複雑・ファジー小説

守護神アクセス
日時: 2019/06/14 17:42
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM  (dami-dayo@docomo.ne.jp

十連休が終わる悲しさよ


___


異能バトルはいいぞ(黙れ)

この名前、見たことがあるあなたはきっと昔からいるお方。まあ知り合いや読者は少なかったのですがね!
違う名前を使うようになったのですが、ゴリゴリとドンパチするような異能ファンタジー書くので、形から入るために名前を戻しました。

以下目次です。

▽メインストーリー
 File1:知君 泰良 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6
 File2:王子 光葉 >>9 >>10 >>11 >>12-13 >>14
 File3:奏白 真凜 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>24 >>25 >>26
 File4:セイラ   >>27 >>28 >>29 >>30 >>31
 File5:奏白 音也 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36-37 >>38
 File6:クーニャン >>39 >>40 >>41 >>42-43
 File7:交差する軌跡  >>44 >>45-46 >>47-48 >>49
 File8:例えこの身が朽ちようと    >>50-51 >>52 >>53 >>54 >>55-56 >>57 >>58
 File9:それは僕が生まれた理由(前編)    >>59 >>60-61 >>63-64
 File0:ネロルキウス  >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>72 >>73 >>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81
 File9:それは僕が生まれた理由(後編パート) >>82
 File10:共に歩むという事   >>83 >>84 >>85 >>86 >>87 >>88 >>89 >>90-92 >>93-95 >>96-97 >>98 >>99
 FILE11:人魚姫は水面に消ゆる夢を見るか >>100 >>101 >>102-103 >>104 >>105 >>106 >>107 >>108-109 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116 >>117 >>118-119 >>121 >>122 >>123 >>124-125 >>126-127 >>128-129 >>130-131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136 >>137 >>138 >>139 >>140-141 >>142

▽寄り道
 春が訪れて >>23
 白銀の鳥  >>70-71
 クリスマス >>120

▽用語集
 >>8 File1分
 >>15 File2分
 >>62 File8まで諸々。それと、他作品とクロスオーバーしたイラストを頂いたのでそちらのURLも

▽ゲスト
 日向様(>>7にイラストをくれました、感謝。What A Traitor!作者)




気軽にコメントとかもらえたら嬉しいです。
僕も私も異能アクション書いてるの!って子は宣伝目的で来てくれても構いません(参考にする気しかない)

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Re: 守護神アクセス ( No.138 )
日時: 2019/04/17 23:31
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM


 彼と別れ、自室に戻り、独りを感じると同時に、また想う。おかしい。たった四文字だけの些細な一言。しかし、その端的な言葉が、じわりじわりとにじり寄って来る。ただにじり寄るだけではなくて、羽虫のように大勢群れを成して、羽音を立てるでなくその足で這いあがってくるように。
 ぞわりぞわりと、鳥肌が次第に体表を埋める。違う、違う、違う。ここは本当に私が居るべき場所なのだろうか。ここに居るだけで、落ち着かないこの体が、心臓が、私は此処に相応しくないと告げている。帰るべき人は別にいると叫んでいる。
 私の立つ場所が、ここにないと直感している。それなのに、私は自分のことさえ思い出せない。ただ一つ確かなのは、私が幸せなことだけだ。彼の顔を見ると何も考えられなくなるだけだ。それは、まるで魔法のようだ。彼の仕草を、笑みを、ただ傍らで見守りたい、それ以外に何も考えられなくなる。しかしその求心力はむしろ、罠に近いと、こうして一人部屋に閉じこもっていると実感する。
 あれは理性を溶かす薬だ。精神の抑止を無力化して、目の前の甘露をただ享受するよう人を堕落させる。そう、頭では理解している。まるで誰かがそのような思考を頭の中に植え付けたような、足元から少しずつ昇って来る恐怖を自覚している。そのはずなのに、あの銀髪を目にすれば、もう何も考えられなくなる。
 そして何より否定できないのは、この恋心はおそらく本物だということだ。彼が誰なのか分からない上、関係性もおそらく王子と姫という立場であると自覚している。ゆくゆくはお妃となるかもしれない立場であると。だが、出会った経緯がはっきりとしない。本当に私があの人の恋人で正しいのか、自分で証明できない。それなのに、これだけは確信できる。あの人は私にとって、否定しようなく最愛の想い人だった。
 流石に、彼と目を合わせて他に何も考えられなくなるのは、何か悪い魔女の介入のようなものを疑う程ではあるが、あの人と向き合った際の緊張は、紛れもなく本物だ。その隣に立っているだけで誇らしく、愛おしさを感じるのも、誰かに与えられた偽りでもなく本心からのものだ。
 それなのに、どうして私の本能は、おかしいと呟くのか。違和感に苛まされるのか。今日、記憶が朧げになりつつ起きてから一日と経っていない。それなのに、私が奇妙に感じるものはいくつあっただろう。
 この部屋の中で感じたことだけで、数え切れない。城の外に踏み出してからも、幾度となく湧いた居心地の悪さ。そう、この世界はどことなく居心地が悪い。何故だか、湖畔だけが心の拠り所のように感じた。威嚇する猫のように、全身の毛穴が緊張している。
 何より、私が最も奇妙だと感じたのは湖畔に暮らす女性のことだった。彼女のことは、どこかで目にしたことがあるはずだ。それは間違いない。私は彼女を知っている。知っていなければならない。それなのに、その素性がとんと分からない。私自身のことさえ分かっていない自分に、他人のことを知っておけというのも無理な話かもしれないけれど、それでも彼女のことを説明できない自分が、偽物に思えてならない。
 どこで見たのだろうか。そしてどうして私は彼女を見て、『あんなに笑顔が似合う女性だったのに』だなどと、考えたのか。つまり私は、彼女が笑った姿を目にしたということになる。ずっと、こんなお城に暮らしているというのにだ。先ほど、王子様と別れてから女中の人と世間話をしてみたところ、私は隣国の、国力の乏しい平穏な土地の第三王女だったらしい。ふとした機会に彼と出会い、言葉を交わし、想い合うようになったのだとか。
 その話さえ、誰かが用意した筋書きのように思えた。いや、王族同士が催しで出会う事に違和感はない。それが自分の身に起こった出来事であるということが、到底受け入れられなかった。その背景が、私の身にしっくりと当てはまらなかった。
 訳が分からない。何も覚えていないせいだ。何も分からないのに、何が分からないかを探ろうとしているせいで、迷路の無い檻どころか、明かりの無い闇の中に閉じ込められている。正解不正解どころか、選択肢さえ与えられない。辿るべき道も無いまま、手探りのための壁も無いのに、真実へ至る糸を探し当てねばならない。
 不可能だ。だからこそ、とっかかりに選んだのが、あの女性だった。
 もう一つ、気がかりなことがある。私は『あの表情』を知っていた。白馬の上、前後に並んで湖のほとりを走る私達を見て、彼女が顔に浮かべたのは、祝福でも嫉妬でもなく、深い悲しみだった。沈んでしまえば、もう浮かび上がれずに、泡となって消えていくしかない感情。
 私の仮定が正しかった場合、かつて見た彼女は笑っていたはず。とすると、私にとって見たことある表情は笑顔しかないはずだ。希望に満ちた表情であるはずだ。それなのに、あの絶望しか滲んでいない悲哀の相に、既視感を感じた。どこかで見たことが必ずある。
 そしてそれは、彼女ではない赤の他人がとっていた姿ではなかったか。
 まただ。寝起きざまに、自分の状況が妙だと勘付いた時と同じく、頭が割れるような頭痛が走った。まるで、私が真相に気が付くのを妨げるような時期を狙いすまして訪れてくる。常人(つねひと)であれば、思考を放棄するかもしれない。考えても分からない。考え過ぎである。思い出してはいけない何かがある。そう、逃げ道を作って。
 だけれども、この違和感を不自然で塗りつぶしてなかったことのようにしようとする痛みには、何者かの作為を禁じ得ない。意図的に記憶に封が為されているようだ。なぜ、どうして自分にはそう気づけたのか。真相に気づかせないための小細工のせいで逆に察せた事実が矛盾しているように思えた。
 記憶を封じ込めた制御装置は、私には効果の無いものだとしたら。適用外の人間に同じ処置を施しているせいだとしたら。とすれば私は、一般的な人間とは言えない何者かである可能性が示唆される。

“もう、考えない方がいいのでなくて?”

