コメディ・ライト小説(新)

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運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み
日時: 2021/05/15 08:29
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

                       1
野島のじまさん」
「はい」
 私は私の在籍する3年B組の教室から帰宅しようとドアに手を掛けたところを、担任の川田先生から呼び止められて振り返った。
 川田先生は何時も濃紺のスーツを着こなした四〇代の女性で、銀縁の眼鏡を掛けて感情を表に出さない為か厳しい人のような印象を受けるけど、実はとても思いやりのある優しい先生で彼女を慕う生徒も多い。私も実はその一人だ。
「野島さん、先週配布した進学希望者の書類は夏休み明けの前期末テストまでに提出出来るかしら」
 言い難そうに川田先生は私に問い掛けた。
 私はその問いに困ったように目を伏せた。
 この学校は中高一貫の私立女学校であり、普通は中学を卒業すると高校へそのまま進学する。
 しかし、別の高校へ進学したい生徒や理由があって進学したくない生徒も中にはおり、その生徒は、先週配布された進学希望用紙に進学を希望しない理由を記載して担任に提出しなければならない。
 本当は昨日、終業式の一日前に提出する予定だったけど、理由があって夏休み明けに提出することを了承頂いたばかりだった。
 川田先生はその確認で私に声を掛けたと思う。何しろ前期末テストの後には三者面談が控えている。彼女もそれまでにそれぞれ生徒の進路を把握する必要があるから。
「はい、必ず、提出します」
 私は何とか返答した。川田先生はそんな私の顔をじっと見つめてから視線を落とした。
「私は、野島さんには進学することを選んで欲しいのですが、無理強い出来ないわね」
「……」
 川田先生には既に私の希望する進路、卒業して就職することを伝えている。
 だから、夏休みは就職活動に専念する心算だった。
「困ったことがあれば、夏休み中でも構いませんので連絡をして下さい」
「はい、有難う、御座います」
 私は川田先生に一礼して踵を返した。
 少し歩く速度を速めて昇降口へ急ぐ。
 靴を外履きの革靴に履き替えてから昇降口に出ると、人目を引く金髪で長身の女生徒が振り返った。緑色の神秘的な瞳が私を映す。
 彼女は高等部一年生でこの五月から私達は友人として付き合い始めた。
 名前はカテリーナ・富樫。この私立学校の理事の一人が彼女の養母おかあさんだ。
湖乃波このは遅かったね。早く行かないと送迎用のバスが出ちゃうよ」
「あ、ごめん」
 金髪の女生徒の後を駆け足でついて行く。
 学校から山陽電鉄伊川谷駅までの送迎バスがクラクションを二度鳴らす。これは後五分で発車しますという合図だ。
「セーフ」
 彼女と私がバスの冷房の効いた車内に飛び込むと同時に昇降口のドアが閉まる。当然、一番最後なので座席に空きは無く、吊り革に掴まるしかない。
 上に手を伸ばす。背伸びをしてようやく吊り革が掴めた。
最近、背が伸び始めた私だけど、それでも百五十五センチとまだ背の低い部類に属する私にとってバスでの通学はちょっと辛い。どうしても爪先立ちに近いので踏ん張ることが出来ず、バスが急停止やカープを曲がる度私の身体は左右に持って行かれるのだ。マスコットキーホルダーの人形は、何時もこんな気分を味わっているのかな。
 揺らぐ私の身体をカテリーナが支えてくれる。
「あ、有り難う」
「気にしない、気にしない」
 逆にカテリーナの身長は一七二センチあり、女子では背の高い部類に入る。おまけにスタイルも良い。
 学校での彼女は髪形を両側止め、ツインテールに纏めて学校指定のカッターシャツとチェックのスカート、夏用のチョッキと大人しいけど、外出時の服装は女性の私から見ても大胆だと思う。
 先々週に元町までアイスクリームを食べに出ていた時は、黒のビスチェの上にショート丈の皮ジャンを腕捲りして羽織り、黒のデニムのショートパンツを穿いた彼女のスタイルの良さを際立たせる服装であり、長い腰まである金髪をサイドテールに纏めてすらりとした項を覗かせて、何人もの人が彼女を振り返っていた。
 フランスとドイツのハーフの祖父と日本人の祖母が結婚して出来た父親が、アイルランドとイタリアのハーフの母と結婚して彼女が埋まれたそうだ。彼女の日本人離れした美貌とスタイルもそれを聞くと納得できる。
 家族総出で欧州の雑貨を扱う仕事をしていたが、彼女を残して事故で亡くなり、祖母の遠縁にあたる富樫家に引き取られたと話していた。
 私も去年の夏に母を失い独りになった。私自身母を失ったショックから完全に立ち直っていないけど、彼女は母親だけでなく全てを失くしたんだ。彼女が心に受けた傷はどれ程深いのだろう。でも彼女は普段、そんな事を微塵も周りに感じさせず気丈に明るく振る舞っている。
 彼女が私に声を掛けたのも、同じく家族を失った私を気遣ったからかもしれない。
「湖乃波は夏休み、どうするの?」
「ん」
 カテリーナが目を輝かせて聞いて来る。きっと行動力のある彼女は夏休み期間限定のイベントやスイーツ等を既に調べていて明日からそれらを満喫すると思う。
 でも私は残念ながらその魅力的な企画に付き合う時間は無い様な気がする。
「私は、中等部を卒業したら、安い公立高校に進学か、就職するから、その事前準備だよ」
 そう、川田先生の心配するように、私はこの夏休みでこれから先、自分は来年からどう生活するのか決めなくてはならない。
「中学卒業までは狗狼くろうが、学費とかの、金銭面の面倒を見てくれるけど、それ以降は自分で生活しないと、いけないから」
「そっか、湖乃波はここの高等部に進学しないんだ。狗狼は進学しない事を知ってるの?」
 カテリーナの問い掛けに私は頷いた。

 私は今年の4月、母の亡き後、ずうずうしく我が家に転がり込み居付いた叔父に借金の形として売り飛ばされるところだった。
 その私を叔父に依頼されて受取先まで運んだのが、私の今の保護者で運び屋を営むいぬい 狗狼だ。
 彼は道中半ばから叔父が行方を晦ませたので、私を叔父の借金回収に訪れた人達に渡して報酬を受け取ろうとした。
 しかし彼等は報酬を支払う義理は無いと狗狼の要求を突っぱねたので、狗狼は私を彼等に引き渡さずにそのまま逃亡。
 叔父が私と母の住んでいた家や家具を一切合財売り飛ばして、その金を持ち逃げした為、私は家無し、金無し、身寄り無しの三無い状態で、もう何処で死のうかなと考えていた。けど、狗狼が、私を借金取りに引き渡す叔父からの依頼を果たさなかったから違約金を払わなければならないが、素寒貧で手持ちがないので私を中学卒業までの一年間面倒を見るってことで許して欲しいと申し出て来た。
 狗狼が私を助ける為に違約金の話を作り上げたのか、それとも元からそんなルールを彼が決めていたのか。ただ私に断る理由は無く、その申し出を受け入れた。
 本来なら、彼は運び屋で裏稼業を生業とする闇社会ダークサイドの住人で、本当に信用すべき人物でないのかもしれない。
 でも私は彼の申し出を聞いて安堵した。そして嬉しかった。不覚にも涙を流しながら思った。彼は信用出来る人だと。叔父と同じ世界に属しているが、心は全く違う人だと、そう思った。
 そして狗狼と住居に改造された倉庫での共同生活が始まり、私は色々と彼から学んだ。
 意外な事に彼は料理が出来る。出会った頃、彼は仕事中にサンドイッチやカロリーメイトしか食しておらず、食に無頓着な人かと思ったけど、立ち寄った隠れ旅館(のような場所)での彼の作った料理は、夕食、朝食共にこれまで味わった事の無い美味しいものでとても驚いた。
 ママも料理が得意だったけど、そういったレベルでは無くシェフと呼んでも差し支えが無いと思う。
 私が狗狼と共に暮らすことになり、初めて作った料理が旅館定番メニューの御飯、ほうれん草の御浸し、卵焼き、豆と人参と揚げの入ったヒジキ、麩となめこの味噌汁、そしてこればかりは店で購入したアジの味醂干しだった。
 彼に教えてもらいながら作った料理が、自分が本当に作ったのかと疑いたくなるくらいに美味しかったことを覚えている。
 それ以来、私は週末に新しい料理を狗狼に教えてもらう事が楽しみとなっていた。
 また彼は洗濯やカッターシャツやスラックスのアイロンのかけ方を教えてくれた。クリーニング屋等ではカッターシャツ全体に糊を利かせているが、本来カッターシャツは下着替わりなので肌触りが良くなるように皺を伸ばすだけにしておき、糊付けするのは襟と袖口、ボタンのの袷部分だけだそうだ。
 そういえばカッターシャツでびっくりしたことがある。
 狗狼は何時も黒の背広とカッターシャツ、黒地に黒のラインの入ったネクタイを着用しているが、実はそれだけしかない。
 彼の衣装はハンガーに掛かった白いカッターシャツと黒いスラックスが4セット、後は黒のTシャツとトランクス、ソックスが数枚。黒のジャケット一着それだけだ。
 彼がソファア兼ベッドで眠る時もカターシャツとスラックス姿であり、パジャマを着ないのか聞いてみると「面倒臭い」と答えが返って来た。シャツやスラックスが皺になることを気にしないのだろうか。
 そして彼は口数が少なく、私と一日に交わす会話は朝の挨拶、夕食の準備時と夕食の出来栄えの感想。後はお休みの挨拶、その程度だ。
 会話の少ない理由のひとつに私が極度の人見知りということだ。
 初対面の人とは話すときに緊張してしまい、うまく離せそうになくつい黙ってしまう。
 学校内で話しかけられたとき、相手に対して失礼なことを言ってしまわないか、不用意な発言で傷付けたりしないか気になってしまい、つい短く「はい」や「いいえ」「そう」などの受け答えしか出来なくなってしまった。
 その結果「クールビューティ」とか意味の分からない渾名を付けられてしまい誰も話しかけることが無くなってしまった。
 それが、狗狼との生活ではお互い口数が少ないこともあり気にならないのだ。
 何故か狗狼相手では身構えたりせずに、思うまま話すことが出来ることが不思議に思っている。
 そんな彼にも二つ問題が有り、ひとつはお金に無頓着な事だ。狗狼は金が有れば使う主義であり、悪く行ってしまえば浪費家だ。服や物にお金を使わない代わりに、ふらりとお酒を飲みに出て行ったきり二、三日は帰って来ない事が有り、帰って来ると素寒貧になっている。で、起きがけに「金が無い」と後悔するように呟いている。
 なので、今は私がお金の管理をして彼に「お小遣い」を渡すようしている。彼には言い分があるようだけど、私達の生活費と月々の学費を確保する為に我慢するように説得すると気圧されたように二度頷いて了承してくれた。
 もうひとつは女性に関する事だ。狗狼と二ヶ月間共に暮らしているけど、どうも彼は女性に弱いのではないか、と思う時がある。
 特に二〇代後半から三〇代後半までの女性が気になるようで、買い物に狗狼と一緒に出掛けて歩きながら会話していると、彼の返事がぞんざいな時がある。その時は狗狼の向いている方向を見ると美人が歩いていることが多い。彼は何時もサングラスをしているので見ていることはばれていないと思うけど。
 そういえば、先日トラブルに巻き込まれたのも仕事で関わった同業者である静流さんを助ける為だったような。いつかこの人は女性で身を滅ぼすんじゃないだろうか。
 そんな風に狗狼と毎日を過ごしていて、私は何となく毎日が楽しいと思ってしまうのだ。
 何事もない毎日が癒されているのを感じている。ママを失ってから失われていた日常が戻ってきている。そしてそれがずっと続いていて欲しい。
 狗狼との契約の切れる来年の四月まで続いて欲しいのだ。

