ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ

■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

アイタイモノクローム
日時: 2011/12/22 01:40
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)

   —あの時、僕等は、一体何を夢見ていたのかな?







第一章「頭蓋骨を抱いた人魚」



Prologue

 人魚は存在する。

彼らは美しい姿をした、実体を持つ生き物である。けれどその多くは、尾を捨て、人間として生きている。

人魚は、とても賢い。

何年、何十年、何百年と生き続ける中で、記憶が途切れることは、まず無い。
だから、海の賢者と呼ばれる。

しかし彼らの中でも、時として愚かな者も居る。

一番有名なのが、人間に恋をした、哀れな人魚。彼女は、人間に近づいたばかりに、泡になってしまった。

そんな彼らにとって人間は食べ物である。

彼らはその美しい歌声と姿で人間を水の中に誘いこみ、真珠のような可愛らしい白い歯で、綺麗に肉を平らげてしまう。

そして人間にとって、人魚はクスリである。

不老不死の、特別な薬。人間はそれを手にする為なら、どんなことでもする。
人魚にはそれが理解できない。
彼らは、長く生き続けるのが、どれだけ苦痛で、孤独なのか知っているからである。故に、人魚は人間に強い嫌悪と侮蔑感を抱くと同時に、強く小さな憧れも持っているのである。



 そんな人魚の一匹が、とある村の、とある滝壺に住んでいた。

何百年も孤独な彼女は、ただひたすら死を願って生きていた。いつも胸に抱えている、白い頭蓋骨と共に。

暗い森の奥深く、誰の目にも触れる事がない、大きな岩の壁に囲まれた小さな滝で、
人魚は一人、死を夢に見続けていたのである。

そんな彼女の元に、ある日奇妙な少年がやって来た。

少年は、眉を思い切りしかめた人魚に向かって、こう言い放った。


「僕と友達になってくれる?」


 あの初夏の風は、まだ何も知らなかった少年に、何を告げたかったのだろうか…







柴崎高志の父親は、満州国から帰ってきたばかりの陸軍大尉で、立派な軍人として有名だった。
柴崎家には、子供が三人いる。一人はもう立派な兵隊の、父親に良く似た兄。二人目は士官学校に通っている、母親似のおっとりした弟と、三人目は、まだ幼い妹である。
 高志は十五歳で、母親に似た、明るい色の柔らかな髪と、優しそうな二重の目を持つ、整った顔立ちをした少年だ。線が兄よりもずっと細く、力も弱い。けれど高志は、父や兄の様に、立派な軍人になることを目標としていた。
高志は、大日本帝国が戦争に勝ち続け、清に露西亜と、大国を相手に勝利を収めていたことを、人生の喜びの一部としている。けれども高志は、戦場というものを見たことも、感じた事も無かった。
父は厳格そうに見えて、実は誰よりも優しく、面白い人だった。その包容力ときたら、女性である母が思わず負け惜しみを言う程である。高志はそんな父が大好きで、いつも戦争の話をねだるのだが、父は何故か、その話しをしたがらなかった。高志にはそれが、不思議でならなかった。父にとっても、名誉なはずなのに。
兄が父と入れ替わりに満州へ旅立ち、もう大分経った頃。
母方の祖父が急に倒れ、高志は母と一緒に、祖父の家へ向かった。妹はまだ五歳だが、父が面倒を見る、と自信ありげに宣言したので、二人きりの帰郷だった。
祖父の家は、とても山奥の小さな集落にあった。街は近代化していっているのに、ここだけ江戸時代に取り残されたかのようで、高志はそこがあまり好きでは無かった。

