複雑・ファジー小説

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亘理佳也子と返報の夢
日時: 2022/08/18 23:04
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)

※ホラーです。怖いの苦手な人はご注意

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 それが夢の中だという事はわかった。感覚としてわかった。誰の夢か、何の夢か。
 黒々と塗りつぶされ、誰もいない。ただ何もない暗黒ばかりが広がる、誰のもとも知らぬ夢。
 そんな夢の中で声は言う。
 世の中には、冷酷な理不尽が幅を利かせ、抗う術もなく、その理不尽はわたしたちを切り裂いた。
 世の中を呪いながら、この流れ落ちるような生への裏切りの雨を、あるいは心の奥底を食い荒らす復讐の狗を、果たしてどうして飼いならそうか。
 例えばもっと安らかな死を与えられたならば、わたしはきっと悲しくも諦めただろう。
 例えばもっと清らかな身で死ねたならば、わたしはきっと死してさえ誇らしかっただろう。
 だからこそ、わたしは決した。
 例え抗う事の出来ない宿命が、わたしに死ねと命じたならば、その運命に抗う事などしない、潔く殉じようと思う。
 だからこそ、わたしは誓った。
 不条理な理不尽を掲げてわたしに抗えない宿命を刻んだ者へ、わたしは必ず報いると。
 この胸の奥底で唸る復讐の狗を、必ず躾け、飼いならし、そしてお前の喉笛を喰い千切るよう仕向けよう。
 その為に、わたしは――――。

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■twitter:@taros5461

最新話 >>10

Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.6 )
日時: 2022/06/09 22:12
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: hi4BpH9d)

緑川蓮と申します。こんにちは。
先日は某所で短編を拝読致しましたが、今作は連載と言うことでワクワクしますね。

浅葱さんも常々絶賛しておられる文章力は、やはり圧巻の一言ですね。ひとつひとつ言葉のチョイスにしっかり重厚な威力がありつつも、するすると読ませる手腕、さすがです。
佳也子さんの聡明な人柄と仄暗い影が、ありありと伝わってきます。彼女が巻き込まれるのか、はたまた自ら踏み出すのか、あっとさんの文章で綴られる「返報」の予感にゾワゾワとしております。
続きを楽しみにしております。応援しています。

Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.7 )
日時: 2022/06/26 17:36
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)

>> 6
緑川蓮さん

せっかくコメント頂いていたのに、お返事が遅くなり申し訳ございません。

某所では先にお礼申し上げましたが、改めて感想ありがとうございます。
文章を書く行為そのものが久々なうえ、以前は短~中編メインだったので自信がないのが正直なところなのですが、みなさんの期待の沿えるよう精進したいと思います。
佳也子と夢魔と、秘められた過去と返報の夢の物語をお届けできるよう頑張りたい所存です。
読んだ後、少し暗がりが気になってしまう文章が出来上がるといいなぁ。

改めて、感想ありがとうございました。

Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.8 )
日時: 2022/06/26 17:44
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)

* * * *


 ジリッ、と焼けつく様な音がした。――いや、そんな気がした。いつもより大きく。仄かな胸の痛みを伴って。
 少女との逢瀬の時が終りを告げて、いつも通り自室の天井を映す視界がゆっくりと歪んで行くのを、佳也子は至極当然の様に受け止めた。言い知れぬ悲しみが、視界を歪めて、それがそのまま滴となって頬を伝った。
 物理的な痛みを伴わずに涙を流したのははたしていつ振りだろうか? 思いかえせば自分はあの日から本来は必要なはずの感情のいくつかがぽっかりと欠落していたのではないか? 佳也子は漠然と自問して、返って来るはずの無い答えを無理矢理に埋めた。そうかも知れない、と。
 普段と変わらない早朝の空気の匂いとまだ肌寒い気温、それからシーツの隙間を抜けだしてスリッパを探る脚先に伝わるフローリングの感触。そのどれもが、胸の痛みに滲みた。何故だか、酷く滲みた。
 暫くじっと、ただ任せるままに涙を流した後、佳也子はリビングへ行ってパソコンの電源をつけた。『霊縛』、『夢魔』、それから惨殺された少女……夢魔と名乗った少女との限られた逢瀬の時間は出来る限り彼女自身の話を聞きたい。その為に、佳也子はその得体の知れない存在や力について自ら学ぼうと思った。いつの間にか佳也子は少女の為に、自分に出来る事がある事を嬉しくさえ思っていた。それは恐らく、少女が自分と同じように、もしくは自分以上に冷酷な運命に殉じたからだろう。それ以外にその不可思議な意志の変調を説明する事が出来なかった。
 少女の語ったいくつかの事は全くもって馬鹿げていた。それをインターネットは教えてくれた。恐らくは夢魔も霊縛も少女が名付けた何かなのだ。佳也子は検索エンジンが表示するほとほと馬鹿げた創作物やら誰の物とも知れない妄想の産物をただ読み流してその事に気付いた。だが、少女の語ったいくつかは事実だった。
 十年以上前、とある資産家夫婦の子供が誘拐された。名前は載っていなかったが、当時はそれなりにニュースになったらしい。もう誰も覚えていない、恐らくはその当時に事件に関わった捜査機関や報道機関、それから誘拐された子供の親族以外は誰も覚えていない事件。
 犯人からの連絡はなく、日に一度だけ誘拐された子供から電話が掛かって来たらしい。自分がその日いちにち、どのような悲惨な目に遭ったのかを伝えて、助けを求めて、そして唐突に途絶える。そんな電話が。
 佳也子の胸の内側が音を立てて軋んだ。苦しい。恐ろしい。そう感じた。まるで地獄の番犬が慟哭するような感覚。真っ黒い感情の内側から煉獄の唸りを上げるような感覚。
 