 誰か、女の人が囁いた。その声は初め、自分の言葉のように思えた。そうとしか思えぬ空耳が聞こえてきた。しかし、それは決して現実ではないのだろう。私の心は今も、「間違っている」と叫んでいる。虚飾の世界を引き裂こうと、甘い罠に引きずり込まれそうな弱い私に楔を打っている。
 私の邪魔をするのは、誰?
 当然、誰も応えない。これだけ都合の悪い干渉を重ねているくせに、呼びかけても応答が無い様子には、やはり何者かの意図が隠されている。
 コツコツと、木を叩く軽い音。気づけば頭痛は止んでいた。その事実に胸騒ぎがした。飲まれないようにしなければ、そう想ったはずなのに。
 抵抗も、自覚も何もかも虚しくその覚悟を棒に振る。扉の向こうで声がした。と同時に警戒がさらさらと溶けていく。紅茶の中の角砂糖のように溶けていく。そして、甘い夢が脳裏に充満していく。

「起きているかい?」
「はい」

 やはり彼だ。先ほどまでの私が今の私を知れば、溜息をつくのだろうか。また私は、罠など考えられなくなってしまった。そんなこと全部どうでもよくなる。彼の隣にいられればいい。共に過ごせればいい。愛してもらえればいい。
 幸せならば、何でもいい。そうとしか思えない。
 堅い鉄格子などよりもずっと、蜜の絡みつく柔らかな拘束の方が余程怖い。逃げられない監獄より、逃げたくなくなる鳥籠の方が、ずっと捕らえるのに適している。

「帰り際、少しだけ顔が青かったけれど、疲れすぎてはいないか」
「いえ……いえ! そんなことありません」
「そうか。ならいいんだけど……。セイラは辛くてもそれを隠そうとするからな」

 そんな事、無いとは言い切れなかった。今感じているこの不安を彼に伝えることはきっとできないだろう。誰かを不安にさせることが、ひどく不得手なのだろうか。いや、きっとそんなことは無い。私はきっと、我儘を言い出せばきりがない。それを知っているから、自分を律している。それだけだ。
 だから今、この人に頼ろうとしないのは、彼と出会うとこの違和感を忘れる呪いにかかっているせいだ。否定的になってしまう兆しを、忘れてしまう約定のせいだ。何か私を在るべき姿に戻そうとする手掛かりが無ければ、幸せな風景しか目に入らなくなる。
 甘い夢を本物であると信じること以外、できなくなる。誰かが本来演じるはずだった役に身を落としている自覚を忘れてしまう。この人物像に相応しいのは自分では無いと知っているのに。成り代わってしまってもいいじゃないかと考えてしまう。
 でもどうして、私は自分が我儘だと知っているのに、その現実に抗おうとできるのだろうか。ただ溺れていればいいだけなのに、沈まないようにと抗おうと考えているのだろうか。浮かび上がったところで、魚と同じで、悲しみの波を超えたその先、希望に満ちた空の中では呼吸ができない、生きていけないのに。
 いけないことなのに。冷静な自分が囁いている。ここで身を退くべきだ。誰も幸せにならないじゃないか。幸せを逃す誰かの顔なんて、思い浮かばないのに力なくそう叫んでいる。だからこそ、感情的な私はそんなもう一人の自分に訴える。だったら、自分が不幸になっても構わないのかと。
 愛した人間との暮らしを棄てて、何を求めるのかと。ここを去れば、救いなんてあるはずがないのに。

「今夜は共に過ごそうかと思っていたけれど、やめておくよ。やはり、休むべきだと思う。今朝から少しおかしかったしね」
「すみません……迷惑かけて」
「迷惑なんて言わないでくれ」

 そうやって、当然のように求めた言葉を差し伸べてくれる。期待した通りの言葉を、この人はくれる。そんな人だから、きっと私は愛することができたのだろう。
 けれど、想う。私は、自分が期待もしなくなってしまった希望を差し伸べてくれる手が目の前に現れたら、どんな態度を取るんだろう。今と真逆の境遇、絶望の淵で嗚咽を漏らす私に、諦めてしまった光を見せてくれる人と、出会う人ができたらと。
 今扉を隔ててすぐ近くにいる彼は、きっと理想の、憧れの人間だ。誰からも愛され、慕われる人だ。でも、万人から愛されなくても、例えその声が世迷いごとでも、誰かに新しい希望を見せられる人が現れたとしたら。
 この王子様は、幸せな道程でしか出会うことができないけれど、真っ暗闇の悲劇の中にも手を伸ばしてくれる、そんな人がいたとしたら。
 当然、誰にでも優しい王子様と結ばれる方が幸せなのだろうと想う。何不自由なく舗装された道を歩めるだろう。だって彼は、妃を幸せにする方法を生まれながらに知っている、あるいは知らずとも実践できるのだから。
 けれど、泥臭く誰かを悦ばせる方法を模索しながら、苦労もするけれど、最後にはずっとずっと幸せにしてくれる人がいたとしたら。それはきっと、もっと素敵なことのように思える。晴れしかない人生よりも、雨が降ったり曇ったりする日々の方がずっと、晴れそのものを楽しむ事が出来る。
 薄々、勘付き始めた。きっと、そのせいだ。まだ彼が離れて以降ともしていないのに、冷静さを取り戻すことができたのは。



 ああ、辛いなあ。
 苦しい。
 寂しい。
 息が詰まってしまいそうで。
 声も枯れてしまいそうだ。
 薬効も切れて、ここに立つ足さえおぼつかなくなってくる。
 大切な宝物を、自分から投げ捨てる行為というのは、きっとどんな拷問より辛い事だろう。
 でも、私を閉じ込める檻の全貌はまだ見えていないから。
 だから、私は私を取り戻すために、一歩を踏み出さなくてはならない。
 本当の居場所に帰るため。
 私が今収まっている場所に本来居る人を帰してあげるため。

 私が誰かに優しくしようと思えるのは、泣いている人を見たくないからだ。
 笑っている誰かを見たいからだ。
 それで自分が死んでしまいたくなっても。
 私は、誰かの不幸なんて見たくはない。
 私みたいにならないで欲しいって、伝えるんだ。
 世界中の誰かに、誰しもに。
 いつか私だって、報われるって、信じて。
 だから。

「明日もう一度、あの湖に連れて行ってください」
「……駄目だ。君の身体に障る」
「問題ありません。今夜のうちに治します。それでも拒むならばこの足で向かいます。這ってでも向かいます。貴方が来るまで、いつまででも待ちます。貴方に、伝えることがあります」
「随分な決心だね。止めるのは簡単だけど、それなら仕方ない。行こうか。でも、別れ話はごめんだよ」
「……安心してください。貴方を幸せにするための、大事な話です」

 言葉を濁した。何だ、私も充分狡いじゃないか。
 でも、構わない。私が彼を救ってみせる。この身を犠牲にしたとしても、あるべき姿に戻して見せる。
 声が震えそうになる。方は、もうとっくに震えていた。溢れ出る熱い想いを滴らせながら、扉越しの想像だけは普段通りに保ってみせる。何のために与えられた声だというのか。誰かを励ますための声だろう。
 だからだろうか。私の心は、彼に届いた。

「嘘はついていないみたいだね。なら、楽しみにしているよ」

 ただ、身体だけは大事にするように。最後にそれだけを言い残し、足音が遠ざかっていく。

“ああ、馬鹿みたい。ハッピーエンドを自ら手放して”
“まだ取り返しは効くけれどね”

 また、誰かが私の声で囁いた。もしかしたら、自分の喉から漏れた声だったのかもしれない。ぐさりぐさりと、心無い杭が、胸を穿つ。零れた嗚咽が、喉に栓をして、息も出来ない。
 声を、外に漏らすな。泣いていると気づかれるな。枕に顔を押し付けた。私を捕らえた誰かに、こんな姿を見せてたまるものか。月にさえ、そんな姿を見られたくなくて、俯くより早くにカーテンは閉めていた。
 当然、知らなかった。それが正解だったなんて。
 そして眠れないまま、【幸せな私】が自殺する朝を迎えた。

Re: 守護神アクセス ( No.139 )
日時: 2019/05/03 09:59
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM


 結局、私が再びその湖畔を訪れたのは、夕方になってのことだった。彼に公務が立て込んだために、昼の間の自由が利かなくなったせいだ。
 漣が何度も押し寄せ、その度に心が洗われたように落ち着きを取り戻す。雑然とした脳裏が、甘露と辛苦の狭間に困惑する心が浄化されていく。湖は対岸がまるで見えない程広大だ。だからだろうか、海のように波が立つのは。
 ああ、やはりそうだ。この場所こそが、私の故郷だ。私の住む場所だ。ここで生まれて、死ぬ運命なんだ。ゆっくりと、力強い拍動がそれを肯定していた。ゆっくりと沈む芝生がどこか懐かしい。
 それでも、やはり呪いと言うべき鎖が私を縛っている。まだ、私が誰なのか分からない。何者で、何処で暮らしていたのか。何に苦悩していたか、いつ何時幸福を覚えたか、そういったことはまだ、バリケードに覆われたままだ。
 私らしい、私だけの、私であるはずの自分も、きっと檻の中でもがいていることだろう。私がこじ開けることのできていない箱の中で。その中を覗くこともできないまま、誰でもないはぐれ者の私は、必死に鍵を探している。譲れない真実を辿るために、そして作り上げられた今の私と決別するために。

「またここで、話がしたいと言っていたけれど」

 感慨にふけり、湖を走る波の音にだけ意識を向けていた私に、かれが呼びかけた。いつもと同じ、爽やかな声。甘ったるいつやのある声でもないというのに、催眠を受けたかのようにまた、頭の奥の方が蕩けていく。やはり、間違いが無い。これは恋ではなくただの呪縛だ。あの人の声など、真に耳に入っていない。その姿はこの瞳では、真の意味で捉えられていない。

「どういった話なのかな?」

 向き合えば、その顔は僅かに憂いを帯びていた。だというのに彼は、私の言葉を待つだけの覚悟など、とうに済ませていた。薄々察しているのかもしれない。これから必要なのは、彼にとっての本当の幸いというのは、私との別れであると。そう、私が言い出すことを。
 だけど、あまりに愚かな私は揺らいでしまう。そんな悲しそうな顔をしないでくださいと、今にも駆け寄って支えたくなってしまう。けれども、ふと得てしまった直感が叫んでいる。それは私の役目では無いと。この居場所に居ることを許されているのは、私では無いと。



 一体、誰なんだろうか。こんな試練を私に与えたのは。あるいは拷問なのだろうか。私がただこの夢を見るだけに甘んじていられないと、知っていて幸せを見せつけてきた誰かの。
 胸が張り裂けてしまいそうで、今にも逃げ出したい。だって、こんなの、あまりに残酷ではないか。私の愛した人がいる。その人から愛され、誰より近い位置に立たせてもらった。それなのに、もっといい人が居るからと、諦めることを余儀なくされた。
 この痛みは、懐かしい。大昔に私は経験しているみたいだった。欲しいものが目の前にある。それなのに、手を伸ばすこともできずに諦めた。その声が聞こえてしまわないようにと、声を殺すように嗚咽を細切れに吐き出していた。
 こんなに生きていることが、意思があることが辛いなら、ただ水の泡のようになってはじけて消えてしまえたら。悲しみと、寂しさと、悔しさと、やりきれなさと、切なさと、諦観。やけっぱちの自暴自棄が、負の感情全てを掻きまわした。そして最後に、私は死を選ぶのだ。
 この記憶は一体、どういった『私』としての思い出なのだろう。湧き上がってくる、私のものであるはずの記憶は、辛くて苦しいことだらけだ。

“どうして私だけ……こんな……”

 それは昨夜聞いた幻覚と同じだと思いたかった。けれども、そうではなかった。それは他ならぬ、真に私の内側から漏れ出たやっかみだった。きらきらと輝いている宮廷の全てが、好きなように愛した人を愛せる王子様が、そしてこの人から本来愛される誰かが羨ましくて仕方なかった。

“私には何も無いのに”

 違う、そんな事思っていない。こんなの幻に決まっている。

“同じ足が生えているだけのくせに”

 思っていない。そんな事、思っているはずない。だって、それでは私が……。

“こんなに辛いなら、生まれてきたくなんてなかった”

 惨めな敗残兵であることを受け入れるのと同じことだ。

 もう、彼の顔なんて直視できなかった。胸の奥、心臓の辺りが鋭い爪で抉られたように痛んだ。あまりの痛みに耐えきれなくて、顔の筋肉が緊張で強張る。唇を噛み締めているのが自覚できた。血の味が、薄く口の中に滲んだ。
 早いところ、告げなければならない。それなのに自分で噛み締めているせいで、この口を糊付けしてしまっている。糊なんて生易しいものではない。かすがいを打ち付けたように、びくともしない。この口を開けば、これまで耐えてきた分をまとめて、大声を上げて泣き出してしまいそうだったから。
 でも、早くしないと。きっと不審に思われてしまう。自分から呼びだしたというのに、話しもせぬまま、事情も明かさぬまま、独り言葉を失っているのだから。これでは愛想を尽かされてしまう。それで構わないはずなのに、この期に及んで私は、嫌われるのが、見向きもされなくなるのが怖かった。自分から、その位置を手放そうとしているというのに。
 それなのに、彼は。また私の予想を裏切って来る。期待なんてしてはいけないのに、私の期待を超えてくる。そうだ、そう言う人だ。だから誰もが、この人を好きになる。
 彼が黙り続ける私にかけた言葉は、これまで通り誰よりも優しく、広い心を見せていた。

「やはりもう帰ろう、セイラ。何か辛い夢でも見たんだろう? だから不安になった。安心してくれて構わない。今夜くらいは寝静まるまで、共に話をしていよう」

 どこかから借りてきたみたいな言葉に思えた。それなのに、彼が言うとそこに一切の下心も、虚勢を張るような意図も感じられない。自然体でそのように振る舞うことをこれまでに義務付けられてきたのだろう。
 肩に触れる手があった。その温もりが、ドレスの薄い布を通して伝わって来た。しなやかで、器用で、欲しいものには何でも手が届くような、端正な手だ。ああ、だからか、違和感を感じていたのは。これは確かに、私と相反するものだ。
 ずっと感じていた違和感をまとめるにきっと、私は望んだ恋を、想いを、成就できなかったのだろう。だからこんなに、幸せだと呟いて、溺れるようにじっとしていられる。何が正しくて間違っていて、本来あるべき姿なのかも忘れていられる。
 顔を上げれば、あの人の顔があった。急に手は背に回り、軽く引き寄せられる。覚醒し、記憶を失ってから彼は、ずっと近くにいてくれた。そして今、より一層に近づこうとしている。
 また、私の理性は溶けていく。決意さえも、無かった事に。今ここにいる私が幸せなら、ここが牢獄でも構わないじゃないか。拒もうとすること自体が間違っていた。どうせろくな現実では無かったのだろう。それなら、私が本来あるべき姿に戻る必要なんて、きっと無い。
 空いている方の手が私の髪を払いのけた。先ほど滲んでいた涙を拭う。近づくその唇は、最後にまた甘言を囁いた。蜂蜜と共に私の意識を閉じ込めた瓶に蓋をし、作品を完成させるように。

「僕が君を幸せにしたいんだ」

 とても、とても耳に馴染みのよい言葉だ。きっとそれは私にとって、止めに他ならない。葛藤していたはずの天秤が振り切れた。どちらに傾くか決めあぐねていたというのに、その言葉を聞いた途端に振り切れた。
 そうだ、私は、私自身の幸せを選び取ろう。悔いは残るかもしれない。自分の想いや信条に反するかもしれない。けれど、これだけ真摯に愛してくれるのだ。だとしたら私も、応えなくてはならない。
 だから、私は。
 まず目を閉じた。そうでもしないときっと、この頭はどうしようもないくらいに暴れてしまうだろう。そして、そのまま、私は。









 その両肩を両手で押し留めた。

 細やかな抵抗に違和感を感じたのか、抱き寄せようとする力が止んだ。悲しむでもなく、怒るでもなく、ただただ王子様は首を傾げていた。どうしてそんな風に抵抗されたのか、分からないと。つっかえ棒のように彼の身体を押して距離を取ろうとする私の両腕に、その視線は注がれていた。

