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パフェイン0% (完) 『原題:今日創られる昨日』
作者: 全州明 (総ページ数: 9ページ)
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*紹介文/目次*
第一章 『我名ハ』
ダイヤモンドを粉々にしてぶちまけたように点々と輝く宇宙の、中心に位置する星にそびえたつ、白く大きな神殿の最深部、王の間に、二柱の神がいた。
一柱は、全ての創造神、神王。その身分に見合う、巨大な玉座に席を取る。
「セルゼルノ、今日お前を呼んだのは他でもない。この世界の、いや、我らの存続に関わる重要な頼みごとがあったからじゃ。それも、御主にしかなし得ぬことじゃ」
セルゼルノと呼ばれたもう一柱は、その正面に敷かれた赤いカーペットの上で、少々猫背ではあるが、一応神王に忠誠を誓う形で跪き、その意欲無き瞳で、神王の眼を見つめていた。
神王より若く、青みがかった白髪を生やす。その名は、有無を司りし神、セルゼルノ。
彼は神王の言葉を聞き、そっと、安堵のため息をついた。
『良かった。てっきり消されるかと思った』
つまり彼は、消されてもおかしくないほどのことをやらかしてきたのだ。
つい先日も、誤って銀河の一つを消滅させてしまったばかりなのである。
・・・・それはさておき、セルゼルノは顔を上げ、ゆっくりと口を開く。
「私にしかできないこと、と言いますと?」
ちなみに、セルゼルノが自分のことを私と言うのは、神王の前でだけである。
「この世界で唯一生き物の住まう星、地球に、最近、高い知能を持つ生物が現れ出したのは、御主も知っておるな?」
「はい。もちろん存じ上げております」
『へぇー、そうなんだ。知らんかった』
「その生物たちは自らの事を?人間?と呼んでおるのじゃが、ついに彼らは、この世界の理(ことわり)を、彼らの中の常識を、根本から覆しかねぬ、ロケット、という装置を作り上げた」
「ロケット、でございますか?」
どれも初めて聞くことばかりで、セルゼルノは戸惑いの色を隠せない。
「そうじゃ。どうもそれは、地球を抜け、宇宙へと飛び立つことのできる装置らしい。もしもそれに人間が乗り、宇宙を見れば、世界の理が破られ、たちまち世界が崩壊することになる」
「何とっ!!」
あまりのことに、セルゼルノは目を見開く。それと同時に、嫌な予感もした。
そしてその予感は、すぐに的中することになる。
「そこで、この世界で唯一、いなくなっても世界のバランスに何ら影響のないお前に―――」
それはつまり、『お前この世界に必要ないから』ということでは?
セルゼルノはふとそう思ったが、神王の言葉が、すぐにその思考を停止させた。
「新たなる世界を、七日間で造ってほしい」
セルゼルノは一瞬、冗談か何かかと思ったが、どうやら神王は本気らしかった。
「七日間、ですか?」
「案ずるな。何も一から創れとは言わん。今あるこの世界をそのまま真似ればよい」
「それはつまり、この世界のコピーを造れ、と言う事ですか?」
「要するにそう言う事じゃ」
「しかしなぜ七日なのですか!?」
セルゼルノは納得がいかなかった。
というか納得したくなかった。面倒なので。
「さっきも述べたであろう。時は一刻を争う。別の世界を造るには、一時的にこの世界を出る必要がある。その際始まりの神、アダムが出ていけばこの世界でこれ以上何も始まらなくなる。
終わりの神イブが出ていけば、すべての終わりと限界がなくなる。
かといってわしはこの世界の創造神であり所有者だ。わしが出ていけばどうなるかわからん。
―――となれば残るはお前しかおらん。しかしお前は御世辞にもやる気があるとは思えん。そんなお前に世界を造らせては、一体何億年かかることやら・・・・。
それに世界を造る際、その時かけた時間が短ければ短いほど安定した丈夫な世界になる。
要するに、簡単に壊れたりしない世界になる。まぁその分矛盾の多いいい加減な世界になってしまうのだが・・・・。そんな世界に、可愛いアダムとイブを行かせるわけにもいかんし」
