コメディ・ライト小説(新)

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  の甼
日時: 2019/01/06 23:15
名前: Garnet

題名は『  の甼』です。
『の甼』ではありません。

※次回更新分は、最新レスに加筆、という形で掲載させていただく予定です!
 一章分をキリのいいレス数に収めたいというこだわり。


Contents >>


【Citizen】(おもな登場人物 隣のかっこ内は誕生日)

氷渡ひど 流星りゅうせい  (12/23)
上総かずさ ほたる (5/4)

佐久間さくま 佑樹ゆうき
柳津やなぎつ 幸枝さちえ
 >>23(本編未読の方は閲覧非推奨)

志賀しが 未來みらい
小樽おたる あずみ
すぎうち たえ
池本いけもと ゆずる
柳津やなぎつ 睦実むつみ
 >>


○ひよこ
○てるてる522
○亜咲 りん
○河童
○上瀬冬菜
(敬称略)


 2018年夏 小説大会 コメディ・ライト小説部門 銅賞
 投票してくれた皆さん、ありがとう。正直、あまり実感がわいてないです

彼らがうまれた日◎2016年5月4日
執筆開始◎2016年5月7日

イメージソング
『Crier Girl&Crier Boy ~ice cold sky~』 GARNET CROW


*





 ──────強く、なりたい

Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11



Re:   の甼 ( No.48 )
日時: 2018/06/02 00:03
名前: Garnet

「っはよー流星。今年もお前と同じクラスになれるなんて、ツイてるわぁ」

 クラス発表の4枚の模造紙と格闘した後、手作りの花で飾られた教室で顔見知りたちと話していると、後ろからいきなりクラスメートの男子が飛びかかってきた。

「ああ、ゆずる! おはよう、待ってたよ」
「へへっ」

 すぐ隣で、きりりとした目が僕を捉え、ほぐれる。
 彼とは小学校のときから、ずっと同じ組で過ごしている。1学年ぎりぎり3学級のちいさな学校だったけれども。

「そういやあいつ……志賀しが、今年は隣のクラスになっちまったな。俺たちがいなくて大丈夫か?」

 僕の肩に腕を絡めたまま穣が言うと、皆、苦笑いを浮かべて目を見合わせた。
 志賀しが未來みらい。彼もまた、穣ほどではないが小学校で幾度となく同じ時を過ごした仲間である。僕らとつるんでいるなんて信じられないほど、普段は大人しく、内気で人見知りな性格の男子だ。

「アイツは目立つもんな~。その特徴を活かせばいいのに、うじうじしちゃって。きっと今頃教室の隅で震えてんじゃね?」
「容易に想像がつくな」
「いや、逆に安心して羽伸ばしてるかもよ? ゆずるほど色が黒いやつは、4組にいないだろうし」
「悪かったな、オセロ兄弟で」

 彼らが次々と、未來のくしゃみの原因を作り出しそうな話題を展開していく。僕はただそれをへらへらと見ているだけだったけれど、最後の穣の発言で、つい吹き出してしまった。
 彼が年中小麦色の肌だということに気がついたとある冬の日「じいちゃん譲りなんじゃい!」と半分怒りながら言われたことがあって、それ以来ときどき、穣と未來はオセロ兄弟、なんて呼ばれているのだ。

「りゅーせー、そこで笑ってんじゃねーぞ」
「悪い、ついつい」

 文字通り、どっと笑い声が溢れる中、僕は彼が、志賀未來が真面目に心配になってきてしまった。
 ただでさえ彼は、アルビノ持ちでその真っ白な容姿が目立つというのに、元クラスメートの半数以上が素直に美形だと認めるほどきれいで、中性的な顔立ちをしているし、かと思えば重度の人見知りで。この新しい環境では、そんな未來のことを気に入らない輩もわんさか湧いてくるだろう。主に上級生とか上級生とか男子とか男子とか。
 ボディーガードが同じクラスにいるようだから、なんとかなりそうな気もするけど。

「まあ、俺達がこんなこと言わなくても、1週間もしないうちに誰かしら女子がまとわりつくだろ……」
「流星、おまえ笑えない冗談言うなよな」

 僕の言葉に穣が顔をひきつらせる。ははは、と辺りから乾いた声が漏れ、最後には僕をのぞいてほぼ全員が盛大なため息をついた。何をそんなに、落ち込んでいるんだ。
 すると、そんな暗い空気を打ち破るように、とある女子生徒がやって来た。人一倍ある存在感が背後から漂ってきて、思わず振り向くと。

「あ、タエ」

 僕の口から、反射のように彼女のあだ名が滑り落ちる。
 密かに未來のボディーガードと称させていただいていた彼女……杉ノ内たえ子も、穣や僕たちと同じ小学校出身でよく見知った同級生だ。歳の離れた姉のおさがりだという制服を思いきり着崩していて、彼女は周囲の景色に良くも悪くも溶け込んでいなかった。

「あんたらねえ、黙って聞いてりゃ、未來のことを好き放題……」

 怒っています、と、顔に大きく書いてあるような表情で、彼女は僕たちのことを順に睨み付けていく。先ほどの話はきちんと聞かれてしまっていたらしい。

「は? 事実を述べたまでですぅ~」
「おまえは一旦引っ込んでろ!」

 びしっ。と音が聞こえてきそうなほど勢いよく、穣にその細い指先が突き付けられた。
 髪の色が生まれつき明るいことと、物心ついたときから言葉遣いが乱暴だという点から、一部の高年齢層の人たちには良くない目をむけられてきた彼女。幼い頃、真剣にそのことについて悩んでいたものの、今現在は、とうに吹っ切れている。僕も未來も彼女自身も、それでいいと思っている。

「残念ながら、あなたたちの大事なお友だちである未來君は、かわいーいガールフレンドと仲良くお喋りしてるので」
「か、彼女?!」
「たえっちゃん、それマジかよ」

 なんだか妙に盛り上がってないか。
 つーか、ガールフレンドって。あいつが入学初日から話せるような顔見知りの女子なんてそれこそ、タエくらいしかいないんじゃないの。
 僕の中に生まれた大きな疑問は、次の彼女の言葉で更にふくれ上がった。

「お隣の東小出身の、未來の幼なじみっすよ。緑色のおめめがとってもきれいな」
「おおー」
「え、まさか外国人?」
「いいや、純日本人だけど」
「ちょっと見に行こうぜ!」
「おい待てよ、俺も行くー!」

 ばたばたと足音を立て、みんな廊下へ飛び出していった。一瞬、何事か、と周囲からのささやかな注目を浴びたけれど、新たな人間関係作りに勤しむ彼らの興味も関心も、そう長くは続かない。これから学校行事なんかで仲良くなれるチャンスはいくらでもあるのだから、それほど焦らなくてもいいんじゃないのかなあ、と思う僕はこの時点で遅れをとっているのだろうか。なんてことはどうでもいい。
 完全なる置いてきぼりをくらった僕は、教室の入り口でドアに寄りかかる彼女の話を聞いてみることにする。何事においても相手の言葉を受けとめることは大切だ。RPGの主人公だって、村人の話はきちんと聞いて回るし。

「タエ、突っ込みどころがありすぎて、どこから質問したらいいのかちょっとわからないんだけど」

 いつからかなんて覚えていないけど、僕たちはこの人のことをタエと呼ぶようになっていた。子、とつく自分の名前があまり好きじゃないからだというのは、記憶にきちんと残っている。