「ごめんなさい、私……」

 何も言わなかった。表情を変えようともしなかった。真顔ではあるのだけれど、それは怒りを押し殺している訳ではないようだ。真剣に、私の言葉を待っているように思える。訳も無くこんなことをするはずがないと信じてくれる。理由ならある、当然だ。
 この人に私は、ずっと恋焦がれていた。それは事実だ。けれども私はその想いを、彼から愛されたいという心情を、裏切らねばならない。彼との幸せを選び取ればよかったと、後悔するかもしれない。
 けれども、できなかった。先ほどの彼の言葉はとどめに他ならなかった。彼が口にした言葉が、私の記憶の多くを手繰り寄せてくれた。まだ全てではない。おそらく、半分程度のものだ。
 私の本当の姿は、人魚姫だ。人間の王子様を好いてしまい、遠くから眺めているだけの日々を送っていた。何日も、何か月も、何年も何年も、ずっと。ある日魔女に頼んで足を生やしてもらった。その隣で歩ける体が欲しくて。けれども、ずっと好きだったこの人にも、当然好きな人は居た。そう、当たり前だ。彼は私を知らなかった。遠くから見ていただけの半人半漁の怪物の姫なんて知らなかった。
 そして彼は、この甘い幻想の中で見せていたような作り笑いじゃなくて、心の奥底から溢れ出るような、幸せな笑みを浮かべていた。寄り添って口づけした隣国の御姫様は、私が見てきた中で一番、笑顔の似合う女性だった。
 女の子だったら多くの者が知っている、悲恋のヒロイン。シンデレラや白雪姫に憧れる幼い子供たちに、初めて失恋を教える役目を担っている。
 だから、ここに立つべき者は私ではない。もっと相応しい人間がいる。彼に幸せにしてもらうだけではなく、彼を幸せにできる人間が。
 そうだ、私は、後悔なんてしたくなかった。かつて自分が、彼に姿を見せないまま海の波に紛れるように絶命することを選んだのも同じ理由ではなかったのか。
 誰かの幸せを蔑ろにしても、私は決して笑えない。幸せになれない。けれども、愛した人が幸せだったならば、それは私の幸せだと言えた。

「貴方の隣に立つべき人間は私じゃありません。だからここで、お開きにしましょう」
「……それは遠回しに、君の隣に立つのもまた、僕じゃないと言っているみたいだね」
「それは……残念ながら分かりません」

 そもそも自分に並び立つ人なんていないはずだと、私は告げた。彼は少し複雑そうな顔をした。言い訳だとか、はぐらかしているだけとか思ったのだろうか。けれども私の瞳に嘘偽りが無かったものだから、それは途端に、憐憫へと変化した。
 そんな目で見られるのは、流石に少しこたえた。何もそんな顔をさせたかった訳では無いし、よりにもよって彼からそんな風に見られたくはなかった。そしてそんな風に、やりきれなさを覚えて欲しくなくて、かつては会おうともしなかったというのに。

「行ってください、湖畔に立った小屋に。そこにいる女性が、本来貴方が幸せにするべき……貴方を幸せにしてくれる人ですよ」

 私の確信を持った言葉に、今一要領を得ていないようであったが、言いたいことは伝わったらしい。そこにいる誰かこそが、彼という王子様に相応しいのだと。このまま共にいても辛いだけだから、自分のことは置いて行って欲しいと伝えた。せめて城下町での暮らしくらいは確保してから別れたいと彼は言うが、それは断った。
 私の生きるべき場所は、この湖に他ならないのだから。昨日彼が、人魚と会いたいと思わないといった時に胸が痛んだのもよくわかる。彼が人間の女性を好いた時に、自分の報われない未来が確定していたと今更ながらに知れたからだ。そして二足歩行に違和感があったのは、本来私には足でなく鰭が生えているせいだ。

「私の正体は人魚ですから」

 そう告げると、彼はそれ以上多くを問わずに去っていった。別れの言葉は必要無いと、彼が口を開くより先に牽制する。これ以上その優しさに触れてしまえば、未練が残ってしまいそうだからだ。
 未練が残っては、これからまた対面する何かと向き合いきれなくなるかもしれない。私の記憶はまだ完全には取り戻せていない。彼の手をとった時の違和感も、私が彼を諦める踏ん切りをつけた言葉への馴染みも、何もかも分からないままだ。
 西日が傾いていた。橙色の太陽が、稜線の向こうへと消えていこうとしている。しかしその太陽と茜色の空が一変し、濃紺と紫のおどろおどろしい空模様に変化した。世界が砕ける、そら寒さを感じるようなピシピシという音がして、濃紺の空に真紅の亀裂が一つ走った。

「ねえ、どうして自分から幸せを棄ててしまったの?」

 空の光を受け、湖面の表情もまた毒々しく変化していた。水柱が一つ昇ったかと思えば、その水の向こう側から声がした。水の柱を斬り裂いて腕が現れた。苔に少し覆われ、藻が絡まっているものの、華奢な腕が覗いている。
 私の上背ほどの水柱から現れたのは、怨嗟と後悔とに囚われ、泡となって消えることもできなかった、もう一人の私の姿だった。

Re: 守護神アクセス ( No.140 )
日時: 2019/05/06 17:21
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM


「……今度は、私の姿で揺さぶろうとしている訳ですね」

 全容は読めずとも、疑いようは無い。私は今、何者かの見せる幻想に囚われている。本来あるべき現実とかけ離れた虚構の世界に。そもそも私自身フィクションの存在なのだから、虚構であるというのは前提のように思えるけれど。それ以上に、嘘に嘘を塗り重ねた今のこの空間は寄る辺の無い不安定な偽物だ。
 そしてこの空間が生まれた理由は簡単だ。私を閉じ込めるための檻だ。檻というには何もかもが与えられているため、むしろ鳥籠の方が相応しいだろうか。美しいインコを閉じ込めて、逃げないようにするための快適な空間。鉄格子の無骨さにさえ、目を瞑ってしまえばだが。
 彼は楔だった。私が城から立ち去って、本来居るべき場所へ戻らないようにするための。意志ある動物は、重圧を跳ね返すように抵抗しだす。そのため、反骨の意志を示す事さえできない幸せな思いで縛ろうとした。何と言う、狡い選択肢だろう。一つボタンを掛け違えたせいで、私の意識は何とか逃れられた。しかし、術者の作った世界が完璧であったならば、私は今でもまだ、あの王子様の隣でほほ笑みかけていた事だろう。

「思い出したんでしょう? どんなに惨めで辛かったか。一人ぼっちで深海に沈む恐怖も。なら、どうして自分から戻ろうだなんて思えるの?」

 ずきりと、心が痛んだ。胸とかじゃなくて、意識の首根っこを掴まれたように、脳幹の奥がひやりとする。胆力で振り切ったはずの切なさが、恐れが蘇る。確かに彼女の言葉は否定できない。おそらく先ほどまでの王子様と目の前に立つ私の姿をした彼女とは作りが違う。王子様は私を満たすために作られた者、誰かが作った印象にイメージを添えたものだ。
 けれども、彼女は違う。あれは私の身の内から生じたものだ。私が押し込めてきた負の感情を可視化した存在だ。彼女が毒をこめて吐き出す苦言は全て、『私自身の本心』でしかない。だからこそこんなに、私にだけ突き刺さる。どうして、その答えを私はとっくに出したつもりだったのに、見失う。
 怖い。
 辛い。
 悲しい。
 苦しい。
 もう嫌だ。
 逃げ出したい。
 そんな事ばかり、頭の中で叫び続けた。この感情を誰かに見られたくなくて、喉からは飛びだそうとしなかった。私はずっと逃げ続けていた。自分の感情を直接ぶつけることを。好きだという恋慕も、止まらない涙の理由も。

「貴女はどうせ、辛い想いに耐えかねて自殺を選んだんでしょう。馬鹿馬鹿しい」

 深い湖のそこから現れた彼女は、泡となって消えることができなかった私自身だ。自分で自分を苦しめる、悪い感情を泡のごとく弾けさせられなかった私だ。水底で長い時間、一人でその身体の中に押さえ込んで、肉体(からだ)も精神(こころ)も病んでしまった、もう一人の私、そうなったかもしれない可能性の鏡像。
 その言葉はやはり、私の本心だ。私は悲しみが怨嗟に昇華するのが酷く怖かった。愛情が嫉妬で憎悪に変わるのが嫌だった。好いた相手を、貶めたくなんてなかった。だってそんなの、自分から私の事を、人でなしの化け物だと認めているみたいじゃないか。

