ダーク・ファンタジー小説
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- 祈りの花束【短・中編集】
- 日時: 2021/02/23 18:05
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
- 参照: https://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=20203
春と秋特有の夕方ごろの空気感が、どうにも憂鬱で苦手です。
店先 >>26
- 『Chika』 ( No.8 )
- 日時: 2020/12/11 22:33
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
1.『彼の死』
昔の恋人が自殺したらしい。十二月も半ばの深夜、そんな報せが唐突に、わたしのもとへ舞い込んできた。
片手の指で足りるほど数少ない友人のひとりから送られてきた、短いLINEのメッセージ。それをぼんやりと見つめながら、マグカップに残った冷めかけのコーヒーをちびちびとすする。築三十年、家賃七万のワンルームのアパートで過ごすひとり暮らしの夜は、いつもひどく静かだ。その静けさが気に入ったから、人生で二度目の引っ越しのとき、ここに住もうと決めたわけだけど。
〈一応、早く伝えておいたほうがいいかなと思って〉
ぽん、とふきだしが追加された。
こうして直接、彼女に教えてもらえてよかったと思う。二年前のこともあるし。遅れて純度の低い噂やヒレだらけの伝言ゲームで知るより、よほどいい。それを見越して彼女も教えてくれたのだろう。
〈ねえ春巻〉
〈あんたはさ、いまでもまだ、死にたいって思う?〉
既読をつけるだけで返信しないわたしに、友人が問いかけてくる。春巻、というのはわたしのあだ名だ。名字の読み間違いから転じて彼女からのみそう呼ばれるようになったのだけど、それはまあ、置いておいて。
〈まあ、ときどきほんのりと思うことはあるけど〉
〈もうする気は失せたかな〉
それだけの返事をしてから、携帯電話を机の上に伏せる。
手元のパソコンモニターには、締め切り間近の仕事が途切れたままになっていた。この一・二週間、以前から懇意にしてくださっている有名配信者の動画編集作業に追われつづけているのだ。最近ますます再生回数が伸びてきたようで、月当たりの依頼回数は倍増している。もちろんわたしもべつの仕事をいくつも抱えているので、労働量も膨れ上がっていく一方。正直、死にたいと思う暇がない。全国の自殺志願者を敵に回しそうな発言ではあるが。
有り難いことに、生活に困らないだけの報酬はいただけている。彼との仕事だけに専念する道も見えているものの、将来への不安が勝って一歩を踏み出せない。とはいえ、若い女ひとりの体力ではそろそろ限界を迎えそうだ。どうにでもできるくせに表面上は八方塞がりで、そんな状況をどこかで楽しんでいる自分もいる。我ながら面倒くさい生き物だと思う。
「あぁぁ、ねっ……む」
机に突っ伏しながら見上げた壁時計は、午前一時まえを指していた。このところの睡眠不足が祟って、もともとない気力が一層削がれている。いまはベッドに歩いていくことすらできそうにない。それでも頭の中ではたくさんの情報が行き交っていて、昼間以上に騒がしい。とりあえずこの峠を越えたら、しばらく彼の依頼以外はセーブしよう。あと数日の辛抱だ。
明かりを消すのも億劫なので、ひとまず瞼をおろして、視界を暗くする。
そう、こんなとき。
こんな一瞬に「死にたい」は忍び寄ってこようとする。ずいぶん穏やかでやさしくて、軽くなったけれど、それでも喉の奥が苦しくなる。
────ねえ、おれといっしょに死んでくれる?
