複雑・ファジー小説

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ミストゥギア
日時: 2022/06/26 22:53
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

この世界は『霧』に包まれている。

全てを惑わせ、全てを狂わせ、全てを覆い隠す。

これは『霧』を晴らす物語。





<目次>
EPISODE1『The world is dominated in mist(この世界は霧に支配されている)』
第一話 >>1
第二話 >>2
第三話 >>3
第四話 >>4
第五話 >>5
第六話 >>6
第七話 >>7
第八話 >>8

Re: ミストゥギア ( No.4 )
日時: 2022/06/17 00:33
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


「なんで『霧』が生まれたのかって?」

 机の上に立てられたランプの灯りが仄かに照らす、薄暗い部屋。安楽椅子に腰掛けた老人へ、燃えるような赤い髪の少年が好奇心をそのままぶつける。
 老人は暗色のローブを被っている。フードの下は暗く、その表情は伺えない。分かるのは長く蓄えられた灰色の長髭が垂れている事だけ。
 枯木のように痩せ細った手で、髭を撫でる。少年の問いにどう答えようか、それを思考していた。

 『霧』が生まれた理由なんて、誰にも分からない。理解出来ない。老人の父も、その父も、遥か昔の先祖も。誰も彼もが『霧』の正体を掴めていない。
 だからといって、それをそのまま伝えても少年は納得しないだろう。それどころか、好奇心のままに『霧』に近付いてしまうかもしれない。
 
「そうだなぁ……怒ったんだよ」
「怒った? 誰が?」

 少年が首を傾げる。老人はローブの下で優しく微笑み、ピンと立てた人差し指を天へ向ける。少年の碧眼が、その指の先を追って上へと動く。そこには、ランプの灯りの届かない暗い天井があるだけだ。少年は胡乱げな目線を老人へ向ける。もしかしてからかっているのか、と。

「神様が怒ったのさ」
「……なんでだよ。俺達、なんかしたのか?」

 その答えが納得いかないのか、ムスッとした表情でむくれる少年。その少年の様子を愛おしく見つめた老人が、手を伸ばし宥めるように、頭を撫でる。
 枝のように細い指の間を、癖のある赤髪がすり抜けていく。こそばゆい感触に少年が身動ぎするが、決して嫌がっているわけではなかった。むしろ、もっと撫でろと言わんばかりに頭頂部の耳を寄せて、頭を擦り付けてくる。

「分からないさ。でも……そうだね。きっと――私達が悪いんだろうね」
「………………」

 そう言って笑う老人。ローブの下で、口元しか見えなくとも。その雰囲気はどこか悲しげで。
 その光景は、少年の心に僅かなしこりを残した。


 
 ……なぁ、親父。

 

 
 もし『霧』が神様の怒りだったとして。誰かが『罪』を犯していたとして。

 

 
 ――――俺達が『罰』を受ける理由は、あったのか?
 




 ◆






 肺に空気が注ぎ込まれた感覚で目覚める。酸素が足りない。脳が情報を処理出来ず、視界は霞んだままだ。

「――――……」

 痛みを覚える程に肺胞へ酸素を往復させ、呼気と意識が整う頃には、額にじっとりとした汗をかいていた。
 生きている、とフレイが知覚する。ボヤケていた輪郭がハッキリとし始めた視界には、あまり綺麗とは言えないコンクリートの天井が見えた。
 周囲には、自らを囲むように広がったカーテンがあり。そして、背中や腕に触れる柔らかい感触で、自分でベッドに寝かされている事に気付く。
 視界が復帰し、嗅覚も復帰する。鼻孔をくすぐる薬剤の匂い。あまり得意ではないその匂いに、ようやくフレイは現状を薄ぼんやりながらに把握した。

「……病室、か?」

 そうだったとして、何故こんな所にいるのか。それを探ろうにも、体は重く、指先を一本動かすのさえ億劫だ。仕方なく視線を動かすぐらいしか出来なかったフレイは、視線を右へ大きく動かして。

 丸椅子に座って、窓から降り注ぐ寒々しくも和らげな光に照らされ、うつらうつらと舟を漕いで眠っている赤髪の少女をようやく認識した。
 記憶にある生まれたままの姿ではない。恐らく誰かに着せられたのだろう緑黄色のワンピースが、少女の一挙一動に合わせてゆらゆらと揺れている。
 
「レイッ!? い、てぇ……!」

 跳ね起きろ、と脳が各身体部位からの痛覚情報を無視して体に指令を送る。無理です、と体が拒否して抗議文代わりの激痛を脳へと送る。
 全身から跳ね返ってきた痛みに、体を捩って更に痛みを加速させる。ひどい悪循環だ。だが、その痛みは寝惚けていた記憶の蓋を蹴り開ける事に成功し――フレイは今までの出来事を鮮明に思い出す。

 積荷。『ブラッドドッグ』。カーチェイス。廃材漁りの子供。不運ハードラックダンスる。『銀色』。

「……よく助かったな、俺」

 よく見れば体中に包帯が巻かれている。治療を受けているのは間違いないが、結局ここが何処なのかはわからずじまいだ。と、その時。
 
「……ッ!」
 
 ――ドアを開閉する音が聞こえた。身動ぎした音で、フレイが目覚めた事に気付いたのか。人の気配が、カーテン越しにすぐ傍まで近付いていた。
 警戒心が高まる。同時に、まるで動かない体に焦りが生まれる。そんなフレイの心境をよそに、フレイと外界を隔てていたカーテンはあっさりと開かれ。

「や、目は覚めたみたいだね」
「…………」

 カーテンを開いたのは、長身の『ヴィーク』の男だった。ウェーブがかった茶の髪、温和そうな印象を与える垂れ目気味の黄眼。身に纏う白衣は医者のそのままイメージしたようなものだ。
 フレイが、男を見て目を見開く。その顔には、見覚えがあった。そしてその表情に気付いたのか、男も懐かしむように笑って。

 
「フフ、久しぶりだ――」
 
 
「……誰だっけ」
「――ね、って覚えてないのか!?」

 眉をひそめて呟いたフレイの言葉に、さっきとは逆に男が目を見開いて大きく仰け反る。相当にショックだったらしい。
 フレイは内心で弁明した。いや、見覚えはあるのだ。名前が思い出せないだけで。ついでにその見覚えがある、という記憶もちょっと自信がないだけで。
 
 ショックから復帰した男が、問い詰めるようにフレイへと顔を近づける。その目尻には少し涙が浮かんでいた。

「アイザックだよ、アイザック! 一緒に『エニグマ』にいただろう!?」
「……え、アイザック? お前そんな顔だったのか?」
「いやっ、ヘルメットも目の前で脱いだ事あったよ!?」

 『エニグマ』に所属する隊員は標準的な装備として機械的なヘルメットを装着している。それは視界を広げるだけでなく、神経系とリンクして反射や判断まで高速化するという、『ヴェルドミッテ』の技術の粋を集めたような装備だ。
 だが、『ウルヴァス』であるフレイは装着していなかった。しなくても大体同じぐらいの反射神経は発揮できるし、そもそも耳が邪魔で被れない。つまり、あのヘルメット自体『ヴィーク』専用装備みたいなもので。優男――アイザックも例に漏れず『ヴィーク』の特徴である歯車の紋様が右目に浮かんでいた。
 
 古い記憶を辿る。『エニグマ』に所属する『ヴィーク』の隊員が、ヘルメットを外す場面などそうそうない。非番時とか、相当な緊急事態でない限り――と、そこまで考えて思い出した。

「思い出した。車酔いでゲロ吐いてヘルメット脱いだアイザックか」
「それ以外にもあったろ!?」

 感情の発露が激しい。茶髪をかき混ぜるように頭を抱えたアイザックが、唸りながら蹲った。恐らく頭の中では、過去の黒歴史ゲロの光景がリフレインされている。
 大きい声は頭に響くので止めてほしい。
 