「わたしたちは、負の感情を取り込み、強く大きくなる」

 少女の言葉が頭の中で反響した。私達――少女と、それから私?
 そう思った刹那、佳也子は背中に冷たい戦慄が走るのを覚えた。全身が総毛立って、妙に嫌な汗が背筋を伝う。
 少女は確かに言った。佳也子にとっても大切なことだと。それは件の能力を使う為に必要になるという事だろうか? それとも――。

「佳也子? おはよう」

 母の声が聞こえて佳也子の意識は現実へと舞い戻った。夢魔と名乗った少女との逢瀬から還る様な感覚とは違う。今まで佳也子が必死になって守ってきた、何故そう感じるのかはわからないが『守ってきた』家族との有るべき自分へと意識が舞い戻る。

「お母さんおはよう」

 珍しく髪も梳かさず、ろくに電気も点けずにパソコンのモニターへ張り付いていた佳也子を怪訝な目で眺めていた母に、少しだけバツが悪そうに僅かに舌を出して応える。そうやって欺く事で守ってきた自分自身へと舞い戻る。言い表せない心理。
 佳也子は母の視線から逃れる様に立ち上がってカーテンを開け、窓の外を眺める。土曜の早朝は静寂だけを湛えていて、それは何処となく今の佳也子にとって必要な、安堵出来る物だった。
 背後で母がキッチンへ向かう足音がする。目の前には誰もいない住宅街が広がる。そして佳也子の心の奥底には悲しみと憎悪が息を潜める。どれもがまるで黄金比の様に絶妙に佳也子の世界を埋めた。
 少女との逢瀬とも、家族との時間でも、学校や友人との時間でもない、佳也子の為だけの世界。全てが静止した乳白色の世界。

「ムマちゃん、居るんでしょ?」

 窓の外を眺めたまま、佳也子は呼びかける。自分が今、自分の意志で件の能力を発現させ、そして夢魔と名乗った魔性の存在を捕えた事を佳也子は意識の奥底から理解していた。感覚としてそれが感じられた。時を止める感覚。世界を切り離す感覚。そして言い表せない何かの存在をそこに捕える感覚。逃がさない。佳也子はそう思った。そう感じた。憎悪すら込めて。

「佳也子、やっぱりわたしがあなたを選んだのは正解だったみたいね」

 背後から感心した様な少女の声がする。
 ――そして少女の気配が変わった。普段の虚無感を湛えた気配から、禍々しい憎悪を伴った、心の奥底を握りつぶしに来るような圧倒的な存在感へと。

「でもね佳也子、言ったはずよ。憎悪を飼い慣らすのだと。あなたは今、自分の内に潜む負の感情を捕えて霊縛として解き放った。それによってあなたは遂に自分の意志で私と邂逅した。でも、その先は? わたしを捕えて、わたしをどうするのかしら? もしも捕えたのがわたしで無く、別の何かだったら?」

 少女の声と共に背後で殺気が膨れ上がる。佳也子は振り向くよりも早く脇へ退いた。
 一瞬前まで佳也子が立っていた窓辺が大きく爆ぜ割れた。何の事は無い。本来のおぞましい姿を晒した少女が、巨大な何かで壁ごと窓を粉砕したのだ。
 それは少女を囲う禍々しい闇から溢れ出したモノだった。根元は少女を絡め取る臙脂色の布に覆われているが、そこから伸びるのは僅かに見透かせる程度の黒い闇を纏った骨格だ。佳也子の身の丈ほどもある巨大な腕の骨格が、闇を纏い、握り拳を作って壁を打ち破ったのだ。
 佳也子は戦慄し、大きな過ちを悟った。そうだ。この少女は妖かしだ。人外の魔物だ。自分を殺めた者への復讐者だ。人ひとり、それも佳也子の様な少女を取り殺す事など造作もないはずだ。

「わたしは夢魔よ。夢を見せ、夢に入り込み……それで終ると思う? 言ったわよね。わたしの体に刻まれたのは呪いなのよ。あなたはもしかしたら呪いと言う物を甘く見ているかもしれないけれど、ホンモノの呪いはヒトを殺めるだけに留まらないの。時に自然の摂理を捻じ曲げ、未来を汚し、過去さえ砂上の社の様に崩してしまう。そんな呪いをわたしは刻まれたの。呪いを刻まれた身体を抱いて、すぐに死ぬ事が出来なかった自分を、この世に生を受けた事を――私を殺した男だけじゃない。この世の全てを呪いながら死んだの。そんな存在を捕えてしまったら、佳也子、あなた程度ではどうする事も出来ないのよ」

 少女は普段通りの凛と澄んだ声で言う。虚空に埋められた眼窩の代わりに、臙脂の布に浮かんだ血走った眼でじっと佳也子を見つめながら。
 佳也子はただ震えた。佳也子の意志ではない。ただ身体が、本能が、恐怖に怯えていた。膝が震えて今にも失禁しそうだった。