 そして今、問題になっているのは彼と契約してから一年後の事で、狗狼が責任を果たした以降の私の身の振り方についてだ。
 実は先週、私は進路について狗狼と話した。
 私は高等部へは上がらず、中等部卒業後は別の公立校への進学か社会に出て働きたいと彼に伝えた。
 本来なら狗狼には関係ない事だが夏休み明けの三者面談では彼も顔を出すので伝えておかないといけない。
 狗狼は「まだ早いと俺は思うよ」といって高等部進学を勧めた。せっかく学校が良いカリキュラムを用意しているのに利用しない手は無いというのが彼の主張だ。
 それで目下、最大の問題点、
「授業料は、払えるの?」
「払うさ」彼は堂々と答えた。私は結構家計が苦しいのを知っているので、どうしても信じられず払う当てはあるのか尋ねると、彼はきっぱりと答えた。
「無い!」
 誰か彼の頭の中を掃除して下さい。

「私は、これ以上、狗狼に迷惑は掛けたくないよ」
「うーん、そうだよね。湖乃波と狗狼は本来は全くの赤の他人だもんね」
 カテリーナが困った様に呟いた。私はその言葉に胸の奥で痛みを覚える。
 狗狼と私は赤の他人。それが少し悲しい。
「そっかー、湖乃波のキレイカワイイ姿もひょっとしたら今年で見納めかー。うん、ここで有難く拝んでおこ う」
 彼女は揺れているバス内に居るのにもかかわらず両掌を合わせて私を拝み始めた。
「ありがたや、ありがたや」
「こんなところで拝まないでよ」
 山陽電鉄の伊川谷駅にバスが到着したので、私達は電車に乗り換えて何時もなら私は阪神三宮駅まで乗り、そこからポートライナーに乗り換えて中埠頭倉庫で降りる、カテリーナは岩屋で降りて自宅まで徒歩で帰っている。
 でも今日は終業式だけで午前中で学校が終わるから、狗狼は昼食をカテリーナと一緒に取ったらどうかと提案してきた。
 私は家計の事も考えて別にいらないと突っぱねたけど、狗狼はその店は自然食を主とした料理を出す所で、どのような昼食が提供されているのか見に行ってほしい。そう頼んで来た。あと、一学期を頑張った私へのご褒美も兼ねているらしい。
 阪神三宮駅からJR三ノ宮駅へ抜けて北野坂へ上がる。ふと思ったけど、阪急と阪神は三宮駅だけど、どうしてJRは三ノ宮なんだろう。
 坂の途中で「魔女の宅急便」の絵本のイラストみたいなBarの看板を見つけた。猫が箒に跨った少女のワンピースの裾に掴まっていて何だか可愛い。
 山手幹線を横断して中山手通を上がると、徐々に坂の傾斜がなって来る。駅から徒歩一〇分程度の距離だけどずっと上り坂なので、実際より距離を長く感じた。
「あ、ここだよ」
 狗狼から渡されたメモに記された店名を見つける。
 白いこじんまりとした店内の右側が地元の食材販売店、左側が併設されたカフェになっている。
 販売している食材は、スーパーマーケットより多少割高だけど瑞々しい色の野菜や、あまり見た事の無い調味料を見ていると、これで何が出来るだろうと想像して楽しみたいけど、今日はカテリーナもいるので残念だけどほどほどにしてランチを楽しむことにする。
「ねえ、湖乃波。あれ、美味しそう」
 カテリーナがガラスケースの中にあるイチジクのキッシュを目敏く見つけて私の袖を引っ張る。
 ガラスケースの隣にはレジが有り、その前には小柄なお姉さんが(といっても私より背は高いが)おっとりとした笑みを浮かべて佇んでいた。
 レジの横の台には「本日のランチ」と書かれた小さいボードが立て掛けられていて、今日は「季節野菜のワンプレート御飯」だった。
「あの、お昼を、食べたいん、ですけど」
 私はレジ係のお姉さんに声を掛ける。うう、知らない人と話すのはやっぱり緊張する。
「はい、日替わりランチですね。組み合わせはどうしますか?」
 お姉さんは吊るされたボードのひとつを手で示してくれた。いろいろあるけど、豆腐の味噌汁とほうじ茶ラテを組み合わせる事にした。
「ひゃっ」
 いきなり背中を突かれて私は変な声を出してしまった。何するのカテリーナ。
 目を丸くするお姉さんに何でもないと愛想笑いを返してから振り返った。
「何、びっくりしたよ」
 カテリーナはゴメンゴメンと手を翳して謝ってからガラスケースの中指差して、「イチジクのキッシュはデザートに出来ないかなぁ」と小声で訊いて来た。
「……」
 狗狼から渡された昼食代はまだ余裕がある。イチジクのキッシュを注文してもまだお釣りが出る金額だ。
 でも、デザートは昼食に含まれるのか否か、それを私は悩んでいる。普段の私なら無駄遣いだと拒否するけど、今日ぐらいはいいのではないかと、そう思わせるオーラをイチジクのキッシュは放っていた。
「あの、あとイチジクのキッシュを、お願いします」
 言ってしまった。狗狼、御免なさい。
「はい、ほうじ茶ラテとイチジクのキッシュは食後に致しますか?」
「はい、お願いします」
 背後で小さく手を叩くカテリーナの気配を感じながら私は頷いた。うん、たまにはいいよね。カテリーナには何時も心配かけてるし。
 カテリーナの提案で、屋外のテーブルで食べることにする。
 出口のすぐ脇にある4人掛けのテーブルは、丁度屋根の影に隠れて夏の日差しかを受けにくい所に配置されていた。椅子に腰かけると、吹く風に汗が引くのを感じる。
「涼しいね」
「そうだねーっ。これで料理が美味しければ言うことないねーっ」
 セルフサービスのお茶で喉を潤しながら呟いた私にカテリーナが同意した。彼女はイチジクのキッシュが楽しみなのか終始笑顔だ。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.1 )
日時: 2021/05/15 08:42
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 私はテーブル脇の出口から店内を覗く。
 店内のテーブルとカウンター席は全て埋まっていて、全員何故か女性だった。買い物の途中に立ち寄ったとか、近くの店の店員さんなのだろうか。皆、何となくお洒落な雰囲気を纏っている。
 店内の出口間際の二人掛けテーブルには茶色のウエーブの掛かった髪に、銀縁の鎖の付いた眼鏡を掛けた女性が、緑色のシステム手帳を開いて気だるげに眺めていた。クリーム色のブラウスと薄い茶色のサマーカーディガン、手首に付けたブレスレットが小手茂に合っている。
 ふと、目が合ってしまい私は慌てて目を逸らす。彼女が笑みを浮かべたように見えたのは気のせいかな?
「お待たせしました、本日のランチです」
 やや大ぶりの皿の中央に御飯が盛られて、それを揚げられた茄子とオクラ、茹でたジャガイモ、色鮮やかな豆と乾物で和えられたヒジキ、ドレッシングかソースをかけたミニトマトと胡瓜、ざく切りにされたズッキーニが囲んでいる。側の椀には赤みその中に豆腐が浮かんでいてとてもいい匂いがする。
「いただきます」
 私とカテリーナは二人同時に手を合わせて合唱した。
 先ずワンプレートランチの揚げたズッキーニを食べてみる。
 甘くて美味しい。
 私は何時もオクラは茹でてサラダに装っているが、この揚げオクラの食感はまた違ったシャキシャキ感が有り、オクラから滲み出る粘つきのある汁が何時もより濃く感じる。
 ヒジキ和えを皿の中央に盛られた御飯に載せて口に運んだ。これも狗狼に教えて貰ったヒジキ和えとはまた違った味がする。出汁が何か違うと思う。
 狗狼の作る出汁は昆布と鰹節のシンプルなものだけど、このヒジキ和えに使われている出汁は別の食材が混ざっている。椎茸かな?
 カテリーナはズッキーニに舌鼓を打っている。
「あ、これいい。固いと柔らかいの丁度中間って感じがする。うん、其々の食材の味が嫌味にならない程度に残っているよ。これ食べ易いわ」
 如何やらカテリーナの口にも合うようで、私達はワンプレートランチと豆腐のお味噌汁をあっという間に平らげた。うん、堪能した。
「すみませーん、イチジクのキッシュとほうじ茶ラテお願いしまーす」
 私が頼むより早く、カテリーナは店の奥に向かって声を掛けた。美味しい御飯を食べて、イチジクのキッシュへの期待は弥が上にも盛り上がる。
「イチジクのキッシュとほうじ茶ラテをお持ちしました」
 レジ係をしていたお姉さんが、一見するとコーヒー牛乳の色に似たほうじ茶ラテとイチジクのキッシュを木目の鮮やかな盆に載せてテーブルの乗せて隣に立った。
「貴方達、ひょっとして学校帰り?」
 私が頷くとカテリーナが説明してくれた。
「はい、今日は終業式で、早く終わるから、特別にここでお昼ご飯を食べてきたらと、勧められたんです」
「そうだったの。何時もは近くの会社員や店員さんとか、買い物帰りの近所の奥さんがお客さんだから、学生さんが来てちょっと驚いたの」
「はい、私も坂を上がったところに、ファーマーズマーケットがあったのには、驚きました」
 私の返答に店員さんは品の良いコロコロとした笑い声を立てた。
 ほうじ茶ラテの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「ここはね、私達と地元の農家さんが東遊園地で毎週土曜日に開いているマーケットに来れない人の為に開いたものなの。それにこの店のランチは食材廃棄ゼロを目指して売り場にある食材の身を使って作ってるの。それを食べてくれた人達が食に対して何か考えてくれたら私達は嬉しいわ」
「……」
 何となく狗狼がこの店を選んだ理由が解った気がする。
「あ、食事の邪魔をして悪いわね。ゆっくり味わって食べてね」
 軽い音を立ててテーブルの上に並べられたイチジクのキッシュはベイクドチーズケーキの様な色合いで、食後のデザートに相応しいものだった。
 カテリーナと同時にキッシュにフォークで切れ込みを入れて一口頬張る。
「これ、キッシュじゃなくケーキだよね」
 カテリーナの感想に同意して頷く。
 小麦粉が甘い。イチジクが甘い。一口食べるごとに余韻を味わってしまう。いいなあ、私にも作れるかな。
 終業式を終えた昼、坂の途中の小さな店で夏の食材を生かした料理を味わう。一学期を頑張った私への狗狼からのご褒美。狗狼がこの店を選んでくれたことを、私は素直に感謝しよう。
 ほうじ茶ラテの茶葉を燻り焦がしたような味と香りを楽しんだ後、カテリーナと私は店を後にした。
 お小遣いを貯めて秋にも寄って見たくなった。その時はどんな食材が、どのように調理されて出てくるだろう。ものすごく楽しみだ。
「ご馳走様、湖乃波。すごく美味しかった」
 カテリーナもあの店が気に入ったようで、満面の笑顔を私に向けた。うん、カテリーナが喜んでくれてとても嬉しい。
 坂を下りて三宮駅へ向かう。やっぱり夏の日差しはきつく、七分ほど歩くと私とカテリーナの額に汗が吹き出す。
 私はポートライナー、カテリーナは阪神電鉄。三宮を二人で遊んだ時はJR三ノ宮前のターミナルで何時も別れている。
「進路で困ったらどんなことでも電話してね。相談に乗るから。あと夏休みの予定が空いたら教えて」
「……うん」
「うーん、心配だなぁ」
「大丈夫、だよ」
 何度も振り返り手を振るカテリーナが改札を抜けるまで見送った後、私は大きく息を吐いた。
 カテリーナは私の数少ない友人だ。何時も私を気に掛けてくれる。
 学校では彼女は大人しいお嬢様然とした態度を取っており、彼女本来の活発な面は彼女の家族と心を許した一部の人しか知らないらしい。
 もし私が高校進学を諦めて就職したら、彼女と会う機会が減り迂遠になっていくのだろうか。そしていつかばたりと合わなくなるのかもしれない。それは嫌だ。
 私は改札に背を向け歩き出した。今日は三宮のダイ○ーかポートピアのトー○ーストアのどちらで夕飯の買い物をしようか考える。
 今日はまだ時間もあるし両方まわろうか。珍しい食材はダイエーで、その他は中埠頭駅で降りてトーホーストアまで歩いていこう。帰りも歩いて倉庫まで帰ることにする。
 私は三宮駅の階段を上がり、ミント神戸を右手に見ながらダイエーへと向かった。

