ダーク・ファンタジー小説

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祈りの花束【短・中編集】
日時: 2021/02/23 18:05
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=20203

 春と秋特有の夕方ごろの空気感が、どうにも憂鬱で苦手です。

店先もくじ >>26

『Chika』 ( No.18 )
日時: 2020/12/23 00:05
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)




 早起きをした反動か、その後昼間はふたりで眠ってしまっていた。
 本を読んで、デリバリーで昼食を頼んで、ゲームをして。外からかすかに聞こえてくる、鳥や犬の鳴き声に耳をすませながら微睡まどろむ。なんとも贅沢な休日だったと思う。
 千嘉が今夜は早く寝たいと言うので、夕方には別れることにした。こんどはわたしが駅まで送って、というか勝手についていって、改札前で解散する。バスに揺られる約二十分、名残惜しくてたまらなかったけれど、彼のわたしの手を握る力がいつもより強かったので、夕焼けを眺めながらだまって堪えることにした。どうにもならないことに駄々をこねていても仕方ない。そう考えられるようになっただけ、充分な進歩だろう。
 駅前は当然いつもより賑やかで、クリスマスも近いせいか街路樹や建物に点々とイルミネーションなんかが飾りつけられ、空気も浮き立っている。千嘉はそんな周囲をゆっくり見回してから、わたしに向き合った。

「じゃあ、ここで。ありがとう、わざわざ送ってくれて」
「くっついてただけですけどねー」
「それでも嬉しいから……ほかにもたくさん、ありがとう」
「こちらこそ。気をつけて帰ってね」
「うん」

 そんなに愛しそうに見つめないでほしい。いやでも溢れるほどに伝わってくるから。
 人通りが少なくなった瞬間を見計らい、彼はわたしの額にそっとキスをしてから、改札の向こうに消えていった。
 ひとりになると、寒さが肌を刺すように強くなった気がする。いろんな音が大きく聞こえるような気がする。しばらく、具体的には三分くらい、意味もなくぼんやりとその場に立ち尽くしてから、帰りのバスが来るまでケーキ屋さんや雑貨店を見てまわった。そうこうしているうちに、空はすっかり夜の帳を下ろしていた。
 家に帰ったら、お風呂を沸かして、その間に軽く床を掃除して、入浴後にはご飯をつくって食べる。食器を洗ってからメールを確認して、少し仕事を進めて、日付が変わる前にはベッドに潜り込んだ。
 次の日からはいつも通りの平日だ。朝の七時には起きて、ご飯を炊いて、洗濯機を回して歯を磨いて、顔を洗って、朝食をとって。洗濯物を干したあと、日中は適度な休憩や昼食の時間も挟みつつ、机に向かいつづける。ときどき買い物に出たり病院に行ったりもして、夜になればシャワーを浴びて夕食をとり、余裕があればまた少し作業を進めるか、読書をして日付が変わる前に就寝する。それを何度も繰り返す。二年間で、身体に染みついたわたしの生活習慣。最近意図的に変えた習慣といえば、千嘉に合わせて、自分の休日も週末にずらしたことくらいだろうか。自分が好きでやったこととはいえ、未だに慣れない。これまでの癖でついつい早起きしてしまうこともあるし、ごみ出しの曜日は間違えるし、どこに出かけても混んでいるし。
 木曜日の夜。そんなことを考えながらパソコンをシャットダウンして、布団の上に放り投げてあった携帯電話を手に取ったら、友人から一時間前に新着メッセージが来ていた。

〈いろいろ平気? ニュース見たよ〉

 …………はて。

〈なんのこと?〉
〈わたしは元気だけど〉

 狐や狸や爬虫はちゅう類その他でも召喚しそうな返事になってしまった。歩くのはわりと好きだ。と、まあそのくらい何のことをおっしゃっているのかわからない。送信先を間違えたんじゃないのか。