「怖い? 佳也子、わたしが怖い?」

 少女はゆっくりと佳也子の目の前までやってきて、少しだけ背伸びをして佳也子を見上げた。魔性の存在に相応しい、こちらの恐怖を嘲る様な声で問いかける。
 少女の、指先を欠損して血が固まった手が佳也子の頬を撫ぜる。
 佳也子の目は恐怖から無意識に涙を流し、少女の手を濡らした。
 だが、少女はそれ以上は何もせず、徐々に普段の愛らしい姿に戻っていった。闇は霧散し、少女の身体に巻きついた臙脂色の布は眼を閉じて段々と普段の可愛らしいワンピースへと形を変えていく。壁を打ち破った骨格は少しずつ消失し、やがて見慣れた少女だけが残った。
 佳也子は半壊した壁に背を預けたまま尻もちをついてへたり込んだ。まだ膝は震えているし、涙が止まらなかった。
 そんな佳也子に、今度は前かがみになって少女が額を寄せた。二人の唇が危うく触れ合いそうなほど近寄って、少女は笑みを結ぶ。

「良い子よ佳也子。あなたは今、わたし達の様な存在の恐怖を知った。あなたは人外のソレと同じような特別な力を手に入れたけれども、それが万能では無くて、時に危険すら伴う力だという事を身を持って知った。わたしがこんな事を言うのもどうかとは思うのだけれど、佳也子、あなたはこちら側に来るべきではないのよ。あなたにはまだ生の世界がちゃんとあるのだから」

 そう言うと少女は佳也子から視線を外して、打ち破った壁の正面へと足を進めた。

「切り離し方を間違えたわね。壁はこちらに取り込むべきではなかったわ。今回だけは特別サービスよ」

 少女がそう言うと、壁は見慣れた亘理家の内装へと戻っていた。破壊の痕跡は微塵も認められない。
 佳也子の驚きの表情と、少女の視線がぶつかった。

「わたしは夢魔よ。物にだって夢を見せられる。夢はそれと気づかなければ夢ではないの。この壁が見ていたのは悪い夢だった。そんなところよ。わかるでしょう? わたしは今すぐにでもあなたの過去を夢に出来る。佳也子、あなたの過去に夢を見せる事が出来る。過去の夢を消す事が出来る? あなたは十年前、今はもういない旧友と無事に家に帰った夢を見るの。乗用車はあなたを撥ねなかった。あなたは怪我をしなかった。だからはあなたは一度だって発作を起こさなかった」

 そう言って、少女は「ふふふ」と珍しく声を出して笑った。

「可笑しいでしょう? 自分に夢を見せる事は出来ないの。わたしが死んだ過去は夢を見ない。わたしが見る夢は攫われてから死ぬまでの間の事だけ。体中を切り刻まれて、目を抉られて、犯し殺される、そんな夢だけ。でも良いの。わたしは必ずあの男に永遠の悪夢を見せる。それでわたしはきっと消える事が出来る」

 少女は自嘲気味に続けて、佳也子へ手を伸ばした。佳也子はその手を取って、やっとの事で立ち上がる。
 何も言葉が出なかった。何も言うべきではなかった。ただ、自分の浅慮が自らを危険にさらすという事は骨身に沁みて理解できた。夢魔と名乗った少女は、生きていたら良い指導者になっただろうと場違いな事を考えながら。

「さあ、佳也子。この切り離した世界を元に戻せる? 壁と同じようにあなたに夢を見せれば自力で抜け出す事も出来るのだけれど、本来夢を見ない物に夢を見せるのはとても大変なの。だから出来るならあなたの力で私を逃して頂戴」

 少女の言葉に無言で頷いて、佳也子は眼を閉じた。世界を切り離した時の感覚を思い出す。
 ジリ、と焼けるような音が脳内に響いて、世界は元に戻った。もっとも、感覚的な話だ。少女の気配も消失した。

「佳也子、お父さんを起こして頂戴」

 唐突に母の声が鼓膜を叩いて、世界に音が戻った。バターの香りが鼻孔を刺激する。
 佳也子は夢魔と名乗った少女の言葉を何度も反芻しながら、再び自分が本来あるべき亘理佳也子としての生活へと戻った。

* * * * 

Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.9 )
日時: 2022/07/02 22:47
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)


* * * * 

 暫くの間、佳也子は延々と調べ物をして過ごした。過去の新聞記事を漁りに国会図書館へ行ってみたり、インターネットに潜ってみたり。
 夢魔と名乗った少女が殺されたと思しき事件はその異様な経過と、迷宮入りと化していた事でインターネットの世界では大いに話題となっていた。事件から十数年が経とうというのに、未だに新たな考察と言う名の妄想が生み出される程だった。
 そのどれもこれもが誰とも知らぬ小人の憶測と妄想が入り混じったオカルト的な記事に仕上がっているが、皮肉なことに、現実にはよりオカルト的な結末となっているのだが。
 調べ物以外にも、数日の間に分かった事がいくつかあった。
 まず、夢魔と名乗った少女は自由に何処へでも行ける訳ではない事。生きている佳也子の感覚からすると、実体の無い存在である少女の方が人探しには向いている気がしていたが、実際には実体が無い故に生者の世界では恐ろしく身動きが取りにくいらしい。地縛霊等の土着霊が多い事や、ヒトに憑くのはそう言う為らしい。少女は夢の狭間を行き来する事である程度彷徨う事は出来るらしいが、それでも目的地に正確に移動するのは殆ど不可能との事だった。