 
 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み

                     2

「ただいま」
 玄関の鍵が開いていたので狗狼が帰って来たようだ。私はドアを開け乍ら声を掛ける。
「……」
 返事は無い。
 扉から五〇センチ奥に簀の子が置いてあり、そこまでが玄関で、簀の子の上には私用の白いスリッパと来客用の茶色いスリッパが置かれている。狗狼のスリッパは無い。彼はスリッパを履かずにそのまま靴下で過ごす。倉庫だから三和土の様な段差は無いので、扉を開けると野外からの風に乗って外の塵や埃が直接室内に入って来て、掃除が非常に手間が掛かって困る。狗狼もスリッパを履かないと直ぐに靴下が汚れるのを解って欲しい。
 いた。
 来客用兼私達の食事の場であるガラステーブルの手前に置かれた黒いソファーから、黒のスラックスを穿いた片足がニョキッと突き出していた。背もたれから覗き込むと、狗狼はソファーの上に寝転んで昼寝の最中だった。。
 先日、あまりにも彼の寝起きの癖毛の跳ね上がりが酷いので襟足から切ってあげてさっぱりとした印象になった。
 寝息に彼の胸が上下する。
 彼の黒背広は来客用のソファアに掛けられていて、彼が仕事から帰って来て直ぐに眠りに落ちた事を物語っていた。
 いつ帰って来たのだろうか、腕枕をしているので目が覚めると痺れて感覚が無くなってしまわないか心配だ。
 運び屋である彼の仕事時間は夜間が多い。夕方に出かけて早朝に帰って来る。そんな生活をしているので、実際、狗狼と私の会話する機会は非常に少ない。
 狗狼も私も積極的に会話するタイプではないので、日曜日の食事の用意以外は会話に切っ掛けを探すのに切っ掛けを探すの意に苦労している。
 それで、結局、
「背広をハンガーに掛けて」
「ドアに鍵を掛けて」
倉庫内なかで煙草を吸わないで」
 とか、小言が多くなってしまう。
 誰か上手な会話の始め方を教えて下さい。
 狗狼を起こさないように、そっと静かにガラステーブルの上へ買い物袋を置く。
 今日の夕食は先々週ならった野菜のフォーと挽肉と人参の揚げ春巻き、鶏のレモングラス御飯に挑戦することにした。フォーのスープをいかに再現するかが今日の料理の肝と思う。
 そう言えば狗狼と一緒に夕食を取るのも久し振りの様な気がする。
 ああ、そういえば明日から夏休みだから、朝、昼、晩とも狗狼を食事する事が増えるんだ。よし、この機会だから料理のレパートリーを増やしていこう。
 ひょっとしたら卒業後の就職にも有利になるかもしれないし。
 自分でも意外なほど狗狼との食事を楽しみにしていた事に驚きつつ、私は肉類を追一旦冷蔵庫に収める。この倉庫はそれほど冷房が利いていないので、夏場は短い時間でも生物を冷蔵庫へ入れておくことにした。
 スープの準備をする為、大根を手に取って皮を剥こうとした時、ふと昼ご飯時に小柄な店員さんと交わした会話を思い出した。
 食材廃棄ゼロ。大根の皮を剥かずに煮込んだら味は変わっちゃうのかな? 玉葱は表面の外皮だけを向いて使う事にする。生姜も同様丸ごと使う。
 コッフェル(何故か置いてある)に水を入れて、仔牛の骨付き肉、鶏ネック、野菜を放り込んで中火で二時間煮てスープを作る。その間に人参と挽肉の揚げ春巻きを作ろう。
 玉葱、きくらげ、人参、大蒜をそれぞれみじん切りにして豚挽き肉と混ぜ合わせる。短く切った春雨を添えてライスペーパーで巻く。
 巻いたら両端を水で溶いた片栗粉を塗ってくっ付ける。
 二本目までは上手く巻けずライスペーパーから具が零れたり、変に力が入りぺしゃんこになったりしたけど、三本目からは形が整って五本目で理想的な形になった。
 慣れてくると中々楽しく、十二本ほど作って一息つく。これくらいあればいいかな。
 中華鍋に菜種油を入れようとしたところで、ドアをノックする音が聞こえた。
 最初は小さく二度、その後少し強めに二度。
 私はエプロンを掛けたまま、狗狼を起こさない様に少し急ぎ足でドアへ向かった。
「はい、どちら様でしょうか」
 つい、勢いよくドアを開けてしまった私に驚いたのか、お客さんは僅かに仰け反って私を見下ろした。
 ややくすんだ赤毛のショートカットに、まつ毛の長い切れ長の眼をした少年のような風貌の綺麗な人だった。
 狗狼とはまた違った意味で黒のスーツが似合っている。
 私はドアを開けたまま、お客さんは僅かに仰け反った姿勢で暫くお互いを見つめ合っていたけど、彼、彼女? は気を取り直した様に咳払いしてその青い瞳で私を見返した。
「そうか、子供を引き取ったって言ってましたね」
「は、はい、私です」
 私は慌てて頭を下げる。
 お客さんは慌てる私に苦笑して手で制した。
「ああ、そんなに恐縮しなくていいですよ。私はそんなに偉い訳じゃない」
 お客さんの澄んだ声は女性としか思えないけど。
「彼奴は普段、人と距離を置きたがるのに妙なところでお人好しになるから。結構危なっかしい奴だけど仲良くしてあげて下さい」
「?」
 何処か懐かしそうに語るお客さんは、私が話題について行けず目を丸くしていると、我に返ったように裏返った声を上げた。
「あ、ああ、今言ったことは忘れて下さい。くろ、ブレードには内緒でお願いします。それで、く、違う、ブレードは居ますか? フランコが頼みたい用件があると伝えてほしい」
 何故か顔を赤くして慌てているお客さん。
 フランコだから男の人、女の人はフランカだし。
 学校で習ったイタリアの性別による名前の違いを思い出しながら私は狗狼を起こそうとして倉庫内へ振り返った。
「……騒がしいと思ったらフランカか。何か用か?」
「……」
「……」
 目が覚めたのかソファーから上体を起こし、何時もサングラスの奥に隠れている何処か眠そうな半眼を更に眠そうにしながら問い掛ける狗狼を私達は見返した。私は「この人は誰?」の問い掛けで。お客さんは何故か抗議するように半眼で狗狼を睨み付けている。
「……あ、悪い、フランコだったな」
 お客さんの視線の意味に気付いたのか、狗狼はばつが悪そうに髪を掻き上げてからガラステーブルの上に置かれた煙草ケースを手に取って一本抜き取った。
 アークロワイヤル・ワイルドカード。
 黒地の箱にオレンジ色の表示が特徴的なこの煙草は、火を付けると珈琲の甘い香りが漂い、国産の煙草と違い傍で喫煙されても煙草臭さを感じない。
 私にとっては狗狼の匂いはこの煙草の匂いだった。
 ただ、煙草臭くなくともニコチンもタールも煙には含まれているので、室内の喫煙は遠慮して欲しい。
 ワイルドカードを火を付けずに咥えたままソファーから立ち上がる。
「で、何の用?」
「ちょっと、VIPを迎えに行って欲しいんだ。私が迎えに行くつもりだったけど、急遽ジョルジュが欠勤で私が店に入らないといけなくなった。今日は本国のお客さんが視察に来るので、皆、準備に手が塞がっています。済まないけど信頼できる送り迎えの運転手が必要だから仕事に入ってくれませんか」
「ふーむ」
 狗狼は即答せず宙を仰いだ。
「そのVIPが店に居る間は駐車場で待機か?」
「はい」
「……」
 狗狼はガラステーブルの上の荷物へ視線を向けた後、火に掛けられたコッフェルへ向けた。
「……」
 諦めたように息を吐いた後「まあ、フランコの頼みなら仕方ないか」と呟いた。
「済まない」
「構わんよ。仕事があるのは有難いしな」
「そうか」
 狗狼はソファーの背もたれに掛けた黒色のジャケットに腕を通してから私を振り返る。
「済まないな、湖乃波君。先に食事を済ませてくれないか。多分帰りが遅くなる」
 私は気にしていないと手を振った。
「ううん、仕事だから、仕方ないよ」
 私の仕草に何を思ったのか、狗狼は苦笑して「出来るだけ早めに帰れるよう努力する」と背を向けた。
 本当は一緒にご飯を食べて、夏休みの事、今日の昼ご飯の事、中等部卒業後の進路の事、いろいろ話したいことがあった。
 でもそれは仕方ない事だと判っている。
 狗狼は自分一人では無く、私を養う為にお金を稼がなければならない。だから私は我慢出来るところは我慢しないと。
 倉庫のドアが開いてお客さん、フランコさんを追う様に狗狼が外に出る。外には濃い赤色、ワインレッドの少し小振りな車が止まっていた。フランコさんの車だろうか。そうならば彼女には良く似合っていると思う。
 後に狗狼に聞いたけど、その車がアルファロメオのミトという車だと教えて貰った。
 ドアが閉じて暫くそれを見つめていた私は、気を取り直して料理の続きに取り掛かる。
 中華鍋に菜種油を入れて火に掛ける。油用の温度計で一五〇度に達したところで春巻きを中華鍋に放り込む。低温から徐々に温度を上げていって中まで火に通すと美味しく出来上がるって狗狼が教えてくれた。
 薄い茶色に揚げられた春巻きを、中華鍋から引き揚げてキッチンペーパーの上に並べる。これで揚げ春巻きは出来上がり。
 レモングラス、生赤唐辛子、大蒜をみじん切りにして、鶏のモモ肉に塩と一緒に刷り込む。それを一時間ぐらい寝かせて味を馴染ませる。
 ブロッコリーは軽く茹でて、人参と玉葱、ピーマンは細切りにして軽く炒めて胡椒で味付けをして下準備をした。
 寝かせた鳥のモモ肉をフライパンで皮の方から焼いて、しっかりと焦げ目をつけてから引っくり返して裏側も焼く。
 それをある程度覚ましてから適度な大きさに切ってから、皿に持った御飯の上に胡瓜とトマトと一緒に盛る。はい、鶏のレモングラス御飯出来上がり。