「…………ん」
「あ」
「ん」

 その大喝が丁度いい目覚ましになったのか。丸椅子に腰掛けていた少女が、薄っらと眼を開く。眠気は完全に覚めていないのだろう。今にも閉じられせそうな瞼を指で擦って、左右に視線を彷徨わせる。そして、その焦点がフレイに合った瞬間、ピタリ、と。まるで時間が止まったかのように身動ぎ一つしなくなった。

「…………」
「…………」

 少女が、丸椅子から降りる。宙を舞った羽が地面に落ちるように、ふわりと着地した少女は、その虚ろな目をフレイに向けたまま、一歩、二歩とベッドに歩み寄り。

「……見つけた」
「は? え、いやおい」

 何を思ったのか、ベッドに乗り上がり。もぞもぞと、子猫が太陽の光の下で丸まるように体を折りたたんで。

「……すぅ」

 またもや寝息を立て始めた。
 所在なさげに彷徨わせたフレイの左手が、柔らかい布団の上に落とされ、軽い音が立てられた。アイザックが「懐かれているねぇ」と微笑む。その妙に似合う慈愛の表情をやめろ、とフレイが睨みつければ、そっと目を逸らされた。

「その子、ずっと君の傍から離れないんだよ」

 アイザックがベッドの傍らに置かれたワゴンの上の医療器具を整列していく音が響く。穏やかな寝息を立てている少女を、フレイが見つめる。その表情は、綯い交ぜになった感情が、腑に落ちないまま喉元に引っかかっているような……一言でいえば微妙な表情だ。

 ――――見れば見るほど似ていた。六年前、『霧』に沈んだ故郷。駆け付けた時には、もう顔を見る事も叶わなくなった妹に。

 生きているはずがない。『霧』に飲み込まれた人々が無事に戻ってきた事は、少なくとも『霧』が世界を覆って以来、一度もないのだから。
 だから、この子はただの他人の空似でしか無い。種族だって違う。それでも――割り切れない自分が、どこかにいる。その事が腹立たしくて仕方ない。
 
 嘆息。じくり、と右腕が痛んだ。フレイは、アイザックに視線を向ける。その手には包帯と、使い込まれた裁ちバサミ。包帯を替える気なのだ、というのはすぐに分かる。

「……なんで俺はここにいるんだ。というか、なんでお前がここにいるんだ」
「質問が多いなぁ。まぁ、一つずつ説明していこうか」

 左腕に巻かれた包帯が解かれていく。朱の混じった細布を巻き取っていったその下には、もうすでに塞がりかけている傷跡。『ウルヴァス』の回復力は流石だねぇ、と呟きながら古い包帯を回収していく。

「まず、ここは僕が経営する診療所。君は大体二十時間前に運び込まれてきた」
「運び込まれてきた? 誰が――」
「それは後。で、僕は四年前に『エニグマ』を抜けた。この区画で妻と二人で医者もどきをやってる」
 
 アイザックは『エニグマ』の衛生兵だ――本人の話を聞いてる限り、元、という接頭語が付くらしいが。
 手際よく巻かれていく包帯を見ながら、フレイはどこか懐かしい気分になる。名ばかりの治安維持装置とは言え、下っ端はそれなり以上に戦闘行為を行う組織だ。実際フレイも『エニグマ』に所属していた時は、それこそ『ブラッドドッグ』の拠点を鎮圧した事も何度かある。であれば、負傷の一つや二つは当たり前にする訳で――その時に、アイザックに治療してもらったこともあった。
  
「で、君をここに運び込んだのは僕らもよく知っているあの人」
「…………ジーヴルの野郎か?」
「あの人を野郎呼ばわり出来るの、君だけだと思うよ。というか、相棒バディだったんだろう?」

 パチリ、と包帯が断ち切られた。クルクルと掌の上でハサミを弄びながら、アイザックが苦笑する。
 相棒バディ、なんてそんな気の知れた関係ではない。単に任務が一緒になる事が多かっただけだ。別に苦手というわけでもないが、得意でもなかった。そんな関係。
 視線を逸らしながら、早口にそうまくし立てる様は、まるで浮気がバレた男のようだった。

 照れる事ないのに。少しだけ見当違いな感想を抱いたアイザックが苦笑していると。


 
「――――そうか。それは寂しいな」



 部屋の温度が、一度ほど下がった気がした。その冷ややかな声は、そう大きな音量ではなかったはずなのに、フレイとアイザックの鼓膜を叩く。
 乾いた靴音が聞こえた。フレイの視線が、病室の入り口へ向かう。

 ――――そこには、『銀色』があった。

 艷やかに流れる、後頭部で結い上げられた銀糸の長髪。左が眼帯に隠され、残った右の涼やかな目元の下から覗く、群青色の瞳。神秘的だ、とすら感じてしまう程に整った褐色の肌。黒い軍服を纏ったその腕章には、逆十字の刺繍が刻まれてる。
 六年前までは、見慣れていた姿。年月を重ねて、より女性らしくなった姿に、フレイが呆気にとられた表情を浮かべて。それを見た女性――ジーヴルが、クスリと微笑んだ。
 
 
 

Re: ミストゥギア ( No.5 )
日時: 2022/06/19 21:45
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 軽微に歪曲した刃が、身に纏った赤の皮と、その薄皮の下に秘めた淡黄の蜜の間に滑り込む。刃が進む度、耳の内側を擦るようなこそばゆい音が鳴って。剥がされた薄皮は、するすると一本の線となって、行儀よく揃えられた両膝の上に置かれた皿に蛇がとぐろを巻くように落ちていく。

「………………」
「………………」

 何のことはない。ジーヴルが見舞い品と称して持ってきた果物の中の一つ、林檎を手慣れた手付きで剥いているだけだ――無言で。
 小さな病室は、林檎を剥く音と少女の寝息。朝日が差し込む窓の外から聞こえてくる鳥だか人だかの声だけが響いていた。

「………………」
「………………」

 気まずい。別にやましい事など何一つとしてないのに気まずい。頼みの綱だったアイザックは「後はお二人で」という余計な気を回して退室した。
 視線を右に逸らす。ベッドの上で丸くなって、静かな寝息を立てる少女。視線を左に向ける。剥き終わった林檎の皮が、ポトリと皿に落ちていった。

「……ッ」
「………………」

 蛇の頭が落ちたのを幻視した。肩がビクリと跳ね上がる。そんなフレイの心情など露知らず、ジーヴルは全ての衣を剥がされ全てを晒された林檎を軽く上空へ放り投げると。
 一閃。二閃。影がブレるほどの速度で、ナイフが、銀閃が果実を通過していき。重力に逆らわず落下していく林檎は、皿に到達する頃には微塵の狂いもなく八等分された。
 ほっそりとした指先で、皿の縁をつかんで。ずい、と無遠慮にフレイに向けて突き出す。

「剥けたぞ」
「…………おう」

 断面から漏れ出た蜜。甘い香りが、フレイの鼻孔をくすぐる。
 いや、剥けたから何だというのだ、と。怪訝そうな表情を浮かべて、フレイは懐疑的な視線をジーヴルに向ける。病室に乗り込んでくるなりジーヴルが取った行動は、無言のまま椅子に座って林檎とナイフと取り出して剥き出した、という事だけ。まるで思考が読めない。
 そして、何時まで経っても林檎に手を出さないフレイを見て、今度はジーヴルが怪訝そうな表情を浮かべ――思い至ったように、そっと一切れを指先で掴み取ると。

「はい、あーん」
「…………何してんだ」

 鼻に押し付けんばかりに、その一切れをフレイに突き出した。より強くなった香りと、妙な圧を感じて軽く後ろに仰け反ってしまう。
 
「腕が動かないんだろう?」
「動くっての。左が」
「傷が開いたら大変だ。ほら」

 ずい。有無を言わさぬ圧が、フレイに向けられる。その眼には頑として譲らないという意思が宿っている。数秒ほど絡み合った視線で、埒が明かないと察したフレイが、大きく開けた口でその林檎の半分ほどを噛み切った。咀嚼する度に、口内に爽やかな酸味と芳醇な甘味のコントラストが広がった。
 貧民街の土壌は酷く荒れている。それは年を通して寒々しい気候が原因なのか、上層から流される廃棄物によるものなのか。詳しい事はフレイには分からないが、貧民街で穫れる果物など大体が不味いの一言で感想が言える。それらに比べれば、今しがた喉を通って胃へと落とされた林檎は、かなりの上物である事がうかがえた。

