ダーク・ファンタジー小説
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- 青、きみを繋いで。
- 日時: 2018/10/04 21:51
- 名前: 厳島やよい (ID: uLF5snsy)
そろそろ、飽きてきたので、はやく終わらせたい。
どうも、厳島やよいです。
@sousaku_okiba_様より
お題『青春と呼べるほど、綺麗じゃない』
流血・暴力描写など入ります。
物語の長さの割に矛盾点など多いかもです。
苦手な方はご注意ください。
◎2018夏大会にて、管理人賞をいただけました。◎
なんとか、完結まで持っていけたらと、思います。
○おもな登場人物○
有明恒平(ありあけ こうへい)……父方の叔父とふたり暮らし
須藤美佳(すどう みか)……中1の春に母とふたりで越してきた
紫水雨音(しすい あまね)……コウヘイの家のお隣さんで昔からの友達
嶋川颯真(しまかわ ふうま)……コウヘイの友達。密かにミカを好いている
天宮城麗華(うぶしろ れいか)……中学のとき、ミカをいじめていた
奥羽晃一(おうば こういち)……ミカの兄。 自殺した。享年16歳
■
このちいさなちいさな世界から色が消えてしまっても、ひとりぼっちでもね、きみがいるから、僕は……
- *1* ( No.1 )
- 日時: 2017/10/17 02:57
- 名前: 厳島やよい (ID: q4IWVUNW)
青くない。
「わたしね、ときどき思うの」
僕らの地球は、青くない。
「わたしたちはずーっと前から、こうやって、手を繋いで、抱き合って、キスして、一緒にいたんだなあって」
「……そうだね…………そうだよ」
「なんだか、不思議」
埋め立て地の護岸に、灰色の泡が砕ける。
危ないからと止めたんだけど。彼女は平気だよ、なんておどけて低い壁をよじ登り立ち上がると、両手を広げてまっすぐ海風を、その身に吹き付かせた。
真っ白なワンピースとやわらかい黒髪が、宙に浮かび上がる。
海を見詰めるその横顔も、僕は素直に好きだと思った。
「コウヘイも、やってみなよ。気持ちいいよ」
「……うん」
目を閉じてそう言う彼女。
正直、落っこちたら嫌だなあとか思ったけど、下はコンクリートか陸側のアスファルトの二択。別に死にやしないだろう。
チクチクする手のひらに力を入れて、一気に上ってみせた。汚れた潮の匂いが、より強く感じられる。工業地帯の春はやさしくない。
僕も真似をして、手を広げ、目を閉じてみた。ふたりで<タイタニック>の演技でもなぞっているみたいだ。
風の音、波の音。
鳥の声。
何処かから聞こえてくる、子どもの声。
小さな船の、エンジン音。
太陽の温かさ、光。
やさしくない春でも、それらしい要素や感覚の麻痺はたしかにそこにあって、その事実を肯定せざるをえないよなあと思う。
「幸せ」
こぼれて風に流されていった声に隣を見ると、彼女は笑っていた。みだれる、すこし日に焼けた髪を押さえながら。
その瞳は左のものだけ灰色で、見る度心に容赦なく、針がぐさりと刺さってくる。心というのがどこにあるのかは知らない。
「僕もだよ」
彼女の後ろに霞む工業団地の端っこを、視界に入れないようにぼやけさせて、そっと、笑ってみせた。暗い場所にこの子を寄せないように。
遠く、遠くの何処かから、幻覚のように駆けてきたひとひらの花弁が、僕の視界をほんの一瞬だけ拭き取っていった。
「僕も、ミカのこと、好きだから」
けれども、再び目の前に広がった海は、やっぱり青くはなかった。
同じ色の空と溶け合ってしまいそうな水平線の近くは、銀紙を敷き詰めたように輝いていて。それなのに、足下の波は濁りが酷い。
こんな海は海なんて言えないけど、それでも———
「わたしも好きだよ」
「サイテーだよ、あんた」
ざくざくざく、と安売り半玉キャベツを切っていた手が、その声にふと止まった。
「サイテー」
キッチンのカウンターを隔てて椅子に座っている、広義では幼馴染みで同い歳の雨音が、揃えた薄っぺらい前髪の奥からガンを飛ばしてきている。
