コメディ・ライト小説(新)

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運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み
日時: 2021/05/15 08:29
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

                       1
野島のじまさん」
「はい」
 私は私の在籍する3年B組の教室から帰宅しようとドアに手を掛けたところを、担任の川田先生から呼び止められて振り返った。
 川田先生は何時も濃紺のスーツを着こなした四〇代の女性で、銀縁の眼鏡を掛けて感情を表に出さない為か厳しい人のような印象を受けるけど、実はとても思いやりのある優しい先生で彼女を慕う生徒も多い。私も実はその一人だ。
「野島さん、先週配布した進学希望者の書類は夏休み明けの前期末テストまでに提出出来るかしら」
 言い難そうに川田先生は私に問い掛けた。
 私はその問いに困ったように目を伏せた。
 この学校は中高一貫の私立女学校であり、普通は中学を卒業すると高校へそのまま進学する。
 しかし、別の高校へ進学したい生徒や理由があって進学したくない生徒も中にはおり、その生徒は、先週配布された進学希望用紙に進学を希望しない理由を記載して担任に提出しなければならない。
 本当は昨日、終業式の一日前に提出する予定だったけど、理由があって夏休み明けに提出することを了承頂いたばかりだった。
 川田先生はその確認で私に声を掛けたと思う。何しろ前期末テストの後には三者面談が控えている。彼女もそれまでにそれぞれ生徒の進路を把握する必要があるから。
「はい、必ず、提出します」
 私は何とか返答した。川田先生はそんな私の顔をじっと見つめてから視線を落とした。
「私は、野島さんには進学することを選んで欲しいのですが、無理強い出来ないわね」
「……」
 川田先生には既に私の希望する進路、卒業して就職することを伝えている。
 だから、夏休みは就職活動に専念する心算だった。
「困ったことがあれば、夏休み中でも構いませんので連絡をして下さい」
「はい、有難う、御座います」
 私は川田先生に一礼して踵を返した。
 少し歩く速度を速めて昇降口へ急ぐ。
 靴を外履きの革靴に履き替えてから昇降口に出ると、人目を引く金髪で長身の女生徒が振り返った。緑色の神秘的な瞳が私を映す。
 彼女は高等部一年生でこの五月から私達は友人として付き合い始めた。
 名前はカテリーナ・富樫。この私立学校の理事の一人が彼女の養母おかあさんだ。
湖乃波このは遅かったね。早く行かないと送迎用のバスが出ちゃうよ」
「あ、ごめん」
 金髪の女生徒の後を駆け足でついて行く。
 学校から山陽電鉄伊川谷駅までの送迎バスがクラクションを二度鳴らす。これは後五分で発車しますという合図だ。
「セーフ」
 彼女と私がバスの冷房の効いた車内に飛び込むと同時に昇降口のドアが閉まる。当然、一番最後なので座席に空きは無く、吊り革に掴まるしかない。
 上に手を伸ばす。背伸びをしてようやく吊り革が掴めた。
最近、背が伸び始めた私だけど、それでも百五十五センチとまだ背の低い部類に属する私にとってバスでの通学はちょっと辛い。どうしても爪先立ちに近いので踏ん張ることが出来ず、バスが急停止やカープを曲がる度私の身体は左右に持って行かれるのだ。マスコットキーホルダーの人形は、何時もこんな気分を味わっているのかな。
 揺らぐ私の身体をカテリーナが支えてくれる。
「あ、有り難う」
「気にしない、気にしない」
 逆にカテリーナの身長は一七二センチあり、女子では背の高い部類に入る。おまけにスタイルも良い。
 学校での彼女は髪形を両側止め、ツインテールに纏めて学校指定のカッターシャツとチェックのスカート、夏用のチョッキと大人しいけど、外出時の服装は女性の私から見ても大胆だと思う。
 先々週に元町までアイスクリームを食べに出ていた時は、黒のビスチェの上にショート丈の皮ジャンを腕捲りして羽織り、黒のデニムのショートパンツを穿いた彼女のスタイルの良さを際立たせる服装であり、長い腰まである金髪をサイドテールに纏めてすらりとした項を覗かせて、何人もの人が彼女を振り返っていた。
 フランスとドイツのハーフの祖父と日本人の祖母が結婚して出来た父親が、アイルランドとイタリアのハーフの母と結婚して彼女が埋まれたそうだ。彼女の日本人離れした美貌とスタイルもそれを聞くと納得できる。
 家族総出で欧州の雑貨を扱う仕事をしていたが、彼女を残して事故で亡くなり、祖母の遠縁にあたる富樫家に引き取られたと話していた。
 私も去年の夏に母を失い独りになった。私自身母を失ったショックから完全に立ち直っていないけど、彼女は母親だけでなく全てを失くしたんだ。彼女が心に受けた傷はどれ程深いのだろう。でも彼女は普段、そんな事を微塵も周りに感じさせず気丈に明るく振る舞っている。
 彼女が私に声を掛けたのも、同じく家族を失った私を気遣ったからかもしれない。
「湖乃波は夏休み、どうするの?」
「ん」
 カテリーナが目を輝かせて聞いて来る。きっと行動力のある彼女は夏休み期間限定のイベントやスイーツ等を既に調べていて明日からそれらを満喫すると思う。
 でも私は残念ながらその魅力的な企画に付き合う時間は無い様な気がする。
「私は、中等部を卒業したら、安い公立高校に進学か、就職するから、その事前準備だよ」
 そう、川田先生の心配するように、私はこの夏休みでこれから先、自分は来年からどう生活するのか決めなくてはならない。
「中学卒業までは狗狼くろうが、学費とかの、金銭面の面倒を見てくれるけど、それ以降は自分で生活しないと、いけないから」
「そっか、湖乃波はここの高等部に進学しないんだ。狗狼は進学しない事を知ってるの?」
 カテリーナの問い掛けに私は頷いた。

 私は今年の4月、母の亡き後、ずうずうしく我が家に転がり込み居付いた叔父に借金の形として売り飛ばされるところだった。
 その私を叔父に依頼されて受取先まで運んだのが、私の今の保護者で運び屋を営むいぬい 狗狼だ。
 彼は道中半ばから叔父が行方を晦ませたので、私を叔父の借金回収に訪れた人達に渡して報酬を受け取ろうとした。
 しかし彼等は報酬を支払う義理は無いと狗狼の要求を突っぱねたので、狗狼は私を彼等に引き渡さずにそのまま逃亡。
 叔父が私と母の住んでいた家や家具を一切合財売り飛ばして、その金を持ち逃げした為、私は家無し、金無し、身寄り無しの三無い状態で、もう何処で死のうかなと考えていた。けど、狗狼が、私を借金取りに引き渡す叔父からの依頼を果たさなかったから違約金を払わなければならないが、素寒貧で手持ちがないので私を中学卒業までの一年間面倒を見るってことで許して欲しいと申し出て来た。
 狗狼が私を助ける為に違約金の話を作り上げたのか、それとも元からそんなルールを彼が決めていたのか。ただ私に断る理由は無く、その申し出を受け入れた。
 本来なら、彼は運び屋で裏稼業を生業とする闇社会ダークサイドの住人で、本当に信用すべき人物でないのかもしれない。
 でも私は彼の申し出を聞いて安堵した。そして嬉しかった。不覚にも涙を流しながら思った。彼は信用出来る人だと。叔父と同じ世界に属しているが、心は全く違う人だと、そう思った。
 そして狗狼と住居に改造された倉庫での共同生活が始まり、私は色々と彼から学んだ。
 意外な事に彼は料理が出来る。出会った頃、彼は仕事中にサンドイッチやカロリーメイトしか食しておらず、食に無頓着な人かと思ったけど、立ち寄った隠れ旅館(のような場所)での彼の作った料理は、夕食、朝食共にこれまで味わった事の無い美味しいものでとても驚いた。
 ママも料理が得意だったけど、そういったレベルでは無くシェフと呼んでも差し支えが無いと思う。
 私が狗狼と共に暮らすことになり、初めて作った料理が旅館定番メニューの御飯、ほうれん草の御浸し、卵焼き、豆と人参と揚げの入ったヒジキ、麩となめこの味噌汁、そしてこればかりは店で購入したアジの味醂干しだった。
 彼に教えてもらいながら作った料理が、自分が本当に作ったのかと疑いたくなるくらいに美味しかったことを覚えている。
 それ以来、私は週末に新しい料理を狗狼に教えてもらう事が楽しみとなっていた。
 また彼は洗濯やカッターシャツやスラックスのアイロンのかけ方を教えてくれた。クリーニング屋等ではカッターシャツ全体に糊を利かせているが、本来カッターシャツは下着替わりなので肌触りが良くなるように皺を伸ばすだけにしておき、糊付けするのは襟と袖口、ボタンのの袷部分だけだそうだ。
 そういえばカッターシャツでびっくりしたことがある。
 狗狼は何時も黒の背広とカッターシャツ、黒地に黒のラインの入ったネクタイを着用しているが、実はそれだけしかない。
 彼の衣装はハンガーに掛かった白いカッターシャツと黒いスラックスが4セット、後は黒のTシャツとトランクス、ソックスが数枚。黒のジャケット一着それだけだ。
 彼がソファア兼ベッドで眠る時もカターシャツとスラックス姿であり、パジャマを着ないのか聞いてみると「面倒臭い」と答えが返って来た。シャツやスラックスが皺になることを気にしないのだろうか。
 そして彼は口数が少なく、私と一日に交わす会話は朝の挨拶、夕食の準備時と夕食の出来栄えの感想。後はお休みの挨拶、その程度だ。
 会話の少ない理由のひとつに私が極度の人見知りということだ。
 初対面の人とは話すときに緊張してしまい、うまく離せそうになくつい黙ってしまう。
 学校内で話しかけられたとき、相手に対して失礼なことを言ってしまわないか、不用意な発言で傷付けたりしないか気になってしまい、つい短く「はい」や「いいえ」「そう」などの受け答えしか出来なくなってしまった。
 その結果「クールビューティ」とか意味の分からない渾名を付けられてしまい誰も話しかけることが無くなってしまった。
 それが、狗狼との生活ではお互い口数が少ないこともあり気にならないのだ。
 何故か狗狼相手では身構えたりせずに、思うまま話すことが出来ることが不思議に思っている。
 そんな彼にも二つ問題が有り、ひとつはお金に無頓着な事だ。狗狼は金が有れば使う主義であり、悪く行ってしまえば浪費家だ。服や物にお金を使わない代わりに、ふらりとお酒を飲みに出て行ったきり二、三日は帰って来ない事が有り、帰って来ると素寒貧になっている。で、起きがけに「金が無い」と後悔するように呟いている。
 なので、今は私がお金の管理をして彼に「お小遣い」を渡すようしている。彼には言い分があるようだけど、私達の生活費と月々の学費を確保する為に我慢するように説得すると気圧されたように二度頷いて了承してくれた。
 もうひとつは女性に関する事だ。狗狼と二ヶ月間共に暮らしているけど、どうも彼は女性に弱いのではないか、と思う時がある。
 特に二〇代後半から三〇代後半までの女性が気になるようで、買い物に狗狼と一緒に出掛けて歩きながら会話していると、彼の返事がぞんざいな時がある。その時は狗狼の向いている方向を見ると美人が歩いていることが多い。彼は何時もサングラスをしているので見ていることはばれていないと思うけど。
 そういえば、先日トラブルに巻き込まれたのも仕事で関わった同業者である静流さんを助ける為だったような。いつかこの人は女性で身を滅ぼすんじゃないだろうか。
 そんな風に狗狼と毎日を過ごしていて、私は何となく毎日が楽しいと思ってしまうのだ。
 何事もない毎日が癒されているのを感じている。ママを失ってから失われていた日常が戻ってきている。そしてそれがずっと続いていて欲しい。
 狗狼との契約の切れる来年の四月まで続いて欲しいのだ。