〈そっか、あんたテレビ持ってないんだっけ〉

 相手もわたしが理解できていないとわかったのだろう。わたしの〈?〉に既読がついてから五分以上経って、ようやくふきだしが追加された。

〈あたしもさっき知ったばっかりなんだけど、春巻のお母さん、真幌深幸に殺されたんだよ〉
〈妹さんも、あの子にやられたんじゃないかって〉

〈え?〉

 読み間違いでもしたのかと思った。昔、そういうことがあったから。だから何度も読み返した。彼女が貼り付けてくれたネットニュースのURLも踏んでみた。
 残念ながら、読み間違いでも嘘でもなく。
 母親は実家のリビングで惨殺されていて、妹は近所の古い神社で頭部を殴打され、意識不明の重体。手を下したという深幸は、当然あのときに死んでいた。

〈連絡、なにも来てない〉

〈とりあえず、諸々のことはお父さんがやっておいてくれるってよ。マスコミとかにつけ回されたら可哀想だからって〉
〈さっき、あたしのところに伝えにきてくれたから〉

〈うちの父が?〉

〈うん〉

〈ありがとう、迷惑かけちゃったね〉

〈そんなの今さらすぎるから笑〉
〈とにかく、しばらくの間は引きこもりに徹するように。なんか困ったことあれば呼べよー〉

 ゆるキャラのような白い動物が布団にくるまっている、イラストのスタンプが最後に送られてきて、メッセージは途絶えた。彼女のさりげない優しさが身にしみる。
 こちらに越してきたときは家出も同然だったし、当時もう実家にいなかった父も、わたしの連絡先を把握することは難しかったのだろう。父親と、妹の無事(ではないけれど、とりあえず生きていたこと)に胸をなで下ろすと同時に、自分が疑われずに済んだことにも安心してしまった。遅れて冷や汗が噴き出してくる。自己中心的な思考に、自分でもあきれてしまった。
 あいつは……深幸は、わたしを死なせるためにここまでしたのか。そんなに死んでほしいなら、もっとはやく、直接殺してくれればよかったのに。そうすれば彼女に何ら関係のないふたりが、危害を加えられることもなかったわけだ。母親のことも妹のことも嫌いだけれど。
 深幸に対して抱いているこの感情は、怒りなのだろうか。なんだか、自分自身がよくわからなってくる。

『Chika』 ( No.19 )
日時: 2020/12/23 21:41
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 ひとまず、しばらくは外で会えないかもしれない旨を千嘉に伝えなければと、彼とのトークルームを開こうとしたのだけど。
 アイコンの画像は消え、名前の欄も〈メンバーがいません〉の表示に変わっていた。メッセージの最後の表示は三日前、つまりは最後に会った翌日の〈Unknownが退出しました〉。

「え」

 これまで何度も見たことのある画面。わたしに愛想を尽かした人たちは、大抵こうやって姿を消していった。
 変なスイッチでも入ってしまったみたいに過去のいろいろな記憶がなだれこんできて、背中が冷たくなる。息が詰まる。千嘉とは喧嘩をしたこともなかった、なにか我慢させていた様子もなかった、暴言を吐いたこともなかった、千嘉に八つ当たりしたりいまから死んでやるなんて言いだしたことも一度だってなかった、彼はいつも温かいやわらかい笑顔でわたしを見てくれていて、優しく手を握ってくれて、何度もわたしを抱きしめてくれて、なんでだかそばにいるとすごくすごく安心して、二人きりのときはキスばっかりせがんできて子どもみたいに甘えてきて、そうかと思えばわたしにも思いきり甘えさせてくれて、わたしの好きなものとか嫌いなものとかこんな短い間になぜかたくさん覚えてくれていて、その服すごくかわいい似合ってるとか前髪切ったでしょとか珍しくいつもと違うリップを買って使ったときなんてよくわからないけど雰囲気変わったよね今日もかわいいよとかまじでこっちが恥ずかしくなるくらいに褒め倒してくれるようなもう意味わかんないくらいむちゃくちゃかわいくてかっこよくてできた人でそんなところもいやほかにもたくさん全部ぜんぶ大好きでしょうがなくて。
 なのに、そんな、いま、どうして。
 祈るように彼へ直接電話をかけても、すでに番号が使われていないと音声案内されるだけだった。
 なんでだろう。なんで千嘉までいままでとおんなじようにいなくなっちゃったんだろう。今回は違う、この人のことは失望させたくないってやってきたのに。好きな人でもできたのかな、わたしが嫌なことしちゃってたかな、悩みでもあったのかな…………………………あ。