彼女はつやつやな長い髪を高めにきつく束ねて、言葉遣いも荒いものだから、よく強気な女に見られているらしい。まあ実際そうだ。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますけど」
「は?」
「いくら隣だからってなあ、自分の家同然に出入りしやがって」
「ばーか、母さんがコウヘイん家で食ってこいっつったから来てんだよ。どーせ良典さんだって帰ってこねーんだし、良いじゃん」
軽蔑のため息が生成されたので、僕はご丁寧にそれを吐き出した。きみは、お付き合いだとか、気遣いだとか、そういう単語を雨音ディクショナリーにもっていないのかな。
しかし、それをそのままぶちまけるのはあまりにも幼稚で下品な行為だと少なからず僕は知っているので、代わりに、歳相応の精神的ダメージも与えられる台詞をはっきりと言ってやった。
「自炊も出来ない女子高生とか、終わってるね」
チッ、と舌打ちされるのが、小気味いい千切りの音に混じって聞こえてくる。それでも構わずに、揚げたてのクリームコロッケの隣へ山を作った。真っ赤なプチトマトもふたつ添えて。雨音はソースなんていらない、というタイプの人なので、僕の分にだけソースをたっぷりとかけまわしていく。
その様子を見に、彼女がご飯を盛りにキッチンへやって来た。
「ミカ、とかいう女は出来るんだな」
女らしさなんてその髪の毛からくらいしか感じられないこのクソポニテ女は、きつね色の裸のコロッケと、すこし多めにソースのかかったコロッケの皿をわざとらしく見比べてから、僕のデリケートな部分を土足で踏みつけてきた。
「そうだけど」
「……あんたが記憶を改ざんした、女」
その無神経な言葉に、上瞼が微かに痙攣してくる。
あれあれ、これって水飲めば治まるやつだっけ。
「まだ嘘吐いてんだろ?」
「……」
「真実を知ったとき、どんな顔をするかねぇ。あんたが汚い人間だってこと、認められるのかねぇ」
雨音は冷めた表情で茶碗としゃもじを手に取り、僕の後ろを通りすぎた。視界の端で、黒光りする炊飯器の中から熱い湯気が溢れる。
目の前で浴びられそうなほど散っていく深紅と黒の薔薇。アスファルトに、ガードレールに、僕のてのひらに……。実際にその瞬間をこの目で見たわけではないというのに、その残骸から生々しい光景が、精密に再現されるように頭の奥へ映し出された。美しい笑顔の彼女は、そうやって笑ったまま、無惨にも音をたてて潰れていくのだ。ああ、なんて出来すぎた妄想。
瞼の痙攣がおさまった代わりに手先が震えてきた。まな板に押し付けた包丁が、ぎちぎちと不快な音を立てる。
「もしかして、隠し通せるとでも思ってた?」
「うるさい」
包丁を握りしめながら低い声を発したものだから、流石にもう、何も言われなくなった。案外雨音には力がないので、いざとなったら自分に勝ち目がないということをきちんとわきまえているのだろう。その点では感謝しようと思う。へたに反抗されると、本当に勢いで殺してしまいそうだから。
無言でリビングの隅に夕食を運びひたすらに皿を綺麗にしていく彼女を見ていたら、頭が痛くなってきた。使い方を間違いそうで怖くなったので、包丁は食洗機に閉じ込めておいた。
僕も食卓の端にご飯を並べてちんたら箸を進めていたら、それから10分も経たないうちに、きちんと口の中を空にした状態で雨音が立ち上がった。そういえばこいつ、中学生までトマトは一切食べられなかったよなあ。
「ごちそうさま」
何か声を掛けようとしたんだけど、そんな隙も与えずに、彼女は家を出ていった。鈍く反響する玄関のドアの音に、大げさなくらい力が抜けてしまう。
他人との間に何本も線を書き込んで生きることの多い僕には、ああいう存在がときどき辛い。それが例え保護者でも、幼馴染みでも。
そして、微かな耳鳴り以外何も聴こえない部屋の中に、さっきの嫌な声がエコーのように響き始めた。
まだ嘘ついてんだろ?改ざんした。どんな顔するかね。隠し通せる……でも思っ………?