 そして今、問題になっているのは彼と契約してから一年後の事で、狗狼が責任を果たした以降の私の身の振り方についてだ。
 実は先週、私は進路について狗狼と話した。
 私は高等部へは上がらず、中等部卒業後は別の公立校への進学か社会に出て働きたいと彼に伝えた。
 本来なら狗狼には関係ない事だが夏休み明けの三者面談では彼も顔を出すので伝えておかないといけない。
 狗狼は「まだ早いと俺は思うよ」といって高等部進学を勧めた。せっかく学校が良いカリキュラムを用意しているのに利用しない手は無いというのが彼の主張だ。
 それで目下、最大の問題点、
「授業料は、払えるの?」
「払うさ」彼は堂々と答えた。私は結構家計が苦しいのを知っているので、どうしても信じられず払う当てはあるのか尋ねると、彼はきっぱりと答えた。
「無い!」
 誰か彼の頭の中を掃除して下さい。

「私は、これ以上、狗狼に迷惑は掛けたくないよ」
「うーん、そうだよね。湖乃波と狗狼は本来は全くの赤の他人だもんね」
 カテリーナが困った様に呟いた。私はその言葉に胸の奥で痛みを覚える。
 狗狼と私は赤の他人。それが少し悲しい。
「そっかー、湖乃波のキレイカワイイ姿もひょっとしたら今年で見納めかー。うん、ここで有難く拝んでおこ う」
 彼女は揺れているバス内に居るのにもかかわらず両掌を合わせて私を拝み始めた。
「ありがたや、ありがたや」
「こんなところで拝まないでよ」
 山陽電鉄の伊川谷駅にバスが到着したので、私達は電車に乗り換えて何時もなら私は阪神三宮駅まで乗り、そこからポートライナーに乗り換えて中埠頭倉庫で降りる、カテリーナは岩屋で降りて自宅まで徒歩で帰っている。
 でも今日は終業式だけで午前中で学校が終わるから、狗狼は昼食をカテリーナと一緒に取ったらどうかと提案してきた。
 私は家計の事も考えて別にいらないと突っぱねたけど、狗狼はその店は自然食を主とした料理を出す所で、どのような昼食が提供されているのか見に行ってほしい。そう頼んで来た。あと、一学期を頑張った私へのご褒美も兼ねているらしい。
 阪神三宮駅からJR三ノ宮駅へ抜けて北野坂へ上がる。ふと思ったけど、阪急と阪神は三宮駅だけど、どうしてJRは三ノ宮なんだろう。
 坂の途中で「魔女の宅急便」の絵本のイラストみたいなBarの看板を見つけた。猫が箒に跨った少女のワンピースの裾に掴まっていて何だか可愛い。
 山手幹線を横断して中山手通を上がると、徐々に坂の傾斜がなって来る。駅から徒歩一〇分程度の距離だけどずっと上り坂なので、実際より距離を長く感じた。
「あ、ここだよ」
 狗狼から渡されたメモに記された店名を見つける。
 白いこじんまりとした店内の右側が地元の食材販売店、左側が併設されたカフェになっている。
 販売している食材は、スーパーマーケットより多少割高だけど瑞々しい色の野菜や、あまり見た事の無い調味料を見ていると、これで何が出来るだろうと想像して楽しみたいけど、今日はカテリーナもいるので残念だけどほどほどにしてランチを楽しむことにする。
「ねえ、湖乃波。あれ、美味しそう」
 カテリーナがガラスケースの中にあるイチジクのキッシュを目敏く見つけて私の袖を引っ張る。
 ガラスケースの隣にはレジが有り、その前には小柄なお姉さんが(といっても私より背は高いが)おっとりとした笑みを浮かべて佇んでいた。
 レジの横の台には「本日のランチ」と書かれた小さいボードが立て掛けられていて、今日は「季節野菜のワンプレート御飯」だった。
「あの、お昼を、食べたいん、ですけど」
 私はレジ係のお姉さんに声を掛ける。うう、知らない人と話すのはやっぱり緊張する。
「はい、日替わりランチですね。組み合わせはどうしますか?」
 お姉さんは吊るされたボードのひとつを手で示してくれた。いろいろあるけど、豆腐の味噌汁とほうじ茶ラテを組み合わせる事にした。
「ひゃっ」
 いきなり背中を突かれて私は変な声を出してしまった。何するのカテリーナ。
 目を丸くするお姉さんに何でもないと愛想笑いを返してから振り返った。
「何、びっくりしたよ」
 カテリーナはゴメンゴメンと手を翳して謝ってからガラスケースの中指差して、「イチジクのキッシュはデザートに出来ないかなぁ」と小声で訊いて来た。
「……」
 狗狼から渡された昼食代はまだ余裕がある。イチジクのキッシュを注文してもまだお釣りが出る金額だ。
 でも、デザートは昼食に含まれるのか否か、それを私は悩んでいる。普段の私なら無駄遣いだと拒否するけど、今日ぐらいはいいのではないかと、そう思わせるオーラをイチジクのキッシュは放っていた。
「あの、あとイチジクのキッシュを、お願いします」
 言ってしまった。狗狼、御免なさい。
「はい、ほうじ茶ラテとイチジクのキッシュは食後に致しますか?」
「はい、お願いします」
 背後で小さく手を叩くカテリーナの気配を感じながら私は頷いた。うん、たまにはいいよね。カテリーナには何時も心配かけてるし。
 カテリーナの提案で、屋外のテーブルで食べることにする。
 出口のすぐ脇にある4人掛けのテーブルは、丁度屋根の影に隠れて夏の日差しかを受けにくい所に配置されていた。椅子に腰かけると、吹く風に汗が引くのを感じる。
「涼しいね」
「そうだねーっ。これで料理が美味しければ言うことないねーっ」
 セルフサービスのお茶で喉を潤しながら呟いた私にカテリーナが同意した。彼女はイチジクのキッシュが楽しみなのか終始笑顔だ。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.10 )
日時: 2021/05/15 16:22
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「やっぱり、もう一度、行って話をさせるしかないか」
「え?」
「え?」
 狗狼の言葉に、私と奥田さんは同時に声を上げて狗狼を見た。
「お前が? 面倒臭がっていなかったか」
「気が変ったんだ。湖乃波君、明日の予定は?」
「明日は何の予定も入れてないけど。狗狼、仕事は?」
「安心しろ。明日は何の予約も入っていない」
 それは別の意味で安心出来ないんですけど。私は今月の家計に思いを馳せる。
「よし、湖乃波君には済まないが、また福井県まで付き合ってもらおう。このまま放っておいても寝覚めが悪いからな」
 いきなりの狗狼の宣言に私は目を丸くした。
「昨日、旅行に行ったばかりだけど、また行くの?」
「そうだ。それとも留守番をするか?」
「行くよ」
 私の言葉に狗狼は僅かに口の端を緩める。ん、私何かおかしなことを言った?
「まあ、がんばれ。可愛い娘の為だろ」
 む、娘って。私は慌てて狗狼に視線を向けると、狗狼は別に動揺した風も無く「俺が気になっているだけだ」と答えた。