────枕元に置き手紙、してきたのに


 あの日の、ささくれ程度の違和感が示していたものは、このことだったのかもしれない。あの朝、もし彼が、そのまま消えるつもりで家を出ていこうとしていたのなら。携帯のライトで照らしながらベッドの下を覗きこむ。ずいぶん奥のほうに紙が落ちていた。ベッドごと動かしてみようかと試みたものの、想像以上に重くてびくともしない。
 ワイパーの棒を使ってなんとか取り出してみると、わたしのデスクの引出しにあるメモ帳を何枚か使った、書き置き、というより、短い手紙だった。わたしが昼寝をしている間にでも書き直したのかもしれない。

〈 晴柀はれまき千花様
 これを見つけたとき、俺はもう、いなくなっていると思います。死んではいませんが、捜しても見つけられないでしょう。ほかに好きな人ができたとか、嘘をついて別れようかとも考えたんだけど出来ませんでした。突然勝手なことをしてごめんなさい。
 千花があの夜、頷いてくれてすごく嬉しかった。いままでそうたずねてきた相手たちは、自分を頭のおかしい奴だと言っていなくなってしまったから。でも千花が、やっぱり死ねない、怖いと言ったとき、それと同じくらい安心もして申し訳なくなった。連れていっちゃだめだと思った。千花を大好きになってしまったからだろうね〉

〈きみには、この世界で、明るい場所で生きていてほしい。生きて、どんなかたちでもいいから幸せになってほしい。俺の死にたいという気持ちに巻き込みたくない。
 自分で書きながら、すげー勝手なこと言ってるなって情けなくなってくる。ごめんね。本当に、ごめんなさい。できるだけ早く俺のことは忘れてください。
 短い間だったけど、すこし辛くなるくらいに幸せでした。ありがとう。さようなら。   雨宮千嘉 〉

 読み終えた瞬間、わたしは友人の言いつけも、終電のことも、捜しても見つけられないという文も忘れて、部屋を飛び出していた。今にも溢れだしそうになる涙をこらえて、ひた走る。また走る。
 いまになってやっと思い出した。千嘉と別れたあの日は、日曜日じゃなくて土曜日だったんだ。その話も朝にしていたのに、五日間、勘違いをしていた。たぶん、未だに土日休みに慣れていないことがばれていたんだろうな。その上で、たった一晩の間に決心して、数日でわたしの前からいなくなったのだ。
 渦巻く思いは言葉になんてなりそうにもない。もし「そんなの嘘だよ」と彼がいま目の前に現れてくれたとしても、わたしは何も言えないと思う。
 電車に揺られながら、とうとうこらえきれずに泣いてしまった。乗客たちの視線は思いきり俯いて無視する。四つ先で降りた駅前でナンパしてきた酔っぱらいの男も、居酒屋の客引きもことごとく無視した。
 三回しか行ったことはないけど、マンションの場所なら覚えている。部屋番号だって、教えてもらったエントランスの暗証番号だってちゃんと覚えている。なのに、なのに、何度部屋のチャイムを鳴らしても彼は出てこない。
 ……いままでの日々は、時間は、ふたりで作り上げてきたものは一体なんだったのだろう。千嘉とだけは、こうなりたくなかったんだけどな。
 つんとした静かで冷たい空気が、容赦なく肌に、喉の奥に刺さってくる。
 わたしは、長い夢でも見ていたのかもしれない。千嘉や深幸たちと出会ったことも、家出をしたことも、母親が死んだことなんかもすべて妄想で、目が覚めたら、実家で母さんと怒鳴り合っている、あの地獄みたいな日々に逆戻りしているのかも。
 そうだ。きっとそうなんだ。そうじゃなきゃ、何なんだよ。


       〆
 
 
 