「美味いな」
「上層からの流し物だ」

 残った半分の果実を、ジーヴルがひょいと口に放り込む。満足そうに咀嚼している姿を見て、こいつも変わったな、とフレイは内心そうごちる。
 ジーヴルとフレイが出会ったのは、まだ幼少の頃の話だ。昔はもっと、そう。無機質で、無感動で、無表情だった。それこそ、機械と話しているような。

「上層? ……あぁ、昇進したのか」
「ふぉういうことだ」
「飲み込んでから喋れよ」
 
 ジーヴルが纏う軍服は、『エニグマ』の中では隊長格が纏うものだった。フレイやアイザックのような一兵卒が纏うような機能重視の服ではなく、命令を出す立場の威厳とやらを重視した華美な装飾の目立つ服。なるほど、立場が上になれば必然的に上層の人間と近づくことも出来るだろう。この林檎のような上層で作られた流し物も、手に入る機会が増えるかもしれない。
 と、なれば。何故そんな立場の人間が、下層にまで降りてきていたのか、という疑問が湧いてくる。が、その前に、まずは言うべきことがフレイにはあった。

「……ここまで運んでくれたんだろ。助かった」
「どういたしまして。はい、あーん」
「………………あーん」
 
 感謝の言葉をあっさりと流された上に、更に林檎を差し出される。漂っているのは甘い匂いのはずなのに、渋い表情をフレイは浮かべた。釈然としない。

「……で」
「ん?」
「なんで助けた」

 フレイの言葉に、ジーヴルがキョトンとした表情を浮かべる。そして心外だ、と言わんばかりに眉をひそめて。
 
「友人を助けるのに理由がいるのか?」
「……言い方が悪かった。なんであそこに居たんだ」
「んー……」

 軽く曲げた人差し指を、口元に当てる。目を瞑って少し考えた後、ピンと指を立てて、薄く微笑んだ。
 いや、微笑む、というよりは。悪戯を思いついた子供のような笑みだった。なまじ顔が整っているから、違和感が凄まじい。
 何を言われるのか、とフレイが内心警戒していると。

「――秘密だ」
「言う気がねぇのはよく分かった」

 誤魔化された。十中八九『エニグマ』絡みなのだろうが、すでに辞めている自分が聞けるような話ではないのだろう、とフレイは聞き出す事を諦める。

「それよりも、だ」
「あ?」
「その子は?」
 
 ジーヴルの眼がすっと細められた。その視線は、フレイの傍らで眠る少女に向けられていて、続けてフレイに向けられる。その眼は何処となく冷ややかで、フレイの背を嫌な汗がつぅっと伝っていく。
 あらぬ誤解を受けている気がした。林檎の水分を補充したはずなのに少し乾いた唇を開く。

「……俺も分からん」
「ほう」

 いや、なんだその応答は。更に冷感の増した視線はなんだ。フレイは思わず目を逸らした。嘘はついていない。実際、すやすやと呑気に眠っているこの少女については、妹と似ている、という事と、何かしらの事件に巻き込まれていただろう、という事以外は知らないのだ。
 そもそも、誘拐だの人身売買だの、そういう表沙汰に出来ないような裏の仕事は、貧民街にはゴロゴロと転がっている。この少女もそんな裏の世界の哀れな犠牲者なのだろう、と結論立てた所で。

 もしかしてこいつ、俺が誘拐だのなんだのをしたのだ、と疑っちゃいないか、と思い至った。

「……いや、違うぞ」
「ふむ、弁明を聞こう」
「違ぇよ。本当に分からねぇんだ。あー、えーと、そうだ。ウォルトの野郎に騙されたんだよ」
「ウォルトとは?」
「雇い主……の呑んだくれ。なぁ、なんで俺詰められてるんだ」

 慌てて口早に弁明する。実際にウォルトに騙されたか、という所の事実確認はしようもないが、フレイは何の遠慮もなく疑惑を押し付けた。
 重苦しい沈黙が病室を包む。まるで尋問官と相対している虜囚のような気分だった。唯一の癒やしは、傍らで何も知らずに眠ったままの少女だけ。
 静寂がどれだけ続いただろうか。一秒か、それとも数秒か。フレイの瞬きの回数が多くなり始めたその時。
 
「ふっ、はは」

 ジーヴルが、冷ややかに引き締めていた表情を緩めて破顔する。堪えきれない、と言わんばかりに高らかに笑った。からかわれている、とは気付いていたが、流石に心臓に悪い。
 ……いや、『エニグマ』が下層の事情に首を突っ込む訳がないので、誘拐の応報などの心配はしなくても良いはずなのだが。

「冗談だ」
「お前のは冗談に思えねぇんだよ……」
「六年間も相棒に対して連絡の一つも寄越さなかった罰だと思ってくれ」
「……悪かったよ」
 
 六年前。フレイの生まれた区画が『霧』に呑まれたあの時、家族を――妹を助けようとしたフレイを止めたのが、ジーヴルだ。
 『霧』に呑まれれば助からないというのは、ヴェルドミッテのどの階層の住民でも持っている共通認識だ。
 冷静になれば分かる。ジーヴルがフレイを止めたのは何も間違っていない事も。あの時のフレイの行動は自殺行為に他ならない事も。

 だが、それでも。その行動が、フレイという男を殺した一端であったのは間違いなかった。
 それ以来、フレイとジーヴルは疎遠になった。いや、フレイから遠ざかった。恨み辛みがあったわけではない。ただ、心の整理が未だに付いていないだけだ。六年という年月を過ごしても、フレイという男はずっと止まったままだった。

 ふっと、ジーヴルがフレイの傍らで眠る少女に視線を向ける。懐かしむような、悔やむような、嘆くような。様々な感情が綯い交ぜになった表情を浮かべた。
 
「似てるな」
「………………そうだな」

 呟き。フレイが小さく、それに同意する。
 アイザックの前でこそ否定したが、相棒と呼べるぐらいには関係性があったジーヴルと、妹――レイアは仲が良かった。それこそ、フレイが兄で、ジーヴルを姉と見てる節があるぐらいには。六年前の行動を後悔しなかった日は無かった。家族を守れなかった事を。家族を守ろうとした男を止めた事を。互いに、そんな心のしこりを残したまま生きていた。
 レイアと似ている少女に思う所はあるのだろう。じっと見つめるその視線は、どこか悲しげだ。
 
 ふぅ、とジーヴルがため息を付く。後は好きに食べてくれ、小さく声に出して席を立って、六つだけ残った林檎の欠片が乗った皿をトレイの上へ置いた。
 服の裾の埃を軽くはたき落とす。硬質的な靴音を立てる。凛とした佇まいは、六年前から大きく成長した上に立つ者の姿だった。

「そろそろ行くよ」
「……おう」

 その銀色の眩しさに眼が眩みそうだった。遠ざかっていく背は、本当に六年という年月の距離を表しているようで。止まっていた時間を、知覚してしまう。
 
「……っと、そうだ」

 病室を出ようとした所で、ジーヴルが振り返る。群青の瞳が、フレイの表情を写し込んだ。
 
「事故現場から発見したブレード。アイザックに預けてるが、アレは『エニグマ』の備品――」
「知らねぇ」

 そっぽを向いた。フレイが今扱ってるブレードは『エニグマ』を辞めた時に永久的に借りたモノだ。つまるところ、盗品である。
 『エニグマ』は下層の事に首を突っ込むことはないが、組織そのものの事になると別だ。素知らぬ顔で通すしか無い。
 
「ふふっ……そうだな。落とし物だ」
「おう……」

 子供の悪戯を嗜める母のような表情を浮かべて、ジーヴルが病室を出ていく。だんだんと小さくなっていく靴音を耳にしながら、傍らで眠る少女に視線を向ける。
 穏やかな寝顔だ。丸まった背が呼吸に合わせて上下している。守れなかった誰かの背が、ブレて重なって見える。

