コメディ・ライト小説(新)

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運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み
日時: 2021/05/15 08:29
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

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野島のじまさん」
「はい」
 私は私の在籍する3年B組の教室から帰宅しようとドアに手を掛けたところを、担任の川田先生から呼び止められて振り返った。
 川田先生は何時も濃紺のスーツを着こなした四〇代の女性で、銀縁の眼鏡を掛けて感情を表に出さない為か厳しい人のような印象を受けるけど、実はとても思いやりのある優しい先生で彼女を慕う生徒も多い。私も実はその一人だ。
「野島さん、先週配布した進学希望者の書類は夏休み明けの前期末テストまでに提出出来るかしら」
 言い難そうに川田先生は私に問い掛けた。
 私はその問いに困ったように目を伏せた。
 この学校は中高一貫の私立女学校であり、普通は中学を卒業すると高校へそのまま進学する。
 しかし、別の高校へ進学したい生徒や理由があって進学したくない生徒も中にはおり、その生徒は、先週配布された進学希望用紙に進学を希望しない理由を記載して担任に提出しなければならない。
 本当は昨日、終業式の一日前に提出する予定だったけど、理由があって夏休み明けに提出することを了承頂いたばかりだった。
 川田先生はその確認で私に声を掛けたと思う。何しろ前期末テストの後には三者面談が控えている。彼女もそれまでにそれぞれ生徒の進路を把握する必要があるから。
「はい、必ず、提出します」
 私は何とか返答した。川田先生はそんな私の顔をじっと見つめてから視線を落とした。
「私は、野島さんには進学することを選んで欲しいのですが、無理強い出来ないわね」
「……」
 川田先生には既に私の希望する進路、卒業して就職することを伝えている。
 だから、夏休みは就職活動に専念する心算だった。
「困ったことがあれば、夏休み中でも構いませんので連絡をして下さい」
「はい、有難う、御座います」
 私は川田先生に一礼して踵を返した。
 少し歩く速度を速めて昇降口へ急ぐ。
 靴を外履きの革靴に履き替えてから昇降口に出ると、人目を引く金髪で長身の女生徒が振り返った。緑色の神秘的な瞳が私を映す。
 彼女は高等部一年生でこの五月から私達は友人として付き合い始めた。
 名前はカテリーナ・富樫。この私立学校の理事の一人が彼女の養母おかあさんだ。
湖乃波このは遅かったね。早く行かないと送迎用のバスが出ちゃうよ」
「あ、ごめん」
 金髪の女生徒の後を駆け足でついて行く。
 学校から山陽電鉄伊川谷駅までの送迎バスがクラクションを二度鳴らす。これは後五分で発車しますという合図だ。
「セーフ」
 彼女と私がバスの冷房の効いた車内に飛び込むと同時に昇降口のドアが閉まる。当然、一番最後なので座席に空きは無く、吊り革に掴まるしかない。
 上に手を伸ばす。背伸びをしてようやく吊り革が掴めた。
最近、背が伸び始めた私だけど、それでも百五十五センチとまだ背の低い部類に属する私にとってバスでの通学はちょっと辛い。どうしても爪先立ちに近いので踏ん張ることが出来ず、バスが急停止やカープを曲がる度私の身体は左右に持って行かれるのだ。マスコットキーホルダーの人形は、何時もこんな気分を味わっているのかな。
 揺らぐ私の身体をカテリーナが支えてくれる。
「あ、有り難う」
「気にしない、気にしない」
 逆にカテリーナの身長は一七二センチあり、女子では背の高い部類に入る。おまけにスタイルも良い。
 学校での彼女は髪形を両側止め、ツインテールに纏めて学校指定のカッターシャツとチェックのスカート、夏用のチョッキと大人しいけど、外出時の服装は女性の私から見ても大胆だと思う。
 先々週に元町までアイスクリームを食べに出ていた時は、黒のビスチェの上にショート丈の皮ジャンを腕捲りして羽織り、黒のデニムのショートパンツを穿いた彼女のスタイルの良さを際立たせる服装であり、長い腰まである金髪をサイドテールに纏めてすらりとした項を覗かせて、何人もの人が彼女を振り返っていた。
 フランスとドイツのハーフの祖父と日本人の祖母が結婚して出来た父親が、アイルランドとイタリアのハーフの母と結婚して彼女が埋まれたそうだ。彼女の日本人離れした美貌とスタイルもそれを聞くと納得できる。
 家族総出で欧州の雑貨を扱う仕事をしていたが、彼女を残して事故で亡くなり、祖母の遠縁にあたる富樫家に引き取られたと話していた。
 私も去年の夏に母を失い独りになった。私自身母を失ったショックから完全に立ち直っていないけど、彼女は母親だけでなく全てを失くしたんだ。彼女が心に受けた傷はどれ程深いのだろう。でも彼女は普段、そんな事を微塵も周りに感じさせず気丈に明るく振る舞っている。
 彼女が私に声を掛けたのも、同じく家族を失った私を気遣ったからかもしれない。
「湖乃波は夏休み、どうするの?」
「ん」
 カテリーナが目を輝かせて聞いて来る。きっと行動力のある彼女は夏休み期間限定のイベントやスイーツ等を既に調べていて明日からそれらを満喫すると思う。
 でも私は残念ながらその魅力的な企画に付き合う時間は無い様な気がする。
「私は、中等部を卒業したら、安い公立高校に進学か、就職するから、その事前準備だよ」
 そう、川田先生の心配するように、私はこの夏休みでこれから先、自分は来年からどう生活するのか決めなくてはならない。
「中学卒業までは狗狼くろうが、学費とかの、金銭面の面倒を見てくれるけど、それ以降は自分で生活しないと、いけないから」
「そっか、湖乃波はここの高等部に進学しないんだ。狗狼は進学しない事を知ってるの?」
 カテリーナの問い掛けに私は頷いた。

 私は今年の4月、母の亡き後、ずうずうしく我が家に転がり込み居付いた叔父に借金の形として売り飛ばされるところだった。
 その私を叔父に依頼されて受取先まで運んだのが、私の今の保護者で運び屋を営むいぬい 狗狼だ。
 彼は道中半ばから叔父が行方を晦ませたので、私を叔父の借金回収に訪れた人達に渡して報酬を受け取ろうとした。
 しかし彼等は報酬を支払う義理は無いと狗狼の要求を突っぱねたので、狗狼は私を彼等に引き渡さずにそのまま逃亡。
 叔父が私と母の住んでいた家や家具を一切合財売り飛ばして、その金を持ち逃げした為、私は家無し、金無し、身寄り無しの三無い状態で、もう何処で死のうかなと考えていた。けど、狗狼が、私を借金取りに引き渡す叔父からの依頼を果たさなかったから違約金を払わなければならないが、素寒貧で手持ちがないので私を中学卒業までの一年間面倒を見るってことで許して欲しいと申し出て来た。
 狗狼が私を助ける為に違約金の話を作り上げたのか、それとも元からそんなルールを彼が決めていたのか。ただ私に断る理由は無く、その申し出を受け入れた。
 本来なら、彼は運び屋で裏稼業を生業とする闇社会ダークサイドの住人で、本当に信用すべき人物でないのかもしれない。
 でも私は彼の申し出を聞いて安堵した。そして嬉しかった。不覚にも涙を流しながら思った。彼は信用出来る人だと。叔父と同じ世界に属しているが、心は全く違う人だと、そう思った。
 そして狗狼と住居に改造された倉庫での共同生活が始まり、私は色々と彼から学んだ。
 意外な事に彼は料理が出来る。出会った頃、彼は仕事中にサンドイッチやカロリーメイトしか食しておらず、食に無頓着な人かと思ったけど、立ち寄った隠れ旅館(のような場所)での彼の作った料理は、夕食、朝食共にこれまで味わった事の無い美味しいものでとても驚いた。
 ママも料理が得意だったけど、そういったレベルでは無くシェフと呼んでも差し支えが無いと思う。
 私が狗狼と共に暮らすことになり、初めて作った料理が旅館定番メニューの御飯、ほうれん草の御浸し、卵焼き、豆と人参と揚げの入ったヒジキ、麩となめこの味噌汁、そしてこればかりは店で購入したアジの味醂干しだった。
 彼に教えてもらいながら作った料理が、自分が本当に作ったのかと疑いたくなるくらいに美味しかったことを覚えている。
 それ以来、私は週末に新しい料理を狗狼に教えてもらう事が楽しみとなっていた。
 また彼は洗濯やカッターシャツやスラックスのアイロンのかけ方を教えてくれた。クリーニング屋等ではカッターシャツ全体に糊を利かせているが、本来カッターシャツは下着替わりなので肌触りが良くなるように皺を伸ばすだけにしておき、糊付けするのは襟と袖口、ボタンのの袷部分だけだそうだ。
 そういえばカッターシャツでびっくりしたことがある。
 狗狼は何時も黒の背広とカッターシャツ、黒地に黒のラインの入ったネクタイを着用しているが、実はそれだけしかない。
 彼の衣装はハンガーに掛かった白いカッターシャツと黒いスラックスが4セット、後は黒のTシャツとトランクス、ソックスが数枚。黒のジャケット一着それだけだ。
 彼がソファア兼ベッドで眠る時もカターシャツとスラックス姿であり、パジャマを着ないのか聞いてみると「面倒臭い」と答えが返って来た。シャツやスラックスが皺になることを気にしないのだろうか。
 そして彼は口数が少なく、私と一日に交わす会話は朝の挨拶、夕食の準備時と夕食の出来栄えの感想。後はお休みの挨拶、その程度だ。
 会話の少ない理由のひとつに私が極度の人見知りということだ。
 初対面の人とは話すときに緊張してしまい、うまく離せそうになくつい黙ってしまう。
 学校内で話しかけられたとき、相手に対して失礼なことを言ってしまわないか、不用意な発言で傷付けたりしないか気になってしまい、つい短く「はい」や「いいえ」「そう」などの受け答えしか出来なくなってしまった。
 その結果「クールビューティ」とか意味の分からない渾名を付けられてしまい誰も話しかけることが無くなってしまった。
 それが、狗狼との生活ではお互い口数が少ないこともあり気にならないのだ。
 何故か狗狼相手では身構えたりせずに、思うまま話すことが出来ることが不思議に思っている。
 そんな彼にも二つ問題が有り、ひとつはお金に無頓着な事だ。狗狼は金が有れば使う主義であり、悪く行ってしまえば浪費家だ。服や物にお金を使わない代わりに、ふらりとお酒を飲みに出て行ったきり二、三日は帰って来ない事が有り、帰って来ると素寒貧になっている。で、起きがけに「金が無い」と後悔するように呟いている。
 なので、今は私がお金の管理をして彼に「お小遣い」を渡すようしている。彼には言い分があるようだけど、私達の生活費と月々の学費を確保する為に我慢するように説得すると気圧されたように二度頷いて了承してくれた。
 もうひとつは女性に関する事だ。狗狼と二ヶ月間共に暮らしているけど、どうも彼は女性に弱いのではないか、と思う時がある。
 特に二〇代後半から三〇代後半までの女性が気になるようで、買い物に狗狼と一緒に出掛けて歩きながら会話していると、彼の返事がぞんざいな時がある。その時は狗狼の向いている方向を見ると美人が歩いていることが多い。彼は何時もサングラスをしているので見ていることはばれていないと思うけど。
 そういえば、先日トラブルに巻き込まれたのも仕事で関わった同業者である静流さんを助ける為だったような。いつかこの人は女性で身を滅ぼすんじゃないだろうか。
 そんな風に狗狼と毎日を過ごしていて、私は何となく毎日が楽しいと思ってしまうのだ。
 何事もない毎日が癒されているのを感じている。ママを失ってから失われていた日常が戻ってきている。そしてそれがずっと続いていて欲しい。
 狗狼との契約の切れる来年の四月まで続いて欲しいのだ。

 そして今、問題になっているのは彼と契約してから一年後の事で、狗狼が責任を果たした以降の私の身の振り方についてだ。
 実は先週、私は進路について狗狼と話した。
 私は高等部へは上がらず、中等部卒業後は別の公立校への進学か社会に出て働きたいと彼に伝えた。
 本来なら狗狼には関係ない事だが夏休み明けの三者面談では彼も顔を出すので伝えておかないといけない。
 狗狼は「まだ早いと俺は思うよ」といって高等部進学を勧めた。せっかく学校が良いカリキュラムを用意しているのに利用しない手は無いというのが彼の主張だ。
 それで目下、最大の問題点、
「授業料は、払えるの?」
「払うさ」彼は堂々と答えた。私は結構家計が苦しいのを知っているので、どうしても信じられず払う当てはあるのか尋ねると、彼はきっぱりと答えた。
「無い!」
 誰か彼の頭の中を掃除して下さい。

「私は、これ以上、狗狼に迷惑は掛けたくないよ」
「うーん、そうだよね。湖乃波と狗狼は本来は全くの赤の他人だもんね」
 カテリーナが困った様に呟いた。私はその言葉に胸の奥で痛みを覚える。
 狗狼と私は赤の他人。それが少し悲しい。
「そっかー、湖乃波のキレイカワイイ姿もひょっとしたら今年で見納めかー。うん、ここで有難く拝んでおこ う」