Re: 祈りの花束【短・中編集】 ( No.20 )
日時: 2020/12/25 00:17
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)





 不幸な事件だったと、だれかが言った。



       ◯


   6.『±』


 父親が自殺して以来、ひどく不安定になった母親とうまくいかず、彼女は高校卒業後に実家を出た。夜の水商売で稼ぎを得て、ひとり静かに都市部の古いアパートで生活していた。
 都会はいい。ひっそりと生きていれば、他人には興味や関心を向けられず、干渉されることもないから。彼女にとって果てしない自由がそこにはあって、幸せな毎日だった。たとえ母親や祖父母が認めないとしても、彼女にとってはそれが正しい暮らしなのだ。
 もうだれにも邪魔をされたくない。清潔な家で、好きなときに寝て起きて、好きなものを食べて、買いたい服やアクセサリーや化粧品をたくさん買うのだ。社会の常識やルールさえ守れば、自分のためだけに生きられる。それがすべて叶えられるのが嬉しかった。
 ……そんな幸せを打ち砕かれる日は、前触れもなく訪れた。仕事からの帰り道に、見知らぬ男にレイプされたのだ。彼女が働く繁華街の、汚い暗い路地裏で。いつか相手をしたことのある客だったのかもしれないが、彼女の記憶の中に、目の前の男と一致するような顔は見当たらない。
 叫ぼうとすれば容赦なく殴られた。頑張って伸ばしてきた髪ははさみで切り落とされてしまった。ショックと、酒臭い息がかかってくる不快感で思わず吐いてしまったが、それでも男は粘着質な笑みを浮かべつづけている。そういう性癖なのだろうと思った。
 痛い。寒い。気持ち悪い。助けてほしい。でも、もしだれかがやって来たら、その瞬間に殺されてしまうのかもしれないという恐怖もある。だからどうか、だれも気づかないで。ここに来ないで。
 やがてひどい無力感に襲われて、彼女は抵抗することも涙を流すこともやめてしまった。頭がぼんやりする。自分の手足ですら、自分のものでないような感覚がした。
 男は分厚い携帯電話を開いて、ぼろぼろになった彼女のことを何枚も写真に撮っていく。他言すればネットにばらまくと脅迫されたが、そんなことを言われずともすでに放心状態で、通報する気もだれかに相談する気も失せていた。
 いつのまにか家に帰ってきていて、部屋に上がった瞬間、涙が勝手に溢れてとまらない。叫び出してしまいたくて、けれどもただでさえ夜中だからそんなことはできなくて、布団を千切りそうになるくらい強く噛んで堪えていた。
 自分は汚れてしまった。
 汚ない、汚ない、汚ない汚ない汚ない。
 風呂場の鏡に映る身体が何時間洗っても綺麗になってくれなかった。タオルで肌を擦りすぎて痛い。ところどころに血が滲み、お湯も石鹸もひどくしみる。ふと、あの日つけられた下腹部の傷に目が留まって、耐えきれずに鏡を割った。
 そんな夜をやり過ごし続けていると、生理がこないことに気がついて。あの日の男以外に心当たりはない。それは、彼女にとってあまりにも重い事実だった。現実から目を背け、ひたすらに部屋で眠り続けた。
 それでもだんだんと腹が膨れ、重くなっていく。物理的にも精神的にも、身動きがとれなくなってくる。母親が事故で死んだとしらせに祖母が訪ねてきて、変わり果てた彼女の姿を見たころには、もう後戻りできなくなっていた。長い間祖母に叱られ、泣きわめかれ、叩かれていた気がするが、よく覚えていない。
 それからは実家に連れ戻され、祖母に身のまわりの面倒を見てもらっていた。ずっと頭がぼんやりとして、自分が生きていないみたいだった。
 途切れとぎれの記憶を渡り歩くと、気がつけば、久々に会う幼馴染みの彼が隣にいて。自分の手を取りながら、祖父母に向かって恥ずかしい台詞を並べ立てていた。
 昔、だめな恋人に振り回され落ちぶれていたわたしを本気で叱ってくれて、手をさしのべてくれて。そんな彼の想いを知りながら、酷い態度で踏みにじり、わたしはこの町を離れたのに。それなのに、どうしてだろう。わたしは夢でも見ているのかもしれない。
 ついには祖父に実家を追い出され、知らない家で彼といっしょに過ごしていた彼女は真剣にそう思っていた。
 隣で眠る赤ん坊の顔が、よく見えない。こいつが自分の子どもだなんて認められない。世話なんかしたくない。自分の体も心もぼろぼろなのに、毎日毎日、昼夜問わず泣き声がうるさくて、頭痛がしてくる。ひねり潰したくなる。赤ん坊の顔をきちんと見ようとして忌まわしい記憶がよみがえるたび、彼女は奇声を上げ、赤ん坊や自身を傷つけようとし、宥めてくる彼にも無意識に暴力を振るっていた。
 もう、彼女のそばにこの子を置いていてはだめなのかもしれない。彼はそう考え、やはり子どもは彼女の祖父母に託すべきなのではないかと迷い始めたが、ある日を境にぴたりと、彼女が暴れなくなった。