「……ああ、クソ」

 本当に、似てる。そんな事だけで、六年前に死んだ自分がのうのうと息を吹き返そうとしている事に反吐が出そうだった。

Re: ミストゥギア ( No.6 )
日時: 2022/06/21 23:33
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 
 黒い線が、薄い皮膚の下を巡って這いずり出てくる様は、あまり見ていて気分の良いものじゃない。自分の右腕の完全に塞がった傷の周りに這いずり回る糸――縫合用の糸――が、スルスルと抜けていくのを、フレイは微妙な面持ちで見ていた。
 縫い合わせた傷口が治れば、不要となった糸を抜き取っていく抜糸作業。黙々と慣れた手付きでそれを行っているのは、前を真横に切り揃えた青髪の小柄な『ウルヴァス』の女性だ。頭頂部に生えた両耳が、時たま漏らすフレイのうめき声に反応して跳ねている。
 
 糸が一本、また一本と抜けていく度に、針で刺されるような微妙な痛みと痒さが襲ってくる。かれこれそんな状態が、もう数十分は続いていた。
 
「……あと何本だ」
「これで終わりですよ」
 
 女性の言葉通り、抜き取られた最後の糸がトレイの上へと転がる。残っているのは、硝子が貫通し、向こう側が見える程に大きく開いていたはずの傷跡がかすかに残った右腕。
 指先に力を込める。親指から、握り込むように順番に力を込めていって。その動作、感覚に何の異常も無い事を確認して、フレイは安堵の息を漏らした。

「……いや、ホントなんで動くんですか。『ウルヴァス』の生命力でもなんかおかしいですよ」

 その動きを見て、青髪の女性が若干引いた様子で唸る。その傷が治ったのが、仮に数ヶ月の治療を経た後ならそうも驚かなかっただろう。だが、フレイがこの診療所に運び込まれて、まだ五十時間程しか経っていない。

「知らねぇよ。医者の方が詳しいんじゃないか、クロセルさんよ」
「医者だから何でも分かるわけじゃありませんよ。分かるのはアナタがおかしいって事ぐらいです」

 診療所に運び込まれたフレイの傷を治療し、縫合したのは彼女――クロセルだ。アイザックと同じ元『エニグマ』所属の衛生兵。
 尋常ではない速度で治っていく傷をリアルタイムで見ていた彼女がどう考えたっておかしい、と診断するのだ。その言葉の通り、どう考えたっておかしいのだろう。

 掌を開き、上下左右に何の憂いもなく動かせている右腕を見て、どうなってんだと小さく嘆息した。
 思い出されるのは、硝子が貫通して、大量の血で境界線すら分からなくなりそうだった右腕。それが三日と経たずにほぼ完治しているのだ。『ウルヴァス』という、『ヴィーク』に比べれば生命力の強い種族であろうと、そんな化け物じみた再生力を発揮出来るわけではない。
 動くのは良い、喜ばしい事だ。だが、流石に現実を直視するには五十時間という合間は短すぎる。時間でも巻き戻ったか、あるいは夢だったか――そんな現実逃避じみた考えすら浮かんでくるほどだ。

「…………すぅ」

 そんな考えも傍らの丸椅子に腰掛けて眠る少女を見れば飛んでいく。間違いなく、あの濃密なチェイスは現実にあった出来事だった。

「……いつまで寝てんだろうな、こいつ」

 ジーヴルが診療所を去った後、フレイは眠気に誘われるまま、暗闇に落ちた。その間に一度目覚めていたであろう少女は、ベッドから降りて丸椅子に座ったらしい。が、フレイが起きる頃にはまた眠りについていて、結局今の今まで会話らしい会話の一つも交わしていない。ここまで寝てるのであれば、別の病気すら疑ってしまう。

「そこんところどうなんだ、医者」
「良いんじゃないんです? 寝る子は育つって言うじゃありませんか」
「雑だなおい」

 こいつホントに医者かよ、と。フレイが呆れ混じりの視線を向ける。
 アイザックやクロセルは『エニグマ』の衛生兵上がりだ。基本的な知識はあれど、経験だけで治療を行うヤブ医者と言ってもいい。良くも悪くも貧民街レベルの技量だ。医療機器の類も乏しい貧民街で、名医だの神の手だの、全てを期待するのはお門違いというものだ。
 
 抜糸の後片付けを終えたクロセルが、窓に掛かったカーテンを勢い良く引く。運び込まれてから二周ほど星を回ったであろう陽の光が、ベッドを柔らかく温める。

「まぁ、早く治ってくれるのであればそれに越したことはありません。この診療所に病床は二つしかありませんから」
「……その二つってのは、お前とアイザックの寝床だろ。このベッド、あいつの匂いがすんだよ」
「ええ、なのでもうちょっと怪我してくれても良かったんですが。そうすれば、一緒にアイザックと寝れるので……えへへ」
「惚気けてんじゃねぇよ」

 赤らめた頬に手を当て、腰をくねらせながら全身で喜びを表現するクロセル。胸焼けするような感覚が喉をせり上がってくる。
 幸せそうで何よりだ、ひらひらと右手を振るう。その行為で微塵も痛みが走らないあたり、本当に完治しているのだろう。代わりに頭が痛くなりそうだ。
 
「あ、治療費は何時請求すればいいですか?」
「持ち合わせがねぇ。アイザックにツケといてくれ」
「ダメです。金銭感覚に疎い夫を持つと、苦労するのは妻――」

 そこまで言いかけたクロセルの耳が、ピクリと何かの物音に反応する。
 甲高い鈴音。玄関を開く音。先生、と呼びかける女性の声、足音。続けて「はいはーい」と言いながらその音へと向かっていくアイザックの声と足音。
 当然、同じ『ウルヴァス』であるフレイもその一連の音は聴こえており、ほら患者だぞ、という視線をクロセルへと向ける。

「……仕方ありません。お金の話は後にしましょう」

 そう言ってじっとりとした視線をフレイに向ける。それは言外に「逃げんなよ」と釘を刺す視線で、フレイはそれから逃げるようにそっと目を逸らした。あわよくば逃げようと思っていたのは既に見透かされていたらしい。

「ここ、使うかもしれないので。お散歩にでも行ったらどうです?」
「あー……邪魔になるか……おう」

 元同僚で幾度か世話にもなった衛生兵の言葉だ。あまり強気には出られないフレイが、歯切れ悪くそう応える。その視線の先には、ゆらゆらと夢心地で揺れている少女の姿があった。
 クロセルには、フレイとこの少女の関係性は分からない。分かるジーヴルが血塗れになったフレイを担ぎ上げて運んできた時に、一緒に連れてきたという事だけだ。だが、フレイのその視線には噛み切れない複雑な感情があるのは理解出来た。
 
「私のベッドにでも寝かせておきますよ。さ、行った行った」
「……当たりが妙に強くないか?」
「暗い顔の人がいると患者さんが不安がりますので」

 納得したような、していないような。そんな微妙な表情を浮かべたフレイだったが、少しの間考え込んで、仕方がない、と嘆息する。
 ベッドから降りる。ベッドの下に置かれていた靴を履き込むと、ぽんと少女の頭を一撫でして、ちらりとクロセルへ視線を向けた。
 
「……一時間ぐらいでいいか?」
「ええ、気分転換行ってらっしゃい」
「……おう」

 素っ気ない。なんだか悲しくなってきたフレイはそのまま病室の窓枠へと足を掛け、一気に外に躍り出る。ちなみに病室は二階だ。
 少しの浮遊感の後、身体が重力に従って沈み始める。直下から受ける風の煽りを受けながら、コンクリートへと二本の足で降り立った。硬い大地から伝わる衝撃は、『ウルヴァス』特有の筋繊維が受け流してくれる。

 ミリタリーズボンの裾の埃を払い落として、頭上を見上げる。今しがたまでいた病室の窓から、クロセルが小さく手を振っているのが見えた。
 後ろ髪を引かれるような思いで、ゆっくりと歩を進める。腰から伸びた真紅の尻尾は、どことなく元気がなかった。