 茹でたフォーをブロッコリーなどの茹で野菜と一緒に碗に入れて、出来上がったスープを注ぐ。ヌクマム(東南アジアの魚醬)を数滴、半分に切ったウズラ卵を添えて野菜のフォーの出来上がり。
「……」
 出来上がったけど、何か足りない気がするのは何故だろう。
 二人分の食事の用意を終えて私は席に着く。
 狗狼は時間があるときには、私が学校に行っている間に夕食の準備をしてくれる。そんな時、彼も今の私と同じ気分を味わっているのだろうか。
 今、十八時五十二分。夕食にはちょうど良い時間。それとも學校から出された夏休みの課題に取り組んで狗狼の帰りを待とうかな。
 うん、明日から夏休みだから多少食事が遅くなっても問題ないし、狗狼を待つことにしよう。
 倉庫の奥の自分お部屋から通学用の鞄を取って来て、今日配られた課題のプリントに目を通す。
 フランス語講師拳受付嬢の美文さんから配られた課題に目をやって私は目を疑った。
 古文の兼代かねしろ先生と英語担当のキャロル・カーバイン先生の名前もそこに書かれており、「源氏物語と枕草子の共通点を探し出し、それを英語と仏語でそれぞれ四百字詰め原稿用紙一〇枚以内に纏めて提出する事。ワープロソフト及びネットでの提出不可。手書きのみ提出を受け付ける」と記載されていた。
「……」
 文の最後には「皆、夏休みだから頑張って」と付け加えられている。
 私は人差し指を額に当てた。
 枕草子は小学校の頃、呼んだことがある。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.2 )
日時: 2021/05/15 08:57
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 源氏物語は小学校の教科書に一部記載がされていたものに目を通しただけだ。
 多分、この課題の発案者は美文さんと思う。
 彼女は亜麻色のセミロングの髪にレンズの大き目な銀縁の眼鏡を掛けたふんわりとした微笑みをいつも浮かべている人で、この学校の理事の一人でカテリーナの母親である富樫久美(とがし くみ)理事とよく行動を共にしている。
 問題は美文さんの出す宿題は古文の兼代先生曰く「外見菩薩、中身は明王」と言わしめるほど難易度が高く、クラスメイトの恐怖の対象となっている。
 この夏休みの課題を片付けるには次の作業が必要となり、非常に手間が掛かるに違いない。
 まず、枕草子と源氏物語の古文を読破して内容と文体を理解しないといけない。枕草子と源氏物語の文章の内容の共通点か、書かれた時代背景についてか、それとも古文の文体に付いてか、それについては一切記載されていない。
 次に英訳する事。内容の共通点についてなら、それぞれの英訳本が発行されているのでそれを参考にすればいいけど、時代背景や古文仮名遣いについてなら難易度はぐんっと跳ね上がる。
 更に仏語、こうなると内容の共通点の記載だけでも手間取ってしまう。古文についてはどうするの? と言いたくなる。
「……」
 美文センセ、容赦が無いよ。
 取り敢えず明日は青年図書館に寄って枕草子と源氏物語を借りてこよう。
 私は今直ぐ出来る数学のプリント取り出してそれに没頭した。
 倉庫をライトが照らして車のエンジン音とブレーキ音が響いたのは一〇時過ぎ、三時間程宿題に専念していた私は、科学のプリントを脇にどけてソファーから腰を浮かせる。
 ん、一寸待って。
 私は一旦、動きを止める。
 このまま玄関まで迎えに出たら、私はまるで主人の帰りを待っていたペットの犬みたいじゃないか。それはちょっと恥ずかしい。
「えーと」
 どうしようか迷い、取り敢えず料理を温めておくことにした。偶々、料理を温めている最中に狗狼が帰って来た。そういう事にしておこう。
 スープを火に掛けると共にフライパンに油を引いて、レモングラス御飯の鶏のモモ肉に火を通す。
「ただいまー」
「んっ、おかえり」
 ドアをくぐった狗狼へは視線を向けず、私は手元の鶏肉へ目を落としたまま返事を返した。
 沓脱の簀の子の手前で足音が止まる。
「あ、晩御飯まだだったんだ」
「うん、先に、夏休みの宿題してた。晩御飯は食べた?」
「いや、お客が帰るまでずっと駐車場で待機さ。向こうで賄いを勧めてくれたけど車の中で食事をすると、革シートに匂いが移るんで遠慮したよ」
 よかった。これで狗狼が先に食事を済ましていたら、待っていた私がまるっきり馬鹿になってしまう。
 温め直した晩御飯を二人分ガラステーブルの上に並べる。
 狗狼は紙袋をガラステーブルの上に置いてから無造作にジャケットをソファーに引っ掛けたので、私は無言で壁に掛けられたハンガーを指差した。
「はーい」
 狗狼はハンガーにジャケットを掛けてから黒のごみ袋で作ったジャケットカバーを被せる。これは料理の匂いが背広に付くことを防ぐ為に私が作ったものだ。だからちゃんと活用して欲しい。
「その紙袋、何?」
 私は先程から気になっていた事を席に着いた狗狼に聞いた。
「お土産」
 狗狼は紙袋の折り畳まれた口を広げ、中からアルミホイルに包まれた人差し指ぐらいの大きさのものを四個取り出した。
「今日の晩御飯がベトナム料理だから、ティエンさんに電話して仕事帰りに受け取って来た」
 アルミホイルを開くと、細長い表面が薄茶色のものの表面に砕いたピーナツがまぶしてある。私はそれが何であるか一目で見抜いた。
「あ、揚げバナナ」
 私の好きなもののひとつだ。
 先月、狗狼は仕事の打ち合わせのついでに、私にベトナム料理を食べさせようと店に連れて行ってくれた。
 その時に注文した料理が鶏肉のフォーと海老の生春巻き、茹でブロッコリーと魚の炒飯で、スープの薄味ではないけどさっぱりとした食べ易さと、初めて味わう料理と甘酸っぱいタレの組み合わせに驚いていると、デザートの揚げバナナがテーブルに置かれた。
 その揚げバナナを口にすると、衣のサクサク感と塗された細かく砕かれたアーモンド感触の中に温められることによりさらに甘くなったバナナの味が広がって、特上のデザート感が増している。うん、これは何本でも食べれそうと思った。
 ティエンさんはセンタープラザの地下街にベトナム料理の店〈パイン ミー ティット〉を開いている五十代のベトナム人男性で狗狼の客の一人だ。
 店名〈パイン ミー テイット〉はティエンさんが神戸の公園の駐車場で屋台を開いていた時に作っていた料理で、日本ではベトナムバゲットサンドと紹介されている。
 狗狼とはその頃からの知り合いらしく、まだ屋台での売り上げが芳しくなかった頃、狗狼がテイクアウトを提案して手伝ってくれた御蔭で採算が取れるようになったと教えてくれた。
 その時の狗狼は報酬はいらないのかと訊ねると、「昼に一本貰っているからいいよ」と頑として金銭を受け取らず、ただ同然で愛車のメルセデスベンツA190で公園から離れた山の手通りや湊川の喫茶店、時には西宮まで配達したらしい。
 その後、ティエンさんの屋台の経営が軌道に乗り始めた頃に本国の組織との商売上の巻き込まれて危険な目にあったが、狗狼は当然とでもいう様に手を貸してくれて、相手との話し合いまで持ち込めるようにしてくれた。
 今ではティエンさんはその組織の日本支部の会計を務めているらしい。
 ティエンさんは、その後に狗狼へ助けてくれた理由を訊ねたけど「美味しいベトナム料理が食べれないと困る」としか答えてくれないと苦笑していた。
 ……多分、狗狼は真面目に答えていると思うけど。
 多分、先々週に狗狼が作ってくれた夕食のベトナム料理はティエンさんに習ったものだろう。いや、ひょっとしたら厨房の仕事も自発的に手伝って覚えたのかもしれない。
 そして今度は私が狗狼からレシピを教わって夕食を作っている。
「いただきます」
「いただきます」
 二人同時に両手を合わせて唱和する。
 ママは私に必ず食べ物に手を付ける前に、「いただきます」と唱えて食べ物に手を合わせるように私に言って聞かせた。それが食べる私達の食べられる野菜や動物へお礼であり、食事を作ってくれる人達へのお礼になると。
 私も料理するようになってママの言葉の意味を理解出来る様になった。
 料理の材料は勝手に出来上がるのではなく、農家の努力があってこそ、私達に美味しいものが提供されている。またそれらをそのまま食べるのではなく、食べやすく食事を用意するのは大変で、料理する人が相手に食べて欲しいから作ってくれるのであって、勝手に出来上がるのではない。食べる人はそれを忘れない事、ママはそう言いたかったのだろう。
 狗狼も自然に食事の前には手を合わせている。彼もママと同じ思いでいてくれると嬉しい。
 狗狼は野菜のフォーの碗を手に取るとそれに口を付けた。彼の喉仏が僅かに動くのを私は息を止めて注視する。
「……」
 それから彼は碗を下してフォーを箸で数本摘まむと口に運んでそれを啜った。
 狗狼は目を閉じてフォーを咀嚼した後で口元を僅かに上げ笑みを浮かべる。
「初めて自分で作ったにしては上出来だ。ベトナム料理特有のさっぱりとした鶏のスープの味も悪くない」
 我が家のシェフの言葉に私は肩の力を抜いた。温め直したのでスープの味が濃くなっていないか心配だったのだ。
 私は揚げ春巻きに箸を伸ばしてひとつ摘まむと、口腔内に放り込んだ。噛みしめると中から甘い肉汁が染み出す。うん、美味しい。
 私と狗狼は食事中は口数が少なくなるタイプだ。お互い料理を味わうのに没頭するタイプで、主な会話は食後のティータイムとなる。
 その逆がカテリーナで、彼女は食事中にその料理の感想から始まり、その店の第一印象、食事後の予定など、矢継ぎ早に言葉が飛び出し内容が巡る増しく変化するのだ。