あのときの、いまにも泣き出しそうな彼の口許がよみがえる。はっと我にかえってから、寒いさむいユニットバスの洗面所で、息を荒げながらカミソリを握りしめていることに気がついた。何年ぶりだろう、こんなこと。
スウェットをまくりあげた右腕の内側には、古い傷跡がいまだに生々しく並んでいて、じっと見ていると自分でも吐きそうになってくる。よく平気だったよな、あの人は。彼以外の元交際相手たちにはドン引きされた、それどころか本当に目の前で吐かれたこともある代物だというのに。
水滴の跡で濁ったままの鏡の向こうに、薄ら笑いを浮かべるわたしがいた。目元にはクマができていて、持病のせいだなんて言い訳もいいところに肌も荒れていて、髪だって、この多忙で美容室に行けていないせいか伸び放題のぼさぼさだ。母親譲りで顔立ちだけは整っている自覚があるけれど、これはひどい。自分で自分を平手打ちしてから無心で歯を磨き、部屋中の明かりを消して布団に潜り込んだ。
こんな日は、さっさと眠ってしまうほうがいい。夢にまで見るかもしれないけど、余計に仕事がきつくなるかもしれないけど、そのときはそのときだ。
自分の命のほうがよほど大事だから。
あれから二年たった今、そう考えられるようになったくらいには、成長していると思う。
〆
二年前の秋、大学時代からの友人に紹介され出会った彼は、中学の同級生だった。クラスは違ったし、部活や委員会でいっしょになったことももちろん一度だってないけれど、それでも顔を合わせて名乗りあったとき「ああ、あんたか」と同じ表情をしていた。人間の記憶力は意外に侮れない。
コーヒーが大好き。煙草はきらい。インテリアやファッションはシンプルなのが好き。夏より冬が好き。掃除が大きらいだけど綺麗好き。犬派でも猫派でもなく鳥派。どちらかといえば夜型。お酒はそこまで好きじゃないけど、弱くもない。映画やライブは家でひとりで観たい。ときどき趣味で一枚絵を描くこと。読書は好きだけど早く読めなくてすこし苦手なこと。
会話を重ねるごとに、わたしたちにはたくさんの共通点があることを知り、初対面の日からあっというまの二ヶ月が過ぎた。気づいたときには手を繋いで歩くようになっていて、キスまで済ませた。こんなことも互いに初めてではないし、むしろおとなしすぎるほうだと思う。わたしなんて酔った勢いで一線を越えてしまったことが四回(そのうち二回は当時の恋人だが)あるし。けれどまあ、そんな記憶はお互いそっと胸の奥へしまっておくに限る。過去がどうであれ、いま隣にいる人間を大切にできているのだからなんの問題もない。
「下の名前、おんなじだから覚えてたんだ」
最近ふたりで偶然見つけた、駅前の個人経営の居酒屋さんで夕食をとっていたとき。彼が、焼き鳥を頬張るわたしをいとおしそうに眺めながら、そう言った。
「俺、あんま自分の名前好きじゃなくて。でもいまは、ちょっとだけ、よかったかもなって思う」
金曜の夜だからか、まわりの席はほとんど、顔を赤くして笑っている会社帰りのサラリーマンやOLたちで埋まっている。
忙しそうに行き交う、黒いエプロンとバンダナの若い店員たち、奥のテレビから流れている曲に重なるだれかの歌声、アルコールの独特な香り、すこし煙たい空気。いつもより賑やかで、でもわたしたちはいつもどおり静かに、壁際のすみの二人席で話していて。
酔っているわけでもないのにふわふわしてしまう。こんな時間をいっしょに過ごせるだれかが現れるのを、わたしは心のどこかでずっと待っていたのかもしれない。
「ありがとう、チカ」
呟いたのは、どちらだったのか。
店を出たあとは、三度目の、彼の住むマンションへ行くことになった。
- 『Chika』 ( No.9 )
- 日時: 2020/12/12 22:28
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
どうしてわたしが"こう"なったのか、ときどき考えてしまうことがある。
小学生の頃、父親が不倫して家を出ていったからかもしれない。そのとき母親に、おまえなんて産まなければよかったと泣き叫びながら言われたからかもしれない。中学の頃、いちばんの友達の片想いしていた人がわたしを好きになってしまって、結果的に絶縁したからかもしれない。高校の頃、好きだった人がある日突然線路に飛び込んだからかもしれない。思い当たることならたくさんあるけど、どれも間接的な理由でしかないなと思った。