                      8

 次の日の朝、プジョー207SWは私と狗狼を乗せて再び福井県へと疾走していた。
 ただそのまま同じルートを走るのでは面白くないと六甲道路から六甲北道路へ抜け、中国道へ入る事を選んだ。
 そして今は一昨日の帰り道に使った舞鶴若狭自動車道を北上している。
「……」
 狗狼は207SWを発進させてから一言も口を開いていない。時折、バックミラーへ目を走らせて憮然とした表情を作るだけだ。
 わたしも読書を中断して振り返りたい衝動に駆られるが、運転席の雰囲気を察して敢えて前を見つめ続けている。
「……無視しないで欲しいなぁ」
 後部座席に座る人物から声が駆けられたが、狗狼はただアクセルを踏み込むだけだ。
 私はスピードメーターの針の指す場所を読み取った。 
 時速百四十キロ。
 私の見間違いでなければ、先程道路脇に立てられていた最高速度の標識は時速八十キロのはずだ。
 時間が推しているのでもない限り、速度を出さない狗狼にしては珍しいと言えた。
「……」
 スピード違反で免停になりませんように。
 当初休憩場所として予定していた西紀SAを当然のように通り過ぎる。
「なあ、此処でトイレ休憩するんじゃなかったのか?」
 後部座席に腰掛けた人物から疑問の声が上がったけど、当然ながら狗狼は何も答えなかった。
「湖乃波ちゃん、次のPA(パーキングエリア)でトイレに行かせてくれるように猪に頼んでくれないか」
 猪って、と私は呟きながら隣へ目をやる。
「……」
 狗狼はひたすら前を見つめて運転。
「狗狼」
「何?」
「私も、そろそろトイレに行きたい」
「……」
 流れる風景が緩やかに形を取り戻す。
 胸中で安堵し乍ら私はこれからの行程の長さにため息を吐きたかった。
 六人部PAに立ち寄って後部座席にいた人と連れ立ってトイレに向かう。狗狼は喫煙所へ向かった。何となく肩を怒らせているのように見えるのは気のせいだろうか。
「何だ、あのむっつり運転手。今日は機嫌が悪いのか? 湖乃波ちゃん、心当たりある?」
 私もつい、自称探偵の整った顔を睨み付けてしまう。
「え、どうしたの?」
「……何でも無いです」
 横を通り過ぎた男女のカップルの女性が驚いたように振り返る。きっと横の探偵さんの容姿を目にして驚嘆したんだろう。
 黙っているとカッコいいのに。つい、そう漏らしそうになる。
 数分後、用を足して207SWまで戻ると二人の姿は無く、売店の入り口で並んで壁に掛かった御品書きを見上げているのが目にとまった。
「……」
 あの黒白の二人って、遠目にも目立っていると私は思った。あの外見で運び屋と探偵が務まっているんだろうかと心配になる。
 二人の元に歩み寄っても二人は私に気付かずにお品書きを見上げて口論していた。
「……やっぱり、ここは鬼ラーメンを食べるべきだよ」
「勝手に食べると良い。俺と湖乃波君は先に行く」
「何! 俺を置いて行ってどうするんだ。朝が早かったから朝食を取ってないんだぞ」
「タルカリサンドはどうした?」
「飲み足りなくてね。帰ってからの酒のお供になった」
「それは自業自得だ。それに勝手に車に乗り込んで来たのはお前だろ。頼んだ訳じゃない。邪魔邪魔」
「ああ、お前だけじゃ人に話を聞く事すら出来ないだろうと気を使って、態々付いて来てやったんだ。感謝するべきだろ」
「んだと、押しつけがましい野郎だな。俺と湖乃波君は朝食はちゃんと取ってあるし、この後、賤ヶ岳SAで湖乃波君はロッジ焼きを食べる予定だ。今、腹を満たしたら食べられないだろう。鬼饅頭を一個買ってやるから、それで満足するんだな」
「何だと、饅頭一つで……、でかっ!」
 狗狼が手にした一個入りの箱を目にして、奥田さんが驚愕の声を上げた。私もびっくりした。
 一個入りの箱の中に饅頭が入っているけど、それが中型の林檎程の大きさなのだ。
「私、これは食べきれない」
 当然、甘いものが苦手な狗狼も食べれない。
「これでお腹が膨れるだろう。感謝しろ」
「お……おう」
 饅頭を受け取る奥田さん。心なしか、その表情が引き攣っている様に見えたのは私だけだろうか。
 私達三人は207SWに乗り込みドライブを再開する。
 奥田さんは後部座席で鬼饅頭を食べている。うわ、ダイナミック。
「丸ごと齧り付くか」
 隣で狗狼が呆れたように声を上げた。
「ふぁふぁふぁしい」
 奥田さんは抗議している様に聞き取れるのだけど、意味が解らない。
 表情を失くして鬼饅頭を咀嚼している奥田さんがいきなり固まって「う、う、う」と声を上げる。
「咽喉に詰まったかな」
「え」
「死んだら道路脇にでも放り出しておくか」
「お、奥田さん。はい、お茶!」
 慌てて振り返ってペットボトルのお茶を渡す。カクカクと奥田さんは前後に頭を振りならペットボトルを受け取って口を付ける。
 上下する喉仏に安堵を覚えて私は胸を撫で下ろした。
「ふう、生き返った。有難う」
「気を付けて下さい」
「はい」
 奥田さんからペットボトルを受け取った私は、奥田さんに注意して前に向き直る。
「うわー、これ腹膨れるな。昼迄に消化されるといいが」
「なあ、奥田」
「何だ」
「昼はフィッシャー○ンズワーフで海鮮丼を食べるから」
「何だと!」
 狗狼から昼食の予定を聞いた奥田さんの表情に絶望の影がよぎる。
「うわー、そんなに腹が空かないぞ。食べるんじゃなかった―っ」
「はっはっは、ざまあみろ」
 狗狼が楽しそうに声を上げる。如何やら狗狼の機嫌は良くなったようで私も安心した。ゴメン、奥田さん。
 私は助手席で再び読書を再開する。
「湖乃波ちゃん、その本は?」
 奥田さんが後部座席から身を乗り出す様にして、私の読んでいる文庫本を覗き込んできた。
「この本ですか? 昨日、図書館から借りて来たんです。一昨日に聞いた難民問題とか少年兵の問題に興味を持ったので」
「へえ、勤勉だね」
 奥田さんは感心したように口元を緩める。別に読書しているだけだから、そう褒められるような事じゃないと思う。
「昨日、借りてきたもう一冊の本、緒方貞子さんの著作は昨日読み終えたので、今日はこれを読んでおこうかなって。ひょっとしたら、あの海外で亡くなった女性ひとが何を思っていたのか、そのヒントになるかもしれないって」
「なるほど」
 もう一冊の本はこれも日本女性の著作で、日本で武装解除を超えた紛争予防組織を立ち上げた人だった。
 彼女が海外の大学で学んだ頃は、まだDDRという単語が存在しなかった。DDRとは兵士の武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、社会復帰(reintegration)の単語の頭文字を並べて作られており、兵士の社会復帰を目的とした方法について説明した単語である。
 この本の著者は、大学三年生の頃にルワンダホームステイしたことを皮切りに、シラレオネ、アフガニスタン、ネパール、コートジボワール等を転々としながら、国連PKOや外務省、NGO団体などの職業に付き、どうしなければならないかを模索して方法を立ち上げて行った事がこの本に記載されている。
 この著書にはその当時の活動以外に、武装解除から始まるこの活動における元兵士への支援活動の矛盾や葛藤も書かれていて、その活動の難しさについても触れられていた。
「でも、ニュースで見たり聞いたりしていたけど、本当にそれだけで、実際私は何も知らなかったんですね」
「そうだね。海を挿んで起こっている現実なのに、僕等は同じ日本人が殺害されていてもそれを映画の様に捕えてしまっているね」
「私達は関係が無い、私達にはこの問題に対して責任が無い、そうではない。それでは世界は成り立たない。そう気付かないといけないんと思うんです」
 ふむふむ、と奥田さんは頷いた。
「じゃあ、湖乃波君はどうする?」
 反動を握っていた狗狼が前を向いたまま問い掛けて来た。
「うん、それなの。私はどうすれば、何が出来るんだろうって。読みながら考えてる」
 奥田さんはそんな私を見つめてから苦笑して宙を見上げた。
「まあ、僕等の世代は内側の繁栄ばかり気にして、外の出来事には無関心だった世代だからね。結局、今を生きる君達の世代に大きくなりすぎた問題を押し付ける事になってしまったんだ」
「今、そこにある危機。誰の言葉だったかな」
 狗狼の呟いた言葉が胸に残る。
「今、そこにある危機」
 私はその言葉を繰り返す。短いけど重い言葉だった。
 一〇時頃、賤ヶ岳SAに到着した私達は、前回食べ漏らしたロッジ焼きを買いに207SWを降りた。正確には車から降りたのは私と狗狼だけであり、奥田さんは後部座席で寝ておくらしい。
 売店の窓に大判焼きや回転焼きに似たロッジ焼きの写真が貼られており名前の由来である
表皮表面の三角屋根のロッジの焼印と、餡子、カスタード、サラダとロッジ焼きの中身について紹介してあった。
 どれにしよう。好みは定番の餡子だけどサラダも気になる。
「えーと、狗狼、どれがいいかなぁ」
「俺は消去法でサラダだな」
 狗狼は迷いなく即答した。そうでした、彼は甘いものが食べられなかったんだ。
「んーっ」
 同じものを食べて感想を言い合うのもいいかもしれない。
「私もサラダで」
 狗狼は一個一六〇円のサラダを二個購入してくれた。
 早速食べようと、私と狗狼はそばのベンチの腰掛ける。
「いただきまーす」
 一口齧る。ん、中身はマヨネーズとハムと、このコリコリした食感は何だろう? 私はもう一口齧って、その正体を確かめようと舌先に神経を集中した。
「具は大根とハムとマヨネーズ?」
 何か別の味付けが混ざっているような気がする。
 狗狼は既に食べ終えており、具の正体について大方見当が付いたようだ。
 ピンッと人差し指が立てられる。
「大根、惜しいね。これは多分、沢庵だ」
「たくあん!」
 以外な答えに私は回答を繰り返した。うん、そういえばそんな味だ。
 私は美味しくロッジ焼きを頂いて立ち上がる。
 狗狼は再びロッジ焼きの売店に立ち寄ると、一個のロッジ焼きが入った紙袋を手にして戻ってきた。
「何、それ?」
「心優しいお友達から奥田君へのお土産」
 心優しいって誰? 私の疑問をよそに狗狼は207SW迄戻ると、後部座席のドアを開けて横たわる奥田さんに紙袋を近付ける。
「ん、何だよ? 食べ物ならいらないぞ」
「お土産だ。美味しいロッジ焼きの餡子入りだよ」
「頼む、餡子はもう勘弁してくれ」
 狗狼は鬼。
 私達はロッジ焼きを堪能した後、私達は賤ヶ岳SAを後にして北陸自動車道へ入る。
「湖乃波君。フィッシャー○ンズに行く前にちょっと寄りたい所があるんだ。いいかな」
「何処に?」
 狗狼は北陸自動車道を加賀ICで降りた。それで私は彼が何処へ向かっているのかおよそ見当が付いた。
「……狗狼」
「どうもこうも、彼がいないと話にならない。説得して連れて行く」
「来てくれる?」
「来るさ」
 今から向かう所にいるかもしれない人物は、一昨日で会った時の態度では来てくれないかも知れない。そんな私の心配に狗狼ははっきりと答えてくれた。
 兎と触れ合える施設に着くと、狗狼は207SWを降りて足早にその施設に併設されたの喫茶店のドアをくぐって直ぐに見えなくなった。
 「すぐに戻る」狗狼がそう言い残したので私と奥田さんは大人しくプジョー207SWの車内で待つことにした。
「……湖乃波ちゃん」
「何ですか?」
 奥田さんは狗狼が入っていった喫茶店のドアを些か不安そうに眉を寄せて眺めながら言葉を続ける。
「僕は狗狼とは長い付き合いだけど、彼奴が他人の説得を我慢強く続けたところを見た事が無いんだ」
「……そうですか」
「……ああ、そうなんだ」
「……」
「……」
 沈黙する二人。
 心配になった私は店を覗こうと助手席から腰を浮かしかけた時、いきなり喫茶店のドアが勢いよく外側に開かれて人影が飛び出して来た。
 その黒背広姿の人物は脇に思い何かを抱えている様で、乱暴に右足で207SWの後部座席のドアを蹴っ飛ばす。
「奥田、ドアを開けてくれ」
 奥田さんがドアを開けると、狗狼は脇に抱えたモノを背後に振ってから、勢いを付けて後部座席へ投げ込んだ。
 そのモノが奥田さんの腹の上に落ちて、奥田さんと、そのモノが同時に呻いた。
 狗狼は後部座席のドアを閉めると同時に運転席のドアを開けて、するりと運転席に滑り込む。
「飛ばすぞ」
 そう宣言するや否や、アクセルを踏み込んでからサイドブレーキを解除して勢いよく道路へ飛び出した。後部座席から二人分の抗議の声が上がったけど狗狼は気にした風も無くシートベルトを締め乍ら速度を上げる。
「あ、貴方達は何の心算で……」
 後部座席にへばり付く様にして固まっていた人がようやく声を上げたのは、207SWが北陸自動車道に入って速度を緩めてからだった。
「そう、警戒しないで下さい。まるで俺が誘拐犯じゃないか」
 まるでじゃなくて、そのものと思うんですけど。
「その、御免なさい。まさか、こんな暴挙に出るとは思えなくて」
 後部座席を振り返り、取り敢えず謝ることにする。
「湖乃波君、君まで……」
 じろり。狗狼は黙ってて。
「あ、うん、御免なさい」
 私のアイコンタクトが伝わってくれたのか、狗狼は前を向いて運転に専念してくれる。
「済みません。あの、私の事は覚えていますか?」
 ずれた鼈甲の眼鏡を掛け直しながら私の顔を見返して、後部座席に放り込まれた人物、あの海外で子供を亡くした男性は2度頷いた。
「あ、ああ、覚えているよ。あの綺麗な御嬢さんだね。あの時は迷惑をかけてすみませんでした」
 彼は慌てたように二度、頭を下げる。無理矢理車内に連れ込んだことに私達が悪い筈だけど、この人はそれを忘れたように恐縮している。
「でも、何で僕は拉致されてるんだ」
 もっともな疑問だと思う。
「あの、私、神戸で学生をしている野島 湖乃波といいます」
「あ、ああ、僕は工藤くどう 久典ひさのり。その、福井で有機栽培専門農家の手伝いをしています」
 突然名乗った私に面喰いながらも、子供を亡くした彼、工藤さんは名乗って頭を下げる。
「工藤さん、私は貴方と別れた後、立ち寄ったフイッシャー○ンズ・ワーフで偶然に貴女の別れた奥さんと出会いました」
「あっ」
 工藤さんが驚愕したかのように目を見開く。
 本当は彼の語りから奥さんのおおよその位置を割り出して、保育施設に割り出したのだけど、それはややこしくなりそうなので黙っておいた。
「出会った時、彼女は子供の仕事場だった児童施設をじっと見つめていました。多分、毎日そこに立ち寄っているんじゃないでしょうか」
「……」
「貴女と同じで、彼女もずっと苦しんでいるんです」
 私の言葉に彼はゆっくりとした動作で顔を上げて私を見返す。
「それで、君は僕にどうしろと? いや、それより、何故君はそこまでするんだ」
「……私も大事な人を失ったから、では理由になりませんか」
「大事な人?」
「その、母です。私は誰かの助けが無ければ、私は、何時までも悲しみに浸ったままでした」
 その誰かは、工藤さんを後部座席の放り込んだ人物なんだから困ったものだ。
 奥田さんは軽く後部座席から運転席の狗狼の後頭部を小突いたけど、狗狼は何も言わずに黙々と運転している。
「その多分、彼女と同じ立場の貴方しか、彼女の苦しみを和らげることは出来ないとおもうから」
「……でも、彼女は僕を憎んでいるよ」
 彼は悲しそうに目を伏せた。
「それは彼女が、憎しみを向けやすかったのが貴方だったから、と思います。でも、憎み続ける限り、あの人は、苦しみ続ける。それは、彼女自身も解っているんじゃ、ないでしょうか」
 上手く工藤さんに伝えられているか解らないけど私なりに言葉を紡いでみる。工藤さんも、きっと本心では救いたいはずだと信じて。
「それに、このままじゃ、亡くなった彼女の海外で頑張ってきた事が、お母さんにとっては無駄な事だった。そうなってしまうのは悲しい事と思うんです」
「……」
 工藤さんは目を伏せたまま息を吐いた。胸中のモノを吐き出す様な長い長い吐息だった。
「そうだね。僕はあの子が海外で頑張った事を無駄にしたくないな。彼女と会うよ」
「あ、有難う御座います、有り難う御座います」