「あなたの様に強い気を持った人間なら遠くに居ても探し出してそこを目指して飛ぶ事は出来るけれど」

 少女はそんな事を付け加えていた。彼女は移動する事を『飛ぶ』と表現したが、感覚的には夢を見るのに近いらしかった。目指す場所を脳裏に留めながら夢に落ちるような、もしくは夢から覚めるような感覚。唐突にその気の周辺に移動するらしい。
 そうして強い気を持った人間の周りに飛んで、その人物の夢に憑く事で方々を彷徨ったことを――少女はあまり話したがらなかったが佳也子が食い下がったので――溜息と共に教えてくれた。
 もう一つ知った事は、少女との逢瀬を重ねる毎に、佳也子にはあちらの存在が感じられるようになった。
 出会った頃に少女が言った様に、確かに佳也子は徐々に少女の言う『この世生らざる者ども』を感じる様になった。気配を感じる事も、視認出来る事もある。大概は黒くてモヤモヤとしていて、どことも知れぬ虚空の様な闇から視線を感じる。形もわからないのに夜闇の中ですらそれらの黒い虚空を視認できる。
 しかし、夢魔と名乗った少女は佳也子があちらの世界を認識できるようになっている事を知ると顔をしかめた。どうやら少女の負の力が強すぎるせいで佳也子にまで影響を与えているらしかった。

「佳也子、いいこと? わたし達の持っている負の力は伝播するの。お祓いとか、あるわよね。何故わたし達の様な存在が憑くと不幸になるか。わたし達が負の存在で、負の力を呼び寄せて大きくなるからよ。あなたがこちら側を認識できる様になったという事はあなたは段々と負の力を溜め込んでいるという事。わたしが言うのは身勝手だけれども、あまりこちらへ来ては駄目よ。その負の力はあなたの周りにも作用する。こちら側の存在を引き寄せ、危険に晒す。視えてしまっても、感じてしまっても、意識を向けては駄目。わたし達は向けられた意識を敏感に感じ取ってそちらへ向かってしまうから。それ以外にわたし達、特に下等な者どもには出来る事が無いから。わたしの様に強力な負の力を持っていない存在は、そうして向けられた意識に寄っていく事しかできないから」

 そう忠告した後に、夢魔と名乗った少女はくすりと笑ってそっと佳也子の首筋にその蠱惑的な唇を寄せた。彼女達特有のひっそりとした冷気と共に湿った吐息が佳也子を撫ぜた。

「日中は生者の時間よ。その間はなるべく正の感情、空気を沢山取り込みなさい。負のエネルギーを中和する訳ではないけれども、負のエネルギーと正のエネルギーが均衡を保っている限り、あなた自身がそれらの力に取り殺される事はないわ」

 少女の助言に従い、佳也子は日中の殆どを出来うる限り瑞穂と過ごした。底抜けに明るくて表裏の無い瑞穂はまさに正のエネルギーを放っていた。
 佳也子にとって予想外だったのは瑞穂の放つ正のエネルギーが、負のエネルギーを溜め込んだ佳也子にとって何ら作用しないことだった。足し算引き算の要領ではないらしい。もっとも、佳也子自身は自身に蓄積するどちらのエネルギーもあまり認識出来てはいないのだが。
 そんな理由もあり、例によって瑞穂との帰宅中に事は起こった。

「ねぇ、佳也? なんか変な感じしない?」

 今日の晩ご飯は何だろうと考えていた佳也子の鼓膜が何時に無く怯えを含んだ瑞穂の声を拾った。
 やや広いバス通りで、毎日通る通常の通学路だ。朝はバスに乗るが瑞穂の自宅がバス停からやや外れている為、帰りはだいたい徒歩で帰る。そんな歩き慣れた道だ。
 佳也子は隣に並んで歩く瑞穂に視線を向ける。瑞穂は肩を抱くようにして小刻みに震えていた。

「あそこ。なんか凄く嫌な感じがする。やだなぁ……わたし全然霊感とか無いのになんか、こう言う感じなのかなぁって」

 怯えた声のまま、瑞穂はやや先に見える建物を指さした。
 その瞬間、佳也子の心臓が大きく鼓動を打った。

「あそこ、知ってる」

 佳也子は自分の口が無意識に声を発したのを知った。それは自分以外の誰かの意識の様に佳也子の事を押しのけて口から飛び出した様な言葉だった。そして、その無意識はまたしても佳也子の意志を無視して世界を切り離した。

「ムマちゃん、居る?」

 生者の世界に取り残されたまま、つまりは微動だにしない抜け殻の様な瑞穂に視線を当てたまま、佳也子は虚空へ問いかけた。夢魔と名乗った少女を捕えた感覚はあったが、その問いかけは佳也子にとって義務の様なものだった。

「佳也子、その子の嫌な感覚の正体はわたしよ」

 夢魔と名乗った少女の薄氷の様な声が佳也子の脳内で響く。

「わたしとあなたにとってとても大事な物が此処に有る。いいえ、大切なピースとなる人物が居る、と言った方が正しいでしょうね」

 夢魔と名乗った少女の声に導かれる様に、佳也子は問題の建物――恐らくは少女が潜んでいる――へと向かった。
 そこは警察署だった。なんて事は無い。どこの地域にでもある警察署だ。

「佳也子、思い出せるかしら? あなたは此処を訪れた事がある。わたしは無いわ。でもあなたはある」

 警察署の入り口に、いつもの愛らしい姿の少女が居た。自動ドアの前佇み、その生命を感じさせないのっぺりとしたコンクリートの建築物を見上げている。絹糸の様な黒髪に覆われた小ぶりな頭頂が佳也子の視線を誘った。
 そして、また無意識の声が佳也子の意識を押しのけて込み上げる感覚がわかった。