 彼女は揺れているバス内に居るのにもかかわらず両掌を合わせて私を拝み始めた。
「ありがたや、ありがたや」
「こんなところで拝まないでよ」
 山陽電鉄の伊川谷駅にバスが到着したので、私達は電車に乗り換えて何時もなら私は阪神三宮駅まで乗り、そこからポートライナーに乗り換えて中埠頭倉庫で降りる、カテリーナは岩屋で降りて自宅まで徒歩で帰っている。
 でも今日は終業式だけで午前中で学校が終わるから、狗狼は昼食をカテリーナと一緒に取ったらどうかと提案してきた。
 私は家計の事も考えて別にいらないと突っぱねたけど、狗狼はその店は自然食を主とした料理を出す所で、どのような昼食が提供されているのか見に行ってほしい。そう頼んで来た。あと、一学期を頑張った私へのご褒美も兼ねているらしい。
 阪神三宮駅からJR三ノ宮駅へ抜けて北野坂へ上がる。ふと思ったけど、阪急と阪神は三宮駅だけど、どうしてJRは三ノ宮なんだろう。
 坂の途中で「魔女の宅急便」の絵本のイラストみたいなBarの看板を見つけた。猫が箒に跨った少女のワンピースの裾に掴まっていて何だか可愛い。
 山手幹線を横断して中山手通を上がると、徐々に坂の傾斜がなって来る。駅から徒歩一〇分程度の距離だけどずっと上り坂なので、実際より距離を長く感じた。
「あ、ここだよ」
 狗狼から渡されたメモに記された店名を見つける。
 白いこじんまりとした店内の右側が地元の食材販売店、左側が併設されたカフェになっている。
 販売している食材は、スーパーマーケットより多少割高だけど瑞々しい色の野菜や、あまり見た事の無い調味料を見ていると、これで何が出来るだろうと想像して楽しみたいけど、今日はカテリーナもいるので残念だけどほどほどにしてランチを楽しむことにする。
「ねえ、湖乃波。あれ、美味しそう」
 カテリーナがガラスケースの中にあるイチジクのキッシュを目敏く見つけて私の袖を引っ張る。
 ガラスケースの隣にはレジが有り、その前には小柄なお姉さんが(といっても私より背は高いが)おっとりとした笑みを浮かべて佇んでいた。
 レジの横の台には「本日のランチ」と書かれた小さいボードが立て掛けられていて、今日は「季節野菜のワンプレート御飯」だった。
「あの、お昼を、食べたいん、ですけど」
 私はレジ係のお姉さんに声を掛ける。うう、知らない人と話すのはやっぱり緊張する。
「はい、日替わりランチですね。組み合わせはどうしますか?」
 お姉さんは吊るされたボードのひとつを手で示してくれた。いろいろあるけど、豆腐の味噌汁とほうじ茶ラテを組み合わせる事にした。
「ひゃっ」
 いきなり背中を突かれて私は変な声を出してしまった。何するのカテリーナ。
 目を丸くするお姉さんに何でもないと愛想笑いを返してから振り返った。
「何、びっくりしたよ」
 カテリーナはゴメンゴメンと手を翳して謝ってからガラスケースの中指差して、「イチジクのキッシュはデザートに出来ないかなぁ」と小声で訊いて来た。
「……」
 狗狼から渡された昼食代はまだ余裕がある。イチジクのキッシュを注文してもまだお釣りが出る金額だ。
 でも、デザートは昼食に含まれるのか否か、それを私は悩んでいる。普段の私なら無駄遣いだと拒否するけど、今日ぐらいはいいのではないかと、そう思わせるオーラをイチジクのキッシュは放っていた。
「あの、あとイチジクのキッシュを、お願いします」
 言ってしまった。狗狼、御免なさい。
「はい、ほうじ茶ラテとイチジクのキッシュは食後に致しますか?」
「はい、お願いします」
 背後で小さく手を叩くカテリーナの気配を感じながら私は頷いた。うん、たまにはいいよね。カテリーナには何時も心配かけてるし。
 カテリーナの提案で、屋外のテーブルで食べることにする。
 出口のすぐ脇にある4人掛けのテーブルは、丁度屋根の影に隠れて夏の日差しかを受けにくい所に配置されていた。椅子に腰かけると、吹く風に汗が引くのを感じる。
「涼しいね」
「そうだねーっ。これで料理が美味しければ言うことないねーっ」
 セルフサービスのお茶で喉を潤しながら呟いた私にカテリーナが同意した。彼女はイチジクのキッシュが楽しみなのか終始笑顔だ。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.5 )
日時: 2021/05/15 09:42
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 何も出来ないなら、最初から関わらない方が良い。狗狼はそう言いたいのだろう。
 彼の言っていることに間違いはない。今の私には何の力も無く、誰かの助けになることなど出来やしない。
 でも、私を見て彼が涙を流したことに何か理由があり、私がそれを聞くことで何らかの助けになるかもしれない。
 ただ、それだけしか出来ないけど、放っておくことなど出来なかった。
「それは、解ってるけど、放っておけないの」
 狗狼は一瞬、宙を見上げて何かを呟いた。
「湖乃波君が傷つく可能性もある。その覚悟はあるのか」
 私はひとつ、頷いた。
「ならいいよ。湖乃波君の気のすむ様にすればいい」
 狗狼は喫茶店の自動ドアをくぐって店内に入った。私はその背中を慌てて追う。
 それにね、狗狼。私は知りたいことがあるの。
 前を行く黒い背中に語り掛ける。
 店内は昼前だがそれほど混んではおらず、あの男の人が配られたおしぼりで顔を拭っているのが容易く見つけられた。
 狗狼はそのテーブルに近付くと「失礼」とだけ口にして彼の対面の席に座り込んだ。私も慌ててその隣に腰掛ける。
 突然の乱入者に驚いたのか、男の人はびくりと震えて狗狼を見返した。
「俺は単なる見物人だ。気にしなくていい」
「あの、それはどういう」
「気にしなくていい」
 狗狼は男の人の言葉を遮る様に、言葉を繰り返した。
 気圧された男の人が救いを求める様に私へ視線を移す。 
 脅してどうするのよ。
「あの、すみません。どうして泣いていたのか気になった、ので」
 私の言葉に男の人は恐縮したように二度続けて私に向けて頭を下げた。
「い、いや、私の方こそ済みません。その、大した理由じゃないので気にしないで下さい」
「そうですか? その」
 素直に話してくれるとは思わなかったけど、大した事の無い理由で気にしないで下さいと言われると、それ以上聞くことが出来なくて私は二の句が継げなくなる。
「……あの」
「はい?」
 会話を始める事すら出来ず歯痒い思いをする私に、男の人は困ったように笑みを向けて立ち上がった。
「御蔭で落ち着きました。じゃあ失礼します」
「ちょっと、待ってくれないか」
 救いの手は意外な人物から差し出された。その人物は男の人へ視線を向けず、独り言のように宙を向いて言葉を続ける。
「このは貴方が急に泣き出したので人の注目を集めてしまい、此処に退避せざるを得なかった。そんな人の視線に敏感な気の弱い子が勇気を出して声を掛けたのだから、そちらも多少は泣き出した理由を語ってくれてもいいんじゃないか。まあ、迷惑なおせっかいかもしれないが」
 男の人は黙って私達を見返していたが、何かを諦めたかのようにため息を吐くと再び席に着いた。
「……本当に大した理由じゃないんです」
「可愛い娘を見ると感動のあまり泣き出すんだな。良かったな湖乃波君、この男はとんでもないたいちだぞ」
 いきなり何を言い出すの。
「ち、違います。僕にそんな性癖は有りません」
 当然、男の人も慌ててそれを否定する。ただでさえ気の弱そうな小さな瞳を不安そうに左右に震わせ店内を窺う。
「なら話すんだな。話さないと次に俺はテーブルに突っ伏して、お前俺を捨てるのか、って叫ぶからな」
 やめて、隣にいるのが恥ずかしくなるから。
 私は別の手頃な席が空いていないかなと探していると、男の人は諦めたように溜息をついてくしゃくしゃと癖毛を掻きながら話し始めた。
「すみません、実は昨年にひとり娘を失くしまして、此処が娘とで遊んだ最後の場所なんです」
 私は予想しなかった男の人の告白に、私は掌を口に当てて声を漏らさない様にするのが精一杯であった。
「私と妻は娘が小学生の頃に離婚していたので、一年に一回の割合でしか会えませんでした。娘がやっとやりたかったことが出来ると、これまで勤めていた児童施設を辞めて海外に行く数日前に、娘は此処で兎と遊んでいました。娘は此処に来ると、どんなに辛くても癒してくれると。そんなお気に入りの場所でした」
 その当時の事を思い出したのかテーブルの上で握り締められた彼の両拳の上に、ポタリと雫が落ちる。
「娘が亡くなって一年になりますが元妻から一周忌の知らせも無く、私なりに娘を弔おうと此処へ寄ったのです」
 そこまで語って、彼はテーブルのおしぼりで顔を拭う。
「娘も小さい頃は髪も長く伸ばして頭の後ろで結わえていたので、御嬢さんを見て娘の小さい頃を思い出して涙を堪えることが出来ませんでした。その、申し訳ありませんでした」
 彼はもう一度、私に頭を下げる。
 私はその彼に対して何も言えなかった。
 彼に大切な人はいなくなって、もう二度と会うことが出来ない。
 既に終わってしまった出来事で、私の一五年程度の乏しい人生経験では彼にかける言葉など見つかる訳が無かった。
 狗狼がこの店に入る前に問い掛けて来た「話を聞いたのは一時の気の迷いでしたと背中を向けて終わりにするのか?」、その言葉の意味を痛感する。
 この人が亡くなった子に出来る事。それを考える。
「あの」
「はい」
 私の呼び掛けに男の人は顔を上げる。
「一周忌の知らせが無いって言われていたけど、お墓参りは、もう終わらせたのでしょうか」
 終わってなかったら、せめて狗狼に頼んで送ってもらうとかして、せめて何かしたかった。
 私の問い掛けに男の人はゆっくりと首を振った。
「どうして?」
「場所を知らないんだ」
 私と狗狼は男の人を見返した。
 男の人にとって、大切であっただろう一人娘の墓所を知らないのは、何かおかしい。
「僕の元妻、親権のある母親は僕が娘を殺したと言って、葬式にも出席を断って来たし、娘の眠る場所の連絡もしてくれなかった。僕は憎まれているんだ」
「え……」
 私は彼の言葉に言葉を失った。横で狗狼が「聞くなよ。聞くと後戻りできなくなるぞ」と小声で私に警告する。
「何故、でしょうか」
 胸の内で「御免なさい、狗狼」と謝りつつ私は男の人に訊かずにはいられなかった。
「……娘は、その、紛争国といえばいいのかな。そこで和平の後に武装解除した兵士達にこれからの生き方、その、復旧の為の職業施設を作ったり、そこで実際に技術を教えたりする仕事をしていたんだ」
「素晴らしいお仕事ですね」
「うん、僕もそう思った。だから、娘にやりたいことをやればいいと送り出した」
 男の人は自嘲するように片頬を歪めて、テーブルの上の組み合わせた両手に力を込める。
「ああ、そうだ。僕も娘の語る紛争の起こった国に住む人達の、子供達を笑顔にしたい。その夢に共感したよ。その素晴らしい夢を叶えてきなさいって。でも、それは叶わなかったんだ」
「あの、御嬢さんがお亡くなりになったからですか?」
「そう。だけど病気や事故なら運命の悪戯とか、運が悪かったとかまだ救いがあったかもしてない。でも娘の場合は違うんだ。娘は、娘は殺されたんだ」
 私の問い掛けに対する男の人の答えは、多分、男の人にとってあってはならないことだった。
 眼の前で震える男の人は再び両眼から涙を流し、後悔に苛まれていた。
 彼の苦渋に満ちた言葉はまだ続く。
「娘は施設からの帰り道で何者かに襲われて命を落とした。施設から出て直ぐ襲われたらしく、その次の日の朝に出勤した職員が見つけて通報してくれた。死因は大きな刃物で背中を割られた出血性のショック死だった」
 隣で狗狼が「マチェットかな?」と呟いた。男の人と私が狗狼を見たので狗狼は「簡単に説明すれば刃の長いナタの様なものだ」と説明してくれた。
「大使館の人も大きな刃物で切り付けられたと言っていた。僕は大使館の職員に犯人は誰だと詰め寄ったよ。じゃあ、なんだ、答えは最悪だった。犯人は娘の務めていた施設で訓練を受けていた少年だった」
「そん、な」
「そいつは何時も娘が大事そうに身に付けているポシェットがあって、中身を聞いても大事なものと答えていたから値打ちのあるモノだろうと思ったそうだ。だから襲って奪ったそうだ。そいつは、その鬼畜は、ポシェットの中身は写真しかなかったから何処かに捨てたと」
「……酷いですね」
 そうとしか言えなかった。この目の前で涙を流してやり場のない悲しみと憤りを抱える男の人と、その早逝した御嬢さんの運命に。
「妻は、あの子を外国に、その仕事に就くことに反対だった。危険の伴う仕事だから別の仕事にしてほしいと、保育園の仕事を継続して欲しいと娘に懇願していた。僕にも連絡を取り、娘を説得して欲しいと頼んで来たんだ。でも、僕は娘の願いを優先して彼女を送り出した。だから妻は僕を恨んでいる」
「……」
 どうしようもないのかもしれない。
 狗狼は男の人の話す内容を予想していたわけではないけど、話を聞く前の彼の忠告が身に染みる。
 既に起こってしまった事件で、それを覆すことは誰にも出来ないと思う。
