ダーク・ファンタジー小説
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入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 青、きみを繋いで。
- 日時: 2018/10/04 21:51
- 名前: 厳島やよい (ID: uLF5snsy)
そろそろ、飽きてきたので、はやく終わらせたい。
どうも、厳島やよいです。
@sousaku_okiba_様より
お題『青春と呼べるほど、綺麗じゃない』
流血・暴力描写など入ります。
物語の長さの割に矛盾点など多いかもです。
苦手な方はご注意ください。
◎2018夏大会にて、管理人賞をいただけました。◎
なんとか、完結まで持っていけたらと、思います。
○おもな登場人物○
有明恒平(ありあけ こうへい)……父方の叔父とふたり暮らし
須藤美佳(すどう みか)……中1の春に母とふたりで越してきた
紫水雨音(しすい あまね)……コウヘイの家のお隣さんで昔からの友達
嶋川颯真(しまかわ ふうま)……コウヘイの友達。密かにミカを好いている
天宮城麗華(うぶしろ れいか)……中学のとき、ミカをいじめていた
奥羽晃一(おうば こういち)……ミカの兄。 自殺した。享年16歳
■
このちいさなちいさな世界から色が消えてしまっても、ひとりぼっちでもね、きみがいるから、僕は……
- *7* ( No.13 )
- 日時: 2017/10/23 02:40
- 名前: 厳島やよい (ID: .7JOKgnc)
▼
彼は影に立ったまま、震えていた。それは寒気から来るものでも、恐怖や孤独感から来るものでもない。笑いながら、彼は震えているのだ。
嬉しくて、嬉しくって、たまらない。あの瞬間だけは、あの子の視界の隅から隅まで自分だけが映っていた。この全身だけで埋め尽くされていた。
流れ込んでくる拒絶が、否定が、彼の中の何かを目覚めさせる。正体がわかっても名付けようのないそれは、気を抜けば彼のすべてを染め上げてしまいそうになる。けれど決して、この感情がだれに対しても恨みとして向くことはないのだとも、はっきり理解していた。
そうしてひとりの少年は、ある決断を下す。
「やっぱり俺、美佳のことが好きだ、だーいすきなんだ」
それから2日後、天宮城麗華の鞄に付いていた、小さな熊のぬいぐるみのキーホルダーが、なくなった。
▲
わたしを邪魔者として嫌がらせや精神的苦痛を与える地味な地味な宗教みたいな儀式は、麗華とその仲間の一部だけで、今もなお陰湿に続いている。他のクラスメートには「なんかあいつやられてるっぽいけど俺達私達はよく知らんし無関係だしなあ」と判断されている雰囲気で、数名に至ってはそんなことさえ考えていないらしい。そのほうが、全員にとって好都合だから、別にいいけど。
そうは言ってみたものの、わたしはロボットでも化け物でもなんでもない、ただの人間。そろそろ限界が見えてきたのが事実だ。
「なぁんかさ、最近麗華ちゃんの持ち物が無くなっていくらしいんだよねえ」
今日は男女別の体育の授業があって、わたしたちは、男子が向かっているグラウンドとは反対方向の体育館に向かってぞろぞろと歩いている。例によってひとりでいるわたしの斜め前で、麗華の取り巻きのひとりである女子がわざとらしく声を上げた。
「うそー」
「最初は鞄のキーホルダーがずったずたになってごみ箱に捨てられてて、お気に入りの複合ペンはまだ見つかっていないでしょー、その次は靴紐が片方だけ、体育館裏のごみ箱から見つかったでしょー」
「えぇっ、やば!」
どれに関しても、わたしが犯人だと思っているんだろうか。言うまでもなくわたしはそんな中途半端な仕返しなんてしていないけど、そう思っているなら面と向かって言えばいいのに、わざわざわたしの近くで噂話の建前を装って。数秒に1回くらい、頬に視線が針みたいに刺さるのを感じる。やれ気持ち悪いだの汚いだのと言うわりに誰よりもわたしの近くで熱いテレパシーを送ってくる辺り、ちょっと頭たりないのかなー。
当の麗華本人は、人混みの向こうで別の女の子と楽しそうにお話ししていた。多分この子達に飽きたんだ。それが麗華だから。そんなことにも気がついていないのかなと思うと、彼女たちが不憫でならない。
そうこうしているうちに、体育館に着いてしまった。他のクラスの人たちで溢れている今の状況が幸いして、この前廊下でされたみたいに足を引っかけられたりはしなかったので、それだけはよかった。
じゃーお前ら、タイマーで5分計るから走って準備運動しろよーっ、と、やる気のない若い先生の声が響き渡る。皆、特にそれに逆らうこともなく、かといって返事をすることもなく、トラック型に描かれた線に沿ってのろのろ走り出した。
今日はバスケットボールとバレーのローテションだ。迫る体育祭の練習もさせてくれないなんてどうかしている。
古い水銀灯がちらつくのを眺めながら息を切らして、なんて面倒臭いことをさせるんだろうと思った。あー、そろそろ担任の先生に退部届けをもらわなくちゃな。辞める理由ならもうちゃんと決めてあるんだし。
周りがほとんど2・3人かそれ以上に固まっておしゃべりと同時進行で走る中、ひとりきりで黙々と床を蹴り続ける。わたしも彼女たちのように、特に仲の良くないクラスメートと並んで過ごすという選択肢はあるっちゃあるんだけど、敢えてそれを選びとる気にはなれなかった。数か月前までのわたしなら、そんなことはまずないだろう。媚びへつらってでも誰かの糞になってくっついていたはず。こうなったのは、あの人の、影響か。
「んっ、お??」
…………と、こんな状況でも彼にうつつを抜かすなどという注意力散漫も甚だしい脳みそと身体に、情報の伝達不良が起こったらしい。何が起こったのか把握するよりも前に、わたしはすってんころり、ワックスと汗の臭いが絶妙に混じる床に倒れこんでいた。
別にあの取り巻き女子に突き飛ばされたとか、そんな悲しい理由じゃない。上履きの靴紐が緩み、それを自分で踏んづけてコケただけで、だれも巻き込んではいない。特に怪我もないけど、だれかに追い越される度に、大体ちょろっと一瞥されては無言で目を逸らされる、その動作の流れにわたしの気力はどんどん削ぎ落とされていった。
変なところで転んだものだから、わたしを避ける形でさぁぁーーっとみんなが二手に別れては合流していく様子が水族館のイワシを連想させて、ちょっと面白い。かといってあと2分もこうして座り込んではいられないので、そろそろ立ち上がろう、としたとき、
「あんた、大丈夫?」
横からだれかの手が差し出されてきた。
日焼けとは縁遠い透明感のある真っ白な肌。かわいいというより美人の部類にはいる顔立ち。艶のある、烏の濡れ羽色と称せそうな長い髪のポニーテールに、きりりとした形のいい目の上で揺れる切り揃えられた前髪。
ん?確かこの人って、隣のクラスでバドミントン部部長じゃなかったっけ。この前の始業式のとき、中体連の県大会2回戦まで進んだとかで、ステージに上がって表彰されていた。あと、1学期の臨海宿泊学習のとき、拡声器を持って生徒代表で話したりしていた。
マッハの速さで靴紐を直してから、好意に甘えてそのひんやりした手のひらに触れる。彼女もぎゅっとわたしの手を握り返して、立ち上がらせてくれた。
「だ、大丈夫……です。ありがとうございます」
「ならよかった。あー、同い年なのに敬語とかキモいし、普通でいいから。んじゃね」
「あ、うん」
わたしよりも少し背の高い、紫水、と体操服の胸元の校章の上に刺繍が見えた彼女は、何てことないかのようにひとりでのランニングへ戻っていった。しかし良い意味で溶け込まない。さすがはエースって感じで走り方もサマになっている。
すんごい人と話してしまったな。シスイさん、だったっけ?なんか名前まで格好いいし。小説家のペンネームみたい。
あ、そういえば下の名前、なんていうんだっけ。
バレーボールにはあまり、いい思い出がない。わたしの思い出に良い悪いと評価をつける意味がないのはわかっているけど、それはどうでもよくて。……真面目にやっていたら腕に痣ができてとても痛かったし、先生が、1回までならバウンドしても平気、などと変なルールを適用するもので、せっかく柔らかいボールを使えたのに大失敗をしてしまい、授業のあとではグズのろま消えろと散々な言われようだったのだ。そんな、小学生のときの思い出。
いやな記憶から逃れようとでもしているのか何だかんだでさっきの彼女のことが頭から離れず、その後の試合という名目のボール遊びでも集中できなかったわたしは、何度も球を取りこぼしてチームメイト数名に冷たい目を向けられていた。別に負けたからって給食を抜かれるわけじゃないのに。そんなことを思いながら、いじめられる理由にこういうことも入っているのかなと、曖昧な理解が生まれる。心の内じゃこんな考えなのに、黙って笑いながら手柄や機会を横取りされたり、台無しにされていたらそれは怒りたくもなるよ。現に、わたしが2回目のトスを変な方向に飛ばしたせいでスパイクを決め損ねた人がいるし。