「どうせなら思いの丈をぶつけましょう。脚だってもらったんだから。夜這いでもいい、関係さえ持てば、愛妾くらいにはなれる。正妻のおまけくらいのものだけれど、傍にはいられるわ」

 拗らせてしまった恋心というのは、これ程恐ろしいものなのだろう。私は、かつて自死を選択した私のことを褒めてやりたかった。私は、こうなるのが恐ろしくて恐ろしくて、深海に没すると決めたのだ。だから、人々の間に伝えられている私の逸話を誇りに思う。私は泡となることで、誰を傷つけることも無くひっそりと、居なくなることができた。

「シンデレラも、白雪姫も、茨姫も、皆王子様に見つけてもらった。愛してもらえた。それなのに、どうして人魚姫だけこんな目に遭うの?」
「……うん、辛いですよね」
「分かった風に言わないで。また取り澄まして、いつもみたいに繕った言葉で波風立てないように同意して……自分にも迎合するしかできないの? 私ながら、臆病者すぎて情けないわ」
「ごめん。でも、分かった風じゃない。ちゃんと、私もその苦しみは痛感した過去がある。それに、迎合するつもりはないわ」

 湖に一歩を踏み出す。それは、私の脛の中ほどまでの浅瀬だった。じゃぶじゃぶと水を巻き上げて、両足で水を裂くように歩く。一歩一歩と進んでいくと、急に段差ができたように深くなった。このままでは濡れてしまう。そう思った時、衣装が急に消えてしまった。水に触れた砂糖のように。
 気づいた時、私が纏っていたものと言えば、馴染みのある貝殻の胸当てと、鱗の形をした耳飾り程度のものだった。ああ、そうだ。やっぱり私は愛らしい人間などではなくて、人の世に交わることのない、亜人だったのだ。自覚すると同時に、両足は一本の大きな尾びれとなる。腰から下は、鱗に覆われた魚の姿になる。
 醜いだろうか。美しいと言ってくれる人もいるだろうか。そんなの、どうでも良かった。紛れもなく、これが私なのだから。
 私の首元に彼女は掴みかかる。それはそうだ。私の弱い心は、いつだって後悔だらけだ。恨み言だらけだ。何で人間に生まれなかったのか、って。どうしてもっと早く魔女と交渉して王子のもとへ向かわなかったのか、って。
 そして今も、私に激しい怒りを向けている。どうして彼からの誘いを断ったのかと。わざわざ恋敵の下へ見送るようなまでしたのかと。
 次第に指先にこめる力が強くなっていく。少しだけ、息苦しい。けれども目の前の彼女も私自身だ。同じように、苦しそうな顔をしている。

「私(あなた)っていうのはいつも損ばかり。その裏で、こんなにわたしが泣いているのに」

 今ならまだやり直せるよと、彼女は言う。ここは夢の中だから、巻き戻しのできない現実とは違うから。何でも、夢を見ている自分の思い通りにできる。願った通りにやり直せる。都合の悪いものは全て無かったことにできる。都合のいいように全てを創造できる。
 後悔なんてしなくていいように、後からいくらでもやり直せる。そう、彼女は言うのだ。

「湖がこんな色になったのも、空が裂けたのも、血だまりみたいな赤がその亀裂から覗いているのも。さっき王子様を振ったことも、誰かの幸せを踏み躙ったことに気が付いてしまったことも、全部全部なかったことにできる。やり直そう、だってそうじゃない。だって私こんなに慎ましく生きてたんだよ。ずっと、ずっと見てただけ。人間になりたいって思っただけ。ただ人間になるんじゃなくて、取り柄の歌声も人にあげた。なのに……何で何一つ報われないの? 親友たちは皆幸せな人生だった。死ぬまで幸せに暮らしたって言われてる。お姫様じゃない赤ずきんも……優しい猟師が助けてくれた。でも何で、何でわたしだけ、こんな救いも無いまま……」

 そうだ、実のところ胸の内で、ずっとそんな事ばかり考えていた。皆とお茶会をしている時も、ずっと。カレットも、ノイトも、アシュリーも、誰のことも大好きだというのに、一人疎外感を感じていた。人間が皆の物語を読み終えると、良かったねと言ってくれる。
 でも私はずっと、可哀想だと憐れまれ続けた。私は、私にとって最も幸福な選択をしたつもりなのに、誰にも受け入れられなかった。どうして死んじゃったのって、小さな女の子が涙した。
 そんなの、私の方が聞きたいぐらいだというのに。

「ね、セイラ、目を閉じて? もう一度眠ってしまいましょう? 私達にとってのハッピーエンドが其処にあるから。ここで私と会ったことも全部忘れて、昨日の朝に帰りましょう?」

 貴女が正直になれないというなら、私が変わってあげる。そう言わんばかりの勢いだった。けれども、できればそれは避けたいと彼女は言う。あくまでも自分は、セイラという乙女の、駄目な部分の寄せ集めに過ぎないから。自分がいることで、心優しいままでいられる私の側が表に生きるべきだと。
 うん、やはり目の前にいるのは私自身だ。そこで自分が成り代わってやると言い切れないところが特に。

「ハッピーエンド……か」

 浅く溜め息を吐いた。散々言われた言葉だ。やれハッピーエンドじゃない、やれバッドエンドだ。そんな事ばっかりで、疲れてばっかりだった。
 うん、そう。あの赤い月を見た時も、初めは幸せそうな恋人たちを、私を憐れんだ人も、全部溺れさせてしまおうかなどと、考えた。
 でも、無理だった。私の本当の願いは、幸せな誰かをぐちゃぐちゃに踏み躙りたい訳じゃなかった。私も一緒に、幸せになりたかっただけじゃないか。

“ハッピーエンドじゃないんだ、可哀想”

“バッドエンド? 人魚姫みたいな作品だよね”

 そんな事ばっかり言う人たちの中に、一人だけ。

“俺がお前を、ハッピーエンドにしたいんだ”

 そんな事を言う人がいた。アンデルセンでもないというのに。
 そうだ、私は今、こんなところで立ち尽くしている暇なんて無いんだ。
 けれども、一つくらいは寄り道をしてもいいかな。
 もう息もできないほど、私の喉に絡みついた指の力は強くなっていた。でもこの程度の息苦しさなんて苦でもない。だって、嗚咽を堪えていたあの時の方がずっと息を吸っている気がしなかったじゃないか。
 この子はずっと、悲しみから逃げている。悔しさから逃げている。切ない、独りぼっちで抱えるだけの感情を苦しくて仕方ないから、怒りで誤魔化している。誰かに矛先を向けることで、自分の脆さから目を背けている。私だって同じだ。誰かのためを掲げることで、誰も私の幸いを想ってくれない事から、目を背けた。
 道端で侍に啖呵を切った、どこかの誰かさんみたいに。
 この子は……いいや違う、私はそれにずっと耐え続けてきた。だからこれぐらいの寄り道は、自画自賛だけは許されないかな。そっと、彼女の頭に手を伸ばす。苔むし、色の褪せた髪が塩水で貼りついていた。全く、海水なんだか自分の涙なんだか。

「今まで、よく頑張ったよね」

 そうだ、これだって努力だ。自尊心だけが無駄に強い。あるいは弱い心を持っている。それを免罪符に不平不満を簡単に人にぶつける人がいる。白雪姫に出てくるお妃様がそのような例だろうか。なら、自分の弱音を吐き出さない人は心が強いというのだろうか。
 少なくとも、私は違った。私はただ、誰かに自分の弱みを曝け出すだけの度胸が無かった。弱さを認めるだけの覚悟が無かった。何を言われても涙を流さない人、笑みを絶やさない人。彼らもまた、心の弱い人間の一員だ。

「でも大丈夫、ちゃんと私達を見つけてくれる人は居るから」
「うん、そう……だったね」

 気づけば、息ができるようになっていた。目の前の彼女は涙を流している。今にも大声を上げそうなほど、大粒の涙が、滝のように。

「だから道を開けて下さい、行かなきゃいけないところがあるんです」

 崩れていく。弱かった本音の心が。自ら生まれた私の鏡像は、それこそ水鏡の媒介となった単なる湖水へと戻り、湖に混じり入ってしまった。宙に走った割れ目はさらに広がっていく。たった一つの大きな亀裂、そこから細い罅が蜘蛛の巣のように天蓋一面にその足を伸ばした。