「こいつ、すごくわたしに似てるよ、かぁいいねー」

 少々乱暴に小さな体をつつきながら、笑って言う。
 ふしぎに思った彼が赤ん坊をよく見ると、生まれたばかりの頃より幾分か顔つきが変わっているように思えた。これまで彼女にとっては父親似に見えていたのだろう。それで取り乱していたのか。

「……きみは美人さんだから、きっとこの子もすごく可愛い女の子に育つね」
「なんかそれもやだなあ」

 彼女の笑顔は、あまりに脆く、赤ん坊よりも危うく、触れれば壊れてしまいそうだった。
 強く子どもの服を握りしめるのを見て、彼は慌てて、けれど優しく彼女を抱き寄せる。腕の中にやすやすと収まり、そのうち自分に体を預けて眠り始めてしまった彼女を見ていると、重たい、重たい悲しみが込み上げてきて、しょうがなかった。彼女がすべての感情や記憶を手放した無表情で眠っているのが辛かった。
 ただ今日まで生きていてくれただけでも嬉しい。こうしてまた出会えたことも奇跡だと思う。でも、彼女に、すこしでもいいから昔のように笑っていてほしい。すこしでもいいから幸せでいてほしい。
 どうすればいいだろう。
 彼女とこの子から少しでも不幸を遠ざけるためには、どうすればいいだろう。
 考えて、考えて、考えて。
 彼はひとつの方法しか思いつかなかった。
 彼女の不安定さを利用して、つけこみ、内側から彼女の世界を再構築しようとした。

「やっぱりさー、千花は僕に似てるんだよ。パパ似なんじゃない?」

 義祖父母の言うとおり、僕もいまの彼女も、やっぱり"ふつうじゃない"のかもしれない。

『Chika』 ( No.21 )
日時: 2020/12/26 21:58
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 難しいようで、簡単だった。はじめのうちは困惑していたが、夢の中に生きているような彼女にとっては、嘘と真実の境界線もそれほど曖昧なのだろう。彼女の中で事実が書き替えられるのに、時間はかからなかった。
 時おり、彼女がはげしく錯乱する夜がある。娘が物心ついてからも相変わらず。頭が痛くなるほどの叫び声を聞こうとも、殴られようとも、自分の服に思い切り嘔吐されようとも、耐えた。耐えて、堪えて、彼女の手を離さなかった。
 それから数年が過ぎて、千花に妹ができた。生まれた頃から自分にそっくりで、けれども自分とはとても似つかない亜麻色の髪をしていた。母親に似たのだろう。他者の入る余地がないほど、彼女はそんな次女につきっきりになり、千花に対して育児放棄をするようになった。
 だから僕が、彼女の代わりに千花のほとんどの面倒を見ていた。とはいえ、以前とほとんど生活に変わりはない。この子の母親だという自覚が著しく欠けているのだろうなと、改めて思う。この子の昼寝している隣で僕を求めるような始末なのだ。さすがに拒むけれど、そうするとあからさまに不機嫌で暴力的になるから辛い。事件の後遺症なのかと思うと、頭ごなしに咎めることもできないし。
 そんな毎日がつづいても。いびつな空間にさえ目をつむれば、わりと静かで、平穏な家庭だ。そう言い聞かせて、やり過ごして。
 千花が保育園を出る頃には、うちにいるのは長女と次女と、体だけ大きな子どもなのだと、思うようになっていた。