「わたし、知ってる」

 その声に釣られるように少女は佳也子へ視線を向け、そしてその大きな瞳を見開いた。
 それから、佳也子が覚えている事は何もない。ただ、夢魔と名乗った少女があのおぞましい本来の姿に変貌して、それから少女の血で汚れた臙脂色の布の様な何かが佳也子の視界を埋めた事だけは理解できた。

「佳也子、いけない!」

 切迫した少女の声も、佳也子の意識にその足跡を残す事は無かった。


* * * *


 少女は困惑していた。
 分かってはいる。あの霊縛と名付けた能力。あれはあの佳也子という少女が生来持っていた力ではない。それはその力の波長が佳也子自身の生命の波長とずれているから間違いない。後天的に何かの理由で得た力だという事。そしてその契機となったのはあの少女が遭遇した自動車事故で間違いないだろう。だが、それが全てだろうか?
 少女は夢魔となった。理由など知らない。ただ全身に呪いを受けて死んだら夢となって他者の夢へと入り込み、夢を自在に見せ、描き変え、欲しいままに操れた。それだけだ。
 夢魔は夢へと入り込める。佳也子と言う少女の夢は大概はただ闇ばかりが広がる空虚なものだった。もしくは幼い少年少女たちの中で笑う佳也子自身。
 霊縛で初めて捕えられた日から、少女は何度か佳也子に過去の夢を見せた。下校途中に乗用車に撥ねられる夢だ。それが、佳也子自身の過去だ。その夢はどうしてか必ず乗用車に撥ねられたところで途切れて闇ばかりの世界になる。
 佳也子は愛された少女だった。友達から、家族から。だが、佳也子の夢にそれら愛し、愛される者が出て来る事は無かった。少女にとってそれは不思議な体験だった。
 夢魔と言う存在になってから既に生者の世界で言う所の十数年が経っている。十年も他人の夢に潜り続ければ、ヒトの夢には傾向があることぐらいは理解が出来る。
 ヒトでも犬でも鳥でも、兎に角夢を見る存在と言うのは恐怖と愛の両方を夢に見る物だった。正の力を溜め込めば正の夢を見て、負の力を溜め込めば負の夢を見る。だから少女は永い事同じ人間には憑かない。
 それなのに、佳也子の夢はいつでも過去の美しい思い出ばかりだった。それでいて、今の幸福は夢に出て来ない。
 仕方が無いので少女は佳也子には黙って佳也子の家族の夢へと潜る事にした。そして、佳也子の過去をもう少し知る事が出来た。それから佳也子と自分自身を結びつけた運命の強い繋がりも知った。
 その運命の繋がりから自身の目的への道しるべを得るべく、少女は佳也子を誘ったのだ。あの警察署へ。

「わたし、知ってる」

 その声は確かに佳也子の物だった。だが、その声と共に流れ出した波長は?
 既に死者の世界で永い事漂っていた少女をすら恐怖に引き攣らせたあの恐ろしい気配は?
 その凄まじい気を発してこちらを見据える佳也子の姿を見た時、少女は理解した。運命の繋がりなどではない。自分が探り当てて、引き出してしまった真に恐ろしい真実を。
 少女は直感的に行動した。それが最善とは思えなかったが、下手をすればこちらが危険だった。それだけは確かだ。
 そして今、佳也子は彼女の見せた夢によって警察署の一件を忘れ――正確には佳也子とその友人にとってあの警察署との関わり合いは夢として終わった――普段通りの一日の終わりを迎えた。
 今日は少し力を使いすぎた。夢魔と、この世ならざる異形の存在となって初めて感じる途方もない疲労感を両肩に抱いて、少女は佳也子の寝顔を眺める。
 この佳也子という少女は、果たして何者なのか。そんな疑問を感じる。
 しっとりと濡れた様な長い睫毛、苦悩する様に僅かに寄せられた眉根、喘ぐように微かに開いた唇、閉じた瞼の裏には固い決意を誇る様な黒瞳が隠れているのを知っている。そして万物を捕えて引きこんでしまうような長い黒髪。白く透く肌と、細い手足。それから消えない傷跡。

「ねぇ佳也子、あなたとわたし、本当に偶然に出会ったのかしら? あなたはわたしを探して居たんじゃないの?」

 声に出してみるが、今の少女は夢魔としてこの世ならざる場所で漂うばかり。その声が生者の世界に届く事は無い。

「ねぇ佳也子、あなた本当は探しているんじゃないの? その為にわたしを見つけたんじゃない?」

 桜色の唇から零れる自問の様な言葉。誰が聞く事も無い囁き。せせらぎの様な声。それでいて冥府に嘯くような深い深い言葉。
 ふう、と小さく吐息をついて、少女は形を成していない身体に残った僅かな力を集中させる。もしかすると暫くこちらから現に干渉出来なくなるかも知れないが、今日の様な事を何度も繰り返せば最悪の場合佳也子を壊す事になる。
 少女は集中力を保ったまま、自分が知り得た佳也子との繋がりを今一度確かめる。

「ごめんなさいね、佳也子。今日は少し悪い夢を視て頂戴」

 自分の唇が妖魔の笑みを浮かべている事を意識して、少女は既に形の見えない肩を落とす。そう、誰もそんな事は望んでいないのだ。呪いを受けて殺される事も、死して尚安住の地へ旅立てない事も、罪の無い少女に悪夢を見せる事も。

* * * *

Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.10 )
日時: 2022/08/18 23:03
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)