Re: 守護神アクセス ( No.141 )
日時: 2019/05/06 17:21
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM

 折角鰭が生えたのだから、そのまま泳いでそちらの亀裂へと向かい始める。何となくあそこが、出口のように思えた。泳ぐ魚と同じく、魚体となった半身を左右に揺らし、前進する。そんな折だ、岸の方に、新しい刺客が現れたのは。
 人影を見た際に初めに浮かんだのは、往生際の悪い術者に対する苛立ちだった。あの手この手で私のことを揺さぶろうとしているようだが、初めの甘露でかどわかすものと比べてしまえば、囚われるはずもない。
 初めは憧れの人、二度目は私自身。なら、今度は誰だというのか。私を動揺させる手段として考えられるのは、もう一人しか考えられなかった。その顔を久しぶりに目にして、私は嫌悪感から目を細めた。何も、姿を現したその人が憎い訳ではない。
 その人さえ利用しようとする、月の上の御姫様が、憎たらしくて仕方が無かった。
 それは、少年の姿をしていた。もはや精巧な幻覚を見せるだけの余裕が術者に亡くなっているようで、その偽りの契約者はマネキンのようにシルエットを模しているだけで、彩を欠いていた。本来“彼”が有しているはずの青さも、未熟さも、嫉妬も焦燥も何も再現していない。暖かさも、優しさも、思いやりも。清濁含めた感情を欠落させた泥人形だ。
 それでも、何を意図してその人形が出現したのかは分かる。かつての想い人が駄目だというのなら、今の私にとっての大切な人を持ち出そうという魂胆なのだろう。でも残念、私は知っている。その人とは、ここを出られれば会えるということを。
 それでも、目が離せなかった。何故って、かぐや姫が王子くんを使って何をさせようとしているのかと思えば、目を離す訳にもいかなかったせいだ。これまでずっと、私のことを面白半分に冷やかしておいて、さらには彼までも自分の意のままの絡繰りとして使おうだなんて、度し難いというほかない。
 じっと見つめていることを気づいたのだろう。その王子君の姿をした土くれは、誰の物とも分からない濁声で、大声で私に呼びかけた。

「何してる、早く戻って来いよ! お前は俺の守護神だろうが!」

 一体何を言い出すというのだろうか。全然、分かっていない。確かに王子くんはあまり人の話を聞かないし、自分勝手に行動することも少なくは無い。けれども、そんな事を私に言うような人間ではない。

「お前は所詮俺がヒーローになるための道具なんだよ、お前の幸せなんて知った事か。早く俺を気分よくさせろ!」

 ああ、なるほど。今度は王子くんの株を下げることで私が向こうに戻るのを阻害しようという訳らしい。あんな直ぐにバレる贋作で、どうやって私のことを貶めようというのだろうか。やはり、かぐや姫を許してはいけない。この私の憤りも、彼を侮辱した罰を、ぶつけて、与えてやらねば気が済まない。

「さっきまで他の男になびいてただろ。知ってるぞ、昔の男って。結局ただの売女だったんだな、静粛なヒロインのふりしておい……」
「いい加減にしなさい」

 見て見ぬふりはそろそろ限界だった。別に私がどのような誹りを受けても構わない。けれども、その姿で悪態を口にするのだけは許さない。卑しい言葉ばかり紡ぐことを是としてはならない。
 本当は凡庸な人間なのに、背伸びをしようと努力する姿勢が、私はとても美しいと思う。本当は嫉妬と羨望で狂ってしまいそうなのに、優しい人であろうと努めるところが、誰より尊いと思う。だからこそ、そんな人に、顔を背けたくなるような汚い暴言ばかり口にさせてなるものか。
「初めて会った時、彼が何と言ってくれたか知っていますか」
 私はちゃんと覚えている。忘れてなるものか、もう二度と。他人の能力にかかったせいとはいえ、私は自分の持っていた大切な記憶全てを失っていた。こんな経験はもう、まっぴらごめんだ。記憶を無くせば、自分の信念さえ拠り所を失ってしまう。自分自身に確固たる自信を持てなくなる。
 そんな私は、私ではない。今まで受けた苦しみも、それを耐え抜いた辛さも、その先にあった希望も、全部私の大切な宝物だ。

“俺じゃ物足りないかもしれない”

 いえ。いいえ。絶対にそんなことは無い。彼に力不足などあるものか。彼より適したキャストがあったものか。

「多分、王子くん自身も気が付いてないでしょうね。ずっと、ハッピーエンドに拘ってましたもの」

 桃太郎とクーニャンとの戦闘時のことだ。ずっと、肩ひじ張って私のためにと、無茶な努力をしてきたのが祟った。多分今でも王子君は、私のことを救いの女神だと思っているのだろう。私だって、誰にも見つけられなかった可哀想な守護神でしかないというのに。見ないふりをしている訳では無くて、本心から私の事を憐れまれるヒロインではなく輝かしい聖女だと信じている。盲目的で少し危なっかしいけれど、その信頼が私には有難い。

“けど”

 そう、そういうところだ。自分の弱さを自覚している。強者ではないその事実を、平凡な一人の少年に過ぎなかったという当たり前のことを。でもそこで、逆接の言葉で乗り越えられる。自分が優秀でないと自覚していながら、それでももっと優れた人間になりたいと上を向いていられる。
 そしてそれは私利私欲だけじゃなくて、いつも誰か、別の人の幸福さえ同時に考えている。何て我儘な人なのだろう。自分一人が幸せなのではまだ不十分だなんて。なりたいのはヒーローだから、沢山の人が笑っていないと自分も不幸になるだなんて。
 けれども、その偽善に映りかねない傲慢さが私にとって居心地がいい。どうせ私も同じ穴の貉なのだから。自分が幸せでも、誰かが不幸なままでは曇ってしまう。そんな我儘な女なのだ、人魚姫をモチーフにした守護神、セイラというのは。

「ねえ、王子くん。貴方にも質問です。ちゃんと知っていますか。私はあの時……」

 震えていた。我を忘れる程の怒りで、頭ではすっかり忘れていたのだろうけど、彼の身体が桃太郎と向き合った時の恐怖を忘れないでいた。まだ私と契約する前、生まれながらに守護神アクセスできない悲劇の少年であった頃。私の力になろうと思いながらも、その手は世間を賑わす殺人鬼の一人、桃太郎に怯えていた。桃太郎に殺されるかもしれないのに、私に助けてくれと縋りつくのではなくて、助けたいのだと声高に主張していた。
 あの時、私は数百年に及んだ探し物をようやく見つけられた。埋まらない心の穴を埋める、最後の欠片。探し物が、私を探し当ててくれる人、だなんて少し矛盾しているけれど。
 私だけのための王子様を、ようやく私は見つけられたのだ。

“俺を君の王子にしてくれ”

「あの瞬間、もうとっくに報われていたんですよ」

 だから、感謝するのは私の方だ。恩返しするのは私の方だ。ようやく私を見つけてくれた彼に応えるために、行かなくてはならない。あそこに立たねばならない。絵本の中の王子様みたいに器用じゃない。馬の乗り方だって分からないだろう。別段顔立ちが特筆して整ってもいなければ、すぐに人の事を羨んでしまう。
 それでも、泥臭く理想に縋って、夢を追いかける。その背中には神話の英雄にも劣らない意志を背負っている。私の手を取ったあの掌に、私も惹きつけられたのだ。

「だから今度は私の番。王子くんを必ず、誰かを救えるかっこいいヒーローにしてみせます」
「は、ガーデンじゃ落ちこぼれ寄りの守護神だろ、セイラは。どうせなら俺だって赤ずきんとかシンデレラくらい派手な……」
「黙りなさい!」

 目の前の泥人形を一喝する。もう、澄ました態度を作るのも限界だった。
 かぐや姫に遣ってあげる気など、もう無い。少し自分の方が年季の入った悲劇の御姫様だからといって、私のことを追い詰めるのは自重して欲しいものだ。
 次代のELEVEN、私達の王、そんな肩書が何だというのか。そんな肩書を、私のパートナーを貶すための免罪符になどしてたまるものか。