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.11 )
日時: 2021/05/15 16:30
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 工藤さんの言葉に私は礼を言って頭を下げた。
 自分でも驚くくらい、勢いよく下げたので助手席のヘッドレストに額をぶつけてしまう。痛い。
「う、うう」
 涙が零れるけど、これは痛みによるモノじゃなくて嬉し泣きだ。
「その、泣かないで下さい。礼を言うのはこっちですから」
 わたわたと手を振って慌てる工藤さん。
 泣き止みたいけど、涙が止まらないのはどうしようもないから勘弁して欲しい。
「それに、どう彼女を説得すればいいのか、まだ、解らないのですから」
 そ、そうだった。それを何とかしないと解決しない。私は涙を拭いて顔を上げた。
「まあ、手が無いわけではない」
 そう言ったのは運転席の狗狼だ。
 彼はステアリングから右手を離し、背広の胸ポケットへ指を突っ込み一本のUSBを取り出す。
「何だそれ?」
「懇意にしている情報屋に頼んで、当時の新聞から娘さんの属してた団体、〈スピーシズ オブ ホープ〉に連絡を取って貰ったんだ。で、昨日、その地域を担当してた担当者と会って、現地の様子を映像で送って貰った」
 いつの間に? それより昨日って、仕事は?
「まあ、担当の女性が千種ちだねさんって話の解る人で」
「狗狼」
「うん?」
「仕事は?」
「……」
 あ、黙っちゃった。
「……狗狼」
「あ、いや、千種さんが昨日しか時間が取れないって言ってたし、まあ、美人を待たすのは男のする事では無いって、いや、だからね。問題を解決するのは早い方が良いじゃないか。なあ、奥田、そう思うだろ」
「……何故、巻き込む」
「ま、まあ、そういう事で、さっさと小浜に行こうじゃないか」
 何がそういう事かは解らないけど、狗狼は再びUSBを胸ポケットに収めて引き攣った笑みを浮かべる。
 帰ったら、覚悟しておいてね。
 小浜ICを下りると工藤さんは、小浜は寺院が多く建てられており、特に古刹八寺である羽賀寺、明通寺、国分寺、萬徳寺、神宮寺、多田寺、妙楽寺、圓照寺は有名な仏像も安置されており一見の価値ありと説明してくれた。
 私達は小浜市内を横断して、再び小浜湾沿いに店舗を構えたフイッシャー○ンズ・ワーフの駐車場へ到着した。
 駐車場を見回す。あの小動物の顔の様な赤い軽乗用車は見当たらない。
 前回、此処を訪れた時刻より早いので、昼食がてら彼女が来るまで待つことにした。
「さて、昼食は海鮮丼だね。さっさと食べに行こう」
「払えよ。自分が喰った分はちゃんと払えよ」
「何だと! 此処まで人を連れてきておいて、それは無いだろう」
「追いて来たのはお前だろう。払えないなら喰うな! 車でお留守番だ」
「安い調査費で扱使われたからな。素寒貧なんだ。僕には昼食を奢って貰う権利があるぞ」
 がるるると睨み合う狗狼と奥田さん。やめようよ、工藤さんがびっくりしている。
「二人共、こんな場所で口喧嘩は駄目だよ。折角だから皆で食べよ」
「えーっ」
「ほらみろ。怒られた」
「ふん」
 渋々店内に入る狗狼とウキウキと笑みを浮かべる奥田さん。その後ろからついて行く工藤さんと私。
「工藤さんも一緒に食べませんか? 無理矢理連れて来たお詫びがしたいんです」
 私の申し出に工藤さんは掌を振った。
「いや、背中を押して貰ったのは僕だ。僕が奢るよ」
「「そうですか、じゃあ遠慮な……」」
「二人共、黙ってて下さい」
「「はい……」」
 遠慮も何もない狗狼と奥田さんを黙らせる。何でこんな時は二人とも仲がいいんだろ?
「いえ、今日は私達が払います。まだ、感謝されるのは早いと思うから」
「……そう、そうだね。それで君の気が済むなら」
「はい、済みません」
 四人でひとつの席に着く。
「海鮮丼って色々あるよね」
 奥田さんは机に置かれたメニューを真っ先に見た。彼は海鮮丼が楽しみだったらしく整った顔に子供のような笑みを浮かべて海鮮丼の写真を見比べている。
「俺はもう決めた」
「私も」
 私と狗狼の答えに奥田さんと工藤さんは揃ってびっくりしたように目を見開いた。
「え、もう!」
「何を選んだんですか?」
「若狭くじと甘海老のあっさり丼」
「俺も同じ」
 何故かといえば、前回食べた若狭くじのお刺身が美味しかったからだけど。
「うーん、越前ガニと雲丹の海鮮丼にするかな」
「それ、十月から二月までの限定ですよ」
 奥田さんの選んだ海鮮丼へ村瀬さんの冷静な指摘が入って、奥田さんは天を仰いだ。
「なら、若狭ふぐの海鮮茶漬け」
「え、夏にフグが食べられるのか?」
「食べられるよ、ほれ」
「お、ホント。驚いた」
 奥田さんの指差したメニューのお品書きに季節限定の記述が無い事が珍しかったのか、覗き込んだ狗狼が感心したような声を上げる。
「若狭ふぐは養殖のトラフグですから、夏冬問わず食べれますよ。特に福井梅を混ぜた餌で育てられた若狭ふぐは〈梅ふぐ〉として売り出してます」
 工藤さんの説明に狗狼と奥田さんは感心したように声を漏らす。
「夏の暑い日に氷に乗ったてっさを食べれるのか」
「贅沢だよな」
「狗狼、てっさって何?」
「薄く切ったふぐのお刺身の事だ」
 狗狼がメニューに載った写真を私に見せてくれた。
 そこには向う側が透けて見えるほど薄く切られたフグのお刺身が、牡丹の花のように並べられている写真が載っていた。
「綺麗。食べるのが勿体無い」
「板前さんの腕の見せ所ってことだな」
「お前も出来るんじゃないか、ブレード」
 奥田さんが狗狼を通り名で呼んで冷蔵棚に並べられているフグの切り身を指差した。
「やろうか?」
「止めようよ。警察を呼ばれるよ」
 背広の内ポケットに手を差し込む狗狼を慌てて止める。きっと折り畳みナイフと取り出そうとしたのだろう。
 全く、仕事中は運転以外の事はやりませんって態度を貫いている癖に、長い付き合いだからか奥田さん相手だと結構予想出来ない行動を取る。
 店員さんが注文を聞きに来たので結局四人とも「若狭くじと甘海老のあっさり丼」を頼んだ。
「しかし、福井ここも中々美味いものが多いよな」
 だよね。この数日、食べてばっかりの様な気がするもん。私は狗狼の言葉に同意しながら、帰ったら体重計に乗っておこうと誓った。
「まあ、海が近いからな。越前ガニなんか有名だろ」
 奥田さんはまだメニューを開いてカニ料理を見つめている。カニが好きなのかな?
「でも福井県は農業も盛んですよ。蕎麦とか里芋とか、有機栽培が盛んですし」
「あ、そうか。工藤さんは農家だったな」
「今は一休みして他の農家を手伝っているのですが、また自分でも栽培を始めたいとは思ってます。ただ、娘を亡くしてから、こう、何かをしようという意欲が湧かないので、それが自分でももどかしいのです」
「……」
 工藤さんの告白に言葉を失くす。
 何か言わないといけないのだろうかと思ったけど、気の利いた言葉など考え付くわけも無く、幸いにも店員さんが頼んだ若狭くじと甘海老のあっさり丼を持ってきてくれたので皆そっちへ意識が飛んだ。
 並べられた丼鉢の中を見て狗狼と奥田さんが「「なるほど」」と同時に頷く。
 丼の光沢のある白米の上に、若狭くじの切り身と甘海老、それはメニューに載っていたからいいとして、もうひとつ具が載せてあった。
 蓋の開いた大きめのアサリが載せられていた。
「……あっさりとアサリを引っ掻けたんだね。狗狼、座布団は有るかい」
「この程度で座布団は出しちゃ駄目だろ」
「そうか? 美味しかったら座布団二枚はいけるだろ」
 二人のたわいも無い言葉のやり取りを聞きながら御飯ごと上に乗った若狭くじの刺身を口に運ぶ。
 御飯も甘い。刺身も甘くて蕩けそうだ。
「ご飯、美味しい」
 私の呟きに工藤さんは表情を綻ばせる。
「そうだね。福井県産コシヒカリは米の食味ランキングで最高位の特Aを取った事もあるんです。それだけでなく福井県は古くからコシヒカリと関わりがあって、福井県の農業試験場でされた品種なんですよ」
 それは知らなかった。
 そう言えば工藤さんは農家の手伝いをしているから、そう言う事に詳しいのだろう。
「工藤さんも御米を作ったりしているんですか?」
「ん、ああ、僕の手伝っている農家は〈いちほまれ〉を有機農業で栽培してるよ。コシヒカリはどうしても病害に弱くて背丈も高い。それ程有機栽培に適してるとは言えなく、一定量を収穫しようとすると、どうしても耕作地を広げる必要があったんだ。限られた農地で収穫を増やす為にコシヒカリから減農薬を目指して開発された〈いちほまれ〉に切り替えて試行錯誤を繰り返している真っ最中なんだ」