* * * *

 自分がうなされている声で目覚めるのは最悪だ。佳也子はそんな事を思いながら重たい瞼を開けた。
 事故の事を夢に見たのは何時ぶりだろうか? 佳也子は少しだけ思い出そうと努力して、すぐにそれが徒労に終わる事を理解した。そんな物を見たのは昨夜が初めてだったから。
 それは自分が自然に見た物なのか、それとも夢を操る妖魔が見せた物なのか、佳也子には判断が付かなかった。
 こちらから夢魔と名乗った少女とコンタクトを取るには霊縛と呼ばれた力によって世界を切り離す必要がある。あちらを認識できるようになったとは言え、意志の疎通を行うほど明確に両者を結び付けるにはこちら側からは難しい。それはここ最近で佳也子が学んだことの一つだった。
 どうしても寝起きから自分の身に潜む能力を発現する気にはなれなかったので、佳也子はベッドを抜け出しながら自分を一晩苦しめた夢を思い返した。
 事故の瞬間の夢ではない。事故の後、自分は何処かで見た様なリビングルームに佇んでいて、二人の男と一人の女が何やら向かい合って座るテーブルを眺めていた。男女は夫婦の様で、もう一人の男と向き合うように座っていた。どれもが悲痛な面持ちだったのは思い出せる。
 ズキリと頭の片隅が痛んだ。目の裏側に熱した針でも刺されたような鋭い痛み。夫婦と思われる男女に向き合った男に見覚えがある気がした。だが、それを思い出そうとすると鋭い痛みが思考を奪い去った。
 
「佳也子、お父さんを起こして頂戴」

 母の声が聞こえて、佳也子はいつもの亘理佳也子に戻る。もう慣れてしまった毎朝のひと時。
 両親の寝室の戸を開けるともう一度、今度は胸の辺りが痛んだ。それから、昨夜の夢が脳裏を奔り抜ける。
 
「お父さん、刑事さんの名刺を持ってない?」

 言葉を発して、佳也子はその声がまた自分の意識を押しのけて出てきた声だと気付いた。佳也子は間違いなく、いつも通り「朝だよ」と言おうとした。それがいつもの、本来の亘理佳也子なのだから。
 朝は滅法弱い父が跳び起きる姿を眺めながら、佳也子は自分の口が吐き出した「刑事」と言う言葉について考えた。別に佳也子本人が考えたかった訳ではない。ただ、その言葉の意味に無意識に思考がいっただけだ。
 親戚に刑事は居ない。佳也子も両親も刑事の世話になった事など無い。
 だが何か、何かが引っ掛かった。最近そのような、刑事だとか警察だとかそう言った公安機関についての何事かが自身に起きた様な、そんな気がした。

「佳也子、なんだって?」

 いつもの様に眠気眼を擦るでもなく、父はゆっくりと問いかけた。その眼は真直ぐに佳也子の目を見つめていた。
 佳也子は感じた。恐怖を。
 佳也子自身が感じた恐怖ではない。父が感じている恐怖だ。あちら側の力に蝕まれ始めているのか、佳也子には他人である父親が感じているのであろう恐怖が肌に触れる様にわかった。
 だから佳也子は笑った。無理矢理にいつも通りの笑顔を作る。

「お父さん、朝だよ」

 佳也子は今度こそいつも通りの朝を演じた。完璧に。
 父はゆっくりとベッドを抜けだして、それを見届けて佳也子は母と母の朝食が待つリビングへと向かう。完璧だ。そして父を見送り、自分も亘理家の門をくぐる。そう、これで良いのだ。胸と頭の片隅の痛みと無意識に出た言葉さえ無ければ、完璧な朝だった。
 佳也子は学校への道を黙々と歩みながら自分の口から飛び出した言葉を脳内で反芻した。
 刑事の名刺とは何だろうか。そのような物を自分が欲しがっているとは到底思えない。例え佳也子自身が望んでいない無意識の何かが欲していたとして、果たしてそれを得て何だと言うのか。佳也子自身にとって刑事の名刺など紙切れに他ならない。では夢魔と名乗った少女だろうか。それも甚だ疑問だ。少女が望みさえすれば、父の夢でも何でも入り込んで名刺の在り処などすぐに探し出す。父の夢として視れば良いだけなのだから現物を用意する必要すらない。
 目の奥がズキリと痛んだ。猛烈な痛みだ。灼熱は目の奥から脳髄を焦がし、そして佳也子の胸へと下って臍まで続く傷跡を撫でた。