 そして食後のティータイム、デザートはお待ちかねの揚げバナナ。
 私は同じ年頃の女子同様、デザートが大好きだ。特に果物を元にした素材の甘さを生かしたお菓子は大好きである。
 アルミホイルから取り出されて更に並べられた揚げバナナの一本をフォークで突き刺してから一齧りする。
 揚げバナナ万歳。
 温められて甘味の増したバナナと、その衣である米粉に混ぜられたココナッツミルクの甘さが上手く合わさっていて、単純な工程で絶妙なデザートを作り上げている。
 もう一切れに手を付ける前に狗狼の淹れてくれたベトナムコーヒーでのどを潤す。
 うわっ、これもちょっと苦めのデザートだよ。練乳と濃い目の珈琲の組み合わせがが苦甘い。
 再び揚げバナナを口にする。良いよね、これ。
 喉下を過ぎた揚げバナナの余韻を楽しんでいると、対面に座った狗狼がナニやらにやにやして私を見ていた。
「な、何?」
 表情を引き締めて彼に向き直ると、狗狼は口元を押さえ前屈みになった。片が僅かに震えている。
「な、何、何か私、変な事、した?」
 私の問い掛けに狗狼の震えは増々大きくなった。何なの?
 狗狼は右手を上げて掌をこちらに向ける。一寸待って、と言いたいらしい。
 狗狼はようやく顔を上げると今度は苦笑を唇の端に浮かべて目を細める。
「いや、此処に来て、湖乃波君の表情があんなにころころ変わるのは初めて見たな」
「え」
「女の子にとってデザートは偉大って事か。いや、勉強になった」
「え、え?」
「これから、週末の晩御飯はデザートを付けようか?」
 何それ。私は混乱する嗜好を纏めようと彼に訊ねた。
「……そんなに、表情が、変わってた?」
 狗狼はうんうん、って二度頷いた。一度でいいって。
「揚げバナナを真面目な顔でフォークで刺してから、口に放り込んだ途端目を閉じて微笑んで、それからベトナムコーヒーを飲んで目を丸くしてからもう一口飲んで宙を仰いだ。それから、また揚げバナナを」
「もういい」
 私は狗狼の説明を聞きながらどんどん顔が赤くなっていくのを自覚した。私は一切表情を変えていないつもりだったのに、そうではなかったらしい。うう、恥ずかしい。
「仕方ないよ。だって、美味しいから」
「そうだな。ティエンさんの料理の腕は超一流だな」
 私は彼から顔を背けて食器を流し台に運ぼうと立ち上がった。
「後二切れも食べていいんだが」
 ピタリと私の手が停まる。
 そうだった、狗狼は甘いものを食べない。甘いものは苦手らしく、カテリーナに元町の甘味処を案内させられ時も、彼は何も食べずにその光景をただ眺めているだけだった。
 そのくせ、以前作ってくれたアップルパイは絶品で、一緒に口にした富樫母娘や美文さんも驚いていた。
「駄目、こんなの駄目。私、太っちゃう」
 そう呟きつつ美文さんは二切れも食べてしまった。
 それはともかく、残り二切れの揚げバナナだ。あんな事を言われてどんな顔をして食べろというのか。
「食べないのか?」
 タベナイワケナイジャナイデスカ。
 私は無言で再び席についてフォークを手に取った。
「……」
 平常心、平常心。私はそう唱えながら揚げバナナをフォークで突き刺して口に運ぶ。
 もぐもぐもぐ。
 平常心平常心美味し平常心平常心。
 狗狼がソファーに倒れ込む。
「だ、駄目だ。腹筋が引きつる」
「……」
 今、私はどんな表情をしているのだろう。誰か教えて。
 息をすることもままならないのか、呼吸困難の様な音を立てて咳き込む狗狼を無視して私は揚げバナナを平らげた。
 ソファーから身を起こした狗狼は笑みを浮かべたまま食器を手に取った。
「用意は湖乃波君がしてくれたから、後片付けはやっておくよ」
 本日の夕食も二人とも完食。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
 食器を重ねて流し台に運ぶ狗狼の後姿を見送る。
「日曜日は中華で、デザートは護摩団子か杏仁豆腐、どっちがいい」
「……どっちでもいい」
 恥ずかしいので返事は保留。全く、今日は進路について話そうと思ったのに。態勢を整えて明日話し合う事にする。
「そうだ、湖乃波君」
 食器を洗いながら狗狼が声を掛けて来た。彼の背中を振り返る。
「明日、予定が空いてるなら折角の夏休みだし、一寸、福井県までドライブしようか。まあ、仕事のついでなんだが」
「仕事のついでって、危なくないの」
 彼の職業は運び屋。非合法の荷物も取り扱っており、危険と隣り合わせの道中と言っても過言ではない。
 つい心配になってしまう。
 それが私の表情にあらわれたのか、狗狼は苦笑して否定するように手を振った。
「全然。今回は神戸で開かれるファッションショー用にデザインされた眼鏡の試作品を、専門の業者に届ける依頼なんだ。相手の工期の都合上、明日の早朝にこっちで完成させた試作品を受け取って、一〇時迄に鯖江の職人に渡して欲しいそうだ」
 福井県の鯖江市は眼鏡フレームの国内シェア九十五パーセントを超えているようで、世界初の眼鏡のチタンフレームを技術を確立したのも鯖江で、今回の相手に届ける試作品をプロの眼で確認して貰い完成品を作ってもらうようだ。
 以前、宅配業者に頼んだこともあったが指定時間に相手に届けることが出来なかったので、念の為、伝手を辿って非合法の運び屋である狗狼に依頼が回って来たのだ。
「どうする。行くかい?」
 狗狼の問い掛けに私は頷いた。
 冬峰の仕事に同乗するのは、初めて出会った時依頼だ。考えてみれば、これは狗狼との初めての家族旅行かもしれない。
 ママとの旅行は東京に居た頃、鎌倉までママの会社の同僚と貸し切りバスで行ったことがある。此処に来てからは須磨浦公園とか須磨離宮公園、水族館とかの近場を回ったけど、長距離の移動は無かった。ママも忙しかったと思う。
「決まりだな。ああ、福井とか石川の地図が棚にあるから先に行きたいところを決めておいてくれ。明日、朝、六時頃此処を出るから」
 狗狼が玄関脇の棚を指差す。そこには各都道府県の地図やガイドブックが押し込まれている。運び屋には必須のアイテムだ。
 私は福井県と石川県、京都府のガイドブックを抜き取って懐に抱える。今日は寝るまでこれを読んでおこう。
 歯を磨いてから時計を見るともうすぐ十一時。夕食が遅かったこともあり、もうすぐ就寝時間だ。
 狗狼はガラステーブルの上に地図を広げて指先のボールペンをくるくる回している。きっと、どの道順を通れば良いのか、あと裏道の確認をしているのだろう。
「お休みなさい」
「お休み。明日の昼食は現地のおススメにするから、弁当は作らなくていい」
「はい」
 狗狼は地図に目を落としたまま返事した。昼に何か食べたいものがあるのだろうか。
 私は隣の自分の部屋戻ってベッドに腰掛けた。眠くなる迄の間、ガイドブックを読んでいよう。
 ……どうしよう、眠れない。
 如何やら私は明日の旅行が楽しみらしい。行きたいところが多くて決められない。
「……」
 寝よう。水を飲んで落ち着いてから寝よう。道中寝たら損な様な気がするし、とにかく寝ておこう。
 台所兼事務所兼狗狼の部屋に出ると、狗狼はソファーに何時もの恰好のまま寝転んで眠りについていた。
 狗狼用のパジャマを買ったほうがいいのか。でも、買っても着てくれないだろうと予想する自分がいる。
「……ボルガ」
 寝顔を見ているといきなり狗狼が呟いてびっくりした。
 ボルガって何? 河? ロシアに居たの?
 狗狼の寝言の意味に首を捻りつつ、私は冷蔵庫を開いて水を組んだペットボトルを取り出す。水道水を一度沸かしてカルキを抜いただけの水だけど、普段飲むのならこの程度で十分と思う。
 コップに注いで飲んだ後、コップを洗おうと流し台に向かう。
 狗狼を起こさない様に蛇口から少しづつ水を流しながらコップを洗った。
 洗ってる最中に、袖をめくり上げたパジャマから手首が覗き、そこを横断するように皮膚が赤く変色して盛り上がった直線が目に入る。普段は袖に隠れた傷が目に入る。
 駄目だ。
 身体を痛みが走る。どうしよう、午前二時だ。この時間は起きていたくなかったのに。
 痛みとあの時の記憶が甦って、私は流し台の前から動けなくなる。
 大丈夫、あの男は行方不明でここにはいない。だから大丈夫。
 私は傷を見ないように目を閉じた。
 大丈夫、狗狼は、あの男とは違う。
 でも、もし、狗狼が起き上がって背後から近付いて来たら、そんな想像が私を動けなくする。痛い、痛みで動けない。狗狼は、今迄、そんな素振り等一切無かった。だから大丈夫。きっと大丈夫。
「ウルト○セブン!」
「!」
 びっくりしたあ。あ、動けた。
 いきなり叫んだ狗狼の寝言に、私はびっくりして飛び上がってしまった。
「ふふっ……」
 つい笑ってしまう。
 ああ、そうだ。こんな人があの男と同じなんて、私は酷い事を思ってしまった。三か月間共に暮らしていたのに。
 何もなかった私を契約違反の代償として中学卒業まで面倒を見てくれると約束してくれたのに。
 毎週、料理を教えてくれているのに。
 狗狼の仕事柄、同じ屋根の下で過ごしていても顔を合わす時間は短く、彼は口数も少ないから会話は少ないけど、彼が気を使ってくれているのは何となく解る。
 一定の距離感を保って接してくれていることが解る。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.3 )
日時: 2021/05/15 09:10
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