 でも、今、生きている人に何か出来ないのか、救いは無いのかを考えるのは間違いじゃないと思う。
 狗狼からすれば、それは私達の問題でなくわざわざ顔を突っ込む必要は無いのだろうけど、聞いた後にただ背中を向けて去ることは私に出来そうも無かった。
「その、奥さんに、お嬢さんの埋葬、眠っている墓地をもう一度、聞くことは出来ないのでしょうか」
 男の人は静かに首を振った。
「それは無理なんです。妻は僕に会いたくないんだ。教えてくれるはずもないさ」
 多分、この男の人の別れた奥さんは、自分が育てた娘を失った憤りをこの人にぶつけているのだと思う。
 この人が悪くない事を彼女は解っているのだけど、その起こってしまった悲劇に対する怒りをどうするべきか分からずにこの人にぶつけているのだ。
 私もママを亡くして只一人となり、辛くて寂しくてもういない人のことだけを考えて、他の事などどうでもよいと思っていた。その悲しみに浸かったまま人形のように生きて、狗狼に助けられなければ死を選んでいた。
 この男の人や元奥さんも同じかもしれない。
 大事なものを失って、お互いを見ることが出来なくなっている。お互い亡くしたものは同じなのに支えあうことを諦めている。
 それは駄目だと思う。でも私がこの男の人に奥さんと合うべきだと言っても、彼にとっては私は部外者で、余計なお世話としか受け取られるんじゃないか。
 仮に二人が顔を合わせても余計に傷つくだけじゃないのか。そんな恐れを抱いてしまう。
 私はどうすればいい。答えが解らなかった。
「……腹が減ったな」
 狗狼が何の前触れも無く空腹を訴えた。私は今更、そういえばこの喫茶店に入店してから注文をしていない事に気がつく。
「あんた、此処までどうやって来たんだ?」
「え、バ、バスですが」
 狗狼の質問に男の人は戸惑いながら答えた。
「で、元奥さんは何処にいる?」
「小浜です。娘の務めていた児童施設も同じ市内にあって、児童施設傍に海産物の直売所があって、そこから妻と二人で娘の仕事ぶりを見ていたことがあります」
「よし、途中の南条SAでボルガライスを食べた後、元奥さんに会って申し開きをしよう」
 狗狼の提案に男の人は慌てたように両手を突き出した。
「ちょっと待って下さい。妻は私を憎んでいるのにわざわざ顔を出しに行けなんて、何を考えているのですか?」
「こんな場所でうじうじ考えるよりも、いっその事、当たって挫けるんだな」
 挫けてどうするんですか。
 でも狗狼の言う事にも一理ある。
「あ、あの、本当は、貴方の奥さんも、子供を失った原因は、貴方のせいじゃないと解っていると思うんです」
 私が詰まりながらも、何とか自分の考えを口にすると、男の人は目を伏せて拒否するように静かに首を振った。
「妻に会うのは、辛いです」
「なら、これからあんたはずっと、娘さんの墓参りにも行けず、奥さんの心の傷を癒す事もしないまま、己の不幸に酔いしれて、ただ思い出の場所で涙ぐんでいるんだな。お幸せに」
「狗狼!」
 私は言い過ぎではないかと狗狼を制止しようとしたが、彼はそれを意に介さず席を立った。
「湖乃波君、生ける死体ゾンビにこれ以上関わって貴重な夏休みを無駄遣いする必要は無い。とっととボルガライスを食べに行こう」
 私は喫茶店の出口に向かう狗狼を追う。
「狗狼、待って」
 私が狗狼に追い付いたのは喫茶店の外に出てからだ。
「狗狼、あのままあの人を放っておくの?」
 狗狼は無言で207SWの運転席に身を滑らせる。私も急いで助手席に座ってからシーT-ベルトを締める。
「狗狼!」
「これ以上、関わる必要性は無いな。本人が望んでいない」
「……そんな」
 狗狼はそれきり口を閉じて207SWのアクセルを踏み込んだ。
 あの男の人に話を聞いたけど私は何も出来ず、男の人もそれを望んでいない。余計なお世話という事だろう。
 でも私の眼には、あの男の人は娘を失って悲しんでいるし、傷ついていた。
 このまま誰も救われないというのは、私には間違っているとしか思えないのだ。
「これからどうするの?」
 私が口を開いたのは、207SWが加賀ICから北陸自動車道に入ってからだった。
「南条SAで昼飯のボルガライスを食べる。その後は行きと異なり舞鶴若狭自動車道を南下して中国道経由で帰る」
「そう」
 小浜に寄る選択肢はないんだ。
 私は狗狼に落胆した表情を見せない様に助手席側の窓へ視線を向ける。
 そこから見えるのは田んぼと数件の農家であり、ただ変わり映えしない風景が繰り返される平和な農村だった。
 そんな場所でもさっきの様などうしようもない悲劇に遭遇する夫婦がいる。
 そんな彼等に同情したところで、彼等に救いを与えることにはならないし、相手にとっても迷惑なのかもしれない。
 以前、ママが私の前から永久に姿を消した頃、同情したのか話し掛けて来るクラスメイトが煩わしくて仕方が無かった。
 頑張ってとか、気を落とさないでとか励ましてくれる人達に何時も言いたかった。
 どうやったら頑張れるのか、どうやったらこの胸の内に開いた黒い穴を埋めることが出来るのか。解っているなら教えて欲しいと。
 でも、私は本当は解っていたのだ。それは、どうしようもない事だと解っていたのだ。それは既に起こり、終わってしまった物事だから。
 そんな私が今、生きていられるのは狗狼やカテリーナ、新たに知り合った人達の御蔭だと思う。
 ママを失って開いた孔はそのままだが、そこに新たな思いを詰めていくしかないのだ。
 あの男の人の胸にも娘を失って空いた孔があり、それを埋める術を彼は知らないのだろう。
 どうすればいい。そう私は自問するがいい答えは浮かばなかった。
「もうすぐ、南条SAだ」
「あ、うん」
 私は狗狼の言葉に我に返り、慌ててガイドブックを開いた。
「昼ご飯にするんだよね?」
「ウイ。ボルガライスを食べる予定だ」
「ボルガライス?」
 そういえば、昨晩に狗狼の寝言を聞いた気がする。よっぽど食べたいのだろう。
 私はガイドブックの南条SAについて記載されているページに目をやると、ボルガライスの写真と説明分を見つけた。
 何々、「ボルガライスとはオムライスの上にカツを乗せた、その上からソースをかけて食べる福井県の有名な料理」と書いてある。
 オムライスの上にカツ? 本当に写真は説明文通りの料理が写っていた。
「ボルガライスは福井県内の色々な店で提供されていてね。興味はあったが仕事中は時間が無くてね、食べる切っ掛けが無かったんだ。だから今日がボルガライスデビューってわけだ」
 何となく狗狼の声も弾んでいるように聞こえた。
 そう言えば、仕事中の狗狼の食事は、大抵サンドイッチとかカロリーメイトで手早く済ませると言っていた。実際、彼と出会った晩に彼はサンドイッチを食べていた。
 ああ、彼なりにこの旅行を楽しんでいるんだ。
 そうだね、私も今はこの旅行を楽しむことにしよう。
「……私も、食べようかな」
 二人揃って、ボルガライスデビューも楽しいよ、きっと。
 207SWは意気揚々とエンジン音を響かせて南条SAのパーキングエリアに到着した。
「さあ、喰うか」
 レイバンのサングラスに隠された彼の両目は子供の様に輝いているに違いない。私を置いて行きそうな歩行速度でフードコートの自動ドアをくぐる。
「……わ」
 食事時だからか、店はごった返しており席が空いているか心配になって来る。
「これは混んでいるな。食事券を買って来るから湖乃波君は席を確保してくれ。ボルガライスでいいか?」
「ん」
 当然、と私はこくりと頷いた。
 食事券の販売機へ向かう狗狼の背を見送って私は開いている席を探す。幸いお茶のサービスドリンク前の二人掛けの席が空いているのでそこへ腰掛ける。
 五分ほど椅子に座って店内を見回していると狗狼が食券を指に挟んで戻って来た。
「これ、湖乃波君の」
 食券を受け取ると、狗狼は見慣れない小さなリモコンの様なものをテーブルに置いて席に腰掛けた。
「これが鳴ったら料理が出来上がった合図だから」
「うん」
 この南条サービスエリアは食事に力を入れている様で、フードエリアのあちらこちらに提供される料理の写真が張り付けてある。ソースかつ丼や中華そば等、見ているだけで商い。
 そうこうしているとブザーが鳴ったのでボルガライスを受け取りに行く。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.6 )
日時: 2021/05/15 09:51
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 さて、受取口に出されたボルガライスは想像していたよりも大きく分厚かった。
「あら、お嬢ちゃん。残さず食べてねーっ」
 受取口に居たおばさんがにこやかに声を掛けてくれたけど、さて、全部平らげることが出来るのかな。
 ボルガライスの内容は、衣の厚そうなオムライスの上に、これも分厚い豚カツが載せられていて、それに掛けるソースの小皿が付いている。ボルガライスの隣には野菜の千切りサラダが添え付けてあり、これも量が多い。
「うわあ」
「頑張って食べよう」
 私が何を思っているのか察したらしい狗狼が、口の端を僅かに吊り上げて声を掛けて来た。
 だって、予想以上の量だもの。
 二人向かい合わせで席についてお互いのボルガライスに手を合わせる。
「いただきます」
 さっそくカツとオムライスにソースをかける。
 ふと前を見ると狗狼はソースを掛けずに素のままオムライスとカツをそれぞれ別にして口に運んだ。
「お、このカツ噛んだら肉汁が凄いな。オムライスも衣がフワフワだぞ」
「……」
 次にソースを掛けない状態でオムライスとカツを纏めて齧り付く。
「おお、この組み合わせは有りかも。やっぱり三〇年以上愛されている料理は伊達じゃないな」
「……」
 ず、狡い。そんな食べ方をするなんて。
 狗狼はここで一旦、サラダを食べて口の中をリセットした。お茶を一口だけ飲んで口腔内を綺麗にする。
「待って!」
 私はソースの小皿を手にした狗狼を慌てて制止した。狗狼が、ん、と私を見返す。
「私も、何も掛けてない素のままを食べたい」
「……」
 もう、俯いて笑いを堪えなくていいじゃない。
 何となく自分が食い意地を張っている様で恥ずかしい。
「ああ、いいよ。食べな」
 私達はソースを掛けた状態のものは私の皿から。ソースを掛けない状態は狗狼の皿から、二通りの味を楽しんで食事を続けた。
「このソース、濃厚だけど素材の味を残してくれてるよね」
「まあな、ソースの力って絶大だな」
 カツとオムライスに染み込んだソースを楽しんでいると、いつの間にか二つの皿は唐となって私のお腹も膨れていた。
「やっぱり量は多かったよ」
 ちょっと苦しい。
 狗狼が少し食べるのを手伝ってくれなかったら残していたよ。
「でも、美味しかったな」
「うん」
 狗狼は二つの皿を手に取って立ち上がる。
「このサービスエリアはジェラートショップも有名なんだ、特に夏場のピンクグレープフルーツ味は人気なんだが、お腹いっぱいだよな」
「食べる」
 即答する私に、狗狼は膝をカクンッと曲げた。
 デザートは別腹。女の子の七不思議は私にも適用されるのだ。
「じゃ、ついでに買って来るから待ってろ」
 ピンクグレープフルーツかぁ。果物の方は時々店頭で売っているのを見掛けるけど、一寸割高だし食べた事ないなぁ。
 そんな余裕が有ったら、毎日の食事をもう少し豪華にしたいよね。
「お待たせ」
 暫くすると狗狼がトレイに薄いピンク色のジェラートが乗ったカップを乗せて戻って来た。あれ、一個だけ?
「……狗狼は食べないの?」
「食べない。甘いものは嫌いなんだ」
 そう、残念。
「それに黒服の男がジェラートを片手に持っている光景は不気味以外の何者でもないしな」
 そんなことはないよ。私は胸の内で呟いた。
「さっき、店のお姉さんも注文するとびっくりしていたぞ。訊かれてもいないのに、娘用ですって答えたがな」
 それはご愁傷様。って、
「娘?」
 びっくりして、狗狼を見返す。
「いや、簡潔に説明しようとしたら、そうなるだろ」
「う、うん、そうだ、よね」
 確かに他人に私の立場を説明するのに、契約者とか同居人とか説明するのは何かと憶測されそうなので、娘が面倒臭くなくていいのだろう。
「まあ、その場しのぎだから気にするな」
 カップをテーブルに置きながら苦笑する狗狼を見上げて、慌てて顔を伏せカップを手に取った。
 今、私の顔は物凄く赤くなっていると思う。
 だって、嬉しいから。家族と認められている様で、凄く、嬉しいから。
 ジェラートを一口、食べてみる。
 あ、美味しい。甘さの中に僅かに酸味が有って、夏に食べたくなるのも解る気がする。
「あ、可愛い」
「ホント、キレイカワイイがジェラートで笑顔になってる」
 脇を通りかかった若い女性の二人連れがこちらを見て声を上げた。
 私がびっくりして顔を上げると、二人連れは私に手を振って通り過ぎる。
 先程とは別の意味で恥ずかしくなって赤面した私は、慌ててで狗狼を振り返った。
「あのあの、かわ、可愛いって」
「……いや、ジェラートを食べた瞬間、君、目を細めて笑顔になったから」
 え、ええ?