「私は後悔していない。報われない恋心を抱いたことも、それを一人で受け止めたことも。成就しないまま死んだことも何もかも。それさえ全部私の宝物だから。あまつさえそんな記憶でさえ勝手に隠したことが許せないのに、往生際の悪い事をしないで。その人は私を必要としてくれた。救ってくれた、支えてくれた。共に壁を乗り越えて、些細なことも語り合って。共に過ごして、笑って泣いて怒ってくれた」

 誰より大切な人間であり、他の誰かに唾をつけられるなんて許さない。かぐや姫が勝手に彼の顔に泥を塗るのも許せない。
 もう、こんな偽物の世界の出入り口を探そうだなんて止めてしまおう。こんな世界……完膚無きまでに打ち砕いてしまえ。
 彼女が踏み躙ったのは、私の中の大切な、記憶という名の宝物だ。勝手に入って来て、身勝手に奪い取っていった。そして傲慢にも、私の幸せを決めつけた。私であるということは、これまでの積み重ねに他ならない。だからその人たちは全部かけがえのない思い出だ。譲れない理由なんて、それだけで充分だろう。

「だからかぐや姫、いい加減にして。私の心の中の大切な領域に、土足で踏み入るのをただちに止めなさい!」

 吠えろ、普段抑圧している分まで、思いの丈を全て載せて。その声は世界へと響いていく。かぐや姫の能力により作り出された、邪悪な夢を振り払う浄化の歌。歌声による癒しの能力、それが私の能力だ。フェアリーテイルとなった同胞たちも癒す、守護神の中でも最高峰の回復能力。
 私にとっては薬でも、当然この精巧な贋作世界にとっては毒や災害に他ならない。天空を大きく裂いた切り傷が広がっていく。宙を覆う蜘蛛の巣のような罅割れも、空全てに、前面に、隙間を埋めるように拡散していく。今にも決壊してしまいそうで、大地だけではなくこの空間そのものが震えていた。
 彼以外の人に見つけられる世界なんて、本物の御姫様がいない世界なんて。そして何より、王子君があんなことを口にするなんて。

「こんな世界、全部嘘っぱちだらけのまやかしよ。早く私を、王子くんの隣に返しなさい!」

 大きな音が一つした。それは、巨大なガラスが地面に叩きつけられて粉々になるようだった。一つ、何より大きな世界の悲鳴がこだまする。続いて、細かくなったガラスの断片が、跳ね上がり、また地面に打ち付けられ、弱弱しくもさらに甲高い断末魔を生じる。天井が、床が、壁が、次々と音を立てて素粒子と化し、崩れていく。
 壊れていく。おそらくは、大昔の私が望んでいたはずの、幸せな妄想。けれどもその夢は叶わなかった。けれども構わない。叶わぬ夢を見ていたことも、今となってはいい思い出だから。
 崩れゆく世界は暗転と点灯を何度も繰り返していた。それはおそらく、世界の破棄と、かぐや姫による再構築の試みとがせめぎ合っていたのだろう。次第に、暗転の頻度が増していく。光が差し込む時間は短くなっていく。
 爆発が起きる度、より小さな爆弾が周囲に撒き散らされ、その先でまた炸裂していた。次第に小さな鈴の音が幾重にも重なり合って、世界の罅が広がり続けてもはや目の前さえ真っ白に見え始めたその時だった。
 一際長い暗転が、この世全てを包み込んだ。それはさながら、舞台の幕が下りるがごとく。

Re: 守護神アクセス ( No.142 )
日時: 2019/06/14 17:41
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM

 古来より人は口にする、愛だの恋だのと。下らない。自分が気分よく時を過ごせるだけの相手を気に入るために、情欲のプログラムが設定されているだけだというのに。それを恰も美しいものとして扱い、大切にする人間があさましくてならなかった。少なくとも、そういった感傷的になりかねない感情を棄てた後は、ずっとそう信じていた。
 人は時として、実の伴っていない愛を口にする。下心に塗れた恋慕を隠すため、虚勢の真心を見せつける。そして時として、実を伴っていた筈の愛からは、いつしかその本質が失われてしまう。愛というのは宝石と変わらない。煌き、瞬いて、関心を惹きつけるものの、時と共に風化してやがて朽ちてしまう。
 そんな人間たちを何度も見てきた。月の上から。自分の行いが正しかったのだと、終わりのない答え合わせをするように。今日もまた、どこかで誰かの身体が朽ちた。傍にいるつがいの片割れは咽び泣いている。いい気味だ。もう二度と閉じた瞼を持ち上げられないその男から、永遠に愛は失われたのだ。やがて遺された彼女の中に残る想いも、灰となって空を舞うことだろう。
 死は絶対にして不可避の結末だ。自分達守護神にはもうそんな概念はないが、人間にとってそれは絶対だと、生みの親であるシェヘラザードは口にした。彼女もいまや、死の概念を超越した守護神、その中でも王の称号を手に入れた者ではあるが、かつては死を避けられぬ人間だった。
 私は彼女に作られ、次世代の女王となるべく日本という地で育て上げられた。恥ずべきことではあるが、その際に恋というものを知った。あまねく貴族が私の下へとやってきたが、須らく追い返してやった、つもりだった。
 けれどもいつしか帝には耽溺してしまっていた。いや、それそのものは後悔するところではない。一つのものに執心してしまうのは刹那的な衝動に由来するものだ。避けようと思って避けられるものではない。
 私はその頃、自分の正体を知らなかった。ただの人間だと思っていた。そのせいか私は、私を愛する帝のことを好いてしまった。好いてしまったその事実を、誇るべきこととして頬を染めていた。それこそが私の汚点だ。下らない感情に囚われることは、避けるべきことではあっても罪ではない。ただ、その囚われの心を慈しんだことこそが、大罪に値する。
 私が本来存在するべき場所、月より現れた兵士たちが持参した薬を一舐めしただけで、恋心など一息に消えてしまった。跡形もなく、その他一切の感情をも犠牲にし、自我の薄い天上の民と同化した。
 一度捨ててしまったものは取り返しがつかない。かつて愛した人と離れ離れになることさえ、最早辛いとも感じられなかった。だからこそ、私は確信を求める。何百年の月日を浪費した今でも、証拠を欲する。あの時私が捨てたものは無価値なものであったのだと。誰もがいつしか忘れてしまうものであるのだと。
 そんな問いかけに、正しい答えなどありようもないという、幼子でさえ簡単に分かるような事実から、目を背けながら。
 そうして私は、『童』として兎の面を被ることにしたのだ。もう、自分が泣いているのか笑っているのか、それとも顔の筋肉が動作を忘れてしまったのか、そんなことさえも、知りようがないのだ。




「そんな馬鹿な……どうして、どうしてセイラは……」

 信じられなかった。目の前の光景が。幻惑の世界に囚われたはずの人魚姫が、彼女にとっての夢であり、理想でもあった。王子様との暮らしを諦めてまで、違和感の正体を突き止めようとしたのが。
 彼女は何百年とその立場に甘んじてきた。何百年と諦観を抱えていた。作者によって胸の内に刻まれた恋心を、ヒロインだからという理由だけで、手放すことを許されなかった。身を焦がす程の恋慕の情も、身が朽ちる程の寂寥も。何度生き、愛し、溶けるように死に、それでも一国の王子様への憧れだけは、捨てられはしなかったはずだ。
 それが人魚姫の性というものだ。かぐや姫が最終的に、他人の痛みを理解できないように、人魚姫というのは想い人のために何もかもを投げ出すようなものだ。求められれば応じ、それが邪魔だと判断すれば自分でさえ切り捨てる。
 だからこそ、現実では決してあり得ない分岐、憧れていた王子から受け入れられる進路を提示すれば、断ることなどできないはずだったのに。
 見通しが甘かった。セイラが望むのは上っ面だけの幸福では無かった。真の幸せ、王子が真に迎えたはずのハッピーエンド。自分を犠牲にしようとも、愛した男が幸せになれればそれでよい。王子光葉と出会う前から、間違いなくそういう娘だった。
 こうなっては、もはや彼女をあの幻想の世界に繋ぎ止めるのは困難、いやもはや不可能としか言いようが無かった。あの世界にセイラを縛っていた鎖は、あくまでもかつての未練だけだ。それさえ払拭してしまえば、もはや執着など湧きようも無い。
 幸い、記憶にかけた封の全てが解けた訳では無い。とすればまだ、意識を戻すより早く打てる手は残されているはずだ。かぐや姫は鏡に映し出した心象風景のセイラではなく、現実世界で寝息を立てているセイラを眺めた。呼吸で上下する胸元以外ぴくりとも動こうとせず、まだ風向きは変わり切っていないと安堵した。
 ならば懐柔を諦めるのみ。今度はセイラの心を砕くことにした。戦意さえへし折ってしまえば、現実への嫌悪さえ抱かせてしまえば、本来の目的と別の手段から彼女を幽閉したままでいられる。この期に及んでこの女というのは、王子光葉が絶望する顔を望んでいた。
 だが。

