複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- ピグマリオン
- 日時: 2023/10/31 11:40
- 名前: 紅茶 (ID: S26AM191)
この作品は、短編小説となっております。最後までお付き合いください。
第一話
今から語る物語は、僕とある女性との愛の軌跡である。またそれと同時に、僕が狂気に陥る様を描いた記録とも言えるだろう。しかしながら、ある種の純愛であったことも断っておく。
静かなピアノ教室には、暖かな日差しが差し込んでいる。窓を見れば、桜が美しく咲いていた。桃色の花弁は、春の空を美しく彩っている。
そんな教室に、麗らかなピアノの音色が響き渡っている。流れているのは、ヴィヴァルディの「春」だ。
僕はピアノの演奏者に視線を向ける。視線の先にいるのは、美奈子さんという二十代後半くらいの女性だ。
美奈子さんは一曲弾き終わると、僕にこう尋ねる。
「ねぇ、洋一君も弾いてみる?」
折角の誘いだが、僕は断りを入れる。
「いや、そんな気分じゃないからいいです」
僕の返答を聞くと、美奈子さんは少し残念そうな表情をした。けれど直ぐに元の表情に戻し、顔を窓に向ける。そして、桜を見ながら一言呟いた。
「もう春ね」
僕は一呼吸置いてから、「そうですね」と答えた。
僕は二ヶ月前からこのピアノ教室に通っている。大学に通う傍ら、週に一度だけここに足を運んでいる。美奈子さんはその教室の先生で、僕はその生徒という訳だ。ただ、僕達の関係はそれよりも特別なものだった。
美奈子さんは桜から僕に視線を移し、こう言った。
「洋一君は、最近になってピアノが上手くなってきたね。先生として、教え甲斐があるわ」
僕は敢えて謙遜する。
「いや、僕はまだまだですよ。何せ、テンポの遅い曲しかまともに弾けないんですから」
「そんなこと気にすることないよ。徐々に上手くなっていけばいいんだから」
僕は他人事みたいにこう返す。
「そうだといいんですけどね」
そんな会話を交わしていたが、僕はそれよりも求めているものがあった。いや、僕に限らず美奈子さんだってそうなのだろう。彼女は落ち着かない様子である。何故それが分かるのかというと、先程から指を組んでいるからだ。これは、美奈子さんが落ち着かない時に見せる癖である。
僕は珍しく自分の方からこう言った。
「美奈子さん、キスしましょう」
それを聞いた美奈子さんは、ほんの微かに口角を上げる。そして、立ち上がると僕の元に向かった。美奈子さんは僕の両頬に冷たい手で触れる。そして、妖しい声でこう言った。
「洋一君、貴方は本当に美しい顔をしているわ」
それから程なくして、僕に口づけしてきた。僕は柔らかい唇の感触を感じながら、美奈子さんの背中に手を回す。すると、美奈子さんも同様のことをしてきた。こうして抱き合っていると、僕達の身体が一体化しているような気がする。その快感は強烈で、まるで快楽の蟻地獄に沈んでいるような気さえするのだった。
この通り、僕達は恋人のような関係性なのだ。それも、何となく健全とは言えないような。
- Re: ピグマリオン ( No.11 )
- 日時: 2023/11/03 19:30
- 名前: 紅茶 (ID: dyimD9sz)
第十二話
その数日後も、ピアノ教室に通っていた。授業は普段と同様に始まり、無事に終了した。帰っていく生徒を見送る美奈子さんは、微笑みを向けている。その表情には邪気がなく、僕を人形にしようとしている人には見えない。
ふと、僕と美奈子さんの視線が合った。その瞬間、美奈子さんは怪しげな笑みを浮かべた。
生徒がいなくなると、美奈子さんはこちらに近づいてきた。その顔には、悪魔のような笑みを浮かべたまま。その一方で、僕はピアノ台に座ったまま立つこともしない。
「ねぇ、洋一君は本当に私の人形になってくれるの?」
美奈子さんは僕の前で身を屈め、そう尋ねた。僕は敢えて何も答えない。それが功を奏したようだ。美奈子さんは嬉しそうにこう言った。
「良かったわ。私の人形になってくれるのね。だって、私達の間には会話なんていらないものね」