 恥ずかしくなった私は急いでその場を離れようとして、ジェラートを口の中に放り込み続けた。
「おいおい、そんなに急いで食べると」
 あ、と私は動きを止める。
「当然、頭痛がするよな」
 うう、ますます恥ずかしいよ。
 その後、何とか頭痛が治まり私達はプジョー207SWに乗り込んだ。
 後は本来なら我が家に帰るだけだけど、私は狗狼に頼みたいことがあった。
「……狗狼」
「ん、何だ」
「その、途中で小浜に寄って、欲しいの」
「……」
 狗狼は私の頼みの中に含まれた意味に付いて察しがついていたのか、長く息を吐くと窘める様に私に問い掛けた。
「何故、小浜に用があるのか。大体予想はつく。話を聞いてしまった、それなのに何も出来なかった。その罪悪感から逃れる為に、また関わろうとするならやめておいた方が良い。これ以上、部外者が出来る事は無い」
 多分、狗狼の言う通りなのだろう。きっとそうだ。
 名も知らない男性の悲劇によってもたらされた苦しみを、何の面識も無い通りすがりの子供が何とか和らげてあげようなど身の程知らずにも程があるのだろう。
 おまけに、その男性は同じく悲しみに暮れているであろう元の奥さんと係わり傷つくことを恐れている。私のやろうとしていることは余計なお世話、そう言われても仕方がない。
 それは解っているのに、どうしても放っておけなかった。
「……狗狼。私はママを失って狗狼に会うまで、ずっと一人で誰とも関わろうとしなかった。正直言って誰とも関わることを拒んでいたよ。でも狗狼が私を助けてくれたから」
「助けたわけじゃない。契約違反の穴埋めだ」
「……うん、そうだったね。でも狗狼と出会ってからいろんな人と知り合って、少しずつ人と係わることが苦しくなくなっていたの。世界は私が思っている程、無慈悲で冷たくは無いと、最近思えて来たんだ」
「……そうか?」
「そうだよ、だからあの男の人も、何かきっかけが有ったら元の奥さんと話して立ち直れると思うんだ。哀しみで開いた孔は消えないけど別のモノで埋めることは出来るんじゃないかな」
 私は言葉を切った。私にしては長く喋ったと思う。でもこれは正直な気持ちだ。
 物好きにも程がある運び屋に対する私の正直な言葉だ。
「……今日の旅行の主賓は君だ」
 納得したのか、していないのか、狗狼は微妙な物言いで苦笑すると207SWを発進させた。どうやら小浜には運んでくれるらしい。
「有難う」
「苦労をするのは君だ。俺じゃない」
 北陸自動車道を敦賀インターチェンジで舞鶴若狭自動車道へ乗り換える。
「で、現地についたらどうするんだ?」
「うん、元奥さんを探そうと思って」
「顔も名前も知らないのに? まあ、手掛かりはある事はあるが」
「海産物特売所の駐車場が傍にある児童施設」
 私は 男の人が娘の務めていた児童施設を見て居た場所に付いて語っていたことを思い出した。ガイドブックの小浜の地図から証言に当て嵌まる児童施設を探す。
「海産特売所は、大抵、港の傍に開かれているから、港周辺を探すと良い」
 狗狼のアドバイスに従い港周辺に目を走らせる。
「あった。若狭フイッシャー○ンズ・ワーフ。道路を挟んだ向こうに保育園と幼稚園」
「決まりだな」
 そこに海外に行った保母さんが過去に在籍していたかどうかの確認と、その人の肉親、あの男の人の元奥さんの居場所を教えてもらう。もしくは連絡を取って貰う。
 個人情報の管理上、教えてくれるかどうかは解らないけど、手掛かりは此処にしかなかった。

                   5

 小浜IC(インターチェンジ)を下りて小浜市内に入る。
「車はフイッシャー○ンズ・ワーフの駐車場に停めるよね」
「ついでに中も覗いて行こう。土産物も買っておいた方がいいかな?」
 私は地図を片手にフイッシャー○ンズ・ワーフ迄の道程を狗狼にナビゲートした。
 国道162号線をNTT前で曲がって港へ向かう。
 フイッシャー○ンズ・ワーフは大きな看板が有り一目で解った。なかなかの広さを持つ駐車場に207SWを乗り入れる。
 道路の向こうには幼稚園と保育園を合わせた児童施設が有り、私達は中学生は夏休みに入っているけど、その児童施設は夏休み中も開かれている様で子供の歓声が響き渡っていた。
「先に用事を済ませるか?」
「うん」
 207SWを駐車場の左端、児童施設に最も近い列に止めて車から降りると、後から来た小動物の顔を髣髴とさせるデザインの黄色の軽自動車がすぐ後ろに止まる。(後に私は、その車がダイハツから販売されているエッセと教えて貰った)
 その軽自動車のドアを開けて一人の女性が降りてきた時、狗狼が「ほお」と声を漏らすのが聞こえた。
 額の中央で分けた茶色のゼミロングに黒縁の眼鏡を欠けた女性は、純白のTシャツとベージュのやや大きめのパンツ姿でフイッシャー○ンズ・ワーフへやや速足で向かって歩いて行く。整った顔立ちと眼鏡が理知的な美人といった印象を私に与えた。
 狗狼が回れ右をしてその女性の後を追う様に歩き出したので、私は彼のジャケットの裾を摘まんで、その前進を引き留める。
「……」
「……何処、行くの?」
 私は、何となく残念そうに振り向いた彼に質問を投げ掛けた。
「いや、児童施設迄の道を訊ねようと」
 どうして目を逸らすの? 言い訳しながらも彼は振り返って名残惜しそうに女性の後姿を追い続ける。
「すぐ眼の前でしょ!」
「引っ張らないで欲しいな。後ろ歩きは凄く怖いんだぞ」
 女好き、女ったらし、ド助平。
 何とか道路を渡り児童施設の門の前に立つと、狗狼はようやく諦めたのかサングラスを外してインターフォンを押した。
「はい」
 くぐもった女性の声が聞こえて来たので、私はインターフォンに顔を寄せて返答する。
「あ、あの、すみません ちょっと、御訊きしたい事があるんですけど」
 どうしても早口になってしまう私の声に面喰ったのか、暫く沈黙してからインターフォンの向こうから「何でしょうか?」と年配の女子の不審げ返答が返された。
「あの、私は中学3年生で、その進路に迷っているんです。将来、人の役に立つ仕事に、就きたいと思って調べると、此処に勤めていた保母さんが海外で人を助ける仕事をしていたと聞いて。その方が何故、その仕事を選んだのか教えて頂けないでしょうか?」
「……」
 インターフォンの向うからの沈黙に、私も息を殺して返答を待った。
「……申し訳ありませんが、私共からは何も答えることが出来ないのです」
「……そうですか」
 私の落胆が声に現れてしまったのか、インターフォンの向こうから申し訳なさそうに小さな声が返された。
「あなたの様に、誰かの役に立とうとする方があの子を訊ねてくるのは嬉しいです。でもあの子が亡くなった時にマスコミやら興味本位の人達が此処やあの子の両親の元に押し寄せて大変な思いをしました。それ以来、あの子については、私達もあの子の両親の承諾なしに他人に話すことを禁じているのです」
「……」
「あの子の両親も、まだ心に傷を負ったままだから、出来るだけそってして置いて下さい」
 それは知っている。
「はい。どうもすみませんでした」
 私は頭を一つ下げてインターフォンから指を離した。
「駄目だったようだな」
 私がこくりと頷くと、狗狼は宙を仰いだ。
「と、なると元奥さんの居場所は……」
 狗狼は柵の向う側にある児童施設へ目をやった。
「ガキ共に訊く手もあるが?」
「警察を呼ばれるよ。やめよ」
 私は幼稚園児に話し掛ける黒の上下にサングラスを身に付けた男が、その光景を目撃した一般市民の方々の眼にどのような印象を与えるか容易に想像がつく。
 完全に手詰まりだった。
 私は知らなかったが、海外で働いている邦人が守るべき対象に殺害された事件は、殺害されたのが若い女性という事もあり世間の注目を集めたようだ。先程、児童施設の方が語っていたように、蜜に群がる蟻のごとくマスコミが児童施設や被害にあった彼女の両親の元へ押しかけたのだろう。
 そして、その行為は彼女の両親の心の傷を深くするばかりで、癒すことは無かった。
「……」
 こうやって彼女の母親を探し出そうとしている私も、彼女の母親からすれば無遠慮なマスコミと大差無いのかもしれない。
「で、これからどうする?」
 狗狼の質問に私は「少し考えさせて」と返答した。正直、これからどうすればよいのか解らなかった。
「折角此処まで来たから、一休みのついでに中を覗いて行くか?」
 狗狼の提案に頷いて、私は駐車場を横切ってフィッシャー○ンズワーフへ足を向けると、私達が此処へ到着した時に軽自動車から降りた先程の女性が、私達へ視線を向けているのが目に入った。
 違う、私達の背後にある児童施設を微動せず見つめ続けている。
 その何か思い詰めたような表情から、私は有る予感を抱いて狗狼に声を掛けた。
「狗狼、あの人」
「ああ、美人だな」
 そうじゃない! 確かに美人だけど、今は其れじゃないの。
「あの人、あの児童施設をずっと見ている。ひょっとしたら」
 私は足早に、その女性の元へ歩み寄った。
 私に気が付いて怪訝な顔をするその女性に、私は一礼してから声を掛ける。
「すみません、私は」
「どうしました、顔色がよくありませんね。何か心配事でも?」
 ばかやろう。
 私はいきなり現れた黒背広の背中に、顔を突っ込んだ姿勢のまま胸の内で罵倒した。
「え、あの」
 戸惑う女性へ、更に畳み掛けるかのように狗狼おんなずきは言葉を続ける。
「いや、余計な御世話だと解っているのですが、貴女の様な綺麗な方が何の理由でそのような思いつめた表情かおで、あの児童施設を見つめていたのか。それが気になりまして」
まったく、その積極性を一時間ほど前に見せろ。
「実は私も、あの児童施設に勤務していた女性についてどなたかに話を伺おうとしていたのです。もしよろしければ、そこの商業施設で一休みがてら、私共に協力頂けないでしょうか」
 狗狼はサングラスを外して、誠実さの塊のような態度で女性に協力をお願いすると、女性からは短時間で済むならと了承を頂いた。
「有難う御座います。湖乃波君、話を聞いてくれるそうだ」
「……」
 なんとなく面白くない。
 私はむっつりと黙ったまま、狗狼と女性の後に続いてフィッシャーマン○ワーフの施設内に足を踏み入れた。
 施設内は若狭湾で取れた海産物や、それらを使ったサバ寿司等の食品が並んでおり、商品棚の傍らを通り過ぎた狗狼が興味深そうに覗き込む。
 私も商品棚に陳列された切り身や干物の種類の多さに驚き、今晩の夕食の献立のひとつに選びたくなったが、この夏の日差しと神戸まで帰る時間を考えた場合、途中で傷んでしまうのではないかと心配になり断念せざるを得なかった。
「冬に来て、若狭ふぐを食べるのも有りだな」
 狗狼と私の様子に女性も警戒心が薄れたのか、含み笑いを浮かべて背が赤く腹側が銀色の中型の魚を指差した。
「今の季節なら、この若狭クジがお薦めです。お刺身は甘くておいしいですよ」
「……アカアマダイか」
 むっと難しそうな顔をして考え込む狗狼。
「アカアマダイ?」
「関西じゃ高級魚として取り扱われていて、中々手の出せない魚だ」
 私が聞くと狗狼は声をひそめて返答する。
「でも、買って帰ると、途中で傷まないかなぁ」
「クーラーをガンガン効かせて帰るか?」
 私はきつい冷房は苦手なので勘弁してほしい。
「あの、買った魚は食堂で捌いてくれるサービスも有るんですけど」
「「買います!」」
 私と狗狼の声がハモったのに女性は目を丸くして驚いた後、ぷっと吹き出してくすくすと笑い始めた。うう、恥ずかしい。

「ご馳走様でした」
「ご馳走様」
 両掌を合わせて礼を述べる女性に私達も同じように両掌を合わせて唱和する。
「でも私が相伴にあずかって良かったのでしょうか」
「構いませんよ。珈琲が刺身に変わっただけですから」
 女性が申し訳なさそうに首を垂れると、狗狼は気にするなとでもいうかの様に手を振った。私も同意するように頷く。
 私達はアカアマダイを一匹購入して、それを食堂横の厨房で捌いてもらい刺身にした。珈琲の代わりに女性を誘って三人で刺身を味わったのだ。
 アカアマダイの身は水分が多いので軽く塩を振って締めてから調理するのだと、厨房のオバさんが教えてくれた。そのアマダイを三枚に下ろす手付きは目を奪われるほど鮮やかで、狗狼も声を漏らしたほどだ。
 口に運ぶとアカアマダイの身は甘くて柔らかく、あまり刺身を食べた事の無い私でも抵抗無く食べることが出来た。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.7 )
日時: 2021/05/15 15:48
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「それで、あの児童施設で働いていた女性に付いて聞きたい事は何でしょうか?」
 お茶を飲んで一息ついた女性が質問を促して来たので、私は兎の観光名所で出会った男の人の事や、その彼の語った娘さんの事に付いて語った。そして、私は彼女の海外の仕事について興味があることを付け加える。
 私が話している間、女性は時折、テーブルの上に置かれた湯呑のお茶を口にするだけで」、口を挿まずじっと聞き入っていた。
 ただ、私が話し始める前は柔和な光を湛えていたその瞳が、ひと通り話し終えた頃には駐車場にて声を掛けた時同様、僅かな不信と警戒を浮かべていのを見て、私は彼女に対するある予感を再び抱く。
 彼女が軽く息を吐き、湯呑がテーブルの置かれる固い音がした。
「……偶然ってあるものですね」
「?」
「私があの男の離縁した妻であり、あの可哀想な子の母親です」
「!」
 私は驚きはしたけど、内心、ああ、やっぱりと思う自分がいた。
 駐車場からあの児童施設を見つめる視線には、ひたむきな何かが含まれていたから。
「あの、それで、お父さんはお子さんを失くして、傷つき苦しんでいます。そして貴方に憎まれているからと言って、貴女と会って、その、お子さんの事に付いて話すことも恐れています。会って話し合うことは、出来ないでしょうか」
 女性は静かに左右に首を振る。
「……何故、ですか?」