 
 ◆



 耐久年数なんて疾うの昔に迎えているであろう室外機が、ガラガラと巻き込んだ石と不協和音を奏であげている。酷く耳障りではあったが、貧民街では別に珍しくもない情景だ。フレイは暗い路地を歩きながら、ふぅ、と白い息を吐き出した。
 昔から、機械音を奏でる鉄の蓋から見下されているのが嫌だった。お前も、お前の守りたいモノも全て無価値だと言われているような気がして。そのありもしない視線から隠れるように、狭くて暗い路を好んだ。

 ――――そういえば、あいつに会ったのもこんな暗い路だったか。

 霜が溶けて溜まった水が、足元で跳ねる。室外機が吐き出す異臭が鼻を突く。脳裏に思い出されるのは、こんな暗い路でも輝いていた『銀色』だ。
 ……感傷的になっている、とは自覚している。色んな事があったからか、どうにも過去の事ばかり思い返す。

「フレイ? なんだ、もう脱走か?」

 ……いや、そんな感情豊かな声色じゃなかった。なんなら出会って数週間はまともに喋らなかった。と、過去を思い返す自分と漫才じみた問答をしていると。

「……無視か? 哀しいな」
「……んん?」
 
 違和感があった。くるりと首を回して、背後に視線を送ると。

 暗い路に似合わぬ『銀色』がいた。華美な装飾の軍服と、左目を塞ぐ黒革の眼帯。右手には、籠に盛られた林檎。昨日と変わらぬ様相のジーヴルと目が合って、ニコリと微笑まれる。
 目を瞬かせる。右手で、目元を擦り、ピントを合わせて、もう一度瞬かせる。

 ……いや、何してんだお前。

 「いや、何してんだお前」

 思考が、そのまま口をついて流れ出た。それに対して不思議そうな表情を浮かべたジーヴルが、首を傾げながら。

「見舞いだが」
「昨日の今日だぞ」
「おかしいか?」
「ああ、うん……」

 天を仰いだ。冷たい鉄の蓋が、こちらを見下ろしている。見てんじゃねぇぞ、と睨みつけた。こういうヤツだった、と過去の自分と意見が一致する。
 視線を戻せば、また微笑まれる。家出を見つかった子供のような気分だった。いや、やましい事はなにもないのだが。

「で、なんだ? 脱走か?」
「なんでワクワクしてんだよ。散歩だ散歩」

 小さく「追い出されたようなもんだが」と言葉尻に付け足す。その様子に可笑しそうに笑ったジーヴルが、籠の中の林檎を手にとって、フレイへと放り投げる。艶々とした林檎が放物線を描き、フレイの広げた掌へ吸い込まれるように収まった。

「散歩なら、ちょっと付き合え。六年振りに警邏へ行こうじゃないか」

 手に収まった林檎と、ジーヴルの顔を交互に見て。ほんの少し、逡巡して。どうせ暇な事に違いはない。時間を潰すにはちょうどいいか、と。林檎を持っていない手で、手の甲を相手に向けるように掲げる『エニグマ』式の敬礼を行う。六年という年月が経っても、その動作には淀みはない。

「……了解しました、上官どの」
「よろしい。時刻ヒトヒトマルマル。警邏を開始しよう」

Re: ミストゥギア ( No.7 )
日時: 2022/06/24 21:51
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

 大きく口を開いて、赤い果実を頬張る。強靭な顎で噛み砕かれた林檎は、瑞々しく果汁を滴らせながらその中身を晒した。酸味と甘味、そして異物感。種まで食ったか、とフレイは口をモゴモゴと動かすと器用に種だけを吐き出す。
 寒々しい風が流れ込む路地を、ジーヴルと肩を並べて歩く。かたや『エニグマ』の上官服を纏った『ヴィーク』、かたや白いモッズコートを雑に羽織った『ウルヴァス』。組み合わせとしては異質だったが、その歩調は自然と合っていた。

「警邏も久しぶりだ」
「まぁ、六年振りだからな」
 
 『エニグマ』の警邏、と言っても、腐敗の進んだ組織が行う警邏なんて形だけだ。ジーヴルのように目を光らせる者もいるが、大体が金と賄賂で見過ごされる程度のモノ。フレイだって所属していた時代に、真面目に警邏を行った覚えなど数える程しかない。
 そもそも『エニグマ』に所属している人物の殆どが下層出身だ。少なくとも、フレイは『エニグマ』に所属していた時も、抜けた後も上層の出身だという人間には会ったことがない。

 となれば、後は馴れ合いだ。

 下層の人間同士で、形だけの治安維持をそれなりにやって、金と賄賂を受け取って、いくらかは下層に還元して。ただ上層の連中が与えてくる金で飼い殺されるだけ。上層からすれば、金を払えば勝手に下層の人間同士で厄介事を片付けてくれるのだ。上手いことを考えたもんだ、と当時は考えもしなかった事に思いを馳せる。
 だが、それは傍から見れば上の空に見えたのだろう。並び立って歩いていたジーヴルが、少し不満げに頬を軽く膨らませた。

「上官の前で上の空とは、なってないな」
「いや、部下じゃねぇよ。さっきのはノリで言っただけだろ」

 その返答がさらなる不評を買ったらしい。端正な顔立ちが不満げに歪んだ。昔に比べるとコロコロと変わる表情を見て、「こいつ、こんなに子供っぽかったか」と内心思ったが、どうにか口には出さずに堪える。
 まぁ、やる気のない態度を見せ続けるのも不満に思うか、と。そう考えて、平坦な口調で「申し訳ありませんでした、上官殿」と零す。満足そうに頷かれた。
 どうにもむず痒い感覚を誤魔化すように林檎をもう一口齧った。

「気に入ったのか? それ」
「ああ、美味い」

 実際、上層からの流し物だという林檎は美味い。どこぞの呑んだくれのように味覚がイかれてるわけでもないフレイは、その味をごく普通に楽しんでいた。見たこともない上層の連中は好かないが、食べ物に罪はない。不味いと美味いを天秤に掛ければ、よっぽどでなければ美味い方に傾く。

「そうか。まぁ、確かに品質は良いからな。だが――」

 そう言いながら、ジーヴルが右手に持った籠から一つの林檎を取り出す。フレイが持つ艶々とした赤色ではなく、どこか食欲の失せる青紫。丸々としたフォルムではなく、痩せ細った山羊のような細い果実。
 フレイは良く知っている。幼い頃から何度も食べた。貧民街で穫れる、酸味だけで甘味なんて欠片もない、ただ胃を満たす為だけの品種。それにジーヴルは、何の躊躇いもなく齧り付いた。別に自分が口にしたわけでもないのに、酸味が口の中に広がった気がした。

「うん。私は、こっちの方が好きだな」
「……物好きなヤツだな」

 別に、自分だけ美味い林檎を食べてる事に引け目を感じたわけではないが、微妙に食欲が失せた気がする。そんな表情の変化を悟られたのか、ジーヴルにまた微笑まれた。お前は俺の母親か、と内心で文句を垂れながら、結局齧り付く。
 
「ふふっ……お前が教えてくれた味だ。不味いわけがない……なぁ、フレイ」

 片方だけ。ターコイズブルーの瞳が、海のような群青が、フレイの色褪せた碧眼を捉える。首筋を、背を、掌を、冷たい風が撫でて。煽られた枯葉が空を舞った。

「……『エニグマ』に戻る気はないのか?」
「………………戻って何しろってんだ」

 元々『エニグマ』へ入隊した事に、崇高な理念があったわけでもない。ただ金払いが良くて、家族を養う為には都合が良かっただけ。
 だが、その守るべき家族も『霧』に沈んだ。今更『エニグマ』に戻った所で、何になるというのか。どうしてそんな事を聞く、と怪訝そうな視線をジーヴルに向ける。