塵も積もればなんとやら。けれど、きちんとこまめに掃除をしていれば清潔を保つことができたはずだ。結局は、ホウキすら持とうとしなかった自分の弱さが原因だという答えに着地する。じゃあ、その弱さが作り出されたのはいつなのだろう。……これ以上考えていると、卵が先か鶏が先かというような問いにすり替わりそうなので、思考を打ち切る。
いま、友人と呼べる存在は、五十人ほどいるLINEの友だちの内、三人だけ。成人するまでに自殺しようとしたことは数知れず、そんなわたしの前から姿を消した男の数も二桁を突破している。「もう疲れた」と言われて振られるならまだいいほうだ。
そんなだから。そんなだから、不安で仕方なくなる。諦めて、決めつけるようになる。どうせ自分は捨てられるのだ、みんな自分の前からいなくなってしまうのだと。表面では当たり障りのないみんなが望むような女の子を演じて、そんなわたしに近づいてくる人間だからと、何度も試すような真似をしていた。いまから死ぬと真夜中に電話をかけたり、血だらけになった腕の写真を送りつけたり。まさしく黒歴史だ。真っ黒な負のスパイラル。
「でも春巻きって、仕事だけはできるからねぇ。それでなんとか生きてけてんだから、運がいいよ」
友人である三人のうちのひとり、普段からよく連絡を取りあっていて遊ぶことも多い、高校の同級生である彼女と旅行にいったとき、けらけら笑いながら言われたのを覚えている。
図星だ。ほんとうに。
相手さえ選べば、仕事に裏切られることはほとんどない。そういう理由で、働きづめているときほど心が安定していた。こなせばこなした分だけ、お金ももらえるわけだし。
でもいまは違った。決して忙しいわけではないのに、形のあるものをもらっているわけでもないのに、穏やかに毎日を過ごすことができている。自傷の回数も格段に減った。
「このまま泊まってく? 俺は明日休みだし、そこは気にしないでいいよ」
九時から放送している数年前の邦画を垂れ流しつつ、隣のダイニングキッチンで冷蔵庫に頭を突っ込んでいる彼がたずねてくる。
「どーしよっかなー」
いままでの自分なら、答えは一択だっただろう。でも、帰ってゆっくり本を読みながら寝落ちるのもいいし、なにもせずに時間を浪費するのもありだな。……ふつうの人たちは、これまでこんな風に考えて生きていたのか、いまさら知った。なんという贅沢。
麦茶を注いで持ってきてくれた彼が視線でキスをせがんでくるので、
「しょーがにゃーねー」
右頬、左頬、唇にしてあげた。子犬みたいにかわいらしく喜ぶものだから、おでこにも一回。これ以上はとめどがなくなるので自重する。
「あらっ、もうおしまい?」
「今夜は泊まってくから、あとでね」
「よっしゃあああ」
高校生か。喉元まで出かかった言葉は抑えた。
テレビの中では、CMが明けて映画の本編が再開している。風邪を引いて熱に浮かされている男性が「もも、くいたい」などと主人公の女性にメールして困惑させていた。番組情報を見てみると、昔読んでいた漫画の実写化作品のようだ。こんなシーンあったっけ。
大きなソファに座って、布張りの生地を足先でなぞりながら、わたしも桃食べたいなーとか考えて麦茶を飲みつつ映画をみていると、横から些か遠慮がちに抱きしめられた。画面ではせっかく自宅へ見舞いに来てくれた主人公に対し、泥棒でも見たかのように男性が大声をあげているところだった。わたしはなぜか耳たぶをかじられた。くすぐったい。
「これ観たいの、あとにして」
「途中からじゃ内容わかんないでしょ。こんどビデオ借りてくればいいじゃん」
「やですー」
リモコンを手に取って音量を上げようとしたら、こんどは首筋に歯を立てられた。これは地味に痛い。
「どうしたの、痛いよ」
昔、怪我をしてしまうほど強く首を噛まれたことがある。だから大して引きもしないけれど、そいつが異常に独占欲の強い男だったことを思い出して、身構えてしまった。状況も状況だし。
そんな予想を裏切るように、わたしの腕を軽々と掴んで、耳元で問いかけてきた。
「じゃあ、これは痛くないんだ」
驚くわけでもなく、責めるわけでもなく。ただ確認をとるように。
「……痛くは、ない」
「そう」
「いつから知ってたの?」
「ひみつ」
数秒の沈黙のあと、彼はわたしの頭を何度かなでて、離れた。
*