「あの男が、あの子を殺したからよ」
 テーブルの上で祈るように組み合わされた女性の両掌に力が籠る。
「それは、貴女の希望に反して、彼がお子さんの海外で働くことを止めなかったから、ですか?」
「ええ、私はあの子に海外での希望する仕事の内容を聞いて驚きました。海外の紛争地帯に出向いて武装解除された元兵士に職業訓練をする。私は大丈夫なのと訊ねました。元兵士だから優しい貴方の手に負えないのじゃないかって。あの子は、危険なのは覚悟している。でも、何もしなければそのままだって。その国を危険じゃ失くす為に私は行くんだって、そう言いました」
「……」
「だから私は、あの子に言ったんです。今努めている保母の仕事も立派な仕事だって。でもあの子は其れでも行きたいって言ったんです。だから、離婚した夫に説得を頼みました。あの子を止めてくれって」
 私は兎の観光施設で会った男の人の顔を思い出す。
「でもあの男は、娘を止めるばかりか、娘の夢に同意して背中を押したんです。君の夢は素晴らしいって、そうお父さんが言ってくれたって娘が話しました」
 多分、あの優しそうな人は娘さんが危険な場所に行くことは解っていたけど、どうしても止めることが出来なかったんだろうなと思った。
「その数日後に空港で娘を見送ったのが、生きている娘を見た最後です。その一年後に会ったのは喋らない娘の姿です」
 そう女性は言い終えて顔を伏せる。僅かに上下する肩と、白いテーブルに落ちる雫が彼女の塞がらない心の傷を露わにしていた。
 狗狼はサングラスをしたまま沈黙して何も語らない。
「……でも、あの人は子供の夢を叶えたかったんだと、思うんです」
 私がそう言い終えると、女性が顔を上げて私を睨み付けた。哀しみと怒りが混じった視線が私を貫く。
「まだ子供の貴女に何が解るんですか。あの子を育てた何月と、あの子がこれから生きていく筈の年月が全て消えてしまったんです。何故、私は娘を失わなければならなかったのですか? ある人はあの子の命を奪った人達も被害者だと言います。別の人はそんな人たちを生み出したのは私達で、あの国は悪くないと言います。なら、私から娘を奪った罪は誰にあるのですか!」

 私と狗狼を乗せた207SWは舞鶴若狭自動車道を南下して帰路についている。
「帰りは西紀SAで黒豆パンを買って帰って、それを晩御飯にするか」
 運転中はあまり喋らない狗狼が声を掛けてくれた。
「あ、うん」
 私は思考の迷路からようやく浮上して、意識を現実に戻す。
 何も言えなかった。ただ悔いだけが残った。
 悲しみに暮れる女性の問い掛けに、人生経験の乏しい私が答える事が出来る訳ないのだ。
ただ私のした事は、無責任なお節介で女性の心の傷を露わにしただけ。
 泣き続ける女性の運転する軽自動車が駐車場から走り去るのを、無禄感を味わいながら見送るしかなかった。
「誰に罪があるの、か」
「それを明確にしたところで、あの女性が救われるとは思えないが」
 助手席で呟く私に、狗狼は素っ気なく答えた。
「……もう手遅れ? 冷たいね」
「君も気付いているだろう。これは終わってしまった事だ」
「……」
「どうにかするには不幸な娘さんが生き返るしかない。不可能だがな」
「そうだね」
 大切な誰かを失った悲しみが中々癒えない事は私が良く知っている。
 夜の舞鶴若狭自動車道は意外と街燈が少なく、時折、ヘッドライトを上向きにしないと見晴らしが悪くなった。
「暗いよね。どうすればいいのかな」
「……」
 今度は狗狼からの返答は無く、ただ私の声だけが空しく車内に響いた。

                    6

 次の日、私は神戸市立中央図書館で、夏休みの課題の資料として読まなければならない枕草子と源氏物語を借りるついでに、紛争問題と武装解除について調べようとすると、分厚い専門書から薄い文庫本サイズのものまであり、どれから読むべきなのか悩んでいた。
 夏休みだから全部借りて読書の鬼となるべきか、それとも最初の一歩として文庫から読むべきか?
 本棚を前に悩んでいると誰かに肩を叩かれてたので振り向いた。
「やあ、湖乃波君。夏休みの宿題?」
 ハスキーな声を掛けて来たのは先月知り合った、狗狼と同じ運び屋を生業とする女性だった。
「あ、小鳥遊たかなしさん。お早う御座います」
「お早う。静流しずるでいいよ」
 下げた頭を上げて彼女を見上げる。
 美人だと思う。切れ長の目にすらりと整った鼻梁、引き締まった口元等、大人になったらこんな女性になりたいなと思ってしまう。
 でも私はそれより驚いていることがあった。
 以前、彼女と初めて会った時や、その次の日の昼食にゴーヤーチャンブルーを食べた時の彼女は長い艶やかな髪をぼんのくぼの上で括っていて、服装も黒色のニットシャツにスリムジーンズ。底の分厚く頑丈なブーツに赤色の革のジャンバーを羽織っていた。
 でも今は緩やかな波打った長い黒髪をくくらずに背に流して、ノースリープの僅かに前部にフリルの付いたブラウスに襟を飾る赤いブローチが目を引く。
 剥き出しの肩の肌色は白く滑らかで光沢あってどんな石鹸を使っているんだろうと思う。
 またスリムジーンズではなくスカート姿で、その色は黒に近いけど紫が混ざっているような色で布地も柔らかそうだ。
 履物もブーツじゃなくて黒天鵞絨に白い靴底のパンプスだ。
 一見地味だけど、どれもこれも高そうな気がする。
「……あの、どこかにお出かけですか?」
 私の質問に静流さんは質問の意味が解らないとでもいうかの様に小首を傾げる。ええ! 綺麗と可愛いが同居している。
「いや、別に普段着だけど、何かおかしい?」
「いいえ、とっても似合ってます」
 そう言えば彼女は「爺」と暮らしているって言ってたような。
 狗狼、彼女はきっとお嬢様だよ。
 私が静流さんの服装に圧倒されている間に、静流さんは私の見上げていた本棚に収められた本の背表紙を読み取っていた。
「国際紛争に難民問題か。読書感想文でも書くの?」
「あ、その、学校の授業とは関係、無いんです。国際紛争と武装解除に興味が、あって」
 静流さんの質問に私は手を振って答える。
「ただ、どれから読めば、いいのか、解らなくて。」
 何となく恥ずかしくて私の声は尻すぼみになった。明確にこのジャンルの何が知りたいのか、私にも漠然としたイメージしか解らないのだ。
「ああ、そうか」
 静流さんはうんうんと私を見下ろして頷くと、本棚を見上げて考える様に形の良い顎先に手を当てる。
「うーん、やっぱり緒方貞子の著作は外せないよね。それで的確に彼女の仕事が解るとなるとこれかな。あと武装解除はこれっと」
 静流さんはひょいひょいっと本棚に手を伸ばして二冊の本を手に取った。どちらも文庫本サイズだ。
「読みやすいのはこの二冊かな。ひとつは緒方貞子の国連難民高等弁務官となった一〇年間の日記とエッセイに、彼女へのインタビューと論文を纏めたもの。彼女の仕事の内容と、その仕事の抱える問題点が彼女の目を通して解る内容になってるの。もうひとつが題名の通り武装解除を職業とする日本人女性のエッセイ。これも彼女の仕事内容と武装解除とその後のケアについて記載されている。これで内容を理解したら別の著作を読めばいい」
「……」
 はい、と手渡された文庫を見下ろしてから静流さんを見上げる。
「あの、静流さんは、読んだことがあるの?」
 私の質問に、静流さんは照れたように笑みをこぼす。
「まあね。私も昔は、そんなことに興味を持った時期もあるから」
 静流さんはそう言って別の本棚に歩き出した。
「静流さんは、今日、何を借りるんですか?」
「いや、明確に決めないから。興味を引いたら借りる様にしている。図書館はタダだからね」
 ひょいひょいと本棚を見回して、本を手に取って覗き込み、本棚に戻す。それを幾度も繰り返して約一時間、彼女の手元には四冊の本があった。
 一冊目「吉野朔美 悪魔が本とやってくる」静流さんコメント「夏目漱石の文庫本カバー絵が好きなのと、書評の漫画が面白い」
 二冊目「絵 アーサー・ラッカム 不思議の国のアリス」静流さんコメント「彼の絵のウンディーネは先月読んだので」
 三冊目「二ホンミツバチ養蜂」静流さんコメント「爺が最近、二ホンミツバチを見掛けないと呟いていた」
 四冊目「西本智実 知識ゼロからのオーケストラ入門」静流さんコメント「単なるミーハー。以上」
 私と静流さん、それぞれが図書館の貸し出しカウンターを出る頃には午後一時を回っていた。
「湖乃波君、ゴーヤーチャンプルーのお礼に、一緒に昼食でもどう?」
「え、あの、悪いです。本を選んでもらったのに」
「気を使うことないよ。実は外食すると五月蠅いのが家に居てね。こんな機会じゃないと食べさせてくれないんだ」
 静流さんは私が気を使って断ろうとすることを見越していたのか、気軽に言うとさっさと背を向けて歩き出した。
 本当かどうかは解らないけど、置いて行かれない様に後を追う。
 静流さんは大倉山公園を北側からでると、神戸大学附属病院の横を通り抜けて有馬道を山麓線へ歩いて行く。彼女の歩く速度は速く、パンプスを履いているのに私がやや小走りで追いつかなければならない。坂道慣れしているよ。
 ピタリと彼女の足が止まったのはラーメン屋の前だった。
 今日の彼女の雰囲気でラーメン屋はミスマッチの様で私は少し戸惑う。
「静流さん、此処?」
「うん、此処」
 間違ってはいないようです。
 静流さんは店頭のテーブルに近付くと、テーブルの前の店員さんに話し掛けて肉まんらしきものを指差した。
 店員さんが計四個の肉まんの様なものを紙袋に手渡すと、静流さんが料金を手渡して踵を返す。
「お待たせ―」
 紙袋を高々と掲げて私に呼び掛ける静流さんに、彼女の容姿に見惚れていた店員や通行人が驚き、静流さんの相手、つまり私に視線が集中する。
 どうでもいいけど、運び屋は人の注目を集めるのが好きなのかな。
 私の所に戻って来る静流さんの顔はウッキウキとほころんでおり、彼女がとても食べたかったものだと判った。
「やっと買えたよ。南京街には同じような野菜まんは無いからね」
 静流さんの提案で大倉山公園まで戻って、涼しい木陰のベンチで食べる事にした。流石にこの炎天下の下、日光に晒され乍ら温かい野菜まんを食べる事は静流さんでも無理のようだ。
 私もこの買い物の最中で背中にシャツが張り付いており、少しでも早く日陰に避難したかった。
 大倉山公園まで静流さんペースで徒歩八分。僅かに荒い息を吐きながら静流さんを見ると、彼女は汗を掻いた風も無く平然としていた。嘘でしょう。
 あ、そういえば静流さんは夏でも皮ジャンを着ていたような。そういえば狗狼も何時も黒スーツだし。
 運び屋って人種に季節感は無いんじゃないだろうか。
 野球場傍の木陰で二人並んでベンチに腰掛けた。風が吹いて汗が引いて行くのが解る。
「涼しいね」
「そうですね」
 静流さんは紙袋を広げてる。
「豚まんと野菜まん、どっちを先に食べる?」
 静流さんのおススメは野菜まんだから、それはメインディッシュにしようかな。
「豚まんを先に」
「じゃあ、私も」
 私は静流さんから豚まんを受け取る。熱っ、私は其の暑さに落としそうになるが、辛うじて両手で包み込む。
「いただきます」
「どうぞ」
 二人共豚まんに齧り付く。噛みしめた豚まんの中からアツアツの肉汁が吹き出し、私の口腔を蹂躙した。
「あ、熱っ!」
「アッツ、でも美味しい」
 熱いけど甘い肉汁を飲み込んでから、肉まんのガワと種を噛み締める。肉が弾力があって歯応えが有り、引っ切り無しに肉の油が出てくる。
「ふうっ、食べ終えた」
 肉まんを平らげた静流さんが満足そうに呟いた。
「美味しかったですね」
「そうね。次は野菜まんにチャレンジ」
 静流さんから受け取った野菜まんを、私は豚まんのときの様に肉汁が噴き出さないか注意しつつ齧り付いた。
「あ、これ」
「食べやすいですね」
 危惧していた肉汁や煮汁が噴き出すことは無く、私の口にきくらげやキャベツ春雨と中華スープの味が広がる。あっさりしているけど、味付けは確りとされている絶妙なバランスだ。
 野菜まんを食べ終えた静流さんは「結構お腹が膨れるな」と漏らした。私も二個で十分お腹を満たしている。
 二人揃って道中で買ってきたお茶のペットボトルで喉を潤して空を見上げた。雲の無い夏の青空に目を細めた。
「それで、どうして紛争問題に興味を持ったの?」
 静流さんは興味があるのか、前を向いたまま私に問い掛けて来た。
 普通なら夏休みが始まったばかりなので、夏休みの課題をこなしている最中だと思う。それなのに紛争問題や武装解除といったものに興味を持つところが、彼女の好奇心に触れたのだろう。
「……」
 どうしよう、昨日出会った子供を失くした夫婦に付いて、相談してもいいのだろうか。
 今の状態では手詰まりで、うまく説明出来るか解らないけど静流さんなら何か打開策が思いつくかもしれかった。
「実は昨日、狗狼と運びの仕事ついでに夏休みの旅行に出かけたんです」
 それから私は、旅行中に出会った海外で子供を亡くした元夫婦について話し、静流さんは私のたどたどしい説明にも、根気よく最後まで口を挿まずに耳を傾けてくれた。
「湖乃波君、貴女はその子供を失った夫婦をどうしたいのかな?」
「私は、あの人達の、子供を失った苦しみを、少しでも癒すことが出来たら」
 私の返答に静流さんは僅かに目を伏せた。
「湖乃波君、その悲しみや苦しみはずっと残り続けるの。日々の中に埋もれていくけど、何かの拍子にそれが顔を出す時がある。それは避けられない事なんだ。癒されることは無いよ」
「……」
「それに、海外で犠牲になった、その御嬢さん。彼女を失くしたのは、その彼女の母親にとっては海外で働くことを認めた父親の責任そう言っているんだな」
「はい。でも、それは、違うように思うんです」
「じゃあ、この件は何処の誰に責任があるのだろうか。それを考えてみようか」
 そう言って静流さんはひょいっと人差し指を立てた。綺麗な形をした薄いピンク色の爪が私の目を引いた。
「ひとつ、彼女を襲って金品を強奪しようとした少年。これは直接、手を下しているから罪があるのは明白だ」