「ごめんねーみんな」
元気に跳ねてわたしから逃げていくボールを追いかける。だいじょぶだよーっ、と後ろから声が聞こえるけど、これ、もう何回目だ。スパイクの子が篭から新しいのを取り出して、流れで再開してしまっているし。
自分の言葉も、どうせ上っ面だけの物なんじゃないかと思えてきた。謝っておけばとりあえずその場はしのげるんじゃなーい?みたいな。最低だなあ。
「あ、またあんたじゃん」
「ん?」
もう1歩!というところでわたしの手が空を切り、へこたれそうになっていると、ボールは近くに立っていた女の子の両手の間に丁度すっぽりと収まった。
「また助けられちゃったね、ありがとう」
「どーいたしまして」
さっき転んだ時に声をかけてくれた、紫水さん。バスケの試合が終わって、ひとりで休憩をしている最中だったようだ。
ボールに嫌われるわたしを見ていたらしく、彼女はちょっと離れていたのに歩いて手渡ししてくれた。ていうかそう言われた。情けない。
「あんた、もしかして体育嫌いな人種?」
ちょっとちょっと、人種って。
突っ込みたくなるのを我慢して、言葉を返す。わたしも人のことは言えないので。
「ううん、バレーが極端に嫌なだけ」
「そう」
「紫水さんは好き嫌いとか不得意なこととかなさそうで、羨ましい」
思ったことをそのまま口に出しただけなのに、彼女がかすかに眉をひそめた。
「あたしはサイボーグじゃないんだけど。苦手なものくらいあるから」
「え?」
「トマト」
「……………………あ? んんん、え?」
「プチトマトが嫌いなの! あのぶちゅってなる食感が大っっっ嫌いなんだよ!」
「うァあああぁぁあ?!!」
そういうことじゃないんだけど、え、なにこの人、え、え、かわいい。突然両肩を掴まれ激しく揺さぶられても、そんなことしか考えられないくらいには混乱する。
彼らにとっては知らない人間に、大声でいきなりトマトの嫌いな点についてぶちまけたんだから、周囲の人たちが驚いた顔をするのも無理はないだろう。いつもとは違う色の視線を一心に受け止めていると、なんだか新鮮な気分になる。
「オラァ紫水ーっ、他のクラスのやつに絡んでっじゃねーぞ」
外に出ていたらしい先生が、帰ってくるなり名簿か何かを挟んであるバインダーで彼女の頭を叩き、わたしたちを引き離してくれた。
「いってえな!! 叩けば直ると思ってんのか? あたしはテレビじゃねーっつの!」
「その言葉遣いー。敬語くらい使えよ、成績下げっぞ、レギュラーおろすぞ、部長解任すっぞ」
「うーわーごめんなさーい」
床にボールを突く音に混じって、棒読みの謝罪が辺りに響いた。なるほど、バドミントンの顧問なのか。
まだ余韻で世界が、いや視界ががくがく揺れている。
優等生、部長、エース、一匹狼、女の子にしては少々乱暴な言葉遣い、かと思えばトマトが嫌いというかわいいギャップ、そして容赦なく先生に叩かれるというこのキャラ。なんだか目まぐるしい。勝手に何重にもかけていた色眼鏡がどんどん外れていくんだから、そりゃまあ、ね。
「ねえ、紫水さん、下の名前教えてよ」
へたっ、と座り込みながら問いかける。すると先生はひどく驚いた様子で目を見開いて、今度はちゃんと手のひらで、彼女の背中を叩きながら言った。
「お? 新しくお友だち作りしてたのか、珍しい。そりゃあふたりとも、悪いことしたな。授業中だけど」
「うるせー」
紫水さんは、比喩抜きでまた彼に噛みつきそうになりながらも、膝をついてゆっくり腰を下ろし、わたしと目線を合わせてきた。
「雨の音、って書いてアマネ。あたしは紫水雨音だ」
やっぱり小説書いてるよ。
*
雨の降る日曜日、みんな大好きおやつの時間。9月頭に開かれた新人戦もあっけなく、全員仲良しこよしに1日で敗退したため、冬ごろまで締まらないであろう部活は今日も昼前にぐでっと切り上げられた。
雨音ちゃんの名前を知ってから2週間くらいが経つ。彼女から向けられていた運動音痴の疑惑は、1週間前の体育祭できれいさっぱり晴らしたつもりだ。あの授業の時はどんくさい醜態ばかりさらしてしまったけど、これでも一応、誇り高き***部なので。とはいえ近いうちに自分から辞めますが。
保護者記入欄だけがまだ空いている退部届けは、お母さんの部屋の、昔の家族写真が飾ってあるデスクの上に置いたままだ。かれこれもう2日も。紙が湿気るまえに判を押してほしいなあと思いながら、買い物に出掛けた彼女の帰りが待ちきれず、キッチンの冷蔵庫を開いた。あ、ガリガリ君梨味、発見っ。
せっかくの休日だというのに、世間は迫ってくる大型台風のせいで落ち着かない。わたしたちの住む町でも数日前から雨が降り始めていて、台風が直撃するであろう月曜日はさすがに休校になるんじゃないかと騒がれていた。今年の春頃からよく一緒に登下校する、同じ組のコウヘイという男の子も「まあ……休みになったらラッキーかな、程度には思う。課題が増えるのはいやだけどね」と言っていたくらいだ。大体わたしと考えは同じらしい。
冷房をかけたマンションの一室でひとり、アイスをかじりながら窓の外を眺める。この部屋は、7階建ての中の3階だから景色は大して良くないけれど、こうしているといつも気分が落ち着いた。
塾の宿題も学校のワークもわたしを待ってくれているのに、なぜか、数週間後に控えている定期考査の勉強なんて、する気にもならない。すべてはきっと、雨のせい。
「あ、紫色」
まばらに行き交う人々の傘を眺める遊びをしていたら、一際目を引く鮮やかな色が学校のある方向から流れてきた。そのまま紫色は通りをなぞっていくかと思ったのだけど、横断歩道の前で突然歩みが止まり、シンプルな白のスニーカーが覗いた。どうしたんだろう。
その爪先が指すほうへと視線を動かす。黒い大きな傘が、膨らんだビニール袋をちらつかせて縞模様を渡り、ゆっくりと紫へ向かっていくのが見えた。
もしかして、夫婦かな。と、考えていたら。
「ん?」
紫色のほうの女の人が、おもむろに傘を閉じはじめたではないか。ていうか彼女は雨音ちゃんじゃないか。学校指定の長袖のジャージを羽織って、さらにラケットバッグと水筒を肩からぶらさげているので、特に視力がよろしいわけでもないこの目でも、99%間違いはない。
彼女の真正面に立っていた黒い傘の持ち主は、その行動を見て驚いたのか、微妙に1歩後ずさりしている。わたしもびっくりだよ。
しばらく、といっても数秒の間だけど、彼女は雨に打たれながら何か話し、黒い傘の下にするりと入っていった。黒はふたりを雨から守るには十分過ぎるくらい大きく、彼女の顔も姿もまったく見えなくなった。
しかし。
わたしの視界から、再び歩き始めたふたりが消えていく直前、ポロシャツとジーンズを着た相手の後ろ姿と、横顔が、ほんの少しだけ見えてしまった。
「…………うそ」
一瞬だったけど、見間違いなんかじゃない。彼に至っては、99%どころか150%の確信がある。なぜって、今まで何度も、その細い後ろ姿を追いかけてきたんだから。この目でまっすぐ、彼を見て。
「コウヘイ、だ」
ショックだった。あれ、なんで勝手に傷ついているのかな、わたしは。
- *7* ( No.14 )
- 日時: 2017/10/29 00:43
- 名前: 厳島やよい (ID: IFeSvdbW)
コウヘイに同学年で幼馴染みのような存在がいる、という話は、夏休み前に本人から少しだけ聞いていた。お隣さんの家に住んでいる女の子で、それこそ昔は家族のようによく遊んでいたけれど、中学に上がってからは彼女の部活の都合であまり顔を合わせていないとも。わたしが言えたことではないけど、他人との間に壁を作る交友関係の狭い彼のことだ、たぶんそれは今相合い傘をしていった雨音ちゃんで合っているはず。
その彼女が同じ学校のちょっとした有名人で、つい最近正式に知り合ったばかりの、隣のクラスの友達だなんて予想外すぎる。わたしにとっては守備範囲どころか外野の存在だった。ホームランかと思っていたら実は余裕のフライなのだ。野球のこととか全然わからないけど。
世界は狭いし類が友を呼ぶ。きっと雨音ちゃんと彼は……。考えかけて、素早くカーテンを閉めた。真っ暗だ。なにもかも。
完食したアイスの棒は、気がついたら部屋の隅にあるくずかごの中にひゅうんと吸い込まれていた。お行儀悪いなー、もし当たりつきだったら勿体ないかなーとも思ったけど、意識に反して、この身体はお布団の上に直行している。と認識してまもなく、耳のすぐ近くで柔らかい音がした。ああおふとんさいこう。きみとわたしはえいきゅうにこいびとだよ。こいびと、恋人…………。
「ぅぅうううわあーーーーーーーう!!」
思わず枕を防音壁に叫んでしまった。うまく逃避できない自分が馬鹿みたいで、ひとしきりシャウトしてからはケラケラ笑った。端から見たら明らかに変質者なので、今お母さんがいらっしゃらなくて本当によかったと思う。