「え?」
セルゼルノが思わず間の抜けた声を上げると、神王はしまった、という顔を浮かべてから、ごまかすように大きな咳払いした。
「とにかく! この世界が無くなって我らの居場所までなくなってしまっては困る。
多少いい加減でもこの世界と違っていても構わんから地球を含む銀河系とその周辺の銀河を、ニ、三個でよいから今すぐ造ってこい!」
そう言われ、言い返す暇もなく、セルゼルノは新たな世界を造るのに十分な空っぽの空間だけが存在する真っ暗な世界に放り出され、世界へと繋がる扉を閉ざされてしまった。
取り残されたセルゼルノは、なんかもう面倒臭いなぁと、脱力感と言う名の絶望に打ちひしがれ、しゃがみ込んで頭を垂れた。
―――二日後。
神王の座る玉座の前で、一柱の神が跪いていた。
セルゼルノに比べると一回り小さく、艶のある美しい黒髪と気品漂う輪郭を持つ華奢な体。
トーガを思わせる真っ白な服は、所々肌蹴ており、白木蓮のように、白く美しい肌が伺える。
「・・・・神王様」
そしてこの、良く通る高い声。
「なんじゃ」
この姿を見て、
「なぜ私を―――」
この声を聞いて、
「このような姿にしたのですかぁーー!!」
誰が男と、思うものか。
「―――全く。またその話か。御主は一言目にはいつもそれじゃな」
「・・・・すいません。つい、取り乱してしまいました」
そう言って終わりの神イブは、花の香り漂う、肩まで伸びる長い髪を掻き上げた。
「ですがこの外見のせいで人間たちの書物にアダムが男でイブが女と書かれる始末!
これでも私は人間で言うところの〝男〟なのですよ!!」
「それは・・・・すまない」
とはいえ、その人間を創ったのは、アダムとイブである。
まず始めにアダムが生命の始まり、つまり〝生〟という概念を創り、その次にイブが〝死〟という名の終わりを創ったというわけだ。そしてその生命が進化したうちの一つが人間である。
つまり、くどいようだが、人間とその性別を創ったのは、意図的にではないにしろアダムとイブであり、そのアダムとイブを創った神王は、別に何も悪くないのだ。
「まぁ、それはいいとして・・・・で? 一体何の用だ?」
「よくはありません!!」
イブは怒りにまかせて神王を怒鳴りつける。
一応言っておくが、神王は全てを創った創造神であり、本来敬われるべき存在である。
「あぁ、まぁそうだな・・・・じゃあひとまずそれは置いといて、一体何の用だ?」
神王は、今度は少々穏やかに、さりげなく、話を切り替えようとする。
「あぁ・・・・そうでした。忘れるところでした。一つ、聞きたいことがありまして」
「なんじゃ?」
「なぜセルゼルノにあのような仕事を与えたのですか」
「何だそのことか。なぁーに、命の大切さを身を持って学ばせる、いい機会だと思ってな」
「やはりそうでしたか」
「・・・だが、セルゼルノにしか出来ないことというのも、世界が崩壊の危機にあるというのも嘘ではない。我らの未来は、全て奴にかかっている」
「なっ!!」
イブはあまりの事の重大さに絶句した。
「・・・・それはつまり、セルゼルノを信じろ、と言う事ですか」
「その通りじゃ」
おそらくそれが、神王の本当の目的だったのだろう。その証拠に人間たちはロケットの開発には成功したものの、まだ地球の引力を抜け出すだけの力を持ったエンジンを作れていないのである。つまり、なにも七日間で新しい世界を作らせる必要はないのだ。
―――そのころセルゼルノは、銀河系を造っている真っ最中だった。
「畜生。星なんて外見と大きささえそっくりに造れればいいけど、惑星は自転したり公転したりさせなきゃいけねぇから面倒だな」
・・・・理科の先生と宇宙飛行士が聞いたらひっくり返ってそのまま失神しかねないほど、身も蓋もない言い方でだるそうに世界の予備を造り始めたのはいいのだが、いくら神とはいえ、さすがに一柱では限界がある。セルゼルノはそう感じ始めていた。あと、寂しいし、辛い。
とも感じていた。そして辺りを見回し、自分以外誰もいない事を確認すると、