*

 手放しで喜ぶつもりはないし、最低限の家事育児はもちろんつづけているけれど、仕事を含め、次女のことで自分の時間を必要以上に削られなくなったというのは嬉しいことだ。
 長女も小学校に上がってから、だんだん手がかからなくなってきた。外の世界が楽しくて仕方ないのだろう。
 人間というのはつくづく無いものねだりなもので、そんな生活に少し、寂しさも感じていた。だから空いた時間にはひとりで外へ出掛けて、久々の趣味に打ち込んでいたのだ。
 色々なことが少しずつ、うまくいきはじめたのだと、いい方向にむいてきたのだと思っていた。でも、彼女の世界は僕の世界と大きくずれていた。見えるもの、感じるものがあまりにも違っているのだということを、頭では理解していても肌ではわかっていなかったのだ。

博史ひろふみ、あんた浮気してるでしょう」

 彼女のそのひとことで、僕たちの世界は、音を立てて崩れ落ちた。
 見たことがないほど、彼女は怒り、悲しみ、家中のたくさんのものを壊し、次女にまでその矛先を向けた。いままでとはなにか違うと、千花も感じ取って宥めようとしたのだが、彼女はその手を強く払いのけた。
 ぜんぶおまえのせいだ。こんな思いをするくらいならおまえなんか産まなければよかったんだ。あんな、あんなゴミクズみたいなやつの────
 叫び声のつづきを、八歳になったばかりの千花には聞かせまいと、咄嗟に両耳を塞いだ。
 僕は、どうなったっていい。悪者になってもかまわないから。もう二度と、この子達に会えなくなってもかまわないから。
 どうかそれだけは、千花が知ることなく、育っていけますように。
 自分が他のみんなと何一つ変わらない、かけがえのない大切な存在なのだとわかってくれますように。
 三人に、ひとつでも多くの幸せが訪れますように。



「パパなんかだいっきらい。二度と帰ってこないで」



 それが、僕の願いだ。


   6(0).『±』 終
 

『Chika』 ( No.22 )
日時: 2021/01/12 21:25
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=article&id=6569


   7.『日照雨そばえが上がる』


 千嘉の隣の部屋に住んでいる大学生くらいの女性が帰ってきて、泣き崩れていたところに声をかけられた。わたしはまったく覚えていなかったものの、彼の部屋に来ていたときに何度か挨拶を交わしていたらしく"となりの雨宮さんの彼女さん"と記憶されていたそうだ。かいつまんで事情を説明すると、彼は月曜あたりにマンションを出ていったばかりだと教えてくれた。
 もちろん引っ越し先は彼女も知らなかった。わたしと同棲するために県外に出るのだと伝えていたらしい。その一言で、おそらく県内にはいないだろうとわたしも判断した。
 その後「冷えてしまいますから」と彼女が部屋に上げてくれて、温かい紅茶まで淹れてくれた。とてもいい香りがした。
 互いに名前すら知らなかったような間柄なのに、話を聞いてくれて、タクシーまで手配していただいてしまって。年下の女の子だというのに、申し訳ないやらなにやらでいっぱいいっぱいだ。

「こちらこそすみません。同じような経験があったので、感情移入してしまって。私はただのお隣さんですけど、二人のこと、ほんとうに素敵だなって思ってますよ。ですからどうかお気になさらないでください」
「ありがとうございます……当分立ち直れないかもしれませんが」
「いいんですよ、すぐ立ち直ろうとしなくても。無理に忘れようともしなくていいんです」

 気が済むまで落ち込んでいい。気が済むまで毎日彼を思い出していい。
 そう言って外まで見送ってくれた、彼女のやさしい、そしてどこかひどく悲しげな笑顔は、いまでも鮮明におぼえている。