あーあ、わかった、わかったわかった、わかった。わたし、須藤美佳は、有明恒平くんのことが好きなんです、きっと。今日まで見ないふりをしてきたものの、ここまで来てしまったら認めるしかないんだろうな。
ずっと伸ばしかけのミディボブくらいに短かった髪も、いつのまにか背中を半分くらい覆う長さになっている。美人な幼馴染みという立場の雨音ちゃんを前にして結果は決まっているから、近いうちにばっさり切っちゃいそうだけど。
久しぶりの恋だから、どうせなら正面衝突してから粉々に砕けたい。その後はひたすら勉強に打ち込んで、テストで自己最高得点を連発するくらいに夢中になれば、過去はすっきり整頓できるし成績も上がって一石二鳥。お、これいいんじゃない?我ながらとっても素敵な考えだ。
お腹の底から元気が湧いてきて、無意識に身体が起き上がった。
どうしよう。いきなり大告白するのもマナーがなっていないし、まずは恋バナのひとつやふたつくらい話題にしてしまおうか。
考えながら、ほとんど空っぽのくずかごから、さっきのガリガリ君の棒を取り出した。なんと、結果は当たりだった。もう1本食べられる。
「ぃやったああ!」
今日は感情の波が荒ぶっている。やっぱり雨のせいだ。
「ただいまーっ」
さらに適当に小踊りしていると、玄関からお母さんの声がした。
この喜びを報告したくて、滑らかな廊下をスライディングしてみる。怪我をしない程度に。
何事かと、座り込んで靴を脱ぐ彼女に変な顔をされてしまった。
「おおおかえりお母さん。あの、あののねあのね当たった!」
「何にぶつけたって? ちょっと落ち着きなさいよ」
「タンスに足の小指ぶつけたみたいじゃん、それ。違うよ、アイスが当たりだったの」
印刷された文字列を見せつける。
「あらまー、すごい。もう5回は超えてるよね?」
「へっへん」
しっかりとわたしの言葉を理解してくれたお母さんが、目を丸くする。彼女は今まで1度も当てたことがないらしい。
わたしが良くも悪くも運のあるところは、この人には似なかったようだ。じゃあ誰かといえば。
「そういうところは、父親に似たのかしらね」
あまりにも自然に生理的に、くしゃみが出てしまったみたいに彼女は言って、水滴のついた重たそうなビニール袋を持ち上げた。ガサガサと音が鳴る。
あの人のことは、ちょっとだけ地雷なんだけどな。
沈黙が流れて、リビングのほうへ歩き出したお母さんが、突然振り向いた。
「……ああっ、ごめん、へ、変な意味じゃないのっ!」
「別にいいよ。そんなに過敏にならなくたって」
「ごめん」
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「もしかして、本当は離婚なんかしたくなかったんじゃない?」
「…………当時は、ちょっとだけ、ね。でも後悔はしてないよ。もう、目は覚めているから」
「そっか」
答えを聞くことができて、安心した。だからわたしは心からの笑顔になる。
「なら、わたしは、ミカは嬉しいよ」
それから夕飯までは、互いに無言だった。
わたしたちの距離感は、きっとこれくらいのほうが、生きやすい。
父親のことを思い出すと、ますます勉強する気にならなくなった。かすかな雨の音を聴きながら、ベッドの上で2時間くらい眠った。
「ミカ、今日は学校休みだって」
月曜日の朝、細かく時間を言うならば、6時34分頃。朝ごはんを食べ終えてごちそうさまの挨拶をしていると、珍しくお母さんのスマートフォンが鳴り、短い通話のあとにそう言われた。とりあえずは、こんな天気の中、朝練習に行かずに済んでホッとした。でもコウヘイに会えないのは残念だ。
雨は暗い空から滝のように勢いよく降ってくるし、時折音をたてて揺れる窓から外を見ると、風にあおられてとんでもないものが道路を転がっていく。丁度テレビで流れている天気番組でも、わたしたちの住む地域に尋常じゃない数の警報が出されていると知り、これはもう仕方がないと悟った。お母さんも今日は仕事を休むそうだ。
食卓からでも見える、台所の冷蔵庫に貼られた、学級連絡網の紙へ目を凝らす。ほとんどのクラスメートが家の電話番号を登録してあるのに対して、親の携帯の番号を載せているのはわたしを含めても5人だけだった。あ、コウヘイのところも090から始まってる。
「課題出るとか言ってなかった?」
「ううん、特には。ねえ、連絡網、ウチの次って誰だったっけ」
「えっとねー、田邑詩乃ちゃんち」
そういえばあの子、春からずっと席が真正面の1番前で、今もすごくいやがってるよな。先生、そろそろ席替えしてくれてもいいのに。
わざわざ取ったメモの内容通り、電話で連絡網を伝える彼女を横目にそんなことを考えつつ、ぼけーっとテレビを眺めた。ヘルメットと雨合羽を身につけて強風に殴られながら、その身を犠牲にするように都内の天気を実況するリポーターが、大きすぎるわけでもなく小さすぎるわけでもない平凡なサイズの画面に映っている。田舎者の血が抜けきらないわたしでも耳にしたことのあるような地名が表示されているので、色々な意味で台風の恐ろしさがよくわかった。
数時間後にはわたしたちの町も暴風域に飲み込まれるけれど、停電に関しては別として、昔のわたしが抱いたような「家が潰れるんじゃないか」などの心配は全くいらない。両親が離婚したときの慰謝料その他で購入した部屋のあるこのマンションは、相当頑丈に作られているからだ。何だか生々しい話だ。
休校になったとはいえ、風邪やインフルエンザのわけでもないのにパジャマ姿で1日を過ごすというのも気が引ける。歯を磨いたら着替えよう。空になった皿を積み上げながらごちそうさまをしたけど、そういえばさっき言ったんだった。
*
適当に引っ張り出した服に着替えて、まずしたことといえば机に向かうことだ。
部屋が薄暗いので、スタンドの明かりだけをつけてノートを広げる。こんな時間に勉強をしたことなんて今までなかったので、変な感覚がした。
今日は随分と捗るな。雨が降るんじゃないかってくらいに。って、現在進行形でざんざか降ってるし。自分で自分に突っ込んで苦笑しながら、答え合わせをした。苦手な単元なのに全部正解していて、また同じことを思って同じ突っ込みを入れた。学力が上がっても、つくづく自分は馬鹿だと実感する。
わたしは元来、落ちこぼれに属するような子供だった。とろくて、要領が悪くて、可愛くなくて。成績優秀で運動神経も人並み以上にあり、顔もきれいなお兄ちゃんと並ぶのが本当に申し訳ないほどだった。彼自身はそんなことどうでもいい、なんて言っていたけれど。そんな彼に憧れて、今のわたしは203人中39位の点数まで上り詰めている。塾の先生はまだまだ伸びしろがあると言って褒めてくれたので、もっと頑張っていくつもりだ。
昔の両親は当然のように彼ばかり可愛がっていた。「あなたもお兄ちゃんを見習いなさい」という台詞が今でも耳の奥にこびりついて離れない。
あの頃のわたしは、彼のようになれたらどんなに世界が美しいものになるんだろうと、3人に羨望の眼差しを向けていた気がする。彼の部屋には、ぴかぴかのトロフィーや賞状がずらりと並んでいて、お母さんもお父さんも、そんな彼が望むものは何でも買い与えて。ほんとうに、羨ましくて、うらやましくて、堪らなかった。
でも、彼が輝いていた時期は、今振り返ってみるとそんなに長くはない。むしろ、常にどこかが不安定で、欠けていた。当時のわたしはそれに何の疑問も抱かずにいたけれど、きっと両親は、わたしが生まれるよりもずっと前から見て見ぬふりをしてきたんじゃないだろうか。
わたしが初めて、お兄ちゃんがおかしい、と気がついたのは、小学2年生の冬。だから、彼は6年生で、中学受験の年だ。最初はそれこそ、受験のストレスでそんな風になったのかなーと、ぼんやり思っていたけれど、あの雪の降る節分の日に見た光景は、そんな、なまやさしい物じゃなかった。
学校から帰って玄関の扉を開くなり、奥からだれかの絶叫が聞こえてきて。靴を乱暴に脱ぎ捨て、廊下を走って声のほうに向かうと、薄暗い広いリビングで、スウェット姿のお兄ちゃんがお母さんに馬乗りになって彼女を殴っていたのだ。顔こそ狙っていなかったけれど、思いきりグーで。
部屋の家具の配置が乱れていて、どれほど暴れまわったらそんな風になるのだと問いただしたいくらい見事に、固定電話の乗っていた棚や椅子なんかが倒れている。
なぜかしばらく使っていないはずの花瓶がフローリングの上で粉々になっていて、その破片を振りかざすお兄ちゃんの足の裏や腕の、明らかにガラスでできたわけではなさそうな傷口からは赤い液体がだらだらと垂れ、磨いたばかりの床にかすれた模様を作っていた。お母さんは、真っ黒な目をぎらぎら光らせるお兄ちゃんに向かって、念仏のようにごめんなさいごめんなさいと謝っている。うわわわあ、なんだこれは!