「またアレ作るか。神王にはもう使うなって言われてたけど、この際仕方ないよな」
そう自分に言い訳し、口元に笑みを浮かべた。
――五日後。
神王の座る玉座の前で、今日も一柱の神が跪いていた。
セルゼルノと比べると一回り大きく、艶のある短い黒髪と、角張った輪郭を持つ大柄な体。
その神は、トーガを思わせる真っ白な服の下にもう一枚、丈の短い水色のワンピースを着ており、その裾の下からは、筋肉質でたくましい太ももが生えていた。
「神王様」
そしてこの、低く、力強い声と、爽やかな海の香り。
「なんじゃ」
誰がこの姿を見て、この声を聞いて、
「地球には、性転換、というものがあるらしいですよ」
女だなんて、思うものか。
「・・・・お前もか」
人はこの状況を、デジャヴと言う。
「まぁ、それはまた今度話すとして・・・・」
「まぁ、別に、構いませんが」
そう言って、始まりの神、アダムは、不服そうに顔をしかめながらも、素直に立ちあがり、王の間を後にした。
「って、お前の用はそれだけかぁーーーーーーーーーーーーー!!」
―――六日後。
陽は既に沈み、辺りは闇夜となっていた。
「出来たああぁぁーーーーーーーーーーーあとは分身を回収するだけだぁあ!」
そんなとある街の一角で、セルゼルノは、人がいれば通報されかねないほどの大声で叫んでいた。分身を大量に造ったのが功を奏し、予定より一日早く、例のそっくりな世界、『世・改(命名:セルゼルノ)』を完成させたのだから、まぁ、無理もないと言えば無理もない。
「さっ、ほら、そこの分身、返ってこい」
セルゼルノは、とりあえず一番近くにいた分身の一つに声をかけた。
遅れてその声に反応し、振り返った分身は、形こそ、セルゼルノそっくりだが、その全身は黒く、時を止めている今でなければ、ゲームやなんかでありがちな、ダークなんちゃらとか影のなんとかの用であり、霧のようにぼやけた曖昧な輪郭が、それをさらに際立たせていた。
「あれ? おーい。返ってこーい!」
自分の分身がいつまで経ってもただ突っ立ったままなので、セルゼルノは大げさに手を振り、大声で呼びかける。が、それでも分身は戻ってこない。
セルゼルノに、徐々に焦りの色が見えてくる。
「返ってこぉーーーーーーーーーい!!」
セルゼルノは、元からない威厳を捨て、全力で呼びかける。
やはり分身は戻らない。それどころか分身は、身を翻し、どこかへ走り去ってしまった。
「ありゃ、マズイことになったな」
さすがにふざけてばかりもいられなくなり、額に焦りの色が滲み出す。
世・改の時が止まっているのは二日目から六日目の五日間のみ。
それは惑星が正しく公転、自転しているかなどを確認するためである。
そして、世界の時を止められるのは創造神神王のみであるため、このことを神王に報告しない限り、時が止まっているのは後二、三時間程度・・・・。
「よし、無理だ。諦めよう」
セルゼルノは本を閉じ、近くのベンチにふんぞり返った。
「あぁーでもどうしよっかなー、神王にばれたらマズイよなぁーー」
夜空を見上げると、自らの作った星々が、あちこちに散りばめられていた。
そういえば、人間たちは星と星を線で結んで星座を作るらしいが、この世・改の星は適当に散りばめただけなので、世界の星座とはかなり違うわけだが、良かったのだろうか。
そんな何気ないことを考えているうちに、ふと、一つの矛盾に気がついた。
「あれ? 時間止まってないじゃん」
いくら面倒臭がりなセルゼルノといえど、こればっかりは無視できない。
あのとき神王は、確かに二日目から六日目まで時を止めておくと言っていたはずだ。なのに、辺りはいつの間にか暗くなり、真っ黒な夜空には当たり前のように星々がある。
セルゼルノは立ち上がって近くの壁に駆けより、世界へと繋がる、扉を開いた。
「・・・・神王様」
神王のいる王の間までたどり着いたセルゼルノは、跪きもせず、神王に問う。
「どうしたセルゼルノ。随分早かったな」
「なぜ世・改の時が、もう既に、動きだしているのですか?」
「何じゃ、そのことか。それなら簡単じゃ。あの世界は・・・・」
「世・改です」