「……納得のいく別れなんて、この世には存在しないから」

 わたしは他人に親切にされるということに免疫がないのだなと、そのとき改めて認識できた。
 千嘉と別れて二年になるいま。彼が死んでしまったいま。わたしは以前のわたしより、少しでも前に進めているだろうか。明るい場所を自分の足だけで、しっかりと地面を踏みしめて。
 ときどき、いや、しょっちゅう、こうして後ろを振り向くことがある。振り向いた先は真っ暗で、いくつも死体が転がっていて、たまらないほどの罪悪感が首を絞めてくる。自分が殺したのだと錯覚してしまうことがある。わたしは何人ものひとの幸せを壊して、奪い取って、不幸を吐き出して、き散らして生きている。自分の存在ってただの公害じゃないか。実家には未だに帰れないし、事件から二週間以上経って目を覚ました妹の顔も、見に行けていない。左手が使い物にならなくなってしまったと、父が言っていたっけ。彼女は右利きだったのが、不幸中の幸いだろうか。
 ふらりと、死んでしまおうかと思う夜もあった。でも、結局最後の一歩が踏み出せやしなかった。ビルの屋上にあがってみても、包丁を握っても、駅のホームに立ってみても、眠剤のシートを破いてみても、歩道橋から街を見渡してみても。千嘉と死のうとしたあの日を、深幸が目の前で死んだあの時を、クラスメートが死んだあのときを思い出してしまう。そうして怖くなって、彼女の思うつぼになるだろうと踏みとどまって、次の日にはまた死にたくなって、その繰り返しだ。
 それでも、いままでのように友人に泣きつくことはしなかった。千嘉と別れたことを話せたのも、あれから半年以上過ぎた頃だったし。
 ただひとりで、なんとか毎日をやり過ごしていた。働いている間だけは、いやなことを考えずに済むから。
 段々、だんだん、寒さが厳しくなって、段々、だんだん、日が伸びて、寒さが和らいできて。咲いたばかりの桜が瞬く間に散り、気づけば夏になり、蝉の鳴き声が聞こえなくなるころには、自殺を考えることもほとんどなくなっていた。その代わりに、なんだかときどき頭がぼんやりとするようになってしまったけれど。

 彼の訃報をきいた翌朝。眠りから覚め、また少しもやがかかる頭で部屋を見回し、枕元の携帯電話に触れると「じゅうにじかぁ」時計はいつもよりずいぶん遅い時間を示していた。

「…………え、おひる、うまのこく、ヌーン!」

 ふらつきながらも毛布をけとばして起床した。いつも少し開けて眠るのに、夜から閉めっぱなしにしていた窓のカーテンを開くと、真っ白い太陽光が遠慮がちに全身へ降り注いできた。寒さも相まっていっぺんに眠気が消え失せる。でも脳内の靄は消えてくれない。
 とりあえず換気のために窓を開け、急いで顔を洗いにいった。ごはんは、ゆうべの残りの白米でおにぎりでも作ろう。
 午前中の時間を犠牲にして、ライフゲージは全回復させることができた。この調子なら、取りかかっている作業も夕方には終わらせられるだろう、後ろがまだまだ立て込んでいるけれど。友人の言う通り、わたしは仕事だけはよくできるやつなのだ。体力さえあればどうとでもなる。
 落ち着いたら、何をしようかな。新しい服なんか買って、美容室に行って、久々に手の込んだ料理を作ったりして、あとは海を見に行きたい。冬だけど、だれも人のいない寒い海で潮風に当たりたい。その風景を絵に描きたい。ラップに包んだ温かい塩むすびを頬張り、窓を閉めながら、考える。
 生きるために、好きなことをするために、明るい場所を歩くために。わたしは今日もコーヒーを淹れ、ヘッドホンを耳に当て、机に向かう。
 本当に、死にたいと思える暇がない。
 とてもありがたいことに。





 それから一週間が過ぎた頃。
 行きつけの美容室で髪を切り、人の少ない午後二時半あたりを狙っていつものようにスーパーまで買い物に出た帰りに、コートの中で携帯が震えた。ちょうど、昔深幸に突き落とされた歩道橋の上のど真ん中で立ち止まる。通知を開くと、友人からのメッセージだった。