やばいと思ったけれど、その状況に混乱してどうすればいいのかわからず、震える手に持っていた、紙の赤鬼の仮面をかぶった。その日の図工の時間に作らされたので、帰ったら真っ先に彼に見せようと、ランドセルにも入れずに持っていたのだ。
「そ、そこのおにーさん。おかーさんにそんなことーしちゃだめじゃないかー。いたいいたいだよぅ」
自分でも、もっと選択肢はなかったのかと思う。マジものの、馬鹿だ。
けれども、幸いにもこのやり方が通じたらしく。
「あっれえ、かわいい赤鬼さんだねー」
お母さんしか見ていなかったその視線は容易くこちらに向けられ、尖った大きなガラスの破片もぽろっと床に落ちていった。
しゃっくりみたいな声を出して、倒れたままのお母さんが息をする。軽く首も絞められていたらしい。お兄ちゃんは、さっきまでのことなんか忘れたみたいにそんな彼女から離れ、四つん這いになってゆっくり、わたしのほうへ近づいてくる。
「かわいいかわいい赤鬼さんですよー、だーれだっ」
「あっ、わかった!」
目の位置に開けた歪な小さい穴から、普段よりも幼い笑顔の彼が見えて、鬼の仮面を取り払った。
「ミカだぁ」
「あったりー!」
ばっ、と抱きついてくる。笑いながら、汚れていないほうの手でわたしの頭を優しく優しくなでる彼を見て、視界の端に映るお母さんは、ひどく混乱した表情を浮かべていた。
そのあとしばらくして、わたしはお母さんから、2階のお兄ちゃんの部屋で彼の怪我の手当てをするよう言われ、片付けに励む彼女のもとから離れた。ついでに、お父さんには絶対にこのことを話すなとも言われた。
1階からかすかに聞こえる掃除機の音なんかを気にかけつつ、痛々しい傷口に消毒液をかけたり、包帯を巻いたりしてあげたけれど、彼は痛がる素振りなんてまったく見せなかったし、むしろずーっとにこにこ微笑んでいた。気味が悪いとかいう以前に、不思議でしかたがない。この態度の変わりようが。
おにーちゃん、どうしてあんなことしてたの?と訊きたい気持ちは山々だったけれど、もしその言葉で彼の神経を逆なでしてしまったらと考えるとそれだけは恐ろしくって、なにも言えなかった。
その日、彼が入試で不合格になってしまったことは、春が来てから知った。
- *7* ( No.15 )
- 日時: 2017/11/06 07:36
- 名前: 厳島やよい (ID: KZRMSYLd)
溜まっていた課題を消化しきったのは、ちょうど正午を過ぎた頃だった。外は一段と風が強くなっている。
耳を澄ますとリビングのほうから物音が聞こえるので、お母さんが昼食の準備でも始めたんだろう。
椅子から立ち上がり、凝り固まった身体を強制的に引き伸ばしてほぐした。そこらじゅうの空気が押し寄せるように肺へ流れ込んでくるのがわかった。
机の端に積まれた努力の痕跡と時間の進み具合は丁度良く釣り合っている。お兄ちゃんのことを思い出すと、無心に問題が解ける気がする。良くも悪くも。テスト期間には彼の音楽プレーヤーでも引っ張りだして使ってみようか。
押し入れで眠っているあれの中身は完璧に彼の趣味だけで構成されているので、わたしの耳に合うかどうかはわからない。いきなりヘビーメタルとか流れてきたら、びっくりしてイヤホンを千切ってしまいそうだ。
「おっかーさま、今日のお昼ご飯はなんでしょかー?」
一時的な休息を手に入れたわたしは、この暇を思う存分持て余すため、キッチンにいるお母さんにちょっかいでも出しにいくことにした。
「ミカが頑張っちゃってるみたいなのでー、夕食にする予定だったハンバーグを今作っちゃいまーす」
「うおーやったー!」
素直に嬉しい。親子揃って昔からの好物なのだ。
材料を広げ、昼の料理番組の真似なのか、微妙に音の外れた歌を口ずさみながら彼女が変な踊りをおどっている。なんだか機嫌が良いらしい。
「なんかご機嫌だね」
「そーお? まあ、お仕事が休みだからかなー」
「なるほど」
わたしも学校が休みでちょっと嬉しいよ、なんて台詞は飲み込んだ。そんなことを言ったら、過剰に心配されてしまいそうだったから。………………本当はそれくらい、気にかけられたいくせに。
サラダを取り分けつつ外を眺めると、おびただしい数の雨粒が空中で舞って波を作り出していた。朝から垂れ流しのままのテレビには、迷走しているようにも見える台風の進路がちびちびと白い線で描かれていて、まるでわたしのようだ。ちっちゃく笑いが込み上げてくる。自嘲。彼のひとり笑いにも、彼なりにちゃんと理由と意味があったのだろうなと、今さら知る。
「はーいお待たせ、特製ハンバーグランチセットの出来上がりでーす」
「わーい!」
湯気といい匂いを立てる皿を両手にお母さんがやって来たので、スイッチを切り替えた。意識的にそうしたのだと理解できるあたり、わたしもそろそろ、危ういのかもしれない。
数年振りに学校が台風で休みになったことと、夕食の予定だったハンバーグが昼食になったことと、夜に家の明かりが何度もちらついたこと以外、この日は特に変わったことは起こらなかった。
お母さんの作る料理も、変わらず美味しいままだった。
*
お母さんが家を出ていく扉の音で、目が覚めた。枕元の時計を見ると針が7時を指していて少し焦ったけれど、そういえば今日は火曜日で、部活の朝練習は休みなんだ。
まだ鳴っていない目覚ましのスイッチを切る。妙な安心感に全身を支配されて、ベットから降りるなり、ぐうっ、と伸びをした。
少し暑いなと感じてカーテンといっしょに窓を開けると、強い風が部屋に吹き込んできた。磨きあげられたような青が空いっぱいに広がっていて、とても清々しい。久し振りです、おてんとうさま。
嵐は過ぎ去り、爽やかすぎる夜明けとともにいつも通りの日常は戻ってくる。きっと今週も麗華たちは嫌がらせをしてくるだろうし、塾の個別指導はあるし、コウヘイと登下校もするかもしれない。早く部活辞められないかなー、とも思い続けるんだろう。
支度を始めるために回れ右をする。
「ん?」
さっきまで何も聞こえなかったのに、勉強机の上で、ちいちゃな紙が風とともにぴらぴらと音を立てている。昨夜寝たときには無かったはずだ。
何だろうと近づいて、ガラスの重石で押さえられているその紙の正体がわかったとき、一瞬息が詰まってしまった。
退部届けだ。すべて記入済みの。
「…………お母さん」
慌てて窓から身を乗り出した。真下の水溜まりだらけの歩道を、彼女はいつもと変わらない服装で、いつもと変わらない急ぎ足で通りすぎていた。
変わらないはずの日常が、今、音を立てて変わっていくのがわかる。とうとう今日、自分はあの集団から離れるのだという事実も、これでやっとあの子の望みを叶えられるのだという歪な安堵も、なぜか湧き上がってくる罪悪感に似た感情も、わたしを揺さぶるには充分すぎた。
「ごめんなさい」
瞼が熱くなる。
「でもわたし、頑張るから」
喉の奥からせり上がってくるもっと高い温度は、空を見上げて飲み込んだ。
思い出に浸りすぎて、大事なことを忘れていた。泣くなんて、馬鹿みたいなこと、しちゃいけない。わたしはお母さんから、お兄ちゃんを奪ってしまったんだから。殺してしまったも同然なんだから。わたしには泣く資格なんて、ないんだよ。
彼女自身がいくら違うと首を横に振ったところで、お兄ちゃんは帰ってこない。離婚したからって、元気になったお兄ちゃんが空から舞い降りてくるわけじゃない。