 私もその意見には賛成する。彼女を殺害したのはその少年だから彼は裁かれるべきだ。
「でも、こんな解釈もある。少年たちは元少年兵だった。彼等は幼い頃から武器を持たされ戦わされてきた。人を殺した事も一度や二度ではない。彼等はそのせいで命は尊いものだと認識出来なかった。生きる為には人を殺して奪って生きていくしかない。そう、して生きて来た。これは彼の意思でそうなったのではない。彼の生きて来た環境や制度に罪がある」
「……」
 静流さんは中指を立てる。
「ふたつ、先程上げたその国の環境や制度に罪がある。さっき述べた理由以外に、武装解除によって彼等は唯一の活計たつきの手段を失った。職業訓練を受けるものの、それで収入を得るまで時間が掛る。もしかしたら戦争が終結したばかりでその収入を得るシステムが完全には出来上がっていないかもしれない」
「少年兵が武器無しで暮らしていく環境が成り立っていないという事ですか?」
「そうかもね。紛争終結で権力を失うかもしれない政治家や指導者が、これまでの制度を残そうと非協力的な例もあるね」
 静流さんは三本目の指、薬指を立てた。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.8 )
日時: 2021/05/15 15:54
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「彼等を支援する方法や資金が不十分だった可能性。それを補う為の組織、武装解除組織やそれと関係する支援組織に罪がある。武装解除後の元兵士が自活する手段を獲る迄の間、彼等に対する給金やそれを獲る為の職が与えられるんだが、それが不十分だった場合も考えられる。でもこれは難しくて元兵士達が自発的に武装以外の生活手段を見つけられるようにしなければならない。あまり元兵士が優遇されると支援に頼りきりになってしまう」
「……難しいんですね」
「ああ、難しいよ。でも紛争による被害者や難民は増える一方なんだ」
 暗い顔になる私に静流さんは小指を立てた。
「最後に嫌な言い方になるけど、彼女自身の罪。自分の指導する元少年兵と一緒だからといって、夜中だと思うけど警護も付けずに帰るのはどうかしている。彼女としては相手を信頼していたのかもしれないけど」
「……」
 私は増々、どうすれば良いのか解らなくなる。
 静流さんは単純にこの問題を説明してくれた。
 誰にも罪が有り、誰にも罪は無い。
 海外で子供を失った女性の声が甦る。「私から娘を奪った罪は誰にあるのですか」と。
「まあ、私程度が説明出来る事なんか、今日借りた本を読めばよく解ると思うよ」
 表情が暗くなってしまったのだろうか、静流さんが慰めるように声を掛けてくれた。
「狗狼は何て?」
「この件は、もう終わっているって」
「なるほどね。失くしたものに関わる程、無駄なことは無いってことかな?」
 静流さんは宙を仰いだ。そのままじっと空を見つめる。
「でも、それじゃ救いが無いよ。誰も彼も」
 その言葉は狗狼に向けたものか、それとも空の彼方で見下ろしているはずの神様へ向けたのか。唯一の肉親を失った事のある私も静流さんの言葉に共感出来るものがあった。
「湖乃波君」
「は、はい」
 静流さんが急に私に話し掛けて来たので、私は慌てて返事をする。
「現地で亡くなった、その娘さん 彼女の現地での活動は無駄だったのかな?」
「?」
「何故、娘さんが海外で働くことを決心したのか。今回の救いはそこにあるんじゃないかな」
「救いですか」
 私が聞き返すと静流さんは苦笑した。
「この件、やっぱり君がカギかも知れないね」
 そう言って静流さんはベンチから立ち上がる。
「木陰とはいえ暑いな。其処の駐車場に車を止めてあるから家まで送るよ」
 静流さんと一緒に駐車場まで移動した私は、静流さんが傍らに寄った赤い車を目にして少し驚いた。先月に彼女が運転して来たBMWミニだったか、それと異なる車だった。
 何か小さくて四角い。丸く小さいライトとその下の銀色のマスクの様な部品がカッコ可愛い。
「あ、あの、前に乗って来た、車は?」
「ああ、J C W(ジョン・クーパー・ワークス)GP。まだ修理から帰って来てないんだ」
「けっこう修理に時間が掛りますね」
「ああ、先月、出したからもう一か月近くなるな。その間、私は無職だよ」
 確か先月、静流さんに夕食に私の初めて作ったゴーヤーチャンプルーを食べて貰った時、確か修理に出すって言っていたから、そうか、もう一か月なんだ。
「本当にあの時は狗狼を助けてくれて有り難う御座います。車も壊してしまって済みません」
「いや、湖乃波君が誤ることは無いよ。それに狗狼からは報酬に加えて修理費も貰っているから問題ないんだ」
 静流さんは四角くて可愛い車の助手席側のドアを開けて私に座るよう促した。
「失礼します」
 車の中は車体が小さい割には広く感じられる。赤い革シートに腰掛けると、その柔らかいシートにお尻が沈み込む。
「ちょっと狭いけど、シートは座り心地の良いものと交換しているから我慢してくれ」
 でも、この小さい車は今の静流さんの雰囲気に合っている気がする。何処かクラッシックで控えめな感じが。
 静流さんはパンプスを脱いで革靴に履き替えてから運転席に座り、運転席の左側、ダッシュボードの中央にある鍵穴の左側のノブを僅かに引っ張った。それから中央の鍵穴に鍵を差し込んで左に捻る。
 エンジンを動かした。軽快な振動と音が車内にも響いて来る。
「暫く待ってて。これ夏でも三分ほど暖気しないといけないから」
 静流さんはハンドルのすぐわきにあるメーターの針を見ながらノブを少し押し込んだ。
 狗狼の乗る207SWにはあんなスイッチは付いてなかったような。
 「あの、これ、なんて名前の車なんですか?」
「ん、オースチン ミニ クーパー1275S MkⅡ。ミニクーパーSってやつだね。元々、父が中古で買った車だったんだ」
 だから何処か古めかしいデザインなんだ。
「でも、外観は綺麗でそれほど古そうに見えませんよ」
「まあ、それは此処ひと月、此奴に掛かり切りだったからね。それまでコツコツと手を入れていたけど最近、一気に仕上げたばかりなんだ。何しろ直に五〇年目になる車だからね。いろいろ手が掛かったよ。特に今迄は夏場は大変だった」
「大変って」
 ここで静流さんは深刻な顔をして私に顔を寄せて来た。私も聞き逃すまいと顔を寄せる。
「この車はね、元々……」
「……元々?」
「……エアコンが無い」
「……」
 私は視線を車の前に向けた。夏の日差し。
「……大変ですね」
 うんうんと静流さんが頷く。
「生粋の175Sユーザーには怒られるかもしれないけど吊り下げ式のクーラーを付けさせてもらったよ。パワーは微々たるものだけどね」
 それでも無いよりは良いと思う。きっとなければこの小さな室内は蒸し風呂状態になるだろう。
「あと、我が家は坂の上にあるから、真夏になると坂を上っている最中に水温計の針がどんどん上昇するんだ。だから夏場は車庫でお留守番さ。まあ、今年はラジエターを3コアタイプに交換して循環効率を上げたから乗り切れると思う」
 楽しそうに話す静流さん。ああ、この人って本当に車が好きなんだなあ、と思う。
「あ、そろそろいいかな。じゃ出発」
 車体が小さい割には意外と大きい音を立てて車、ミニクーパーが走り出した。
 最初はゆっくりと走っていたが、下山手通を右折してメルカロード宇治川を降りる頃には中々の速度が出ており、路肩に駐車されている車のせいで道幅が狭くなっていてもお構い無しに通り抜ける。
「小さい車だとこんな時に便利ですね」
「でも英国だとセダン扱いだったから」
 2号線に通じる交差点に差し掛かると静流さんの両手が素早く交差して、中心にMのマークが入ったハンドルを回転させると、ミニは殆どスピードを落とさずに小気味良く左折して三宮方面に向けて走り出した。
「モトリタのハンドルは定番だけど格好いいでしょ」
「は、そうですね」
 今、私が隣に乗っていることを忘れていませんでした? 私は左折の瞬間に食い込んだシートベルトに耐えつつ返事した。
 やっぱり運び屋って、皆こうなんだろうかと思ってしまう。
「出来るだけ父の残してくれた状態を保っていたいからそんなに手を加えていないけど、やっぱりミニはいいよね」
「狭い道も多いですからね。狗狼も時々、車幅ぎりぎりで急角度で曲がる道が多いってぼやくことが有ります。それに」
「それに?」
「異国情緒の溢れたこの街に、ミニは良く似合うと思います」
「同感」
 程無くして神戸大橋を渡った私達は、私と狗狼の住む倉庫のあるポートアイランドの中ふ頭に着いた。
「有り難う御座います。あのお茶でも」
 ミニを降りた私の申し出に、静流さんは運転席に座ったまま首を振った。
「いや、いいよ。興が乗ったので、これからちょっと流してこようかと思ってるから」
「そうですか」
「また、お茶は別の機会に。話せて楽しかったよ」
「あ、私も楽しかったです。本当に有り難う御座います」
 もう一度礼を述べる私に手を振って、静流さんは手を振ってミニを発進させた。どんどん車が小さくなって行く。
 静流さんは恰好良くて、綺麗で、笑うと可愛い人でした。
 私は倉庫のドアノブを捻ると鍵が掛かったままで、狗狼はまだ帰って来ていないようだ。
 私は鍵を開けて事務所兼台所のソファに座ってこれからどうしようか考えた。
 昼食は食べたし、夕食の買い物に出るべきか。
 時計を見ると午後二時半。買い物に出るのは午後四時としてそれまで読書をしよう。
 どれから読もうかと四冊の本をガラステーブルの上に並べる。「枕草子」「源氏物語」そして緒方貞子の著作が一冊、武装解除組織の本が一冊。
「うーん」
 本来なら、学校側から出された課題の資料である古文二冊を読んで課題を終わらせてから、次の二冊を読みべきなんだけど。
 でも読みたい欲求には逆らえず、最初に緒方貞子の著作を手に取ってしまった。
 この本は、一九九一年二月に緒方貞子が湾岸戦争の最中に国連難民高等弁務官(UNHCR)に着任してから、二〇〇〇年末に退任するまでの十年間を彼女自身が書き綴ったものだ。
 私の生まれる前、長く続いた東西冷戦時代の終結が宣言されて各国家間の問題が噴出し始めた頃に、緒方貞子はUNHCRとして全世界二千万人以上の難民と向き合うこととなる。
 第一次湾岸戦争ではイラク国内からイラン、トルコ国境へと逃れる難民への対応。
 アフリカではエチオピアの飢餓とソマリアの内戦での難民急増への対応。
 欧州では船でイタリアへ向かったアルバニア難民の対応。
 そしてユーゴスラビア連邦解体後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
 その他、数多くの難民、紛争問題に関わっていく内に、彼女は難民を救済するための人道支援から復興、開発に至るプロセスを実行するためには人間の安全保障が必要との結論に至ることがこの著書に記述されていた。
 私は第一次湾岸戦争は教科書の記述でしか知らず、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争については民族浄化の名の下に虐殺が行われたとしか知らなかった。
 それらの問題を解決するために一人の日本人女性が組織のトップとして、現場に何度も足を運び奮闘していたことなど詳しくは知ろうとしていなかった。あんなにニュースでは毎日のように海外で起こる武力紛争や難民の発生について報じていたのに、テレビの向こうの外国での出来事として大して関心を払っていなかったのだ。
 庇護された日本国内でも一人で生きていくことは不可能なのに、世界では無数の子供が紛争によりそうである立場に追いやられ、その状況から逃れるために難民は増え続ける。
 この本の中で緒方貞子は「マスコミが注目しなければ事件は存在しない」と記述している。
 私も難民や紛争問題については、あの兎の施設で子供をなくした男性に会わなければ、海外で頻発しているのに存在しない問題として忘れ去っていたに違いない。

                  7

 緒方貞子の著作を読んでいると倉庫のドアをノックする音が聞こえた。
 本から目を上げて時計を見ると四時十五分と買い物に行く予定の時間を過ぎていた。
 再びドアをノックする音。
「おーい、クロ。居ないのか―。出てこないとドアを蹴っ飛ばすぞー」
 私は慌てて入り口のドア駆け寄って開けた。
「うおっと」
 外側に勢いよくスイングしたドアを避けて後ずさった人物は、ドアの外から響いた声と内容に似ても似つかぬ要望をしていた。
 その人物は銀縁の眼鏡を掛けているけど、その下の細面の顔の目鼻立ちが整っていてびっくりしてしまった。細いけどまつ毛の長い両眼や、その上の筆で引いたような眉に真っ直ぐに引かれた鼻梁に、今はびっくりしているのか僅かに開けられた唇も色が瑞々しくて光沢があった。細く少し色素が薄く見える髪が、港街のやや強めの風に靡いている。
 これで男の人だから凄いよね。
 背は狗狼より僅かに高く百七十五センチぐらいかな。狗狼と対照的な白の上下のスーツに水色のシャツ、アクセントをつける為だろうかネクタイは無地のオレンジ色を締めている。
 その白スーツのハンサムは私を見下ろして固まっていたけど、何かを思い出したかのように「ああ、そうだった」と呟くと、姿勢を正して軽く一礼した。右手の白いソフト帽とそれに巻かれた青いリボンがとても御洒落だ。
「済みません、君は狗狼を世話してくれている同居人ですね。私は狗狼の古い友人で、探偵を生業としている奥田 桂人(おくだ けいと)と申します。狗狼は何時頃、帰宅の予定でしょうか」
 ドアの向こうとは全く異なる慇懃さで私に尋ねるけど、残念ながら私も狗狼に帰宅時間は知らなかった。
「あ、あの、済みません。私も狗狼の帰宅時間を教えて貰ってないので」
 奥田さんは口をへの字に曲げると宙を仰いだ。やはり熱いのか右手のソフト帽で気宇日筋に風を送る。
「全く、あの駄犬。飼い主に行先ぐらい伝えろよ」
 だ、駄犬って?