「あぁ、そうじゃったな。あの世・改は、二日前から、お前の物になっているのじゃ」
「二日も前から、ですか・・・・?」
「あぁ、出ないと、お前が戻ってくることができないからな。何せ世改の扉は―――」
「世・改です。神王様」
神王が、面倒クサッ! という顔をしたのを、セルゼルノは気付かない。
つまり彼は、バカな男なのだ。
「・・・・まぁ、それはさておき、世・改へと繋がる扉は、その世界の所有者にしか開閉できんのだ。そうでない者には、絶対に、開くことも、閉じることもできん」
「だから私を、世・改の所有者にしたのですか?」
「あぁ、そういうことじゃ。とはいえまだ所有者の段階じゃ。時を止めることができなくとも、この世界ごと一年後の未来に早送りすることくらいならできる」
そう言って神王は、セルゼルノが来た世・改の扉に、手をかざす。
「待って下さい! まだ・・・・」
何をするつもりなのか悟ったセルゼルノは、すぐにそれを止めた。
「どうした? まだ何か、問題でもあるのか? それとも―――」
神王は眉をひそめ、顔を顰める。
「まさか、また分身を作ったのではなかろうな?」
「いえ、そういうわけではないのですが、まだ矛盾を直していませんし・・・・」
「あぁ、そのことか。そのことなら安心しろ。御主が、次にあの世界に降り立った時、自分がこの世界の神だと名乗れば、その瞬間、あの世界は御主のものとなる。
そうなれば、あの世界を自在に改変できる」
「しかし、なぜ一年後にする必要があるのですか!」
セルゼルノは食い下がり、神王を必死に止めようとする。
もし一年も経ってしまえば、あの分身たちは完全に形を失い、消滅こそしないものの、霧のような姿になってしまう。そうなれば、回収することは困難を極める。
「なんじゃ、わからんのか? 一年経てば、人間たちが、自らの歴史を記した教科書の最新版を発行する。世界の人間の教科書と、世・改の教科書を見比べれば、二つの世界がわかりやすいであろう?」
「まぁ、それは、そうですが・・・・」
もはやセルゼルノは、納得せざるをえなかった。これ以上は、怪しまれる危険があるからだ。
「そうじゃろう? では、今から世・改を一年後の世界にする。その後、御主が世・改で、自らをこの世界の神だと名乗れば、世・改の創造神として、御主は認められる。
そうなれば、御主以外のどの神の力も及ばなくなる。良いか? セルゼルノ」
「はい。神王、様・・・・」
それを聞き、神王はうなずいてから、改めて、扉の方へ手を伸ばし、地球で言うところの、ガチャガチャを回すようなしぐさでをした。
「・・・・これでいいじゃろう。セルゼルノ」
「何でしょうか」
「今からお前は、自らのことを、我と言え。その方が、創造神としての品格がでる」
「わかりました」
「よろしい。ではゆけっ! 世・改の新たなる創造神、セルゼルノよっ!!」
「あぁーあ。なーんか面白いこと、起ここらないかなー」
誰もいない古びた神社に、だるそうな声が響いた。
その声の主は、制服である膝上の丈の短いスカートに、白い半そでのシャツを着て、カバンを足元に投げ出して賽銭箱の上に陣取り、肩の下まで伸びる茶髪を揺らしながら、暇そうに足をばたつかせていた。その神社はあまり手入れがされておらず、そのせいか、今日は元旦だというのに、参拝客は誰一人として来ていなかった。
ちなみにこの大変だらしない少女、悦子は、学校から帰る途中に偶然目の前を通ったのでなんとなく訪れただけで、御参りも何もしておらず、当然、お金など一銭も使っていない。
また、本来座るべきでない場所に特に悪びれる様子もなく座っているところから、彼女の性格が伺える。
「しっかし、この神社、いつ来ても誰もいないなー」
そう言って辺りを一通り見回すと、来る時登って来た階段の両端に、狛犬が置かれているのが目に入った。
「まっ、お前もせるぜる、じゃなかった、お前もせいぜいが―――」
―――突如砂埃が舞い上がり、振動波のように広がった。
「なっ、何!?」
慌てて後ろに振り返ると、石のタイルの並べられた地面の上に跪く、青みがかった白髪の青年がいた。突如現れた青年に、悦子は驚きを隠せなかった。