「ご存じのとおり、あたし、未來と同じ4組でさ。とりあえず顔見知りが来るまであいつと話してたわけね」
「うん」
「でも未來んやつ、例の女の子が登校してきた途端顔色変えちまって、あたしのこと放置で彼女とのお話しに夢中やーで。その子とはどのようなご関係で? と訊ねましたら、母親同士が友達で、さらに同じ幼稚園に通ってたもんで、昔からちょくちょく会ってたんですってー。ほら、あいつ幼稚園は私立通ってたじゃん、隣町の」
「……そんな人がいたなんて、初耳なんですけど」

 軽く理解が追いつかない。

「あたしもだよ!」

 信じらんないっしょ、向こうもあたしのこと全く知らなかったんだから。そう言って、緩めていたネクタイを締め直す。
 彼のことだから、冷やかされると思って自分からは言わなかったのかもしれない。とはいえ、向こうの彼女、がタエの存在すら知らなかったというのは少々驚いた。その調子では、僕のことも当然知らないのだろう。

「ほんで、つまんなくなって、トイレ行くついでに流星にちょっかい出しに来た」
「俺はついでなのかよ」
「ひっひっひ。まあ、あんたも見に来なせーよ、べっぴんさんだから」
「えーっ」

 あいつらと同じ扱いか。悪いんだけど、まだそれほど"女子"に興味がない。しかし、大きすぎるサイズで買われたブレザーの袖を軽々と引っ張られるので、仕方なく彼女について行くことにした。
 辺りを見回してみると、廊下の壁にも教室同様、使い回しらしき紙の花飾りやら折り紙の鎖やらがびっしり並んでいる。派手だ。実に派手だ。もう小学生じゃないんだから、勘弁してほしい。

「東小なあ。明陽小と統合するんで廃校になるとか、言ってたっけ?」
「そーそー、再来年度ね。この町自体も、近いうちにお隣さんたちと合併すんだってよ。姉さんと母さんが言ってた」
「まじかよ。じゃあ、明陽町、じゃなくなるの?」
「そこまでは知らねーけんど……たぶん、町の名前は残るんじゃない?」

 そして高齢化をたどる一方の田舎特有の会話と、純度の低い方言。
 べつにこの町のことをけなしている訳ではないけれど、僕だって年頃なのだ。憧れるものがあるのも、ダサいと思ってしまう気持ちがふつふつと沸き上がってくるのも、仕方のないことだろう。
 そういえばタエの姉さん、役場勤めなんだっけ?そうそう今年からねー。すげーなー今度焼き肉おごってもらおうぜ。いいねぇそれ。……その場しのぎの話題で、いやなことは忘れる、忘れる。
 ああ、ほんとに焼き肉食いたくなってきた。

「ほら、あの子」

 ちっちゃな校舎のちっちゃな教室3つ分なんてあっという間で、タエは僕の腕から手を離すと、4組の教室の中を指差した。とは言っても廊下側、一番後ろの席なので目の前だ。女の子が座っている席を、案の定穣たちが囲んでいて、未來はその片隅で申し訳なさそうに、眼鏡のレンズの奥の視線を泳がせていた。

「あずみ。未來とあたしの友達、連れてきた」

 少し低いタエの声に、あずみと呼ばれたその女の子が振り向く。
 高く結った柔らかそうな黒髪が揺れて、偶然にもぴったりと目が合った。本当に、まじりけがない緑色の瞳をしていた。
 …………ううん、あれ?この顔、どこかで見たことがあるような。

「あんだよー、俺らは未來の友達じゃあねえってのかー?」
「黙れ黙れい! かわいいあずみちゅあんのご指名なんだよばぁーっか」

 ご指名って。
 彼女と友達になろうとしていた穣たちは文句こそ言っていたけれど、その子が席から立ち上がろうとするときちんと避けて、道を開けてあげていた。根は良いやつらなのだ。

「あ、あの、はじめましてっ。東小出身の、小樽おたるあずみって言います!」
「ど、どーも。氷渡すがわたり流星です。氷を渡る流れ星って書くんだ」
「素敵な名前!」
「あ、ありがとう」

 同い年相手にわざわざ頭を下げてきた彼女は、タエとは対照的な外見だなと感じた。まず上着のボタンはきっちり閉めているし、ネクタイは曲がっていないし、スカートも膝丈を守っているし。言ってしまえば、普通だ、ということなのだけど。まあそんなことはどうでもいい。
 小樽あずみ────彼女が、後の上総ほたるである。

「あのさ、小樽さんってもしかして、明陽小に弟さんか親戚の方がいたりしない?」
「いとこがいるよ。新小2の男の子。知ってるの?」
「いや、実は去年、きょうだい学級……6年と1年がひとりずつペア組むやつでさ、柳津やなぎつ睦実むつみって子が相手だったんだ。なんとなく、雰囲気が似ている気がして」
「え、すごい! そうそう、睦実だよー!」

 やっぱり。
 ぱあっと花が咲くような笑顔を見せる彼女に何故か握手される。がさがさで冷たい僕の手に反して、彼女の手のひらは柔らかくて、とても温かかった。

「ねえ、わたしのこと、あずみでいいよ」
「じゃあ俺も、流星で」
「ふふ、よろしく、流星!」

 もう、雰囲気というかなんというか、オーラが似ている。睦実は目が黒いし、人懐っこそうな彼女に対して若干無愛想だけど。
 あの頃の僕は今よりとてつもなく馬鹿だったから、すごいねー運命だー、なんて彼女の言葉に素直に頷いてしまったけれど、こんなの、運命なんてロマンチックなものじゃない。単に僕らの住む世間が、呆れるほど狭いからというだけ。海を知らない、井戸の中のちびガエルなのだ。
 椅子に座った未來が、若干僕らへとがった視線を送っている気がして、それとなく、あずみの手をほどいた。

「ねえ、流星はラインやってるの?」

 彼女が訊ねる。

「アプリは入ってるけど、まだ始めてないよ。設定とかすんのめんどくさくて……」
「おまえさあ、ときどき変なところで面倒臭がるよな。あんなのメアドと番号登録してぴゃぴゃぴゃぴゃーで、すぐっしよ。めんどいのはツイッターだよ」

 穣はそう言いつつ背中を叩かないでほしい。地味に痛いし。

「え、穣、ツイッターもやってんの?」
「やってるよ、非公開設定で、名前も変えてるけど。今のクラスメートとも何人か繋がってるぜ。五十嵐とか渡辺とか」

 なんだか、当たり前のように笑いながらそんなことを話している彼が、眩しすぎる。僕には無理だ。
 べつにツイッターはめんどくさくないじゃん、などと論争を始めるみんなと一緒にしばらくへらへら笑っていたら、スーツ姿の男の先生がやってきて、生徒たちへ席に着くよう促しはじめた。
 僕らも1組に戻ることにする。気がつけば、ホームルームの3分前を切っているし。

「あ、そうだ、未來」

 最後に教室を出ていこうとして、彼に訊きたいことがあったのを思い出した。

「なに?」

 背筋を伸ばして座るあずみの前の席で、猫背気味の未來がゆっくりと振り向く。
 彼の白い髪が、さらり、と揺れた。

「部活見学、俺たちと一緒に行かない? 文化部なら、未來も入れそうなの、あるかもしれないだろ」
「部活はだめって、昨日親に、改めて言われちゃったから…………ごめん」

