複雑・ファジー小説

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傍にいてくれたから
日時: 2023/11/18 00:14
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

あらすじ

香川裕子は、夫淳一と共に一軒家に暮らしていた。そんな裕子には、あるコンプレックスがあった。それは、自分が妻としての魅力がないということ。そのコンプレックスは、徐々に肥大化していく。

この作品は、短編小説になっております。感想等がありましたら、ご自由にお書きください。

Re: 傍にいてくれたから ( No.6 )
日時: 2023/11/18 08:36
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第六話

それから時間は過ぎ、来年の春となった。暖かな空気の中、桜の花弁が舞い散る美しい季節である。そんな季節になると、桜を眺めたくなるのは日本人特有の習性であろうか。私達もまたそうで、主人は特に関心が強かった。毎年春になる度に、主人は桜を共に見ようと誘う。その年もまたそうで、私はそれに賛同した。
その日は快晴で、花見には持ってこいの天候だった。私達は絵の具で描かれた空の下、近所の通りへと向かっていた。そこは道の両脇に桜が並び、その光景は大層綺麗なのである。
少し歩くと、私達はそこに着いた。両脇には、例年通り桜の木が立ち並んでいる。きっと、今が一番の見頃なのだろう。満開の桜は、華やかな彩りを通りに添えていた。
「今年も綺麗ね。今が一番綺麗なんじゃないかしら」
私は桜を眺めながら、何気なく言葉を漏らした。主人は桜から私に視線を向け、こう言った。
「たぶんそうだろう。桜だってそう思ってるはずだ。何せ、あんなに誇らしげに咲いてるんだからな」
その意見には、私も概ね同意できた。成人式で着物を着る女性のような、華美な美しさが宿っている。故に、それが徐々に散っていくことが切なくもあるが。
それから、私達は暫くの間桜を見つめていた。その間、私達は時間も言葉も忘れていた。けれど、不意に主人がぼやくようにこう言った。
「後、何回裕子と見れるんだろうなぁ……」
私はそれを聞いて、夢から覚めたような気分になる。また、その言葉はどこか不吉な印象を覚えた。
「何回でも見られますよ」
私は自分にも言い聞かせるように、そう言った。すると、主人はこう言葉を返す。
「そうか……それだったらいいなぁ……」
ただ、その願いは叶わない。当時の私達は、それを知らないでいた。

Re: 傍にいてくれたから ( No.7 )
日時: 2023/11/18 08:56
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第七話

それから更に時は過ぎ去っていき、気づけば私達は六十手前になっていた。そんなある日のこと。
「最近、文字が見えなくなったんだよ」
夫婦共にテレビを見ている時に、主人は突然そう言った。困ったような顔をしている主人は、眼鏡を掛けている。
「眼鏡を掛けてるのに?」
「うん。最近は新聞を広げても、文字がぼやけて読めないんだ」
主人の口調は深刻そうで、私もまた不安に駆られる。
「それなら、次の休日にでも病院に行ったらどう?」
「やっぱり行った方がいいかな?」
「何かの病気だったらいけないし」
「そうか……分かった」
そんな会話を交わした数日後に、主人は病院へ行った。その日の昼になって、主人は家へと帰ってきた。その肩は下がっており、嫌な結果が返ってきたことは明白である。そんな主人の姿を見て、私は黒々とした胸騒ぎに襲われる。そして、その嫌な予感は的中していた。主人は座っている私を見下ろしながら、落ち込んだ声でこう言った。
「緑内障だって言われたよ」
私の頭の中に「緑内障」の三文字が刻みこまれる。確かそれは、視野が徐々に狭くなっていく病気だ。最悪の場合、失明すると聞いたこともある。そんな病気に、内の主人が罹っていたとは。何だか信じられないが、主人の声には真実味があった。受け入れたくないが、本当のことなのだろう。
主人の顔は、人形のように生気がない。ただ、それも無理もないことである。何せ、自分がこれから失明するかもしれないのだから。
主人が病気を告白した後、私達は何も言えなくなった。二人の間には、氷のように冷たい空気が流れている。その沈黙を破ったのは、魂が抜けたような主人の一言だった。
「これから、どうしよう……」
こういう時、妻ならば主人を励ます言葉を掛けるべきなのだろう。しかしながら、私にはそれができなかった。何も言葉が思い浮かばず、ただ俯く他なかったのである。

Re: 傍にいてくれたから ( No.8 )
日時: 2023/11/18 10:31
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第八話