僕には、その発言が正しいか否かすら分からない。それはともかく、僕は自分の意思で人形になることを選んだ。それだけは、確かなことである。
- Re: ピグマリオン ( No.12 )
- 日時: 2023/11/04 22:17
- 名前: 紅茶 (ID: S26AM191)
第十三話
その後、美奈子さんからの愛撫が始まった。
「エディー、好きよ」
美奈子さんは最初にそう言うと、僕に口づけする。もう既に、僕はエディーそのものなのだと認識されているようだ。そのことに複雑な心境になるものの、仕方ないと割り切る。
美奈子さんは僕に頬擦りしながら、耳元にこう囁いた。
「エディー、これからは身体を動かさないで。分かった?」
そう言うと、顔を下に移動させていく。やがて、顔は僕の胸に到達した。すると、美奈子さんは顔を胸に埋めていく。そうして、僕の体温を感じているのだろうか。
やがてそれも済ますと、美奈子さんは他の箇所も愛撫した。首筋に口づけしたり、身体を抱き締めたりする等、その内容は多岐にわたる。
美奈子さんは、人形に対してもそんなことをしていたのだろうか。写真に写っていた人形は、幼少期の美奈子さんに近い程の身長があった。その頃から、僕にしたようなことを人形にしていたのかもしれない。
やがて、美奈子さんは再び僕に口づけした。それは、とろける程甘く深い口づけだった。きっと、それは今のような状況でなければ味わえないものであろう。人形として愛されることが、口づけの気持ち良さを増していた。
美奈子さんは口づけに満足すると、唇を離す。それから、その足でピアノへ向かうとその前に座る。そして、おもむろにピアノを弾きだした。
ピアノ教室には、聞いたこともない曲が鳴り響く。この曲は何なのだろう。それは分からないが、美奈子さんの演奏力も相まって良い曲に聴こえる。春の陽気のように軽やかな、軽快な曲調だ。けれど、誰もいない海のような侘しさも感じる。何とも不思議な心地よさを感じさせる曲だった。
美奈子さんは弾き終えると、こう言った。
「この曲は、子供の頃にエディーに聴かせていた曲なの。人形だって、音楽が好きかもしれないでしょ。だから」
言い終わると、美奈子さんは次の曲を弾きだす。その曲も、人形に聴かせていた曲なのだろう。
美奈子さんの弾く曲を聴いている内に、まるで人形になっているような気分になってきた。きっと、美奈子さんがピアノを弾いているのは愛情表現の為なのだろう。そう思うと、ピアノの音には愛情が籠っているような気がしてくる。
僕はその愛情に包まれている内に、不思議な感動を覚えるようになった。そして、こうも思うのだ。このまま、ずっと美奈子さんの人形でいたいと。
- Re: ピグマリオン ( No.13 )
- 日時: 2023/11/05 20:19
- 名前: 紅茶 (ID: S26AM191)
第十四話
それから、僕達は一切デートをしなくなった。美奈子さんが誘ってこなくなったのである。僕は言葉を話せないため、誘うことすらできない。
美奈子さんは、人形としての僕しか求めなくなったのだ。故に、デートや会話に必要性を感じなくなったのだろう。
僕と美奈子さんは、教室の中でしか愛し合わなくなった。それも、言葉すら話さず、肉体だけを求めた限定的な恋愛だ。それは一般的な恋愛とは程遠いが、情熱的だったのは確かだ。
そんな日々は、ワルツのようにゆったりと過ぎていった。その間に、僕はピアノが上達していった。美奈子さんも、それには気づいてくれていたらしい。授業中には、そのことをよく褒めてくれた。
その一方で、恋愛は上手くいかなくなっていた。美奈子さんが、以前よりも僕を愛してくれなくなったのだ。それは、具体的な理由があってそう言っているのではない。ただ何となく、美奈子さんの様子からそう察したのだ。
ただ、それは僕の思い違いだったかもしれない。そう考えた僕は、ある日の授業終わりにこう尋ねた。
「美奈子さん、もう僕に飽きてしまったんですか?」
すると、美奈子さんは優しい声で窘める。