「なあ、かぐや姫……」

 想定外は、もう一人いた。
 煮え滾っているような低い声に、守護神の身でありながら戦慄する。ドルフコーストの洗脳を受け、破壊衝動で突き動かされていながら、さも蹂躙される側の身としての恐怖を刻まれる。
 あり得ない。彼女を支えていたのは、月の民としての誇りだけだった。それさえなければ、先にその戦意を折られていたのは彼女の方だったろう。
 どうしてこんなに恐れなくてはならない。この私が、地上の民をもあらゆる点において凌駕したこの自分が。守護神アクセスも行えず、それどころか青い月光のせいで身動きさえ封じられた。矮小な人間に、どうして。

「お前、性懲りもなく俺の前でセイラをいたぶって……。あいつが帰ってきた時どうなるか分かってるんだろうな」

 その声に、また慄く。彼はかぐや姫への敵意や殺意など、二の次にしか思っていなかった。だからこそ理解できなかった。彼はあくまで、自分の大切な者を貶められた強い怒りによって、その激情を燃やしている。徹底的な、相手の絶望した顔を見ようと破壊するフェアリーテイルとは対照的。
 大事な存在が翳る、その顔を見たくないと言う強い意志からくる感情だ。
 こんな感情がこれほど恐ろしいだなんて、知らなかった。でもそんな事仕方ないではないか。誰もそれだけの強い想いを、自分には向けてくれなかったのだから。五人の貴族に無理難題を押し付けたものだが、その要求の難度に誰もが、気づけば心を折って諦めてしまっていたぐらいだ。
 だから童は、こんなもの知る由もない。

 それは真か?

 誰かが、かぐや姫の胸の内から、問いかけた。
 過去の記憶がフラッシュバックする。かぐや姫に逢えなければこんな世界に意味など無いと、不死の薬を燃やした帝を。血の涙を流して別れを惜しみ、自分との想い出を書にしたためた後に緩やかに没した竹取の翁たちを。
 あの三人から自分は、同じような想いを託されていたのではないだろうかと、気づくにしては、千年も遅すぎた。

「違う、そんな訳あるはずがない……。そんな、自分からわざわざ、切り捨てていただなんて、そんな訳……」
「何急に一人で慌ててやがる」

 困惑し、動揺する彼女に対して、睨みつける王子は一切揺れていない。眼光さえも揺らがず、ただ討つべき仇の姿を見据えている。面を被っていると言うのに、素顔ごと見透かされ、射抜かれたかのような戦慄が走る。
 セイラを帰還させては駄目だ。そうとしか考えられなくなった。セイラがこちらの世界に強い執着を抱いているとしたら、元々恋焦がれていた王子を忘れることができたというなら、全てはこの男が元凶だ。ならばこの男を利用して、今度こそセイラを完膚なきまでに沈めてしまえばいい。
 この男の言葉で心的外傷を抉ってしまおう。新たな愛した男からも拒絶させてしまおう。そう思って、この男の映し身を精神世界に投影し、彼女の胸を抉る言葉の槍を放つ。もう二度と、誰の事も信じられなくなってしまえばいい、そう、想っていた。

「いいのかよ、かぐや姫」

 それが最後にして最大の失策だったことに、彼女は指摘されるまで気づかなかった。代わりに気が付いたのは王子だった。なぜなら彼と人魚姫の精神構造は、根本の部分で重なるところがあったせいだ。
 初め、セイラに幸せな夢を見せていた時、かぐや姫は何と言っていただろうか。王子も、セイラも、これまで辛い現実に耐えてきた分、それが報われる甘い蜜の如き幻想には、絡めとられ溺れてしまうことしかできないのだと。
 そう、そして同時に裏返しの言葉も肯定したことに他ならない。

「セイラも俺も、そんな言葉じゃ折れねえよ。何べん聞かされたと思ってる。何回自分自身からも言い聞かせたと思ってる。無理とか、諦めろとか、必要無いとか。今更そんな言葉で立ち止まる訳ないだろ」

 そうだ彼らは、雑草のようなつがいだ。踏めば踏むほどに逞しくなる。超えるべき冬が寒い程、春に咲き誇る姿は華やかになる。名前も無い、高貴でもない、どこにでもいるような花のくせに、ランにも薔薇にも負けない、鮮やかな華を開かせる。

「だからかぐや姫、いい加減にして」

 過干渉にも程があったらしい。夢の中の人魚姫は、本来の記憶を全て取り戻していた。一拍遅れて、同じ言葉が肉体の方からも漏れ出る。乖離させたはずの精神と肉体が、再び一つに戻ろうとしている。
 不味い、ここから逆転のために打てる手は残されていないものだろうか。空回り、真っ白になった頭で思案するも、妙案など一つも出てこない。そうこうする内に、セイラを閉じ込めるために作った精神世界は崩壊していく。もう、その檻の中にセイラの心を捕えておくことなどできそうになかった。
 ゆっくりと、目の前で閉じていた人魚姫の双眸が開いていく。ただそれを眺める事しかできなかった。目を覚ますと同時に、現実世界での状況を彼女は思い出したらしく、寝覚めのまどろみなど全て振り払い、十二分に警戒心を見せた。ただ、かぐや姫が打つ手なく面食らっているのみなのは予想外だったのだろう。これまで自分が翻弄された怒りが、僅かに和らいだようであった。意趣返しは一部といえ、もう達成したためだろうか。
 王子光葉への金縛りはまだ継続していた。クーニャンにしても然りだ。しかしだからと言って優位に立てはしない。セイラの側から歩み寄ればいいだけの話だから。そもそも二人は距離として大して離れたところにいなかった。そのため、すぐさまセイラは誰に邪魔されることもなく王子の手を取った。否、誰にも邪魔なんてさせるものかと、セイラが強く望んでいた。

「信じてたよ、自力で戻れるって」
「はい、お待たせしました」

 あの日と真逆ですねと、セイラは言う。あの日というのがいつを指すか、問いを返すのは野暮というものだった。
 そもそも王子も、あの人呼ばれてすぐさまピンときたものだから、問い返す必要さえない。そうだなと、ただ認めて頷くだけだった。

「桃太郎、クーニャン、後任せてもらっていいか」
「あーはいはい好きにしな。私は楽しとくからよ」
「サンキュ。こいつだけは」
「私達二人で勝ちたいですからね」

 握りしめた掌と同じように、二人の声が重なった。何てことは無い、いつもと同じことだ。特別でも何でもない、二人にとっての当たり前。
 だが、込めた想いの強さは違う。気の昂りはどの瞬間よりも強い事だろう。ようやく全てが終わるのだから。初めに洗脳を受け、フェアリーガーデンの守護神全体にその状態を普遍化させた、言うなればこのフェアリーテイル暴走事件の第二の元凶。
 彼女さえも鎮静化すれば、再び白雪姫や赤ずきんが敵となることもない。シンデレラを取り戻すだけで、無事に平和な、これまで通りの日常を取り戻すことができる。そのための要石、マスターピースこそが、目の前にいるかぐや姫の救出だった。
 知君に負けず劣らず、この二人も彼に感化されたせいか、お人好しとしか呼べなくなっていた。あれだけのことをされてなお、救うという言葉が出てくるのだから。
 『それ』は少年にとって、憧れでしかなかった。手の届かないものだった。でも今は、こんなにも近くにいる。向こうから手を取ってくれる。
 だから今日も、この瞬間も口にするのだ。底知れぬ勇気が湧いてくる、独りでないと知るための魔法の言葉。


「守護神アクセス」

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