「……そうだろうな」
「分かってんなら聞くな」
「悪かった。ただ――」

 続ける言葉は、最後まで紡がれる事はなかった。
 最初にソレに反応したのはフレイだった。ピクリ、と跳ねた耳が向きを変えて、僅かに聴こえたソレを再度捉えようと動く。尻尾が忙しなく振られ、集中するように目を閉じて――跳ね起きるように、目を見開いた。はっきりと、ソレが聴こえた。
 焦燥感に駆られるように、ジーヴルへと視線を向け、同じタイミングでこちらを向き直っていた視線がかち合った。

「フレイ!」
「……ああ」

 ジーヴルにもソレは聴こえていた。寒気を震わせ、強かに鼓膜を叩いた――『悲鳴』だ。治安という言葉が息をしていない貧民街では珍しくもない、聞き慣れるほどではないがまるで聞こえない程でもないソレ。だが、それが聴こえたのが――ほんの一時間程前まで、己がいた場所であれば話は別だ。

「――診療所だ……!」
 
 身を翻し、駆け出す。『ウルヴァス』のフレイの肢体は、あっという間に最高速へと辿り着き、漂っていた冷気が風となる。焦燥感だけが胸中に燻り、熱をもたらしていた。
 
 
 
 ◆



 時刻は、一時間ほど前に遡る。フレイがクロセルに追い出される形で、病室から飛び降りたのとほぼ同時。アイザックは、診療所を訪ねてきた一組の親子の診察を行っていた。
 『ヴィーク』の母親と、『ヴィーク』の男児。診療所の近所に暮らす母子であり、アイザックとは顔見知り程度の仲だ。
 恐らく仕事中だったのだろう、娼婦として働いてる母親は着崩れたワンピース一枚で子供を背負って駆け込んできた。背負った子供が、苦しそうに咳をする。

 それを見たアイザックの行動は早かった。フレイが寝ていた病室兼診療室に母子を通すと、ベッドに子供を座らせる。

「水持ってきます」
 
 病室に連れ込まれた母子を見たクロセルが、入れ替わるように部屋を出ていく。長年連れ添った夫婦の連携は、言葉をいちいち交わさずとも成立していた。
 
 子供の口を開かせ、喉奥を確認する。赤く腫れているソレは炎症している事を如実に表していて、全体的に火照った身体は一つの症例を結論づける。
 無意識に流れる鼻水、咳、喉の炎症。発熱――まぁ、平たく言えば。

「……風邪ですね」

 風邪症候群。貧民街はお世辞にも整った環境とは言えず、清潔という言葉とは程遠い街だ。子供の免疫力では風邪に罹るのは珍しくもないが、軽視していいものでもない。
 母親が、心配そうに咳を零す子供の背中を優しくなで上げながら、アイザックへと懇願するように視線を向ける。

「こ、この子は大丈夫……?」
「ええ、薬はまだありますよ」

 貧民街では、薬はとてつもない高級品だ。まるで効果の無い粗悪品も多い。
 その中でも、アイザックの診療所はまだ品質に拘って薬を揃えている方だった。だが、それは同時に絶対数の少なさを意味している。棚に収まった薬の数をかぞえながら、そろそろ仕入しておかないと不味いな、と内心ごちる。

「解熱剤……後は、炎症を抑える薬……」
「げほっ、げほっ!」
「っと……」

 苦しそうに身体を膨らませた子供を、母親が優しく抱きとめる。
 ……この母子は、父親がいない。娼婦という職業から分かる通り、誰ともわからない男の子を産み、それでも大切に育ててきたのを、アイザックは知っている。
 どれだけ薬が高級品だろうが、それを使うのを惜しむ理由にはならない、と瓶から錠剤を取り出す。

「持ってきました」
 
 丁度いいタイミングで、クロセルが盆に水が入ったコップを載せて戻ってくる。小さく「ありがとう」と返しながら、そのコップを受け取った。
 
「飲めるかい?」

 二粒の錠剤を子供の掌に乗せる。ふらふらとする身体を母親に抱き留められていた子供は、少しだけ虚ろだった目をはっきりさせると。

「…………うん」

 小さくそう返した。震える手で口元に近づける手を補助しながら、口に含めたのを確認して、水を口元に近づける。一口、二口と温い水分が喉を鳴らし、小さな薬を子供の体内へ届かせていった。

「偉いね」
「……うん」

 吐き出す兆候もなく、ちゃんと飲み込めた子供を褒めるように頭を優しく撫でる。まだ幼く、柔らかい髪が指の間をすり抜けていき、その感触がこそばゆいのか子供が身体を身動ぎさせた。

「さ、横になって」

 母親の手の中から離された子供が、ゆっくりとベッドに横たわる。まだ荒かった息遣いは、十数分もすれば薬が効いてきたのか、だんだんと穏やかになる。その内、静かに寝息を零し始めた子供の頭を、母親の手が緩やかに撫でた。
 
「ありがとう、センセイ。貴重な薬をもらって……」
「いえ、大丈夫ですよ」

 職業病なのか、情欲を流すような視線を無意識にアイザックに送られる。今まではまるで意識していなかったが、ワンピース一枚の扇情的な格好から視線を逸らした。

「……………………」

 微笑みながらこちらを見つめるクロセルと目が合った。目を逸らす。ごほん、と咳払いを一つ。

「……もしかして、風邪、移ったの?」
「え、ああ、いや。大丈夫ですよ、医者ですから」

 一体どういう理論なのかはさっぱり分からなかったが、ひとまずソレで場は誤魔化せたよう――いや、クロセルの呆れたような目線は止んでいない辺り、後で『お話』がありそうだ、と内心戦々恐々とする。
 片付けますね、と小さく言い放ったクロセルが、水の余ったコップとトレイを回収し、足早に病室を出ていった。どうやら、後でご機嫌を取る必要がありそうだった。

「……誤解させちゃったみたいね、ふふ……可愛い奥さん」
「いえ、お恥ずかしい……」
 
 クスクスと微笑まれる。照れ隠しに頬をカリカリと掻いていると、今度は申し訳無さそうな表情を浮かべているのが目についた。

「ごめんなさいね、センセイ。薬もらったけど、私、お金は払えないわ……」
「あー……いいんですよ。好きでやってますから」

 もしクロセルがいたら、「そんな事ばっかりしてるから、経営が傾くんですよ! 好きですけど!」と惚気混じりに罵倒した事は間違いなかった。

 アイザックが『エニグマ』を辞めて診療所を開業したのは、貧民街で強く生きる人々の助けになりたい、という願いからだ。誰も彼もが自分が生きるので精一杯、『エニグマ』に入っていようが救えない人は多い。そんな世界に、嫌気が差していた。
 高級な薬を無償同然で使うのも、そんな生来の人の良さからだった。まぁ、おかげで懐は『ヴェルドミッテ』の気候の如く冷え切っているのだが。

「最近、変なクスリが出回ってるでしょ……だから、あまり自分でクスリを探すのも怖くて……」
「ああ……」

 その言葉にアイザックが記憶を巡らせる。確かに、ここ最近で薬を仕入れている間にもその噂――もとい、誘い文句は聞こえてきた。
 曰く、『霧』に耐性が付くだとか。曰く、天国へ昇るような心持ちになれるとか。どれもこれも眉唾モノだし、正直ロクな薬でない事は分かる。
 知識のあるアイザックであれば見分けは付くだろう。が、それがこの母親のような素人であれば難しいかもしれない。貧民街では、正誤を判断出来る前知識すら得られないのだ。

「まぁ、こちらを頼って正解ですよ。最近キナ臭い――」

 チリン、と呼び鈴が鳴った。今日は多いな、とアイザックが言葉を中断して立ち上がろうとすると、小さく応答する声と一緒に、病室の外で小走りの足音が駆けていった。
 どうやらクロセルが対応してくれるらしい。ならそちらは任せて、経過を見た方がいいか――と、穏やかな息遣いで寝ている子供を見て、微笑んだ。
 


 ◆
 
 
 