 眼鏡の奥に覗く、焦点の合っていないであろう青い視線が気まずそうに僕から外れていき、さっと背を向けられてしまった。

「わかった。じゃあ、またな」

Re:   の甼 ( No.49 )
日時: 2018/09/01 00:04
名前: Garnet



「そんな感じだったっけ、わたしたち」

 今もなお、こぼれ続けてとまらない涙を拭いながら、彼女は笑ってそう言った。

「ごめん、流星……くん、やっぱりハンカチ借りてもいいかな。目がおかしくなっちゃったのかもしれない、涙が、とまらな、ううっ」
「泣いていいんだよ。きみは今まで我慢しすぎたんだ」
「我慢なんてっ」
「してるでしょう」

 ハンカチをそっと握らせる。僕を見上げてくる今の彼女の顔は、記憶の中でいつもちらついている、無邪気で明るくてかわいらしい笑顔ではなかった。
 涙は透明な血液なのだと、だれかから聞いたことがある。泣くということは、目から血を流しているのと同じなのだと、その人は言っていた。ころんで膝に怪我をしたとき、血が出て痛いと感じるのと同じように、心に怪我をしたときには涙が出るんじゃないだろうか。

「これ以上我慢したら、もっと大事なところがおかしくなって、涙さえ出なくなっちゃうよ」

 そうしたら、僕の父親みたいに、なってしまうから。








 あの頃の僕は、世界にきらきらした目を向けていたから、周囲との人間関係も年相応にそこそこ作っていたし、テレビ番組もよく見て、友達が好きなバンドのCDを借りて聴いたりしていた。とても、幸せだった。
 もうすぐ夏休みに入るという頃だけど、あずみにはときどき、廊下ですれ違ったりしたときに声をかけていたりするし、未來やタエはもちろん、穣たちとの付き合いも変わらず続いている。彼らのテニス部やサッカー部入部の誘いは断り、ひとりで卓球部に入ったものの、新しくほかの組の友達もできたし、元々部員の数が多くないことからあっさりと実質上のレギュラーになってしまった。同級生は、努力した成果だと言ってくれたけれど、大会で組む予定の先輩には申し訳ない限りだ。
 そんなこんなで、まあ、たぶん順調に、悩みあり笑いありの青春とやらを築き始めているんだと思う。

「あとのことは全部やっとくからさ、流星、もう部活行っちゃっていいよ。代わりにゴミを持っていってくんない?」

 放課後の、蒸し暑い空っぽな教室で、生徒の机を綺麗に並べ直すという日直の仕事をちょうど終えたころ。席が隣同士ということで、僕とペアになっている女の子が、さっさと手際よく黒板消しを走らせながら言ってきた。

「え、いいの?」
「運動部だし、大会近いんでしょー。わたしは、次の部活は金曜日っていうゆるっゆるの暇人だから。テストが終わって余計暇っつうか」

 扇風機のやわい風が、汗のにじむ肌へ、広がってくる。
 そういえば彼女、料理部に入ったとか言っていたっけ。僕も興味はあったんだけど、大抵週一回か二回のペースなのと、雰囲気が少しゆったりしすぎているのとで普段退屈しそうだから、四月の時点で早々に入部候補から除外していた。校則で、兼部は出来ないと決まっているし。
 ……お言葉に、甘えよう。

「わかった。ありがとな」
「いーっていーって」

 荷物を背負い、すでに縛ってあるぱんぱんな半透明の袋を、彼女から受けとる。案外重い。
 掃除当番のヤツが外へ出しにいくのを忘れたかららしいけど、僕なら体育館に向かう道中で事足りるし、何ら問題はない。
 この教室がある三階から西階段を下りていって、階段からは一番遠い、表玄関に向かう。広場に出て桜の木のトンネルをくぐり、校内の敷地のもっと奥のほうに歩いていけば、自転車通学者と職員用にそれほど広くはないトタン屋根つきの駐輪場があって……、そのわきに、ごみ捨て場へと続いている道がぽっかりと開いているのだ。黒い土がむき出しなので、雨のあとなんかにはゴミ出しに行きたがらない人が多い。仕方がないけれど、特に女子。
 と、脳内で必要もないシミュレーションをしているだけであって、実際僕は、まだ2階へ下りてきたばかりである。
 だって、ねえ。

「まじであっちい……」

 クーラーぐらい、付けてくれたっていいだろう、このド田舎。隣町と合併したら、いい加減にきちんと接してほしいものだ。
 踊り場でしゃがみこんで、頬を拭った。廊下のほうから、楽器の音がごちゃごちゃに混ざって響いてくる。
 伸びてきた前髪が額に貼り付くほどには汗がとまらない。もうこれ、前髪どころか後ろ髪も全部いらないんじゃないの。坊主頭にしてやろうか、絶対似合わないからやめとけって、よく周りに言われるからしないけどねはっはっは。

「だよねー」

 ついに暑さで気がおかしくなったのか、ひとりで笑い出しそうになった5秒前。音もなく、隣によく見知った人影が現れた。

「おお、あずみじゃん」
「小樽あずみです、ふふふふ。昨日の体育祭練習以来だっけ」
「そうだね」

 首から黒い紐のようなもの(ストラップ、というらしい)をぶらさげているのはたぶん、彼女が吹奏楽部員だからだ。
 相変わらずポニーテールがよく似合っているなとか、どうでもいい方向に思考が傾いてくる。たぶんきっと、これも暑さのせいだ。

「冬はストーブがちゃんとあるのに、夏だけこんなのっておかしいよねえ。あつーい暑い」
「それはそうだけど、きみは部活の練習中なんじゃない?」
「べつにさぼってるわけじゃないよ。頭がぼーっとすっけん、顔洗ってきたの。そしたら、流星がいた」
「なあるほど」

 彼女がなぜか一緒にしゃがんでくる点は無視して。

「そういやさ、最近、あいつ……未來、どう?」
「え?」
「ここのところ、あいつ、放課後になると逃げるみたいにさっさと帰っちゃうだろ。昼休みもどこかに行ってるみたいだし。夏休みに穣たちと遊びにいく計画があるのに、ちゃんとみんなで話す暇がなくってさ」

 未來は携帯電話を持っていないし。

「ああ、うん…………、なんだろう、ねえ」

 それまで僕の顔をきちんと見ていたあずみの目が、どんどんあさっての方向へ逸れていく。なにか知っていそうだ。でも、確信がないようにも見える。
 この子はあまりにも感情が顔に出るな。鎌をかけるのはやめておこう。