あんたが汚い人間だってこと、認められるのかねえ。
そこまで幻聴が流れきったところで、背中がひどく湿っていることに気がついた。すこしだけ呼吸も、おかしくなりかけている。
自分が汚いことくらい、自分が一番わかってるのに。でも、理解することと認めることって、別物だと思うんだよね。行方不明の心の中で自己完結を済ませて、言い訳はからっぽなこの場所に吐き溜める。
「わかってるよ、それくらい」
わざわざシンクに重ねられた雨音の分の皿には、米粒ひとつさえ残っていなかった。
- *2* ( No.2 )
- 日時: 2017/09/10 11:44
- 名前: 厳島やよい (ID: otheHgZZ)
僕がミカと出会ったのは、3年前、つまり中2の春のことだった。
ようやく中学初めてのクラスに馴染めたと思った頃に、まさかのクラス替え。憂鬱で仕方がなかった。余計な変化は好かない性分なのだ。
比較的暗い性格の僕には、知らない人ばかりの新しい教室が、騒がしくてたまらなかった。話の合う人も片手で足りるくらいはいたけれど、どんなに良い人たちの集まりだろうと、合唱祭でも体育祭の学級対抗種目でも必ず1位を獲得していたようなあのクラスには、絶対に敵わないと思って。暗い僕なりに、前のクラスを居心地よいものにしてきたのである。
そんなこんなで、4月も下旬に差し掛かったある日。窓際の席に着いて、一時間目が始まるのを待っていた頃のことだ。特にすることもないし、突っ伏して寝ようとすると。
「綺麗だね」
僕の席の前に、窓の外を見詰める女の子が立っていた。
僕に話しかけたわけではないかもしれないと思って、何も言わずに、その透きとおる瞳が捉える景色を追ってみた。ほいほい反応しても、もし間違いだったときにキモいだとか言われたらそれなりに嫌だし、困るし。男子という生き物は、よっぽど容姿が整ってでもいない限りそういう点でも不利なのである。
…………ゆうっくり上半身を起こして更に視線を追うと、そこには、ベランダの手すりに引っ掛かり、僕たちのほうへ手を伸ばすように桜の枝が揺れていた。立ち並ぶ桜が美しいことで有名な近くにある大通りのそれだって、もう大分緑に生え替わりはじめているというのに、この木だけは、まだ、ふわふわと花びらだけを纏って春を満喫しているようだった。しかも、自らそれを望んでいるように。何が悲しくてそんなことをするんだろう。
「ね、綺麗だと思わない?」
そんなことを考えていたら、不意に彼女が僕の方を見て問い掛けてきた。どうやら、この地味無口男に話し掛けていたらしい。相当な物好きなんじゃないの。と、思う。
「……そう、ですね」
あんまり目を輝かせて訊いてくるものだから、僕も仕方なくその期待に応えてあげた。彼女もまた、この反応に満足してくれた様子だった。
よくその辺にひとりはいる、少し大人しめで、目立ちはしないけど可愛い印象の女の子、という感じだ。まあ、幼馴染みのアイツとは月とすっぽんどころか、真珠と泥団子くらい違うということだけは確かだ。
「ねえ、あなたは何て名前? 自己紹介してたとき、周りの声で聞こえなかったから……あっ、今さら、ごめん」
彼女は、もう一度窓の外の桜を見詰めると、短い髪とスカートを揺らして振り向いた。
「有明」
「ん、名字じゃなくて、名前も」
「……恒平。有明コウヘイ」
「コウヘイくん、だね? わたしは美佳。須藤、ミカ。よろしくね!」
笑顔が、夢を見続ける桜のように、ぱっと花開いた。
もしかしたら、こういうことを、漫画なんかの世界では"一目惚れ"というのかもしれない。
まあ、要するに。
僕は生まれて初めての恋をした。
…………とかなんとか、それこそ恋愛小説のように言ってはみたものの、現実はそう練乳みたいに甘ったるくはない。あのあと、全く、まったく須藤さんとは話をしていないのがその証拠と言える。
僕は窓際の席。彼女は廊下側の一番前。
僕は地味系男子グループの幽霊メンバー。彼女はアイドル系女子グループの多分三番手。
僕は特筆すべき点もない帰宅部、彼女は華やかな────いやだめだ、これ以上比較してたら死にたくなる。とにかく僕と彼女は、文字通り、雲と泥なのだ。雨音と同等なのだということを認めるのはごめんだけど。
掴めっこなくて、綺麗でふわふわしている雲と、人に顔をしかめられながらまたがれたり、彼等をぐちゃぐちゃに汚してしまう泥。その真実を改めて見せつけられた気になる放課後だ。
あの日、僕が彼女に惹かれる原因にもなった桜の木を見下ろすと、柔らかそうな大量の新緑が枝にのしかかっていた。舞うだけ舞って褐色に干からびた花たちは、もう何処にも見当たらない。
気温が少しずつ上がってきて、風も湿り気を帯びてきて。さっきまで春だったのに、夏が確実に迫ってきているような、そんな気がする。
茂る葉の奥で、生徒たちが部活の練習をして声を上げている。体操服を砂で汚したり、早くも黒く日焼けしていたり。そんな光景を時々目にしては、部活に入っていれば良かったかなあと考えることもあるけれど、入りたいと思える部活が無かったんだから仕方ない。訳なくたそがれていてもしょうがないし、とりあえず帰るか。帰ってからのことなんて考えちゃいないけれど。
今日の夕飯何かなーなどとどうでもいいことを考えながら、鞄を担いで教室を出ていく。昇降口を出て、そのまま宇宙に吸い上げられてしまいそうな空を見上げた。雲ひとつない、夏をひとかけ、切り取ってきてきたみたいな。
「こーへい!」
そんな快晴の街の中で、待ちわびていた声、が、きこえて?