「……あと、八か月」
 私と彼の契約期間は長いけど短い。そう思う。
 鼻の奥が痺れて目頭が熱くなる。
 明日は楽しもう。ずっと忘れない様にしよう。
 その記憶で嫌な事を消してしまえる。そんな日にする。
 私は落ち着いた気持ちで彼の寝顔を見下ろした。少しの時間だけど眠れそうな気がする。
「お休み、狗狼。……今日が本当に楽しみだから」

                     3

 朝の五時半、朝食と身支度を整えた私は福井県と石川県のガイドブックを愛用の茶色い皮のナップザックに放り込んだ。
 このナップザックは狗狼の知り合いであるマオさんから頂いたもので、A4サイズの雑誌が入る大きさと皮を幾枚も重ねた厚底を持った頑丈な構造から、用途は休日の買い溜め用買物袋から図書館の図鑑を借りた時など実に使い勝手が良い。
 マオさんは狗狼の古くからの知り合いで、三〇代(マオさんは前半と言っている)と若いにも拘らずこの町の中華系組織の重鎮を務めている。
 彼女は何時もチャイナドレスを着用しており、そこから覗く長い脚とアジア系としては珍しい天然の金髪の下から覗く碧眼が彼女の美貌を際立たせていた。
 そんな美人だから狗狼が声を掛けたり手を出そうとかしていないか気になったけど、狗狼とマオさんは、狗狼が若い頃に南京街でアルバイトをしていた頃からの知り合いなので、親戚みたいな関係らしい。
 狗狼曰く「お転婆な妹みたいなものだ」
 ナップザックを背負って事務所に続くドアを開ける。
 その部屋では狗狼がネクタイを結んでいるおり、出かける準備がほぼ整っていた。
 ややネクタイの結び目が大きい結び方をして、綺麗な三角形になるように呼崎で整える。
「行くか」
 ジャケットを羽織って振り返る。
 黒の上下のスーツに白いカッターシャツ。黒のうっすらと紋様の入ったネクタイが糧の変わらぬ仕事着だ。きっと背広の内ポケットには折り畳みナイフが一本忍ばせているんだろう。
 改めて見てみると、狗狼は黒のスーツ着こなした少しだけ恰好の良い小父さんといった雰囲気で悪くないと思うのは私だけだろうか。
 サングラスを外すと少し目尻の垂れた細めの両眼が優しそうで良いと思うんだけど、彼は何時もサングラスを掛けているのが残念と思う。
 外に出て空を見上げる。朝が早いけど既に日は差しており、事務所の前から海面に反射された夏の日差しに私は眼を細める。
「今日も暑くなりそうだ」
 見ているだけで暑くなりそうな運転手が呟く。そう思うなら夏向きの恰好をすればいいと思う。
 倉庫横に止めてある狗狼の愛車であるプジョー207SWに掛けられたシートを外すと中から藍色の車体が覗くと共に熱い温められた空気が立ち上り、私と狗狼は二人同時に嫌そうに声を上げる。
「まあ、日差しはまだ弱いから、車内はそう暑くないだろ」
「……そうね」
 狗狼は運転席、私は助手席に乗り込んでシートベルトを締めた。エンジンをかけて狗狼は車内のよどんだ空気を外に流す為、前後のドアのガラスを数ミリ下げた。
 車のエアコン設定温度は二十二度。エアコンの苦手な狗狼にしてみれば、この温度設定は低く感じられるが、デリヘルドライバーの依頼を受けることもあるから、同乗するキャストに気を使っているのかもしれない。
「じゃあ、品物を受け取りに行きますか」
 まずは今回の仕事の荷物である眼鏡を受け取るようで、神戸大橋を渡り元町へゴルフを進める。
 栄町通傍の日栄ビル前に207SWを停めた狗狼は「昨日からここに詰めていると聞いたんだが」と呟いて車から降りる。
 依頼主はこのビルの2階に店を構えるオーナーとも懇意らしく、試作品の幾つかはその店で扱う作家のデザインしたブランケットに合わせてデザインしたものと狗狼は説明してくれた。
 暫くすると少しオーバーサイズのTシャツとコットンパンツ姿で、茶色く染めた長髪をひっつめ髪に纏めた女性が小さいダンボールを抱えてビルの入り口から出て来る。
「……」
 左右を見回して私達に気が付くと彼女は頭上に段ボール箱と持ち上げた。
「くろーさーん。これ荷物だよーっ」
 非常に間延びした声で呼びかける。
「……また徹夜してたな」
 苦笑しつつ、狗狼は女性に近寄り段ボール箱を受け取った。
「今回も大変そうだが、何日寝てない?」
 細面の彼女は女性にしては背が高く、狗狼とほぼ同じ一七〇センチあるだろう。
 彼女は狗狼に段ボールを手渡しした後、三本指を立てて目を細めて苦笑する。
「昨日で三日目なのよー。みーちゃんは布地を手にしたまま撃沈してるわー」
「それは大変」
 二人の様子から、彼女の依頼は良く引き受けているような印象を受けた。
「まだまだ詰める所があるからね。今回は〈北欧カフェ〉がテーマだからこの店の食器や衣類が使えるのは助かっているけど。ただ、眼鏡となると普段使いでおしゃれなデザインってのはその道のプロの意見が欲しい。メールの画像じゃ相手も解らない事が多いからね」
「それで今回の依頼か」
 そうそう、と相槌を打ちながら彼女は依頼用紙を狗狼に渡した。
 ひょいっと彼女が私の視線を向ける。
「……」
「……お、お早う御座います」
 取り敢えず挨拶してみたけど彼女は私をしばらく見つめた後、手を伸ばして私の両肩を掴んだ。
「ねえ、貴女、モデルをする気ない?」
「えっ」
 傍らで狗狼が僅かの仰け反る。
「だって、ナチュラルに黒髪の美少女よ。これから先、どんどん少なくなる天然記念物よ。今の内に手に入れておかないと将来困るじゃないの」
 そう叫びながら私を前後に揺さぶるので、私は頭をガクガクと震わせながら三半規管を狂わせていく。
「うーん、ポニーテールって本当に馬の尻尾みたいに揺れるんだな」
 狗狼が私の揺れる髪を見乍ら呟いた。
 何、今言う事はそれ? 助けてよ!
「ていさん、落ち着いて。今は眼鏡を届けないと」
「え、この子、置いて行かないの?」
「置いて行きません。湖乃波君は今日の助手です」
 狗狼の助け舟に、ようやくていさんと呼ばれた彼女は私の両肩を手放してくれた。うう、頭がくらくらする。
「えっと、湖乃波ちゃんでいいのかな? 八月の終わり頃、詳しい日程は連絡するから予定を開けておいてくれないかな」
「は、はい?」
「絶対ね。御願いね。じゃあ、くろーさん、眼鏡お願い」
「はいはい」
 名残惜しそうにビルに帰っていくていさんを見送った後、私と狗狼は暫く沈黙した。
「……マイペースな人だね」
「……まあ、仕事の鬼だからな、彼女」
「……」
「……行こうか?」
「……うん」
 207SWへ戻り、再び車上の人となる。眼鏡の入った段ボール箱はやや小ぶりで壊れると困る為、後部の荷物室へ収めず、後部座席にシートベルトで固定する。
「福井県鯖江市まで東名・新東名自動車を通って通常は二時間半から三時間。今、六時四〇分、まあ、何とか間に合う時間だが、問題は時間帯だな」
「時間帯?」
「ああ、吹田IC(インターチェンジ)付近は、朝方に輸送用大型トラックの通行量が多くてごった返すんだ。渋滞に巻き込まれると時間は大幅に消費する事となる」
 狗狼は地図を開いて神戸より上、兵庫県を縦断する道を指差した。
「大回りになるが中国道から北上して舞鶴若狭自動車道を通るルートを通る選択肢もある。こちらは渋滞は無いが福知山を越えた辺りから上限速度が時速70キロ以下に制限されてる上に、片側一車線が多いから時間が掛る」
 狗狼は腕組みをして暫く考えた後、エンジンを入れた。
「やはり無難なところで新名神か。となると」
 狗狼はステアリングを切って東和ビルディングの横を通り抜けて二号線に出た。京橋から阪神高速道路三号線へ乗り入れる。
「取り敢えず今日のルートは名神高速道を溯って目的地まで向かう事にする。途中で大津SA(サービスエリア)で琵琶湖を眺める。琵琶湖に行ったことはあるか」
 依頼人に話す様に淡々と説明する狗狼の質問に私は首を振った。
「まあ、大きい湖としか俺は思えないが、眺めは良いらしいから見ておいて損は無い」
 本人はさほど興味はなさそうだ。如何やら私に見せたいだけらしい。いや本人は運び屋だから何度も通っているので飽きているのかも知れなかった。
「それから北陸自動車道の賤ヶ岳SA(サービスエリア)でロッジ焼きを食べる」
「ロッジ焼き?」
「まあ、阪急三宮駅の大判焼きに似たようなものだ。春は季節限定で桜あん入りが売られることもある。今は普通の餡子入りとカスタードクリーム入りが売られている。
「値段は?」
「……一個、百六十円」
 私は普段買い食いをしない。甘いお菓子は好きだけど、家計を預かる身としては無駄遣いは出来ない。
「……」
「迷うな、湖乃波君。今日は旅行だ。無礼講だ」
「うーん、それなら、いいよね」
「何で自分に言い聞かせるんだ?」
 少しでも、生活費を貯めたいの。そう呟きかけて口を噤んだ。
 狗狼にこれ以上、負担を掛けたくなかった。
「目標は九時五十五分、眼鏡ミュージアム到着だな」
 西宮インターチェンジで阪神高速から名神高速へ乗り入れる。
 狗狼はETCカードを持っておらず、いつも料金所で通行料金を払っている。ETCの方が割引が利いて楽に通り抜けが出来るので何故カードを使わないか聞いてみると、その場で領収書を貰った方が、依頼達成後の請求額が解りやすいと言っていた。 
 狗狼は右車線に出るけど左車線とそれほど変わりない速度で車が流れており、サングラスで表情は解らないけど、狗狼は面白くなさそうな退屈した表情でハンドルを握っているのかもしれない。
 助手席に乗っている私はこうなると何もすることが無く、出来る事と言えば目を閉じてシートの背もたれに身を預けて眠る事だろう。朝も早かったし。
「時に、湖乃波君」
 私がウトウトと舟を漕いでいると、隣の運転席から狗狼が改まった口調で話し掛けて来たので、私はサングラスを掛けて感情の読み取れないその横顔へ目をやった。
「さっきのていさんの申し出、受けてみたらどうだ」
 ていさんの申し出と言えば、確か、モデルにならないか、だったと思う。正直、人に注目されるのは苦手なので勘弁して欲しい。
 眉を顰める私の表情から、私が何を言いたいのか察したのだろう。狗狼は苦笑を浮かべて言葉を続ける。
「いや、モデルになるとかじゃなくて、夏休みの終わりに社会勉強の心算で顔を出すのもアリじゃないかな」
「……そうかなぁ」
「そうそう。多分、モデルの人だけでなく、服や食器のデザイナーやカフェの経営者も来るだろうな。彼等は何故、その服やデザインの品に興味があるのか、思い切って聞いてみると良い。きっと湖乃波君の知らない事がいろいろ聞けるだろうね」
 狗狼は私が人見知りの強い事を気にしているのかもしれない。今はいろいろな人に会って自分の見聞を広めることが大事なのだろう。
「中等部終了後に就職か、それとも安い公立高校への進学か、どうするか決める判断材料のひとつになるかもしれない。経験しておいても損は無いよ」
「……うん」
 狗狼にしては何時もより多弁なのに驚きつつ、私は曖昧に同意した。
 私達の乗る207SWは吹田インターチェンジの料金所の横を通り抜ける。阪神高速道路より道幅が広く車の速度も上がっていくが、狗狼はサングラスを掛けたまま上を見上げると小さく舌打ちする。
「どうしたの」
「渋滞だ」
 狗狼の見上げる電光表示板へ視線を向けると、そこには「大津から渋滞十二キロ」と表示されていた。
「……十二キロは拙いな」
「間に合うの?」
 狗狼はステアリングを人差し指で何度か叩いた後「微妙だな」と呟く。
「京都に入った後、右京区へ抜けて162号線から小浜に出るか、367号線から27号線に抜けて敦賀に出る選択肢もあるが、いや、博打は止めておくか」
 私は助手席の背ポケットに入れてある地図を取り出して開いて162号線を見つけた。
 京都を縦断するように一般道が北側まで伸びている。途中グネグネと曲がった道があるけど、以前の和歌山県で体験した運転で通り抜けるのだろうか。私は名神高速のみの通行で間に合うよう神に祈った。
 八時十五分、大津SA到着。
「此処までは、まあ、スムーズに進めたな」
「そうね」
 夏の日差しに手を翳しつつ私は同意した。
「ちょっとトイレに言って来る」
「私も」
 駐車場からも琵琶湖の広大さが目に入る。
 用を足してから戻ると、琵琶湖を眺められる駐車場沿いの通路は家族連れやカップルが埋めていて、背の低い私が見える場所など無かった。
 取り敢えず背伸び。
 飛び跳ねてみる。
 数秒後、その無駄な努力を諦めて狗狼を待とう207SWに戻りかけた私の前に人影が立ち塞がった。
「ねえ、彼女。一緒に写真を撮らない」
 20代前半ののっぽと小太りのTシャツとジーンズ青年が私に向かってスマートのカメラのレンズを向けて話しかけていた。手に中にあるスマートフォンから動作音がする。
 私は携帯電話すら持っていないけど、今のは写真を撮られたのだと判った。
「じゃあ、隣に並んで」
 のっぽの青年の手が私に伸びる。
 勝手に人に写真を取られるのも嫌で、知らない人と一緒に写真を撮るのも嫌だ。そう言って断ろうとしたけど、声が出てくれない。気圧されて私は一歩下がった。
「写真を取るだけだからー」
「こーのーはーくーん、こっちこっち。此処からだ景色がスバシーバ!」
 その声に振り替えると黒スーツにサングラス姿の男が、琵琶湖が見える恋人の聖地傍のベンチに電車の窓から見える風景を眺める子供の様な恰好で足をバタバタと上下させていた。おまけにこっちを振り返って手招きしている。
「……うわぁ」
 私に向かって手を伸ばしていた青年が動きを止めて声を漏らした。見るに堪えないと言った顔をしている。小太りの青年もその光景に固まっている。
 そうでしょうね。私はもっと恥ずかしいんだから。スバシーバって「有難う」って意味なんですけど。
「ん、見ないのか―い?」
 こちらを振り返った黒スーツはベンチから降りて私に向かった歩き出した。
 モーゼの海渡りか、左右に分かれる群衆。
 どうしよう、あさっての方向を向いて他人の振りが良いのかな。
 私の保護者は気にした風もなく私と痩せと小太りの青年達の前に来ると、青年達の姿を眺めて唇の端を僅かに吊り上げる。
「麒麟と穴熊までもがスマートフォンを持ってるのか。確かに獣には礼儀は理解出来んな」
 狗狼の行動に気圧されたのか、皮肉めいた物言いに反論する事も無く身を強張らせた。
 黒スーツ、サングラス、黒ネクタイと見るからに怪しい人が、怪しい行動をしたんだもの、そんな人に相対したら普通の人はどうしようか戸惑うに決まっている。
 狗狼の両手が霞み、動きを止めた時にはそれぞれに手にスマートフォンが握られていた。
 二人の青年は驚いたように視線をスマートフォンを握っていたはずの己の右手と、現在、それを手にしている狗狼の両手の間を往復する。
「さて、此奴をどうしようか、なあ」
 意地の悪い笑みを浮かべて二人を見返していた狗狼は、琵琶湖の方向へ向き直ってから右手を後方へ引いた。
「人の写真を撮るときは、あらかじめ承諾を取ってから撮影しよう。それが出来ない礼儀知らずの悪い子は、こうだ」
 狗狼の右手が前方へ投げ出され、スマートフォンの一個が琵琶湖の方向へ高々と宙に舞った。
「ほーら、取って来ーい」
 当然、琵琶湖まで届くわけはないがスマートフォンは放物線を描いてサービスエリアから麓の滋賀短期大学付属高校に向かって落ちていく。
「んでもって、もう一丁」
 もう一個も同様の軌跡を描いて放り投げられた。
 声を上げて柵に駆け寄りスマートフォンの行方を目で追う青年達を尻目に、狗狼は私の手を取ると「さて、逃げるか」と207SWに向かって駆け出した。
 何なの、この人は。
 素早く207SWに飛び乗り、私がシートベルトを締めるのを待たずに本線に向かって走り出す。
「……恥ずかしかった」
「仕方がないな。彼等に写真のデーターを削除してくれるよう頼んだところで彼等が大人しく従ってくれる確証も無かったし、そこで押し問答する時間の無駄を省いただけだが」
 私が顔を伏せて言った一言に、狗狼は表情一つ変えることなく反論した。
「それでも、あそこで人の名前を、大声で呼ぶのは、良くないよ」
「それは悪かった。お詫びに次に来た時は、二人で並んでお子様座りで琵琶湖を堪能しよう」
「絶対、嫌」
「それは残念、って」
 207SWがゆっくりとスピードを落として、はるか前方まで続く車列の最後尾へ車体を付ける。
「そういえば渋滞しているのを忘れていた」
「続いているね」
「渋滞が十二キロ以上だからな。まあ大丈夫だろう。時間はまだ一時間四十五分あるんだ。間に合うよ」
「そう?」
「そうそう」
 気軽に言ってのける狗狼を私は疑いの視線を向けた。
「ここはベテランの運び屋の勘を信じて欲しいな」
 ビシッと親指で己を指すベテラン運び屋。まあ、信用するけど。