「はいはい、どちら様で――」

 アイザックが経営する診療所は二階建てだ。病室兼夫妻の寝室は二階にあり、受付や待受室、診察室は全て一階に拵えている。
 階段を降りれば、そこは貧民街にしては小綺麗な待合室が広がっていた。寒さに耐えかねて萎れた観葉植物が、添え物程度にあちらこちらへ飾られている。
 
 だからこそ、その存在は、その空間において異質だった。

 開け放たれた診療所のドア。そこから差し込む陽光を遮るように、長身の巨漢がそこに立っていた。クロセルのような小柄な女性から見れば、頭五つ分ぐらいは抜けた上背。筋骨隆々の上半身を惜しげもなく晒して、その肌の上から直接毛皮と合成皮革が混ざったようなコートを羽織っている。
 腰に到達するほど雑に伸ばされた艶のない黒髪の間から、光の無い灰色の瞳が、閑散とした待受室の風景を映し出していた。

 クロセルは、その姿を視認した瞬間。護身用として懐に忍ばせていた小銃をその男へと向けた。少なくとも、治療を受けに来た病人に対する対応ではなく、事実この男は病人などではなかった。
 
「あれぇ……? ここ、診療所だよねぇ~……? 銃、向けんの?」
「ウチは外科専門です。『ディブロ』が、治療が必要になるような傷を負うわけないでしょう」

 惚けたように、口元に弧を描いて嘲笑う男。その頭頂部には、一対の歪な角が渦を巻くように突き出していた。それこそが『ヴィーク』『ウルヴァス』に続く、『ヴェルドミッテ』に住まうもう一つの種族――『ディブロ』の特徴だった。

「あ、そう~……偏見だよぉ、それは――」

 言葉を待たずして、銃口が吼える。引き金によってもたらされた火花が、莫大な圧力を生み出してその脳を食い破らんと、弾丸が飛翔した。
 男が仰け反る。じっくりと照準を合わせた弾丸は、間違いなく男の頭蓋骨へ突き刺さり、血飛沫と脳髄を撒き散らして横たわる――はずだった。男が、『ディブロ』でさえなければ。

「いっ…………てぇ~~……なぁ……」
 
 のんびりとした口調で、額を擦る。そこには多少の擦過痕はあれど、弾丸が直撃して傷一つ無かった。その強靭な肉体は『ウルヴァス』を遥かに凌駕し、莫大な膂力は生物を容易く葬る。歯噛みしたクロセルが、もう一度照準をその額に合わせようとして――その行動は、もはや遅かった。
 
「ぎっ――」

 鬱陶しい蝿を振り払うように。服の裾に付着した埃をはたき落とすように。ごくごく自然な動作で、男はその巨大な拳を、質量をクロセルへぶつけた。
 小さな肢体が、ただただ振り回された暴力に晒されて、ふわりと足元から浮き上がる。待合室の閑散とした空間を、蒼の影が横一直線に飛んでいって、受付を超え。その先にある資料を収めている棚へとぶつかり、破砕音と共にずれ落ちた。

「あぁ~……やっちま、った」

 黒髪をボサボサと掻き乱した男が、やってしまったと後悔の念を滲ませて――まぁいいか、と向き直った。
 その暴力が、破砕が合図だったのか。男の後ろから、ぞろぞろと『血涙を流す狼のタトゥー』が彫られた男たちが診療所に乗り込んでくる。

「ああ、そうだぁ~……挨拶、してなかったな」

 それが彼なりの礼儀なのか、身支度を整える行為なのか。『ディブロ』の男が前髪を掻き上げて、その両の目の下に描かれた『紅い血のタトゥー』を外気に晒す。

「ちわ~……『ブラッドドッグ』……でぇ~す……」

 男が笑う。嘲笑う。嗤う。凄烈な孤を描いた口元の隙間から、湿った吐息が漏れ出ていた。

Re: ミストゥギア ( No.8 )
日時: 2022/06/26 22:52
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 何時だって、気付いた時には遅かった。

 どれだけ疾く駆けても、どれだけ気を張っていても、どれだけ力を振るおうとも。

 気付いた時には、まるで『霧』に覆われるように何もかもが見えなくなる。

 

 ああ、また俺は。

 大切な何かを取り零す。



 ◆



 寒風を取り入れて凍りついた肺が、裏腹に焼け付くような鋭い痛みを放っている。ひりついた喉は絶え間なく潤いを求めて、粘ついた唾だけでは足りないと訴えていた。
 荒い呼吸は、確かな熱を持って冷気と反応し、口の端から漏れた先から白く染まっていく。額や背中には、身体の熱とは程遠く冷たい汗が流れていた。
 視界の端を高速で景色が流れていく。時折向けられる貧民街の住民の奇異な目線も無視して、フレイはただひた走った。そんな事に気を取られる一秒すら惜しい。
 
 診療所に近付くにつれ、先程の悲鳴を聞いて駆け付けたのか、野次馬の数が多くなってくる。その合間を駆け抜けて、時には突き飛ばしながら進む――まるで六年前の再現だ。

「ッ、どけッ!」

 遠巻きに診療所を見ている野次馬を跳ね除け、ようやくフレイはその場に辿り着く。拓けた視界の先に見えたのは――――無惨に破壊され、横倒しになったドア。存在意義を無くした蝶番が、ブラブラと揺れている。呆気に取られて、喉から乾いた音が鳴る。その一瞬ですら呆けた自分に怒りを覚えて、歯噛みをしながら診療所に駆け込んだ。

「――ッ!」

 酷い有様だった。整然と並べられていた待合室の椅子はどれもこれも破壊され、窓に嵌め込まれていた硝子は砕かれ、部屋に漂っていたはずの暖気は全て凍えるような寒さに置き換えられている。
 人の気配の一つとして感じられない。少なくとも一時間前には誰かいたはずの空間は、貧民街に枚挙する廃墟と同じぐらいに静寂に包まれている。

「……クソッ……!」

 散らばる硝子を踏みしめる。足元から奏でられる耳障りな音が、余計に焦燥感と苛立ちを加速させる。そして。

 ――――視界の端。受付の影に隠れるように、粉状になった硝子がまぶされた蒼い尾が見えた。

 どくり、と鼓動が跳ねた。世界から切り離されたように音が遠ざかり、カラカラと砂漠のように唇が乾いていく。それでも、『ウルヴァス』の鋭い嗅覚だけが、強烈な血の臭いを感じ取っていた。
 近付く。そうする意味など何処にもないのに、足音を立てぬように忍び足で。いや。もう、分かっている。理解をして、それでも否定している。

「……クロ、セル」

 応答はなかった。影に潜むように倒れていた彼女は、もう呼吸のひとつすらしていなかった。小柄な身体に似合ってなかった白衣は、腹部に突き刺されたナイフから流れる黒々とした血で染まり、目の端から零れ落ちた涙の痕が見える。腕は可動域を超え圧し曲がり、皮膚を突き破った白と赤が散らばっていた。

 瞳に、光は無い。ただ、物言わぬ屍がそこにいるのだ、と。無情な現実を突きつけるだけだった。
 
 視界が、赤く、紅く染まっていく。歯噛みした犬歯が擦れ合い、軋む。瞳孔は獲物を狙う獣のように細く伸びていった。胸中に空いた虚しさに入れるべきは、ドロドロに煮え滾った溶岩のような怒りしかない。叫び出したい怒号を押し留めている一線が、沸騰させると錯覚する程に血を熱くさせている。
 
 その時だった。ガタリ、と。窓から吹き付ける寒風の音とは別の、何かを動かす音がしたのは。それは微かな音だったが、『ウルヴァス』の聴覚はソレを聞き逃さない。
 顔を跳ね上げる。視線を忙しなく動かし、音の方角を探る。そして――二階へ続く階段の入り口。その影から、赤と白の斑模様になった白衣の裾が覗いていた。