この窓から身を投げ出したい衝動に駆られる。でもそれは、彼を、彼の心を裏切ることになるから。でもそれは、わたしが避けてきたもの、そのものに、自ら飛び込んでいくことに等しいから。
もう、お母さんのあんな姿、見たくない。
──────お前は生きろよ。美佳
最後に聞こえたあの言葉と、あの笑顔を思い出して、わたしは。天が教えるその時まで、生きつづけなければならない。たとえ死にたいと思ったとしても、それが嘘だろうが本当だろうが、絶対に。
ふうう、と息を吐いて、震える手で、閉めた窓に鍵をかけた。
学校、行かなきゃ。
「顧問の先生には、昼休みに提出してきました」
コーヒーの香りが常時漂う涼しくて静かな職員室に、思ったよりも大きく自分の声が響いた。
できるだけクラスメートやほかの部員には知られたくなかったので、担任の先生のところには5時間目の授業が終わってから向かい、担任提出用の退部届けを受け取ってもらった。黒ぶちの眼鏡がよく似合う、理科の先生でもある彼は、記入事項に目を通ししばらく考え込むようにうつむいた。随分低い椅子に座っているので、普段の長身のイメージが行方不明になる。4月よりも白髪が増えたな。
ぐるりと視線を巡らせると、周りの机の上にはびっしりと書類が積まれ並べられ、壁にも鍵やら何やらがぶらさがっていて、圧迫感をおぼえる。教室にいないときはこんなに狭い空間で仕事に追われているのかと知って、入学したばかりの頃はぞっとしたっけ。小学校の職員室が大きすぎただけだろうか。
「そうか……最後の確認だけど、須藤は後悔してないか? 今辞めなくても、引退まであと1年とないだろ」
「今で良いんです。わたし、本気で兄の目指していた大学に行きたいんです」
「なら、いいんだけどな。ちなみに、その行きたい大学っていうのは?」
日本人なら大体聞けばわかるであろうその名前を挙げると、彼は目を真ん丸にしてしばらく固まった。この人は、わたしに4つ歳の離れたお兄ちゃんがいたことも、お兄ちゃんが飛び降りたこともたぶん知っている。だからこんな顔をしているんだろう。望んでもいない同情の色が見えるもの。
向かいの席でパソコンに何かを打ちこんでいる副担任の先生に、ちらりと見られたような気がする。
「やっぱり、そう思いますよね、今の成績じゃ」
「いや、そういう意味ではなくてだな。それならむしろ大会で記録を残すとかすれば、高校の選択肢だって、少しでも広がるかもしれないだろう? 須藤は3年が辞めるかなり前からレギュラー取ってるみたいだし、もう少し頑張れば……って」
「それほど頑張りながら学習面でも良い線をキープする、というのが、わたしには難しいんです。高校生になっても続くのなら尚更」
「そうだよな。たくさん考えたんだもんな」
たとえ表面上だけの薄っぺらいものでも、理解のある人でよかったと、心底思う。
将来を見据えて勉強に集中したい、というのはまあ本当のことだし、実は体力の面でも薄々限界を感じとっていた。そんな状態でズルズル引きずって続けて部員たちに迷惑をかけるくらいなら、潔く身を引いたほうが彼らのためにも自分のためにもなる。考えるきっかけになった麗華には、ある意味感謝した方がいいかもしれない。そんなことを言おうものならまた「キモい」と睨まれるだろうけど。お互いに利害一致で万々歳じゃないか。
顧問に、あまり大袈裟に部員へ知らせないでほしいという伝言を頼んだあと、わたしたちの組は次は英語だったっけとか、そんな会話をして職員室から出ていった。4時間目の国語のとき、集中できなくて先生に怒られたから、次からは気を引き締めないと。
むわあっ、と全身を襲ってくる熱気に苦笑いを浮かべながら頭を下げ、ドアを閉める。
「よう、ミカ」
ドアが閉まったのと同時に肩を優しくたたかれ、振り返ると、よく知った短髪の男子生徒が背後に立っていた。
「伊予先輩、お久しぶりです」
「もう引退したんだし、タメでいいって言ってるのに」
「それはちょっとできませんねー」
伊予澄(いよ とおる)。***部の先輩で、前部長だ。頭3つ分くらい、わたしよりぐんと背が高い。
そういえば、前に麗華が、彼はわたしのことが好きだとかなんとか、言っていたような。そんなことを知っても、わたしは何もできないのに。
「先輩も職員室に用なんですか?」
「あー、そうそう。今日、掃除のときの放送委員の担当でさ、次の授業は移動教室だから、すぐ放送室に行けるように鍵を借りにきてるんだ。ここんとこ毎週ね」
「大変ですね。体育館ならまだ放送室に近いですけど」
確かに、さっきから3年の男子生徒がよく通っている。女子がまったくいないところを見るに、技術科の授業があるんだろうか。そうなると女子は家庭科で、彼女たちは2階の被服室か3階の調理室、もしくは教室にいるのかもしれない。
こういうこともさらーっと訊いてしまえればいいんだけど、そこまで考えるのかと引かれるような気もして黙ってしまった。相手が伊予先輩だからというわけではなく、例えば雨音ちゃんだったとしても、そうするだろう。要するに、性格の問題。
「あみだくじで当番決めるなんて、どうかしてると思わない? 運も無さすぎかって感じだわー」
「運なら分けてあげられますよ、つぎの当番決めで良いところが当たるように」
「まじか、もらっとこ! ついでに仁陵高校受かりますように」
「それは貰いすぎですよ! 来年わたしが進学できなくなったらどーするんですか」
「ないない、それはない」
思わずふたりで笑ってしまった。
毎年とんでもない倍率を叩き出しているらしいあの名門校を志望しているなんて、さすが伊予先輩だ。嫌味とかじゃなく、ガチのほうで。
- *7* ( No.16 )
- 日時: 2017/11/15 05:56
- 名前: 厳島やよい (ID: ZneQN.ef)
- 参照: 氷菓でもアイスミルクでもとにかくアイスは美味しいです。
「そーいやー、部活のみんな、最近元気なの? 新人戦、1日どころか半日で終わったらしいとか、テッちゃんから聞いたけど」
「あー……元気もりもりではないですね、正直」
「やっぱ? 悪いこと訊いちゃったね」
顔がひきつりそうになった。
テッちゃん、というのは前副部長で伊予先輩の同級生なのだけど、そこは重要なポイントではない。わたしが恐れているのは
「じゃあ、今日辺りちょっと顔出してみようかな」
これだ。
このまま黙って別れて、放課後になれば、彼は嫌でも部員たちの中にわたしがいないということに気がつくし、そうなれば色々と質問攻めをくらうだろうしかといって今「実はわたし数分前に正式に退部しちゃったんですよねー」なんて言えるか言えないでしょ。
「そ、そん〜な〜。受験生の貴重な勉強時間を奪うわけにはいきませんってぇ〜」
語尾が不自然に揺れているのが自分でもわかる。勘づかれたりしてしまわないだろうか。
しかし伊予澄は、そんなこと微塵も気がついていません、というように、あっはっは、と気持ちよく笑っている。
「べつに構わないよ。何だか僕、同級生より早くスランプが来ちゃったみたいなんだ」
悟った。もう抗うのはやめよう。
タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど後ろの職員室から出てきた女の先生に授業開始2分前だと知らされ、挨拶もそこそこに、ようやく本来の用事を思い出した彼から逃げるように、教室へ走って帰った。
さあ、あのしっかり者の前部長になんて言い訳をしようか。