 そう言えば、スーパーで売っている有機栽培の野菜がかなり高額なのは、それだけの手間が掛かっているからなのかな。
 高額だからと言って、それを買わなければ農家の人の努力が報われなくなる。そうすると次の栽培に掛ける資金が足りなくなる。
「……難しい、ですね」
 そう言えば先日、カテリーナと食べたランチに使われていた食材にも有機栽培のものが混ざっているのかもしれない。あの店員さんは食に対して何か考えてくれれば嬉しいと言っていた。
「そうなんだ。でも少しでも環境の保全や自然との共生に貢献したいからね。この素晴らしい環境を維持していきたいんだ」
 そう語る工藤さんの表情は何時もの気弱な雰囲気ではなく輝いているように見えた。きっと、海外に言って働きたいと言った娘さんの表情も、工藤さんには輝いているように見えたのかもしれない。
 それなら工藤さんは例え自分の子供が危険な場所に赴こうとしても止めることは出来ないと思う。
 自分と同じく、何かを成し遂げたい夢を持っているから。
 私は、何かを成し遂げたいという夢をまだ持っていない。
 狗狼に救ってもらったこの身を、何に使えばいいのか解らない。
 眼の前で狗狼と奥田さんは「若狭くじと甘海老のあっさり丼」を既に平らげ、狗狼は野外の喫煙所で一服しに行った。
 狗狼と奥田さんも昔、夢を持ったことはあるのだろうか。
 狗狼の場合、シェフとか喫茶店のオーナーとか似合いそうな気がするのだ。ただ愛想がないけど。
 ちょっと狗狼に訊いてみようと腰を浮かせ掛けた時、狗狼が喫煙所から戻って来る。サングラスに隠された表情が僅かに緊張している。
「工藤さん、あの人だ」
 振り返って駐車場を見ると、道路に近い場所に見覚えのある、あのカピパラの頭部に似た赤い軽自動車が止められており、傍らには茶色のセミロングの髪をした眼鏡を掛けた美人が道路を挟んで向かい側にある児童施設へじっと視線を送っている。
「工藤さん。奥さんで間違いないか」
「は、はい」
 工藤さんは二度、頷いてから自分を落ち着かせようとするかのようにお茶を口に運んだ。
「なら、行くか」
 一斉に席を立って駐車場へ向かう。
 七月の容赦ない屋外の日差しに、私は目を細めてその向こうで軽乗用車の脇で佇む女性に向かって歩みを進めた。
 その女性は出会った時と同じく道道を挿んだ向こう側にある児童施設を微動せず見つめている。
 きっと、亡くなった自分の子供が児童施設で働いていた時の光景を思い出しては、彼女の居ない現実の辛さに傷付き続けているのだ。
 その救いのない現実に、生きていくことがどうでもよくなって、ついには感情の全てを自分の内側に仕舞い込んだ人形となってしまう。
 私はそれを知っている。狗狼と出会うまでの私がそれだったから。だからもう終わりにしてあげないといけない。
「あの、済みません」
 彼女は背後からの私の呼び掛けに振り向いて、黒縁の眼鏡の奥にある愁いを帯びた瞳を驚いたように丸くした。
「あら、あなたは」
 そこまで言って一礼した私の背後にいる人影に気付いたのか、警戒したように目を細める。
「なぜ、貴方が一緒に居るのかしら。御知り合い?」
 答えようとする私を手で制しながら工藤さんが前に出た。
「佳代、もういいんじゃないか。君は陽子の背中を後押しした僕だけでなく、引き留めらなかった自分自身を責め続けている。こうして陽子の居るはずだった場所を見に来ていて、その光景を夢想して、それで自分を傷付けている」
 彼女、佳代さんは海側から吹く強い風に、やや色素の薄いセミロングの髪をなびかせながら息を呑んだ。
「多分、陽子は僕たちが止めても、きっとあの場所へ向かったと思うんだ。それがあの子の夢だったから」
 工藤さんの言葉に佳代さんは、眼鏡の奥の瞳から怒りを込めて元夫の身体を視線で貫いた。細く白い指が拳を形作る。
「違う。あの子は私達が引き留めていたら、きっと理解してくれて小さい子供達相手の仕事を続けてくれたと思うわ。あの子は子供が好きだったから」
「……それは、君の希望で、陽子の希望じゃないんだ」
「でも、死んじゃったら、元も子もないんじゃないの。あの子の夢も全てが無駄になったのよ!」
 佳代さんの叫びに工藤さんは黙り込んだ。
 多分、この様な言葉の応酬は今迄に何度もクロ返されてきたんだと思う。そして、二人の言葉はある事実で続かなくなるのだろう。
 愛娘の永遠の不在。
 神様しか覆す事の出来ない、ひとつの家族を襲った不幸に対して何かできることは無いのか。
「……あの」
「はい、何でしょうか?」
 会話に割り込んで来た私に、佳代さんの涙に濡れた瞳と工藤さんの愁いと困惑を浮かべた瞳が向けられて、私はつい、半歩退いてしまう。
 臆するな、私!
「あの、私は陽子さんの、その、勝手で申し訳ありませんが児童施設の子供達に宛てた手紙を拝読しました」
「え?」
「多分、陽子さんは彼女が外国の子供達の現状に関心を持ったのは、幼い頃に母親に買ってもらった写真絵本を読んだからだと手紙に書いていました」
 そう語る私を工藤さんは動揺したように目を見開いて見返した。それに対して佳代さんは困惑したように私を見つめる。
「彼女がそれまでそのを取り巻く過酷な環境や状況を関心が無く、その本を読んで関心を持ったように、今度は彼女が海外で見聞きしたことを彼女自身が子供達に教えて彼等にそのことについて考えて貰いたい。そう書かれていました」
 私の言葉に佳代さんは視線を落とした。
「そう、子供の事に買った絵本で。でも私はそんな本を買ったことすら覚えてないの。それに、その手紙、私は読んでいないの」
「え?」
 工藤さんと私の視線が合い、工藤さんは手を口に当てたまま視線を逸らす。
「御免なさい。その手紙、今持っているのなら読ませてくれないかしら」
 首を傾げ乍ら奥田さんが手紙を差し出して来た。
「これが、彼女の手紙です」
「あの、貴方は?」
 奥田さんの端正な顔に驚いたように質問をする佳代さんに、奥田さんは営業スマイルを浮かべる。
「しがない私立探偵です。手紙をどうぞ」
「あ、有り難う御座います」
 佳代さんの頬に赤みが差す。それを隠す様に彼女は手紙を眼前で開いて読み始める。
 私達は手紙を読むにつれて佳代さんの両目から静かに湧きあがったものが手紙の表面を濡らし始めた。
「私、だったんですね」
 読み終えたのか、ゆっくりと手紙を畳む佳代さんから細く消え入りそうな呟きが私の耳に届いた。
「私が、あの子に本を買って上げた事が、あの子を死地に向かわせたんですね」
「……」
 私は俯く事しか出来ず、奥田さんも黙って視線を反らした。工藤さんは後悔にさいなまれる彼女を痛ましげに見つめている。
 佳代さんは元夫である工藤さんに向けて力無い笑みを浮かべた。
「貴方は知っていたから、手紙を私に読ませなかったのね」
「……違う」
 工藤さんの否定の言葉を更に打ち消す様に彼女は左右にゆっくりと首を振る。
「いいえ、違わないわ。何てことなのかしら。私は忘れていたとはいえ、自分の事を棚に上げてあなたが殺したとずっと恨み続けていた。貴方こそ私を恨むべきなのに。御免なさい」
「……」
 工藤さんは佳代さんに掛けるべき言葉が見つからないのか、己自身を責めて泣き続ける佳代さんをやるせない面持ちで見つめている。
「御免なさい、私はあの子の命無駄にして、御免なさい」
「本当に貴方の娘さんの命は無駄に散ったと、そう思いますか?」
 そう訊ねたのは、今まで傍観者に徹していた狗狼だった。
 涙に濡れた瞳で見返す佳代さんといきなりの質問に戸惑う工藤さんに、狗狼は慇懃無礼に一礼する。
「失礼。私は依頼を受けて現地へ荷物を運ぶ個人経営の宅配業、いわゆる運び屋と呼ばれている者です。先日、貴方がたから私の娘が、お話をお聴きした後、つてを頼って娘さん、陽子さんの所属していた〈スピーシズ・オブ・ホープ〉の担当者である千種女史に連絡を取りました」
 私の娘って多分私の事だろう。仮初めの保護者では説明しづらいからかもしれないが、本当にそう思ってくれているなら、少し嬉しいかも知れない。
「彼女は貴方がた二人の事を覚えており、なおかつ心配しておりました。お二人の哀しみを少しでも和らげることが出来るならと、私に」
 狗狼は黒ジャケットの胸ポケットから一本のUSBメモリを取り出す。
「この映像を届けて欲しいと依頼しました」
 狗狼は奥田さんを振り返った。
「奥田。スマートフォンにUSBを繋いでくれ。中の映像を再生したい」
 奥田さんはUSBメモリを受け取って目を丸くした。
「狗狼、これは駄目だ」
「何がだ」
 奥田さんはスマートフォンのお尻を狗狼に見えるようにかざす。
「端子の大きさが違う。俺のはライトニングなんだ」
「何だそれ?」

