それは彼女が命を落とす予兆にも見えて。
焦った声でセインリエスは叫ぶ。
「ティア、死ぬな! 春になったら、って言っていただろう。見たいこと知りたいこと、たくさんあるんだろう!? 極光を見たって死なないって、言ったじゃないか」
セインリエスの目から涙があふれる。
「——一緒に行きましょう、って……言ったじゃないかッ!!」
「……生きますよ? 春も夏のその先も。行きますよ? セインさんと一緒に……」
その目に恐怖を浮かべるセインリエスに、安心させるようにティアは言った。
「でも私……もう、疲れちゃいました。ちょっとだけ……休んでも……いいです、か?」
セインリエスは彼女をそっと横たえた。その瞳の奥に星の光と極光が映る。けれど青玉石の瞳の奥に、光はない。
どこですか、と彼女は問い、何かを探すようにその腕をさまよわせる。
「見えない……。さっきの、極光も星の光も。セインさんのお姿も……」
病は急速に進行し、彼女はもう目も見えなくなっているようだった。
僕はここにいるよ、とセインリエスは彼女の手を握り締めた。しかしどうしても見えてしまう。不吉に輝く北極星が。
セインリエスに手を握られて、ティアは嬉しそうに目を細めた。
「セインさん……そこに、いるのですねー……。私、セインさんに会えて良かっ……」
最後の一音は、言えなかった。
彼女の全身から、くたりと力が抜けた。冬の寒さも相まって、その体が急速に冷えていく。——ティアは、死んだ。
「……ティア」
彼女は病魔に勝てなかったのだ。それをわかっていても、セインリエスは現実を認めたくはない。
「……眠っているんだろうティア。そうだ、疲れたんだよな。こんな身体で極北の大地までよく頑張ったよ。ああ、帰ろう我らが天界へ。そしてそこでゆっくりと休むんだ。君は眠っているだけだろう?」
なぁ、ティア。
呼びかけるが、その身体は既に息をしていなかった。
「認めろセインリエス。彼女は死んだんだ」
凛、とした声が凍てつく空気を割った。
ゆらり、何もない場所から現れたのは影。それは少しずつ実体を得ていき、やがて黒髪赤眼、褐色の肌に黒い衣装を身に纏い、赤いマフラーを巻いた青年の姿になった。こんな場所にいるはずがないのに、どこかで鴉がカアと鳴いた。
「闇神……ヴァイルハイネン」
セインリエスはティアを抱きかかえ、相手の名を呟いた。
闇神は静かに言う。
「愛する人を失うのは辛いだろう。だが彼女の死は現実だ。触ってみろ、その身体に温度はあるか? 動きを見てみろ。彼女は今、息をしているか? そういうことだ。人間は誰ひとりとして、死から逃れることはできないんだよ」
「……嘘だ。そして! 私に何の用だ貴様ッ!」
闇神はつとその目を細めた。
「……ようやく柔らかくなったと思ったのに、彼女を失った途端に口調も戻ってしまったか」
溜め息をつき、彼は目的を語る。
「オレは忠告しに来た。以前言ったろう? 確実に死別があるから、人間を愛するなと。今からでも遅くはない。霧の力を自分に使い、彼女のことを一切忘れろ。全て霧の彼方に閉じ込めてしまえ」
「どうしてそんなこと……言うんだい」
呆然と呟くセインリエスに、闇神は友達のよしみだ、と答えた。
「今ならまだ間に合う。今のうちに忘れてしまえば、あんたは心を壊さずに済……」
「——うるさいッ! 私と彼女の邪魔をするなァッ!!」
セインリエスは叫び、一気に力を解放した。解放された力は闇神を吹き飛ばし、闇神は凍てつく大地に体をぶつけた。
「……そうか。それがあんたの答えか」
悲しげな声が頭上から降る。
闇神は宙に浮き、そこからセインリエスを見下ろしていた。
「ならばオレもこれ以上は関わらない。……オレだって、さ。友達を救おうとしたかったんだよ。でも彼女亡き今、オレの言葉は届かないのか……」
じゃあな、と彼が言い、その姿は天へと吸い込まれていく。
セインリエスは荒い息をしながら、闇神が消えたほうをずっと見ていた。
そして彼は抱いたティアを見る。改めて理解した。彼女はもうこの世にいないこと。セインリエスを救い、愛し、温かさと優しさをくれた人。セインリエスが心に張った氷を融かしてくれた人。
愛する彼女はもういない。あの、花が咲いたような笑顔を見せてくれることは二度とない。
気付き、改めて理解して。
喉の奥から出たのは慟哭だった。
「——————ッッッ!!」
死んだ死んだ、彼女は死んだ! 春まで生きることはできず、彼女は死んだ、死んだのだ!