次の日は朝からつめたい雨が降っていた。まだ六時だというのに、マンションの八階から見下ろす街には色とりどりの傘が咲いて、駅の方角へ向かって進んでいく。
学生時代のアルバイト以来、わたしは通勤というものをしたことがない。仕事の内容によっては依頼主のもとへ足を運ぶこともあるが、それとこれとは訳が違う。千嘉は平日なら、毎日こんなふうに家と会社を往復しているんだろうな。
顔を洗い、次第につよく香りはじめたコーヒーのにおいにつられてリビングへ赴くと、彼がふたり分の朝食を作ってくれているところだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「ん、たぶん」
「それはよかった。座ってて、もうできるから」
ぼふ、とソファに腰を下ろす。すでに机に並んでいる平皿には、スクランブルエッグと茹でたウインナー、ミニトマトが控えめに盛り付けられていた。テレビ画面は、民放の報道番組。うしろには、カウンターの向こうに千嘉がいる。
「ん? どしたの」
ソファにのけぞるようにして見ていたわたしの視線に気づき、コーヒーとトーストを運ぶ彼がたずねてきた。
「なんでも」
そんな瞬間がとても幸せだなあと感じてしまって。
「こんどはわたしが作っていい? 朝ごはん」
「お、じゃあ冷蔵庫の中身を整頓しとかないとねー」
「どんだけ散らかってんのよ」
幸せというものに慣れていないわたしには、なんだか辛かった。
「まじでごめんね、ここまででも平気?」
「だいじょうぶ。ありがとう」
ばいばい、と手を振って、歩き出す。角を曲がるまで、一度も振り返ることなく。
夕方、洗濯したきのうの服に着替えてから、車で地元の駅前に送ってもらった。ほんとうはアパートまでの予定だったのだけど、上司から急な呼び出しがかかったそうで、やむをえずといったところだ。スーパーで買い物を終えた頃には雨もすっかり上がり、アスファルトのところどころにできた水たまりを避けながら三十分、いっぱいになった袋を提げてのんびり歩いた。
まだ五時前だというのに暗い街中を見回していたら、なんだか心細くなってきた。首都圏内ではあるが、この地域も都内からみればじゅうぶん田舎と称されるにふさわしい。道中の児童公園にも図書館の周囲にも人気はなく、気温もぐんぐんと下がっていく。一瞬だけ、千嘉に電話をかけようかと考えがよぎったものの振りきり、すこしでも明るい場所に出ようと歩道橋をわたった。
いままでのわたしなら、きっと迷わず彼に連絡していた。けれどもう、二十四歳なのだ。いつまでも他人に依存しているわけにはいかない。いい加減、自分の足で立って生きていかなくちゃいけない。怖くても苦しくても、死にたくなっても、これからはもうひとりで乗り越えなきゃいけない。少しずつ、すこしずつ。
歩道橋のうえから望む澄んだ西の空には、地平線近くに、ほのかに夕焼けの名残がひろがっていた。がんばろう。自分にも聞こえないくらい、ちいさな声で厚いマフラーの中に呟く。そうしてふたたび歩き始め、階段を下りようとした、そのとき。
とんっ、と。背中を押される感覚があって。
「……っ、え?」
理解が追いつく間もなく、わたしは、階段を転げ落ちていった。
犯人は、
はんにんは、
ねえ、どうして。
- 『Chika』 ( No.10 )
- 日時: 2020/12/13 20:54
- 名前: 厳島やよい (ID: gK3tU2qa)
2.『彼女の祈り』
「おねえちゃん!」
次の日の夕方、病院から帰ってきてポストに詰まったチラシや手紙を取り除いていると、うしろから妙になつかしい声で呼びかけられた。
「あーら、六年ぶりのいもーとちゃんじゃない」
振り向けば、ずいぶん背の伸びた妹が立っていた。わたしとは似ても似つかない明るい茶髪を高く結って、わたしよりも大人びた服装で。記憶の中の、ぼんやりとした彼女の印象とは相違点が多い。
五つ年下だから、浪人でもしていない限りはもう大学生か。
「大丈夫だったの? 歩道橋から落ちたんでしょう」
妹は、わたしの髪をそっとかき上げて、まだガーゼの貼りつけてある額を見つめてきた。電車で来たと言うけれど、わざわざ県を跨いでまで駆けつけてくれただなんて、申し訳なくなってくる。
「歩道橋の階段、ね。たいした怪我じゃないよ。一日で退院したし」
外では寒いし、とりあえず部屋にあがってもらって、積もる話に花を咲かせることにした。いちごオレのパウダーが余っていたので、温めた牛乳に溶かして渡したら、めちゃくちゃ喜ばれた。小さい頃から大好物だもんな。