その青年は、強く息を吐きながら立ち上がった。
そして、無遠慮に悦子の瞳をまじまじと見つめた。
「御主か。我名を口ずさんだのは」
「は? 何言ってんのよ? てか、あんた誰?」
悦子は、頬を赤らめ、たどたどしく言った。
すると青年は、何を思ったのか、高らかに宣言した。
「―――我が名はセルゼルノ、この世改の神なりっ!!」
*4*
「あっ、雨降ってきた。ついてないなぁー」
「そうだねー」
帰り道、恵美は降り出した雨に愚痴をこぼす。
悦子はそれを聞いていたのかいないのか、生返事で答え、足を止めた。
「ん? どうしたの悦子?」
いきなり足を止めた悦子を不信に思い、麻奈は首をかしげた。
「・・・・向こうに、誰かいる」
「え? 誰もいないよ? 気のせいじゃない?」
理恵が体を傾けて角の向こうを覗き込み、そう呟く。
「雨降ってきたし、早く帰ろうよ」
「そうだよー」
二人に急かされ、悦子はただの気のせいだと思い、風邪をひいても困るので、再び歩き出す。
「うん、そうだね」
しかし、曲がり角の向こうには、確かに誰かが立っていた。
正確には、曲がり角を曲がった先の、道の先に。
それは背が低く小柄で、見たところ、十代半ばくらいの少年だった。
上下にジャージを着用し、黒い帽子を深くかぶっており、両手には、毛糸の手袋をしていた。
秋真っただ中のこの時期に、これほどの厚着をしているのは別におかしくないが、彼はそこから動こうとせず、心なしか、悦子たちの方を見ている気がする。
「何アイツ、誰か待ってるのかな?」
恵美がそう呟いた時だった。
先程まで立ちつくしていた少年が、突如駆けだし、恵美のすぐ横をあっという間に駆け抜けて行き、さっと曲がり角の向こうへと消えていった。
そのあまりの速さに面喰い、悦子が目で追うと、すぐ近くを駆け抜けていったのに驚いたのか、恵美が尻もちをついて目を見開き、口をパクパクさせていた。
「恵美、大丈夫?」
悦子が駆け寄ると、落としたカバンを気にもせず、恵美は、焦点の定まらない目で、縋るように悦子たちを見つめ、震える声で、うわ言のように呟いた。
「違う、違うの・・・・」
「どうしたの恵美、何が違うの?」
「カバン濡れちゃうよ?」
麻奈は悦子の間の抜けた発言を無視し、心配そうに恵美を見つめる。
「・・・・アイツが、私の横を、通り過ぎた時、アイツの、手が、あたしの手に、当たって・・・・そしたら、急に右肩が軽くなって、それで・・・・」
「右肩? 右肩が、どうかしたの?」
悦子が恵美の前に回り込み、恵美のブレザーの右袖をつかむと、右袖は頼りなく折れ曲がった。それは本来、そこにあるべきはずのものが、なくなっていることを意味していた。
「嘘・・・・こんなの、嘘よ。ありえない。あんな、あんな一瞬で、どうやって・・・・」
悦子は、恵美が怯えている理由に気がつき、頭の中が真っ白になった。
恵美の制服が、見る見る赤く染まっていく。
「悦子までどうしたの? 顔が真っ青だよ?」
どうやら麻奈の角度からは恵美の右側が見えないため、まだ気がついていないらしい。
だが、それも時間の問題だろう。自分まで混乱している暇はなさそうだ。
「ちょっと救急車呼んでて」
それだけ言うと、悦子は麻奈の返事も聞かず、少年の逃げて行ったほうへと駆け出した。
曲がり角を曲がると、案外すぐに追いついた。
少年は、道の先の曲がり角で、待ち伏せしていたのだ。
その後ろには、ランニング用と思われるタンクトップを着た、知らない男が倒れていた。
「随分遅かったね?」
彼は、確かに少年の姿をしている。しかし、様々な声の入り混じる、不気味な声をしていた。
「アンタ、何者なの? 本当に、人間なの?」
「何言ってるんだよ。見ればわかるだろ? 僕は人間じゃないよ。でも、それも今日で終わる」
「何、言ってるの?」
悦子は困惑した。確かに、あれほどまでに早く走り、一瞬すれ違っただけで恵美の右腕を奪い、様々な人が入り混じったような不気味な声で喋るこの少年は、とても人間には思えない。
しかし本当に、人間でないというのなら、目の前に立つこの少年は、一体なんだ?