「ああ……」
セインリエスは空を仰いだ。極光はいつの間にか消え失せて、死の象徴たる北極星だけが、不吉なまでの輝きを発していた。
「あああ……」
彼女と過ごした幸せだった日々が彼の脳内を駆け巡る。救われた日、守られた日。最後の旅の中、紅葉と戯れた無邪気な彼女、嬉しそうな彼女。その幸せな光景こそが、残酷なほどに彼の心を抉っていく。
「あああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
そして彼は、壊れた。彼女を失って、壊れた。彼女と過ごした楽しい思い出は確かにあるのに、そこに彼女はいない永遠にいない。
人間を愛した神様は、人間が死んだときその死を永遠に抱えなければならない。自殺も許されず、彼は彼女の死を抱えたまま虚ろに永遠を過ごすのだ。それを知り、その先の虚無を知り、彼は狂ったように暴れ出した。
失うということ、大切な存在を失うということ。その重みがようやく理解できた時はすでに遅く。
一滴の涙《ティアドロップ》が大地に落ちた。それはたちまち凍り付き、大地に吹く風に流された。
「ティア——ッ!」
彼の灯台はもう、戻らない。
迷える船を導く光は、もうこの世にはない。
◇
- Re: TEARdrop——魂込めのフィレル外伝 ( No.11 )
- 日時: 2020/08/24 09:43
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
【終話 なくした灯台】
「私を殺してくれないか」
いつからか彼は言うようになった。
あの後天界に戻った彼は、兄ロウァルの死を知らされた。いつかセインリエスに負わされた傷が原因で急激に体調が悪化、そのまま帰らぬ人となってしまった、という話だ。ガンダリーゼはそれ以降、口をきいてくれなくなった。
愛する人を失い、ようやく和解できた兄も失い。生き地獄のようなこの状況の中でさらに、生きることを強いられる現状。セインリエスは壊れ切り、ひたすらに死を望んだ。その間の記憶はない。ただ虚ろに生きていた。
そしてそれから三千年後に、その機会は訪れた。大陸国家シエランディア、プルリタニアの南西の地で、神封じの旅の一団が現れたのだ。彼はその一団に積極的に攻撃を仕掛け、最後に発動する危険な罠も仕掛け、彼らが自分を殺すように仕組んだ。
そして。
「——その首、もらったッ!」
黒衣の少年がセインリエスに迫る。セインリエスは薄笑いを浮かべて言った。
「残念だったね、君たちの敗北だ」
「何——ッ!」
少年が動揺した、直後。
少年の刃によって、セインリエスの首は跳ね飛ばされた。
どうせ自分が死ぬのなら、最後には最悪の置き土産を遺そう。
セインリエスが仕掛けた罠がどうなったのか、自分で見ることはかなわないけれど。
——ああ、これでようやく、君に会える。
最後の思考の中でそう思い——彼の意識は消滅した。
霧の神セインリエス、雨の神ロウァル。兄も弟も失って、残るは真ん中のガンダリーゼのみ。周囲の神々が死んでしまっても、彼は決して死を望むことはない。
「……セインの奴は愚かだった。生きることはこんなにも、楽しいことばかりなのになぁ」
ふっと皮肉気な笑みを漏らす。
あの後、セインリエスの最期のたくらみは無事成功した。神封じの旅の一団は見事に混乱し、壊滅状態に陥った。自分の死の道連れに、彼は自分を殺してくれる人たちを選んだのだ。その冷酷さは、ティアと一緒にいた頃には存在しなかったもので。
「教訓。神が一人の人間を愛しすぎてはいけない。そうしたら……セインのようになる。人間好きな闇神は確かに人間と関わるが、一人の人間に強い執着を抱いたことはない。その意味が分からなかったのか愚弟」
ふぅ、と彼は溜息をつく。
「でも……人間というのは面白い。関わりたいと思う気持ちはわかる。それならば」
彼は天に手を伸ばし、地上界への扉を開く。
「俺やハインのように、程々にすればいいのにな」
天界で、この話は語り継がれることになる。
一人の人間を愛しすぎたがゆえに破滅した霧の神セインリエス。その話は一種の教訓として。
だが、他の神は知るまい。そうやって破滅する前のほんのわずかなひととき。セインリエスがどのような日々を送り、愛する人との幸せを噛み締めていたのか。彼が感じていた生きることへの喜びなど、そんなものは語り継がれない。
ティアは確かにセインリエスを救ったけれど、同時に彼を壊した。別れは仕方のないことだけれど、ティアはとても残酷なことをした。
——僕の灯台は、どこにいるの。
その叫びは、誰にも届かない。
(完)