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.12 )
日時: 2021/05/15 16:41
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「突き刺せないってことさ。再生は無理だ」
「……」
 ちなみに狗狼の携帯はガラケーでUSB端子自体が無い。私はガラケーすら持っていない。
 狗狼は工藤さんに視線を向ける。
「私のもアイフォンです」
「アイフォン?」
「そこの人と同じものです」
 狗狼が小さく口を動かした。ガッデムとかなんとか呟きが聞こえた。
 皆一斉に佳代さんに視線を向ける。
 その視線に気圧される様に仰け反りながら、佳代さんは携帯を取り出した。
「私、機械が苦手で、単純なスマートフォンだから、そんな機能あるかどうか?」
 工藤さんがそのスマートフォンを覗き込んでから数秒後、患者の死を見てとった医師の様に静かに首を振る。
 重い沈黙が落ちる。
 狗狼がUSBメモリを持ったまま宙を仰いだ。
「あの」
 おずおずと佳代さんが手を上げる。
「何ですか}
 不貞腐れた投げやりな口調で狗狼が尋ねた。もうどうとでもなれとでも言うかのようだ。
「あの、私の車のナビ、買い換えたばかりで、ひょっとしたら映像を見れるのかも」

 数分後、私達は佳代さんの愛車であるダイハツ・エッセにみっちりと体を寄せ合って乗り込んでいた。運転席に佳代さん、助手席に工藤さん。そして後部座席には私を挿み込む様にして狗狼と奥田さんが腰掛けている。非常にきつい。
 本来、ダイハツ・エッセは軽乗用車で4人乗り、車載可能重量二百キログラム迄で誰かは乗れないはずだけど、その誰かは「此処まで来て僕だけ仲間外れで映像を見れないのは勘弁して欲しい」といったので、道路を走らなければいいだろうという事で彼も車内に乗り込んで来たのだった。
「狗狼、プジョーのナビに再生に再生機能は無いの?」
 狗狼の胸に頭を預けるような姿勢になったので少々恥ずかしさを覚えながら、それを振り払う様に彼に尋ねると、「メモリーカードなんだよな」と返事が返って来た。
 前座席では佳代さんが白茶けた顔色で眼鏡の奥の目を丸くしながら、先日買って取り付けて貰ったばかりだというナビゲーションシステムの取扱説明書を読んでいる。
 時折、彼女の白い指先が何度か画面をつついているけど、必要な機能が表示されないらしい。
〈自宅の設定を消去しますか〉
「……」
 今、佳代さんの顔を正視出来ません。
 狗狼が「取説を寄こせ」とでも言いたそうに口を僅かに動かしているけど、当の佳代さんは、それに気付いた風も無く画面とにらめっこしている。
「佳代、これだよ」
 横から工藤さんの指が動き、画面をタッチするとTVが見れるようになった。ニュースキャスターの原稿を読み上げる声が車内に空しく響き渡る。
「TVが見たかったの?」
 佳代さんの声が何処か怖い。
「いや、TV画面を弄ったら、メモリの映像が、見れるんじゃないかな」
「それより、何処に差し込むかが重要じゃないでしょうか」
 冷や汗をかきながら答える工藤さんに奥田さんがもっともな事を指摘する。彼は早く映像を見て車内から出たいみたい。
「パネルがスライドするのよ。画面を押したら」
「そうですか」
 佳代さんの答えに奥田さんも力無く相槌を打つしかなかったようだ。
「あ、あの、私が取説を読みましょうか」
「え、ああ、悪いわね、お願い出来ます」
 意外と分厚い取扱説明書を受け取りページをめくる。
 目次からナビシステムの構造を探し出し、そのページを開ける。
「ええと、画面の右端のDVD/CDの所を押すとパネルがスライドします」
「これ?」
 ディスプレイが上にスライドしてDVDとCDの挿入口とUSB端子が現われる。
「凄い。よく解ったわね」
「え、その」
 読めば解りますって。
 あ、そういえばママも家庭電気用品が苦手だった。買ったばかりの電子レンジの使い方が解らないと、私に操作を押し付けていたし。
「じゃ、これを差し込んで」
「は、はい」
 佳代さんが狗狼からUSBメモリを受け取ってUSB端子に差し込むと、自動的に再生されるのか、画面から地図が消えて青い空と白い大地、ビニールハウスとその中で茂った木々の映像が映し出される。
「始まった」
 狗狼が身を乗り出し、私の視界の半分が狗狼の後頭部で占められる。
「ん、全然見えないぞ。画面が小さいんだよ」
「え、私も、見えない」
 残る半分も奥田さんの薄い色素の髪が占領して、私は二人の顎先の空間から辛うじて画面を視認した。
「御免なさい、後ろ静かにして下さい」
「「「はい」」」
 画面を見つめたまま佳代さんが背後の喧騒を制する。
 映像はビデオカメラで撮影されているのか、その生い茂った木々にカメラが近づいて拡大されると、その木に赤く細長い楕円形の実が生っている事が見てとれた。
 再びカメラが遠のくとその木々の前にぞろぞろと人が集まって来た。褐色の肌色をした人々が最も多く、縮れた髪質をしている事からアフリカの人達ではないだろうか。
 後の人達はアジア系が多く、肌の色の白い人は二人しかいなかった。
 集まった人たちの年齢は様々だけど、アフリカ系の人は比較的若く一番手前では七歳位の女の子がはにかんだ笑みを見せて恥ずかしそうに身体を燻らせている。
「ヨウコサンノ、オトウサン、オカアサン、オゲンキデスカ。ワタシノナマエハ、アバイ・ベルハヌ、デス」
 背の高い褐色の肌をした青年達の中で、一際背の高い身長百九十センチは超えていそうなひょろりとした体形の青年が区切ったたどたどしい日本語で画面に語りかける。年齢は二十歳ぐらいだろうか。
 彼の足下には褐色の肌をした子供達が地面に座り込んで地面に棒で落書きをしていたり、長い彼の足にしがみ付いて引っ張ったりと自由に過ごしている。
 彼はそんな子供達へ、視線を向けてしょうがないなあとでも言う様な温かい苦笑を浮かべてから、再び画面に向けて語り掛けた。
「ワタシハ、ゴネンマエ、ブキヲステテ、スピーシズ・オブ・ホープニ、ホゴサレマシタ。ヨウコサンハ、ワタシニ、ブキヲツカワナイデイキルホウホウト、ベンキョウヲオシエテクレマシタ。ニホンゴモ、ヨウコサンカラナライマシタ」
 アバイさんの両掌は何かを包んでいるのか、重ねあわされた両掌がラグビーボールのような形に膨れていた。
「ワタシタチノ、クニハ、コーヒーマメノシュウカクデ、セイカツシテイルヒトガオオイデス。デモ、コーヒーノキハセンサイデ、チキュウオンダンカノエイキョウデ、ジュウスウネンゴニハ、シュウカクリョウガゲキゲンスルカモシレマセン」
 それは私も世界地理の授業で聞いた事がある。コーヒー豆の2050年問題と呼ばれているものだ。
 コーヒー豆の栽培は北緯二十五度、南緯二十五度の限られた地域に限られており、その地域に属する国々では、コーヒー豆の輸出を外貨獲得の手段のひとつとしている国々も多い。
 しかし地球温暖化が進むと、温度や湿度の変化により(さび病〉と呼ばれるコーヒーの木にとって病気の蔓延や降雨量の減少が起こり、2050年にはアラビカ種と呼ばれる珈琲豆の栽培に適した土地が現在の五十パーセントまで減少する可能性が高い。
「ソウナレバ、ノウジョウでハタライテイタヒトタチノ、シュウニュウガヘッタリ、ショクヲウシナッタリシマス。ソンナヒトタチノフマンガツノレバ、ボウドウヤ、ナイランヲヒキオコシ、マタ、ワタシノヨウナコドモタチガフエテシマイマス」
 アバイさんの眼が悲しげに伏せられた。彼が武器を持っていた頃を思い出したのかもしれない。
「ヨウコサンハ、コーヒーマメのサイバイノウカヤ、アメリカノダイガクノヒトトキョウリョクシテ、コーヒーマメノカワリニ、オンダンカガススンデモタエラレル、カカオノキヲツクッテ、ソダテテイマシタ。ワタシモ、ココニキテ、ヨウコサンノテツダイヲシテイマシタ」
 アバイと名乗った青年が両手を開くと、その中に長さ二十センチほどの赤い木の実の様な物が握られていた。
「ナエカラ、ソダテテ、5ネンメ。ヨウコサント、イッショニソダテタ、カカのキニ、ミガナッタノデ、オシラセシ、マス」
 白衣を着た白人男性が拍手をすると、周りの人たちも同じように手を叩きだした。皆の顔に笑顔が浮かぶ。
「コレガ、カカオノ、ミ、デス。コレト、ウシロノ二ホン、ダケ、ミガナリマシタ」
 ビニールハウスの大きさからすると微々たる量だと思う。それにもかかわらずアバイさんと、その周囲を囲む人達の表情は明るかった。
「コノミガナッタノハ、ヨウコサンガ、ヒルモヨルモ、タイセツノソダテテキタオカゲデス。アリガトウゴザイマス」
 工藤さんの閉じられた口から声が漏れる。両膝を掴む一〇本の指が小刻みに震える。
「カカオノマメガ、オオクナルノハ、ジュウカラ、ジュウニメンメデス。ワタシハ、ソレマデニ、コノミヲフヤシテ、コノキヲヒロゲテイキマス」
 とても先は長く、並大抵の努力では達成出来ないであろう事を、このアフリカの青年はたどたどしい日本語だけど、自信に満ちた声で言った。
「イツカキット、ワタシガヨウコサンニ、シゴトヲナライナガラキイタ、この豆でチョコレートケーキを作って皆で食べたい、ソノネガイヲ、ミンナデカナエヨウトガンバリマス。ソシテ、ワタシモ、ヨウコサンノノコシテクレタ、コノキボウノタネヲ、コドモタチニツナイデイキマス」
 アバイさんは自信に満ちた眼差しを画面の向こうに居る私達に向けて微笑んだ。
 私には彼の微笑みは、画面に向こう側に居る工藤さんや佳代さんだけでなく、もういなくなってしまった陽子さんに向けられている様に感じられた。
 ほら見てよ、ヨウコサンの残してくれた木に実が付いたよ。彼は彼女にそう言いたかったに違いない。
 彼女の喜んだ顔が見たかったに違いない。
 でも彼女はもうこの世界にはいない。
 彼も、彼女の両親と同じく、その現実に打ちひしがれて膝を屈したのだろうか。
 母を亡くした時の私の様に、この世の全てに絶望し、厭世的になったのだろうか。
 画面の向こうに居る彼は、その喪失感をおくびにも出さず力強く生きている。
 去ってしまった彼女の背中を笑顔で見送ろうと努力している。そう思えた。
「ヨウコサンノ、オトウサン、オカアサン。ワタシタチハヨウコサンヲワスレマセン。コノカカオノミトトモニ、ヨウコサンノオシエテクレタコトヲ、ワタシノクニノヒトタチニツタエツヅケテイキマス」
 その言葉の終わりと主に画面が暗転した。如何やら映像が終わったらしい。
「……」
「……」
 工藤さんと佳代さんは、映像の途切れた車のナビの画面を見つめたまま微動だにしなかった。
「……佳代さん。これでも陽子さんの、貴方の娘さんの人生は無駄だったと言えますか?」
 狗狼からの問い掛けに、佳代さんは人差し指で涙を拭ってから静かに首を振った。
「いいえ。むしろ、良くやったと褒めるべきでしょうね。あの子と、その国の元少年兵が育てた木が実を付けて、その木を、その国を救う希望の木をその国の子供たちが自分達で育てて広げていく。あの子はその一歩を残したんですね」
「そうだね、僕はあの子が向こうで何をしていたかは知らなかったけど、今迄、全然経験の無かったカカオの栽培を手伝うのは大変だったと思う。よく頑張ったよ」
 二人の表情から何か張りつめていたモノが抜けているように見えた。
「そうね、私は陽子に生きて帰ってきて欲しかった。でもあの子の残したものから目を逸らし続けるのは母親として失格だったわ。私はあの子によく頑張ったねって、今は、そう伝えたい。日本に帰って来て日本の子供たちにそれを伝える事は叶わなかったけど、よく、貴方は頑張ったから、今はゆっくりしなさいって言って上げたい」
「いいえ、伝わってますよ」
 私の言葉に工藤さんと佳代さんは振り返って後部座席の私を見た。
「あの、私は工藤さんに会って、陽子さんの事について聞くまで、海外で派生する内戦や少年兵、それにより生み出される難民等の問題を、ニュース画面の向こう側の出来事としかとらえておらず、関心を抱いてなかったんです」
 画面の向こうの出来事は現実感が無く、日本が島国だという事もあり別の次元の出来事という錯覚を起こしていた。
 本当はそうではなく、それは何処でも起こるのだ。
 貧困、宗教、人種、疫病。その全てが内乱や暴動の要因となりうる危険をはらんでいる。他国の資源に頼る日本も無関係とは言えない。
「工藤さんと会った次の日に、私は図書館から難民問題と武装解除組織関連の本を借りました。その本を読んで、私は、それらのことを何も知らずにいた事を痛感しました。そしてその二冊の本には、無関心と見ない振りこそが、その問題の解決を遅らせている最大の原因だと書かれていました。多分、陽子さんは、それを知っているからこそ海外の子供たちを取り巻く環境について、日本の子供達に伝えようとしたと思うんです」
 話すのが苦手な私だけど、何とか私の思いを佳代さんと工藤さんに語った。陽子さんの意思は間接的だけど私に伝わった。そう教えてあげたかった。
「……あの、名前を聞いてもいいかしら」
「野島 湖乃波といいます。今年で中学三年になります」
「……そう」
 佳代さんは目を細めて微笑んだ後、運転席から身を乗り出して私の頭を両手で抱きしめる。
「ちょ、佳代さーー」
「……有難う。本当に、あの子の思いを受け取ってくれて、有難う」
 そのまま泣きじゃくる佳代さんにつられて私も泣きそうになる。
 仕方のない事だけど、子供達を救おうとした陽子さんと二度と会えなくなった二人を襲った悲劇が理不尽で悲しかった。
 彼女が泣き止んで皆が車の外に出ると、もうそろそろ日は傾こうとする時間だった。
「あの、有り難う御座いました」
 頭を下げる工藤さん達に狗狼は「依頼を果たしただけだ」と素っ気なく言った。
「でも、料金は」
「それは、もう、貰っている」
 そう言って狗狼は一瞬だけ、私にサングラスの奥から視線を向ける。
「奥田、湖乃波君、帰ろう」
 狗狼は用は済んだとばかりにさっさと二人に背を向けて、プジョー207SWに向かって歩き出す。
「あの、有り難う御座いました」
 私も一礼して狗狼の後を追い掛ける。別れの挨拶に「有り難う御座いました」は変かもしれないけど、その言葉が今の私の工藤さんや佳代さんに対する素直な気持ちなのだ。
 私が乗り込むとキーが捻られ、エンジンが掛かる。
 駐車場を横切り工藤さんの前を通ると、二人とも笑顔で手を振ってくれた。
「さようなら」
 聞こえないかもしれないけど別れの挨拶を口にする。
 ずっと、あの二人の笑顔が続きますように。

 帰り道は行きとは別のルート、27号線から303号線を通り、367号線を南下して帰る予定で、夕暮れ時の赤く染まった熊川宿付近の空や山々、街の景色は一見の価値があると狗狼が言っていたので自動車道ではなくこちらを通る事となった。
 また小浜から367号線を通って京都まで南下するルートは、若狭でとれた塩漬けの鯖が京都へ着く頃には丁度良い塩加減になっていると言われるほど鯖を中心とする海産物がこの道を通って京都へ運ばれたことから通称〈鯖街道〉と呼ばれている。
 303号線に入り、207SWが古めかしい木造建築の並ぶ通りへ差し掛かった時、私はその風景に目を見張った。
「……きれい」
「ほんと」
 私と奥田さんが同時に声を上げる。
 夕暮れの赤く染まった空と黄金色の日差しが降り注ぎ、時代劇で見る様な瓦屋根の商家が立ち並び、その白い壁も日差しを反射している。それらの背後に控える山々は、新緑の木々を日差しに光らせながら、その街の風景から浮かび上がらせていた。
「狗狼」
 私は助手席に差し込む夏の夕暮れ特有の黄色い日差しに目を細めながら狗狼に呼び掛ける。
「ん、何だ」
 運転中なので前を向いたまま答えた。ぶっきら棒で、彼の事を知らなければ怒っている様にも聞こえてしまう。
 私は運転席の彼のサングラスをしたいつも不機嫌そうに見える横画を見て言った。
「ありがとう」
「……」
 私一人ではどうしようもなかったと思う。狗狼が奥田さんやスピーシズ・オブ・ホープの千種さんに連絡を取ってくれたからこそ、あの元夫婦は和解出来たのだから。
「……礼を言われることは何もしていないが?」
 暫く沈黙した後に狗狼は口調を変えずに答える。
「そう? 私は嬉しかったよ」
「君の為じゃない。佳代さんが美人だったから仲良くしたかった。それだけだ」
 話題を切り上げようとするように言い切る狗狼に、後部座席から揶揄するような声が駆けられる。奥田さんだ。
「湖乃波君、此奴は昔からこうだから、放っておいてもいいよ」
 そう言う奥田さんも、朝早くからわざわざついて来たのはどういう事だろうか。
「お前、此処で降りるか?」
「何だと」
 奥田さんと狗狼、二人の口喧嘩を聞きながら、私は笑みを浮かべる。このどこか不器用な人達の存在が嬉しかったのだ。
「二人とも有難う。今日は楽しかったよ」
 お互いを貶しあっている二人には聞こえなかっただろうけど、私はもう一度お礼を口にした。