「やっぱ、知らないよね。このままだと置いて行くぞって、あいつに伝えておいてくれる?」
「う、うん、うん、わかった!」

 慌てて何回も頷く彼女に安心してもらいたくて、意識的に優しい笑顔を作り出し、ごみ袋を持って立ち上がったのだけど。

「流星」
「ん?」

 座りこんだままのあずみが、控えめな声で呼びとめた。

「おねがい。未來のこと……怒らないであげて」

 そんな上目遣いで頼まれると、考えるより先に頷いてしまう。どことなく気まずくて、僕はそのまま、小走りに階段を降りていった。
 努力するよ、と答えておいたけど、怒らずにいられる自信は今のところない。長い付き合いだとはいえ、かなり内向的な彼とはすれ違ってしまうことがよくあったし、そんな相手も自分のことも受容できるほど、僕は大人ではないのだ。理解すること、認めること、受け入れることは、それぞれまったくの別物だと思う。
 一歩間違えれば屁理屈にもなりそうな考えを整理しながら、玄関で靴を履き替え、ごみ捨て場への道を急ぐ。日直の仕事をこなしてくれているあの子に申し訳ないし。
 強い日差しで、乾いたアスファルトにくっきりと、木漏れ日が映し出されている。桜の木の、淡い花びらを身にまとっていた姿を忘れさせてしまうような深緑の装いには、涼しく感じるどころか、容赦なく汗が吹き出してくるわけで。体育館の蒸し暑さを連想すると、気は滅入る一方だ。僕は夏よりも冬に強い男である。

「雪かきのほうが、まだマシだっつーの」

 一人でぶつぶつと文句を垂れながら歩いていると、前からずいぶん賑やかな男子生徒たちの声が聞こえてきたので、お口を閉じた。不審者だと思われるのは心外だし。
 駐輪場のほうから姿を現した彼らは、自転車通学者とそのツレのようで、少々関わりを持つのを躊躇いたくなるような気体を辺りに発散させている。迫りくる夏休みに浮かれすぎて、一時的に地に足が付いていないだけなのか、もともとそういう性質を持った人間なのかは知らないし、知りたくもないけど、まあ要するに彼らが"不良"と称されそうな風貌なのだと言いたいのである。
 属性としては、僕や穣も決して遠くはないものがあるが、彼らのいる場所までにはいくえにも壁が重なっていて、簡単に蹴破っていくことはできないだろう。向こうもきっとそう思っている。
 三年生のリーダー格らしき、髪を不自然な茶色に染めている生徒のひとりが、ご機嫌そうに自転車をかっ飛ばしていった。最後に学校を出たやつが全員分のジュースでも奢らされるのかもしれない、と勝手な想像をしてみる。たぶん半分くらいは正解なんじゃないか。知らないけど。
 この道が緩い坂になっているせいか、彼の後ろ姿はどんどん小さくなっていく。それを追いかけるように、同じく自転車にまたがったり、息を切らしながら駆けていく生徒たちが次々と、こちらへ向かってきた。それはそれは、イノシシのような猛スピードで。
 対人関係に強い者ならともかく、そうでない……とくに僕のような人間は、こんな場面に遭遇したときはおとなしく隅で息を潜めていなければならない。だから、道の真ん中を歩いていたのを、そっと端に寄ってやりすごそうとした。
 したの、だけど。

「うぶぁっ!」

 瞬間、だれかと正面衝突してごみ袋がふっ飛び、視界は勢いよく傾いた。自分の口から発せられたのかどうかも疑わしい音声がすぐ近くから聞こえてくる。
 幸い軽く腰を打っただけで済んだが、混乱して、倒れこんだまま動けない。何種類もの悪意を含んだ笑い声が、頭上を通過していったのは、この耳の聞き間違いなんだろうか。

「すすっ、すみ、すびばせん、大丈夫ですか! …………あ、りゅーせい?」

 視界の半分近くが地面の灰色で覆われていたところへ、久しぶりな顔が覗いて、ますます混乱が僕の頭に渦を作った。ぐるぐると。
 なんでパーカーを着て帽子までかぶってるんだとか、もうわかりきっているはずのことまで疑問へ逆流していく。制服の上からの私服着用を許可された唯一の生徒だからだと、その点はなんとか、すぐに再理解できたけれど。

「え、どうしたの、未來。家に帰ったんじゃないの?」

 それだけは、既存の情報から推察できない。
 彼はいつも、徒歩か、家族の運転する車で登下校しているはずだ。こんな場所に用などないだろう。なのに、なぜ。

「べつに、大した用じゃないよ。ごめんね流星、僕、急いでるから」

 転んだはずみでずれてしまったのか、眼鏡をかけ直しながら立ち上がる。
 そのとき揺れた真っ白な髪に、真っ白な頬に、不自然に黒い色がかかっていたような気がして。

「未來」
「え、なに」

 走り去ろうとした彼のパーカーの袖を、右手が反射的に、掴んでいた。

「なにか、俺たちに隠してないか」

 喉元につかえている、無意識に導き出されてしまった答えを、認めたくなかっただけなのだ。
 彼を傷つけるつもりなんて、これっぽちもなかった。困らせたいわけじゃ、なかった。
 僕を見る、震える青を捉える。
 ただ、否定してほしかっただけだ。
 でもそう言ってしまうにはあまりにも自己満足的で、あまりにも無責任で、衝動的な言葉を、彼には浴びせてしまったのだ。

「なにも、隠してなんか」
「本当に?」
「ほんとだって」
「そう、あずみに訊いたっていいんだよ」
「なんで、はなして」
「あの子は恐ろしいくらい、顔に出るよね。きっとすぐ吐いてくれるんじゃない?」
「離して」
「未來だってさあ」
「離せよ!」

 ぐん、と力が弾けるのを、手のひらに感じた。
 いつも物静かで、隅っこでおどおどしていて、泣き虫で、タエに守られていて、だれよりも背が小さい。そんなふうに思っていた未來は、もう、僕の前からいなくなっていた。いつのまに、彼は変わってしまったんだろう。

「僕には、守らなきゃいけないものがある。譲れないものがあるんだ。お願いだから……邪魔しないで」

 今まで一度も聞いたことのないような、強い口調だった。
 わかった、ごめん。と返すことしかできなかった僕を、彼はすこし、潤んだ瞳で見つめると、なにも言わずに走っていってしまった。
 守らなきゃいけないものって、なんだろう。
 とおく、遠くなっていく背中を見送るうち、未來のいる陽炎の中に、ぼんやりと、ある女の子の顔が浮かんだ気がしたけど、無意識にそんな影は振り払っていた。不確かな勘など、可能性など、信じたくなかったのだ。
 本来であれば六時間目の授業開始を知らせるはずのチャイムが校舎から聞こえてきて、我にかえった。早く、部活に行かなくては。
 制服の汚れをはたきながら、さっき放り投げてしまったごみ袋を持ち上げる。夏休みの件については、様子を見て、穣に、彼の不参加の旨を伝えておこう。
 もしかしたら交友関係自体も途切れるのかもしれない。でも、未來自身が何らかの意味と理由と、覚悟をもって決めたことだというのなら、少なくとも僕は口を出すべきでないと思う。よほど道を踏み外してしまわない限り。

「…………ん?」

 既に焼却待ちで山ができているごみ捨て場に、少々強引ではあるが、叩いたり蹴ったりしてなんとか袋を収めようとしていたとき。半透明のビニール越しに、見慣れた文字が目に入った気がしたのだ。
 よく見てみると控えめに、志賀、の二文字が並んでいた。未來以外でこの学年に同じ名字の生徒はいないはずだ。何かの間違いで、落とし物でも紛れ込んだのかもしれない。網をよけ、今しがたゴミの山に押しこめたばかりの袋を引っ張り出して、中身を確認してみることにする。
 嫌な予感がしなかったと言えば嘘になるのだろうけど、どうしてこのとき、それに気づいてしまったのか、どうして踏み込もうとしたのか、今でも自分がよくわからない。不確かな勘、を、確かなものにするための材料がほしかったのか。怖いもの見たさで、興味本意で首を突っ込みたくなってしまったのか。もしくは、ふたつの理由が心の奥底で手をとって、早くも共存を始めたのか……。
 無視をするべきだったとは考えていないが、何にしろ、また自己満足で動いてしまったのだという事実に変わりはないのだ。
 ほこりを被った未來の上履きが片方だけ出てくるのに、それほど時間はかからなかった。