「もう、きょうになってお母さんから聞いたんだよ。なんなのあの人? 信じられない」
「わたしよりいもーとちゃんのほうが可愛いんだもん、当たり前だべ、へっへー」
「おねえちゃん……」
そんなに深刻そうな顔をしないでほしい。事実を述べただけなのだから。
淹れたばかりのホットコーヒーをすすりながら、わたしはあの家での日々を思い返す。
はじまりはいつだっただろう。物心ついたときには、生意気で可愛げのない子だと母親から罵られていたような気がする。わたしが学校でいじめられているのだと知っても、おまえが悪いんだと逆に責められたっけ。それなのに、小学校にあがったばかりの妹が不登校になったときは、全面的に彼女の味方についていた。
妹は、いじめられていたわけでもない。成績が悪かったわけでもない。たくさんの友達に恵まれて、なにひとつ不自由のない生活だったはずなのに、本人も、どうして学校に行けなくなったのかはわからないと言っていた。わたしがひとりぼっちで自殺未遂やリストカットを繰り返していた間、彼女は温かい場所で守られていた。
だからわたしは、あの家が、母親がきらいだ。二度と敷居を跨ぎたくないとすら思う。
なんだか、また切りたくなってきた。さすがに今はしないけど。
「きょうはこれからどうするの? あてがないならうちに泊まっていけばいいよ、狭いけど」
「ううん、もう帰る。お母さんがご飯作って待ってるし、彼氏さんにも悪いし」
「は?」
千嘉のこと、話したっけ。
早々に荷物をまとめはじめる彼女をあっけにとられながら見ていると、玄関のチャイムがなった。
「んじゃね」
流れるようにきれいな動作で、ドアを開けて出ていく。外に立っていたのは千嘉で、どーもどーもーと頭を下げ合ってぶつけそうになりながらふたりが入れ替わった。彼が家に来るのはこれで二度目だ。
こちらから連絡したわけでもされたわけでもないから、抜打ち家庭訪問みたいなものになってしまったけれど、とりあえず彼には上がってもらうことにして、お湯を沸かすのと妹の使っていたマグカップを洗うためにキッチンに立った。
「おねえちゃん」
その後ろ姿を、ドアを押さえてずっと見ていたらしい彼女が控えめな声でわたしを呼ぶ。
「無事でよかった。それと、いちごオレ好きなの、覚えててくれてうれしかったよ」
ありがとう。
最後に言い残して妹はアパートから去っていった。これまでの人生、一度もひとから悪意を向けられたことなんてないような、きれいな笑顔で。
ざあああ、ざあああ、と、指先とシンクをつたう水流が、ひどく冷たい。
「どうした? 怖い顔して」
隣から、千嘉が不思議そうに覗きこんできた。
「……なんでもないよ」
止まっていた手を無心で動かしながら答える。
妹はなにも悪くないことくらい、百も承知している。この気持ちが嫉妬に由来するものなのだということも自覚している。だけど……だからこそ、なのかもしれない。
わたしは、そんな妹のことが、ほんとうはいちばん大嫌いなのだ。
- 『Chika』 ( No.11 )
- 日時: 2020/12/14 22:20
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
「この怪我、どうしたの」
あめ玉みたいにきれいな目が、じっと見つめてくる。
新しく淹れたばかりのコーヒーを手渡したとき、彼が、さっき妹がしたのと同じようにわたしの前髪をかき上げた。妹よりも触れ方が優しかった。
「転んじゃったの、階段で」
「どこの?」
「ここから駅までの途中、通りに歩道橋があるでしょう。その階段」
「……おとといの帰りか」
ぜんぶお見通し、といった感じだった。息をついて、千嘉がコーヒーをすする。
これ以上隠してもしょうがないと思ったので、通行人がすぐに救急車を呼んでくれたらしいことも、一日で退院して帰ってきたばかりなのだということも白状した。
「どうして連絡してくれなかったの」
「大したことじゃないもん」
「大したことだよ。女の子なんだし。もし何センチかずれてたら──」
「ごめんね。もう、大丈夫だから」
すでに、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっている。