〈月並みな言葉だけど、あたしは、今日まで春巻が生きててくれてよかったって思うよ〉

 最後のやり取りである〈もうする気は失せたかな〉の続きなのだろう。多かれ少なかれ、あれからずっと気にかけてくれていたのかもしれない。

〈少なくとも、あんたが嫌になるまで、あたしはこれからも一緒にいるつもりだから〉
〈だからまあ、よろしく。それだけ〉

 なんとまあ、珍しいことを。雪でも降るんじゃないのか。
 思わずくすくすと笑ってしまいながらも、返事を打ち込む。

〈それって月並み? 太陽並みじゃない?〉
〈ありがてー〉

〈いやいや、月並みって、そうじゃないから笑〉

〈冗談ですよ笑〉
〈ほんとにありがとうね。十年も、こんなわたしの友達でいてくれて〉

 そう。家を出て、地元の公立高校に入学して、すぐうしろの席だった彼女と出会ってから、約十年。いろいろあって学校に足が向かなくなったときも、転校しても、別々の大学に進んでからも、彼女が地元から引っ越しても、転職しても。ひとりぼっちになったときも、どんなときも、いろいろな形で寄り添いつづけてくれた。心強い味方でいてくれた。
 ゆっくりとまぶたを閉じて、追憶する。
 長かった。すごく、長かったな。泣いちゃいそうになるくらい。
 わたしは、その恩を彼女に返せているのだろうか。「そんなのいらないよ、キモいから」と笑われそうな気もする。
 携帯をしまってまた歩き出そうと、したとき。コートの袖口にふわりと白いものが舞い降りた。

「ほんとに降ってきた」

 空を見上げると、境界線の曖昧な雲から、雪が風に吹かれて花びらのように降っている。やわらかい太陽の光で粒がきらめいて、とてもきれいだった。
 もしかして、妹の名前ってこれが由来なのかな、いまさら気がついたけれど。冬生まれだし充分ありえる。いつか……妹にきいてみないと。
 すれ違った知らない親子がわたしと同じように立ち止まり、空を仰いで雪だねえと楽しそうに話している。子供の格好や持ち物から察するに、保育園からの帰りなのだろう。
 雪は数分もしないうちにやみ、うしろではしゃいでいた親子もふたりで『雪のペンキ屋さん』を歌いながら歩道橋から下りていってしまった。いまのってペンキどころか鉛筆書きにも満たないよなー、そういえば白い色鉛筆っていちばん減りが遅かったなー、ていうか地味に歌詞怖いなーなどとくだらないことを考えつつ、わたしも再び、ゆっくりと帰り道をなぞりはじめた。
 どこかで聞いたことがある。わたしたちが故人のことを思い出すとき、天国にいる彼らのもとには花が降るらしい。死後世界の信仰の有無はさておき、本当にそうなるなら素敵だと思うし、死者にとってはそれほど嬉しいことなのだというたとえであったとしても、なんだか積極的に思い出してあげたくなる話だなと思う。
 さっき見た、あんな風な、きれいな花だといいな。
 千嘉のところにも、深幸のところにも、母親のところにも、顔も知らないおじいちゃんやおばあちゃんのところにも、あんなきれいな花が降っていればいい。少なくとも三人くらいは嫌がりそうだけれど、まあ、それが供養というものなのだろう。
 きっとこれから何十年、何百回、何千回と彼らに花を降らせながら生きていくにちがいない。わたしは"千花"なのだから。
 それならこの名前も悪くないかなと、乾いたアスファルトを踏みしめながら、ようやく思うことができた。

 もうすぐ年が明ける。家に着いたら、ずっと後まわしにしつづけていた大掃除の、準備を始めよう。




      『Chika』 完




風花かざはな
1.晴天に、花びらが舞うようにちらつく雪。山岳地帯の雪が上昇気流に乗って風下側に落ちてくるもの。
(Weblio辞書より引用)
 
 


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