無理矢理に笑顔をつくりながら自席に着いたので、冷房の設定をいじろうとわたしの近くへやって来たご機嫌斜めな麗華に、わかりやすく顔をしかめられてしまった。一部を除いて全室一律の温度設定だったらしく、彼女の機嫌はますます悪くなった。
嘘をつく、という行為が昔からあまり得意じゃない。他人相手だと、なおさら下手くそになる。
初めてお兄ちゃんの異変を知ったあの日も、夜に帰ってきたお父さんの「今日あいつ、普通だったか」という問いにうまく答えられていた気がしない。あの件は結局お母さんの口から嘘がばれて、わたしとまとめて酷い言われようで非難されたのだけど。
苦い記憶がせり上がってきそうになって、お腹の奥に押し込んだ。ここでおえーとぶちまけてしまっては、わたしを異端の目で見る人間がまたひとり増えるだけで何も良いことなんてないだろう。いや、彼なら案外優しく介抱してくれるかもしれない。
「…………と、顧問からは聞いたんだけど」
そんなわたしの今いるところは、麗華に半殺し、いや四半殺しにされかけた場所であり、目の前には伊予先輩が立っている。やっぱりこの場所は恐ろしいほど人通りがなくて、日当たりが悪くて、じめじめしている。
どうやらついに知られてしまったらしい。わたしが、1時間半ほど前に、正式に退部したということを。
周りの湿気が倍増していく感覚がした。息苦しい。
「ミカはそれでよかったの?」
ああ、また同じ台詞。顧問からも担任の先生からも、何度もそう訊かれてきたというのに、また訊ねられなければいけないというのか。また同じ回答を繰り返さなければならないのか。
そこに生々しい感情なんて、もうこれっぽちも含ませられないのに、この人はそれもわかって言っているのだろうか。
「すでに決まったことを、決めたことを覆す気はありません。入部してしまった以上、それが最大の償いだと思います。サボりなら1回だってしませんでしたし」
「うーん、そうかなあ……うーん」
先輩はひかえめに頭を掻きながら、唸っている。
わたしは誰になんと言われようと、退部を取り消すつもりはない。"彼女"が今すぐにでもやって来て、目の前で土下座しながら今までのことを詫び、引き留めてくれるというのなら話は別だけど、その代わりに今まで"彼女"がしてきたことは、伊予先輩はもちろんのこと、部員全員とクラスメート全員、そして関係のある先生全員にすべて白状させるだろう。そこまでさせたいほど、わたしは"彼女"に対して怒りを抱いているし、軽蔑している。呆れて無関心になることはまだできない。
くだらないかな、そんな復讐。そんなことをしようものなら、今度はわたしが軽蔑されてしまうかな、みんなに。謝ったんだからもういいじゃんって。ありふれていて、他人事で、偽善の塊の言葉を投げつけられる未来が容易に想像できる。
「もし僕が、あの副部長だったら」
密かにため息をついていると、彼が答えを思い付いたらしい。
「もし僕があの、ちょっと短気で熱血の"前"副部長だったら、僕はきっと、辞めること自体に対して怒ると思うんだ、ミカに」
「……でしょうね」
彼──前副部長は1年生のとき、それこそテストの点数なんやかんやで両親に強制退部をさせられかけたことがあるらしい。迫る1年生大会では伊予先輩とペアを組む予定だというのにそんな無茶を言われ、結局冬休みをすべて勉強でぶっ潰して親に勝ったそうだ。そのときから、責任というものに関して、よく言えば真面目に、悪く言えば過敏になった。そんな彼のブレーキ役として、伊予先輩は部長になったんだそうだ。副部長ではないあたり、当時は今より相当尖っていたんじゃないだろうか。
「でも僕は、そうじゃなくて、ミカの気持ちについて話してるんだ。なんだか今のミカは、迷いなんてないように見えて、はっきりあるようにも見えるよ」
真っ黒なアスファルトに目を落とす。
ああ、そうか。
突然何かが消えてしまって、身体のどこかにぽっかり穴が空いてしまったみたいなこの感覚。いつでも動くよ、今日はどうしたのって、足が、腕が、脳に呼び掛けてるような、問いかけてるようなこの感覚。それらに対して、どう接したらいいのか、わたしはわからなくなっている。
わたしは、あの部活が、大好きだったのかもしれない。
「せんぱい」
「ん?」
「それは多分、迷いなんかじゃない。ただの、情けない後悔だ」
「ミカ」
彼の顔を、目を、見ることができなくて、ずっと俯いたまま答えた。
「わたしは、あることと引き換えに、あの場から去ることを選びました。それは勉強でもなんでもなくて、痛みから逃れるための馬鹿な選択で。逃げても逃げてもわたしはあの子からも現実からも逃げられないって、こうやってぐるぐる同じところを回りつづけるってわかってるくせに、こうすることを選びました。やっぱりわたしはあの人の妹だから、同じ血をわけた子だから、しょうがないのかなあ」
「何を言ってるの、ちょっと、わからないんだけど。落ち着いてよ」
「だからわたしは、終わりのない悲しみに、苦しみに、むなしさに、ずっと向き合わなきゃいけない。今気づいたこの薄っぺらい後悔も、ずっとこれから抱えていかなくちゃいけない。ううん、抱え続けるべきなんです。尚更あの場所には戻れない。帰るべきではない。伊予先輩、ごめんなさい、わたしは「ミカっ」
え、と声が漏れるよりも前に、わたしは彼に抱き寄せられていた。視界が真っ暗になって、暑苦しいはずなのに、不思議と心は落ち着いていった。
いつの間にか不規則に乱れていた呼吸が、元に戻っていく。
「せん、ぱい、何を」
「僕にはよくわからないけど、ずっと、辛い思いをしてきたんだね、辛かったんだね」
なんで。あなたの声が、震えているの。
「気づいてあげられなくてごめん。だいじょうぶ、なんて、無責任なことは言えないけど、」
言いかけたところで、ゴトッ、と遠くから物音が聞こえて、互いに慌てて離れてしまった。ただの気のせいだったのか、辺りには再び、ぼやける掛け声混じりの静寂が訪れ、彼に気まずそうに苦笑されてしまった。
「あっ、ごめん、その」
「良いですよ、別に。やましいことなんて何もしてないじゃないですか。むしろありがとうございます」
「え?」
「取り乱してしまったので」
「……落ち着いたなら、よかった」
また沈黙が流れていく。彼がなにか言いたそうにしていたので少し待ってみたけど、俯きがちに自らの首へ手を添えているままだ。
申し訳ないけれど、わたしも今日はあまりゆっくりしていられない。
「あのー、先輩、塾の時間のことがあるので、そろそろ失礼してもいいでしょうか」
「ああうん、えっと、ご、ごめん」
「すみません、それじゃあ」
スカートと長くなった髪を翻して、教室に鞄を取りに行こうとしたのだけど。
「あっ、のさぁ! ミカ!」
「え?」
随分思い切ったみたいな呼び掛けに、走り出しそうになっていた足をとめて、振り返った。
「僕でよければ、いつでも話、聞くから。ミカのこと、好きだから、少しでも、力になりたいんだ!!」
- *7* ( No.17 )
- 日時: 2017/12/05 06:44
- 名前: 厳島やよい (ID: .9bdtmDI)
「えっ、と…………え?」
それが彼の、突然の大告白だと気づくのに、きっかり10秒もかかってしまった。
いや、知ってましたよ。だなんて、口が裂けても言えないけど。これはどこからどう答えれば良いのだろう。少なくとも颯真くんのときみたいにはしないほうがいいのかな、ほどにしか頭が回らない。
頬どころか耳たぶの端まで真っ赤に染めている彼を前に、わたしはどうしたらいいのだろう。正解は?模範解答は?