「ええと、君?」
「野島 湖乃波です」
 私は奥田さんに一礼してから名乗った。何となく奥田さんも狗狼と同じ雰囲気を持っている様に感じて信用しても良いと判断したからだ。
「野島さん、狗狼に調べものについて解ったから、電話を寄こす様に伝えてくれないか」
「は、はい」
 手を振って踵を返す奥田さん。その海をバックにした一枚絵の様なその背に私は思い切って声を掛けた。
「あの、晩御飯を一緒に、食べませんか!」
「晩御飯?」
 細い眉を寄せて怪訝な顔をして振り向く奥田さん。
「はい、晩御飯までに帰って来ると思うんです。私はこれから夕食の買い物に出かけるので、その間、事務所でお留守番してくれると助かるのですが」
「ふーむ」
 しばらく考え込んでいたけど、「じゃあ、買物に付き合ってもいいかな」と言って振り返った。
「え、でも、悪いです」
「それぐらいは手伝わせて欲しいな。こう見えても荷物持ちぐらいは出来る心算だよ」
 どうしようか、三人分の夕飯となるとそれなりの量の食材を買って帰らないといけないし。何気に此処からトー○ーストアまでちょっと距離がある。
 それにこの人が古い友人なら、狗狼についていろいろと教えてくれるかもしれない。
「済みません、じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか」
「OKOK、全然問題ないから気にしないで」
 奥田さんは私の申し出に笑顔で応じると、再び駅の方向に歩き出した。
「えっと、中ふ頭駅からポートライナーに乗るのかな?」
「いえ、みなとじま駅まで歩いていきます。歩いて十五分程度の距離なので電車賃が勿体無くて」
「一キロ程度距離があるけど、若いね」
 奥田さんの質問に私は首を振って答える。若いと言っても夏が暑い事に変わりはなく、もう額に汗がにじんでいる。
 奥田さんも暑いのか、白いジャケットを脱いで小脇に抱える。
「で、彼奴はちゃんと君の面倒を見てくれてる?」
「え、あ、はい。問題ありません」
「ふーん」
 私は奥田さんの質問に面食らいながらも答えると、彼は面白い事を聞いたとでもいうかのように目を細めて笑みを浮かべる。
「まあ、彼奴の事だから面倒臭そうにしているけど、意外と面倒見の良い奴だから仲良くしてやってよ。悪い奴じゃあなくて単にひねくれて救いが無いだけだから」
 それって貶してますよね。
 古い友人だから言いたい放題かもしれないけど。
「あの、狗狼とは、何時からの知り合い何ですか?」
「ああ、確か僕が中学一年ぐらいのときかな。親爺が僕の護衛ってことで連れて来たんだ。本当にあの時は憎らしい程仏頂面だったね。今も変わらないけど」
 その時の狗狼を思い出したのか、奥田さんは苦笑を浮かべた。
 護衛? 奥田さんは探偵をしているって聞いたけど、彼の実家も探偵をしていたのだろうか。
「あの、護衛って」
「僕の親が近頃物騒だからって、同じ中学に雇った護衛を放り込んだんだ。それが彼奴だった」
 同じ中学? え、狗狼の方がかなり年上に見えるけど。
 私は奥田さんの整った顔を見上げる。どう大きく見積もっても二〇代後半から三〇代前半にしか見えない。
 それから私は狗狼のサングラスを外した顔を思い浮かべる。僅かに白髪が混じった黒髪や目尻の皴を思い出す。四〇代だよね。
「狗狼って幾つなんですか?」
「まあ正確なところ分からないけど、僕と同じ四〇代だろうね」
「……」
「……」
 事も無げに彼の口から出た言葉に、私は衝撃を受ける。
 この顔が四〇代! この人は一〇年間、歳を取っていないんじゃないの。私が彼の端正な顔を見上げると、奥田さんも私が何に衝撃を受けたのかは解っている様で、はははと困った様に声を漏らした。
「まあ、彼奴ともう一人、神戸市市役所職員の奴とはかなり長い付き合いなんだ。本当に何度縁を切ろうと思ったことか」
 でも、口元に笑みを浮かべて話す奥田さんの表情を見ればそんなことは毛頭も考えていないと思わせるものだった。
 事も無げに彼の口から出た言葉に、私は衝撃を受ける。
 この顔が四〇代! この人は一〇年間、歳を取っていないんじゃないの。私が彼の端正な顔を見上げると、奥田さんも私が何に衝撃を受けたのかは解っている様で、はははと困った様に声を漏らした。
「まあ、彼奴ともう一人、神戸市市役所職員の奴とはかなり長い付き合いなんだ。本当に何度縁を切ろうと思ったことか」
 でも、口元に笑みを浮かべて話す奥田さんの表情を見ればそんなことは毛頭も考えていないと思わせるものだった。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.9 )
日時: 2021/05/15 16:13
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 いいな、こんな関係。狗狼に仕事関係以外で友人の居る事に安堵しながら、カテリーナや静流さん、マオさんと自分も彼等の様に長く共にいられたらいいなと思った。
 奥田さんは私が狗狼とどんな生活を送っているか気になっているらしく、「彼奴は鈍いから、話しにくい事は僕に連絡してくれたらいいよ」と言ってくれて、胸ポケットから名刺を抜いて私に差し出す。
「有難う、御座います」
 私は名刺を受取り目を落とすと彼の携帯電話の番号と名前、そして事務所名が印刷されていた。
「探偵事務所 閑古堂かんこどう
 私は事務所名を声に出して読んだ。
「……」
 奥田さんのネーミングセンスはいかなものか。暇であることを公言してはばからない、そんな探偵事務所に誰が仕事の依頼に来るのか。
「それ、僕に黙って役所に届けたのは狗狼で、それを受理するよう手を回したのは、もう一人の幼馴染だから」
 くろうーっ。
「後で問い詰めると彼奴は、真心の籠った丁寧な仕事をこなすってことで、エンゼル・○ートって名前したかったんだが、探偵でエン○ル・ハートは拙いだろうってマオに止められたんだ、って言った」
「……」
 中ふ頭駅を超えて港島駅傍のトー○ーストアまで歩くのが私の買物コースだ。それとも今日はお客さんがいるから、奮発してグルメシティで高い食材を買うべきか? でも旅行でけっこうお金を使ったし、此処は料理でカバーをしよう。そこで私は奥田さんに何が食べたいか聞くのを忘れた事に気が付いた。
「奥田さんの、好きな料理はなんですか」
「……カレーとナポリタンスパゲティかな」
 ナポリタンはいいかもしれない。テーブルの中央で大皿に盛って、それを皆で隙にとって食べたら賑やかで楽しいだろうと思う。
 その時、何故かスパゲティの奪い合いを始める狗狼と奥田さんのイメージが、私の脳裏に映画のワンシーンの様に浮かび上がる。大皿に盛られたナポリタンスパゲティの上で、ナイフとフォークがチャンバラの様に激突して火花を散らす。
「……カレーにしよう」
 確か、冷蔵庫には玉葱が二個とジャガイモが半分残っていたと思う。フェヌグリークシー、ガラムマサラやターメリック、クミンシード等の調味料も揃っていたはずだ。
 それにカレーだと何となく特別な料理だと思ってしまうのは私だけだろうか。
 うん、特別にいつもと違うカレーを作ろう。
 私はトー○ーストアに入り残りの必要な食材を買い物かごに放り込む。
「カリフラワー?」
「本当はカレーじゃなくてタルカリってスパイスを使った野菜のおかずなんです。狗狼がネパールカレーの店ではこれもカレーのひとつとして出されているって言ってました」
「む、彼奴、まだ料理の引き出しがあるのか」
 如何やら奥田さんはまだ食べた事の無い料理らしく、何となく私は誇らしい気分になった。
 食材を買って急いで家路につく。そろそろ狗狼が帰って来ているかもしれない。
 倉庫に着くと倉庫脇にはプジョー207SWが停めてあり、狗狼が仕事を終えて帰ってきたことが解った。
「ただいまー」
「おかえり」
 狗狼はジャケットを脱いで、ネクタイも半ば解いた状態でソファに腰掛けて寛いでいた。
「お帰りなさい」
 狗狼の左手には小さなガラス製のグラス、確かショットグラスという名前だったかな、が握られていて、ガラステーブルの上には狗狼愛飲の青い瓶にはいったボンベイ・サファイアが鎮座している。
 如何やら今日は彼の仕事は終わったらしい。
「狗狼、頼まれたものとサービスに今日の食材を買って来たぞ。十分感謝しろ」
「食材をそのまま食べるわけにもいかんだろ、へっぽこ探偵。湖乃波君に料理でも習って御馳走してくれ。それなら感謝してやる」
「ああ? 料理しか能の無い運び屋は感謝する心を持ってないんですか。お前こそ、この子に料理以外の事を教わっておけ」
「おお?」
「ああ?」
 睨み合う黒白の二人。本当に古い友人なのかと疑ってしまう。
「狗狼、奥田さんは買い物を手伝ってくれたから非道な事言わない。三人で仲良く晩御飯を食べよ」
「だ、そうだ。保護者の言う事は聞けよ、狗狼」
「誰が保護者だ」
 狗狼は立ち上がって事務所兼台所の食器置き場からショットグラスを取ると、無造作に奥田さんに投げてよこした。
 奥田さんも難なくグラスを受け取ると、自分でボンベイサファイヤの瓶を掴んでそれに注ぐ。
 ショットグラスに口を付けると、くいっと一息で飲み干した。
「たまにはボンベイ・サファイヤ以外を飲ませて欲しいな」
「じゃあ、スピリタスを開けようか。呑んだらおまえでも天国に行けるぜ、きっと」
「じゃあ、お前の鼻の穴に流し込んでやるよ。ただでさえ目出度い頭の中が更に天国になるぞ」
「何だ」
「何だよ」
 再び睨み合う二人は放っておいて、私は夕食のじゃがいもとカリフラワーのタルカリを作ることにした。
 中華鍋に菜種油を引いた後、フェヌグリークシードを入れて炒める。フェヌグリークシードを真っ黒になるまで炒めて甘い香りが漂ってきた頃に一旦火を止めて温度を下げておく。
 それに玉ねぎを加えて亜麻色になるまで炒めてからターメリックパウダーと塩とじゃがいも、ざく切りにしたトマトを加えて煮崩れするまで炒め続ける。
「お、香辛料の香りがするね」
「そろそろ飲むのを止めたらどうだ。湖乃波君の料理を食べる前に酔い潰れる気か?」
「いやいや、カレー、じゃなかったタルカリか。食べるまでは潰れないよ」
「じゃあ、早口でタルカリを一〇回言ってみろよ」
 私の背後で酒盛りを始めている二人。奥田さんは早口でタルカリを繰り返して言っているつもりだろうが、私の耳にはタカリにしか聴こえなかった。
 そう言えばこの料理を習った際、狗狼はタルカリは「野菜」という意味だったけど、後に「おかず」全般の事を指す様になったと教えて貰ったのを思い出す。
 トマトが原形を留めなくなった頃、カリフラワーとクミン、チリパウダー、ニンニクを加えてから蓋をして蒸し煮にする。
 焦げ付かない様に時々、蓋を取ってかき混ぜながら蒸して、じゃがいもが柔らかくなったら出来上がり。
 狗狼は冷蔵庫からマンゴーとヨーグルト、牛乳を取り出すと、マンゴーの皮をナイフで剥いてからざく切りにして鍋に放り込んだ。ヨーグルトと牛乳、氷を放り込んで泡だて器で撹拌する。