だから今こうして、暇つぶしの為の分厚い本を風呂敷に包んで、田んぼに囲まれたゆるい坂を登っている。
「ねぇ母上、おじい様の家って、こんなに遠かったですっけ…?」
軍人らしくきびきびと歩きながらも、高志が泣きごとを呟く。普段あまり外で走りまわったり、遊んだりしない高志にとって、これはかなりの重労働に感じられたのだが、母の方は着物なのにも関わらず高志よりもズンズン先に進んでいた。
「はぁ〜やぁ〜くぅ〜!日が暮れちゃうから〜!」
と大きな声で叫んで、ニコニコしながらまた歩き出すその背中を、高志はため息をつきながら見ていた。
 時は1943年、夏。
緑豊かな、小さな集落。街は西洋の空気に酔っているが、ここではそんな空気は一切感じられない。かやぶき屋根の古風な民家が建ち並び、青々とした田んぼと畑が民家よりも目立つ。平安時代から存在すると言われる、謎に包まれたこの集落には、暗黙のルールがあった。それは…
『北の森に入らない事』。
北の森。それは、この集落を囲む森林の中でも、もっとも広大で、もっとも豊かな森林。この集落の水源を担っている北の森には、ここの人間なら誰でも近づかない。そして、森の入口には、古びた鳥居が、忘れ去られたように建っている。その鳥居の意味を、誰も知らない。
知っているのは、北の森に行った人間は、絶対に帰って来ないという事だけだ。触らぬ神に祟りなし。母も昔からそう言われて育ってきた。
戦火も、自然災害も、なぜか滅多に振りかからないこの謎の地で。
 高志がまた歩き出した。太陽が南中してしばらく経つ。もう少しで夕方だ。重い風呂敷を背負い直して、シャツの袖をまくったまま、もう目の前に見える古い民家を目指す…

Page:1 2 3



Re: アイタイモノクローム ( No.11 )
日時: 2011/12/22 02:02
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)

ぬるい潮風がまとわりつくように少年を包み込み、元の場所へ押し戻そうとしているようだった。男の姿が、暗い洞窟の中に飲み込まれる。
少年は置いていかれないように、急いで洞窟の中に入った。
洞窟の空気はジメジメと湿っぽかった。岩壁はじっとりと濡れて、壁に掛けられた松明の明かりにてらてら光っている。潮の匂いが、ツンと鼻をついた。
「ここは?」
少年の声が反響して、松明の炎を揺らす。入り組んだ洞窟を、右へ左へと進んでいく男は、乾いた笑い声を上げた。
「牢屋、さ。」
意味が解らない答えだった。ぴちゃ、ぽちゃ、と、しずくが落ちる音が、どこからか聞こえてくる。
少年は急に不安にかられ、ここから一刻も早く出たくなった。不吉な何かが、この洞窟には充満している。
重く、厚く。目に見えないものが、ひっきりなしに洞窟内で蠢いているかのようだった。
「さあ、ここだ。」
男が洞窟の突き当たりに立ち、ニヤリと笑う。少年からは見えなかったが、男の右側は小さな空洞になっているらしかった。いつの間にか松明は、姿を消していて、足元を照らすのは、壁のすぐ側に捨てたように置いてある、小さな蜀台。今にも燃え尽きそうなロウソクがちろちろと灯りを壁に投げかけている。
少年が、恐る恐る男の方へと足を踏み出した。湿った冷たい空気がか細い悲鳴を上げる。
「これが、私等に残された、希望だ。」
男が少年の背中を柔らかく押した。それだけのことなのに、細い少年の身体がつんのめりそうになりながら、その空間へ吸い込まれた。
「な…」
顔を上げた少年の身体が、思わず強張る。男は息を潜め、目をランランと輝かせながら、それを見ていた。
少年が見たモノ。
それは、頑丈に縄で縛られた、傷だらけの太古の生き物だった。





Re: アイタイモノクローム ( No.12 )
日時: 2011/12/22 02:07
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)