「佳也子、やめなさい!」

 痛みに明滅する脳内に夢魔と名乗った少女の声が響き渡る。何時に無く焦りを含んだ声だ。だが、それは小さく遠い。
 佳也子の周囲が乳白色の世界に包まれた。時間は止まり、世界が宇宙の真理から切り離される。
 切り離された世界には少女が居た。それから名も知れぬいくつかの異形が。それらは黒く塗りつぶされた人形の様に、闇ばかりが主人無き影の様に渦巻いている。少女の言った、低級なモノどもだろう。あちらを意識出来る様になった佳也子に付いてきてしまったモノどもだろう。
 この世生らざるモノどもがざわめいた。音がするでもそれらが動いた訳でも無い。ただ、それらは確かにざわめいた。恐怖に。この場合、既に死んだモノどもが恐怖を感じる事に驚くべきか、死者すら震わす恐ろしき波長を畏れるべきか。
 切り離された世界の真ん中で、佳也子は自分が今までに無いほど清々しい気分で佇んでいる事を知った。偽りの亘理佳也子の皮を、殻を、封を解き放った真の自分自身がそこに居るような心地よさ。
 対して囚われの夢魔は自分が今まで犯してきたいくつかの間違いの中で、今回の間違いは最悪の失態だったことを深く思い知った。眠れる獅子の尾を踏んだ程度ならもう一度寝かせるだけだが、眠れる鬼神の眠りを覚まし、あまつさえ寝床を燃やして飢えた目の前に自身の姿を晒す様な真似をしてしまうとは。昨夜佳也子に見せた夢は、自分自身を窮地に追い込んだ。少女の欲した真実とは別の形で少女の前に現れてしまったのだ。
 このままではまずい。少女は戦慄する自分を必死になだめながら心の中で呟いた。恐れや迷いは容易く力を減退させる。目の前の鬼神に弱みを見せる訳にはいかない。
 ――鬼神、まさしく目の前に佇む佳也子は鬼神の如き負の感情の権化だった。迸る凄絶な気の凄まじさよ。
 普段通りのややおっとりとした表情の中に爛と輝く血涙を湛えた様な深紅の瞳、やや口角の上がった微笑む様な唇も同じ様に、ただしこちらは今しがた血肉を喰らった様な禍々しい紅を栄えさせている。
 その姿を見ただけで、少女は既に死して久しい自分の体が硬直し、全身が総毛立ち、膝が震えて汗が噴き出るのを感じた。そうして知る。佳也子が発作的にこの霊縛と名付けた能力の片鱗を垣間見せていたのは、この恐ろしき存在が佳也子の存在を打ち破って、こちら側へ出てこようとしていたのだと。
 少女は一瞬だけ、佳也子への報酬を先払いしてしまおうかと考えた。この鬼神は確実に佳也子の負った過去の傷と結びついている。ならば佳也子の過去を夢と化してしまえば自ずとこの存在も消え去るはずだ。
 だがそれが全く愚かな考えだと少女はすぐに気付いた。生者たる佳也子に夢を見せるのと、明らかにこちら側に属する、それも相当に力の強いこの鬼神に夢を見せるのでは訳が違う。マッチ箱を動かすのと何もない所から金塊を生み出す事程度に違う。少女の夢見の能力がこの鬼神に通用するとはとても思えなかった。
 格が違う。少女は漠然と感じた。
 こちら側にもある程度階級的なものがある。少女の様な意志ある魔性と、佳也子が今捕えている様な意志なき異形では棲む階層が違うし、当然霊的な階級も異なる。目の前の鬼神は霊的階層としては同じ層に居るはずだが、それでもその身に宿した波長は少女のそれを遥かに凌駕する圧倒的な力を宿している。
 怒り。鬼神が放つ波長は純粋な怒りの感情だった。少女の力は憎しみの感情から生み出されている。そう、意志には常に感情が伴うのだ。少女が自身をこんな存在にした相手に対する憎しみを力に還元するように、この鬼神は燃え盛る憤怒を糧に世界を切り離している。
 違う。少女は感じた。この力は何か特別な能力じゃない。それはまるで強すぎる重力の様に周囲を歪ませてしまっているんだ。少女はそう気付いた。そう思えば何となく納得がいく。
 佳也子が能力を発現させていたのはいつも自分の身体に醜い消えない傷を付けた過去を垣間見せられた時だった。つまり、子供の集団と、白い乗用車。佳也子が遭遇した理不尽な存在、それらに対して湧きあがる無意識の怒りが、この鬼神を僅かに外へと出現させ、そしてこの鬼神の纏う圧倒的な怒りが周囲を歪ませていたのだ。
 ふと、もう一度異形のモノどもがざわめいた。それは戸惑いだった。目の前の鬼神に戸惑っているのだった。生者たる佳也子に引き寄せられたはずなのに、目の前に居るのは異形のモノどもを遥かに凌駕した恐るべき存在なのだからそれも仕方が無い。
 異形のモノどもが一歩近づいた。刹那、鬼神の腕が振られた。
 その瞬間に起きた事を正確に表すならば、異形のモノどもが取り囲んだ輪を一歩の距離だけ小さくした。その位置は到底、鬼神も異形のモノどもも触れあうには及ばぬ距離だ。腕を伸ばしても届かない。それなのに、異形のモノどもはこの世の物とは思えぬ、こちら側の世界でも聞いた事の無い様な絶叫を上げて霧散した。見向きもせずに振われた腕の一振りによって。触れもせぬ、ただ意志の力だけによって。
 目の前の鬼神が腕を振った以外に何をしたのか、少女には分からなかった。ただ、この世界に残ったのが自分と、目の前の鬼神だけだという事はわかっていた。
 そして、僅かにこの危機を脱する希望を得た。鬼神の表情が明らかに驚きと、戸惑いを宿していたからだ。事実、鬼神たる佳也子は驚きと混乱を感じていた。身体が勝手に動いて、何とも知れぬモノどもを蹴散らしてしまったのだから。
 そこで初めて佳也子は夢魔と名乗った少女に気付いた。

「ムマちゃん、これ、何?」

 声に出した途端、もう一度目の奥が痛んだ。何か分からない。ただ無性に、胸のあたりがムカついている。やり場の無い怒りが自分の中に渦巻いている。

「佳也子、いいこと? 深呼吸をして頂戴。ゆっくり、落ち着くの。わたしが今のあなたに夢を見せる事は恐らく無理よ。陽が高すぎるし、わたしはここ何日か随分力を使ってしまって弱っているの。わかるわね? 落ち着いて、自分の力でこの切り離してしまった世界を元に戻すの。出来るわね?」