「ベテラン運び屋の勘って、何処に行ったの?」
「何事にも例外は有る。今日はその稀有な例が当て嵌まる日だった。それだけだ」
 後方へ物凄い勢いで流れて行く景色の速度を気にした風も無く、自称ベテラン運び屋は平然と答えた。

Re: 運び屋の季節 番外編 野島湖乃波の夏休み ( No.4 )
日時: 2021/05/15 09:19
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: K6rfcNSS)

 私達の乗る207SWは滋賀県道285号線を猛スピードで北上している。いま大見渓流沿いの大きなカープを通り抜けたところだ。
 何故、北陸自動車道ではなく県道285号線を走行しているのかは先程の会話から解る通り、狗狼の勘が見事に外れて神田P A (パーキングエリア)を抜けてから工事の為、片側一車線のみの通行となり再度渋滞に巻き込まれたのだ。
 狗狼もこれは流石に間に合わないと判断して長浜ICから北陸自動車道を下りた。
 ただ国道8号線や365号線は渋滞逃れの車両が押し寄せる為に却下。通常365号線から303号線に乗り入れるのだが、さらに車通りの少ない285号線を通り抜けると狗狼が自信たっぷりに提案した。
 かくして運び屋のちっぽけなプライドを掛けて、本当に車通りの少ない285号線を遡っていく。
 お寺の脇を通り過ぎて暫く行くと赤丸の中に×が組み合わされた記号の下に「通行止め」と赤文字で書かれた看板が立て掛けられたゲートが現われた。
「よし、噂通りゲートは開いているな」
「……え?」
 ぎりぎり207SWが通れるぐらいの幅にゲートが開いている。
 アクセルが踏み込まれ、ボンネットのプジョーのエンブレム、シルバーライオンが吠える様なエンジン音が誰もいないゲート前で鳴り響く。
「ちょっ……」
 制止しようとする私の声など聞こえなかったかのように猛然とゲートを通り抜ける207SWと私達。
 視界の隅で四角い黄色地に黒い三角形の頂点から黒い点が面に沿って描かれた標識が目に入る。
「狗狼」
「ん」
「見た事の無い標識が、あるよ」
 狗狼は地面に転がる石を避ける様にハンドルを左右に動かし乍ら、私から標識の説明を聞く。
「それは、落石注意だな。斜面を下りてくる瓦礫にぶつかったり、地面に転がっている意思を踏んでパンクしない様にとの注意喚起の為の標識だ」
「……そう」
 注意しても平然と突っ込む輩が此処に居ます。
 道幅は広いけど、油断すると所々に転がった大きく尖った石を踏んでタイヤがパンクしてしまうらしい。
 私はただ、濁流に飲み込まれた木の葉の様に(しゃれではない)頭を前後左右に揺らし乍ら、狗狼の運転に耐えている。
「此処は元々ダム建設の為の道路だった。それが中止になった今、開かずの国道として有名になったんだ。時折、工事関係のトラックが通る時はゲートが開いて通ることが出来る」
「でも、普通は通ったらイケないんだよね」
「今日は神様に目を瞑って貰おう。通行禁止の区間は1キロ程度だ。じき終わるよ」
 そう願います。
 途中、道の途切れた区間もあったけど、何とか反対側の同じように開いているゲートを通り抜けた私達は集落に入り、「茶碗祭りの館」も前を通り過ぎる。
「茶碗祭りの館?」
「茶碗祭りは丹生神社の祭りで、陶器を繋ぎ合わされた三基の巨大な山車が街中を通る祭なんだ。確か滋賀県の無形民俗文化財かな」
 狗狼の口から茶碗祭りについて説明があったことに私は驚いた。普段、一緒に居ると祭とかと無縁な興味の無い生活をしているような気がしてたんだけど。
「祭ばやしも、丹生独特の曳山ばやしらしいから一度は聴いてみたいものだが」
「狗狼って、仕事と料理以外興味がないと思ってた」
 私の言葉に狗狼は苦笑を浮かべる。
「運び屋をしていると、遠方に行くことが多いんだ。仕事の帰りで余裕が有ったら、その地域の有名処を周ることもあるよ」
 ひょっとしたら狗狼は運転する事より、どこか遠くへ行くことが好きなのだろうか。
 ただ独り、ぼんやりと煙草を咥えて、夕闇の中で祭を眺めている狗狼の姿が容易に想像出来た。寂しくは無いのかな。
 それとも狗狼にとってはそれが普通で、私と一緒に居る事が余計な事なのかもしれない。
「湖乃波君、これから先は、また川沿いにぐねぐね道が続くから我慢してくれ」
「え」

 九時五三分、プジョー207SWは鯖江眼鏡ミュージアム左横の駐車状に滑り込んだ。
「一寸早かったか」
「早くない、早くない」
「依頼時間プラスマイナス五分が理想的な時間なんだ」
 狗狼は小箱を片手に207SWを下りる。私も狗狼の後に続いてビルの屋上の巨大な眼鏡が目立つ眼鏡ミュージアムに向かう。
 受付で用件を伝えると二階のカフェに案内されて暫く待つ事となった。
 狗狼は珈琲、私はオレンジジュースを注文してテーブルに腰を落ち着ける。
 オレンジジュースに口を付けて一息つく。
「間に合って良かったね」
「まあな」
 屋内なのに狗狼はサングラスを掛けたままだ。
「お菓子まで売られているんだね」
 私は正面入り口直ぐの売店に並べられていたお菓子の数々を思い出した。ネーミングも凝っていて「メガジュレ」や「アメガネ」「サバエイトチョコレート」など洒落っ気が強い。
 ここでお土産を買って行こうか、それともこの後に向かう予定の場所で買うべきか悩んでしまう。
「お待たせしました」
 背後から声が掛かり振り返ると、初老のYシャツと紺のスラックス姿の男性が恭しく一礼していた。
「どうも、これがお預かりしていた品物です」
 狗狼が立ち上がり小箱を渡すと男性はカッターナイフを取り出して、その場で蓋を開けて中身を改める。
「はい、確かに受け取りました。これが報酬となります」
 狗狼が封筒を受け取り背広の内ポケットへ収めようとするのを、背中を突いて手に平を向けた。
「ん」
「ん」
 狗狼が僅かに嫌々をする。
「ん」
 駄目だよ。狗狼は無駄遣いするよ。
「んーんー」
 狗狼は諦め悪く封筒をひらひらと左右に振る。
「あのー何か」
 眼鏡ミュージアムの人が不思議そうに私達に問い掛けて来たので一旦、この勝負は御預けとなった。
「さて、品物も渡した事だし、一寸眼鏡を見てくるか」
「? 何か買うの」
 狗狼はサングラスの上から自分の眼を指差して苦笑を浮かべる。
「いや、老眼が進んだんでね。この機会に老眼鏡をつくってもらおうかなって」
 そうだった、狗狼は四〇代後半に差し掛かるオジサンだった。
 二人で一階の眼鏡ショップに向かうと、白いテーブルに無数のメガネフレームがならんでいて私はその光景に軽い驚きを覚えた。
「いらっしゃいませ」
 小柄でショートカットの丸レンズの眼鏡を掛けたボーイッシュな店員が私に声を掛けてきた。快活な眼鏡美人といった印象の彼女は、私の様な人見知りでも話し掛けやすい笑顔を浮かべている。
「あの、たくさんの」
「ものすごい眼鏡の数ですね。一体何本あるのですか」
 あれ、私、狗狼の背中に話し掛けているよ。
「三千本程並んで居ります。あの、メガネフレームを探しているのでしょうか」
 いきなり眼前に現れた黒服に圧倒されながらも店員さんは狗狼に用件を尋ねた。
 やっぱり狗狼は女好きだと思う。
「実はですね」
 狗狼が懐から出したメモ用紙を手渡された店員さんは、そのメモ用紙をしばらく眺めていたけど何かを思い出したかのように「少々お待ちください」と奥に引っ込んでしまった。
「老眼鏡?」
「の、ようなものだ」
 暫くすると店員さんが戻って来たけど開口一番「申し訳有りません」との言葉を聞いた。
「この商品は先月に売り切れてしまってもう在庫が無いんです」
「一本も?」
「はい」
 店員の返事に狗狼は額に手を当てて、ヨロリと上体を揺らした。
「そ、そんな。何の為に俺はここまで来たんだ」
 仕事の為と思うけど。
 それ程、目当ての老眼鏡が無かったのが堪えたのか、狗狼は私を手招きすると「帰ろうか」と声を掛けた。
「私、行きたい処が、あるの」
「……」
 狗狼がぴたりと動きを止める。
「昨日、福井と石川県で、行きたい処を決めておくよう言ってたよ」
「……」
 狗狼は、ぽんっと左掌に右拳を打ち下ろす。
「ああ、思い出した。つい眼鏡が手に入らないショックで忘れていたな」
 簡単に忘れないで、駄目保護者。
 不信の視線を向ける私に引き攣った笑みを返した狗狼は、「それで、何処に行きたい?」と聞いて来た。
 私はナップザックからガイドブックを取出し、そのページを人差し指で指し示す。
「此処だけど、いいかな?」
 狗狼はそのページを覗き込んだ後、もう一度私の顔へ視線を戻して見つめて、もう一度ガイドブックのページを覗き込む。
「なあ、湖乃波君」
「何?」
「俺は外で待っていてもいいか? こういうのは少々苦手なんだが」
「私は、一緒に、楽しんでほしいな」
「……どうしても?」
「折角の家族旅行だし、駄目かなァ」
 私は宙を見上げる狗狼の返事を待った。