「二人でいる時は話さない約束でしょ」
「ごめんなさい。でも、どうしても聞きたくて」
美奈子さんは少し間を開けてから、こう言った。
「そんな訳ないじゃない。私にとって、何よりも大切な存在よ」
まるで、親が子供に諭すような言い方だった。美奈子さんは言い終わると、僕に口づけする。その口づけは、どこか作業的な感じのするものだった。僕は悲しい気持ちになりながら、それを味わう。
それから、また美奈子さんは僕を愛撫した。僕はそうされている間も、心は虚ろだった。
愛撫を受けながら、不意に窓に視線を向けている。外は粉雪が降っていた。それを見ながら、僕はこんなことを考える。どうすれば、美奈子さんから愛されるのだろう。僕に足りないものは、何なのだろう。
そんなことを考えていると、頭の中に一体の人形が思い浮かんでくる。それは、美奈子さんが所持していたエディーという人形だ。僕そっくりのあいつは、青い瞳を輝かしている。
- Re: ピグマリオン ( No.14 )
- 日時: 2023/11/07 18:41
- 名前: 紅茶 (ID: S26AM191)
第十五話
それから、数週間後のこと。
静かにジャズが鳴り響く朝の喫茶店。僕は窓側の席に座り、コーヒーを飲みながら人を待っていた。その相手は、美奈子さんだ。以前、ここで会う約束をしていたのである。
僕はジャズを聴きながら、窓に映る自分の顔を見つめる。憂鬱そうなその顔は、まるで別人のようだった。美奈子さんはこの顔を見て、どう思うのだろう。
やがて、美奈子さんが喫茶店に入ってきた。彼女は周囲を見回した末に、僕のことを見つけた。そして、僕に近寄ってくる。その中途で、不意に足を止めた。その視線は、僕の瞳に注がれている。僕にとっては、予想通りの反応だった。
美奈子さんは僕の前に座ると、おずおずとこう尋ねる。
「その目、どうしたの? 今日は話していいから、教えて」
それが気になるのも、当然のことだろう。何せ、僕の瞳は青く輝いているのだから。
「人工虹彩移植を受けたんです」
美奈子さんは神妙な顔をして尋ねる。
「何それ?」
「虹彩の色を変えてもらう手術です」
それを聞くと、美奈子さんは俯き押し黙る。彼女が口を開いたのは、それから一分程経った頃だった。
「もしかして、エディーの瞳の色と同じものにしようとしたの?」
僕は頷いた。そうだ。僕は完全に人形と化す為、瞳の色すら同じものにしたのである。もう一度、美奈子さんに愛される為に。
頷く僕を見た美奈子さんは、呆気に取られたような表情になる。それはやがて、悲しそうな表情に変わっていった。
「ねぇ、どうしてそんなことをしたの?」
美奈子さんは悲しそうに尋ねる。そんなことは、美奈子も分かっているだろうに。
「美奈子さんに愛される為ですよ。それ以外に、理由なんかありません」
それを聞くと、美奈子さんはより悲しい表情になった。それから、僕の顔を見て「ごめんね」と呟く。どうして、そんなことを言うのだろう。僕の行動は、空回りだったのだろうか。
僕は微笑むとこう言った。
「そんな、悲しい顔をしないでください」
そう言っても、美奈子さんの表情は変わらない。僕は美奈子さんの元に手を伸ばし、その手を握り言った。
「僕は美奈子さんの人形なんです。だから、僕を愛してください」
それを聞くと、美奈子さんはようやく微笑んでくれた。僕は美奈子さんの唇に、口づけする。初めて僕からした口づけだった。
- Re: ピグマリオン ( No.15 )
- 日時: 2023/11/07 19:45
- 名前: 紅茶 (ID: S26AM191)
最終話
それから後も、僕達は同様の関係を継続させた。その間、僕達の関係に何か変化は起こらなかった。具体的に言うと、お互い結婚を申し込んだことはなかったのだ。僕達の関係は、そんなことをすれば崩れてしまうだろう。それをお互いに、分かっていたのだ。
こんな関係は、一体どこまで続くのだろう。そんなことは、僕にも分からない。ただ一つ言えるのは、僕は人形であることを止めないということだろう。少なくとも、美奈子さんと共にいられる間は。