彼の言葉を遮る形になってしまったけれど、この話題はもう切り上げたかった。仕事のメールを確認していいかとたずねると、すこしの沈黙のあと、頷いてくれたのでパソコンを立ち上げる。嘘やごまかしのつもりはなかった。メールのアカウントは携帯と同期させているが、病院ではずっと電源を切っていたし、帰りのバスでも二件しか返信できていない。ただでさえ仕事が滞っているし、これ以上のんびりしているわけにはいかないのだ。
スケジュール帳や添付ファイルなんかとにらみ合いながら、それぞれの返事をぱちぱちと打ち込んでいると、後ろのベッドに腰かけている千嘉がきいてきた。
「だれかに、突き落とされた?」
思わず一瞬、手が止まる。あのとき気を失う直前、見えた顔。間違いでなければ、あれは。
「ううん」
うまく、笑えているだろうか。声が震えないよう、しずかに深呼吸して、わたしは嘘をついた。自分の足で歩けるように。彼に依存しないで生きるための、第一歩として。
「わたしの不注意だよ」
◎
あたしのおねえちゃんは、高校に上がると同時に家を出ていってから、お母さんにはいないものとして扱われている。
小さな頃から予兆はあった。まだお父さんが家にいた頃、つまりあたしのいちばん古い記憶の中で、すでに姉妹間での差別は始まっていたのだ。具体的な内容を思い出そうとすると、頭痛と共に吐き気まで催しそうになるので記憶の再生を中断する。きっとあたしに耐性がないだけで、ほかのひとから見れば大したことではないのかもしれない。
お母さんはおねえちゃんのことを嫌っていたけれど、あたしはおねえちゃんのことが大好きだった。もちろんいまでも好きだ。理由なんてないし、いらないと思う。
「いもーとちゃんはいい子だね、わたしと違って」
よく、そう言って頭をなでられたっけ。髪を通る、やさしい指の感触が大好きで、昔はずいぶん短めに切っていた。
実家の最寄り駅で電車を降り、駐輪場にとめていた自転車にまたがって、家路を急いだ。もうすぐ晩ごはんの時間だから。お母さんは、あんまり長くひとりぼっちだと泣いてしまうから。
もうあたりは真っ暗だった。この町も一応は県庁所在地にあるくせに、はじっこの区だとか場所が悪いこととかを差し引いても、街灯や人通りのほとんどない辺鄙な地域だ。花見の名所としてそこそこ有名らしいけど、当然ライトアップなんかしないし、そもそもいまは冬だし。ぶぅううん、と音を鳴らしながら前方を照らす、自転車の灯り以外に頼れるものはない。
おねえちゃんが中学に上がった頃から、家の中はわかりやすく荒れ始めた。死ねだの殺すだのと物騒な言葉が飛び交って、物が落ちる音や壊れる音が、リビングやおねえちゃんの部屋からよく聞こえてくるようになった。そんな時間は自分の部屋にこもるようにしていたこともあって、あたしに悪意の矛先が向けられることは決してなかったけれど、毎日毎晩、とても怖かったのをよく覚えている。学校ではそんなこと、だれにも言えなくて、なんでだか、いちばんの友達にも打ち明けられなくて。
それ以外に悩みはなかった。衣食住に不自由はない。実家は決して貧乏ではないし、むしろ贅沢をさせてもらっていたほうだと思う。あたしを友達だと言ってくれる子はたくさんいて、勉強や運動も楽しくて、先生やお母さんはたくさん褒めてくれる。あたしにはたくさんの才能があるんだって、言ってくれる。幸い、性格が歪むような出来事も起こらなかった。
自分で言うのもおかしいけれど、あたしは恵まれている子だ。だから、周囲からの印象や期待にふさわしい子どもであるように、振る舞っていた。
そうしていたら、だれにも助けを求められなくなってしまったのだ。
家にも学校にも、居場所がないように思えて孤独だった。
あれから約十年。ようやく、ぼんやりとだけれど、自分が不登校児となるに至った理由がわかった気がする。
「ごめんね、みんな」
自分がなにか傷つけるようなことをしたせいなんじゃないかと泣いていた、けいちゃん、りょうすけくん、しんくん、のぞみちゃん。
なんども家にあたしの様子を見に来てくれた、あいこ先生。武内先生。湯島先生。
家にとじこもっていた間、あたしの好きなものばかり作ってくれた、お母さん。
こっそりメールをくれて、久々に会いにきてくれた、お父さん。
ほんとはこんなあたしのことが好きじゃない、おねえちゃん。
…………あたしが、生まれてこなければ。みんなを不用意に傷つけたり、不幸にしたりせずに済んだのかもしれない。
おねえちゃんをあんなに苦しめることも、なかったのかもしれない。