Re:   の甼 ( No.50 )
日時: 2018/10/30 22:07
名前: Garnet




 先輩と組んだ夏の大会の結果は散々なものだった。人前で泣いてしまったのは、小学3年生の運動会、僕が学級対抗リレーで転んで、1位を逃したとき以来なんじゃないか。いちばん泣きたかったのは、これが最後の試合になった先輩のほうだったろうに、彼に慰められる始末だった。
 敗因は、何度も続いた僕のつまらないミスだ。手足が震え、球をこぼすたびに頭の中が真っ白になって。積み重ねてきた時間と自信が粉々に打ち砕かれていくのを、ただぼんやりと眺めていることしかできなかった。
 なんとか3回戦まで持ちこたえられていたのに。苦い思いが、今も奥歯にこびりついている気がしてならない。周りの大人はそれを、青春だねと言った。何度も。
 未來のあの言葉が忘れられず、そして結局、穣やタエに相談することすらできないまま、中学一年生の夏は消費されていった。
 盆に入る少し前から部活が休みになって、穣たちと約束していた小旅行に出掛けたときも、彼らいわく、僕は相当元気がなかったらしい。ウォーターパークも遊園地も、結構楽しめたんだけどな。
 新学期が始まってから、僕と未來のことに勘付いた穣たちは、だんだんと意図的に声をかけてくる彼を無視して、まるでいないように扱ったり、逆にこそこそと嫌がらせをするようになっていった。このまま放っておいたら取り返しのつかないことになりそうで、何があったか、夏休みの間中、悩んでいたのはどうしてかをつい最近になってやっとすべて打ち明けたのだけど、彼らの悪意はおさまるどころか、むしろ鋭利になっていく一方だった。静かに、けれども確実に、それは深く突き刺さって、未來を苦しめていく。周囲も、僕も、流れていく血は見て見ぬふりで。
 最初のうちは、穣なりに僕をかばってくれていたのかもしれない。形はどうであれ、彼なりの正義がそこにはあったのだ。でも、もう、そんな影も消えかかっている。今まで未來を守る側に立っていたはずの、痛みを知っているはずの僕たちは、彼を傷つける側に回ってしまった。
 もっと早く、穣にきちんと話せていたら。未來に謝ることができていたら。余計なことを口走らなければ。こんなことには、ならなかったのかもしれないのに。11月に入った今でも、そんな思考が頭の中を行ったり来たりしている。過ぎてしまったことを悔やみつづけるのがどれほど愚かしいことか、頭ではわかっていても、心の中では割りきるなんて、できやしない。
 今日の掃除の時間も、廊下で友人が、通りがかった未來の足にわざと箒を引っかけていた。僕は、それを目の前にしながら何も言うことができなかった。

「あいつ、俺たちのことも、だれにもチクってないみてーだぜ。あんなんじゃ、格好のターゲットやでよ。ヤンに絡まれてるのも自業自得だわなぁ」

 部活の終わった放課後、帰り道。
 今の西の空に浮かぶ、沈みかけの夕陽みたいに真っ赤な落ち葉たちを踏みつけながら、穣が笑う。真っ白な歯を覗かせて。
 いつものように否定も肯定もできず、曖昧な笑みしか返せなかったけれど、彼はそんな僕に文句を言ったりはしなかった。ときどき、それがどうしようもなく怖い。答えをすこしでも間違えたら、今度は僕が何かされるんじゃないかって。そんなこと、あるはずないんだけど。そう思いたいんだけど。

「そんじゃあ流星、俺、今日からバスになったから、ここで。またな」
「バス通、春までだっけ?」
「ああ。そしたらたぶん、チャリ通に戻って、今くらいの時期にはまたバスになると思う」

 穣の自宅である、築90年弱の池本邸は明陽中から少し遠いところに建っているので、彼は今まで、自転車で通学していた。しかし、いくら男子とはいっても最近は物騒な世の中である。父親の友人が経営している学習塾に、この冬から通い始めるという予定も重なって、母親に強くバス通学を勧められたのだそうだ。
 対して、僕の住んでいる、空室だらけの2階建てアパートは学校から比較的近く、徒歩30分くらいのところにある。これからもしばらくは歩きでの通学を続けるつもりだが、3年生になる前には様子を見て切り替えるかもしれない。
 うちの中学はそのへんがかなり緩く、柔軟に対応してもらえるので、生徒たちはかなり助かっていたりする。穣もそのうちのひとりだ。

「そっか。じゃあね、穣」
「じゃあなー」

 互いに笑顔で、その日はあっさりと別れた。
 家路を急ぐ周囲の生徒たちは、まさか僕たちが、友達だったはずの子をいじめている人間と、それを傍観している人間だなんて、知るよしもないだろう。もしかしたら、タエも。あずみだって。
 あのふたりの前では、僕たちはずいぶんと取り繕っている。以前までのように仲のいいふりを、している。未来と、穣と、僕がそうしつづけている理由はそれぞれ違うものなのだろうけど、底で根を張っている罪悪感から目をそらせないのは、きっとみんな同じだ。僕なんてクズも同然だと思う。本当に。先が思いやられるどころの話ではない。
 9月半ばの体育祭でタエの母親に撮ってもらった、どこかぎこちない笑顔たちは、もうすでに偽物だったのだろうか。10月の合唱祭で、本番前、未來にかけた応援の言葉は、嘘だったのだろうか。
 30分間、悶々と悩みながら歩き続けたせいで疲れてしまった。一旦だれもいない家に荷物を置いてから着替え、近所を軽く走ってみる。頭のなかが散らかるときは大体いつもそうするし実際リフレッシュできるんだけど、母親や文化部の人にはよく、まったく理解できない思考回路だとか、余計疲れるだろうとか言われてしまう。僕には、絵を描くとか、読書をして気分転換するとかのほうがよくわからない。身体のつくりが根本から違うのだろうか。
 日が沈んで辺りもほとんど真っ暗になったので、いいかげんに帰ろう。つい最近、不審者が出ているとか、学校で言われたばかりだし。
 がむしゃらに走っていた足に減速の号令をかけて、狭い歩道をあるいていく。
 ほどよく上がった体温と冷えた空気の差が心地よい。冬が来たのだと、いう感じがする。僕は春より夏より秋より、冬のほうが好きだ。断然。


 アパートに戻ってくると、窓から部屋の明かりがうっすらと漏れていた。二階の角部屋が、僕らの住居である。
 母さんが入れ違いで帰ってきたのだろう。夕飯を用意して待ってくれているかもしれないと思い、玄関の鍵を取り出そうとポケットを探っていると、部屋の中から声が聞こえてきた。
 ……何を言っているのかはよく聞こえないけど、父さんだ。
 彼とは長いこと、顔を合わせていない。家には帰ってきているみたいだけど、それでも僕や母さんが眠ってからで、翌朝も、目覚めたらすでに出かけてしまっている、というような人である。僕の記憶の中の彼は、4年ほど前のぼんやりとした印象のまま、更新されていない。それでも声はよく覚えていたし、実際ほとんど変わっていなかった。

