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作者: ryuka ◆wtjNtxaTX2 (総ページ数: 12ページ)
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*4*
「あの春に。」
【時間】
・時の流れの二点間の長さ。
・現象の経過と順序を記述するために用いる一次元の連続変数。
・過去、現在、そして未来の三様態に姿を変えるもの。また、アウグスティヌスによれば 過去・現在・未来は記憶・知覚・期待に還元される。
ふぅ。
一息ついて、パタリと辞書を閉じる。難しい単語の羅列に、そろそろ嫌気が差してきた頃だ。
ふと、開け放っていた窓の白いカーテンが、ふわりと温かい春風にふくらんだ。その白の隙間から、よく澄んだ青空がやわらかな陽ざしとともに、ちらりと顔をのぞかせた。
もう一度、重たい辞書を開いてみる。
すぐに目に入る、“時間”というコトバ。それから、長ったらしい文章。うっわ、何回見ても嫌んなる。読む気が失せるというか、もう既に、わたしの脳ミソが理解しようとすることを受け付けていない気がする。
「はぁ」
遠くで、小鳥の鳴く のどかな音がした。どうして、どうしてこうなっちゃったんだろう。
私には、時間というものがわからない。
時間識覚障害。わたしの持っている珍しい症状は、そんな名前らしい。
よく分からないのだ。俗に言う、“さっき”とか、“このまえ”とか言う感覚が。
別に、単語の意味としては十分に理解できてる。言葉の意味を説明しろと言われたら、いっぱしにきちんと説明できる自信はある。
コンコン、
部屋のドアを軽くノックする音が聞こえた。はーい、と返事する。
現れたのは、見知らぬ初老の男性。
優しそうな顔立ちをしていて、上品で、ちょっぴりお茶目そうな瞳をしている。そして白髪混ざりのよく整えられた灰色の髪は、どことなくその人物によく似合っていた。
キラキラと、眩しい朝日がドアの向こうから差し込む。
「こんばんは、今日も元気かな?」
そう言って、その人がほほ笑んだ。
「だれ?」私は、こんな人知らない。「でも、朝は おはよう と言うものでしょう?こんばんは はおかしいわ」
「おおぅ、そうでした」
少し、おどけたようにしてみせる。
「じゃあ、今は朝なのですね?」
「ええ、朝ね。だって朝日が見えるもの」
「じゃあ、」
その人は、再びゆっくりと言葉を紡いだ。
「もう少し時間が経ったら、どうなるのでしょう」
「さぁ……。それは分からないわ。どうしても知りたいっていうのなら、あなたも辞書を引くといいわ。私、ここに持ってるから」
そう言って膝の上に置いた辞書を差し出すと、その人はありがとう、と言って受け取った。
「やや、今、わたしは辞書を持っておりますな。」
「? そうね」
それが、一体どうしたのだと言うのだろう。
「さっきまでは持っていなかったはずなのですが。はて、どうして私は辞書を持っているのか……。もしかすると、あなたが先程、わたしに辞書を渡してくれたのではないでしょうか?」
「さぁ、どうでしょうね。それは分からないわ。でも、どうしても知りたいっていうのなら、辞書を引くといいわ。あなた、腕の中に持ってるじゃない」
「なるほど」
その人が、納得したように頷いた。
「しかし、辞書にも書いてないことがありますぞ。例えば、あなたのこととか」
「わたしのこと?」
「ええ。辞書には、あなたのことは書いてありませんよ。もし良かったら教えて下さいませんか?」
落ち着いた、深みのある声で言う。その人の顔をよく見れば、年を取ってはいたけれど、とても優しい顔つきをしていた。何となく、この優しそうな人物に好感を持てた。もし、同い年だったならば、きっと私はこの人に恋をしていただろう。
「わたしのことなんて、聞いてもつまらないと思うけれど、」