「おお、手が霞んでいる」
 手持ちの泡だて器でハンドミキサーばりの回転力を見せる狗狼に奥田さんの歓声が上がる。
「出来たよー」
「こっちもな」
 やや大振りの器を三つ出して出来上がったタルカリを盛ると、事務所内に香辛料のこおばしい匂いが立ち込めた。
 狗狼も出来上がったマンゴーミルクラッシーをグラスに注いでそれぞれのタルカリの皿の横に並べる。
「へえ、これは御馳走だね」
「そうだろう」
「で、なんでお前がエラそうなんだ。作ったのは湖乃波ちゃんだろ」
「何だと」
 この二人は口を開けば喧嘩しかしないのだろうか。晩御飯をナポリタンにしなくて良かったと実感した。
「二人共、ご飯時に暴れない」
「へい」
「はい」
 二人が大人しくなったので私は両手を合わせた。二人も同じように手を合わせる。
「「「いただきます」」」
 奥田さんは早速、ターメリックが沁みてやや黄色味を帯びたカリフラワーをフォークで突き刺して、珍しいものを見るかのように数秒間、じっと眺めてから口腔に運ぶ。
 目を閉じて味わうかの咀嚼してから呑み込み目を開く。
「へえ、カレーとカリフラワーって相性がいいね。カレー味のサラダを食べている気がする」
「……カレー味のサラダって、褒められている気がしないんだが」
「他にどう表現すればいいのか。適切な語句が浮かばないな」
「サンドイッチにしても美味しいと思う。やってみようかな」
 私の感想に奥田さんがうんうんと二度頷いた。
「同感、お持ち帰り希望」
「お前が作れ」
「食パンが無い」
「冷蔵庫に入ってるから、ホットサンドにしようかな。狗狼、明日の朝食はタルカリホットサンドでいいよね」
「別に構わんが。夕食後に作るのか?」
「うん、奥田さんの分も作っておくよ」
 奥田さんは私の手を取って上下に振る。
「有難う、湖乃波ちゃん。何処かの冷血漢は見習うべきだよね」
「だろうな。ちゃんと見習えよ、奥田くん」
 しらばくれる狗狼。
 見た目は黒スーツに黒の紋様入りネクタイをした普段はむすっとした狗狼と、白スーツにオレンジ色のネクタイをして、茶色の柔らかい髪に何時も笑みを浮かべている奥田さん。対照的で普通は相容れない間柄の様に見えるし、会話も貶しあっている様にしか聞こえないけど、狗狼が他人に対してこんな風に会話する事に私は内心驚いていた。
 いいなあ、こんな関係。狗狼はきっと気兼ねなく会話出来る位、奥田さんを信頼しているんだろう。
 あと一人、神戸市市役所職員の彼はどんな人なんだろうか、と興味を抱いてしまう。
「ご馳走様」
 一番最後に食器を空にした私は、先に食事を終えて奥田さんと自分の使った分の食器を洗っている狗狼に食器を持って行った。
「はい、食器」
「ああ、ホットサンドも作っておくから湖乃波君は寛いでてくれ」
「んー。私も作りたいな」
「そうか。じゃあ冷蔵庫から食パンを出してくれ」
「はい」
 冷蔵庫から食パンを取り出して室温に馴染ませる。
「なあ、パンにカレー味を馴染ませる方が良いか」
「ああ、それで頼む」
 だとするとパンの片面だけを焼いて、内面はバターを塗らずに水分を吸い込む様にしないと駄目だよね。
 狗狼は残りのタルカリの入ったなべを火に掛けて、フライ返しでカリフラワーとかジャガイモをパンに挟み易い様にやや細かく刻んでいく。
 次にフライパンを弱火で火に掛けてから、バターを引かずに食パンを一切れ置いて外側を焼き始めた。直ぐにタルカリを上に載せて平らにしてから、もう一枚食パンを乗せる。
 フライ返しでタルカリを挿んだ食パンを引っくり返して、フライパンの蓋で上から軽く押さえつける。
「よし出来た」
 フライパンから取り出すとアルミホイルで包んでまな板の上に置く。
「どうしてアルミホイルに包むの?」
「パンを切るときに形崩れを防ぐ為だ。こうしておくとパンが上下にずれることなく切り分けることが出来る」
 なるほど、勉強になりました。
 狗狼はアルミホイルの上から食パンを綺麗に切り分ける。断面も滑らかで、さすがブレード呼ばれているだけあると感心する。
「じゃあ、湖乃波君作ってみて。コツはパンの表面を焼いて堅くする時に焦がさない事」
「はい」
 狗狼は切り分けたタルカリサンドを纏めてラップで包んでから奥田さんに渡した。・
「ほれ」
「さんきゅ」
 何だかんだと文句を言っているけど、結局、狗狼は奥田さんに作ってあげている。多分あんな言葉のやり取りはこれまで何十何百回と繰り返した挨拶みたいなものだろう。
 私も狗狼の調理手順を見様見真似で繰り返してタルカリサンドを作る。
 食パンの表面にタルカリを平らに敷くのが意外と難しく、食パンの表面がへにょっと変形してタルカリの厚さに偏りが生じた。それを直している間にフライパンと接している食パンの底面から白い煙が立ち上り、必要以上の焦げ目が出来ていることに焦りを覚える。
「あ、うう」
 急いでタルカリの上にもう一枚の食パンを被せて、フライ返しをパンの底に差し込みえいっと引っくり返した。
 勢いが付きすぎたのか、先程まで底面だった食パンが斜めにずれ込んで具材がフライパンの上に半分ばかり零れ落ちる。
「オウ、シット」
 いつの間にか私の側で見物していた奥田さんが声を漏らして額に手を当てる。
「……」
 気が散るので大人しく座ってて下さいとは言えず、気を取り直してこぼれたタルカリをフライ返しで掬って挟み直す。
 結局、出来上がったのは両面がこげ茶色になったタルカリサンドだった。
 明日の朝、これを食べるのか、と肩を落とす私に狗狼は「いや、カレーパンはこんな色だったな」と慰めているのか貶しているのか判断の付かない感想を述べた。
「大丈夫、食べられる料理は失敗とは言わないね」
 奥田さんもフォローしてくれたけど、食べられないものは料理とは言わないと思う。
 鍋やフライパン、フライ返しなど使用した調理器具を片付け終えて狗狼と席に着くと、奥田さんは背広の内ポケットから封筒を抜き取ってテーブルの上に置いた。
「頼まれた件について調べておいた。複数の聴き取りだから間違いはないと思う」
 狗狼は封筒を手に取り中から一枚の便箋を抜き取る。
「よく手に入れたな。俺と湖乃波君はインターフォンごしでしか話を聞けなかったんだが」
「当然だな。得体の知れない黒背広が同伴してたんじゃあ、同行者が可愛い子でも話はし難いだろう」
「ああ、顔だけのへっぽこ探偵にも使い道があるもんだ」
「……」
「……」
 沈黙する二人。
「「表に出ようか」」
「やめなさいって」
 全く、仲がいいのか悪いのか? 
「それは、何?」
 私が狗狼に受け取った便箋について聞くと、狗狼から帰って来た答えは予想しないものだった。
「あの昨日であった夫婦の亡くなった娘さんが保育施設で働いていたって聞いたから、ひょっとしたら辞める時に、ガキ共と一緒にお別れ会を開いたんじゃないかと思ったんだ。それなら、彼女がこれから何をするのかみんなに説明したんじゃないかとね」
「で、人にものを聞く態度が全然良くない運び屋に変わって、僕が現地で聞き込みをしたわけだ。それで手に入れたのが、彼女が保育施設を辞める前日に、自分の受け持った園児に配った手紙だよ」
私は息を呑んで狗狼と奥田さんの顔を見返した。
なぜ狗狼が奥田さんからその手紙を手に入れたのか。それより彼はこの件は既に終わっていると言って関わることをよく思っていなかったはずだけど。
「少々あの年齢の子には早い話題かも知れないが、彼女が海外で何をして何を園児に伝えたかったのか、それが書かれている」
 私は狗狼から手紙を受け取ると、子供でも読みやすい様に大きな文字で書かれた手紙に眼を落した。
「あの夫婦、この手紙の事を知ってると思うか?」
「父親はとにかく、母親の方は知っているだろうな。娘の遺品として誰かから受け取っていてもおかしくは無い」
 奥田さんの疑問に狗狼が答えた。
 私は読み終えた手紙を折り畳み封筒に戻す。
「でも、この手紙を読んだのなら、あのお母さんは、あのお父さんが反対しても、きっとあの仕事を選んだと解る筈だけど」
 私は手紙を読んだ感想を狗狼に述べた。
 その手紙には昔、母親から買ってもらった内戦の続くリベリアで生きる少年達を写した写真絵本の内容に衝撃を受けて、似たような文献を読み漁っていたこと。そして海外のそんな境遇に置かれた子供達の助けになれるように保母の資格を取る傍ら、語学の勉強にも力を入れていたこと。
 そして児童施設で子供と接しながら、この国の子供達に、いかに自分たちが恵まれているか、海外の一部では同じ年頃の子が想像出来ない様な酷い境遇に置かれていることを教えて上げたいと書かれていた。
 子供達が関心を持ち行動することによって、彼らを救うことが出来る。その方法を帰ってきて一緒に考える為に、彼女は外国へ旅立つのだと、そう文章は締め括られていた。
「娘を思い出すのが辛くて読んでいない。いや、それは無いな。もし、そうならなら、児童施設には近寄らないはずだ」
 腕組みして考え込む狗狼。
「奥田。この手紙は誰から手に入れたんだ」
「保母さんの一人から受け取ったんだ。これと同じものが園児全員にも配られているよ」
「遺品として、あの両親に同じものを渡したかどうかは確認は取れないか?」
「まあ出来るが。一寸待ってくれるか」
 奥田さんは携帯電話を取り出すと何度か番号を押してから耳に当てる。
 暫くして相手が電話に出たのか奥田さんは後頭部に手を当てたり、胸ポケットのボールペンを指で挟んでぐるぐる回したりしながら会話している。
「いえいえ、また顔を出して欲しいなんて、そんな」
 一体、何を話しているんだろう。
「いやいや、そんなことありませんよ。ええ、ええ」
「……」
「……」
 一〇分程携帯電話越しに会話をしているけど、手紙については訊いてくれるのだろうかと些か不安を抱き始めた頃、ようやく「前に訊ねた手紙の事ですが」と切り出してくれた。
 それから短いやり取りの後、奥田さんは満足したように頷いて、携帯電話から耳を離す。「父親にお渡ししただって、て、何だその不満そうな表情は?」
「いや、別に」
 狗狼はぶっきら棒に答えると宙を睨みるける様に見上げる。
「父親が受け取っていたか。なら、何故甘んじて非難を受ける?」
 あのお父さんも手紙を読んだなら、彼女が小さい頃から海外での子供を救う仕事がしたかった事に気が付いているはずだ。あのお母さんの買った絵本を読んだ時からの彼女の願いだったから。
「……狗狼」
「ん」
「お母さんを、傷付けない為かも。あのお母さんの買った本を読んだときに興味を持ったなら、あの人は内心、本を買い与えた事を後悔している。そう思って何も言わないんじゃないのかな」
 うーんと狗狼と奥田さんは腕組みをして首を捻った。
「ならあの母親は黙って耐えると思うな。現に彼女は父親が同意したせいといってるからなぁ」
 奥田さんの意見に私は表情を曇らせる。


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