「ごめんね」
罪悪感なんて、きっと一生消えない。背負って生きていくしかない。これまでたくさんの人を悲しませた分、たくさんの幸せを食べて不幸を吐いて生きてきた分、たくさんの幸せをひとに与えなくちゃいけないんだと思う。だから死にたいとは考えないようにしている。いまはただ、一生懸命に生きて、まず大人になることが目標だ。だれかを安心させられる、だれかの居場所になれるような大人に。
家の近所の古い神社に着いたので、歩道のわきに自転車をとめて鳥居をくぐった。家から出掛けるとき、帰ってくるとき、あたしはここで必ず挨拶をする。だれに言われたわけでもなく、昔からずっと続けてきたことだ。お隣さんとはずいぶん離れているから、近所迷惑になるということはたぶんないのだろうけど、控えめに鐘を鳴らして手を合わせた。
きょうを、何事もなく過ごすことができました。姉は無事でした。
あしたも、穏やかに過ごせますように。
おねえちゃんが、彼氏さんと仲良くやっていけますように。おねえちゃんが、神様に守られますように。
最近、あたしはこの家の、家族の秘密を知ってしまった。幼い頃から胸のどこかにあった、ささくれくらいの小さな違和感の正体がそこにあったのだ。
そうならないように、あの人はこれまで、必死で隠してくれていたんだろうなと思う。あのときの選択の結果に結び付いたのかもしれないと思う。あたしたちを大切に思ってくれていたから黙っていたのだろうに、あたしはあの人の愛情を粉々に打ち砕くようなことをしてしまったのだ。どんなに小さなささくれでも、無理に千切れば痛いし、血が出ることだってある。
悔やんでも、悔やみきれない。だから、彼女が自身の意思で知ることになるまで、わたしはこの秘密を墓場まで持っていく覚悟でいることにする。
………………。
…………。
……。
閉じていたまぶたを開いたとき、かすかに足音が聞こえた気がして。
振り向こうとした瞬間、頭になにか、とても重たいものが落ちてきた。
目の前に大きく火花が散る。その場に立っていることすら難しくなって、視界がぐわぁんと傾いていった。何秒か、それとも何分も気を失っていたのか。意識を取り戻した瞬間に、溢れんばかりの不快感が身体中に襲ってきた。
痛い。
熱い。
なに、これ。だれ、いつ、から? う、
「、あ、あああ阿ェアアアtっっ!」
痛みのあまり、奇声とともに釣り上げられた魚みたいにのたうち回ることしかできなかった。それすらきちんと出来ていたかどうかあやふやだ。
なんで?
なんで、こんな。
ぼやけてくる視界に、人影が映った。レンガみたいなものを持っているし、あたしを殴った張本人だろう。暗いから表情は見えなかったけれど、笑っているなとわかった。
その人が、あたしの顔めがけてレンガを振り上げる。いよいよ殺される、そう思っても、両腕で気持ち程度にかばうことしかできない。
大きな衝撃と、痛みがふたたびやってきて、ぐしゃ、と音が聞こえたような気がした。
それからのことは、なにもおぼえていない。
◎
- 『Chika』 ( No.12 )
- 日時: 2020/12/16 23:24
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
3.『-1』
千嘉が帰ってからひとりで夕食を済ませたあと、さっそくヘッドホンを当てて机に向かった。金曜日の午後、ちょうどきりの良いところでやめていた作業にとりかかる。
依頼主にほとんどこだわりがないので、いつも通りの要望に従い、指先に染みついた作業を繰り返していく。時間だけはかかるが、この人の仕事は大変と感じない。
面倒で投げ出したくなるのは(もちろん、そんな感情はおくびにも出さないが)、最初の打ち合わせや確認をいい加減に済ませたりそもそも放棄したりするような、ごく一部の新規依頼者との取引である。彼らの要望通りに仕上げて納品したあとで、これが違うあれを直せなどと大量の修正を命じてくるのでさすがに参ってしまうのだ。大抵値切ってくるし。もう、全身が痒くなってくる。
こんなことを思えるだけわたしの運がよすぎで、現実は、もっと大きな社会ではそんな相手ばかりなのだろう。わたしの性格や生活習慣のせいか、会社勤めの知人には遠回しに嫌みを言われたり羨ましがられることも多々あるけれど、どうかそんな目で見ないでほしい。わたしも色眼鏡はかけないから。