「ただいまっ、父さん、いるの?」

 急いで白いドアを開けて、部屋に上がった。いつもの小さな玄関には、黒い革靴が脱いである。
 久しぶりだから、話したいことがたくさんあった。聞いてほしいことがたくさんあった。お酒を飲んで、次の日の朝になったら全部忘れてしまうかもしれないけど、それでもよかった。最後にひとこと「仕事、頑張ってね」と言えたら、僕も少しは────なんて、考えていたのに。

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

 母さんの、すがりつくように謝る声が居間から響いてきて。
 床の軋む音とともに、足が止まっていた。

「しばらく帰らねえから」

 仕切りの暖簾のれんをくぐり、黒いコートを羽織った父さんが、目の前に現れた。
 白髪が増えて、随分痩せたような気がする。4年前の印象との変わりように僕は軽く混乱したくらいなのに、彼は無表情のまま、玄関へ一直線に歩いていこうとしていた。

「と、父さん? もう行っちゃうの?」

 次に会えるのがいつか、見当もつかない。すれ違い様にコートを掴んで、引き留めた。
 煙草をくわえた、僕よりもうんと背の高い父さんが、静かに振り返る。数秒、他人を見るような暗い目で僕の顔を見おろしたあと、ゆっくりまばたきをして、

「……ああ、おまえか」

 温度のない声でそう言ってから、彼はのろのろと靴を履き、出ていってしまった。

「へ?」

 なに。
 なに、今の。
 鍵のかかったドアの前に呆然と立ち尽くし、回らない頭で考えようとしてみたけど、何もできやしない。
 自分の子供だと、認識されていなかったのだろうか。家族だということを、忘れてしまったのだろうか。
 悲しみだなんて、そんなものはやさしすぎる。簡単すぎる。言葉にできない感情が、湧き上がって、とまらなかった。
 裏の駐車場でエンジンのかかる音が聞こえる。あの車にだって、もう何年乗っていないだろう。あれ?そういえば、煙草なんて吸う人だったっけ。
 ……………………ああ、臭いなあ。

「流星、おかえり。ご飯食べよう」

 母さんの声に、振り返る。また、みしりと、床が軋んだ。
 彼女はいつものように微笑んでいた。泣いて少し赤くなった目を、ごまかしているつもりなのか。

「お父さん、最近は実家で寝泊まりしているんだって」
「え、母さんもあの人も、生まれは東海じゃなかった?」
「5年前にお引っ越ししてたの、お父さんの会社に近いところに。おじいさんもおばあさんも、元気に暮らしてるみたいよ」
「ふうん」

 母さんのほうはどうなの、と、流れで余計なことを訊いてしまいそうになった口にふたをする。そちらも何事もなく生きていると、思いたい。

「おじいちゃんと、おばあちゃんに、会ってみたい?」

 台所へ向かいながら、そんなことを言われた。
 テーブルの上には、温められたコンビニ弁当が3人分、並べてある。この町のコンビニでは見ないような中身だ。

「…………べつに」

 たとえ血が繋がっていても、僕にとってはただの他人にすぎないから。
 彼らだって、いきなり初対面の孫を前にしても困るだけだろう。言葉もおぼつかないくらい幼い子どもならまだしも、もう、中学1年生だし。

「そう? 冬休みにでも挨拶に行こうよ。電車に乗って2時間くらいで着くから」
「母さん」

 そんなことなど彼女が一番わかっているはずなのに、まだ祖父母の話を続けようとするので、思わず余計なことを口走ってしまった。

「今日は叩かれなかったんだね、父さんに」

 あのときの彼女の表情を、しばらくは忘れられないだろう。

Re:   の甼 ( No.51 )
日時: 2018/11/18 21:47
名前: Garnet

 今思えば、あの人はずいぶん前から、精神疾患にかかっていたのかもしれない。テレビかなにかで何度か聞いたことのある長い病名が頭に浮かんで、消える。そういえば、明陽を出ていく直前だったか、医者もそんなことを言っていたっけなと、ぼんやり思い出した。
 そんな状態の父さんに手を上げられつづけてもなお、離れられずにいた母さんは彼に依存していたようなものだし、あれから1歩2歩、3歩と間違えていれば、最悪の場合、氷渡すがわたり流星も氷渡ひど流星も、今ごろこの世に存在していなかった可能性だってある。誇張でも考えすぎでもない。
 もしそうなっていたら。未來は、タエは、穣は……あずみは。上総ほたるは。きっと、いろいろなことが、今以上にめちゃくちゃになっている。
 食べかけの唐揚げ弁当のふちに、いびつに割れた箸を揃えて置く。
 僕はやっと目が覚めたのだ。母さんにも、現実を見てほしかった。だからそのために僕は、刺すような言葉ばかり選んで、わざと母さんを傷つけた。父さんを、非難した。
 よくない言葉を使うと、発する側にもそれなりの代償が回ってくる。その言葉たちは音もなく、確実に、心というものを蝕んでいく。ほとんど自覚のできない傷や痛みが、相手を苛む対価として支払われる。蓄積したそれらも、きっと氷渡ひど流星の一部だ。呪いたいとは思わない。そのおかげで僕たちは、今、こうして生きているのだから。


「なに、言ってるのよ」
「あの人が、そんなことするわけないじゃない」

「昔はあんな人じゃなかったのよ」

「優しかった。だれにでも分け隔てなく優しくて、とても穏やかな人なの、あなたのお父さんは」

「お仕事だって、すごく頑張ってる」
「この数年も、庄太郎しょうたろうはね、何度も仲間をかばって、責任を負ってきたの。わたしと流星を守ることに繋がるからって、わたしたち家族の幸せを、守りたいからって!」


 庄太郎……そんな名前だったっけ、あいつ。


「きっと、その分、会社では酷い目に遭わされていたのよ。お酒は若い頃にやめたはずなのに、いつのまにか沢山飲むようになって。煙草もそう」


 母さんは、おかしな顔をしていた。泣きながら、怒りながら、笑っていた。
 僕の試みは成功したのだ。大きな痛みと引き換えに。


「流星の寝顔を見ながら、お父さんは、消え入りそうな声で、今にも泣き出しそうな声で、強くなりたいって言った」
「だからわたし、もうあなたは充分強いって、そんな職場なんて辞めて、どこか遠くに引っ越しちゃおうよ、逃げちゃいましょうって言ったの」
「そうしたら、お前に何がわかる、って」
「初めて……たれた」
「痛かったし、とても怖かった、でもねあの人は、優しいからっ、すぐに謝ってくれたの」

「本当はいい人なのに、わたしたちを愛してくれているのに、わたしが変なことを言うから、受け止めてあげられないから」


 ────それが、決定的なきっかけだったのだろう。
 それよりもずっとずっと前から、たとえ身体的な暴力を振るっていなかったのだとしても、言葉や態度で、彼女を傷つけていたのかもしれない。
 そのあとは優しく接して、ときには大袈裟に謝って、母さんを自分から離れられないようにしていたのだ。意識的にそうしていたのか、無意識だったのかはきっと、本人にすらわからないのだろうけど。
 気がつけなかった……いや、どこかで勘づいていたくせに、認められなかった僕も、彼らと同類だ。
 家族だから。親子だから。当然なのかもしれない。