高志は、急に悪寒がして両腕をさすった。
「…な…なんだろ…」
ぐすん、と鼻を鳴らして、あたりを見回す。誰かが自分を呼んだかのように感じた。
けれどそんなことより、さっきから、一向に進めない。いくら進んでも、同じところをグルグル回り続けている。おまけにお腹は空くわ不吉な例の言葉が頭の中を回り出すわで、どん底の気分だ。
このまま自分は死ぬかもしれないと思うと、怖くて仕方無かった。
(ああ、もしここに兄さんが居れば…)
本を大事に抱えて、その場にしゃがみこむ。
(ここからなんなく出してくれるんだろうなぁ)
なんでも出来る、強い兄。勉学に武術にと、兄に勝るものなんて無かった高志にとって、兄は憧れだった。
『高志は強くなれなきゃいけないぞ。兄ちゃんが居なくなったら、お前が兄ちゃんなんだから。』
兄はそう言って出て行った。
軍人となって海の向こうに居る、近所でも評判の、立派な兄。
その弟は今、名も無き小さな村の、大きな森の中で、迷子になっている。
…なんだかひたすら惨めだった。
(ど、どうしよう…。あの人魚の所へ行けば、どうにかしてくれるだろうか?)
血迷った考えが、頭に浮かんでは消えてゆく。さっきまであんなにプンプンしていたのが嘘のように、今では人魚に頼りたくてしょうがなかった。軍人らしくないことは解っているけれど、このことが母や皆に公になる前に森から出たかった。笑い者になるのだけは絶対に御免だ。
(でも、あの人魚、絶対僕のこと嫌ってるし…行きたくても、これじゃ行けそうにないよ…)
また、ぐすん、と鼻をすする。
人にあれほどまで露骨に嫌われることの無かった高志にとっては、そうとうなダメージだった。女性は怒ると怖い。けれど優しくて、花のようなんだという概念を、爆薬で吹き飛ばすかのような、あの人魚の鼻もちならない態度。
一応女性なんだろうけど、怒って無くても怖いし、恐らく元から怒っている。花のような容姿と裏腹に、想像もつかないほど傲慢で、信じられないほど冷たい。
しかも、あの薄気味悪い頭蓋骨。
(抱えてたあれ、一体誰のものだよ…)
確か、『喰い殺すぞ』とも言っていた。そう思った時。ふと、答えがチラついたような気がした。
(もしかして、森で迷って死んじゃった人の…?)
コレクション、という単語が高志の前を跳ねていった。たった一つだけの、頭蓋骨
(水底にゴロゴロあるのかな?)
想像する勇気も無かった高志は、ふと重要かもしれないことに気がついた。
(でも、あれ…?あの人魚、僕のこと、結局無傷で出してくれた…)
命を奪う、とか面と向かって言っていた割に、あっさりとあの場所から逃がしてくれた。しかも、高志を殺す機会はいくらでもあったはずなのに、全然そんな素振りを見せなかった。
(あれ…もしかして…)
抱かない方が断然良い、淡い期待がむくむくと沸き上がってくる。
(もしかして、あの人魚、僕のこと、嫌って無いんじゃ…)
途端に唇が緩んで、みっともない表情になったが、高志はそんなことをちっとも気にせず、
「おぉ〜い、さっきは悪かったよ〜」
とか叫びながら、また森の奥へと足を進めて行った。

…その頃。
アリアドネが、自らラビリンスの中へ入っている最中だった。ミノタウルスの気配は、全くしない。
感じるのは、幻かもしれない、幻の、テセウスの気配だけ。
(ああ、糸が切れないと良いのですが…)
赤い仕付け糸を指に絡ませた香がため息をついた。ザッ、バキバキ、と、難なく、というか闇雲に枝葉を退けて森の中へと侵入していっている。糸の端は、入口の木の枝に結び付けてあった。
(どこに居られるのですか、高志さま!)
着物の裾を手繰り上げて、白く細い脚で、豪快に木の根を踏みつける。太陽の光があまり届かなくて、ここは凄く涼しく感じられた。香にも、それはありがたいことであって…
「高志様〜っ!どこですかぁ〜!」
などと大きな声を森中に響かせながら必死で高志の姿を探す。しかし、人が歩いた形跡も、高志の姿も見当たらない。胸にこみあげてくる不安を必死になだめながら、香は声を張り上げ続けた。
高志はどこだ。
高志はどこだ。
目が、暗い森の中を見回し、木の幹と人影とを区別する力を浪費している。
私の高志を返せ
香はそう叫びたいのを、グッとこらえた。森は、人を奪わない。人が、森を奪うのだ。
香はそれを、ちゃんと知っていた。けれど、森が仕返しをすることも知っている。本当にたまに。森は人を、「神隠し」する。
「高志様は…絶対渡さない…」
渡すものか、と歯を食いしばる。普段窺うことは出来ない、その低い、呻き声にも似た声と、強い眼光が見て取れた。鳥の鳴き声が一切しないことも、薄気味悪い形をした太い木の幹も、この森の全てが、香の何かを焦らせていた。
ゆえに、香が脚を休める事は無い。何かに憑かれたかのように、次から次へと足を踏み出す。体の疲れとか、お構いなしに足が勝手に動く奇妙な感じを味わいながら、香は眉を潜めた。
何かが、おかしい。
そう思った。この森にどうして入っていけないのかは知らないが、やはり何かあるに違いない。この森の不気味な静けさでそれを確信した。早く高志を助けなければ。そんな思いが、香の脚を突き動かすエネルギーに勝手に変換される。
「はぁ、はぁ」
長く険しい道なき道に、流石に息も切れて来た。けれど、香の脚は止まらない。
「っつ…!」
休ませたいのに、異様な力でもって、足は勝手に歩み続ける。気のせいか、その力はだんだん強くなってきているように思えた。額からじわりと汗がにじむ。口を半開きにしたまま、香は顔を青くした。
「高志様っ…」
高志を求める声は、いつしか悲痛な叫びを帯びるようになっていた。密生する茨の中、苔むした斜面を下る香の脚が明らかにスピードを増していく。
「え……いや…ちょ…」
ちょっと待って下さい、という言葉が、悲鳴に変わった。
「やっ…!」
短い音が香の唇から洩れ、ついに湿った木の根に足がすくわれた。
ザザザザ、と滑り落ちて行く、か細い体。
それはいつの間にか、眠ったようにすっかり動かなくなっていた。