「――アイザックッ!」

 受付を飛び越え、一足で近付く。接地した靴底が、パキリと硝子を跳ね除けた。

「フレ……イ?」
「――……ッ!」
 
 フレイが息を呑んだ音に掻き消されそうなほどに、弱々しい声だった。
 ――右眼が、潰れていた。頭を殴られたのか止め処なく流れる血が頬を伝い、白衣のキャンパスに雫となって零れ落ちて、紅のシミを広げていく。残った虚ろな左目から伸びる視線は、左右に揺らいでいて――フレイにその焦点が当たることは、一度もなかった。もう、眼がまともに見えていなかった。

「クソッ!」

 犬歯を己の白いコートに突き立てた。鋭く尖ったそれは繊維を容易く噛み切り、裂け目を作って一枚の布へと変えていく。
 フレイに医療の知識など無い。『エニグマ』で聞き齧った程度の応急処置だ。グルグルとアイザックの頭部の出血を布で圧迫止血する。それが果たして、この状況で正しい行動なのかすら分からない。

「…………クロ、は」
「喋るな」

 頭部からの出血は簡単には止まらない。白かったコートの切れ端は、ジワジワと紅色に染まっていく。それでも、フレイに取れる行動はそれしかない。
 アイザックの震える手が、肩を掴んでいたフレイの手首にそっと触れる。指先の血溜まりが、そっと赤い線を腕に引いた。

「……子供が、いたんだ……クロの、お腹の中に」
「……喋るな!」

 強く言い止めても、その口元から流れる言の葉は止まらない。朦朧としている意識では、フレイの言葉は届かない。ギリ、と奥歯が砕けそうな程に噛みしめる。
 どうしてだ。どうして、こんなにも。


 
「……僕たちは、何を、したの……かな……」


 
 ――――この世界は『理不尽クソ』なんだ。
 



「………………おい」

 骨張った手が、スルリと脱力して、血溜まりを跳ねさせる。フレイの頬に飛んだソレは、確かな熱を持っていて、瞬きをする間に冷たくなっていく。まるで、喪ってはいけない大切な何かが抜け落ちていくようだった。

「……………………」

 ただそこにあるだけの抜け殻は、フレイの力でかろうじて支えられているだけだった。だから、フレイが力を抜いてしまえば容易く倒れてしまう。
 支えるものが無くなった掌を見つめる。何もない。何もない。無くなった、失くなった、亡くなった。確かにあったはずの熱が、命が、もう存在していない。

「…………は」

 意味のない言葉が漏れ出た。何だこれは。何だっていうのだ、これは。自答出来ない疑問だけが脳内を満たして、理解を拒んでいく。
 きっとそれは、誤魔化しているだけだ。それを認めてしまえば、きっと本当の意味で彼らは死んでしまうから。




 ――どれだけ呆然としていただろうか。気付いた時には肩を揺さぶられていた。ようやく認識出来た視界には、こちらを心配そうに見つめる群青の瞳があって、いつの間にか診療所は『エニグマ』の兵隊が詰めている。焦点が、視線が合った事に気付いたジーヴルが、安堵の息を吐き出した。

「気付いたか」
「…………あいつらは?」

 ジーヴルが力無く首を左右に振る。ああ、駄目だったか、と。冷静になった自分が吐き捨てるように呟いた。
 立ち上がる。足元は笑ってしまうほどに力がない。視線を外に向ける。夕暮れの光が、眼を焼いた。ふらつきながら歩く。冷え切った身体に、ようやく熱が入ってきた。

「どこに行く気だ」

 ジーヴルの声が、背に突き刺さる。それにゆっくりと振り返ってみれば、視線の先にいたジーヴルが目を見開き、息を呑んだ。
 きっと、今の自分は酷い有様だろう。漏れ出る呼気は熱く、怒りで充血した眼は獣のように鋭くなっている。親しかった相棒にも見せたことは無い、『ウルヴァス』の獣性が剥き出しになった状態だ。

「応報だ」

 短く応える。そして指を、診療所の壁に向けた。ただただ自己顕示欲が滲み出た『血涙を流す狼』がそこには描かれていて。標的とすべき者が誰なのかを、分かりやすく表していた。
 鋭い碧眼から放たれた視線と、片端の群青の明眸から放たれた視線が絡み合う。数秒間の睨み合い。先に折れたのはジーヴルだった。

「……奴らの拠点も分からないだろう。私も行く」
「……下層の事に首突っ込んでいいのかよ」
「気にするな。それに……」

 黒い軍服が翻る。背に流れた銀色が、その黒に煌めきをもたらして、硬質な足音が響く。
 気付く。その手は硬く握りしめられている事に。

「……腸が煮えくり返っているのは、私も同じだ」

 準備をしてくる、と言葉少なく放った背が遠ざかっていく。己の怒りに共感する者がいれば、多少なりともその溜飲を下がるものだ。未だ沸騰する激情は胸の内にあれど、フレイの思考はほんの少しクリアになった。
 診療所の外に出れば、肌を刺すような寒風が破れたコートの隙間から入り込み、体を凍えさせてくる。天を仰いで、臓腑の底から鬱憤というの名の熱を吐き出した。
 
 誰が死のうが、何を喪おうが。この都市は、この世界は変わらない。頭上を塞ぐ鉄の蓋はただただこちらを見下して、『霧』はただただ無慈悲に全てを掻き消していく。


「――…………クソみてぇな、世界だ」

 
 いつかに吐き捨てた言葉。誰にも届く事の無い悪態は、ただただ虚しく空に吸い込まれていった。



 ◆



 暗い空間に、『ヴィーク』の男の荒い呼吸が響き渡る。涎を孤を描いた口の端からダラダラと流しながら、必死に腰を振る姿は滑稽でもあり、悍ましくもあった。
 口汚い喘ぎ。焦点の定まらない眼は中空へ向けられていて、時折意識を虚脱させて揺らめいでいく。

「……まだ死体に盛ってんのかよ」

 その男の背後から、表情から嫌悪感を隠そうともせず、鼻を摘みながらもう一人の『ウルヴァス』の男が話しかける。顔立ちも似ておらず、種族も違うこの二人の共通点は――体の一部に『血涙を流す狼』のタトゥーを彫っているという点だけだ。

「し、し、仕方ねぇだろ。勢い余ってや、や、殺っちまったんだ」

 呂律の回らない怪しい口調でそう応える男の股座の下には、一人の女性が横たわっていた。乱暴に剥がされたワンピースと、段々と冷たくなっていく身体。乱暴に、粗雑に扱われた首元には青褪めた指の痕が残っており――――口の端からは黄色い泡が漏れ出ていた。そこまで見れば、わざわざ近づかなくて確かめなくても分かる。もう死んでいる。

「子供が、どうのこうの、うるせぇから……ぎ、ひひ」
「……クスリ切れかけてんじゃねぇか。盛ってねぇでキメてこいよ」

 もし、この場にフレイがいたのなら、女性に跨っていた男の顔には見覚えがあったはずだ。酒を盗み出そうとした浮浪者、呑んだくれ。気付けのクソ不味い酒を譲った、汚らしい男だ。
 ふらふらと立ち上がる。下を隠せ、下を。『ウルヴァス』の男が穢らわしいモノから目を逸らすようにソッポを向いた……その視線の先には、厚い鋼鉄で閉ざされた一つのドアがあった。
 その先には、先程の襲撃の『戦利品』と、恐ろしい我らの頭領がいる。

「しかし、ウチの頭はあんなチンチクリンのガキに何の用があんだろうな」
「あ? し、し、知らねぇよ。俺は飲んでヤれればいい」
「……そうかよ」
 
 こいつに聞いた俺が馬鹿だった、と。『ウルヴァス』の男が頭を振って溜息を付く。
 だが、ある意味では正しいのだろう。俺達のような馬鹿には、きっと分からない事なのだから。ただただ、従っておけばいいのだ、と。

 そう、思考を停止した。













 目を開いた。視界がボヤケている。長い眠りから目覚めた時の夢か現か幻か、自分の立ち位置が分からない時間。

 黒い長髪の間にある灰色の目が、こちらを覗き込む。頭頂部に生えた歪な角が、その存在を主張し現実だと知らせてくる。

 口元が孤を描いた。おおよそ幼子には見せられぬ、嗤い。








 

「おはよう、『霧の歯車』」


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