あの子のときもそうだったけど、こうして恋愛感情を剥き出しにされるのって、なんだか少し恐ろしいというか、気持ち悪いというか。相手が自分も好きな人だったら、たとえば……コウヘイだったら、こんなことは考えないのだろうか。
「あっえっ、その、ありがとうございます、すみませんでしたごめんなさいっ!」
この熱のある空気に耐えきれず、わたしはそう言って、逃げるようにその場から走り去った。彼がどんな顔をしていたかなんて確かめる勇気はない。すぐに背を向けて、死ぬ気で、とりあえず荷物をおいてあるままの教室に帰る。
「どっ、どーしたのよミカ?」
「へへへ、なんでもないよお、ふううふふふ」
さっきまで委員会の集まりに出ていたという、残っていた女の子にぎょっとした顔で訊ねられてしまった。本当にわたしって、誤魔化すのとか嘘をつくとかっていうのが下手っぴいだ。
クーラーの効いた教室は、空気も気持ちよく乾いている。窓から見えるまだ入道雲ばかりが連なっている9月の空が、なぜだかとても穏やかなものに見えた。
「ねえ、もしかして、誰かにコクられでもした?」
ぎくっ。
そんな音が背中あたりから聞こえるようだった。
振り返ると、彼女はわかりやすくにやついている。そういえばこの子、最近隣のクラスの彼氏との3ヶ月記念をサプライズで祝われたとかなんとか、誰かと話してたっけ。わたしがとやかく言えることではないけど、毎度そんなことをしていて互いに疲れないのだろうか。
「やだなあ、そういう冗談はエイプリルフールにとっておきなって」
「ん? エイプリルフールは嘘をついていい日じゃなかったっけ?」
「まあなんでもいいじゃん」
もう、どいつもこいつも!
ちょっと休憩してから帰ろうと思ったけど、それじゃあ余計に激痛の腹を探られるだけじゃないの。あー帰る、帰るぞ。
じゃあ頑張ってね、ばいばーい。と互いに身勝手な挨拶を押し付け合って廊下に出る。足取りは史上最悪に重い。重たすぎて床を割りそうだ。どうしよう。もう伊予先輩の顔を見られないかもしれない。話せない、会いたくない、ぐちぐちぐち。
そんなこんなでこの国の蒸し暑さへの不満とできたてほやほやの絶望にまみれながら、汗臭い、もう誰もいない靴箱にたどり着いた。このような状態でお勉強をしないといけないのかと思うと、憂鬱以外の何物でもない。
「あんたなんかいなければよかったのに」
上履きを脱いで床にうずくまっていると、すぐそばからそんな声が降ってきた。
ついに幻聴でも始まったか。自滅への道なら何も今歩き始めなくたっていいじゃない。むしろ遅すぎる。と、思ったのも束の間、軽く蹴られたらしい。身体の軸が折れたみたいに揺らいで、反射的に手のひらが床についた。
さっき掃除されたばかりだというのにもう砂だらけの床へ、ぺたんと座り込んでしまう。
「あんたなんか、死んじゃえばいいのに」
低くて小さな声の主を見上げる。
垂らした前髪の影から覗いた顔は。
「れい、か?」
さっき見た伊予先輩のそれとは違う意味で真っ赤に染まっていて、今もなお目から溢れつづけている涙でぐしゃぐしゃになっている。唇の色が端からうっすら滲んでいて、色つきのリップクリームを塗っているらしいことに気がついた。もちろん、そんなの先生や女の先輩に見つかったらスカート丈のことより酷く叱られるだろう。
…………まさか、さっきの物音の正体って。
「ミカっていてもいなくてもどんどん周りを不幸にしていくよね。しかもあたしばっかり。すっげえ迷惑だね。生きてても死んでもごみだよきっとごみ、いやごみ以下だよ。あーーーーーーーーーあ、クソだわまじで」
幸いにも、そんな稚拙な暴言を吐かれている間わたしの身には何も起こらなかったのだけど、精神的には相応の痛みを感じた。数年前のお母さんの心境と、今の彼女は表面上なんとなく似ている。
こんなんじゃ、わたし、この子の前でしぶとく生き続けることも、この子の前で自殺することも出来ないじゃないか。いや、よほどのことがない限りは本当に死ぬつもりなんてないけど。……どっちにしても周囲には被害者面を向けるのだろう、彼女は。最悪「いじめなんて須藤美佳の虚言です」とか無理を通しかねない。お兄ちゃんも軽微な虚言癖があったみたいだから、警察や颯真くんなんかが下手に動く騒ぎになれば、わたしは勝手な病気扱いを受けるかもしれない。そんなのごめんだ。あーっ、お兄ちゃんを悪く言っているわけじゃないんだよ、許して。
痛いな、心が痛いな。伊予先輩はわたしなんかじゃなくて、麗華を好きになってくれればよかったのに。そうすればすべてがまーるく収まって、みんな平和でハッピーになれたのに。
更にひとことふたこと、彼女は飛んでくる唾とともになにかを言い捨ててどこかに消えていったけれど、その足音でさえただのノイズにしか聞こえなくなったから、何を言っていたかなんてまったく思い出せない。これから彼女の声だけ頭が認識できなくなりそう。きょひはんのうというやつだ。
「ミカ、あんたもしかして、いつもあんなこと言われてんの?」
そのせいか、直後にすぐそばからしたその声も半分くらい母音しか聞き取れず「だいじょーぶー、生きてるかー」と目の前で手をひらひらされた。
「ぁあ、雨音ちゃん」
かすれた声が出てくる。
「よかった生きてて。つーか、ちゃん付けやめてよ、なんかキモい」
「雨音ちゃんはどうしてこんなところにー?」
「人の話を聞け! んん…………なんか練習に集中できなくってさ、部員に迷惑かけたくないし、ひとりで外周でも走ろうかと思って」
「そっかあ」
何だかんだできちんと質問に答えてくれるので、雨音ちゃんはとても優しい。
彼女が差しだしてきた手のひらに支えられて、立ち上がった。ほんの少しだけ、目の前がふうっと暗くなったけど、気のせいだろうか。
「ねえ、ミカ大丈夫? すっげー疲れてるみたいに見えるんだけど」
「錯覚でしょ、錯覚」
「……そう」
そうだ、こんなところで、あんな人間のために落ち込んでいる暇はないのだ。
のろのろと上靴を脱いで、ついさっきまで履いていた生ぬるいスニーカーへ再度足を突っ込む。そうだ、須藤美佳。そのまま走り出せば、あの冷房キンキンな塾にきっと一瞬でたどりつくぞ。
「じゃあ、わたし、ちょこっとだけ急いでるので」
「ああ、そりゃ悪かったね、気をつけて」
「うん」
本来の目的も忘れたまま立ち尽くしている雨音ちゃんに見送られ、彼女の視界から消えるまではゆっくりゆっくり歩いていったけれど、最初の角を曲がり、頭がとけていきそうな暑さを実感した途端、自覚するよりも早く脚は動き始めた。
「うおおおおおお」
そうだ、走っているのだ。熱風を巻き起こし、奇声を発しながら。
やっていられない。好きとか死んじゃえとか大丈夫かとか、こんなに短い間に色々な言葉を浴びてしまって、やっていられない。
何故かリコーダーをぴいひょろろと吹き鳴らしながら歩いている小学生には変質者に向けるような目で見られてしまったけれど、そんなことを気にしたところでわたしの人生は後ろ向きのまま何ら変わらないし、ていうか本当に変質者なんだからね。自分でも何を言ってるのかよくわからないけどもういい。まじでやってられない。
このまま、この照りつける暑さで脳みそも骨も全部溶けちゃえばいいのにと本気で思う。でもそうしたらわたしは死んじゃう。そんなのはいやだなあ。
「はーはっ、はー………………はああ」
気がついたら自販機に頭をぶつけ息を切らしていた。しかも笑いながら。倒れる前に水分補給をしよう。
後々面倒なことになるので今まで誰にも言ったことはないけれど、塾のある日は鞄に小銭入れを忍ばせてある。以前から、部活帰りの同年代の人たちで賑わう時間帯をなるべく避けて予定を組んでいるため、帰りは大体彼らと入れ違いになる夕飯時。だから近くのコンビニで、飲み物やおにぎりなんかを軽く買ったりするのだ。もちろん、毎回ではないけれど。
あそこはわたし以外、隣の中学や知らない高校に通っているような人たちばかりだから、先生に告げ口されることもないだろう、と見込んでいる。それこそ麗華たちに盗まれたりしたら、わたしはご臨終するかもしれない。いや死なないけど!!!