「かわいそうな人だよね」

 だれが、とは、とても言えなかった。


*




 翌朝、いつものようにウインドブレーカーに着替え、いつもより早い、まだ日も昇っていない時間に家を出た。
 そっとドアを閉めて、意味もなくあたりの様子をうかがう。ただでさえ辺鄙なこの町は、人々が眠りにつくと恐ろしいほど深い静寂に包まれて、足音ひとつでも大きく響きわたりそうな錯覚に陥ってしまう。寒い時季は、特に。
 昨日とは段違いに冷え込んだ空気で、僕の中の何かが変化してしまったのだと思い知った。でも、不思議と悲しくはない。むしろ少しだけ、生きやすくなったような気すらしている。
 頭の中を綺麗に片付けようとしている今、考え込むなどというのは馬鹿のすることだ。汚いものに蓋をするつもりでほどけそうな靴紐を固く結び直し、ひと呼吸おいてから、慣れた道をなぞり始める。
 もはや存在意義を見いだせない歩道の縁石を飛び越え、ネズミ1匹の影も見当たらないような車道のど真ん中を走った。点滅している信号機も無視して、ただ、走る。はしる。
 近所の畑も小さな田んぼも、暗い色の土がむき出しになっているばかりで、とても淋しい眺めだ。この季節には独特なにおいのする蒼白い煙もあまり上がらないから、うんと小さい頃は、地面が死んでしまったのだと思いこんで、陰で泣いていたこともあったっけ。未來たちと出会ってから、そんな冬への恐怖心も薄れたけれど、あの感覚は今でもほんの少し、背中のあたりに冷たく残っている。
 あの頃は、溺れてしまいそうなくらいに深い雪の中で笑っていたくせに、波のように美しく、風にゆらめいていた苗の青たちを見られる日がとても待ち遠しかった。かえるやとんぼやざりがにを、穣とタエと未來と、捕まえにいける季節。冬になると夏が恋しくなって、夏になると冬が恋しくなって。僕らはいつも無い物ねだりで、わがままで、自由だった。
 ゆっくりと速度を落としていって、気がついた頃には、控えめに色づいてきた空の下をただ歩くだけになっていた。
 たまには、朝日でも眺めてみようか。この町の名前の由来でもあるらしい、きれいな朝日を。
 いつもはまっすぐ走り続けるだけの道から外れ、古びた木製の看板案内に従って、森の中へ進んでいく。乾いた音を立てる落ち葉が、耳にくすぐったい。
 こちらのほうの森はそれほど標高もないけれど、東の空を望むには十分なはずだ。都会の人にとっては、ちょっとした登山にでも感じられるかもしれない。

「そういや、ここに秘密基地を建てたっけ」

 ハンモックを作ったら、未來が大袈裟なくらいに喜んでいたことも、動物たちを刺激するからやめなさいと、大人に諸々撤去されてしまったことも覚えている。
 ……ああ、さっきから、未來たちのことばかり。
 まあ、仕方ないか。こんな狭い田舎町で、僕は育ってしまったんだから。よそ者の僕を、穣と未來とタエと、彼らの家族だけは、最初からなにも言わずに受け入れてくれたんだから。
 もうこの町には、思い入れが、思い出が──。
 思いがそこらじゅうに、溢れているんだな。
 逃げられや、しないんだな。
 そう気がついて、無意識に、理由のわからない笑みがこぼれたのと同時だった。

「み、らい?」

 木々が開け、坂を上りきった先。
 淡い朝焼けにそのまま溶けていってしまいそうな後ろ姿を見つけて。
 彼が、振り返る。

「…………流星」

 互いに、ああでもないこうでもないと、次の言葉を探しているままに無言の時が過ぎていた。たかが十数秒のことだったかもしれないし、何分も経っていたのかもしれない。長くて、短い、ふしぎな時間。
 こうして、きちんと顔を合わせたのは、名前を呼び合ったのはいつぶりだろう。

「どうしたの、こんなところで」
「流星こそ。いつもは下を走るじゃない」
「えっと、その……なんていうか、気分転換?」
「なにそれ、ははっ」

 先に笑ってくれたのは、彼のほうだった。

「僕は、空が見たくって」

 明るくなっていく空に、目を伏せて、未來は続けた。
 真っ白な髪も、肌も、青い瞳も、長い睫毛も、見慣れているはずなのに、なぜかひどく現実味のないように思える。それが悲しくて、ごまかすように顔を背けていた。

「友達とか、家族とか、健康とか、ふるさととか。何かを失ってから知ることって、後悔することって、たくさんあるでしょう。僕、そうなる前にすこしでも知りたかったんだ。明陽がどれほど美しくて、尊い場所なのか」
「未來?」
「上履き、見つけてくれたの、流星でしょう。ありがとね」
「え、あー、ああ、うん」

 こいつは、いきなり何を言いだすんだろうか、と、少々混乱したのをよく覚えている。彼にとっては脈絡のあることなのだろうし、実際そうだったけれど。
 そんな心中を察してくれたのか、彼はまぶたを開き、静かに微笑んで、僕のほうを見やった。

「あの人たちは、僕をいじめているわけじゃないよ。むしろ、助けて、仲間に入れてくれた。優しい人たちなんだ、とっても」

 一瞬でだれのことを指しているのかわかった自分が、恥ずかしい。腹の奥を掻き壊したくなるような衝動に、駆られるほど。そして、ただただ情けないとも、感じていた。
 中学校に進学して、間もない頃。クラスで浮いてしまっていた、ある生徒に声をかけていたら、それをよく思わなかった他のクラスメートに目をつけられるようになり、悪意は次第に、陰で未來へと向かっていったのだそうだ。彼は必死にこらえつづけていたものの、とうとうそれが、暴力や恐喝という形に変わった。
 旧体育館裏、古い倉庫。校内ではいちばんの死角と言えるあの場所で、未來は、何度歯を食いしばってきたのだろうか。
 考えるだけで、身体のあちこちが刺すみたいに痛む。僕だって同じくらいひどいことを、してしまったのに。
 ……そんな絶望の中に"彼ら"の手は差しのべられた。
 あまりにもまっすぐで、純粋な思いに、未來は守られたのだ。

Re:   の甼 ( No.52 )
日時: 2018/12/31 23:59
名前: Garnet






 友人という存在と自分との間には、なにかしら共通点があるものだ。趣味、好きな食べ物や嫌いな人間、金銭感覚。価値観。会話を重ねるごとに、それはどんどん見つかっていったりもする。
 言ってしまえば当然なのだが、いくらわかり合える事柄があっても、友人同士には決してなれない、そういう存在だって世の中には必ずいる。割合としては、そちらのほうが圧倒的に多いのだろう。そんな世界でじょうずに生きていく方法も、両者を分ける決定的な違いも、僕にはまだわからない。
 でも、僕と彼らの全員が持っている共通点ならわかる。
 ひとに誤解されやすいこと。
 そして、とても不器用なことだ。

 