Re: アイタイモノクローム ( No.13 )
日時: 2011/12/22 02:08
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)



高志は自分の目を疑った。
こんな筈は無いと思った。
だって、だってこんな事があって言い訳無いと思った。
また悩みが、一つ増えた。

 目の前に落ちて来た幼馴染を見て、高志はあんぐりと口を開けて頭を抱えていた。


(な、なんで香がこんなところに?)
おそるおそる近づいてみる。
香は、ピクリとも動かない。
(もしかして、死んじゃったのかな、あ、いや、香に限ってそれは無いか)
香が聞いたら怒りだしそうなくらい、理不尽でヒドイことを考えて納得する高志。実を言うと高志は、香がそんなに得意では無かった。
確かに可愛い。
確かに頭が良い。
確かに育ちも良い。
けれど、
確かに、普通の女の子では無い。

周りの人はみんな香が好きだったけれど、おしとやかで、優しくて、良い子だ、なんて言っているけど、高志には、香がそれだけの女の子には思え無かった。思い返せば、『何かに追いかけられる恐怖』を頼んでもないのに教えてくれたのも香だった気がする。虫取り網を持って、高志を追いかけていた幼い少女は、高志が知らない間に、こんなに大人になっていた。
「…どうしよう」
誰に言うでもなくつぶやいて、香を抱きかかえた高志は、半ベソ状態になりながら、また森の中を歩きだした。



Re: アイタイモノクローム ( No.14 )
日時: 2011/12/22 18:37
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)




夢を見ていた。


昔、ずっと昔の夢、過去の夢を。

淡い色や濃い色の絵具で描かれたその記憶の中心には、いつも少年の姿があったのを覚えている。
仲間からはぐれ、一艘の船に捕まり、自分を助けようとした何匹かの仲間が死んでいった。そして自分は人間に捕らえられてしまった。それから自分は、自己を忘れて暴れまわっていた。鎖をひきちぎらんばかりに吠えたけり、誰かれ構わず喰いかかっていた。
あの少年に出会わなければ、今もそんなだったに違いない。

少年の名を、『ユワン』と言った。大陸の小さな村で生まれ、育ち、島国からやってきた海賊、倭寇に全てを奪われた、哀れな少年。いつも悲しげな、それでいて純粋な瞳をしていた。その少年は、自分のことを対等に扱った。動物や、物などのようにではなく、自らの意思を持った、対等の存在として、自分と接してくれていた。いつかした会話の断片が、浮かんでは消えてゆく。

『ねえ、やっぱり海って綺麗?楽しい?』

『…ああ、海は綺麗だ。とても、とても綺麗だ。けれど、寂しい。限り無く広がる冷たい水の中で長い生涯を終えるのだ。人間で、しかも小僧で、無知なお前には分かるまい』

『そうか…。じゃあ、君は、いつも寂しいの?僕と居るのと、海の中で居るのとじゃ、やっぱり海が良いよね』

『……いつも寂しかったわけでは無い。それに、お前は人間だ。我の食べ物だぞ?食べ物と居て何が楽しい』


『だよね。じゃあ僕、君と約束するよ。』

『フン。人間は嘘ツキだからな。口だけではなんとでも言えるが』

『僕は嘘ツキなんかじゃないよ。きっと君を、海に帰す。約束するよ。』

『約束が果たされる気配がなければ、お前を喰い殺してやる』

『は…ははは…』

少年が、あの自然の要塞の看守の番の時に交わした会話。何故だか口をついて出て来た乱暴な言葉。胸を締めつけるような、妙な感覚。今でも、鮮明に憶えている。


 人魚は目を開くと、深くため息をつき、滝壺の底から身体を起こした。いつの間にか、本当に眠っていたらしい。冷たくやわらかな水が、人魚の長く黒い髪を静かにたゆたわせていた。頭蓋骨を抱え直し、そばにあった平らな岩に腰掛ける。最近は夢を見る時が多くなってきた。