「コウヘイったら」
振り向くと、あの日と何にも変わらない笑顔の須藤さんが、息を切らしながら乱れた髪に指を引っ掛けていた。
ただでさえ僕に話し掛けてくる女子なんて雨音くらいしかいないのに、接触回数が馬鹿みたいに少ない須藤さんに、まさかの呼び捨てで叫ばれている。どうにも心臓に悪い。
「な……何?」
穏やかに紳士的に、どうしたの、とでも言おうとしたのに、口から飛び出したのはただのぶっきらぼうな返事だった。
「部活を切り上げて早く帰ることになってね、つまんないなーって思ってたら、コウヘイが歩いてるのが見えたから」
「部活の友達とは帰らないの?」
「あー、帰るのね、わたしだけなの。こないだの中間テスト最悪だったから、強制的に塾通いさせられてて。やだやだ」
ああ、中間テスト。そういえば、答案返却のとき、派手な顔立ちの女子と一緒に撃沈していたっけ。
それとなく話しながら流れに身を任せていたら、普通にふたりで並んで歩き始めていた。
中途半端な時間だから、ランドセルに背負われている小学生以外はほぼ誰も居ないし、校舎や体育館の壁にこだまする掛け声が良いBGMになって、心地良い。
なんだか僕らが恋人同士みたいで、感覚がおかしくなってくる。
「塾ねえ……」
「コウヘイは、塾通いさせられたりとかしないの?」
そういえば来年は高校受験がある。志望校のしの字も見ないふりをしている今だけれど、勉強くらい始めたってバチは当たらないかな。なんて考えていたのと同時に訊かれたので、少しどきりとした。
「うん、塾とか一度も行ったことない」
「良いなあ。親御さんが優しいんだね」
「須藤さんこそ、一人娘なんだから可愛がられてるでしょう」
信号機のない角を、意味も成さない縞模様を踏みながら曲がっていく。
「コウヘイ」
すると、ややキツめな声とは対照的に軽やかな動きで、僕よりも小さい足がアスファルトから離れた。
そのまま、僕を追い越して、古い縁石へと飛び乗る。
「その、須藤さん、って呼ぶの、止めてもらってもいい?」
「え?」
陰に苔の貼り付いた縁石の上で、ふわりと彼女は振り向いた。
「大人とか、先輩とかなら、我慢できるんだけどね。同い歳の子に名字で呼ばれるの、あんまり好きじゃないの。下の名前で呼び捨ててよ」
「…………す、いや、ミカは、自分の名前、嫌い?」
「そうじゃないけど……ごめんね」
こんなに悲しげな笑顔を、初めて見た。それくらい、彼女は何かを必死にこらえていた。
今どき、名前で呼び捨てなんて珍しくもないし、そろそろ須藤さん呼びも疲れるなあと思い始めていた。だから僕も、思いきって普通に呼んでみたんだけど、声は震えていなかっただろうか。近いうちにやって来るであろう夏の匂いが、南の空から漏れ出している。
何だか今の君は、とても辛そうに見えたよ。そんな小さな手のひらに、いったい、どれほど重いものを抱えているの?