 少女の声がゆっくりと、慎重に響いた。
 対して佳也子は、その鬼神の如き怒れる深紅の瞳に少女を映してゆっくりと頷いた。徐々に深紅の瞳は色を失い、その冬の湖を映した様な澄んだ黒瞳へと戻っていった。それと同時に、世界を覆った乳白色の霧は晴れ、後には呆然と立ち尽くす佳也子だけが取り残された。


* * * *


 学校へ辿りついた佳也子は、いつも通りに瑞穂と揃って授業を受け、昼食の弁当を突き、他愛の無い会話を交わして半日を過ごした。有難い事に中間テストから解放されたからか、近頃の瑞穂はいつのも増して正の波長を放っていて、佳也子は十二分にその波長を吸収する事が出来た。
 今朝の一件は勿論胸の奥底で蟠っているが、それをおくびにも出さない精神力が佳也子にはあった。佳也子自身が何かをした所で、夢魔と名乗った少女なしで何か解決出来る思えなかった事もあるが、少なくとも表面上、佳也子は普段の亘理佳也子で有り続ける事が出来た。
 そんな午後のことである。

「佳也ー! 隣のクラスの万里がなんか話があるって!」

 午後の最後の授業を終え、さあ帰るか、瑞穂を待つかと悩んでいた佳也子の鼓膜を瑞穂の声が揺らした。

「バンリ? 蛇ノ目くん?」

 佳也子は何となくその万里なる人物の為人を思い出しながら問い返した。
 蛇ノ目万里、佳也子自身は別段親しくないが、特に悪い噂も聞かない。交友関係の広い瑞穂曰く悪い人ではないが本性を隠している感じのする何とも飄々とした人らしい。そして少なくとも、わざわざ名指しで呼び出される様な間柄の相手ではない。
 それでも教室の戸口で手招く瑞穂を放っておく訳にもいかず、佳也子は帰り支度をしていた鞄を一端机の上に放置して席を立った。
 そんな佳也子を待っていたのは、大して面識もない佳也子の目からしても掴みどころの無い少年だった。外見から言っても長くは無いが短くもない黒髪、特徴の無い顔、衣類も共通の学生服なせいで余計に特徴が無い。ただ、その眼だけは何故か異様に気を引く。理由は分からない。その眼を覗くと、夢魔と名乗った少女と視線が交錯した時の様な、儀式めいた何かを感じる。それなのに、その少年の顔には本当に取って付けたような他人ごとみたいな作り笑いが張り付いている。まるでその儀式めいた眼を隠すかの様に。

「ちゃんと話すのは初めてかな。僕は蛇ノ目万里、万里の長城の万里。亘理佳也子さん、だよね?」

 万里はこれまたどこかから無理矢理借りて来た様な何ともいい加減な声――恐らく本人はそんなつもりはないのだろうが――で自己紹介をした。
 そして、こちらの名を確認しながら、何やら紙切れを渡して来る。ノートを適当に千切った様な、無造作に二つ折りにされた紙だ。

「僕自身は特に用は無いんだけどね。多分、これが必要なんじゃないかなって」

 相変わらずいい加減な声でそう言って、差し出した紙切れへ視線を移す。

「は? アンタが佳也の事呼べって言ったのに、用がないってどーゆー事よ」

 脇から瑞穂が割り込みながら万里の肩を小突く。これが瑞穂流の交友関係の広げ方なのを佳也子はよく知っている。つまり、正直に他人と触れあう事だ。
 対して、小突かれた万里の方は特段気にした風でもなく肩を落とす。

「いやぁ、話すと長くなるって言うか、別に長くはならないけど変な奴だと思われるかもしれないんだけど……」

 そこまで言った時点で瑞穂が「元から変な奴でしょ」と遮る。そう、正直なのだ。ただひたすらに正直だから、佳也子は瑞穂の事が好きだった。
 そんな正直な邪魔を入れられて、万里は更に肩を竦めて見せる。瑞穂とは真逆の、如何にも作り物みたいな動作だ。

「じゃあ言うけど、夢なんだよ。さっき気持ちよく昼寝してたらさ、夢を見たわけ。それで、起きたら亘理さんに伝えなきゃって思ったんだよ。何でかなんて野暮な事聞かないでくれよ? 僕だって何でこんな事を伝えるのか、これが何なのかよく知らないんだから」

 そこまで一息に言うと、万里は未だに状況を上手く把握しきれずに面食らっている佳也子の手を取って、無理矢理にその粗雑な紙切れを握らせた。その瞬間、佳也子と見つめ合う万里の瞳、その瞳孔がキュっと絞られた様な気がした。
 そしてそのまま、佳也子の反応も待たずに踵を返す。

「あいつ、やっぱ変な奴だなぁ……。何かごめんね、変な事に巻き込んで」

 万里の背中を見送りつつ瑞穂が言う。確かに変な人だと佳也子も思った。ただ、それ以上に、蛇ノ目万里の言葉に心が引かれた。彼に夢を見せたのは誰だろうか。
 佳也子は僅かな疑問を胸の奥に隠したまま、そっとその二つ折りの紙切れを開いた。

「ねぇ、それ、何が書いてあるか知らないけど、もしもラブレターなら後で教えてね! あんな手渡し方があるか! って文句言うから!」

 隣から聞こえる瑞穂の声に、佳也子は曖昧な笑顔で頷いた。
 紙切れには短く走り書きされているだけだった。
 誰とも知れぬ男の名と、市外局番から始まる電話番号、それから……。

 『過去』と。

* * * *


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