                    9

 暑い。
 この住居兼倉庫の窓は通りに面した、正確には海側に付けられた一つしかなく、そこだけだと、この夏の真っ盛りともいえる炎天下では室内が蒸し風呂と化しているので、玄関のドアも大きく開放している。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.13 )
日時: 2021/05/15 16:51
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 それでも海からの風が途絶えた今の状況では室温が上昇する一方で、私は毎日の日課となっている図書館への避難を始めようとノートと図書館から借りた山本敏晴さんの書籍を手に取った。
 毎日、図書館に通っていたのでは借りた意味が無くなってしまうのだけど、此処に居たらノートが水滴だらけになって読書どころではなくなるので仕方がない。
「ん、今日も図書館か?」
 夏の魔人が声を掛けて来た。
 黒背広、ネクタイ着用、サングラス、黒手袋。
「……あつっ」
 つい口に出してしまう。
「ああ、確かに今日も暑いな」
「うん、暑い」
 私の返答に狗狼は顎に手を当てて何かを考える様に目を閉じた。
 おそらく、エアコンを買おうかどうか考えているのだろう。
 驚くべきことに、この事務所兼倉庫にはエアコンは無く、二枚の羽根を不規則な回転速度で回す扇風機が一台あるだけだった。
 狗狼曰く、「倉庫に居るより車に乗っている時間の方が長いので必要が無かった」とのこと。
 狗狼は私が居るのでエアコンを購入しようとしたのだけど、私だけの為にエアコンを買うのも勿体無いので必要ないと突っぱねた。
 だって、来年は私は此処には居ないから。
 私は独りで生活しなければならないから。
 半月前まではそう思っていた。
 でも今は違った。
 あの半月前の旅行で、私は何かを知りたい、やってみたいと思ったのだ。
 世界の仕組みについて、少年兵や難民を生み出す源の何かを知りたいと思ったのだ。
 しかし、中卒の学生では得られる知識や持ち合わせた技術が不足しており、表面的なテレビカメラに映る物事をなぞっている程度の物事しか知りえないだろう。
 狗狼に相談するべきだろうが、本来、彼は私に無関係の立場であり、そこまで彼が私に関わる義務はない。
 彼も繰り返し言っていたが、あくまで彼が保護者を演じているのは契約違反の代償でなのだ。
「俺も出るか。図書館まで送ろう」
「え?」
「二日前から煙草を切らしてるんだ。近々入荷すると聞いたから煙草屋を覗いて来るよ
 そうなのだ。彼は〈ワイルドカード〉と呼ばれるあまり見かけない煙草しか吸わないので、通っている煙草屋さん以外では売っていないらしい。
 煙草屋の御婆さんも狗狼しか吸わないので一度在庫が見れると二週間ほど入荷するまで待たなければならない。
 その間、狗狼は仕事後の至福の一時を我慢しなければならないのだ。
「達成感が全然違うのだよ」
 とは、切らした時の狗狼の一言。
 私には理解出来ないけど。
「あのー、すみませーん」
 開けられた倉庫兼事務所兼住居の入り口から女性が顔を覗かせて声を掛けて来た。
「あ、はい」
 運びの仕事の依頼かなと思って入口へ顔を向けて、私はそこに居る見知った顔の人物に驚きを隠せなかった。
「え、ええ、佳代さん、工藤さん」
「はい、その節はお世話になりました」
 半月前の旅行で知り合った佳代さんと工藤さんの元夫婦は玄関口で一礼した後、事務所の奥へ目をやってこちらへ歩いて来る狗狼へも目礼した。
「どうしました? お二人共揃って?」
「今日はお二人に報告したいことがあったので、その探偵さんにご住所を窺ってきました」
 狗狼の質問に工藤さんが答えた。
 二人の表情が半月前より明るく感じられるのは、私の気のせいだろうか。
「それは、わざわざ遠い所から来て頂きご苦労様です。外は暑いでしょうから中に――」
 狗狼の声が途切れた。
 だって、屋内も灼熱地獄だから。
「私、冷えたジンジャーエール出すよ」
「あ、ああ、頼む」
 冷蔵庫から何本かストックしているウィルキンソ○のジンジャーエールを取り出して、氷を入れたグラスに注ぐ。
「どうぞ」
 ガラステーブル来客用のソファに腰掛けた工藤さんと佳代さんの前に置くと、工藤さんは先程から気になっていたのか、電源を入れると2枚の羽根で振り子運動を始めた扇風機から目を離して「どうも」と頭を下げた。
「あの、此処までは、タクシーですか?」
 佳代さんの真向かいに座った私は、開け放たれたドアから覗く照りつける日差しで白く変化した風景を一瞥して訊ねる。
 最寄りの〈中埠頭駅〉からこの倉庫街にある事務所兼自宅迄、約五〇〇メートル。
 普段なら大した距離ではないが、今日はその五〇〇メートルが十三階段のように思えてくる。
「いいえ、中埠頭駅からここまで歩きでです。探偵さんが事務所は解り難い所にあるので注意するように言われていたのですが、ドアが開いていてよかったです」
 ドアに貼り紙か何かした方が良いかも。
「でも、一寸驚きました。運び屋さんって夏でもスーツなんですね」
「何時依頼があっても、直ぐに対応出来るようにしております」
「大変なんですね。でも黒いスーツが似合っていますよ。カッコいいお父さんで」
「いや、お褒めに預かり光栄です」
 ごめん、狗狼。佳代さんは重要な勘違いをしているけど、それは訂正しなくてもいいの?
 私は慇懃無礼に一礼する狗狼を放っておいて、訂正するように慌てて眼前で手を振って否定した。
「あ、あの、違います。その、彼は私の叔父で私が両親を亡くしたので代わりに面倒を見て貰っているのです」
 私の説明にさんと佳代さんは意外な事を聞いたとでもいう様に顔を見合わせた。
「あ、そうなのか。いや僕は仲の良い親子で羨ましいなと思っていたから」
「いや実は不肖の保護者でして。湖乃波君のほうが確りしております」
 失言だったかと気にしたように頭を下げようとする工藤さんを手で制して、狗狼は冗談とも本音とも区別のつかない茫洋とした口調で答えた。
 狗狼は親子と見られることに抵抗は無いのだろうか。
 私は横目で狗狼の表情を窺ったけど、サングラスを掛けたままの表情からは感情が読み取れなかった。
「それで、報告したい事とは?」
 狗狼の問いに工藤さんが後頭部に手をやって癖のある髪を掻くと同時に、佳代さんが僅かに俯いてその頬を赤く染める。
 それで私には解ってしまった。
「よりを戻したってことですか?」
 狗狼も察したらしく、苦笑しながら問い掛けると、工藤さんは恥ずかしそうに消え入りそうな声で「……はい」と答える。
「あの、おめでとう御座います」
「有難う。ええと湖乃波さん」
「はい」
「貴方達と出会わなければ、私はずっと、この人の事を誤解して憎み続けて娘の思いんも気付かずに、あのまま後悔し続けて生きていたわ。本当に有難う」
「あ、あの、私こそ、いろいろ済みませんでした」
 私は恐縮しきって頭を下げた。ただ私は他人の家庭の事情に足を踏み込んでふたりに辛い思いをさせただけで、解決したのは狗狼と奥田さんなのだから。
 お互いに頭を下げあう私と佳代さんを工藤さんは温かい眼差しで見つめた後、表情を引き締めて正面に向き直った。
「もう一つ。僕と佳代はアフリカに行くことにしました」
「え?」
「……」
 予想しなかった報告に驚く私と無言の狗狼。
「前にも話した通り、陽子が亡くなるまで、僕は有機栽培専門の農家を手伝っていました。陽子を失ってからは農業に対する情熱を失って、週に二、三度手伝う程度だったんですが、佳代が前向きに生きると決心したので僕も農業を始めようと決心したんです」
「それで、どうせ一からやり直すのだったら、アフリカの陽子が残してくれたカカオ豆の栽培を手伝えないかなと提案したんです」
 私は驚いて佳代さんガラステーブルの上にジンジャーエールの入ったガラスのコップを落とすところだった。慌てて空中でキャッチする。
「無謀かも知れないけど陽子の残した希望を私達も手伝いたいと思ったのです」
「僕も佳代の提案は素晴らしいと思って、〈スピーシズ・オブ・ホープ〉の千種ちだねさんに連絡を取りその旨を伝えると、彼女は農業経験者は何時でも大歓迎だと快く受け入れてくれました」
「……そうですか。随分と思い切った決断をしたものだ」
 軽く息を吐いて狗狼は二人の顔を見返した。
「でも、もう大丈夫そうだな」
「はい」
 工藤さんと佳代さんの力強い返答に狗狼は軽く頷く。
 私は工藤さんと佳代さんの顔を、何かを決心してやり抜こうとする意思にしばし見惚れた。
「その、頑張って下さい。私からはこんな事しか言えないけど」
「ええ、頑張るわ。有難う」
 佳代さんは手を伸ばして私の頭をなでてくれた。
「ホント、陽子もそうだったけど、貴方も困っている人がいたら放っておけない性分のようね。湖乃波さんも頑張って」
「はい」
 きっと佳代さんは私と陽子さんの幼い頃の姿を重ね合わせているんだろう。
 そしてこれから工藤さんと佳代さんはこれまでの過去の陽子さんの姿を振り返るのではなく、外国で自分の生き方を全うした彼女の背中を追い続けるのだ。
 決して振り返る事の無い背中を追い続けるのだ。
 それは嬉しいけど切なかった。
「そろそろお暇しようか。飛行機の時間もある事だし」
「そうね」
 工藤さんと佳代さんが腰を上げる。
「今日、出発ですか?」
「うん、成田発二十一時一〇分のエチオピア航空で日本を出るんだ。成田までは、此処に寄る心算だったんで神戸空港から羽田行で予約を取ってる」
「なら、神戸空港まで送ろう。丁度出る処だっだ」
「はい、見送りさせて下さい」
 狗狼の提案に私は喜んで賛同した。二人の新たな旅立ちを見送って上げたかった。
「ああ、それは、有り難う御座います」
「ええ、嬉しいわ」
 
 神戸空港は早い夏休みに入った人の波でごった返しており、これが一週間後の本格的な夏休みに入ったらどれぐらいの混雑になるのかと、人込みの苦手な私は辛うじて狗狼の痕をついて行きながらうんざりした。
 一度、団体さんに遭遇して工藤さん達や狗狼とはぐれかけてから、私の右手は狗狼に引っ張られている。
「……小学生じゃないんだから」
 そう呟くものの、それが単なる強がりであることは私が一番よく知っている。
 恥ずかしいけど、きっと狗狼の方が恥ずかしいんだろうな。
 ひたすら無言で工藤さん達について行っているし。
 時々、佳代さんが振り返って微笑ましそうにこちらを見て笑みを浮かべているし。
 ようやく二階の出発ロビーに着いて、私は空港内に入って終始俯き加減だった顔を上げた。
 工藤さんはチケットを確かめた後、私達を振り返った。
「それじゃあ、これで。君にはいろいろお世話になりました」
 工藤さんが私に右手をを差し出したのでその手を握り返した。
「私こそ、色々、勉強に、なりました」
「うん、またいつか会えるといいね」
「はい」
 佳代さんとも握手を交わす。
 彼女の白い綺麗な右手が私の手を優しく包む。
「湖乃波さん、行って来るわね」
「はい、お気をつけて。私、頑張りますから」
「そう。じゃあ、私も負けずに頑張ります」
 そう言って彼女は破顔した。手を口の前に持って行き目を細めて。きっとこれが佳代さん、本来の笑顔なんだろう。
 それが見れて私は嬉しかった。
「あの、乾さん」
 工藤さんが狗狼に右手を差し出す。
「ん?」
「至らない私を叱咤してくれて有難う御座います」
「別に、君の為じゃない」
「……」
 手のやり場に困る工藤さん。狗狼、最後ぐらい優しくしようよ。
「狗狼」
「はいはい」
 狗狼は仕方なさそうに工藤さんの差し出した右手を握ると、自分に向けてグイッと引き寄せた。
 驚愕の声を上げる工藤さんと息を呑む私と佳代さん。
「狗狼!」
 それを尻目に狗狼は工藤さんに顔を近づけた。
「いい奥さんだ。今度こそ手放すな」
「は、はい!」
 工藤さんの力強い返答に狗狼は苦笑を浮かべて手を放した。
「佳代さん」
「はい!」
 佳代さんは狗狼に呼び掛けられると、先程の狗狼の行動に呑まれていたのか、裏返った声で返答した。
 狗狼が右手を差し出すと佳代さんはその意図を察したのか、その手を握り返す。
「いろいろと心配を掛けたようで済みません」
 狗狼は静かに首を振る。
「気にする必要は無い。貴女あなたの旦那にも言ったが、俺が勝手にした事だ」
「……でも」
 狗狼は何か考える様に沈黙した後別れの挨拶をするように握った手を軽く上下に動かした。
「佳代さん。あの駐車場で貴女を見掛けた時、その物憂げな面持ちに魅了されたが」
 その時、私には狗狼の口元に僅かに笑みが浮かんだ様に見えた。
「今の貴女は、その百倍も魅力的だ」
 狗狼は佳代さんの右掌を離し、もう別れの挨拶は終えたとでも言うかの様に二人に背を向けてる両手をスラックスのポケットに突っ込んで歩き出した。
「さようなら。二人とも御元気で」
 私も急いで二人に最後の挨拶をしてから狗狼の背中を追う。
「あの、乾さん!」
 狗狼の黒い背中に佳代さんの声か掛かり、その歩みが止まる。
「私、乾さんに何時かきっと、私達の作ったチョコレートを贈ります」
 狗狼は振り向かず、ポケットから出した右掌を肩の高さまで上げた。
「悪いが甘いものが苦手なんだ。送ってくれるなら、そうだな、今日の失恋の様なとびきりビターな奴にしてくれ」
 本気なのか冗談なのか判断の付かない言葉を返して狗狼は再び歩き始める。
 運び屋の仕事はもう終わりだとでもいうかのように。