その瞬間、空っぽの交差点はひだまりを濾した色の世界に染まって、そんな光には似合わぬ冷たい風が、彼女の髪をゆらり、波立たせた。
「残酷にもほどがある」
季節は早回しで容赦なくめぐっていく。終わりなんてないかのように。
9月に開催された体育祭は無事、クラス・個人成ともに平々凡々な成績で終わり、生徒たちが中間テストの勉強に励み始めた頃、大型の台風が日本列島に直撃した。言うまでもなく休校になった。しかし、そんな台風も1日で過ぎ去り、学校は今日から始まることになった。
空が透ける水溜まりに、ときどきスニーカーで細く波紋を彫って、学校へと歩いていく。
台風一過というやつで、風はビュウビュウ吹くわ、馬鹿みたいに暑いわで、昨日までの涼しさと暗さのギャップに、身体が持ちそうもない。こんな時間から、背中に溜まる熱気に汗が滲んできた。
「こーうへいっ!」
まとわりついてくる熱を打ち破るように、後ろから声がした。
振り向くと、随分伸びてきた髪を高く結わいたミカが、駆けてくるのが見える。いつもと何かが違うように見えたのは、髪型のせいかもしれない。
「おはようっ!」
「おはよう」
もう数えきれないくらい、こうしてふたりで笑い合っている。だれにも邪魔なんてされずに。待ち合わせの連絡なんて、今まで一度もしたことはない。他力本願ばかりの僕だけど、それだけで嬉しくて、毎日が幸せに満ちあふれる。
いつからだろう、こんな風に、お互いにひとりでいるところを見付けては、並んで歩くようになったのは。苦しそうに、美しく笑っていたこの人に、何かを思ったあの日からか?
僕ばかりぬるい幸福感に浸かりつづけているなんて、と時々考えてしまうけど、彼女をいたぶり続けているものの正体が未だにわからない。何度も、聞いてしまいたいと思った。でも、訊けるはずはなかった。
「雨の匂いがするね。雨の残り香」
ミカの言葉に、すんっ、と、低い鼻を鳴らしてみる。
日陰にはいると、もうとっくに雨は上がっているはずなのに、さっきまで降っていたように濃く匂う。
土と、葉と、夏と。思い出の匂いがした。
「……そうだね」
そう言って、歩みを遅める。
誰もいない通学路を、無言でゆっくり、歩いていった。きっとこれで最後であろう、弱々しい蝉の声も遠く聞こえてくる。
隣に目をやると、不思議と視線がぶつかった。柔らかく笑う。わらう。
こうしていると、このまま彼女を自分の物にしてしまいたくなる。そう、何度も思ってる。
心とかいうものに襲ってきた、鎌鼬の残した傷。いつまでたっても塞がらないそこに、ミカを閉じ込めてしまいたくなった。そうすれば何もかも楽になるだろうと思って。
今でも悪魔は僕の肩にまとわりついている。止まり木じゃないんだからさっさと消えやがれと思っているのに。僕には何もできない。ごめんなさい、そう言われるのが怖いから。拒否されるのが、突き放されるのが怖いから。
最低だということくらいわかっている。自身の弱さを見て見ぬふりして、都合のいいように、未来を変えられぬものなのかと思っている。こんな人間、ヘドロ以下だ。
朝っぱらから自己嫌悪。
綿雲で辺りが陰って、ぐんと体感温度が下がった。
「ねえ、コウヘイ」
「何?」
「……好きな人とかさ、いる?」
突然の、あまりにもタイムリーすぎる質問に脚が硬直した。
蝉の嗚咽が空に消えていく。動けない。
普通、こういうときには、それこそ漫画みたいに、どきどきするものだろう。緊張して、体が熱くなってきたりするものだろう。なのに、今の僕はその真逆。驚くほど冷静で、何も感じられなくて、それでも脚は棒になって、震えが襲ってきそうだった。
「─────」
ああ、僕、今どんな顔をしてたかな。
「……そう。わたしはね、」
ひきつってた。たぶん。
「わたしは、いる。好きな人」
それからは、学校に着くまでひとことも喋らなかった。何事もなかったかのように歩き出す自分達に、軽く目が眩んできそうだ。
蝉が、もう現れもしないであろう恋人をさがそうと、情けない騒音を再び発し始めて、暑苦しい。雲は千切れ、僕らを焼き焦がす太陽は、よりいっそう眩しさを増していた。
ほんとうに、読心術でも使えるようになりたい。切実に。
ばしゃあっ、と無邪気に透明な水溜まりを蹴り、しぶきをあげた彼女への想いは、空と同じように綺麗な色にはなれないんだなあと思い知らされたような気分だ。