嬉しくって、思わず小さく笑ってしまった。
「名前はね、ハルっていうの。春に生まれたから。ほら、今だって、温かい春風が吹いているでしょう?」
そう言って、ふわりと春風に膨らむ白いカーテンを指差すと、その人は少し驚いてから、優しく笑った。
「では、あなたの年はいくつですか?もっとも、女性に年齢を聞くのは無礼の極みですが……」
「大丈夫よ、わたし別に気にしないわ。十七歳よ。今日が誕生日なの」
「なんと!おめでとうございます。今日ですか、では、昨日はいくつでしたか?」
「さぁ、いくつだったのでしょう。それは分からないわ。あ、でもね!もし、どうしても知りたいっていうのなら、辞書を引くといいわ。ほら、あなた、手に持ってるじゃない」
するとその人は寂しそうに笑った。
「この辞書の編者を知っていますか?」
「いいえ。知らないわ」
「この辞書はね、」
その人が、パラパラとページをめくった。
「三十年以上も前に、仲のいい二人の学者によって作られ、そして出版されたものなのです。それでね、実を言うと、編者のなかに私も入っているのですよ」
「へぇ、すごいすごい!」
興奮して、思わず大きな声が出てしまう。
「あなたって、すごい人なのね」
するとその人は、嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。褒められたお礼に、この辞書、あなたに差し上げます。どうぞお好きな言葉を調べてくださいな。何でも載っておりまするぞ」
そう言うと、その人は丁寧に私の膝の上にその辞書を置いた。茶色い辞書の表紙はとても古そうで、辞書を開くと、とてもいい香りがした。
なんだか少し懐かしいような、恋しいような、それでいて切ないような。
そんな、不思議な香り。
「わぁ、ありがとう。わたしね、これから毎日だってこの辞書を開くわ。それでね、知りたいこと、ぜーんぶ調べつくすわ!だってね、この辞書、とてもいい匂いがするのよ」
「毎日、ですか。では、明日も開いてくれるのですね?」
「ええ、きっと」
「そうですか」
その人が私から離れて、ドアの方へと立ち去る。去り際に少し香った、その人の優しい匂いは、なんだか辞書と同じ香りがした。
「では、さようならです。どうかお元気で」
「ええ、あなたもお元気で」
そう返事して、背中を向けたその人に小さく手を振った。
◇
「ええ、あなたもお元気で」
そうハルは満開の花のような笑みで私を見送った。
ハルの家を後にして、外に出ると、とても寒かった。冬のまるで凍らすような北風が、びゅうびゅうと遠慮なく吹き付ける。
今は真冬だ。
なのに、ハルの世界は春のままなのだ。永遠に、十七歳の春のまま。
噛みつくような冷たい北風でさえ、ハルの瞳には優しい春風に映る。
自身の皺の寄った手のひらでさえ、ハルの瞳には若々しい少女のように映っているのだろう。
それでいいのだ。それで。
彼女が幸せだったら、僕はそれで十分なのだ。
過去を無くした、僕の最愛の人。時間をしらない、十七歳の老女。
彼女にとっての僕は、見知らぬ初老の男性でしかない。記憶を持たない彼女と、当時の僕が二人で作ったあの辞書も、彼女にとっては遠く見知らぬ国に住む、見知らぬ学者によって作られた辞書でしかない。
“だってね、この辞書、とてもいい匂いがするのよ”
ハルの嬉しそうな笑顔が、再び脳裏に霞む。ありがとう、ハル。君がそう言ってくれるだけで、僕はとても幸せな気持ちになる。
ずっと昔から、今もなお、ハルの笑顔が大好きだった。
それに、ハルもずっと昔から、今日だって、あの辞書のことを好きだと言ってくれた。
そのたびに、僕はなぜか、こんないい年にもなって、何度もくすぐったい初恋を味わうのだ。自分でも、馬鹿みたいな幸せ者だとつくづく思う。
だって当然。
僕たちの過去も、現在も、未来も
永遠に終わることの無い、桜色の季節なのだから。
(おわり)