取り出し口に落ちてきたスポーツドリンクを手にとって、頬に押しつける。なんとも心地よく冷たい。
「お?」
そうして、右向け右の号令を掛けようとしたとき、てってれーん、といかにもな古くさい音が自販機から聞こえてきた。まさかと思って見てみれば、ルーレットの表示がオールラッキーセブンになっているではないか。お、おお?当たっちゃった?
喜びにまかせて小躍りしたい気持ちを抑えこみながら、伸ばした人差し指をふらつかせる。この中で一番お値段が高いのはコーラだけど、苦手だしなあ。かといってコーヒーでも飲めないし、お茶だなんてつまらないしもったいないし。
そうこうしていたら、カウントダウンらしい数字がとうとう1桁になってしまった。
ええい、もうさっきと同じやつでいいや。
と、いうわけで今現在に至る。色々と省略しすぎている気もするけど。
「ほんとにきみは突然わけのわからないことをするんだね」
「そんなにわたし、何度も変なことしてる?」
わたしの運が当ててくれたもう1本のスポーツドリンクを手に、後ろを歩くコウヘイ(ついでに学校への金銭持ち込みという秘密もその手に握られている)はまさに汗びっしょりといった様子だ。きっと彼も早く涼しい我が家に帰りたいのだろうに、ふたつ返事でわたしなんかのおサボりに付き合ってくれるとは。やっぱり、ふたりはよく似ている。
「そういえば、そんなにしてないかも」
「でっしょー? ひとを簡単に変人扱いしなーいの」
「…………」
「こら、そこは元気よく返事をしなさい」
物理的にも精神的にも後ろ向きに歩きながら、ビシッとご指導を入れる。
すると、突然思い出したのか、脇見歩行をしながら彼が口を開いた。余計な力が入っていないその目元、きれいで好きだなあ。
「ミカ、最近元気ないねって、掃除のときに女子が言ってた」
「え?」
思わず足が止まる。
行方不明、脈絡14歳。捜索状況は依然困難となっています…………ではなくて。
「僕って、ひとの繊細な変化とか気持ちとかよくわからないんだけどさ、それでも今朝のミカは、少しいつもと違うような感じがしたよ」
今朝。
いまよりは幾分か空気が軽くて、たしか蝉が鳴いていて、足元には鏡みたいに綺麗に透きとおった水溜まりがたくさんできていた。
家の窓から見た広い空。目にしみる強い風……机の上にあった退部届け。
どうした?
自分のものか、コウヘイのものかもわからない声が耳の奥に響く。
────……好きな人とかさ、いる?
────そう。わたしはね、わたしは、いる。好きな人
閉じられた紫の傘、濡れていくあの子の長くてきれいな髪、初めて見た彼の私服姿。
「ねえ、ミカ」
頭がぼうっとしてきて、足元が柔らかく感じかけた瞬間、コウヘイの顔がぐんと近づいてきて、目が覚めた。目が覚めた、だなんて、さっきまで夢を見ていたような言い方はおかしいけど、まさにそんな感覚がわたしの表面に降り立ったのだから、仕方ない。
あれ、なんか、変だ。なにかが。わたしの頭がおかしいのかな?
「大丈夫?」
「え、すっごく元気だよわたし!」
「…………なら、いいんだけどね」
暗い色の目をわずかに細めた彼に向かって薄っぺらい偽りの笑いを吐き出しながら、今度は前を向いて歩き始めた。幸いにも、コウヘイは目的地に到着するまで後ろで一定の距離を空けたままついてきてくれていたので、わたしはずっと黙っていた。彼も何も話さなかった。
こんなところに公園があったなんて初めて知ったよ。そう言ってわたしを追い越し、入り口に向かって駆けていく彼の動きをじっと見詰めながら思う。さっきから喉に引っ掛かっているこの違和感はなんだろう。そもそもどうして違和感など抱いているのだろう。
木陰が濃く落ちたベンチに倒れこむように腰掛けたコウヘイは、さっきまでの沈黙が嘘のように「あーあっつい」「やべえ」なんて言いながらシャツを緩めたり、ジュースを飲んだりしている。わたしが中に入ってこないことにも気がついていないらしい。
変に心配されたくはないので、ここはひとつ、童心に返ったつもりで。
「うわーいっ」
何度ここに来てもいちばん始めに目に留まる、わたしのお気に入りの遊具に飛び乗った。塗装が剥げ、錆びて真っ黒な部分を掴んでしまってこれまた熱い。
わたしがここを見つけたのは、この町に引っ越してきた日だ。次の日とかじゃなく、その日だ。力仕事が苦手で、特にすることもなく邪魔者となってしまったわたしは食糧の調達という大切なお仕事をこなしていたのだけど、例のごとく体力は足りないし、ついさっきやって来たばかりの街を歩き回るなどという大変なことをして疲れたので、一休みできそうな場所にここを選んだ。袋の中には生卵なんかも入っているため、買い物用のメモを手渡された瞬間から自転車を使うのは諦めていたのだ。一足早く真っ白な桜が咲きはじめていたあの景色は、きれいだった。
「えへへっ、暑いのが気持ちいー」
前に住んでたとこじゃ、これ、子どもたちには回旋塔って呼ばれていたっけ。お母さんには、回旋塔じゃあないと言われてしまったけど────あれ、何で違うんだっけ。帰ったらネットで調べよう。
「頭がおかしくなったのはミカのほうなんじゃない? 熱中症にでもなった?」
「なによっ失礼な。スポドリならここにあるもん。そんなことより、コウヘイもこれに乗りなさい」
彼の表情はわたしが一周回る度に絶妙に変化していく、なんていうことはなく、真顔のまま鼻の頭に浮かぶ汗の粒を手の甲で拭うだけだ。
「やだよ、乗り物酔いする体質だから。…………あのねえ、僕は、か弱い女の子が点滴刺して痣だらけの腕になっちゃうような展開になったら、親御さんも君自身もいたたまれないと思って言ってるんだ。ちゃんと話を聞こうか」
そんな台詞を聞きながらも、なんだかコウヘイの声が近くなったり遠くなったりする感覚にとりつかれる。彼の言うとおり暑さでおかしくなっているのかもしれない。
ひょうんっと乾いた砂の上に着地してから、わたしは何か一言二言、自分自身に対してか彼に対して言っていた気がするけど、思い出せない。
「やっぱり塾行くよ。振り回しちゃってごめん」
「ああ、いや……ばいばい」
「バイバイ! また明日ね!」
鞄をきちんと背負い直し手を振って、公園の出口に向かって走り出す。
嘘をついて、隠して、罵られて、わがままやって他人をふりまわして、わたしって嫌な人間になったなと思う。いつからこうなってしまったのかな。ああ、でも、いつから、なんて馬鹿みたい。物心ついたときからじゃないの。
「あ、忘れ物してるよ、ミカ」
水の中に潜ったときのようにくぐもって聞こえてきた声で、わたしは無意識にこの足を止めて振り返った。
視界もぼやけて、彼に当たる太陽の光がやけに白く眩しい。
「言いたいことが、あってさ」
「美佳、ありがとう。僕と友達になってくれて。あのとき、声をかけてくれて、ありがとう」
あれ、なんか、やっぱり違う。
「ふふふふふ、ふふっ」
だれだろう。何もかもを忘れて笑ってなどいるのは。
数瞬、音もなく辺りが真っ暗に陰ったかと思えば、それはすぐに消え去っていく。彼はまばゆい光の中に突然現れたおさない少年を突き飛ばすように駆け出した。そのかわりに、少年に向かっていたはずの陰の固まりをその身に一心に受けて。
「こう、へい」
コウヘイの背中が、弾けていった。跡形もなく。
「だめだよそんなの」
ひどい蒸し暑さも、緑色に濁った川から漂ういやな臭いも、ジュースの味も風の感触も全部本物なのに、ちがう。ちがう。ちがう、ちがうちがちがが、ち、が…………………血と、肉が、残っただけだ。また。
「ぎ っ、 ぁああああああああああああ、う、っっっっ