仕事でも家庭でもプライベートな人間関係でも、だれだって苦労を抱えているのは同じだ。それを理由に自分を鼓舞するのは大変結構。でも、ひとに同じ苦労を強要したり、求めたりしちゃいけない。
この世界に生きるわたしたちは、もっともっと、楽をしていいと思う。いやなことはいやと言っていいと思う。どう頑張ってもできないことはできないのだし、辛いものは辛い。
指を鳴らした瞬間に一変してくれるほど、世界は単純じゃないけど。
薄くて軽い「今よりきっと少しはマシ」を何年も何十年も、何百年もかけて、ミルフィーユみたいにたくさん積み重ねていくしかないのだ。わたしも生涯で、一枚でもいいから重ねることに貢献できればいいなと思う。……思いながら、この数年で、自身の考え方がずいぶん確立してきたことに気がついた。自分でも気がつかないうちに、わたしはわたしの「今よりきっと少しはマシ」を積み重ねてこられたのかもしれない。
何か月後か、何年後かはわからないけど。わたしは、きっと変われる。そう信じてみたい。
*
それから数日がすぎて、溜まっていた仕事もすこしは目処が立ってきた。時計は何度目かの深夜二時前を指している。空はこんなに暗いし風も冷たいし月もたぶん出ていないからだいぶ眠い。
昔から、ものごとに熱中している間はほかのことが見えなくなるたちなのだ。はじめのうちは気づけば夜が明けていたなんてザラだったっけ。
椅子から立ち上がって、脚がつらない程度に伸びて伸びて伸びまくった。さすがにもう寝よう。台所で軽くうがいをしてから、ベッドに向かって一直線、飛び込んでやるぞーと意気込んだのと同時に携帯の通知音が耳に突き刺さってきた。
〈きみと話をしたいな〉
〈明後日の夜とかどう?〉
LINEにメッセージが送られてきた。
わたしを突き落とした、犯人から。
少しだけ考えてから、まあ、あさってならと、返事を打ち込む。
〈いいよ。どこで落ち合う?〉
〈当日電話する〉
〈大丈夫、きみのアパートからそれほど遠くはない〉
〈わかった〉
既読がついて、やりとりはそこで途絶えた。わたしも部屋の明かりを消し、今度こそ布団に潜り込んで、目を閉じる。シーツの冷たさを感じるのはほんの一瞬で、すぐに体が温まってきた。
とくに何か言われたわけでもないが、ひとりで行こうと思った。だれにも迷惑をかけたくなかったから。
約束の日の晩、わたしが呼び出されたのは、市内の片隅にある古い神社だった。遠くの控えめな街灯が照らし出す境内のど真ん中で、その人は大の字になって寝転がっている。
「隙しかないね。今度はわたしが刺してあげようか」
わたしの声で、彼女はゆっくり、ゆっくりと起き上がった。
「やれるもんならやってみろよ、ばぁあか」
少年のような声が、間延びして響いてくる。
おそらく紺色のデニムに、黒いコート、その下に着ている黒いパーカーのフードを深く被りマスクまでつけていて、よほど目立ちたくないんだなあと感心してしまった。むしろ風景から浮いているけど。階段から突き落としてきたときも、同じ格好をしていたもんねえ。
二ヶ月前、千嘉を紹介してくれた大学時代の同期生、真幌深幸ちゃん。
「へえ、一人できたんだ」
深幸は辺りを見回し、こちらに近づいてきながらフードとマスクを外した。けっこう髪が長かったはずなのだけど、幼い頃のわたしの妹と同じくらいに、いや、それ以上ばっさりと切り落としている。
わたしよりも少し背の低い彼女を見つめていたら、その髪型と雰囲気に妙な既視感をおぼえた。いつ、どこで見たのだろう。頭の中の引出しをひっくり返して思い出そうとしてみても、合致する記憶がなかなかみつからない。
「……ねぇ、だい「だれがひとりだって?」
「え」
彼女自身に直接訊いてしまおうかと思ったそのとき、うしろから千嘉の声が聞こえてきた。深幸も大きく目を見開いて、歩を止める。彼女はなぜだかとても怒っているように思えた。
「どうせ俺には何も言ってくんないだろうから、つけてきた」
「は? しねすとーかー」
「この子じゃなくて、おまえが言うの? 面白いねえ」
わたしの隣まで歩いてきた千嘉も、彼女以上に怒っている。暗闇で表情はよく見えないけど、そう感じた。たぶん勘づかれている、深幸がわたしを突き落としたことに。
空気が重い。ただでさえ寒くてつらいのによけい早く帰りたくなってくる。だから、わたしからこの状況を動かさないと、と口を開いた。
「深幸。どうしてあんなことしたの?」