少年は結局、約束を破らなかった。その次の番の日、人魚を鎖から解放し、船に乗せて村を去った。大きな、丸い月が綺麗な夜だった。少年は、人魚を助ける為に、人を殺した。だから村には戻れなかった。あの時少年は、人魚にこう言った。
『ね、僕は嘘ツキじゃないでしょ?』
泣いていた。人魚は黙って頷いた。いつの間にか、この少年を愛していた。海を捨てた。この少年と生きると決めた。少年を守る為ならなんでもするつもりだった。けれど人魚には、ただ少年の傍に居ることしか出来なかった。素直になれたら良かったのだが、人魚は、賢者でありながら、『素直』になる方法を知らなかったのだ。
やがて人魚と少年は異国の集落へ流れ着いた。人魚は一晩かけて、仮の脚を手に入れると、少年と一緒に森の奥深くへと入っていった。そして、三日三晩かけて、人魚と少年は二人だけの、死に場所を見つけた。
とても美しい場所だった。大陸の村には無かった、美しい、秘密の場所。人魚は嬉しさで胸が一杯だった。いつまでも少年とここで暮らせるのかと思うと、嬉しくて嬉しくて、一人で浮かれていた。だから人魚は気がつかなかった。少年がとても衰弱していることに。命の炎が、今もうまさに燃え尽きようとしていることに。
そんな時、少年は人魚に尋ねた。人魚に名前が無いのなら、僕がつけても良いかな?、と。人魚はそこでようやく気がついた。少年に残された、わずかな時間の量に。人魚は聞き返した。何故そんなことを言うのだ?と。少年は、微笑んで答えた。
『それはね、君が僕の運命の相手だからだ。僕は君より先に死んでしまう。けれど、生まれ変わったらまた君を見つける。絶対にだ。その時、君に名前が無かったら、どうやって探すのさ。名前は魂と一緒なんだよ?』
そう言うと少年は、人魚に名前をくれた。とても良い名だった。人魚は、お礼の代わりに、少年にキスをした。自分の中の少年の記憶を、より一層濃く、強くする為に。

少年は、何日かして、目を閉じたまま動かなくなった。
人魚は生まれて初めて泣いた。少年の空っぽの身体と、少年がくれた沢山のものを抱きしめて、二人の秘密の場所で、声をあげて泣いた。

人魚の名を、『アイレン』と言った。

もうかれこれ五百年以上前の話である。

けれど人魚は、心のどこかで、少年を、ユワンを待っていた。何も口にせず、餓えを過去だけで満たして。


Re: アイタイモノクローム ( No.15 )
日時: 2011/12/23 14:12
名前: 森谷リョウ (ID: 3iZuTr1t)