                      4

 やっぱり夏は暑いのか、ベンチ傍の日陰でじっとしているライオンラビットの首筋の毛を手袋越しに撫でてみる。
 凄い、本当にもふもふしている。
 首の後ろを掻いてあげると僅かに鼻の穴が開いて目を閉じた。もふーと言っている様で可愛い。
 ライオンラビットっていうウサギの品種が居るのにも驚いたけど、その茶色と白の混じった柔らかい体毛に感動する。もふもふもふもふ。
 ライオンラビットの耳は日本のウサギと比べて耳が短くて黒目が大きい。
「早く抱き上げないと抱っこタイムが終わってしまいますよー」
 ウン、ソウダネ。ダッコシナクチャイケナイヨネ。
 おそるおそる手を伸ばす私を見かねたのか、付き添ってくれていた飼育員のお姉さんが、ライオンラビットの背後から前足と後足へ掌を差し入れて仰向けにする様に抱きしめる。
「兎さんの耳を持ったり、顔の前に手を持って行かないで下さいね。兎の骨格は脆いし、油断するとキックされるのでこうやって背後から抱っこしてあげて下さい」
 はい、と店員さんのから抱っこしたままライオンラビットを受け取る。
 支えにしている左手に掛かる重さは僅かで、見た目よりはるかに軽かった。
 もう一度、首の毛の辺りを優しく掻いてあげると、目を閉じて腕の中で脱力してくる。
 もう可愛いとしか感想が持てなくなった私に飼育員のお姉さんは魅力的な申し出をしてくれた。
「携帯電話のカメラで映してあげましょうか。記念になりますよ」
 魅力的な提案ですけど、私は携帯電話を持っていない。当然、スマートフォンもだ。
「あの、携帯、持っていないんです。御免なさい」
「あ、いいんですよ。じゃあ御家族に撮影して貰いましょうか」
「……」
 御家族のねえ、と私は家族である狗狼のいるベンチへ視線を向けた。飼育員のお姉さんも私に釣られてそちらを向いた。
「……」
「……」
 あ、飼育員さんが固まった。
 それもそうだ。この石川県加賀市にある兎と遊べる施設には、どう贔屓目に見ても似合わない人物なんだから。
 その人物は夏だというのに黒スーツを着用してネクタイまで締めている。黒いサングラスに隠された眼は兎ではなく宙を眺めている様で、その姿を見て何の為にこの施設にいるのか疑問に思っている人もいるんじゃないだろうか。
 その男の右手にはこの施設の中に入ってから購入したたこ焼きが乗っているが、特に食べた形跡も無いから間を持たせる為に買ったんじゃないかな。
 そんな男がベンチの背もたれに何をするわけでもなくもたれ掛かり、足元にいる数匹の兎を無視していた。
「彼でしょうか?」
 店員さんの質問にコクリと頷く。
 やっぱり場違いだよね。で、本人も自分が此処に居る事を場違いだと思っている。
 店員さんが狗狼に近付いて何か話していると、狗狼は店員さんに右手に持ったたこ焼きの皿を渡してからこちらに歩いて来た。店員さんは戸惑ったように狗狼と手に持ったたこ焼きを何度も見比べている。
「どうした、兎を撮ればいいのか?」
 私は狗狼の質問に首を振った。
 兎を抱いている写真を撮りたいとお願いするのは恥ずかしいけど、こんなことは滅多にないチャンスなので思い切って頼むことにした。だって可愛いし。
「あの、兎を抱っこしているのを撮って欲しいのだけど、いいかな?」
「断る理由なんてないんだが」
 私に質問すると、無造作に携帯電話を取りだして、無造作にシャッターを切った。
「これでいいか?」
「……」
 撮ってくれた。兎とそれを抱える私の両手が写っている。
 うん、何か違う。
「あ、兎を抱えている私も撮って欲しかったん」
 カシャ。
 私が言い終るより早くシャッター音がまた響いて、携帯電話の画面には兎を抱えた私の顔だけが写っていた。
「……」
 わざとじゃないよね。
「?」
「あの、よろしければ私が写しましょうか?」
 私の顔を不思議そうに見返す狗狼に、背後からたこ焼きを食べ終えた飼育員さんが救いの手を差し伸べた。
「あ、ああ、頼む」
「はい、お願いします」
 私と狗狼は渡りに船とばかりに飼育員さんにお願いする。
 飼育員さんは狗狼から携帯電話を受け取り操作の説明を受けると、私達から距離を取って携帯電話の画面を覗き込んだ。
「はい、それじゃあお父さんも兎さんを抱っこしましょうか」
「え?」
「お父さんは黒い服を着ているから、白い兎を抱っこして下さい。茶色や黒だと目立たなくますから」
「え」
 ああ、狗狼が固まっている。
 ゆっくりと狗狼が私へ顔を向けた。サングラス越しの表情は救いを求めている世にも見える。
 私は彼に微笑み掛ける。此処はひとつ。
「頑張れ」
「OH]
 狗狼がよろめく。
 幸い、狗狼にとっては運悪く、耳が長く目の赤いジャパニーズホワイトが狗狼の足下に近付いてきていたので狗狼は私以上にゆっくりとした動作で兎を抱え上げた。
 そんなに恐る恐る抱えなくてもいいのに。
「サングラスも外してくださいねー」
「……両手が塞がっているので外せません」
「残念」
「湖乃波君ねえ」
 頑としてサングラスを外そうとしない狗狼に吹き出しそうになるのを堪えて、私は飼育員さんの携帯電話のレンズへ向き直った。
「あ、御嬢さんの笑顔は可愛いですね。お父さんはこっちを向いて下さい。はいチーズ!」
 カシャ。
「はい、取れましたーっ。次は餌ヤリ体験を写しちゃいますねー」
 背後で狗狼がしゃがみ込むのを感じた。
 餌ヤリ体験撮影後、私は耳が垂れ下がって全身が丸々しているフレンチロップの餌ヤリ体験を引き続き楽しんでいた。
 ライオンラビットよりも大きな体躯の兎だけど、やっぱりウサギなのでゆっくりともしゃもしゃとペレットを食べる。うん、この兎も抱っこしたかったな。残念な事に餌ヤリ体験中に兎の抱っこタイムの時間制限を過ぎてしまったのだ。
「狗狼ーっ、この兎、おっきくてとても可愛いよ~」
 私は背後のベンチに腰掛ける狗狼に声を掛ける。
「……」
 あれ、返事がない。
 私がベンチを振り返ると狗狼はそこに腰掛けている。腰掛けているけど――
 し、白くなってる。
 黒スーツ、黒ネクタイ、サングラス姿なんだけど、何故か真っ白に脱色しているような印象を受けるのだ。
 ご愁傷様。
 私はベンチの狗狼にそっと両手を合わせて冥福を祈ってから、フレンチロップの餌やりを再開しようとして一歩踏み出したところを誰かにぶつかった。
 ぶつかった相手と私はお互いに背後へバランスを崩して尻餅をつく。
 あ、お尻痛い。
「御免、なさい。大丈夫ですか」
 謝りながら顔を上げると、相手の方は大丈夫と言っているのか右掌を振りながら立ち上がる。
 私も立ち上がり、もう一度御免なさいと誤ってから相手の方を見た。
 相手の方はひょろりとした体格の、顔も痩せぎすのもじゃもじゃの髪に無精髭を生やした四十代程の男性で、細い鼈甲の眼鏡を掛けてばつが悪そうに笑っている人の好さそうな人だった。
「ああ、ぼくは大丈夫だから」
 そこまで口にして、彼は急に俯いて顔を背ける。
 打ちどころでも悪かったのかなと私が覗き込もうとすると、彼の両眼からぼとぼとと大粒の涙が零れて地面に落ちて行く。
「あ、あの、ホントに、大丈夫、ですか」
 彼は何度も頷くが、彼の両眼からは涙が流れ続けていて私には大丈夫とは思えなかった。
 私達の様子が尋常でないことに気が付いたのか、兎と遊んでいた家族連れや、その相手をしていた飼育員や従業員が私達の様子を見ようと集まり始める。
 どうしよう、と困っている私の右肩を、黒い手袋を嵌めた手が軽く叩いた。
「どんな事情か知らないが、何時までも此処で泣いていても迷惑なだけだ。落ち着くまで、そこの喫茶店にでも入っていたらどうだ」
 狗狼の提案に彼は何度も頷いて歩き出した。
 私は彼の後について店に入ろうとしたが、狗狼はもう関係がないとばかりに踵を返してベンチに戻ろうとするので、私はあわてて彼の背広の裾を引っ掴んだ。
「何かな?」
「あの人のことが気にならないの?」
 狗狼は喫茶店の方を向いてから肩を竦めた。
「別に。あそこに入ると何か食事か飲み物を頼まなければいけなくなる。今日は昼に食事を取る処はを決めているから、そんな無駄遣いは出来ないな」
「でも、何か事情がありそうだよ」
「事情なんてそこらへんに転がっている。いちいち関わっていると身が持たない」
 さあ、帰ろうとばかりに彼は207SWのカギを手にとって出入り口へ歩き出した。
 どうしよう。このまま帰るとずっと、あの男性の泣いていた理由が気になってしまう。
「……話だけでも聞いてあげた方が」
「話だけで済むのか?」
 狗狼の質問に私は答えることが出来ずに俯く。
「もし話を聞いて、湖乃波君のどうする事も出来ない問題なら、君はどうするんだい? 話を聞いたのは一時の気の迷いでしたと背中を向けて終わりにするのか?」


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