 空港大橋こと神戸スカイブリッジを夕日が黄昏の金色に染めている。
 狗狼は先程から一言も口を利かず、黙々とプジョー207SWのハンドルを握っていた。
「狗狼」
「……何」
 私は先程から聞きたかったことを口にした。
「その、失恋って、ホント?」
 多分、四〇過ぎのオジさんであろう狗狼の失恋は、笑って済ませられるものなのか、それとも一緒に悲しむべきなのか解らないけど、少なくとも後者では無い様な気がする。
「ん、ああ、本当だ。俺は深く傷ついて夕日に向かって車を走らせたい気分なんだ」
「そうなの? 私には、そう思えないよ」
「そうか?」
「そうだよ。だって……」
 私は続ける言葉を敢えて口に出さずに胸の内で呟いた。
 口にすると、きっと今、見ているものが消えてしまいそうだったから。

 だって、狗狼、微笑わらっているよ。

                  10

 食事と風呂を終えてパジャマに着替えた私は、自室で机の前に座って一枚の用紙と睨めっこをしている。
 この用紙は本来、夏休みが始まる前に担任である川田先生に提出されているもので、今だ進路に決まらない私は特別に休み明けの二学期まで提出を延期して貰っていた。
「……よし」
 意を決して用紙を手に立ち上がり、隣の事務所兼台所兼狗狼の自室へ繋がるドアへむかう。
「狗狼、ゴメン、ちょっといい?」
「ん?」
 ショットグラスを片手にソファーに腰掛け、広告の裏に黒マジックの手書きで金額と〈閑古堂探偵事務所〉が書かれた請求書を睨み付けていた狗狼は、一息でショットグラスの中身を飲み干すと私を見上げた。
「何かな」
「うん、これについて相談があって」
 私ガラステーブルの上に「進路希望」と表記された用紙を置くと、狗狼は其れに目をやって「そんな時期か」と呟いた。
「うん、休み明けに提出しないといけないの」
 狗狼は手書きの請求書をゴミ箱へ放り込むと(!)、進路希望の用紙を手に取る。
「湖乃波君の希望は進学じゃなく就職だったな」
「うん、そのことだけど……」
 私が言い淀むと「何? 問題でもあったか?」と眉を寄せて訊いて来た。
「ええと、私、今更だけど、進学したい」
「……」
 狗狼の顔を正視出来ずに足下に視線を落とす。
 以前、狗狼に進学を勧められた時は、迷惑を掛けられないと働くことを選んだのに、掌を返した様に進学を口にするのは狗狼にとって迷惑だろう。
 そもそも、狗狼の偽りの保護者である契約は来年の三月迄となっている。
 つまり彼は私の進学に関しては一切関わりが無いのだ。
「だから、その、三者面談に出て欲しいの」
「……」
 狗狼は何時もの様に何を考えているか解らない仏頂面で私を見ている。
「駄目かな」
 遠慮がちに問い掛ける私に、狗狼はやれやれと苦笑を浮かべる。
「いや、就職しようと進学しようと、契約期間中は保護者の務めを果たす心算だから遠慮しなくてもいいよ」
「う、うん。でも狗狼には関係が無いんだよ」
「仕事、仕事。契約は全うする。これは俺のルールでね」
「あ、有り難う」
 あっさりと狗狼に言われて私は拍子抜けした。てっきり何時もの口調で「俺には関係が無い」と言われたらどうしようかと思ってたから。
「そうか、進学か。でも、どうして急に進学したくなったんだ?」
「うん、やってみようかなって、思ったから。その勉強で」
「へえ、何?」
「うん、運び屋」
「何!」
 狗狼が珍しく驚愕の表情を露わにして私を見上げる。
 こういったら狗狼がびっくりするかなと思っていたけど、此処まで驚くとは思わなかった。
「冗談」
 狗狼は脱力したようにソファーの背もたれに身体を預けて宙を仰いだ。
「勘弁してくれ。寿命が縮んだ」
「ご、ゴメン」
 でも嘘じゃないよ。もし私が運び屋になるんだったら、狗狼みたいな運び屋になりたい。
 最後には人を笑顔にする。そんな運び屋になりたい。
 でも、そんな事は駄目なんだよね、狗狼。
「で、本当の理由は?」
「うん、うまく言えないけど、工藤さんや佳代さんに会って話を聞いてから、陽子さん達の活動や少年兵や紛争、それによって増え続ける難民問題について調べたの」
 図書館で関連する書籍を片っ端から読み漁った。宗教、経済、人種。様々な理由で争いが起こり少年兵や難民は増え続ける。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.14 )
日時: 2021/05/15 17:15
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「私は今迄、そのことについて関心を抱いていなかったけど、陽子さんの活動を知って、それを生み出す世界の仕組みと解決策について知りたくなったんだ」
 私は狗狼に助けられた。だから誰かを助ける仕事に付きたい。
「だから高等部に上がって、もう少し勉強してみたいと思ったの」
 高等部に上がったら英語と仏語が必須で、選択で独語と中国語のどちらかが選べるから、海外の現地での仕事に就く役に立つと思う。
「ふむ、俺は別に構わんよ。君の人生だから、君が決めればいい。契約期間中は出来るだけの手助けはするよ」
 狗狼はそれから腕組みをして、何かを考える様にうーんと斜め上を見上げる。私には彼の心配事が何となく解った。
「授業料は奨学金とアルバイトで何とかするから」
「いや、前もって言われると困るんだが。俺ってそんな甲斐性無しなのか?」
「え? ええと」
「返答に迷わんで欲しいな」
 狗狼は苦笑を浮かべる。
「中等部を卒業するまでは違約金の支払いの代わりに面倒を見る。そんな契約だった」
「う、うん」
「が、困ったことに君は事務所の掃除から洗濯、食事の用意まで家事をを引き受けてくれている。正直、ハウスメイド並みの働きをしていると言っても過言ではない」
「そ、そんな事は無いよ。私は自分がやりたいか――」
 私の抗議に狗狼は右手を軽く振って言葉を止めた。
「湖乃波君がどう思っているか知らないが、俺としてはかなり助かっている。微々たるお小遣いしか渡していないのが心苦しいほどだ」
 そんなことないよ。狗狼は手が空いたときは手伝ってくれているし、料理も教えてくれたのに。
「おまけに俺は怠け者で、こうやっ一杯やって怠けてばかりいる。これは困ったものだ。本当に困ったものだ」
 解っているなら働いてほしい。
 ワザとらしく両掌を肩の高さまで上げて首をかしげる狗狼へ、私は本気で突っ込みたくなった。
「このままでは、何時まで経っても違約金の支払いは出来そうにない。そこでだ」
 狗狼は表情を引き締めて私を見上げる。彼の口から出た言葉は私の予想しない一言だった。
「契約を延長させてもらえないか」
「……え?」
「あくまで雇い主の湖乃波君がよければ、だが。そうだな高校卒業までなら何とか払い終えられるかもしれない」
 いや、それって結局、狗狼が損する事にならないの?
 狗狼がそれに気づいていないとは考えられなかった。
「本当に、いいの、狗狼?」
「いいも、何も、俺からお願いしているんだが」
「――」
 私は決めた。狗狼の不器用な思いやりに何も気づかない振りをして乗ってみよう。
 お互い不器用で意地っ張りなのだと思う。
「仕方がないなぁ、狗狼は」
「そうだな」
 私は右手を差し出した。
「じゃあ、あわせて四年間」
「契約更新ってことで」
 狗狼の右手が私の手に重なる。
「長いのかな?」
「長いかもしれないし、短いかもしれないし、まだ三ヵ月が過ぎたばかりだ」
「……うん」
 まだ三ヵ月過ぎただけなんだ。
 本当に色々な事があって、あっという間に過ぎた密度の濃い三ヵ月だったよ。
 そして、その毎日が残り四十四ヵ月続くのだ。
 私は狗狼の右手を離す。
「じゃあ、狗狼、私、もう寝るね」
「ああ、お休み」
 私が踵を返すと狗狼は再びショットグラスにポンペイサファイアを注ぐ。まあ、今日は深酒をしても許してあげよう。
 私の部屋のドアノブに手を掛けて狗狼を振り返る。
「狗狼」
「ん」
 振り向かずに彼は返事をする。
「……ありがとう」
 それだけ言って部屋に入った。

 ベッドに横になり天井を見上げる。
「四年間」
 それが私を救った運び屋の下で私が暮らせる期間だ。
 狗狼は契約違反の違約金の代わりに面倒を見ていると言っているが、どう考えても彼が契約違反で支払うべき金額より、四年間で私の面倒を見ることにより掛かる諸費用の方が大きいと思う。
 ならば、何故、狗狼は四か月前の春に私と契約して、また延べ四年間の契約延長としたのか。
 何故私を助けたのか。それが解らなかった。
 ただ、今解っている事は、狗狼は、あの伯父や私の知る大人達とは全然別の人間で、私に対して何の見返りも求めていなかった。
 狗狼は彼の言うとおり、自分の決めたルールに従って私と契約しているのだろう。彼はそれで満足しているのかもしれない。
 私は今日まで、そんな彼のことが理解出来ず、いや、今でも理解出来ているとは言えないけど、どこかで彼を警戒していた。
 伯父のような部分が必ずあるものだと、安全な距離をとり、いつでも逃げだせるようにしていた。
 でも私や工藤さん、佳代さんに対する行動は自分自身の利益不利益すら無視していた。
 きっと、狗狼は伯父同様に日に背を向ける生き方を選んでいるが、それはまったく違う理由でその生き方を選んでいるのだと思う。
 彼にしか解らないルールに従って生きていて、彼にとってそれを破る事は死のも等しいのかもしれない。
 そうあるべきことを自分自身に強制しているのかもしれない。
 左手の袖をめくり、手首の傷を露にする。
 でも今日はその傷を見ても世界や生きることに対する恐怖は湧かなかった。
 彼と共にいる限り、そんな事は起こらないとさえ思えるのだ。
 
 その代わり、泣いた。

 契約、ルールでしか他人ひとと関わる事の出来ない彼の孤独を感じたのだ。
 彼は、私や工藤さんを救っても、それを遠くから眺めて見返りを求めない人間なのだ。
 それ以外の事は余分でしかなく、だからこんな元倉庫でただ独り運び屋を続けている。そんな気がした。
 四年間。
 それが、彼と私がともに暮らせる時間だ。
 契約でしか結びつかない、仮の保護者と子供のいびつな擬似家族だけど、四年間共に暮らせば傍目には親子に見えるかもしれない。
 四年後の私や狗狼がどうなっているかは解らない。
 もしかしたら途中で契約を解消しているのかもしれない。
 ただ、明日は笑顔で挨拶をしてみよう。
 何時も眠たそうな目をしている彼に、新しい朝を教えて上げよう。
 そして四年後には、お互い笑顔で挨拶をするのだ。
 独りではない。そう自分と相手に伝えるために。
「おはよう」
 それだけで幸せだと感じられるように。

                      運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み 完



 * 参考文書
    朝日文庫「私の仕事 国連難民高等弁務官の10年と平和の構築」 緒方貞子 著
    朝日文庫「職業は武装解除」                 瀬谷ルミ子著
    白水社 「国際協力師になるために」             山本敏晴 著
    昭文社 「兵庫県道路地図」
    昭文社 「福井県道路地図」


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