「ねえええええ!聞こえるううう?ねえってばああああ!」
騒々しい声が、人魚の二度寝を妨げた。思い切り顔をしかめた人魚が、水面を見上げる。そこには、ゆらゆらとした面影の、さっきの少年がこちらを覗いているような光景が広がっていた。
「あれ、おかしいなあ…さっきは居たのに」
水の中って声聞こえないのかな?と小首を傾げたのは、やはり高志だった。迷いに迷い、ようやくここへたどり着けた。けれどもう夕方だ。一刻も早く帰りたい。だから人魚を探しているのだが、さっきから何回呼んでも、返って来るのは自分のこだまだけで、高志はもしかしてさっきのは幻覚だったのではないかと自分で自分を疑いはじめていた。焦りと期待が入り混じり、胸が高鳴る。そんな高志のそばには、ぐったりしている香が横たわっている。高志がもう一度人魚を呼ぼうと口を開けた、その時、
「やっかましいわ!貴様こ…」
ザバッと顔を出した人魚の動きが、ピタリと止まった。憤怒に歪んでいたその表情から、驚き以外のものが取り除かれていく。それに気がついていない高志は、尻もちをついていたのを起こすと、嬉々として人魚に言った。
「良かった、君やっぱり居たんだね」
「貴様…」
「ん?何?」
「…それは、一体なんだ」
「へ?どれ?」
「…その、人間は、貴様が連れて来たのか」
「あ、香のこと?うん、そうなんだ、君に助け」
「ふざけるな!」
天をつくような怒声に、人魚の顎から透明の雫が幾つも降り落ち、風がピタリと止んだ。目を丸くした高志に、人魚が無言で頭蓋骨を持っていない方の手で掴みかかる。グイッと高志の襟首をつかむと、人魚は高志を淵に引きずり込み、滝壺の真ん中にある少し尖った岩に高志の身体を押しつけた。水の冷たさと首をしめられている苦しさに高志が抗議しようとした瞬間、人魚が、自分の腕を掴んでいる高志の二の腕の肉を噛み千切った。
高志の口から声にならない悲鳴が漏れる。あまりにも強く歯を食いしばったので、頬を噛んでしまったらしく、口の中に血の味が広がった。人魚が顔をあげる。その口には高志の血が付着し、琥珀色の瞳の中で、サメのような瞳孔が怒りに燃えていた。冷たく、荒い息が高志の首筋にかかる。ギリ、と歯を食いしばったかと思うと、人魚は腕の力を強めながら、喉を震わせた。
「小僧…貴様、大きな勘違いをしているぞ…。我はお前を一度見逃した。しかし二度も見逃す訳にはいくまい。ここは我の、何よりも大事な場所。貴様らごときが気安く出入りする場ではない…。しかも人間を助けろ、だと?
貴様の図々しさを、今、ここで、思い知らせてやっても良いのだぞ…!」
獣のように低い声。血にまみれた、鬼のようなその形相。高志は、今まであんなに美しかったものが、ここまで豹変出来るということに驚いた。傷口から、冷たい水が針のようにしみ込んで、透明だった水が赤く染まっていっている。最早高志の、怪我をしたほうの腕はぴくぴくと痙攣し始めていた。喉に喰い込んでいる人魚の爪も、刺すようなその目も、全てが高志を圧迫していた。言葉を出そうと思っても、人魚の指がまるで針金のように首にからまっていて、声なんてとてもじゃないが出ない。
「一度貴様を助けようなんて血迷った我が馬鹿であった。人間はすぐ図に乗るからな…。
 小僧、貴様我をなんと思うておる?しゃべる便利な動物とでも思うたか?なあ、人間の小僧よ」
真っ赤な舌を覗かせて、人魚が首を傾げた。その鋭い歯が首筋に触れそうで、高志は恐ろしさのあまり人魚を正視することが出来なかった。反対に人魚は、その黄色い瞳で、高志を憎そうにしっかりと見上げている。殺される、と高志は思った。人魚を突き飛ばしたいのだが、今は首をつかんでいる腕に対抗することで一杯一杯で、そこまで出来ない。
「ま…っ…」
「今すぐその喉笛を噛み砕いてやっても良いが…小僧、言い残すことはあるか」
高志の目が、恐怖に見開かれる。必死で空気を取り込もうとした口から、待って、という言葉を引っ張り出そうとして、人魚を見つめた。人魚が鋭い目線で高志を睨む。
「あい…れ…ん…っ」
苦し紛れに出した五十音の中の四つは、高志が出そうと思って出そうとした訳では無かった。そんなことを口走った自分に驚いた。しかし、驚いたのは高志だけでは無かったらしい。
「ユワン?」
人魚が、小さな、とても小さな、蚊の鳴くような声で囁いた。え?となった高志の首を絞めていた人魚の指から、嘘のように力が抜ける。呆然とした人魚の表情。大きく開かれた、真っ黒な瞳孔。紅い光を浴びて、淡く輝いていた身体。その肌にくっついている数多の水滴が、ダイヤモンドみたくその光を反射させて、眩しかった。ずる、と、支えを失った高志の背中が岩肌を滑り、足掻く間もなく水の中に落ちて行く。人魚は何故か、自分をその瞳に映しながらも、何か自分には届かない、全く別のものを映しているように、高志には見えた。



Page:1 2 3



この掲示板は過去ログ化されています。