その日の夕食時になると、ようやく私達は話せるようになった。主人は味噌汁を少し飲むと、私にこう言った。
「まぁ、緑内障といっても失明する可能性は低いらしい。医者からは、これから更に視界が狭まるかもしれないと言われたが、まぁ大丈夫だろう」
その大丈夫という言葉は、どれ程信憑性があるのだろう。私には、無理して自分を慰めているようにしか思えなかった。ただ、それも致し方ないことである。故に、私はその言葉に同調した。
「きっと、そうよ。私もそんな大事にはならないと思う……」
私にはそれ以上先の言葉が思い浮かばなかった。どうやら、私はこんな時ですら同調することしかできないらしい。
主人は目を伏せながら、美味しくなさそうに日本酒を飲む。それから、重い溜め息を一つ吐きこう言った。
「ただ、もし失明したらどうしよう……そうなれば、裕子と桜を見ることもできないんじゃないか……」
その言葉は、自分に投げ掛けたものだと思われる。故に、私は何も返事をすることができなかった。
主人は夕食を食べ終えると、いつにも増して酒を飲んだ。その理由は、鈍感な私でも何となく察せられた。止めようかとも思ったが、主人の気持ちを思うとそれもできなかった。私には、落ち込んだ主人の背中を見守ることしかできなかったのである。
主人は長い間飲酒していたが、やがて満足したのか席を立った。それから、何も言わずに寝室へと向かった。
私は依然として主人のことが心配で、寝室へと向かう。寝室に入ると、顔を赤らめた主人が横になっていた。まだ意識はあるようで、瞬きを繰り返しながら天井を見つめている。
きっと、主人は今も不安の海の中で踠いているのだろう。そんな主人に、何か救いになる言葉を掛けられないだろうか。そう思ったものの、一向に言葉が思い浮かばない。歯痒い気持ちが募り、それと同時に自分が情けなくなる。
「ねぇ、あなた……」
先の言葉も思い浮かばないのに、自然とそんなことを言ってしまった。けれど、主人は返事を返してくれない。いつの間にか、主人はもう眠っていたからだ。

Re: 傍にいてくれたから ( No.9 )
日時: 2023/11/18 12:38
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第九話

それから、暫くの間主人の言葉数は減ってしまった。また、その声も深く沈んだものになっていた。主人は堪えたようで、それが身体にも現れていたのである。
また、変化は身体的なものに留まらない。緑内障と診断されてから、暫くはデートにも誘ってくれなくなった。
しかしながら、時と共に精神状態が回復したらしい。主人は、徐々に元気を取り戻してくれた。声色は明るくなり、顔色も心なしか良くなった気がする。
それが関係しているのか、ある日主人は私をデートに誘ってくれた。指定した場所は動物園で、二人で久しぶりのデートを楽しんだ。
それからというもの、主人は以前より頻繁にデートに誘うようになった。まるで結婚前のように、休日になる度に様々な場所に連れてくれた。
この心変わりは、一体どういう心理が働いて起こったのだろう。私は陰鬱な気分を晴らす為のものかと思ったが、そうではないらしい。それが分かったのは、月日が経ちまた春になったある日のことだった。

Re: 傍にいてくれたから ( No.10 )
日時: 2023/11/18 14:30
名前: 紅茶 (ID: S26AM191)

第十話

その日、私達は例年通り二人で花見をしに行った。場所は、以前と同様に近所の通りである。
私は主人と二人並んで、その通りを歩いていく。私達以外にも見物人はいて、皆が周囲を見回していた。両脇に咲いている桜は、空の青さによく映えている。ただ、今年は来るのが少し遅かったようだ。桜は枯れかかっており、前に見た時より活力の無い感じがあった。
「ちょっと来るのが遅かったかもしれないね」
私は傍らの主人にそう言った。すると、主人は缶コーヒーを飲んでからこう返す。
「そんなことはない。枯れかけの桜だって美しいじゃないか」
そう言うと、コーヒーをまた一口飲む。そんな主人に私はこう尋ねる。
「ねぇ、後どれくらい桜は咲き続けるのかな?」
「後一週間もしない内に枯れるだろうな。でも、来年になったらまた咲くからいいじゃないか。ただ……」
主人はそこで口を噤む。
「ただ?」
主人は言いづらそうにこう言った。
「来年も見られるか分からないな。もう既に、だいぶ目が霞んできたし」
「不吉なこと言わないでよ」
「いや、実際そうかもしれない。後数年経ったら、外出すら苦労するくらいになるかもしれないな」
「だから、やめてよ……」
私はそう言うが、主人は言葉を止めようとしない。
「だから、俺はデートに誘ってるんだ。後何回、裕子と同じ景色を見れるか分からないからなぁ」
その主人の本心は、初めて聞かされたものだった。それは私にとっては嬉しくもあり、しかし主人の胸中を思うと悲しくもなるのだった。
主人は不意に顔を上げ、枯れかけの桜を見つめる。その目には、桜はどう映っているのだろう。


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