 放課後、体育館の靴箱の中身を片っ端から確認していたら、同級生の友人である祥也しょうやがいつのまにか背後に立っていて、文字通り、びよーん、と飛び上がってしまった。

「おまえは猫かよ。うっけるわー」

 猫の後ろにそっときゅうりを置くと、振り向いたとき、ひどく驚いてバネのように飛び上がることがあるらしいんだと彼は言う。猫がかわいそうだ、そんなの。

「いやいや、俺がやったわけじゃないから。ネットで見たんだよ。そんなことより、未來はさっきから何やってんの」
「ええっ、と、きのう…………上靴を……なくしちゃって……それで、探してて」
「はあ? どうやったら上履きなんかなくすんだよ」

 ふらふら泳ぐ僕の視線とは対照的に、彼の目は、伸びた前髪の奥から不機嫌そうにまっすぐと、僕をにらんでいた。
 今隠していても、どうせいつか、本当のことがばれてしまうだろう。そのときにはもっとひどく怒られてしまいそうなので、仕方なく白状した。無くなった上履きが片方だけだということも、校舎の靴箱は端から端まで確認していったことも。そして、犯人はいつものあの人たちだろうということも。
 彼は黙って聞いてくれていたけど、僕の話が終わると、少しの間、黙りこんでから、ゆうっくり、ふかあくため息をついた。
 おもむろに近くに座りこみ、軽くあぐらをかくと、僕の履いていた、来校者用の緑色のスリッパを片方、ぺたぺたと床に叩きつける。どうやらさっき、びっくりした勢いで蹴り飛ばしてしまっていたらしい。いまさら気がついた。

「おまえさ、今まで一度もやり返さねーったの?」
「えっ、そそ、そんなこと、僕には出来ないよ! できたとしても、何倍になって返ってくるか……」
「あ、そ」

 ひょい、と右手でスリッパを投げ返されたものの、うまく受け取れなかった。いろいろ不甲斐ない。
 それにしても相変わらずこの人は、とんでもないことを言うな。発想の方角が僕とは正反対を向いている。

「まあそうか。殴り返されたとき、おまえじゃあなあ」
「ううっ」

 そんなに容赦なく、痛いところをつかないでほしい。悲しくなるから。
 上靴もやはり見つからず、うなだれながらスニーカーに履き替えていると、最近やっと聞き慣れた、独特なテンポの足音が近づいてきた。
 数年前の事故で負った怪我の、後遺症が原因なのだと教えてくれた凛太郎りんたろうだ。振り返らずともわかる。そもそも同じクラスだし。

「なあ、人を殴るって、そんなに気持ちの良いもんなんけー? 未來ぃ、俺のこと一発ボコしてみてくれよ」
「えっ?!」
「おぉいリン、いきなり何を」

 僕らの会話をしっかり聞かれていたようだ。蝉の大合唱も役に立たない。

「だーって、あいつらあのとき、笑いながらおめぇのこと殴ってたじゃーん。やる側は楽しいんかなあって思ってさ。もしそうなら、おまえも少しはやり返す勇気、出るんでねぇの?」

 けらけらと目を細めて笑いながら、背の低い彼が見上げてくる。何か言いたげなのはわかるのだが、満足のいくような答えは、生憎持ち合わせていなかった。

「おらおら、みぞおちでも何でもいいぞー、やれいやれーい」

 ……どうやらこの人は、僕に殴られたがっているらしい。この暑さで頭がおかしくなったのかと、一瞬疑いもしたけれど、挑発的に向けられている視線が、自分は至って正気ですよと、訴えている。
 祥也は呆れたようにため息をつくばかりだ。

「うーん…………じゃあ、失礼、します」

 とはいえ、もしこの瞬間をひとに見られでもしたら、どうなるかわからないし。
 だいぶ控えめに、拳をつき出す。
 数秒の沈黙ののち、彼は眉をひそめると、僕のパーカーの裾をぐいっと引き寄せてきた。その小さな身体から、どうやったらそんな力が出るんだろうというほどの勢いだ。眼鏡がずり落ちそうになる。
 いっそのこと、きみが僕を殴って、見本をみせてくれればいいのに。

「ああ? もっと本気出せや、そんなもんなんか」
「ええっ」
「俺をあいつらだと思ってやれよ。恨みを込めい」
「うらみ……」
「そー、恨み!」

 またまた、無茶を言うよなあ。とは思うものの、今度こそしっかりやらないと、雷が落ちてきそうだ。
 ふたりの視線を感じながら、静かに深呼吸する。閉じた目蓋に、恐ろしい記憶を少しずつ、映し出す。
 倉庫のかび臭さ、冷たい地面の感触。あの人たちの、どこか暗い笑い声。ほこりで曇った窓ガラスから差し込む、頼りない日の光。
 痛み。
 苦しみ。
 いまでも変わらず鮮明に蘇る記憶だ。けれどももう、断片的にしか思い出せなくなっていた。それが良いことなのか、悪いことなのか、僕にはちっともわからない。
 …………ああ、勝手に家から持ち出しちゃったお金、いつか全部返さないとな。

「おい、未來……大丈夫か」

 そんなことを考えていたら、全身が小刻みに震えていたらしい。もうやめたほうが、と、祥也が止めに入ろうとしたものの、その手は空を切った。


「志賀! お前、何をやってる!」


 我にかえったとき、僕は、偶然通りがかったらしい体育の先生に怒鳴られていた。
 目の前にはうずくまったまま動かない凛太郎がいて、先生に弁明しようと、僕を守るみたいにしがみついてくる祥也がいて。冷静になるごとに足元からは恐怖が襲ってくる。この蒸し暑さとは裏腹に、冷や汗がだらだらと背中を伝いはじめていた。
 やってしまった。生まれて初めて、ひとを殴ってしまった。

「ごめ、ごめん、ごめんなさいっ!」

 祥也の手を振りほどき、言うことをきいてくれない脚を無理矢理引きずって、その場から逃げ出していた。なにもかも忘れてしまいたかった。嫌なこと、知りたくなかったことを、全部。ぜんぶ。
 駐輪場にたどり着き、半ば倒れるように座り込むと、近くでたむろっていた何人かの男子生徒が振り返って、たいへん驚いたという様子で視線を送ってきた。
 上級生だが、彼らも僕の友人である。祥也たちを待っていたのだろう。運がいいような、悪いような。

「志賀? どうしたんだよ、すっげー顔色悪いけど」

 その中で唯一の3年生の生徒が、いちばんに駆けつけてくれた。背中を叩くやさしい手のひらに、涙が込み上げてくる。自転車に乗っていたほかのメンバーたちも、おそるおそる、彼に続いてやって来た。
 みんなにわけを話そうと口を開いても、声になるはずの言葉は涙に変わって、次々と、やわい地面へ吸い込まれていってしまう。なぜだか呼吸もうまくできなかった。
 あずみを守ると決心したとき、同時に、二度と泣かない、とも自分に誓ったはずなのに。情けない、なんて言葉では済まされない感情が、溢れてやまない。

「言いたくなければ無理しなくていいんだけどさ、いや、まじで大丈夫かよ」

 あずみの優しい笑顔がぼんやりと、脳裏に浮かんで溶けていく。
 教室にうまく馴染めずにいたあずみを助けた、あの日を境に、僕の世界は変わって──。

「未來っ!」

 とんでもないことを考えそうになった瞬間、うしろから祥也の大きな声が聞こえてきて、そんな思考はすぐに山の向こうへ投げ飛ばした。
 たぶん、僕は大丈夫じゃない。

「楽しくなんか…………なかった、痛いだけだよ、あんなの」


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