「あと一つ、あと、一つだけなんだよ。それさえ手に入れれば、僕は、人間になれる」
そう言って、少年は、両の手袋を脱ぎ捨て、自らの手をさらけ出した。
「ほら、見てよ。僕の手を」
そう言って、少年は、両手を悦子にみせつけるように突き出した。
右手は、少年にしては色白で細く、丸みを帯び、すべすべとした、綺麗な手だった。
しかし、少年の左手は、わずかに光沢を帯び、真っ黒に染まっていた。
「何なのよその左手!!」
悦子は後ずさりした。
「僕にはまだ、左腕がないんだ。でも、あの人に貰えば、僕は、人間になる」
少年は、後ろに倒れこむ、男の左腕を指差した。
「貰うって、そんなこと、できるわけ・・・・」
「できるよ。今までだってそうだった。
足りないものは、みんな、手に入れてきた。
君だって見ただろう? 僕が、あの子の右腕を、奪うところを」
「まさか、その右手は・・・・」
「そうだよ。今更気付いたの? まあぃいや。それより、僕が人間になる記念すべき瞬間を、この人の代わりに見届けてよ。この人、僕が左腕を取ろうとしたら、気絶しちゃったんだよ」
そう言い終わると、少年は倒れこむ男にゆっくりと歩みより、男の左手を、真っ黒な左手で掴んだ。その瞬間、男の左手が消えたかと思えば、いつの間にか、左手部分に、少年のものにしてはやけに大きい日焼けをした手が、当たり前のように生えていた。
それを見た悦子は言葉を失い、追いかけてきたことを後悔した。
少年に生えた左腕は、もう男のもとへ戻ることはないだろう。
もう、取り返しはつかない。
少年がゆっくりと立ち上がり、悦子の方に振り返り、一歩一歩、近づいてくる。
「あ、あ・・・・」
悦子は必死に助けを求め、声を上げようとするが、声にならない空気が出るばかりで、舌が喋り方を忘れたように空回りする。膝ががくがくと振るえだし、まるでゆうことを聞かない。
絶望感とともに涙が込み上げて来たその時、少年が突然足を止め、生えたばかりの左腕で、自分の胸倉を掴み、うめきだした。呼吸が乱れ、目が虚ろになる。
「なんだ、これ・・・・」
少年は前屈みになって頭を抱え、尚も呻く。
少年の様子がおかしいことに気がつくと、足の力が抜け、悦子は膝から崩れ落ちた。
悦子は何とか息を整え、やっとの思いで問いかける。
「どう、したの?」
「・・・・痛ぃ。痛いん・・・だ。体中が、痛い。こんな、こと、今まで、なかったのに・・・・
なんで? どぅして? 僕は、人間に、なれた、はず・・・・な、のに」
「何で? 何で、そこまでして、人間になりたがるの?」
「だって・・・・人間に、なれれば、誰かと一緒に、笑ぅことだって、
誰・・・・と、一緒に、遊ぶことだって、誰かと一緒に、過ごすこと・・・・だって、
誰かと一緒に―――恋をすることだって、できる、じゃないか。
そんな、そんな、ことが、できたら、きっと、きっと、楽しい、はず、だ、から―――」
最後の力を振り絞るようにして出したその声は空の涙とともに、どぶの中へと吸い込まれ、少年は冷たいコンクリートの上に、力なく倒れ込んだ。